民数記21章4~9節 (旧249頁)
ヨハネによる福音書3章14~21節 (新167頁)
前置き
今日は、レント第4主日です。罪と死の権能を打ち砕き、罪人とこの世をお救いくださるために苦しみ、十字架にかけられた主イエス·キリストをほめたたえます。苦難の十字架を背負って死に、罪人の贖いを成し遂げてくださったイエス·キリストは、また、罪人の永遠の生命と救いのために復活してくださいました。今日はイエス·キリストの御救いについて話してみましょう。
1.救いについて考える。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ福音書3:16-17) 聖書には必ず覚えておくべき大事な聖句がいくつもありますが、この言葉のようにキリストの福音のエッセンスを明確に示す言葉はないと思います。私たちは、この言葉から3つの点を確かめることができます。一つ、主はこの世を愛される。二つ、主はその愛のためにこの世に独り子を遣わしてくださった。三つ、主が独り子を遣わされた理由は、この世が救われるのを望んでおられるからだ。私たちは、ここで「世」と「救い」について考えてみる必要があります。本文の「世」は、地球という限られた世界を意味するものではありません。コスモスという言葉をよくご存知だと思いますが、コスモスはギリシャ語に由来した言葉で「秩序、調和」を意味し、より広くは「世、世界、宇宙、そこの住人」という意味にもなります。今日の本文の「世」は、このギリシャ語のコスモスを訳した表現です。旧約聖書の創世記によると、主なる神が創造されたコスモス(世)は「秩序と調和の完璧な世界であり、そこにあるすべての存在」でした。
しかし、最初の人は、欲望によって、主なる神を裏切り、罪を犯して堕落し、主と敵になってしまいました。そして、主が人にくださったこの世全体も、それにつれて、汚されてしまいました。主なる神のコスモス、つまり秩序と調和の世が人の罪のため、汚されてしまったのです。それでも、主は人と世を見捨てられず、その後もずっと愛してこられました。そして、時が満ち、人と世を救ってくださるために独り子を遣わされました。独り子がご自分の命を身代金として償い、人と世を救ってくださるためです。救いとは、この汚されたコスモスを新たにし、再び、主なる神が創造された完全な秩序と調和によって、生まれ変わることです。何よりも、コスモスの中心である人間を赦し、再び主と和解できるようにすることです。主なる神の反対側にいた罪人を主の味方として招いてくださる愛の成就なのです。救いは、単に死んで楽園に入るくらいのレベルではありません。御子イエス·キリストによって人の罪が赦され、それによってこの世で真の人間らしく生きることです。神は主イエス·キリストを通して、人間が罪赦される道を備えてくださいました。そして、主イエスが再臨される終わりの日、人間と世を完全に新しく再創造してくださるでしょう。 それが救いの本当の意味なのです。
2.唯一の救いの対策
したがって、イエス·キリストは、人とこの世を罪から自由にならせてくださる神のお贈り物なのです。罪によって汚された人と世は、自力で罪の影響から抜け出すことができず、清くなることもできません。だから、主なる神はその罪を赦し、人と世を罪から清めてくださるために、唯一の存在、主イエスを遣わされたのです。今日、聖書は語ります。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ福音書3:18)この文章だけ読めば、キリスト教の信仰は、非常に独断的に感じられます。世の中に数多くの宗教があり、信仰があり、キリスト者より善良に生きる人もいるのに、ひたすらイエスのみに救いがあるということかと、批判されやすいです。しかし、先に申し上げましたように、救いの意味が死んで楽園に入る意味だけでなく、それを越えて唯一の神と和解することだとすれば、当然、この神が与えてくださったイエス·キリストだけが救いのための唯一の対策になるでしょう。聖書によると、主なる神はイエス以外に和解の手立てをくださったことがないからです。重要なのは、他宗教の人、善良な人の死後のことを私たちが、勝手に判断する必要がないということです。それは神の事柄です。私たちは、ただ自分に与えられた聖書の言葉だけに耳を傾け、イエスを自分の救い主と信じ、その方のみに集中して生きれば良いでしょう。
新約本文でイエスはこう言われました。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3:14-15)永遠の命を得るという意味まで説明すると時間が足りませんので、先に申し上げました救いの概念とほとんど同じことだと理解してください。今日の本文、旧約聖書の民数記21章には、以下のような物語が出てきます。イスラエルの民がエジプトを脱出した後、旅路があまりにも苦しくて神を恨みました。それは、ただの文句ではなく、神に逆らう反発でした。そこで、神は罰として炎の蛇(おそらく、荒野のマムシ)を送られました。そのため、蛇にかまれた多くのイスラエルの民が死ぬことになりました。しかし、モーセは民のために主に祈りました。すると神は青銅でできた蛇の形の像を造り、旗竿の先に掲げることを命じられました。そして、青銅の蛇を見れば生きるだろうと言われました。神の御言葉通り、その蛇の像を見た人々は皆癒され、生き延びることが出来ました。主なる神はイスラエルの罪を裁かれましたが、その裁きから避け、救われる手立てを与えてくださったのです。それは、いかなる特別な行為や努力ではなく、神の御言葉通りに青銅の蛇を見ることでした。主イエスの十字架は、私たちにとって、その青銅の蛇像のようなものです。自分自身の救いのための行為や努力ではなく、主なる神が備えてくださった救いの対策である十字架のイエスに頼り信じることです。
3.十字架にかけられたイエス
したがって、十字架は、主なる神が遣わされた唯一の救い主イエス·キリストを思い起こさせる救いの象徴なのです。ただし、十字架が私たちを救うわけではありません。そのため、プロテスタント改革教会の中には、十字架を偶像化させないために教会堂に十字架もかけておかない場合がありました。大事なのは十字架というある物体ではなく、十字架にかけられ死に、再び復活された主イエス。ローマ帝国の呪いと刑罰の象徴である十字架を神の愛と救いの象徴に換えてくださった主イエス·キリストにあります。民数記で神に逆らった民が自分たちの治療や努力や行為で癒されたのではなく、神が命じられた青銅の蛇を見ることで癒されたように、この時代を生きる罪人が自分の行為と努力では、得ることのできない救いを、イエス·キリストの救いと恵みによって受けられるように、イエス·キリストの御救いの象徴として十字架を与えてくださったわけです。主なる神の独り子イエスは、私たち罪人が救いを得ることが出来るように十字架にかけられ、死んでくださったのです。そして、三日後、復活してくださいました。私たちの罪はキリストと共に十字架で死に、私たちの救いはキリストと共に復活したのです。今や私たちは主イエスによって、神と和解し、神を恐れる存在ではなく、神を愛する存在として生まれ変わりました。十字架は、今日もそのイエスの御救いの成就を私たちに証しているのです。
締め括り
私たちは、毎年レントを過ごし、主イエスの苦難、死、復活、贖い、赦し、すなわち御救いに関わる話をします。何十年もこの話をしてきました。いや、教会は2000年以上、この救いの話しを続けてきました。もしかしたら、長年、キリスト者として生きてきた私たちには、あまりにも日常的の話であるかもしれません。しかし、キリストの救いは、人間が決して見過ごしてはならない大事な出来事です。この世での私たち人生のみならず、私たちが亡くなっても、そして、イエスが再臨して復活する日と、その後までも、キリストの救いは私たちの人生において最も重要な出来事として残るでしょう。私たちの努力と行為ではなく、キリストの贖いが私たちを新たに生まれ変わらせました。そして、主なる神の子供として永遠に生きていく原動力になりました。そのキリストの救いと十字架の意味を憶え、悔い改めと感謝の一週間を過ごしますよう祈り願います。