イザヤ書43章18∼19節(旧1131頁)
ローマの信徒への手紙8章28節(新285頁)
前置き
聖書には数多くの失敗者の物語が出てきます。アダム、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデといった、多くの聖書の人物が主なる神の御心に適わず、失敗を経験してしまいます。また、イスラエル民族そのものも、主なる神への正しい信仰から離れ、失敗し、アッシリアとバビロンといった帝国によって滅ぼされてしまいました。主イエスの弟子たちも、主を見捨てる失敗を経験します。聖書は、数多くの失敗者の姿をありのままに示しています。しかし、聖書は、主なる神が彼らを決して見捨てられなかったことをも教えてくれます。私たちの人生にも失敗が訪れうるでしょう。しかし、主は失敗したご自分の民を再び立ち上がらせ、導いてくださる方です。ですから、主を信じる者には、失敗さえも恵みとなるのです。今日は、失敗した者を慰め、新たに始めさせてくださる主の恵みについて話してみたいと思います。
1. 失敗した民へ
主の民であるイスラエルは失敗した民族でした。主は創造の際、この世界を完璧に造られました。しかし、最初の人間であるアダムは、自分が主のようになることを願い、悪魔に惑わされて、主を裏切り、禁じられた「善悪の知識の木の実」を取って食べてしまいました。最初の人は主の被造物でしたが、主は彼がご自分の意志に操られる操り人形ではなく、自らの意志によって主に聞き従う自発的な存在になることを望まれました。それが主が人間に自由を与えられた理由です。しかし、アダムは主に逆らい、自分の欲望のために自由を勝手に使い、堕落して主に呪われてしまいました。このようなアダムの子孫は、祖先アダムのように、主の栄光ではなく自分の欲望のために生きる存在となりました。それが、人間の罪の根源なのです。それにもかかわらず、主はアダムの子孫と和解するために、一つの民族を召されましたが、それがイスラエルでした。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19:5-6)しかし、残念ながらイスラエルは「祭司の王国」になれませんでした。
祭司とは、主なる神と人をつなげる仲介の存在です。旧約聖書において、主なる神は祭司を通してイスラエルの民と会われ、また、イスラエルの民も祭司を通して、主の御前に立ちました。主がイスラエルを「祭司の王国」に召された理由は、イスラエルを用いられ、世のすべての国々が主と出会い、罪赦され、和解することを望まれたからです。しかし、イスラエルは結局、自分の使命を忘却し、他の国々と同じ道を歩んでしまいました。その結果、イスラエルは主を裏切り、不従順となり、偶像崇拝を犯して堕落してしまったのです。その裁きは、アッシリアとバビロンといった帝国によるイスラエルの滅亡でした。このようにイスラエルも自分の罪によって信仰に失敗し、滅びてしまったのです。しかし、主はこの失敗した民であるイスラエルを決して見捨てられませんでした。70年という時間はかかりましたが、彼らに再び故郷へ帰る恵みを与え、赦し、再び始めることを望まれたのです。そのイスラエルに対する主の御心が記された箇所が、まさに今日の旧約の本文なのです。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」(イザヤ書43:18-19)
2. 人間の失敗
私たち人間は、主を知らないまま、罪人として、この世に生まれます。罪人として生まれた私たちには、最初の祖先であるアダムの罪の性質が潜んでいます。世の中には、性善説、性悪説、無善無悪説といった東洋哲学があります。まず、性善説は、人間の本性は生まれながらにして善であると見る立場です。古代中国哲学者の孟子が主張した説で、人間は先天的に善に生まれるが、後天的な環境によって悪を持つとの説です。次に、性悪説は、人間の本性は生まれながらにして悪であると見る立場です。古代中国の荀子が主張した説で、人間は利己的な欲望を持って生まれ、これをそのままにおくと社会的な混乱をもたらすとの説です。善は後天的に習得するという立場です。最後に、無善無悪説は、人間の本性は生まれるときに善でも悪でもないと見る立場です。古代中国の告子の主張で、人間は生まれながらに善または悪の性質を持つのではなく、後天的な環境、教育、修養などによって決定されると見る立場です。このうち、性悪説が聖書が語る人間像に最も近いですが、それでも性悪説は人間に善があり得ると見ています。人間にわずかな希望をおく説なのです。
