マラキ書 3章6~12節 (旧1500頁)
マタイによる福音書6章19~21節(新10頁)
前置き
お金や財産、すなわち「富」は私たちの日常生活と密接に関わっています。そして、信仰生活においても非常に重要な意味を持っています。富は、祝福と呪い、献身と堕落の境界線の上で、絶えず私たちの信仰を試す試金石のようなものです。この世は富を成功の物差しとするよう私たちを駆り立て、聖書は富への過度な執着を警戒しています。私たちは、このような相反する価値観の間で、どんな心構えを持つべきか、悩み考えなければなりません。本日は、富の根源と目的、そして原理についてお話ししたいと思います。この世を生きる上で必要不可欠な「富」。この富に対する正しい認識を持って生きるキリスト者であることを祈り願います。
1. キリスト教徒の富の根源
今日の旧約の本文を読んでみましょう。「まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。」(マラキ書 3:6)旧約聖書は様々な箇所で、私たちが主と崇める神が、この世のすべてのものを創造されたと証言しています。また、創造主である神が変わりのない御方であるとも証言しています。そして、今日の旧約聖書の本文であるマラキ書には、その不変の創造主がヤコブの子ら(イスラエル)の主であり、その神の不変性によって主の民であるイスラエルも終わらないと記されています。つまり、創造主である変わらない神の存在のゆえに、その民であるイスラエルも滅びないで保たれるということです。したがって、主なる神の民であるイスラエル、新約時代では主の教会、そしてその教会に属する私たちの根源は、まさに主なる神にあるのです。主無しには主の民もなく、主の御守り無しには主の民の生活も保たれないということです。エフェソの信徒への手紙2章に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)とあり、主なる神が天地創造の前から、すでにご自分の民を知り、選び召してくださったことがわかります。キリスト者は、主なる神という根源によってこの世を生きているのです。キリスト者の富への認識は、まさにこの地点から始まるのです。
「私のすべてのものは主から始まった。私自身を含め、与えられたすべてのものは主のものである。したがって、私の富も主からいただいた祝福の一部である。」これらが、キリスト者が持つべき富への正しい認識です。ところで、ここでいう富とは「莫大な財産」ではありません。小さいものであっても、自分に出来るすべての物事のことです。主は、そのうちの一部を主に捧げなさいと命じられたのです。その理由は、それを用いり、神殿礼拝に奉仕する祭司への扶養、神殿の営繕費、そして貧しい人々への救済金として使用するためでした。(申命記 14章28-29節、列王記下 12章4-16節) 主なる神はこの一部を受け取られ、そのほかは主の民の富として認めてくださったのです。ところが、マラキ書が記録された時期、イスラエルの民は自分の富の一部を主に捧げなかったようです。「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。」(マラキ3:8-9)
2. キリスト者の富の目的
イスラエルは、自分の罪のため、主に裁かれ、バビロン帝国に滅ぼされました。その後、捕囚に連れられ、ペルシャ帝国の皇帝キュロスによって解放され、故郷に帰還しました。帰還した彼らは集まって悔い改め、主の神殿をかろうじて再建しました。莫大な財産がないにもかかわらず神殿を再建した理由は、神殿に主のご臨在があるという象徴性があったからです。また、十分の一の献げ物と献納物といった、主なる神への自分の富の一部の献げも行いました。しかし、時間が経つにつれてイスラエルの民の心は再び怠り、旧約聖書に明記されている主なる神に捧げるべき十分の一の献げ物と献納物を捧げなくなりました。それによって、当然ながら、神殿の営繕もまともにできず、レビ人の生活も困窮になり、何よりも他人の助けを必要とする貧困層の生活もさらにきつくなりました。主からいただいたすべてが主のものであるにもかかわらず、イスラエルの民は自分の富であるかのように、主に捧げるべきものを自分のものにしたのです。その結果は、不作などの主の裁きでした。これに対して主はイスラエルの民に告げられました。「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ3:10) 主なる神を試すというのはあり得ないことですが、主はご自分の約束を明確にされるために、ご自身をかけてイスラエルの民に十分の一の献げ物と献納物を要求されたのです。
