イザヤ書11章6~8節(旧1078頁)
テモテへの手紙一2章1~2節(新385頁)
前置き
先日、自民党の高市早苗氏が新総理に選出しました。今後、日本とアジアの平和のために素晴らしい政治活動をするよう祈ります。現代は一見平和に見えますが、決して平和とは言えない時代です。第一次、二次世界大戦が終わり、米ソを中心とした冷戦時代も過ぎ去りました。ソ連崩壊の時、人々は「もう戦争はないだろう」と思ったでしょう。しかし、現実は違いました。大小の戦争が続き、2020年代に入っても、ウクライナとロシアの戦争、中東の紛争、北朝鮮の核問題、米中の貿易対立が続いています。このような時代に総理となった高市氏の肩に重い責務があると感じます。それゆえ、日本の教会は国の指導者が正しい政治とリーダーシップで国政活動ができるよう祈るべきです。また、指導者が正しい道を歩めるよう、聖書の御言葉に基づいて、過ちには抗議を、正義には力添えをするべきです。今日は、世の国と主の民について、話してみたいと思います。
1. 神の国と世の国
元々、この世界は神の国として創造されました。神の国とは、物理的な領土や国家を意味するのではなく、主なる神のご支配が実現するすべての時空間を意味します。そして、はじめの神の国の中心には、最初の人間アダムがいました。主は全宇宙(神の国)の創造主でおられ、人間をご自身の子ども、そして、すべての被造物を代表して神を礼拝する祭司として創造されました。しかし、人間は主を裏切り、神の子であり、全宇宙の祭司である栄光の資格を剥奪されてしまいました。主を裏切ったその行為は人間の原罪となりました。その原罪によって、人間は一生、罪を犯しつつ生きることになります。最初の人間アダムの長男はカインでした。「カイン」はヘブライ語で「得る」を意味しますが、いくつかのセム系列の語族(ヘブライ語の親戚)では「鍛冶屋」を意味する場合もあります。つまり、カインは何かを得るために鉄を振るう者だったということです。創世記によれば、このカインは嫉妬心から弟アベルを無残に殺害したとあります。堕落したアダムの最初の息子は、自分の罪による悪のため、実の弟を殺してしまったのです。
その結果、カインは主に呪われ、追い出されてしまいました。その後、カインはエデンの東にあるノドの地に住むことになります。「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。」(創世記4:16~17)「ノド」は「さすらい、さまよい」を意味します。罪によって悪を犯してしまったカインは、真の主である神から離れ、自分自身が主となってさまようことになったのです。自分が自身の主になるということは、一見自由で自立のような感じですが、実は「糸の切れた凧」のように、何のために生きるのか、どう生きるべきかが分からない孤児のような有様にすぎません。カインは、そんな「糸の切れた凧」のような哀れな存在となったのです。そして、カインは、そのような自分自身を守るために「エノク」という町を築きました。エノクの意味は「新しい始まり」ですが、「主無き始まり」という悲惨な意味でもあります。こうしてカインは、主の無いさすらう人生で、自分が王となる町を建てたのです。ここから人間の国、すなわち世の国が始まったのです。
2. 神の国と世の国の違い
それゆえ、世の国は「主の不在のため、自らを守るべき」という強迫観念から始まりました。この世界を創造された神、この世界に秩序を与えられた主、この世界のすべてを統治される主なる神が不在であるため、世の国は堕落した罪人の本性に支配されます。それゆえ、世の国は再びカインのように兄弟を殺す罪を犯します。自分を守るという名目で、兄弟である隣国を侵略し、領土を広げ、また別の国々と戦争します。それによって、数多くの男性が犬死にし、女性は蹂躙され、老人や子どもたちは犠牲になります。弱肉強食、これが世の国の理屈であり、生き残るやり方なのです。自分自身を守るために隣国を侵攻し、征服した国は、ますます大きくなります。そして、やがて「帝国」となります。古代中東のエジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、西洋のマケドニア、ローマ、東洋のモンゴルや中国大陸の諸帝国。近代のドイツ、日本などの国々が他国を侵略しました。現代に至っては、アメリカや中国のような巨大国家が、経済力と軍事力を背景にして、他国へ圧力をかけています。
