出エジプト記 7章4-5節(旧103頁)
ヨハネの黙示録 20章11-12節(新477頁)
前置き
モーセは失敗者でした。40代の若い頃、エジプト王女の養子だったモーセは、自分の政治的な力でイスラエルを解放しようとしました。しかし、彼は血気によって同胞を苦しめるエジプト人を殺してしまい、そんなモーセへのイスラエル人の支持もなかったので、結局エジプトから逃げてしまいました。40年後、彼は神に呼び出され、再びイスラエルの解放のためにファラオの前に立つことになりました。しかし、彼はまた失敗します。ファラオはイスラエルの解放を承認するどころか、むしろさらに苦しめるだけでした。モーセは解放の成就も、周りからの歓呼もなく、同胞に恨まれるようになってしまいました。若い頃の失敗と今の失敗、二回の失敗を経験したモーセには、もはや人間的な野望もやる気もなくなりました。そのようにモーセが最も落ち込んだ時、神は彼にイスラエルの解放を必ず成し遂げると約束されました。神の民が最も弱くなった時、神の御業は始まります。私たちの失敗は、主による私たちの勝利をさらに輝かせる絶好の機会です。失敗と絶望の時こそ、主なる神が私たちの人生に最も積極的に介入してくださる時です。私たちが最もみすぼらしくなった時、その時が神のお導きに一番近い時です。
1.神の災いへの理解。
イスラエルの解放のために、主なる神がご計画なさったのはエジプトへの十の災い(裁き)でした。「わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。」(出エジプト7:4)、そして、その裁き(審判)の方式はエジプトへの十の災いでした。十の災いの詳細については、後ほど話すことにして、まずは神と災いについて話してみたいと思います。私は先ほど、イスラエルの解放のために、主なる神がご計画なさったのはエジプトへの十の災い(裁き)だったと言いました。ここで私たちは、神の裁きと災いが誰に向けたものであるかを理解する必要があります。最近、水曜祈祷会でヨハネの黙示録を学んでいますが、私たちは黙示録を思い出すと、ふと恐怖を感じます。恐ろしい災いと神の裁きが記された書だからです。しかし、詳しく読んでみると黙示録の災いと裁きが神の民に向けられているものではなく、神に逆らう悪へのものであることが分かります。その災いは恐ろしいでしょうが、災いの対象が、主の民ではなく、神の敵に対する裁きであるということです。さて、黙示録は多くの部分、出エジプト記の影響を受けました。そのため、黙示録の災いは出エジプト記の十の災いとも関りがあるということです。イスラエルは神の民、すなわち教会を反映し、エジプト帝国は神に逆らう悪の勢力を反映するのです。
したがって、私たちは出エジプト記の十の災いが、神に逆らう悪への裁きであることを憶えなければなりません。それは私たちへの裁きではなく、滅びるべき悪への裁きなのです。罪によって歪んでしまった世界は、死、悲しみ、苦しみに満ちています。時には私たちの人生にも災いのような苦しみが襲ってき、神を恨むようになる場合もあります。神を信じるといっても、依然としての私たちの人生の辛さはよくあることです。しかし、神は決して私たちに災いを与えられる方ではありません。神は独り子を犠牲になさるだけに、私たちを愛してくださる方です。ただし、私たちが生きるこの世の罪と悪によって、私たちが感じる苦しみを神による災いであると誤解するのです。私たちはやむを得ず、この悪の世界に生き、苦しみを経験しなければならない時もあります。しかし、その苦しみは神からの災いでも、裁きでもありません。むしろ、神は罪と悪を裁かれる方です。そして、主なる神は災いのような苦しみの中でも、私たちを絶対に諦めず、見守ってくださる方です。終わりの日、私たちが主なる神の前に立つ時、神は私たちを慰め、永遠の喜びによって報いてくださるでしょう。ですから、神を誤解しないようにしましょう。神は悪の世界を裁かれる方であり、むしろ、その裁きの炎からご自分の民を守ってくださる方であることを忘れてはなりません。
2.十の災いと裁き
神は、ご自分の民であるイスラエル(教会)を邪悪なエジプト(罪)から救ってくださるために、災いを伴う裁きを下されました。十の災いについての出エジプト記の記録は、7章から12章まで非常に長いです。したがって、これらのすべての災いを一度に説教するのは無理であり、何度に分けて説教するのも、内容が重なるため、かなり退屈になると思います。ですから、今日の一度の説教で手短に取り上げ、詳細な内容は皆さんに本文を読んでいただくことで振替したいと思います。それでは、十の災いについて考えてみましょう。①川の水が血に変わる災い(7:14-25)、生命の根源であるナイル川(水)を司る神ハピへの裁き ②蛙の災い(8:1-15)、富と多産の女神ヘケトへの裁き、自分の偶像に苦しめられる裁き。 ③ぶよ(蚋)の災い(8:16-19)、大地の神ゲブへの裁き。エジプト全土の塵がぶよになる。これからはエジプトの魔術師でも真似できない。神だけの権能 ④あぶ(虻)の災い(8:20-32)、日の出の神ケプリへの審判。時間を司る神。(カエル、ぶよ、あぶへの裁きは、水、地、空の神々の無力化を象徴) ⑤疫病の災い(9:1-7)、農業を助ける家畜の神アピスへの裁き ⑥はれ物の災い(9:8-12)、癒しの神ネフェルトゥムへの裁き、真の癒しは主なる神だけにある。
