ヨハネによる福音書15章1~17節(新354頁)
1.私は··· である。
新約聖書のヨハネによる福音書には、イエス・キリストの7つの自己宣言があります。それらは「私は···である」という表現を基本にします。ヨハネによる福音書でイエスは6章から15章にかけて「①私は命のパンである。(6:35) ②私は世の光である。(8:12) ③私は羊の門である。(10:7,9) ④私は良い羊飼いである。(10:11) ⑤私は復活であり、命である。(11:25) ⑥私は道であり、真理であり、命である。(14:6) ⑦私はまことのブドウの木である。(15:1,5)」と宣言されました。ここで「私は···である」という表現の意味について考えてみたいと思います。私たちは自分という存在を定義する時、「私は誰である。」と言います。「私は日本人だ。私は会社員だ。私はキリスト者だ。」などで自分という存在を表します。「私は···である」という表現によって、自分を知らなかった人々が知るようになり、自分自身も自らへのアイデンティティを確立するようになるのです。ですから、自分が誰なのかを言うことは「自分」という存在を明らかにする、とても重要な意味を持ちます。旧約聖書の創世記3章で、主なる神はエジプト帝国の奴隷だったイスラエル民族を、神が示してくださる乳と蜜の流れる土地に導かれるために指導者をお選びになりました。彼がモーセでした。モーセが初めて神に出会い「あなたはどなたですか?(あなたの名は何ですか。)」と問うた時、主は言われました。「私はある。私はあるという者だ。」主なる神もご自身を紹介される時、「私は···である。」と言われたのです。
ところで、私たち人間が言う「私は···である」と神が言われる「私は···である」には大きな違いがあります。私たちは家族の影響や社会での地位(位置)によって「私は···である」と成り立たせられてきました。しかし、神は、この世の、どんな存在からも影響を受けることなく、自らを「私は···である」と定義されたのです。私たちの名前は家族につけてもらい、私たちの地位は日本という社会の中で成り立ってきました。しかし、神は誰からの助けも影響もなく、自らご自分の存在をお定めになったのです。「私はある。 私はあるという者だ。」という多少文法に合わないような表現は、意訳すると「私は私自身である。あるいは、私は自ら存在する者である」と言えます。これはヘブライ語では「エフエ・アシェル・エフエ」ギリシャ語では「エゴ·エイミー」を翻訳した表現です。神は自らご自身のことを定義された方です。他者の影響を決して受けておられない方です。神がご自身のことを自ら定義されるということは、神が世の中のすべてのものが出来る前からおられた存在という意味です。つまり、神は創り主であるという意味です。また、神がご自身のことを自ら定義されたということは、他者の影響なしで自ら判断される方、つまり、審判者であるということです。神が言われた「私は···である」とは、神こそが全ての上に立っておられる「絶対者である」ということを明らかに示す神的な宣言なのです。
だから神が「私は···である」と言われたのは「創り主、審判者、絶対者」であるという意味になるのです。今日の本文で、イエス・キリストは、この「私は···である。」という意味のギリシャ語「エゴ·エイミー」を用いて「私は(まことのブドウの木)である」と言われたのです。主イエスがご自身のことを神として定義されたということです。先ほど申し上げましたが、イエスはヨハネによる福音書で、7回ご自分について宣言されました。神であるイエスが「私は···である」つまり「エゴ·エイミー」と宣言されたのです。 ①私は神、生命のパンである。(6:35) ②私は神、世の光である。(8:12) ③私は神、羊の門である。(10:7,9) ④私は神、良い羊飼いである。(10:11) ⑤私は神、復活であり、生命である。(11:25) ⑥私は神、道であり、真理であり、生命である。(14:6) ⑦私は神、まことのブドウの木である。(15:1,5)」ですので、私たちはこの7つの宣言の言葉を通じて、イエス·キリストがすなわち神であり、創り主であり、審判者であり、絶対者であり、また、私たちを愛して救ってくださる救い主であることが分かるようになるのです。
2.ブドウの木であるイエス。
そのイエスが、今日の本文で私たちに言われます。「私はまことのブドウの木である。」聖書においてブドウとは豊かさと神の祝福の象徴としてよく用いられる重要な果物です。そのため、新旧約聖書を問わず、さまざまな箇所で、ブドウが言及されたりします。ブドウの木は神に選ばれた民の象徴(ホセア10)、ブドウ畑はイスラエルを象徴する比喩(詩篇80)としてよく使われます。旧約聖書では、乳と蜜の流れる祝福の地をブドウに比喩する場合もあります。また、ブドウは実際にイスラエルの経済において、とても重要な資源でした。当時のブドウ農業は、新鮮な食糧を提供し、ブドウ酒を作る食材を生産し、人々には鉄分と必須ミネラルの供給する重要な農作物だったのです。というわけで、ブドウの木は代々栽培され、大事な財産としての割合を占めていたのです。それだけに、ブドウは神の祝福と密接な関りのある果物だったのです。そして、今日の本文は、この世に遣わされたメシア•イエスこそ、そのブドウに例えられる祝福の源であることを証しているのです。「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネ福音15:5)
