ヨハネによる福音書3章1~5節(新167頁)
前置き
私たちの「信仰」の証拠とは何でしょうか。教会に通うこ、それとも、受洗したこと、正会員となること、あるいは、教会で奉仕することが、私たちの信仰の証拠なのでしょうか。誰かは教会に通い、洗礼を受けることを信仰の証拠と思うかもしれません。また誰かは教会の正会員となり、長老や執事として教会に仕える働きを信仰の証拠だと思うかもしれません。信仰への追求や深さは人それぞれですから、第三者が一方的に良し悪しを判断することは望ましくありません。しかし、私たちが主と崇めるイエス・キリストは、今日の聖書の御言葉を通して、真の信仰者に求められるものについて語られました。それは新たに生まれることです。今日は、この「新に生まれること」という言葉について、一緒に考えてみたいと思います。
1. 真の信仰とは何か
信仰とは何でしょうか。私たちは、どのような経緯であれ、信仰を持つことになりました。そして、信仰によって、キリスト者というアイデンティティを携えつつ生きることになりました。しかし、多くのキリスト者は、「信仰」というものについて、明確な定義を下していないのかもしれません。信仰への明確な定義がないため、ある人は教会に出席することそのものが、ある人は洗礼を受けたことが(洗礼の本質ではなく、洗礼式という形式的な儀式)、ある人は教会の正会員となったことが、ある人は聖餐式という儀式に参加することが、ある人は長老や執事、教師になることが、自分の信仰を表すしるしであると思うかもしれません。しかし、果たして、それらが、私たちの信仰の本質を証明する手立てとなれるでしょうか。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」(ヨハネ福音3:1) 今日の本文に登場するニコデモという人物はファリサイ派の人で、ユダヤ人の宗教指導者の一人でした。聖書学者の中には、このニコデモが「サンヘドリン(最高裁判所)」のメンバーだったと推測する人もいます。サンヘドリンは祭司(サドカイ派)、律法学者(ファリサイ派)、貴族の長老たちで構成されたユダヤ人の最高権力機関であり、ファリサイ派のニコデモは、そのサンヘドリンの70人の会員の一人だったと思われます。つまり、彼はユダヤ社会の高い階級の人だったと言うことです。
「ある夜、イエスのもとに来て言った。ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ福音3:2) 社会的にも、宗教的にも、政治的にも、何一つ不足のないニコデモが、なぜ、ユダヤ社会で活動を始めたばかりの若いラビであるイエスを訪ねたのでしょうか。彼は「夜」にイエスを訪ねました。社会的な地位の高い人が若いラビを訪ねるのに、人々の目を気にしていたからでしょうか。しかし「夜」という言葉が持つ意味を含めて解釈すると、彼が持っている名誉や権力、地位の中に真の光がなく、ただ空しさと闇だけを感じていた彼の心の状態を示す象徴ではなかったでしょうか。ニコデモは表面的には最高の宗教家でした。ユダヤ人たちは彼を信仰の模範として尊敬していたでしょう。実際、ニコデモはユダヤ社会で尊敬される人だったようです。しかし、彼は表面的な自分の姿に真の霊的な満足を感じていなかったようです。名誉も、権力も、地位も、いかなる宗教儀式も、彼の内面を満たすことが出来なかったでしょう。彼の人生は成功でしたが、実際には空しかったでしょう。彼は真っ暗な夜道を歩く人のように光を探し求めていたかもしれません。
そういうわけで、彼はユダヤ社会に新しい風を吹き起こしていたイエスを訪ねたでしょう。彼が来ると、イエスは彼の悩みをすでにご存知であるかのように言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音3:3) 悩んでいたニコデモに、主イエスは彼が探していた何かに対する答えをくださいました。それが「新に生まれること」だったのです。先ほど申し上げましたように、キリスト者は信仰についてそれぞれ異なる思いを持っています。教会に出席すること、洗礼を受けたこと、執事や長老となって教会に仕えること、教師になることなど、数多くの信仰の意味をめいめい心の中に持っているかもしれません。しかし、主イエスはニコデモを通して私たちに語られます。「表面的なもので信仰を証明することはできない。真の信仰は、新に生まれることにある。」毎週教会に出席し、洗礼を受け、聖餐に参加し、教会に仕え、キリスト者であることを示しながら生きることは、とても重要です。しかし、ヨハネ福音は、それだけが全てではないとはっきりと示しているのです。あたかもニコデモが名高いファリサイ派の人であるにもかかわらず、霊的不足を感じていたように。
2. 真の信仰の始まり – 新たに生まれること
