ヨハネによる福音書 8章1-11節(新180頁)
旧約聖書を読むと、イスラエルには、3つの祭りがあったと言われます。除酵祭、七週祭、仮庵祭がそれらです。それらの祭りはエジプト帝国の抑圧からイスラエルを解放し、長い荒野生活で守ってくださった主なる神を記念する特別な日でした。イスラエルの男は、それらの祭りを守るためにエルサレムの神殿に訪問し、生け贄を捧げました。イスラエルの民は、それらの祭りを通して、主なる神についての知識を得、記念しながら、主の御心について学びました。今日の新約聖書の背景は、それらの中の仮庵祭に起こった出来事です。
1.仮庵祭の二つの行事
今日の新約本文の背景は仮庵祭の終わりごろでした。ユダヤ人の文献によると、この仮庵祭の間には、2つの特別な行事があったそうです。一つ目は、祭司の庭で行われた水の祭りでした。祭司の庭とは、焼き尽くす献げ物の祭壇のある神殿の前庭のことです。水の祭りの際、人々はシュロの木の枝、ヤナギの枝などを振りながら、主なる神のお赦しを喜びたたえました。また、シロアムの池から汲みあげた水でいけにえの祭壇を洗い清めました。これは雨乞いの祭りとしての機能も兼ねていました。当時のユダヤ人は、このような祭りによって罪を洗い流し、命を与えてくださる主なる神のお赦しを憶えました。
二つ目は、祭司の庭の隣にある女の庭で行われた火の祭りでした。先の水の祭りが終わると場所を移し、女の庭の燭台に火を灯し、闇に光を照らす火の祭りを行いました。老若男女が集まって火をつけ、神の御前で踊ったり歌ったりしながら、この世の光でおられる神を讃美したのです。「若いときの罪を赦される者には福あり、かつて罪を犯したが、今、赦される者には福あり」ラビの指導に従って、詩編の歌を歌いつつ、暁となって鶏の鳴き声が聞こえてくると、自分の罪を赦してくださった神に感謝の祈りを捧げたと言われます。これらの行事によって、イスラエルの民はの仮庵祭を過ごし、主の赦しを感謝しました。
2.人を赦さない罪
ユダヤ人は、この仮庵祭の水と火の祭りを通して、水のように罪を清めてくださる神、火のように闇に光を照らしてくださる神を憶えました。仮庵祭の一週間、祭司の庭で行なった水の祭りと女の庭で行なった火の祭りを通して、人々神の愛と恵みを改めて確かめたのです。かつて、主なる神に逆らった罪のため、バビロンに滅ぼされてしまったイスラエルは、奴隷に過ぎない民族になってしまいました。しかし、彼らが最も弱くなっていた時、神は彼らを再び呼び出してくださいました。イスラエルは神の赦しと愛とによって、自由を得、イスラエルに帰ることが出来ました。その後、イスラエルの指導者たちは人々に、先祖の罪について、イスラエルを救ってくださった神の愛について、罪を赦し、新しい命をくださった主について絶えず教えました。
しかし、今日の本文では、夜どおし、神に感謝し、主の恵みをほめたたえた人々が、突然変わることが起こります。「律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(ヨハネ8:3-5)宗教指導者たちが姦淫の罪を犯した女を捕らえてきたとき、人々は彼女を打ち殺そうとしました。数時間前まで、神の命の水と恵みの火を喜び、神の愛と赦しに感動していた彼らが、罪人については、赦しも、愛もなく、ただ、彼女を殺すために憤っていたのです。神が仮庵祭を通して、彼らに赦しと愛を教えてくださったのに、彼らは自分への赦しだけに感謝し、他者への赦しと愛という最も大事な教えは見落としてしまったのです。神の赦しが姦淫した女性には適用されないと考えたからです。
3.赦してくださるイエス・キリスト。
その朝、主イエスが神殿に来られました。その時、宗教指導者たちは姦淫した女を連れて殺気立った群衆とともにイエスのもとに来ました。神殿での一週間、仮庵祭によって神の赦しと愛を憶え、喜んでいた彼らが姦淫した女性に対しては、いかなる哀れみもなく、ただ彼女を殺すためにイエスの前に来たのです。仮庵祭の祭りは彼らの心に一体何を残したのでしょうか?確かに姦淫した女は罪を犯しました。しかし、その日は神の恵みを感謝し、神と人への愛を誓った祭りの最後の日でした。仮庵祭そのものが荒野で民を導き生かしてくださった神を記念する祭りです。彼らは自分の罪の赦しを感謝しながらも、他者の罪は赦していなかったのです。イエス・キリストは一言で仮庵祭の精神を示されました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
私はイエスが言われた一言「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」の前に、このような長い言葉が隠れていると思います。「私は、去る一週間、仮庵祭を過ごしながら、あなたがたに赦しの喜びを与えたあなたがたの神、主である。私は昔からあなたがたの罪を赦してきた。だから、私はまた、この女の罪をも赦すのだ。私はこの女を罪に定めない。この女も私に赦されるべき私の民であるから。それにもかかわらず、この女を殺したくなら」「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」仮庵祭の水と火の祭りを通して民への赦しを教えてくださった神は、御子イエス・キリストの言葉を通じて、姦淫した女を赦してくださいました。主の御言葉を聞いた人々は、良心に責め苛まれ、女を責めることが出来ませんでした。そして、彼らはみんないなくなりました。
締め括り
仮庵祭、イエスはイスラエルの祭りに隠れている真の律法の精神を教えてくださいました。それは、罪赦されて喜ぶことだけに満足してはならないという教えでした。主イエスは姦淫した女にも同じように教えてくださいました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」出エジプト後、40年間、荒野で民を守ってくださった主に感謝するなら、命の水の源、世の光として、罪を赦してくださった主を愛するなら、律法をよく守って生きたいなら、自分が神に赦されたことを忘れず、同じく他人の罪をも赦し、愛を実践しながら生きなさいということです。今日の物語は赦しと愛こそが、主なる神を崇める者が持つべき精神であることを教えています。