詩編57編6節 (旧890頁)
ヨハネによる福音書12章20~26節 (新192頁)
前置き
今、私たちは、レントの5週間目を過ごしています。12日後には主イエスの苦難を記念する受難節の聖金曜日を迎え、2週間後には主の復活を記念するイースター礼拝を守るようになります。罪人の救いのために贖いを成し遂げ、罪によって汚されたこの世を新たにしてくださるために、ご自分の貴い命を惜しげもなくささげられた主イエスの恵みを憶え、残りのレントを慎み深く、謙虚に過ごしてまいりたいと思います。
1.栄光を追い求める者たち
「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、お願いです。イエスにお目にかかりたいのですと頼んだ。」(ヨハネ福音12:20-21) ヨハネによる福音書12章は、イエスが十字架にかけられる約一週間前の物語です。12章以前、主イエスはイスラエルの各地を巡回されながら、福音を宣べ伝え、弱い者たちを癒し助け、御言葉を教えてくださいました。そのような活動の中に、病人が癒され、死者がよみがえるなど、特別な奇跡もありました。それらによって、多くの人々がイエスの活動と奇跡のため、主イエスには特別な何かがあると思うようになりました。主イエスは純粋な心で、そして、神の御心に従って、弱者を助け、御言葉を伝えられましたが、ある人々はそのイエスの活動について行き、イエスと一緒なら割り前をもらえるだろうと思ったかもしれません。実際、主の弟子の中にもそのような思いで加わった人もいました。主イエスの御心とは関係なく、イエスを通じて利益と名誉と権力を握ることができると思う人々がいたわけです。奇跡を行い、他人と違う特別さを持っておられたイエスが、もうすぐ大きな影響力を振るう人になり、イエスに従う自分たちにも特別な権力と名誉、そして財物がついてくると誤解したわけです。
ところで、イエスの奇跡と活躍が噂となってイスラエル全域に広がったためか、イエスがエルサレムに入られる時、数多くの人々がなつめやしの枝を持って歓迎しました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ福音書12:13) 今日の本文によると、イスラエル人だけでなく遠くのギリシャから来た人々もイエスに会うことを願って訪ねてきたようです。彼らは異邦人ですが、ユダヤ教に改宗した人々でした。彼らはイエスを旧約聖書に記してあるメシアではないかと思って会おうとしたでしょう。ユダヤ人、異邦人を問わず、多くの人々がイエスの奇跡と活動によって、栄光のメシアを期待して、主に近づいてきたのではないかと思います。人々はイエスのこのような奇跡と活躍による人気が、イエスの栄光だと思いました。そして、いつか、イエスがイスラエルの王になると思っていました。ローマ帝国から自由になり、再びダビデの王国のような強力な国を打ち立てるだろうと誤解したわけでしょう。人々が思う栄光とは、輝かしくて美しい何かです。イエスの栄光によって、自分も栄光を受けるためにイエスに従う人も多かったでしょう。何かを得るためにイエスを信じることは望ましくありません。イエスを用いて栄光を得ようとすることはなおさらです。私たちはイエスを通して何か良いものを得るために信じているのではないでしょうか?
2.キリストの栄光
しかし、私たちは、主イエスが十字架にかけられ死んでくださったことをすでに知っています。イエスは決して人々が思う栄光をすぐには得られないでしょう。主は必ず十字架で死ぬことになるでしょう。それが、父なる神がお定めになった救いの計画なのです。主イエスが十字架で死んでからこそ真の贖いが成し遂げられ、それによって父なる神の御心が成就し、次の段階(罪人とこの世の救い)に進むことができるからです。「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:23-24) 多くの人々が栄光のイエスに会うためにイエスをほめたたえました。遠いギリシャから来た改宗した異邦人たちもイエスの栄光を見ようと会うことを望んでいました。しかし、イエスは彼らの心とは全く違うことを言われました。以上の本文を意訳するとこうなります。「私は一粒の麦のように死ぬだろう。しかし、私の死によって数多くの実が結ぶようになるだろう。それがわたしの栄光である。」人々がイエスの輝かしい栄光を期待した時、イエスはご自分の栄光は死ぬことだと宣言されたのです。しかし、ただ死ぬのではなく、その死によって、より多くの罪人が救われる有意義な死でした。つまり、イエスの栄光は十字架での死にあったのです。
主イエスの栄光は、逆説的な栄光です。生き延びるとしての栄光ではなく、すすんで死ぬ栄光です。高くあげられる栄光ではなく、低い底に向かう栄光です。キリストの栄光が持つ意味は、誰かに君臨して高まる輝かしい何かではありません。以前、皆さんに話したことがありますが、聖書が語る栄光は「輝かしい何か」ではありません。「ある存在が最もその存在らしい姿であること」が聖書的な光栄です。創造主である神は被造物に礼拝される時に栄光を受けます。神はすべての被造物に礼拝されるために創造を成し遂げられた方だからです。主イエスが受肉された理由は、十字架で贖いの死を成し遂げ、罪を赦し、悪の権勢を打ち砕いて新しい天と新しい地をもたらしてくださるためです。ということで、イエスの死はイエスの栄光になります。十字架の死のために聖肉された方だからです。だから、逆説的な光栄なのです。その死によって主イエスのお務めを全うされた時、父なる神は主イエスを復活させられ、その後イエスにこの世を統治する王としての真の栄光を与えてくださいました。
3.私たちの栄光
それでは、私たちが求めるべき栄光は何でしょうか? 私たちの栄光についてのヒントは、今日の本文の25,26節に書いてあります。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ福音12:25-26) イエスのおかげで輝かしい何かを得ることが、私たちの栄光ではないと聖書は語ります。上記の本文に書いてある言葉をよく考えてみましょう。「自分の命を憎む者」もちろん、これは自分の命を本当に憎めという意味ではありません。ここで言う命は否定的なニュアンスを持っています。自分の欲望、自分の有益だけを追い求める姿を意味すると言えます。 私たちは主なる神の御心をわきまえて、自分の欲望を盲目的に追求してはなりません。「主に仕えようとする者」 主に仕えるということは、その方の生き方に倣って主に聞き従って生きることです。具体的に言うと、神と隣人を愛することであり、主イエスの御言葉に従って生きることを意味します。つまり、自分の欲望を節制し、主イエスの生き方に倣い、聞き従って生きることこそ、キリスト者の真の栄光です。聖書は、そのような人生を生きる者を父なる神が大切にしてくださると語っているのです。
締め括り
先ほど、私は聖書が語る栄光の意味について「ある存在が最もその存在らしい姿であること」と言いました。キリストの贖いと救いによって、主の民となった私たちは、もはや、自分自身の奴隷ではなく主イエスの民と生まれ変わったことを常に憶えて生きていくべきです。主イエスの民にとっての栄光は「主イエスの民として、主の御言葉に聞き従い、主の御心をわきまえて、神と隣人を愛して生きること」です。それが主なる神が望んでおられる私たちのあり方であり、それこそが、この世を生きる私たちが求めるべき栄光の実体なのです。レントの期間がもうすぐ終わります。私たちは自分の栄光とは何であるか、顧みながら、この時を過ごすべきです。主イエスが教えてくださった私たちの栄光を心に留め、主の御言葉に聞き従い、主に倣って生きる私たちでありますように祈り願います。