では「新に生まれること」とは何でしょうか。ニコデモ自身も「新に生まれる」という言葉に戸惑い、こう質問します。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネ福音3:4)「新に生まれること」という表現は、生き返ること、生まれ変わること、あるいは輪廻転生のような意味とは違います。ヨハネ福音における「新に生まれること」は、私たちの霊と肉はそのままで、霊的に新たになるという意味、すなわち私たち自身の生き方と心構えが変わることを意味します。ですから「新に生まれること」は、ニコデモの言葉のように、赤ん坊になって母の胎から新しく生まれることではありません。それでは、私たちはどうすれば「新に生まれる」ことができるのでしょうか。これについて、主イエスは次のように言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ福音3:5) 3章3節でイエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。そして3章5節では「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われました。
したがって「新に生まれること」とは「水と霊によって生まれること」と言えます。まず「水によって生まれること」の意味について考えてみましょう。聖書における「水」とは、大きく二つの意味を持ちます。一つは死、もう一つは清めを意味します。旧約聖書の出エジプト記で、イスラエル民族はエジプトから脱出し、カナンへ向かう途中、紅海を渡る体験をします。これは、エジプトの奴隷の身分だったイスラエルが水(紅海)で死に、清められ、新たなイスラエルへと「新たに生まれる」ことを象徴します。つまり「水によって生まれること」の意味は、罪に汚されていた自分に対しては死に、主の贖いによって、新たな自分として清められ、新しい生き方と心構えに生き始めることを意味します。キリストを信じ、昔の自分が持っていたすべての罪、悪を捨て、主なる神の御心に従って新しい人生を始めることなのです。古い人は偽りを言い、人を憎み、欲望にひかれ、主をないがしろにして生きていたとすれば、水によって新たになった人は、真実を語り、人を愛し、欲望を節制して神中心に生きるのです。水によって死に、清められ、新たに生まれるのです。その新たな人生の象徴として、私たちは洗礼式を執り行うのです。
しかし、洗礼式を行ったからといって、私たちの人生が大幅に変わるとは限りません。新しい心で信仰者の人生を始めたとしても、生きていく中で、再び自分の古い人が出る経験を、誰もがすると思います。だから、ヨハネ福音は「霊によって生まれること」についても語るのです。使徒言行録では、霊(聖霊)を「火」にたとえました。火は垂直に上へと燃え上がります。聖霊がイエス・キリストの贖いによって私たちに来られると、私たちの心を新たにさせ、上におられる方を指して垂直に燃え上がらせます。水によって象徴的に洗い清められた私たちは、火のような聖霊の御導きによって実質的に清めを受けます。聖霊が臨まれると、私たちの心には、主なる神への純粋な愛と善を行おうとする熱望が現れます。まるで火が上に向かって燃え上がるように、私たちの心も火のような聖霊によって、主なる神の御心に向かって自分の欲望を制御し、主の御心に合わせて生きることを願うようになるのです。使徒言行録2章で、気が弱く臆病だったイエスの弟子たちが、聖霊によって新たになり、大胆に福音を宣べ伝えた出来事を思い出しましょう。それこそが、聖霊によって新たに生まれた者たちの人生の変化であり、その活躍の一歩だったのです。
締め括り
「新たに生まれること」とは、主イエスの贖いと聖霊の導きによって、私たちの心と人生が完全に変わることです。今まで自分を世界の中心に置いて生きてきた生き方をやめ、主イエスを自分の世界の中心と生きること。自分の思いのまま生きるのではなく、主の御心を自分の中心に置き、主に従って生きること。それこそが「水と霊によって生まれた者」すなわち「新たに生まれた者」の生き方なのです。私たちは果たして、新たに生まれた者でしょうか。習慣的に教会に通うことに満足してはいませんか。イエス・キリストを信じる私たちは新たに生まれた者でしょうか。私たちにとって大事なのは、表面的な信仰の熱心さではありません。イエス・キリストによって自分は新たになったのかと内面的な自問自答が重要なのです。私たちの信仰の根本は、教会での活動や他人に見せる表面的な姿ではなく、主なる神と私自身の関係にあります。本当に主こそが私たちの人生の理由であり、キリストこそが私たちの真の主であり、聖霊こそが私たちの真の先生であると、心の底から認める人生。そして、そのような人生から湧き出る主と隣人への真実な愛。それらこそが、自分自身が新に生まれた者であることを証明するしるしではないでしょうか。自分は、果たして、主イエスによって、新に生まれた者かどうか、この一週間、自分自身に問いながら、過ごしましょう。







