イザヤ書49章13-15節 (旧1143頁)
ヨハネによる福音書20章15~18節 (新209頁)
前置き
私たちは祈りを始めるとき、ごく自然に「父なる神様」と、その御名を呼びます。あまりにも当たり前の習慣なので、なぜそう呼ぶのか、深く意識することはないかもしれません。私たちが神を「父」と呼ぶのは、聖書がそのように教えているからです。しかし、忘れてはならない、とても重要な事実があります。それは、罪人としてこの世に生まれた私たちには、本来、神を父と呼ぶ資格がなかったということです。考えてみてください。神は完璧に聖なるお方であり、そこには一片の罪も存在しません。しかし、人間は生まれながらにして罪と無縁ではいられない存在です。聖と罪、全く相容れないはずの両者が、どうして「父」と「子」という親しい関係になれるのでしょうか。本日は、罪人である私たちが、聖なる神を「父」と呼べるようになったのはなぜか、その恵みの理由を探ってみたいと思います.
1.なぜ、神を父と呼ぶのか。
日本キリスト教会の小信仰問答 問31にはこういう質問があります。「問31:どうして神を父と呼ぶのですか?」「答:創造主はキリストの父ですから、キリストを信じて神の子とされている私たちも、父と呼ぶことを許されるのです。」私たちは、どうして神を父と呼んでいるのでしょうか? この世を創造された造り主だからでしょうか。自分に命をくださった方だからでしょうか。自分が神を父親として決めたからでしょうか? ある意味で、以上の質問はすべて一理あるかもしれません。しかし、それらが私たちが神を父と呼べる根本的で、決定的な理由だとは言えません。私たちが神を父と呼べる、最も根本的かつ決定的な理由は、神が私たちの救い主であるイエス·キリストの父であるからです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、アッバ、父よと叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤ4:4-6) もちろん、人間も神の被造物だから、広い意味で神を父と見なすことができます。しかし、問題は、人間が「すでに神に呪われ、見捨てられた存在」であるということです。
「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創3:24) 初めに神を裏切った人間は、取り返しのつかない死の呪いを受けました。そして、自力では二度と真の命を手に入れることが出来ない、惨めな存在となってしまったのです。しかし、神は一つの希望の約束をくださいました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創3:15) 先ほど読みましたガラテヤ書の言葉には「神は、その御子を女から…お遣わしになりました。」とありました。この言葉は創世記3章15節を引用した表現です。「エデンの園の東のケルビムと剣の炎」は象徴的に人間が自力では死に勝つ命を得ることが出来なくなったという意味です。しかし、ケルビムと剣の炎をお創りになった神ご自身が人間のところに来られ、その人間を連れて命の木への導かれるとすれば、話は違います。イエス·キリストは罪人を救い、命の木、つまり神による真の命に、私たちを導いてくださるために来られた救い主です。そして、このキリストと一緒にいる時、私たちは真の命に進むことができるようになるのです。私たちが神を父と呼ぶ理由は、まさしく、このためです。私たちが神を父と呼べるようにしてくださるキリストが、私たちのかしらになって、ご自分の父のみもとへ導いてくださるからです。
2.「キリストと父との関係」
それでは、キリストと父なる神は、どのような関係を結んでおられるでしょうか。日本キリスト教会 大信仰問答「問38 父なる神と子なる神と…の関係はどういうものでありますか。(一部抜書)」「答:…父は何ものよりも成らず、造られず、生まれざる永遠の子孫者、子は父より永遠において生まれたもの。(一部抜書)」御子の永遠の生まれは、創造や出生とは違う概念です。ギリシャ語には「ギノマイ」という言葉があります。その本来の意味は「存在するようにする。創造する。なる。」などです。しかし、文法的に使って「創造するようにする原因、ある存在を存在するようにする原因、あるものの発生的な根源」などを含む奥深い表現です。つまり「御父から御子が永遠において生まれた。」という表現は、創造されたとか、生まれたとかの意味ではなく、御子の存在性が永遠において御父の中にあるという意味で、創造された存在ではなく、御父と共に永遠において存在してこられた方であるという意味に解釈するのが正しいです。用語が本当に難しいですが、イエスは時空間が出来るずっと前から父と一緒に存在してこられた真の神であるという意味です。ヨハネによる福音書はこう語ります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハネ1:1-2)
