創世記17章1~8節 (旧21頁)
ローマの信徒への手紙4章13~25節 (新278頁)
前置き
私たちはレントを過ごしながら、なぜ、イエス·キリストが罪人の救いのために十字架にかけられ、死んでくださらなければならなかったのかについて深く黙想する必要があります。なぜ、主なる神はご自分の一人だけの息子を、罪人の贖いのいけにえとして死に至らせ、その代わりに罪人を救い、ご自分の子供にしてくださったのでしょうか? 罪によって主なる神の敵となった私たちを赦され、ご自分の養子に迎えるために一人だけの実の息子を死へと導かれた主なる神の御心は、私たち人間には到底理解できない、計り知れないものであります。ところが、主なる神がそこまでなさった理由を、私たちは今日のローマ書の言葉を通じて推測することが出来ると思います。それは罪人を救い、神の相続人として立ててくださるためです。そして、それは信仰の父であるアブラハムと結ばれた約束を守ってくださるためです。今日は主なる神の救い、主イエスの贖い、そして、神の相続人になるということについて話してみたいと思います。
1。神の相続人となる。
今日の新約本文でも、旧約本文でも強調する2つの言葉があります。それらは「アブラハムと子孫(相続人)」です。聖書はアブラハムを「信仰の父」と言います。彼が常識的に不可能と感じられる主なる神の約束(アブラハム夫婦が高齢であるにもかかわらず、主なる神が相続人になる息子をくださるという約束)を不信せず、主ならお出来になると信じたので、主なる神に信仰の人、すなわち正しい人として認められたからです。そして、主はその約束どおりにアブラハムの100歳の時、息子イサクをくださり、孫ヤコブを通してはイスラエルという民族も打ち立ててくださいました。創世記15章5節で主はアブラハムにこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」という約束のように、主は以後イスラエル民族というアブラハムの子孫を造られ、さらにアブラハムの子孫イエス•キリストを通して新約時代の教会をも打ち立ててくださいました。したがって、アブラハムの子孫であるイエス•キリストの身体となった私たち(教会)は、アブラハムの霊的な子孫として認められています。アブラハムの霊的な子孫という意味は、このアブラハムの霊的な相続人であるという意味でもあります。
そして、これは単にアブラハムの相続人になるに止まりません。 ローマ書はこう述べています。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ書8:10,14,17) 誰かの子孫とは、その誰かの相続人でもあるという意味です。この相続人とは、単に財産を受け継ぐ人だけの意味ではありません。先祖の血統、思想、価値観、信念などを受け継ぐことも相続だと言えます。私たちは、アブラハムが信仰によって義とされたことを知っています。そして、その信仰によってイスラエル民族が打ち立てられ、そのイスラエル民族から信仰の主であり救い主であるイエス•キリストが来られたことを知っています。私たちはそのイエス•キリストの体なる教会です。したがって、私たちはキリストを通じてアブラハムの信仰を受け継いだ、アブラハムの相続人です。私たちをアブラハムの相続人とする信仰はイエス•キリストの霊である聖霊によって私たちに与えられた賜物なのです。ところで、驚くべきことは、ローマ書はその聖霊によって信仰を持つ者がアブラハムの相続人を超え、神の相続人にもなると語っています。
2.神の相続人となるという言葉の意味
ヨハネの黙示録22章は、こう述べています。「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(黙示録22:3-5) キリストの民、すなわち神の相続人となった者は、最後の審判の時、主と共に永遠に統治するようになるという予言です。つまり、主なる神の民は神の相続人として真の王であるその方と共に永遠の王権を享受するという意味です。初めの時、主なる神は創造の最後の段階として人間を造られ、世界を治める権限を与えてくださいました。つまり、主なる神は、すべての被造物を最初の人間という相続人に任せてくださったのです。しかし、最初の人間はそれに満足せず、主なる神の座をむさぼり、堕落してしまいました。その罪によって神の相続人としての権限を失った最初の人間は、神の呪いの下にいる存在となります。堕落によって神の相続人としての権限を失った人間は、罪による悲惨な呪いの苦しみの中に生きることになります。いくら財物を集めても、名誉を積んでも、権力を握っても、彼らの人生は結局永遠の死に帰結します。
この世では王や貴族のように生きても、死後、神の裁きの下で罪と死の奴隷となって永遠の苦しみの中に生きなければなりません。そのような罪と死の奴隷のような人間は、自力でその恐ろしい裁きから抜け出すことはできません。さらに恐ろしいのは、権力者や金持ちだけでなく、貧しい人も、そのような裁きから逃れることができないということです。彼らはこの世でも苦しい生活をしたが、死後でも、それ以上の苦しみを経験しなければならないからです。しかし、主なる神は人間に下された永遠の呪いと苦しみを、ただ楽しまれる方ではありません。神は初めての人間を創造された時「極めて良かった」と言われました。主なる神は人間を愛しておられるのです。そのため、神は人間に再び神の相続人としての権限を与えてくださるために、人間の罪に代わる贖罪のいけにえを立てられました。その方が神のひとり子イエス•キリストであり、神は人間が受けるすべての苦しみと悲しみを十字架で、ひとり子イエスに担わせられました。そのひとり子の命の償いによって人間の罪は赦され、彼らを再び神の相続人という名誉を回復させてくださいました。もはや、私たちは神の相続人として永遠な死の恐怖から抜け出し、神と共に永遠に生きる真の平和と喜びに生きることができます。キリストによって、私たちは神の相続人となったからです。
3.神の相続人は行いではなく信仰によって定められる
今日の旧約本文を見ましょう。「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」(創世記17:6-7) 神はアブラハムに一方的な恩寵を与えられ、ご自分の民にされ、またアブラハムの子孫にも祝福を与えられると約束してくださいました。そして、アブラハムはその約束を堅く信じました。アブラハムが神に祝福をいただいた理由は、彼の行いが完璧だったからでも、彼が神の御心に適う優れた人だったからでもありません。主なる神が一方的に彼を選ばれ、祝福を約束され、アブラハムはそれを信じただけで、神の祝福は実現されたのです。これに対して、今日の新約本文は次のように証言します。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」(ローマ書4:13) この言葉によって私たちが分かるのは、イエス•キリストを信じる信仰によって救いを得るということです。もう一度、繰り返しますが、主なる神が私たちをご自分の相続人にしてくださった理由は、私たちに優れた何かがあるからではありません。私たちの立派な行いによるものでもありません。神がお定めになった祝福の源、アブラハムの子孫、神のひとり子、主イエス•キリストを私たちの真の救い主と信じて、その方の体なる教会になったからです。
締め括り
イエス•キリストが苦しみを受けられた理由は、神の真の相続人であるご自身が贖いのいけにえになって罪人を救い、その罪人にご自分の功績による神の子としての資格を与えてくださるためでした。私たちは、自分自身の救いのために、たった 1% の貢献もしたことがありません。私にはできないが、イエス•キリストならお出来になるという信仰によって、私たちは救いを得たのです。ですので、私たちが神の相続人になったのは、すべてがキリストの恵みによるものです。昨日も、今日も、明日も、私たちは自分の本性と罪の性質から自由になることが出来ません。しかし、神が人類の救い主として定めてくださったキリストが、いつも私たちと共におられ、私たちを守り、神の相続人として生きるように執り成してくださいます。それを信じることによって、私たちの神の相続人としての権限は永遠に続くようになるのです。レントはそのイエスの愛を憶える期間です。私たちの主が私たちに神の相続人という祝福を与え、保たせてくださるために、私たちに代わって苦難をお受けになったことを憶える一週間でありますよう祈り願います。