このように、堕落したカインから始まったエノクという町は、その後、帝国という形で巨大になり、そのカインの本性が今に至るまで受け継がれ、時代や国が変わっても、大きい国が小さい国を踏みにじる罪の歴史は絶えず続いてきたのです。これこそが、世の国のやり方なのです。しかし、神の国のやり方は異なります。これについては、イザヤ書11章が詳細に語っています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」(イザヤ11:6~8) 神が遣わされたメシアが王であり、その下の民は、狼のような人も、小羊のような人と共に宿り、ひょうのような人も子やぎのような人も共に伏し、牛のような人も獅子のような人も共に平和に生きるところ。みんなが平和に生き、互いに愛し仕えあい、メシアが中心となる恵みの世界。これこそが、神の国の本質であり、主のご統治の方式なのです。
3. 神の国の根源
キリスト者は、主イエスの十字架の贖いと恵みによって、神の国の民として受け入れられた存在です。私たちはアダムとカインの子孫、すなわち世の国の民として日本人、中国人、韓国人に生まれましたが、キリストの恵みによって神の国の民へと移された存在です。ですので、私たちはアダムとカインによって始まった世の国に住んではいますが、そのアイデンティティは神の国の民なのです。そして、主イエスにあって、私たちの真の国籍も変わりました。日本人である以前に神の国の民であり、中国人、韓国人である以前に神の国の国民なのです。したがって、私たちはキリストにあって、国籍と民族と思想と文化を超え、キリストという共通点のもとに共に生きています。世の中は戦争を語り、征服を追求し、民族主義を前面に掲げますが、私たちはそのすべてに反対し、キリストにあって一つとなった神の国を語ります。主の御言葉に背かない限り、強い者は弱い者に力づけ、弱い者は強い者のために祈りるべきです。富んだ者は貧しい者を助け、貧しい者は富んだ者に協力すべきです。自分が中心ではなく、主キリストが中心であるため、みんなが互いに支え合って主のみもとに生きるべきです。それによって、皆が主にあって互いに愛し合うのです。それが主の民の在り方です。
この主の民の在り方、神の国のやり方は、キリストの十字架の血潮に基づいています。エフェソ書はこう述べています。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:13~14) 初めに世界を創造された主なる神のお望みは、主の最高の被造物である人間によって、主に造られた世界が正しく統治され、その人間の正しい統治のもとで、全宇宙が主を礼拝することでした。しかし、人間の罪によって歪められた世界は、主を呪い、他者を押し付ける世の国へと変質してしまいました。しかし、キリストの十字架の血潮は、その歪んだ世界を癒やし、神と人間、人間と世界、神と世界の関係を正しくする種を撒きました。キリストの再臨まで、世界は依然として完全には癒やされないかもしれません。しかし、主の時が来るまで、キリストはうまずたゆまず世界を直していかれるでしょう。神の国と召された主の教会はキリストの手足として主の御業に用いられるでしょう。主と共に世の国のやり方を乗り越えて生きること、それこそが、主の民である私たちの生き方なのです。
締め括り
先日、テレビで高市総理とトランプ大統領との会談の報道が出てきました。困難な時期に総理として働き始めた高市氏の姿を見て、応援したくなりました。テモテへの手紙一 2章1-2節の言葉を心に留めたいです。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」日本は世の国の一部です。しかし、私たちは神の国の民として、世話になっている世の国日本が、神の国の価値観にふさわしい国となれるよう、心から応援し、祈らなければなりません。教会は、権力者に盲目的に反対だけする存在ではありません。主の御言葉に基づき、正義の指導者のためには祈りで応援し、不義の指導者には神の御言葉を宣べ伝え、主の御心を表すべきです。それが主の民の正しい姿ではないでしょうか。今日の言葉に基づき、日本が神の御心にかなう正義の国とありますよう、新総理のために祈りましょう。それも教会の大事な務めだからです。







