列王記上19章1-8節(旧565頁)
ヨハネによる福音書21章1-14節(新209頁)
前置き
復活節後の最初の主日を迎えました。今日は復活された主イエスのお歩みの中でガリラヤ湖畔でペトロと弟子たちに現れ、慰め、力をつけてくださった物語について話したいと思います。主イエスの生前、一番弟子と呼ばれたペトロは主イエスを絶対に裏切らないという約束を守れず「鶏が鳴く前に三度」イエスのことを知らないと言ってしまいました。(マタイ26:33-35) ペトロだけでなく、他の弟子たちもイエスが逮捕されると、皆見捨てて逃げました。そんな彼らはイエスが復活された時、どんな気持ちだったでしょうか?復活されたイエスを喜びで歓迎することができましたでしょうか? もしかしたら、弟子たちは自分が裏切り者であり、失敗者であると自責していたかもしれません。今日の新約本文では、そのような弟子たちに再び現れ、慰め、力をつけてくださったイエスの愛を覗き見ることができます。
1. ガリラヤ湖畔でご自分を現わされたイエス
「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。」(ヨハネ福音21:1)「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(ヨハネ福音21:14)今日の本文の始まりと終わりには「イエスが··· 現わされた。現れた。」という言葉があります。ここで「現わす。現れる。」は、ギリシャ語の「ファネロー」を訳した表現です。この言葉は「明白に現れる」という基本的な意味を持っていますが、単純に「隠れた何かが現れる。」みたいな物理的に現れることではなく、より深い意味を持っています。例えば、ローマ書1章19節「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」(ローマ書1:19) この言葉の中で「明らかだ」「示された」という表現が記されていますが、日本語の聖書には「現れる」「明らかだ」「示される」など、それぞれ異なる表現で書いてありますが、ギリシャ語では全て同じ「ファネロー」をベースにしています。このように「ファネロー」は神の啓示や御業を示すニュアンスの言葉として使われます。主イエスが現れられたのは、ご自分を裏切った弟子たちへの罰のためではなく、主の福音を世に宣べ伝え、主のための人生を生きる、新たな機会をくださるために、啓示のような意味としての行動だったのです。
私たちは主イエスに直接会い、目で見て、手で触って、口で話してから信じるようになったわけではありません。しかし、私たちはイエスが御言葉によって、ご自分のことを明白に示されたということを信じています。主がご自分のことを示してくださったから、私たちはイエスを主と認め、主を中心に教会を成すことができるのです。聖書は語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) 聖書は神の子イエス•キリストがすなわち神の御言そのものであると証します。ここで御言を意味するギリシャ語「ロゴス」は神の御心とも言えます。神は主の御言、主の御心そのものである御子イエス•キリストに肉体を与え、人々の間に遣わしてくださいました。だから、イエスが私たちに現れてくださったのは、神の「啓示」だとも言えるのです。この神の啓示は世のすべての人々に当たり前に示されるものではありません。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」(ヨハネ福音書1:10) ひとえに主に選ばれた者だけにご自分を現わされ、啓示を知ように導いてくださるのです。復活されたイエスは失敗した弟子たちの前に「現れました」。そして、もう一度、主の弟子として生きるように特別な恩寵をくださいました。それは弟子たちを使徒らしく生まれ変わらせる主の啓示そのものだったのです。
2. ガリラヤに訪れたイエス
「イエスはティベリアス湖畔で」引き続き、ヨハネ福音21章1節の言葉を見ると、ティベリアス湖という言葉がありますが、これはガリラヤ湖の別の名です。(ガリラヤ湖の北西のティベリアスという町に影響を受けた。)イスラエルがアッシリアとバビロンに滅ぼされた後、イスラエル北部地域では異邦人との混血が生じたため、捕囚から帰ってきた純血ユダヤ人に認められない地域でした。ということで、ガリラヤ地域の人々は差別されていました。エルサレムがメージャーなら、ガリラヤはマイナでした。ところで、なぜ、エルサレムでイエスと一緒にいたペトロと弟子たちは、ガリラヤに帰ってしまったのでしょうか? イエスは彼らにご自分のこと、すなわち福音伝道の使命を与えてくださるために、3年間苦楽を共にしながら教えてくださったのにでしょう。エルサレムにそのまま残って、主のお働きを受け継いで活動すべきだったのではないでしょうか? もしかしたら、ペトロはイエスを裏切ったという罪悪感のため、すべてをあきらめてガリラヤに帰ってきたのであるかもしれません。ということで、私はエルサレムからガリラヤへの帰郷に、ペトロの挫折と悲しみが潜んでいるのではないかと思いました。「イエスを裏切ったのにどうして主の弟子として生きられるのか?」というペトロの挫折と悲しみでしょう。
