イザヤ55章1-7節(旧1152頁)
マルコによる福音書2章18-22節(新64頁)
前置き
「新しい酒は新しい革袋に盛れ。」 という言葉があります。「新しい発想を実現したり、世代交代を進めたりしようとする時、それに応じる新たな形式や環境を促す」ために、よく使う表現です。ところで、この言葉は、実は新約聖書の「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という主イエスの御言葉に由来します。しかし、聖書の言葉を真似したこの表現は聖書の本当の意味を見落とした表現であるかもしれません。もともと、この表現にはイエスを信じる者にふさわしく生きろという意味が含まれているからです。イエスは、なぜ、この言葉を言われたのでしょうか? そして、この表現の本当の意味は何でしょうか? 今日は、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という御言葉を通じて、この言葉が持つ意味について考えてみたいと思います。
1. 間違った宗教儀式に囚われていたイスラエル社会
イエスが公生涯を始められた時、イスラエル社会は宗教儀式に囚われていました。宗教の真の意味より、宗教行為に執着している社会だったということです。例えば、当時の宗教指導者、あるいは、宗教に熱心だったユダヤの宗教共同体は、少なくとも月に2回、多くは週に何度も断食をしたと言われます。特に、当時の尊敬されていたファリサイ派の人々は、頻繁に断食をしながら、貧しい者たちへ救済をしました。彼らは断食の時に、洗面もせずに、顔の辛い表情をも隠さずにいました。自分の宗教行為を隠さなかったということです。そして、そのような姿で救済を行い、救済でさえ、自分の宗教行為として用いたのです。そのような行いによって、イエスが登場する前まで、ファリサイ派の人々はユダヤ人社会で尊敬されたのです。「ファリサイ派の先生たちはやっぱり偉いんだ。私たちとはぜんぜん違う。彼らは神の正しい者なのだ。」のように、人々の褒め言葉と尊敬が彼らについてきました。
しかし、彼らの宗教行為の裏には「そうだ。この私は普通の人々とは違う。自分は正しい者だから。」という偽善が隠れていました。彼らの祈り、救済そのものには、確かに社会への良い影響があったのですが、心の奥底には、神に栄光帰すより、ひそかに自分の義を表わそうとする宗教的な欲望が隠れていたのです。ということで、何の褒め言葉も代価も求めないで、ただ人々を愛し、癒し、教えてくださるイエスは、自然に彼らに憎まれるようになったのです。彼らは、道端や神殿の入口で長く祈り、断食の時に苦しい顔を見せ、救済の時には偉そうに威張って、人々に褒められたのです。しかし、イエスは彼らよりさらに慰め、癒し、奇跡を行われながらも、何の代価も求められなかったのです。ただ、主イエスが望んでおられたことは、人々が悔い改めて、神に帰って来ることだけだったのです。だから、人々の関心と愛がイエスに集中されるのは当然の結果でした。それによって、彼らはイエスが人々の人気を横取りすると思い、イエスを憎むようになったのです。
2.私たちの姿はどうか。
イエスの時代のエルサレムには、表面上、神に献げ物を捧げる神殿があり、断食と祈りといった宗教儀式があり、貧しい人々への救済がある、それなりの宗教的な秩序が定着されている所でした。しかし、エルサレムを離れると、貧しい人々のうめき声が聞こえ、弱者が疎外され、既得権者の偽善が満ち溢れていました。今日の旧約本文のイザヤ書を通して、主なる神は言われました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」(イサヤ55:1-2)神は、このように誰でも神の御前に来て、飾り気と偽善のない真の交わりを望まれる方だったのです。なのに、イエスの時代のイスラエル社会は多くの献金や祈りや宗教行為が、宗教的な熱心さに勘違いされ、それによって宗教的な欲望を満す、主なる神の御心とかけ離れた宗教社会だったのです。このような社会の中で、貧しくて弱い人々は何の慰めも、助けも得ることができませんでした。