自分のすべてのものが主のものであり、その中の一部を主にお返しするということで、富への正しい認識を持つことを、主なる神は望まれたのです。私たちの献金は、教会が裕福になるためとか、あるいは、牧師や長老などの教会の指導者がお金持ちになるためとかのためにするのではありません。この世の中には、莫大な献金を集めた裕福な教会や金持ちの牧師もいます。異端の中には当然多く、正式な教会の中にもそのようなケースがあります。その中には、金銭的な問題で信徒たちと対立したり、背任罪で裁判にかけられる教会指導者もいます。それらのことの原因は、富に人々の心が奪われて起こった可能性が非常に高いです。富の目的、教会では献金の目的は、教会や教会の指導者が金持ちになるためではありません。まず、主なる神がくださった私たちのものの一部を再び主にお返しすることで、主の主権を認めるためです。次に、教会という主の共同体が問題なく保たれるように、主の民が力を合わせて教会を支えるためにあるのです。第三に、教会だけでなく、私たちの助けが必要な人々のために、愛の心で教会が仕えるためです。主が私たちに富をくださった目的は、主がくださったこの富を通して、教会がこの地上で主の御業を代行するためです。ですから、私たちは富を集めることだけに興味を持つべきではありません。その富を用いて、主の愛がこの世に広がるように正しく使うべきです。それが主なる神が私たちに富を与えてくださった目的なのです。
3. キリスト教徒の富の原理
今日の新約聖書の本文を読んでみましょう。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ 6:19-21) 主イエスは、地上に積む富の三つの属性を警告されます。「虫」は服や織物を傷つけ、「さび」は金属を腐食させ「盗人」は物理的な強奪者のことです。これは、世の富が持つ根本的な限界、すなわち「永遠ではない」ことを象徴しています。今日の虫とさびは何でしょうか。それは、急変する経済状況の中での資産価値の下落、技術発展による資産の旧式化、そして、コントロールできない病や災いによる資産の損失でしょう。どんなに頑丈で安全に見える財産であっても、結局この世の時間の中では消滅するか損傷するしかありません。私たちが持っているすべての富は、明確な終わりがあり、永遠ではなくいつか変わり得る有限なものだという意味です。富の限界をご存じのイエス・キリストは、だからこそ、こう言われるのです。「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」(マタイ6:20)
天に富を積むこととは何でしょうか。たくさんの献金を求めることでしょうか。決してそうではありません。これは、永遠の価値を持つ主の福音のために、私たちの富と時間とエネルギーを使うことです。具体的には、貧しい人々を助ける慈善、福音を伝える伝道、教会に仕える献身、そしてキリスト者にふさわしく生きることと言えるでしょう。私たちが隣人に施した奉仕、伝道に使った時間、礼拝のために捧げた誠意は、決して消えたり腐ったりしません。それがまさに、天の倉に安全に保管される真の富なのです。ですから、この新約の御言葉を「献金をたくさんしなさい」という意味で使ってはなりません。教会維持のために一定の献金はするとしても、統一教会のように何千億円もの献金を要求するのは盗みと変わりません。私たちは、自分の富の一部を主に捧げるという名目で献金し、残りは自分の健全な生活のために利用し、また隣人のために、伝道のために使うのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:21)富は私たちの霊的な温度計であり、私たちの心の方向を指し示す羅針盤です。私たちがお金を使う方法こそが、私たちがどれだけ主を愛しているか、どれだけ世に頼っているかを表します。天に富を積む生活は、単に富を切り離して捧げる行為を超えて、私たちの心の中心を主に移し捧げる霊的な訓練なのです。これがまキリスト者の富の原理なのです。
締め括り
富は大切なものです。私たちは他人に迷惑をかけないためにも、自分の富をよく管理しなければなりません。しかし、その富に心を奪われてしまってはなりません。私たちが持っている富を思うとき「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」という御言葉を必ず憶えましょう。イエス・キリストは、この世でおられる間、清貧に生きられました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20) それは、キリスト者なら、無条件に貧しくあるべきという意味ではありません。主は、父なる神の御業の成就のために、ご自身の富と名誉ではなく、神の栄光を見つめて生きられたからです。私たちは、主なる神くださった富をよく管理しながらも、その富を利用して主の栄光が現れる生活を過ごすために力を入れて生きるべきです。私たちの富があるところに、私たちの心もあります。富への正しい認識を持って生きていきましょう。