イスラエル社会のメジャーであるエルサレムを離れ、マイナーであるガリラヤに帰ったということから、ペトロの気持ちをかいま見ます。しかし、主イエスはペトロと弟子たちを探してガリラヤに来られました。主なる神はメジャーだけを好まれる方ではなく、ご自分の民のためなら喜んでマイナーに向かって行かれる方です。罪人の救いために栄光の天の玉座を捨て、みじめな地上にまで来られたことからも分かります「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(ヨハネ福音21:9) 主はペトロと弟子たちに「パンと魚」の朝食を準備され、ペトロが罪悪感から自由になるよう慰めてくださいました。聖書学者の中には「パンと魚」が聖餐を意味すると解釈する人々もいます。聖餐を通して、キリスト者は自分がイエスに属する存在であることを確認します。もしかしたら、ペトロはその日の朝、「パンと魚」による聖餐を通して、自分が誰に属している存在なのかを再確認したかもしれません。イエスは赦してくださる方です。それによって、もう一度再出発する機会と力を与えてくださる方です。
3. 失敗した者を助け起こされるイエス
イスラエルの神の預言者であるエリヤは偶像を崇拝する北イスラエルのバアルとアセラの預言者たちと対決して勝ち、彼らを皆殺しました。それは主なる神の恐ろしい裁きでした。ところが、北イスラエルの王アハブと王妃イゼベルは、神の裁き恐れずに、エリヤを絶対に殺すと警告します。そのため、エリヤは神も恐れず、自分を殺そうとする彼らを避けて荒野に逃げました。そして、彼はそこで死のうとしました。自分が失敗したと思ったからです。しかし、神は御使いを遣わされ、彼を慰めてくださいました。「彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。起きて食べよ。見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだと言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。」(列王記上19:5-8) 私は今日の新約本文から、この旧約の本文を思い出しました。
私たちは、主なる神についてどう理解していますでしょうか? 毎週、教会に出席し、長年、説教を聴いていますが、本当に主が自分と近い方、自分を愛しておられる方という認識を持っているでしょうか? 罪を犯すと怒り、悔い改めなければ罰を下される怖い方、近寄りがたい方と思ってはいませんか。しかし、基本的に主が私たちを愛し、私たちが幸せに生きることを望んでおられる方だという信仰を持って生きるべきです。もちろん、主は正義の方ですので、罪を憎み、悪を嫌い、悔い改めない者を裁かれる方です。しかし、キリストによって救われた者たちには、もう一度悔い改めさせ、再び始めさせて、長い忍耐と愛とで待ってくださる方でもあります。改革派神学にはカルバン主義5大箇条というものがありますが(これについては次の機会に取り上げたいと思いますが) その中に「聖徒の堅忍」という項目があります。これは、主なる神は変わらない忍耐で主の民が人生を終えるまで、繰り返し罪を赦し、力を与えて導いてくださるということです。主は失敗した者を、決して見捨てられず、最後まで共に歩み、主のみもと暮らせるように助けてくれる方だからです。
締め括り
今日の新約本文のように、主のお赦しを受けたペトロは、主イエスの昇天後、初代教会の指導者として立派に福音を伝えました。そして、晩年には逆さまの十字架にかけられ、殉教します。彼は、死ぬまで決してイエスを裏切る人生を送っていませんでした。かえって、死を覚悟して主と教会に仕えながら生きました。彼の人生の変化に、赦し、慰め、力づけの主イエスの恵みがあったからではないでしょうか? 父なる神は主イエス・キリストを通して、今日も私たちの人生を見守っておられます。そして、私たちが失敗した時に叱らず、再び立ち上がることができるように助け、待ってくださいます。この失敗者に恵みを与えてくださる神のご恩寵を憶えながら生きる私たちでありますように祈り願います。