出エジプト記3章13~15節(旧97頁)
ヨハネによる福音書8章58~59節(新184頁)
前置き
1。「わたしはある」という言葉の意味。
「モーセは神に尋ねた。わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(13) 出エジプト記で、エジプトの奴隷だったイスラエル民族を解放のために、主はモーセを召されました。その時、モーセは神にお聞きしました。「主が私を遣わされたと言ったら、同胞たちが私の言うことを信じてくれるでしょうか? 彼らがあなたについて聞いたら、私はあなたのことをどう言えば良いんですか?」東洋文化圏において、名前はとても大事な意味を持ちます。時代劇を観ると決闘の前に「何々家の誰、何々流の誰」と名乗る場面がよく出てきます。旧約聖書でも、ある存在の名前は大きな意味を持つ場合が多いです。「欺く者」という意味のヤコブが、主と出会った後「神を畏れる者(神に勝つという意味もある)」と名前が変わった物語が代表的です。このように聖書での名前は、ある一人の存在意味を明らかにする大事なものです。つまり、モーセが神の御名をお聞きしたのも、ただの身元確認ではなく、神の存在意味を確かめたいとの理由にあるでしょう。「イスラエルの解放を私に命じられるあなたは一体どなたですか?」という意味でしょう。
「神はモーセに、わたしはある。わたしはあるという者だと言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方が、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(14節)モーセの問いに主は「わたしはあるという者だ」と答えられました。主のこのお答は不思議で、文法的にも正しくありません。「私は誰である」と答えるのが一般的ですが、主はただ「わたしはある」と答えられたからです。これはヘブライ語「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」、ギリシャ語「エゴ・エイミー」の翻訳ですが、直訳で「わたしはわたしだ」に近います。いずれも意味が分かりにくいので、自然に意訳すれば「私は自ら存在する者である。」になると思います。万物には根源があります。人間には親がおり、先祖がいます。この会堂の材料もある山の岩、ある森の木、ある鉱山の金属に由来します。世の中のすべてのものは、自ら存在することが出来ません。しかし、自ら存在する神、「わたしはあるという者だ。」と言われた主なる神は、この世のすべての先におられ、すべてに存在理由を与えられた絶対者なのです。「わたしはある」という名前には「自ら存在する者」主なる神の絶対者としての権威と意味が隠れています。
モーセに現れられた主なる神は、自ら存在する方です。主はすべての存在の根源であり、すべての力と栄光の源です。この神がモーセを召され、遣わされたわけです。そして、主はモーセを用いてイスラエルを解放されました。大帝国エジプトでさえ、自ら存在する方のご意志に逆らうことが出来なかったのです。主が永遠にご自分の民と共におられ、その先祖アブラハムとイサクとヤコブと結ばれた約束どおりに、ご自分の業を成就してくださいました。ですから、主なる神はご自分の約束どおりに、永遠に主の民と共におられるでしょう (わたしは「我が民と共に」ある) 。そして、その約束はイマヌエル(神が私たちと共におられる。)という名の新約聖書のイエス・キリストのもとで成就するでしょう。 したがって、私たちは記憶しなければなりません。 私たちの主は「自ら存在する方、ご自分の御心のままに成し遂げられる方、ご自分の民と永遠に共におられる方」です。私たちはひとりぼっちではありません。「わたしはある」という方が私たちと共におられるからです。
2.イエス・キリストの「わたしはある」
現代を生きる私たちは、古代のヘブライ語やギリシャ語が理解できません。私たちはただ日本語だけで聖書を読んでいます。しかし、原文を理解して読むことができれば、さらに大きい恵みを得るようになるしょう。今日の新約の本文を読んでみましょう。「イエスは言われた。はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」(ヨハネ福音8:58-59) ヨハネ福音8章はイエスに反対するファリサイ派の人々と主イエスの論争の場面です。主イエスは、神が自分たちの父であると言っている、主に反対するユダヤ人たちに「本当に神を父だと思うなら、私に反対しないでむしろ愛するだろう」と言われました。そして「イエスに反対するユダヤ人の先祖であるアブラハムは、主の日を見るのを楽しみにしており、それを見て、喜んだのである」と言われました。するとユダヤ人たちは50歳にもならないイエスがどうやってアブラハムを見たのか問い返します。その時、主イエスは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」と答えられました。するとユダヤ人たちは石を取り上げ、イエスを殺そうとしました。 ユダヤ人たちは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という言葉に、なぜ憤ってしまったのでしょうか。
単純に先祖アブラハムを冒涜したからでしょうか。実は日本語では見えない表現のため、ユダヤ人は憤ってしまったわけです。新約本文58節を見ると「わたしはある」という言葉があります。この表現はギリシャ語の「エゴ・エイミー」なのです。先ほど「わたしはある」のヘブライ語は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」であり、これをギリシャ語に訳すると「エゴ•エイミー」になるとお話ししました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」すなわち、今日の旧約本文で主なる神がモーセに言われた「わたしはある」という言葉を主イエスも言われたわけです。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という表現は「アブラハムが生まれる前から、私は自ら存在する者だ」という意味にもなるのです。イエスご自身がまさに父なる神と同一本質で、同等の存在であることを示す表現です。イエスがご自身がすなわち神であるということを宣言される言葉なのです。おそらく当時のユダヤ人なら、イエスの「わたしはある」という言葉に、非常に大きな衝撃を受けたに違いありません。イエスはこの本文でご自分のアイデンティティをはっきり示されたのです。まさに今日の旧約本文でモーセに「わたしはある」とおっしゃった神としてイエスはご自身の存在について明らかに言われたのです。
私たちが主と崇める主イエス・キリストは神です。主イエスは、三位一体の神の一位格、御子なる神です。主イエスは「自ら存在する方」です。イエスの栄光は、父なる神よりけっして劣っていません。同一の本質、同等の全能さを持っておられる方です。今日の旧約本文で「わたしはある」つまり「自ら存在する者」である主は、イスラエルの解放を約束されます。そして主はモーセを通して、実際にその解放を成し遂げられます。私たちの「わたしはある」と言われた方、「自ら存在する者」であるイエス•キリストは、父なる神から与えられた力と栄光で私たちを死と呪いから解放してくださいました。 私たちは教会の頭である主イエスが「自ら存在する者」であることを信じ、主なる神がイスラエルをエジプトから救い出され、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったように、イエス•キリストも私たちを罪から救い出され、神の祝福のもとに導いてくださることに希望を置いて生きてまいりましょう。主の御名「わたしはある」すなわち、主はイエス•キリストを通して、今日も私たちと共に「おられます。」これが私たちと共におられるイマヌエル(神が私たちと共にいらっしゃる。)の証しではないでしょうか。
締め括り
主なる神には、数多くの名前があります。その中、聖書で最初に出てくる名前は、今日の「わたしはある」です。 主は私たちがひとりぼっちである時も、我が家族の中にも、我が職場、私たちの社会的な関係の中にも共におられる方です。主は世の中のすべてを満たしておられる全知全能の方です。私たちを一度選ばれた主は絶対に私たちを見捨てられず、いつも「わたしはある」という存在として、私たちの人生の道に共におられるでしょう。この主なる神がモーセを通してイスラエルを救われたのです。そして、この主なる神がイエス・キリストの民である私たち、キリストの教会を通して、主の御心を成し遂げていかれるでしょう。「わたしはある」という名の神、自ら存在する方、私たちと一緒におられるインマヌエルの主、キリストを通して、私たちと共におられる絶対者。主の恵みを憶え、感謝しつつ、この一週間を生きてまいりましょう。