エフェソの信徒への手紙6章10-20節(新359頁)
前置き
エフェソの信徒への手紙のおもなテーマは「教会とは何か」です。「天地創造の前から神にあらかじめ定めされ、キリストによって救われ、その御旨に適って生きるキリストの体なる共同体」これが教会の意義です。したがって、教会は神の御心によってキリストの民となった、キリストと共に歩まなければならない存在です。この世の思想、生き方ではなく、キリストの御心と生き方に聞き従わなければならない存在です。この地にいるが天に属している存在、それがキリストの体なる共同体、教会のあり方なのです。今日の本文は、その教会を成すキリスト者の信仰生活においての「信仰の戦い」について語ります。今日の本文を通じて、教会の生き方について考えてみましょう。
1. 血肉の戦いではなく、霊の戦いを
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:12) 戦いは控えるべきというのが常識です。聖書も隣人への愛、さらには敵への愛までも命じます。できるだけ、忍耐してどんな形でも戦わないのが望ましいです。しかし、聖書が勧める戦いがあります。それは霊の戦いです。今日の本文6章11節は、その戦いが血と肉の戦いではなく、悪の諸霊を相手にすることだと語ります。天にいる悪の諸霊、つまり悪魔を意味します。悪魔とは何でしょうか。昔のヘブライ人のある文献には、悪魔が堕落した天使であると記してあります。そして、彼らは主なる神に逆らう存在だと説明します。彼らは主なる神の座を奪い取るために、堕落して主を裏切り、悪魔になったとあります。このような悪魔の働きは創世記のアダムとエヴァを誘惑した蛇、ヨブ記のサタンのような存在から現れます。新約聖書にも悪魔についての記録があるほどです。実に悪魔はいると思います。しかし、私たちは悪魔が私たちの人生を操り、強制的に私たちを犯罪させる存在だと考えてはなりません。「悪魔の誘惑」という言葉があるように、確かに神に逆らう者、悪魔は人間を罪へと誘惑します。しかし、その罪を選ぶのは悪魔ではなく、人間そのものです。
古代のヘブライ人は、天使と悪魔が本当にいる霊的な存在ではあるが、それと共に人間も、神に従う者が即ち天使のような者であり、神に逆らう者が即ち悪魔のような者であると考えました。第3の存在である天使や悪魔だけでなく、人間そのものが、生き方によって天使にもなれ、悪魔にもなれるという思想だったのです。だから、霊の戦いとは、ある意味で、悪魔という霊的な存在との戦いだけでなく、悪と罪に誘惑され、神に逆らうようになり得る人間自分自身との戦いとも言えるでしょう。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33) 主イエスは「わたしは既に世に勝っている。(悪の権勢に勝利している)」と言われました。つまり、主と悪の戦いは、すでに終わり、結果は決まっています。主イエスが勝利され、この世はそのイエスの支配のもとにあるのです。したがって、主の民である私たちも、主によって、すでに勝利したのです。しかし、聖書は私たちにまだ残っている悪と罪の本性につまづかないよう、それと戦って勝つことを命じます。勝利者として、勝利者にふさわしい人生を勧めているのです。だから、霊の戦いは自分自身の罪との戦いです。誘惑と勝利の中で、私たちが取るべき生き方を選んで生き続けること、それが霊の戦い、信仰の戦いなのです。
2. 神の武具を身に着けなさい。
「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ書6:11,13) 今日の本文は、霊の戦いに勝利する人生のために「神の武具」を身に着けろと命じます。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(14-17)、神の武具は次の通りです。真理の帯、正義を胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして最も重要な(聖)霊の剣、すなわち神の御言葉なのです。このような武具は、古代ローマの兵隊の姿と似ています。①真理とは変わらない主の御心を意味します。ひとえに神だけが勝利者であり、真の主であるという変わらない事実のことです。ローマ軍兵の帯は腰を支えて強い力で武器を振るうようにする武具です。真理に立って主の御心に頼る時、強い信仰の力を発するようになります。
②正義(義、正しさ)とは、キリストによる天地創造の摂理に忠実な模様です。つまり、神に属している欠けることのない完全さを意味します。人間はたとえ罪によって不完全であっても、主イエスの義によって完全な者と見なされ、神に認められるという意味です。胸当ては心臓を守る鎧のことです。私たちは生まれつき罪人ですが、キリストの義は私たちを正しい者と認めさせます。③平和とは、神と隣人との和解を意味します。平和の福音の履物は、キリストの福音によって、神と隣人を愛し、真の和解を成し遂げさせます。隣人を憎むということは、血肉の戦いを意味します。しかし、キリストの平和が私たちと共にある時、私たちは隣人を愛することで血肉の戦いを避け、霊の戦いだけに集中できるようになります。④また、大事な私たちの武具は信仰の盾です。盾は矢と刃物を防ぐ防具です。世は私たちに否定的で不信心の思想を絶えず伝えます。しかし、主への堅い信仰の盾があるなら、私たちは決して欺かれず、主の御心だけに従って生きるようになるでしょう。
⑤救いの兜、兜は勝利を象徴します。ローマ時代、戦争に勝利した将軍は、月桂冠をかぶって行進しました。キリストの救いによって、私たちはすでに勝利した存在です。時々、人生の辛さや試練によって自分自身が負け犬のように感じられる時もありますが、主による私たちの勝利を忘れてはなりません。自分の状況を見る前に、主がどんなお方なのかを憶えましょう。主イエス•キリストはすでに勝利した方です。⑥最後、最も重要な武具は、私たちの武器、聖霊の剣です。今日の本文は、聖霊の剣が、神の言葉であると語ります。神の言葉は強いです。この世は教会を敗北者だと非難していますが、主の言葉は、教会が勝利者であると応援しています。この世は教会が失敗したと言いますが、主の言葉は教会が成功したと言います。自分の考え、世の考えに呑み込まれ迷っている時に、主の御言葉は、私たちの考えを新たにし、神の御心どおりに進むように導きます。したがって、神の御言葉は私たちの唯一の信仰の武器、聖霊の武器なのです。以上、6つの神の武具を通して、私たちはすでに勝利された、主に従ってこの世を生きていくのです。
3. 祈りによって生きる勝利の人生。
そして、本文は神の武具による信仰の人生に、祈りが伴うと語ります。祈りは神と私たちの会話です。ひざまずいて両手を合わせて敬虔にすることも祈りですが、私たちの人生のすべてにおいて、神に助けを求め、神の御心を待ち望み、主の御言葉通りに生きようとすることこそ祈りです。神とつながり、神の後をついていくことが、まさに祈りの人生なのです。このような人生を通してキリスト者は勝利を保ち、その共同体である教会も勝利することになるでしょう。「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。」(19) 神の武具によって信仰を守り、神の言葉の剣で罪と悪に勝ち、祈りによって神とつながり、祈りによって兄弟姉妹を助ける人生。それがエフェソ書が勧める教会の望ましい生き方ではないでしょうか? それがまさに勝利の人生ではないでしょうか?
締め括り
キリスト者がこの世を生きることは、とてもたいへんな道のりの連続です。絶えない人生の試練がやってきます。けれども、自分の状況ではなく、主なる神がどのようなお方なのか憶えて生きましょう。自分は弱くても、神は変わることなく勝利者であることを憶えて、信仰の人生を生きてまいりましょう。そのような人生のために、今日の本文は神の武具と祈りの人生を話しているのです。私たちはすでにキリストによって勝利した者です。それが教会という共同体の意義なのです。したがって、最後までキリストの勝利を信じ、主に従って生きる私たちであることを祈ります。