先ほど「私は···である」という自己宣言で自らを神として示されたイエスは、また、ご自身をブドウの木であるとも言われました。神の祝福と恵みの象徴であるブドウの根源であるブドウの木を通じて、イエスが神の祝福と恵みをもたらす祝福の源であることを示されたわけです。そして、そのブドウの木であるイエスに従う主の民は、主にあって実を結ぶブドウの木の枝のような存在であることをも教えてくださったのです。ですが、今日の本文には、恐ろしい言葉もあります。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ福音15:2) もし、イエスというブドウの木につながったにも関わらず、実を結ばないならば、農夫である父なる神によって取り除かれるという話です。ということで、私たちはこのようにも考えうると思います。「実を結ばないと、自分の救いは取り消されるだろうか?」結論を言えば、そのような恐れでこの言葉を理解する必要はないということです。木につながっている枝が実を結へないのは「土地の養分が少ないか、木そのものに病気があるか、枝がつながっていないか」の中のどちらかです。父なる神が農夫であり、木はイエス·キリストであるなら、最も理想的な農場の姿ではないでしょうか? それなら実を結ばずにはいられないでしょう。枝が木につながっているならば、自然に実を結ぶようになるということです。
実を結ばないというのは、ブドウの木である「キリスト」につながっていないため、つまり主を信じておらず、御言葉に聞き従わないと言えるでしょう。主イエスを自分の希望とし、信頼して生きるならば、必ず主は実を結ばせてくださるでしょう。それでは、実とはどういうものなのでしょうか? それについては、ガラテヤ書の5章22-23節を通して探ってみることができます。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」私たちは、主の民として生きながら聖霊のお導きによって「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を教わっていきます。この9つの実については次の機会に詳しく話してみたいと思います。その中でも今日の本文は「愛」をとても大切な「実」として話しています。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ福音15:8,9,12)「私は•••である。」という言葉をもって、神であるご自分を証言されたイエスは、自らをブドウの木と示し、主の民が、そのブドウの木につながっている枝だと言われました。「私は自ら存在する者だ」という言葉で世のすべての被造物とご自身を区別された神ですが、イエス•キリストの「私はブドウの木である」という言葉によって、神はすべての被造物と区別されながらも、主の民と一つになって実を結ばせてくださる愛の神であることを教えてくださったのです。
締め括り
私たちは、今日の言葉を通じて、イエス·キリストが私たちにとって、どんなお方であるかを、もう一度学ぶことができます。イエスは、被造物と区別される、偉大な神でおられますが、遠くにおられる方ではなく、私たちとつながっている方であるということです。主イエスはブドウの木、主の民である教会は、ブドウの木の枝、そしてブドウの木を耕してくださる方は父なる神、実を結ばせてくださるは聖霊なる神です。このように、三位一体なる神が、イエス·キリストという仲保者を通して、常に教会と共におられながら、教会を見守っておられるということを今日の言葉を通じて憶えたいと思います。だから聖書はイエス·キリストを私たち教会の頭であると語っているのです。被造物があえて近づくことのできない絶対者である神ですが、イエス·キリストを通して、私たちと近くおられる主になってくださいました。朽ちた枝のような罪人であった私たちが、キリストによってまことのブドウの木の元気な枝になったのです。実を結ぶことができない弱い私たちがキリストによって実を鈴なりに結ぶことができるようになったのです。主イエスは神ですが、私たちの主であり、私たちを導いていかれる方です。私たちの頭であり、聖霊によって私たちに実を結ばせてくださるイエス·キリスト。今日の言葉を通じて、主の愛を憶えて生きる私たちでありますよう祈ります。