詩編113編1~3節(旧954頁)
エフェソの信徒への手紙1章3~6節(新352頁)
前置き
賛美とはどういうものでしょうか? 私たちは礼拝の際、何度も讃美歌を歌います。讃詠を皮切りに聖書朗読前の讃美歌、説教前の讃美歌、説教後の讃美歌、聖餐式の讃美歌、礼拝が終わる時の頌栄を歌います。教会によっては、礼拝開始の前に讃美歌を歌うか、礼拝の後に讃美歌を練習する場合もあります。大きい教会では、イースター、クリスマスなどの記念日に合わせて賛美のコンサートを開くところもあります。そのため、私たちは無意識に「賛美は歌である」と受け止めがちです。しかし、賛美は果たして歌だけに限るものなのでしょうか? 今日は聖書に現れる賛美について学び、その意味を、あらためて心に留める時間を持ちたいと思います。
1.聖書に現れる賛美
聖書の言語であるヘブライ語とギリシャ語には、数多くの賛美にかかわる言葉があります。日本語では「讃美、賛美」あるいは「ほめたたえ」くらいですが、聖書の言語では数多くの表現があるのです。そのすべてを一々取り上げて説明することは、かなり時間がかかりますので、今日の本文に出てくる四つの表現(ヘブライ語ハラルとギリシャ語翻訳エパイノスとヘブライ語バラクとギリシャ語翻訳エヴロゲオー)について考えてみたいと思います。まず、今日の旧約本文を読んでみましょう。「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美(ハラル)せよ。主の御名を賛美(ハラル)せよ。今よりとこしえに、主の御名がたたえられる(バラク)ように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美(ハラル)されるように。」(詩篇113:1-3)詩篇113編はイスラエルの民が過越祭のような大事な祭りに歌った賛美として知られています。 詩篇113編だけでなく114編から118編までも、そのような歌でしたが、それらは「ハレルの詩」と呼ばれました。このハレルという名称は、これから探ってみる「ハラル」に由来します。今日の旧約本文で主なる神への賛美、その一つ目のヘブライ語は「ハラル」です。 ハラルには、さまざまな意味がありますが、基本的に「明らかになる。輝く。」のイメージを持っています。そして、そのイメージから「賛美する。褒める。誇る。」などの表現が派生しました。主なる神が成し遂げられたすべてのことが「闇を退け、秩序をもたらす最も明らかで輝かしい御業」であるため、天地万物が主なる神を「ほめたたえ、誇りにする」のです。また、このハラルはギリシャ語では「エパイノス」と訳されますが「エパイノス」はそのままで「~に賛美する」という意味です。
賛美にかかわる、その二つ目のヘブライ語は「バラク」です。この表現のイメージは「ひざまずく」です。そして、もう少し意味を拡張して「主の御前にひざまずいて謙虚に屈服する。」と解き明かすことが出来ます。主なる神の偉大な御業に感謝し、謙虚にひれ伏し、主の偉大さをほめたたえるという意味です。この表現はギリシャ語ではエウロゲオ-と訳されますが、エウは「良い、立派な」を意味し「ロゲオー」は言葉、思想、理屈を意味する「ロゴス」の動詞形です。主なる神に一番良い言葉と思いをささげるという意味でしょう。賛美は狭い意味では礼拝の時に歌う「歌」として定義することが出来るでしょう。しかし、より広い意味としては「明らかで輝かしい御業を成し遂げられた主なる神に従順に聞き従い、良い言葉と思いによって信仰の人生を生きること」とも言えるでしょう。したがって、賛美はただの歌だけを意味するものではありません。私たちの人生のすべての姿が、私たちの賛美そのものになるのです。教会党に出席し、讃美歌を歌うだけで賛美を尽くしたと思ってはなりません。教会でも、家庭でも、社会でも、主の御言葉と御心に聞き従って正しい信仰の人生を生きること、それこそが私たちの真の賛美なのです。
2.主の明らかで輝かしい御業
