コリントの信徒への手紙一15章20-24節(新321頁)
前置き
主イエス•キリストの復活を喜びたたえます。この世のすべてを病ませ、滅ぼす死の権能に打ち勝ち、真の生命と永遠の喜びを与えてくださるために復活された主イエス•キリストの愛に感謝します。今日、主の復活を記念するために、ここに集っておられる皆さんに復活のキリストによる神の永遠の愛と恵みが豊かに注がれますように祈り願います。
1.復活の初穂
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(1コリント15:20) 今日の本文はイエスが眠りについた人たち、すなわち死者の初めての実になってくださったと語ります。ここで初穂という言葉が出てきますが、イエスの復活のみが有意義な本当の復活であるという比喩としての表現です。おそらく、これは、主イエスが十字架で亡くなられる何日前、弟子たちに言い残された言葉に由来するものだと思います。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:24) イエスの死はこの世のすべての人が体験しなければならない終わりとしての死ではありませんでした。すべての人の生涯は、死によって終わります。死後、誰も二度と愛する人たちに会うことができず、誰も自分がどこに行くのかが分からず、誰も死を飛び越えて帰ってくることができません。そのため、人は死を恐れ、できるだけ長生きすることを願います。しかし、イエスの死は、そのようなただの終わりではありませんでした。むしろ、イエスは死に呑み込まれず、父なる神の御恵みによって、死を乗り越え、復活されました。さらにイエスはご自分ひとりだけ、再び生き返られるのではなく、主を信じるすべての民にご自分の永遠な生命を分け与えてくださる生命の主として復活されたのです。
古代のイスラエル人は、種の芽生える過程を科学的に理解していませんでした。 彼らは種が地面に撒かれると死ぬと考えました。しかし、その種の死によって、数多くの新しい実が結ばれると思うだけでした。主イエスは数多くの実を結ぶために、進んで地面に落ちて死ぬ一粒の種のように、より多くの人に真の生命を与えてくださるために十字架にかけられ亡くなりました。しかし、イエスはそのまま死に消えてしまったわけではなく、復活してご自分を信じる者たちをまた別の実として復活するように招き、生命を与え、民にしてくださいました。この主イエスを信じて自分の主にした人はイエスによって2番目の実として呼び出された者なのです。主イエスを知る前は、ただ死を恐れていましたが、今では、その死が終わりではなく、新しい始まりのための死であることを知っています。私たちにおいて、一度の死は絶対に訪れてきます。しかし、それによって私たちのすべてが終わりになってしまうわけではありません。イエス•キリストが復活され、その方が生きておられるかぎり、その方の2番目の実として招かれた私たちは、永遠の生命の中におり、イエスがこの地に再び来られる終わりの日になれば、私たちはその方がくださった生命によって新しく復活するようになるでしょう。
2.アダムによる死、イエスによる生命
「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント15:21-22) 本文はアダムとイエスを比べることによって、なぜ、私たちにイエス•キリストが必要なのかを簡潔に説明しています。今日の本文には、突然、アダムという旧約の人物が出てきます。なぜ、いきなり、何の関係もなさそうなアダムが登場するのでしょうか? 新約聖書ローマ書はこう述べています。「しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」(ローマ5:14) ローマ書はこの世に死が入ってきた経緯が初めての人間だったアダムの罪のためだと語っています。そして、彼の罪によって、アダムの子孫にも罪の影響が及ぼされ、この世のすべての人間が生まれつき罪人となり、また、その罪によって絶対に死ぬしかない存在となったと証しているのです。ところで、初めての人間アダムの罪と私自分の死には、何のかかわりがあるでしょうか? 聖書は「罪が支払う報酬は死である。」つまり、罪の結果は死だと語っています。私たち人間は罪人アダムの子孫として生まれたため、その罪に縛られているということです。悔しいが、聖書はアダムから始まった罪の影響が、相変わらず私たちの人生を支配しており、そのため、私たちも結局罪人として生まれ、罪人として死ぬしかない運命だと話しているのです。
ライオンは生まれた時からライオンです。いくら草を食って生きようといっても、ライオンは草を食っては生きることが出来ません。リンゴの木は種の時からリンゴの木です。リンゴの木にブドウが結ぶことはあり得ません。罪人アダムの子孫である私たち人間は生まれつき罪人であります。したがって、人間自らが「自分はアダムの子孫でもなく罪人でもない。」と言っても、人間が最初からアダムの子孫として罪を持って生まれたという事実は変わりません。だから、人間は、精一杯努力しても人間として生まれた以上、自分にある罪の痕跡を消すことができず、その罪のため、知らず知らずのうちに罪を犯してしまう惨めな存在なのです。それは自力ではどうにもならない呪いのようなものです。しかし、今日の本文は述べています。「アダムによって罪人となり、死ななければならない私たちでも、キリストによって贖われれば、永遠の生命を得、復活するようになるだろう。」アダムを罪人とお定めになった神(御子)は、そのアダムの罪を赦してくださるために自ら人間になられました。そして、その罪の償いのために自ら十字架の上で命を捨てました。しかし、主は死に負けず、新しい生命のために死に打ち勝ち、復活されました。神が人になって罪人のために亡くなった理由は、自ら人になってまで罪人を愛してくださったからです。初めての人間アダムの失敗を自ら人間になられ、成功にまで導かれた神の愛、イエスの復活はアダムの失敗を成功に変え、どんなことがあっても罪人を救おうとされた神の愛の極みなのです。
したがって、復活は罪人を新たにして正しい人に認めてくださる神の愛の象徴です。もちろん、文字通りにイエスを信じる者たちは、後々、死を乗り越えて完全な姿で復活するでしょう。しかし、復活は遠い将来の出来事だけの意味ではありません。私たちは罪人として生まれたが、私たちが信じる復活したイエスによって正しい人と見なされています。私たちは罪から完全に自由ではない状態で生きていますが、私たちの主イエスはすでに罪から完全に自由になったお方ですので、その方の民になった私たちも罪赦され、毎日、新しく始める機会を今でも得ています。そのため、キリスト者は毎日復活しています。毎日悔い改め、贖われることができるからです。だから、キリスト者は、すでに復活の中に生きる存在です。この地での私たちは罪から完全に自由ではありませんが、神はキリストによってすでに私たちを罪から自由になった存在だと見なしておられます。ということで、キリスト者は、もうこれ以上死を恐れる必要がありません。復活に生きる私たちは、主イエスの再臨の日、必ず主のみもとで復活するようになるでしょう。その日が来れば、復活した私たちは悲しみと苦しみから永遠に解放され、主と共に生きるでしょう。これが私たちキリスト者が持っている希望、まさに復活の信仰であるのです。
締め括り
年に一度、私たちはイースター礼拝を通して、主イエスの復活を記念します。しかし、今日だけがイースター(復活節)だと思わないでください。キリストのみもとにいる私たちは、毎日を復活の日として生きている存在です。今日、罪を犯してもキリストの恵みによって赦され、再び新しい明日を始めることができます。今日失敗しても、明日はキリストによって墓からよみがえった人のように新しい人生を始めることができるのです。だから、毎日毎日、主イエスの恵みを憶え、感謝し、新しい人生を生きるように希望を持って歩んでいきましょう。私たちはすでに復活のもとにいる存在です。その信仰によってイエス•キリストに倣って生きていきたいと思います。