ルカによる福音書 15章11‐24節(新139頁)
前置き
キリスト教会が主とあがめる神という存在はどのようなお方でしょうか。今日は、難しい「三位一体」のような神学の話しではなく、神という存在が私たちの人生においてどのようなお方なのかについて、実存的な話をしてみたいと思います。神という存在を最も直観的に表す言葉は、万物の「父」と言えるでしょう。もちろん、神は人間のような性別がない方であるため、人間の基準で言う生物学的な父とは異なる存在です。すべてを創造し、司る絶対者としての「父」と理解するのが正しいでしょう。古代のヘブライ人は、この神を万物の「父」と理解していました。性別を超えて、すべてのものの創造主と信じていたのです。そして、現代の教会が主とあがめる神のひとり子イエス・キリストも、その神を父と呼ばれました。今日は、この父なる神について、そしてその方が人間をどのように思っておられるのかについて、話してみたいと思います。
1. 放蕩息子のたとえ話
今日の本文であるルカによる福音書15章には、父にかかわる主イエスの有名なたとえ話が出てきます。あらすじは下記のようです。ある人に二人の息子がいました。ある日、次男が父のところに来てこう言いました。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」彼の発言は、このたとえ話の時代においてはありえない非常に失礼な要求でした。父がまだ生きているのに遺産を求めるのは、父を死んだものと扱うことと同じだったからです。しかし、父は次男の要求を聞き入れました。そして、次男は父から受け取った財産を持って遠い異国へ旅立ちました。彼は、そこで放蕩な暮らしをしたあげく、持っていた全財産をすべて使い果たしてしまいました。お金が尽きると友人も皆去ってしまい、ついには豚の世話をするようになり、豚が食べるイナゴ豆で腹を満たすほど悲惨な身の上になります。その時になってはじめて、この息子は「父の家には十分な食べ物があるのに、私はここで飢え死にそうだ。父のところへ帰ろう。私はもう父の息子と呼ばれる資格などないから、ただ雇人の一人として受け入れてくださいと願おう」と決心します。そうして、次男は父の家へ帰る長い道のりを歩み始めました。
ところが、驚くべき場面が繰り広げられます。次男がまだ遠くにいるのに、父がくたびれた息子を見て哀れに思い、走り寄って首を抱きしめ、口づけをしたからです。父はなぜ何の知らせもなく手ぶらで帰ってくる息子の帰還を知っていたのでしょうか。その理由は、父が毎日毎日、息子の帰還を待っていたからでしょう。息子は父に「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と言いした。しかし、父は息子の言葉が終わらないうちにしもべたちに言います。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を開きました。父はこの放蕩息子を咎めるどころか、愛をもって赦したのです。主イエスは、このたとえ話を通して、この世の人々に対する万物の父である神の御心を教えてくださいました。聖書はこのたとえ話を通して、人間が決して一人ぼっちではなく、神という真の父の極めて深い関心と愛を受けている貴い存在であることを教えてくれます。
2. 御父の心
今日の本文の、この「父」という存在を通して、私たちは「父なる神」の御心を垣間見ることができます。それは三つに分けて考えることができます。第一に「待ち望む心」です。父は息子が去った後も、毎日毎日息子の帰還を待ち望んでいました。私たちが人生の様々な理由で神を離れたり、世の中でさまよったりする時、父なる神は私たちを待っておられます。私たちのすべての不完全さや過ちにもかかわらず、私たちが帰ってくることを切に願われ、待ち望まれる心です。第二に「愛と赦しの心」です。息子が帰ってきた時、父は息子の以前の過ちを問いませんでした。むしろ、走り寄って抱きしめ、口づけをして歓迎しました。現在の私たちが取るに足りない姿であっても、真の父である神は私たちを愛し、赦してくださいます。父が息子と再会した喜びで宴を開いたようにです。第三に「回復を望む心」です。父は帰還した次男に一番良い服を着せ、指輪をはめ、履物を履かせました。それは再び息子としての尊厳と権威を回復させたという意味でしょう。神は私たちがどのような状況にあっても、再び私たちを神の子として完全に回復させることを望んでおられます。私たちの傷を癒やし、人生を新たにしてくださることを望まれる心を持っておられます。
キリスト者として長年生きてきた方も、まだキリスト者になっていない方も、父なる神のことを誤解しやすいです。自分とはあまりにも遠く離れておられる神、親しく接することのできない難しい存在、言動に間違いがあれば激怒する方など、近づきがたい方だと思いやすいです。しかし、今日の本文に現れる父の姿、すなわち神の姿は、私たちが漠然と想像しがちな権威と威厳の神とは全く違う暖かい父として描写されています。聖書は神について、自分から離れていった人間に怒りを覚えるよりも、絶えず待ち望み、愛し、赦し、回復させてくださる真の父のような存在として描いています。以前、教会に通っていたが信仰が弱まってしまい、教会を離れた人、キリスト教の神という存在について誤解している人、信仰生活の中、人にがっかりして神にまでも信頼できなくなった人、神がまったく自分と関係なく、遠くにおられる方だと思い、遠ざかってしまった人を、神は変わらず待ち望み、昨日も、今日も、明日も待っておられる温かくて愛に満ちているお方です。神は世のすべての人に神との和解の機会を与え、待っておられる真の父なのです。
3. 父なる神に立ち返る方法
この父なる神に立ち返るための、たった一つの方法は、神がこの世に遣わしてくださった唯一の救い主であるイエス・キリストを受け入れ、信じることです。聖書によれば、人間は皆、罪によって神を離れてしまったと言われます。しかし、神は人間と和解することを切に願っておられ、人間の罪を赦し、受け入れてくださる窓口としてイエス・キリストを遣わし、人間の罪を赦される手立てとして、十字架のいけにえにし、神と人間の間の隔てを打ち壊してくださいました。イエス・キリストは罪のない方ですが、人間の罪を赦してくださるために、十字架においてご自身を捧げられ、三日目に復活されることによって死に打ち勝ってくださったのです。私たちが救いを受け、神と和解する唯一の方法は、今も私たちを呼んでおられる父なる神の御心を受け入れ、父が遣わされた唯一の救い主イエス・キリストを信じ、拠り頼むことです。この信仰を通して、私たちは神の子となり、永遠の命を得、神と完全な関係を結びつけることになるのです。これがキリスト教が語る救いの最も基本的な教えであり、私たちを待っておられる父なる神のもとへ立ち返れる唯一の方法なのです。お金でも、権力でも、名誉でも得られない父との和解、それはただ、その方が遣わされたイエス・キリストの導きによってのみ出来ます。父なる神は今日も私たちを愛しておられます。その方は今日もあなたを愛しておられます。
締め括り
時々、この世の人生が孤独に感じられることがあります。誰も自分の味方になってくれず、自分だけが一人ぼっちになっているかのように感じられる時もあります。親も、家族も、友人も、同僚も自分を理解してくれないと感じられる時もあります。しかし、そのような時でさえ、父なる神は私たちを理解してくださり、助けてくださることを望んでおられ、愛のまなざしで私たちを見つめておられます。そして、私たちに助けを与えたいと望んでおられます。今日の聖書の本文のように、神は私たちを待っておられる、暖かい真の父です。父なる神は今日もあなたを見守っておられます。その父がイエス・キリストを通して常に私たちとともにおられることを忘れずに生きることを祈り願います。