残念なことにそれらは、聖書だけに記されている問題ではないということです。ひょっとしたら、これは現代を生きる私たちからも見える問題であるかもしれません。以前ある教会で説教するとき、ひどい目にあった未信者の知り合いの話をして、祈りを求めたことがあります。その話で時間が長くなり、説教の内容とも少しずれるところがあり、申し訳ないと思いました。ところで、案の定、礼拝後にある方に説教の時は余計な話は控えてほしいと言われました。意図は十分わかりましたが、一方では「ひどい目にあった未信者のための祈りが礼拝でなければ、はたして何が礼拝だろうか。苦しい隣人のために祈りを求める以上の礼拝はあるだろうか。」同時に、聖書の言葉が一つ思い起されてきました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」(マタイ9:13)その日は、なんとなく寂しくなりました。
3. 宗教儀式ではなく信仰と愛を持って。
私は韓国の代表的な長老派教会である高神派出身の者です。高神派は神社参拝反対運動で有名な教会です。その信仰の誇りは韓国の教会の中でも目立つほどです。そういうわけで、私は子供の時から「高神派的な信仰」という言葉をよく耳にしながら育ちました。また、日本に来ては「日本キリスト教会的な説教」という表現を聞くことになりました。それを初めて聞いた時、母教会の高神派が思い浮かびながら、なんとなく日本キリスト教会のプライドが分かってきました。高神派教会と日本キリスト教会は、まるで双子のように感じられます。ところで、高神派的な信仰は何であり、また、日本キリスト教会的な説教とは何でありますでしょうか。イエスが望まれたのは、高神派的な信仰、または、日本キリスト教会的な説教なのでしょうか? キリストが望んでおられる価値は何であるだろうかと思うようになります。形式は大事です。しかし、主の教会には、もっと大事な普遍的な価値があります。ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちが断食する時、人々はイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と尋ねました。しかし、それは弟子たちへの不満ではありませんでした。イエスへの抗議だったのです。おそらく、彼らにもユダヤ教への大きな誇りがあったはずです。彼らは「なぜ、あなたは私たちの形式(律法)を無視するのですか?」と問い詰めたわけです。
その時、イエスは「新しいぶどう酒は新しい革袋に。」という多少理解しにくい言葉を言われました。イエスは旧約の律法を完成なさるために来られた方です。そして、主は旧約の数多くの律法が「神と隣人への愛の実践」のために与えられたと教えてくださいました。つまり、律法の完成とは、律法の精神、つまり、愛の実践だと言って過言ではないでしょう。主は多くの宗教儀式や教義的な立場ではなく、神の愛を日常生活にあって実践することに関心を持っておられたのでです。もちろん、律法も教義も大事です。しかし、そのすべてが神のご命令、愛の実践ための道具であることを見逃してはなりません。イエスはご自身の福音を通して、偽善的な宗教儀式に縛られていた以前の姿を捨てて、神と隣人への真の愛と実践のある、新しい信仰を望まれたのです。自分の宗教的な欲望のための信仰ではなく、神がご計画なさった、生き生きとした信仰を望んでおられるのです。神が求められることは、何十年も繰り返してきた習慣的な宗教行為ではなく、ただ一分一秒でも隣人への真の憐れみと愛ではないかと顧みたいと思います。このイエスを信じる私たちは、昔のユダヤ人が追い求めた自分の信仰的な欲望や偽善的な宗教生活ではなく、真に主の手と足となり、主の栄光のために行い、神と隣人の喜びになるために努力しつつ生きるべきではないでしょうか。
締め括り
主イエスはご自分の犠牲を通して、愛の宗教という新しい革袋としての教会を打ち立てられました。そして、その教会に属する者たちは、新しいぶどう酒のように、神の御心に適う人生を生きるべきです。古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、熟成する時のガスによって袋が裂けてしまいます。主イエスは新しい革袋として、愛の共同体である教会を与えてくださいました。そして、その中で生きる私たちは主による愛の実践を貫いていくべきでしょう。その時はじめて、私たちは美味しくて良いぶどう酒のように、神の喜びになるでしょう。神の国は宗教儀式と教理による所ではありません。それらを通して、さらにイエスを堅く信じ、主に倣って愛を実践する時、私たちの人生に現れるものです。そのように生きる者こそ、死後、神が備えてくださった天国に入ることになるでしょう。宗教生活ではなく、愛の実践、それが私たちが求めるべき、新しい革袋ではないでしょうか。