しかし、聖書は、人間に善などなく、自力で善を行うわずかな可能性もないことを力強く証言しています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」(創世記6:5)「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。」(エレミヤ書17:9) 「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3:10-12)「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(ローマ書7:18)つまり、聖書は罪を犯して堕落してしまった人間存在そのものが失敗であると語っているのです。しかし、私たちは全能なる神に失敗がないことを信じています。最初の人間は自分の罪によって失敗し、その子孫たちも祖先から受け継ぐ罪の性質によって失敗しましたが(罪人)、それにもかかわらず、決して失敗しない主なる神は、人間を失敗から救い出し、正しい人生を歩めるように導いてくださいます。私たち人間は、罪によって失敗した存在として生まれました。しかし、主は人間を失敗の中に放っておかれず、救いの手立てを与えてくださいました。
3. 失敗を恵みへと変えてくださる主
失敗した者をそのままに置かれず、生かし、良い道へと導いてくださるために、主なる神がくださった手立ては何でしょうか。失敗した者、つまり罪人のために、主が成し遂げられた輝かしい御業は罪と失敗から抜け出し、再び始めることができる贖いの根拠を造られたことです。それは、救い主イエス・キリストのご到来です。主は人間を創造されたとき、この世のすべての被造物よりも優れた大事な存在として造られました。人をご自分のために奉仕する奴隷ではなく、子どものような、被造物の中で最も優れた存在として造られたのです。主は、その人間に失敗の可能性があるにもかかわらず、人間自ら主を従うことを望まれたゆえに自由意志をくださったのです。そのような主のご配慮と愛にもかかわらず、人間は罪を犯し、失敗の道へと進んでしまったのです。しかし、主は堕落して死に値する人間を決して見捨てられませんでした。人間を罪と過ち、失敗をそのままにおかれなかった主は、三位一体の一位格である御子なる神に肉体を与え、人としてこの世に遣わされました。
真の神である御子なる神は、一人の女の人の体を通して生まれ、神の人間を完全に仲介できる存在(仲保者)となられました。彼には真の神としての神性と真の人間としての人性があり(神でありながら人間でもあったため)、堕落した他の人間の身代わりとなることができる資格を持っておられました。この御子なる神、すなわちイエス・キリストが、ご自分の血によって、失敗した罪人の身代金を代わりに払い、ご自身の死をもって罪人たちの失敗を挽回させるために、この世に来られたわけです。そして、イエス・キリストは、人の罪を代わりに担って主なる神の裁きを受け、十字架で死に、最終的に復活されました。これによって、罪人の罪は、主イエスの贖いのもとで完全に解決されたのです。これが、先ほど申し上げた失敗した者をそのままにおかれず、生かし、良い道へと導いてくださるための主なる神の御業です。主イエスを信じる者、そのもとにとどまる者は、このイエスによって罪赦され、失敗した者という汚名から解放され、主にあって再び始めることができるという贈り物を受けます。これこそが、キリストによって私たちに与えられた救いであり、恵みなのです。
締め括り
私たちは生きていきながら、失敗を経験します。人生が揺らぐほどの大きな失敗もあり、日常の小さな失敗もあります。失敗に遭うと、挫折したり、絶望したり、落胆したりします。しかし、イエス・キリストのもとにある私たちは、すでに最も大きな失敗である罪から解放された存在です。私たちは、イエス・キリストの救いによって、永遠に死ぬべき罪人という最も大きな失敗から解放され、キリストと共に正しい道へと進んでいる存在です。ですから、失敗に遭ったとき、挫折し、絶望し、落胆しながらも、根本的な失敗を解決してくださったイエス・キリストの恵みを覚え、今でも主が私たちと共におられることを思い起こしたいです。むしろ、今の失敗は、人生の養分として、私たちの血と肉となるでしょう。ローマ人への手紙はこう語ります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ書8:29) 私たちの失敗でさえ、主にあって益となり、私たちに戻ってくるでしょう。キリスト者にとって、失敗はただの失敗ではありません。それは、主によって必ず恵みとなってくるでしょう。