それでは、主なる神が成し遂げられた明らかで輝かしい御業とは果たして何でしょうか? 今日の新約本文を読んでみましょう。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえ(エウロゲオ-)られますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえる(エパイノス)ためです。」(エフェソ1:3-6) 今日の旧約本文に出てきた賛美を意味する「ハラルとバラク」が、今日の新約本文でもギリシャ語(エパイノスとエウロゲオ-)に訳されて出てきています。使徒パウロは主なる神が成し遂げられた偉大な御業をハラル(エパイノス)とバラク(エウロゲオ-)という言葉を用いてたたえているのです。主の明らかで輝かしい御業を被造物の人間に過ぎない私たちが、すべて見抜くことは不可能です。しかし、私たちは新約本文に記録された言葉を通じて主の御業の一部を覗き見ることができます。
一、主なる神は、天のあらゆる霊的な祝福で私たちを満たしてくださいました。罪によって見捨てられた罪人をイエス·キリストの十字架の贖いよって救い、さらに霊的な祝福をくださったのです。(3節) 二、主なる神の救いは、偶然や即興的な救いではなく、天地創造の前から計画された永遠の愛に基づいています。(4節) 三、私たちは主なる神の御心のままに前もって定められ、キリストにおいて主の子供とされました。(5節) 四、これらによって、主なる神はキリストによって主の子供に召された私たちに、主の輝かしい恵みを賛美する資格を与えてくださいました。(6節) 主はすべての光の源であり、すべての正義と秩序の主です。主がなさるすべてのことが明らかで輝かしい御業です。聖書は、その中でも特にイエス·キリストによって主の民を選び、救い、主と共に生きるようにしてくださったことを最も偉大な御業であると証しています。私たちはイエス·キリストにあって、私たちの救いを成し遂げてくださった主なる神の明らかで輝かしい御業に感謝し、その方に私たちのすべてを捧げ、従順に聞き従う人生を生きるべきです。そして、そのような生き方そのものが、主なる神への私たちの賛美になるのです。素晴らしい歌唱力、美しい音色、きれいな奏楽も良い賛美です。しかし、最も根本的で基礎的な賛美は、断然主の民にふさわしく信仰にあって主と共に歩む私たちの日常の生活ではないでしょうか?
3。賛美について思いめぐらす逸話
アメリカの黒人解放期、黒人の人権のために尽力した女性作家がいました。 彼女は「アンクル・トムの小屋」という小説で有名な「ハリエット•ビーチャー•ストウ」でした。長老教会の牧師の娘に生まれ、神学を勉強した彼女は、黒人の悲惨な生活を目撃し、奴隷制度に反対する作品「アンクル・トムの小屋」を書いたのです。彼女の小説はアメリカ社会に大きな波紋を投げました。ある日、彼女はアメリカの南北戦争を勝利に導き、黒人奴隷解放を宣言したアブラハム・リンカーン大統領に会うことになりました。「ストウさんにお会いできてとても嬉しく思います。小説を読んだ後、作家が軍人あるいは政治家だろうと思いましたが、こんなに小さなご婦人であるとは思いませんでした。私はあなたの小説を読んで大きな感動を受けました。そんなに素晴らしい小説をどう書かれたのでしょうか。」ストウは答えました。「とんでもございません。それは私が受けるべき褒め言葉ではございません。主なる神にに才能をいただいたのですから、ひとえに主だけに栄光を捧げるだけです。それよりも、多くの黒人を悲惨な奴隷制度から解放された閣下の業績こそ、永く輝くでしょう。」するとリンカーンは謙虚に答えました。「いいえ、こちらこそ、とんでもございません。私はただ主のしもべに過ぎません。私自身には何の力もありません。すべてが、主のご命令に従った結果なのです。だから、すべての栄誉は主に帰すだけです。」黒人解放の主役である2人は自分の業績を自慢せず、そのすべてが主なる神の恵みであるとほめたたえました。
締め括り
上記の物語は、真偽のほどは定かではありませんが、少なくとも、思いめぐらせるところはあると思います。リンカーンとストウの会話を読みながら、これこそ真の賛美のあり方ではないかと思いました。毎週教会に出席して讃美歌を歌っているが、職場では冷たくて薄情な上司ではないか。毎週教会で奏楽しているが、学校では真面目でない生徒ではないか。毎週教会で奉仕をしているが、家庭では配偶者との関係は悪くないか。いろいろなケースがあるでしょう。そのような人々が歌う讃美歌は果たして主なる神に喜ばれる賛美になれるのでしょうか。今日学んだ賛美の意味についてもう一度復習して説教を終わりたいと思います。「明らかで輝かしい御業を成し遂げられた主なる神に従順に聞き従い、良い言葉と思いによって信仰の人生を生きること」それこそが私たちの生活に現れる真の賛美ではないでしょうか?