出エジプト記 20章12節(旧126頁)
エフェソの信徒への手紙 6 章1-4節(新359頁)
前置き
去る5月11日は母の日でした。もともと先週の主日、この説教をしたかったのですが、私の留守のため、今日することになりました。約一ヶ月後の6月15日は父の日でもありますので、今がこの説教にちょうど良い時期ではないかと思います。今日は十戒の第五戒「あなたの父と母を敬え」とエフェソの信徒への手紙の言葉を通じて、親を敬うことについて話したいと思います。
1. 約束を伴う最初の掟
「父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です。そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができるという約束です。」(エベソ6:2-3) 使徒パウロはエフェソ教会に手紙を書きながら、末尾にキリスト者の望ましい生き方について語りました。その中に、子供たちのあり方についても助言しました。それは「父と母を敬え」でした。使徒パウロは旧約聖書の十戒の言葉を引用して両親を敬わなければならないと言いましたが、それは約束を伴う最初の掟であると定義しました。今日の旧約本文は出エジプト記20章(十戒)の12節だけですが、十戒の全文を読み切ると、唯一第五戒のみに「そうすれば」という言葉がついているのが分かります。主なる神がこの第五戒だけに「この戒めを守れば、あなたに祝福を与える。」と条件をつけられたということです。残りの戒め全てが重要ですが、神は第五戒を特に大事にされたようです。神が最初造られた共同体は、アダムとエヴァという最初の家族でした。残念なことに、彼らは罪を犯してしまいましたが、それでも神は二人に子供をくださり、家族を成させてくださいました。神は家族という共同体を人類のもっとも基礎的な単位として立ててくださったのです。
この「家族」という共同体は神が初めの人類にくださった神を礼拝する「最初の教会」です。そして、神は主の教会に秩序をくださり、それを求められる方です。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」(第一コリント14:33,40) 私たちが父と母を敬わなければならない理由は、単に礼儀作法や慣習のためだけではありません。主なる神は無秩序に秩序を与えられる方です。創造は無から有を創り出すことでもありますが、無秩序に秩序を与えることでもあります。したがって、主なる神の最初の教会である家族は、神が造られた秩序によって支えられなければなりません。つまり、父母を敬うことは神の秩序に聞き従うことと同然です。親への敬いは、神の摂理に積極的に従うことです。ですから、親を敬うことは神を敬愛することの一部であるとも言えるでしょう。十戒において、神は公に神の秩序と摂理に従う者、すなわち父母を敬う者には、ご自分による美しい地での豊かな長生きを約束されたのです。人が親を敬うことは神の祝福を得る最高の道であることを、聖書は私たちに教えてくれるのです。
2. 父母を敬うのとともに考えたいこと – 子どもへの愛
ところが、ここで問題があります。今、この説教を聞いておられる皆さんの中には、ずっと前に両親を亡くされた方々が多いはずです。すでに亡くなった両親を生き返らせて敬うことは出来ません。それでは、今の皆さんにおいて「あなたの父母を敬え」という戒めは、どのように守ることができますでしょうか。最も基本的に敬うべき対象は、すべてのものを造られた、万物の造り主です。そして、私たちは、その造り主なる存在が三位一体なる神であることを知っています。「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ4:6) ここで「父」とありますが、それは男性の父親のことではありません。神は男でも女でもない方です。神は真の父であると同時に真の母でもある方です。要すると父と母という性別を超えた真の親ということです。私たち皆のことを誰よりもよく知っておられ、ご計画どおりに造られた方です。私たちの真の親であり、万物の造り主である方です。ですから、すでに両親を亡くし、70代,80代になった皆さんも親を敬うことができます。それは神を愛し、御言葉に聞き従うことを望んで生きることです。
「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェソ6:4) 新約の本文は、もう一つの父母を敬うに並べる教えを語ります。すでに両親が亡くなった方々は、神を愛し聞き従うことと共に「神がしつけ諭されるように、子供を育てること(正しい養い)」で両親を敬うのに代わることができるでしょう。子供を正しく養い愛することは社会的なマナーを身に付けさせ、良質の教育をすることでもありますが、キリスト者においては何よりも御言葉によって、造り主なる神とキリストの贖いと救いと聖霊のお導きとを教えること、つまり、神へ信仰を教えつつ養うことです。しかし、すでに子供が成人して信仰の養いが出来ない場合、子供への日ごろのやさしい応対や言動によって「キリスト者である両親は私を尊重し愛してくれる。私の両親を通じて神という存在を感じる。」のように、キリストの香りを漂わしながら生きることによって、子供を愛することが出来ます。本文に「子供を怒らせてはならない」とありますが「怒る」のギリシャ語の意味は「一緒に怒りあう。激怒させる。」です。子供が親のため、怒りを感じたり、親が子供の心配になったりすることを意味します。このように「親を敬うこと」のまた一つの形は、子供への信仰の養いと尊重、そして愛とも言えるでしょう。
3. 神と隣人への愛
十戒の前半の四つの戒めは、神に対する民の生き方についての教えです。また、後半の五つの戒めは、隣人に対する民の生き方についての教えです。真ん中の第五戒めは、神と隣人を包括する民の生き方についての教えです。主イエスは十戒全体の精神について、このように言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:37-39) この言葉は十戒の大命題である神への愛と隣人への愛について語っています。そして、第五戒は、真の親である神を愛し、最初の隣人である自分の父母を愛しなさいと力強く教えています。したがって、第五戒は神と隣人への愛を共に訴えている十戒のかなめ石のような戒めであるでしょう。そういうわけで、神は第五戒を祝福の約束を伴ってまで大事になさったわけではないでしょうか? キリスト教会の中でも保守的な教会と進歩的な教会が分かれます。前者には神への礼拝と教会の維持を優先にする傾向があります。後者には隣人への愛の実践のため、社会運動を優先にする傾向があります。しかし、私たちは神と隣人への愛をバランスよく調節し、信仰生活に臨むべきです。それが第五戒が私たちに教える教訓ではないでしょうか?
前置き
赤ちゃんが生まれ、最初に愛するようになる相手は断然母親でしょう。しかし、その子が育ち、人生を生きながら最も親密に、時には軽んじやすく思う存在も母親でしょう。母は自分と一番近くて気楽な存在だからです。しかし、その母もいつかはこの世を去ることになるでしょう。自分のそばにいるときは、気づかなかったが、遠く離れたのをしみじみと感じてはじめて、母の大事さに痛感するでしょう。先週の主日は母の日でした。母という存在、その大事さについて顧みる有意義な日だと思いました。主なる神は親を敬うことを何よりも大切な人間の価値として立ててくださいました。目に見える親への愛によって、目に見えない真の親である神への愛をお確かめになるでしょう。親への愛を憶えつつ、神と隣人へ愛をも顧みることを願います。