⑦雹の災い(9:13-35)、天空の神ホルスへの裁き、エジプト人が死んだ最初の裁き。予告があり、御言葉を恐れた人は生き、無視した人は死んだ。 ⑧イナゴの災い(10:1-20)、農作物を荒れ果てさせるイナゴの群れの襲来。雹の害を免れた残りのものを食い荒らした。戦争の神セトへの裁き。(戦争とイナゴの関係は不明)⑨暗闇の災い(10:21-29)、太陽の神を主神とあがめるエジプトから太陽が消えた。エジプトの偶像の無力さを示す災い。太陽の神ラ-への裁き ⑩死の災い。人間、家畜を問わず、初産は死んだ。王位を継承するべきファラオの子も死んだ。エジプトの賢人神であったファラオも神の権能に無力だった。地上の太陽神と呼ばれたファラオへの裁き。以上が十の災いの持つ意味です。この意味は、神に逆らうエジプトと共に、彼らがあがめていた数多くの偶像への災いであり、ただイスラエルの神だけが真の神、絶対者であることを示す出来事でした。これらにより、エジプトはイスラエルの神が真の神であることを認めざるを得なくなりました。特別な点は、これらの災いの中で、イスラエルも恐ろしい裁きを目撃したが、イスラエル人の地域は、これらの災いを避けたということです。神が恐ろしい災いの裁きから、主の民を守ってくださったからです。
3.神の裁きへの教会の理解。
私たちは、神という存在を考える時、ひたすら、愛ばかりでいっぱいの方だと誤解しやすいです。しかし、聖書は神は愛の神でもあるが、裁きの神でもあると述べています。主なる神に自分の罪を告げ、聞き従う者には愛の神ですが、逆らって罪を犯し続ける者には、裁きの神であるのです。「ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」(出7:4-5) 神はこのように、裁きによって、神に逆らうすべての存在に神が真の主であると教えてくださるのです。したがって、主の民である私たちは神の裁きに恐怖を感じるより、この裁きがあるからこそ、主の民である私たちの救いがより明確になり、神の偉大さをより一層知るようになるということを憶えるべきです。今日の新約の本文を読んでみます。「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」(黙示録20:11-12)
すべての存在は、いつか神の御前に立ち、裁きを受けることになるでしょう。身分の高い者、低い者、白人、黒人、東洋人、信者、未信者を問わず、すべての存在は神の御前に立つことになります。その時、私たちはキリストによって神の民であることが証明され、神に受け入れられるようになるでしょう。ですから、裁きは恐ろしさばかりのことではありません。主の民にとっては、自分の身分を証明する救いの道具となるのです。しかし、神に逆らった存在には滅びの道具になるでしょう。エジプトにとっては、恐ろしい裁きだった災いが、イスラエルにとっては、エジプトからの解放の道具だったことを憶えてください。そのような裁きの両面性を理解する私たちにならなければなりません。神は裁きの時に各人の行いを測られるでしょう。ここで行いとは、救いを得るために私たちの努力を意味するわけではありません。救いは、たったキリストの恵みだけによって与えられるからです。ただ、キリストに寄りかかり、神に聞き従う者とキリストを拒否し、神に逆らう者を見分けて裁くという意味です。 それによって、永遠の命の者と永遠の死の者が分けられるでしょう。
締め括り
今は終末の時代です。キリストの到来以来、終末の時代は長く続いてきました。神は一人でも多くの命を救われるために、こんなに長い終末の時代を許されたのです。そして、いつかは必ずこの世を裁くために再臨なさるでしょう。その裁きの日の後、神は新しい天と新しい地で、主の民に真の喜びと幸せをくださるでしょう。このような終末の時代に、私たちは神の裁きの意味を正しく知り、神の御旨に適う存在として生きていくべきでしょう。最後に、日本キリスト教会の大信仰問答に書いてある裁きの項目を読んで説教を終わりたいと思います。「問283 終わりの日は、罪びとにとっては、恐ろしい審判の日ですか。」「答 そうです。聖霊の執り成しをしりぞけ、あくまでも神に従わない者には、呪いと永遠の刑罰とが宣告される日です。しかし、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じる者には待望の日です。なぜなら、私たちの罪に対する呪いと刑罰とは、キリストによって負われ、赦されているからです。」
父と子と聖霊の御名によって、アーメン。