つまり、イエスは神によって造られた普通の被造物とは異なる、最初から神の子として存在しておられた真の神の子であるという意味です。最初から父とおられ、父と創造も共になさった存在であるということです。私たちのような人間は神の被造物として神とは本質的に違う創造された存在です。しかし、主イエスは父と永遠に一緒におられ、最初から御子として存在された方です。そのため、キリスト教の神学では、イエスのことを神の唯一の真の実子であり、キリスト者はキリストによって神に養子縁組された養子だと表現しているのです。これを通じてキリスト者が神の被造物であるため、神を父と呼ぶのではないということが分かります。真の神の実子であるキリストによって神の子とみなされた存在であるということです。真の神の子キリストの犠牲と御救いによって、神を父と呼べない者たちが、神を父と呼べるようになったわけです。もちろん、旧約にも神はご自分の民を父親、あるいは母親の観点から扱われることもあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15) しかし、ここでは神がイスラエルの民の創造者として彼らを子供のように考えておられるということであって、イエスのように存在そのものが完全な実子であるという意味ではありません。旧約においての神の子の概念と新約においての神の子の概念は、まったく違う意味を持っていることを忘れないようにしましょう。
3.堂々と神を父と呼べる者たち。
ですから、主は言われたのです。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28) 洗礼者ヨハネは旧約最後の預言者でした。イエスのご到来からは、新約の時代であり、イエスを主と崇める私たちは新約の民です。私たちの中で最も小さな者でも、神はイエス•キリストによって、旧約最後の偉大な預言者である洗礼者ヨハネより、さらに優れた存在として認めてくださるという意味です。ヨハネの時代、すなわち旧約時代には、キリストによって神の養子となったという概念がありませんでした。しかし、新約の民はイエス•キリストによって神の子と認められたのです。養子だからといって、神が私たちのことをニセ息子として思っておられるわけではありません。私たちはよく「キリストは教会の頭、教会はキリストの体」という表現を口にします。つまり、私たちはキリストのものとなった存在です。神は御子イエスを愛されるように、その体となった教会と教会に連なる一人一人をも愛しておられます。まるで、神がキリストを愛しておられるように、キリストの民をも愛しておられるのです。言葉だけ養子であって、実際はキリストに負けないほど私たちは愛されているのです。そんなに愛されていなかったら、父なる神は、独り子を十字架のいけにえとして犠牲されなかったでしょう。私たちはキリストによって、キリストのように神に愛される神の本当の子供になったのです。したがって、私たちは、いつでもどこでも神の子として堂々と立つのが出来るのです。
締め括り
コラムデオという言葉をご存知ですか。この言葉はラテン語で「神の前で」という意味です。罪を持った人間は神の御前に立つ瞬間、神聖によって滅ぼされます。しかし、このコラムデオという言葉の裏には「キリストと共に神の前で」という意味が含まれています。神の真の子イエス•キリストによって、主の体となった私たちは、主と共に神の御前に堂々と立つことが出来ます。主イエスを通じて、神の子として生きることが出来るのです。イエスが、この地上に肉となって来られた理由は、まさに私たちを神の子にして神の前に堂々と立たせてくださるためです。そして、私たちは、そのキリストを信じて神の子、キリスト者と呼ばれるようになったのです。「イエスは言われた。…わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。」(ヨハネ20:17) イエスが復活された朝、以上のように主は言われました。主のご誕生は、まさに私たちに真の父をくださるためです。なぜ神であるキリストが、この地上に来られたのだろうか、なぜ、私たちは神を父と呼べるのだろうか、今日の言葉を通じて、もう一度考えてみる機会になることを願います。