サムエル記上1章9~18節(旧428頁)
使徒言行録12章1~7節(新236頁)
今年の春、志免教会の有志たちは韓国を訪問されました。その時、水曜日もあり祈祷会 を開き、共に礼拝を守られたことを覚えています。その時、皆様に祈祷会の勧告をするこ とが許され、感謝でありました。その時、私はサムエル上1章1−8節の御言葉を通して、「自 分の目に正しいとするところを行う時代に生き抜く方法」という題で、皆様と恵みを分かち 合ったと思います。その時の記憶が生々しく思い出されます。日本に帰国されるとき、天気 のせいで、少し困難を覚えられたということを聞いております。とにかく、皆んとこんな形で もう一度お目にかかることができ嬉しく思います。
その時、私はこんな話を致しました。サムエルの著者がいうこの世とは、各自、自分の目 に正しいことを行う、自分の方法で、自分の考えて生きれるところだということでした。ある 意味では自由に生きるところだと言えるし、またある意味では放縦に生きるところであると も言えます。
間違ったことでも、よくないことでも、悪いことでも、みんな勝手にするから、いい。問題な 1い。皆んなが過ちを犯せば、なんともないと思ってしまうところがこの世です。ことわざの 中に、皆んなで渡れば怖くないという言葉があるように、間違っても集団ですれば平気で できるのがこの世の方式です。人はよく言います。「みなん、そうやってるよ」。皆んながや るから私もやる。
しかし、ここに自分の目に正しいとするところに従って生きるのではなく、神に祈りつつ、神 によって生きることを求めてもがいている一人の女がいます。この世と妥協することなく、 神の導きに合わせて生きていきたいと願う人です。世渡り上手に生きることをやめて、祈り をもって生きようとする女です。毎度、神殿に上って祈るハンナという女です。
彼女の人生は普通の人ではありません。彼女は本当に、轗軻崎嶇たる人生の行路を旅す る人でした。なぜなら、6節にありますように「主が子供をお授けにならなかった」からで す。口語訳はもっとはっきりと「主がその胎を閉ざされた」と訳します。
神が人を不幸にされるとは、一体どういうことでしょうか?いつくしみ深い主であるはずなのに、最初から胎を閉ざしてしまうなんて、あり得るのでしょうか?理解できるのでしょうか?本当に、なんという惨めなことでしょう。何で?私だけこんな目に遭わなければならないのかと、祈る度に、問い立てて、問い詰めたと思います。本当に、なげかわしい人生でした。祈っても、ただ涙だけがポタポタと流れ落ちるのみだったと思います。
立ち上がる
こういう状況の中で、今日の本文である9節が始まるのです。「シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった」とあります。食事の後とありますが、8節にありますように、多分彼女は食べるのも、飲むのもしなかったと思います。断食をして祈ったのです。嘆き、悲しみ、崩れ落ちる心をもって立ち上がりました。
しかし、ここで著者は「立ち上がった」というヘブライ語をとても特別な形を使っています。立ち上がるとは、いつもと同じように毎度椅子から立ち上がるという平常的な意味ではなく、一回限りの出来事として立ち上がるという意味の形をしている動詞が使われています。
今まで準備してきたものを全て吐き出して、よしやるぞう!立ち上がれ!思い切ってやり出す。もう一かばちかやってみよう!最後の挑戦かのように、彼女は立ち上がったのです。何とは決断して、兵士たちが総攻撃のために立ち上がるように、立ち上がったのです。
7節にありますように、「毎年、ペニナのことで、彼女は苦しみ、泣いたのです。」ストレス一杯でした。もうこれ以上、我慢できなかったでしょう。ただ座り込んで祈るだけで、自分の人生を嘆くばかりの消極的な姿勢から、主に向かって立ち上がったのです。
実は、新共同訳はただ「立ち上がった」とありますが、ヘブライ語の聖書をギリシャ語の聖書に翻訳したものである70人訳を見ると「主の前に立ち上がった」と訳しています。
そうです。彼女は立ち上がったのですが、意地を張るために立ち上がったのではなく、主の前に立ったのです。とにかく立ち上がってみようという意味ではなく、主の前に立ち上がってみようと、彼女は決断したのです。
サムエル上の1章を読みながら一つのキーワードのようなものは「立ち上がる」という用語ではないかと思います。ヘブライ語で「クーム」という言葉ですが、1章で2回、使われます。もう一回は23節です。「主がそのことを成就してくださるように」。「成就する」と訳されたのもクームです。言い換えると、主の前に信仰を持って立ち上がるのであれば、主はそれを成就なさる、成し遂げてくださるという信仰的な繋がりがそこにあるということです。
ハンナは信仰の女でした。信仰を持って主の前に立ち上がるのであれば、主は契約を立てるかのように、それを約束なさり、成し遂げてくださると、彼女は信じたのです。
私たちは腰が重いです。なかなか、新しいことへの立ち上がりができないのです。前例がないとやらない。誰がやる時まで待つ。結局、誰もやらない。立ち上がらない。
しかしハンナは立ち上がりました。主が胎を閉じたから、諦めるしかない。祈っても意味なし。人生とは、主の予定に導かれるのみですと、諦めて断念する人ではなかったのです。主よ、あなたが閉じたのであれば、あなたがそれを解くこともできるでしょう。だから、あなたのみ前に立ち上がりました。聖書が言う予定とは運命ではありません。私たちキリスト者は決定論者ではありません。祈りによって変えられる可能性のある予定が聖書の予定です。
主との交わり
そしてハンナはどうしましたか?10節です。「悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」とあります。主の前に立ち上がり、主のいのり、そして11節では「万軍の主よ」と叫びます。
聖書を読むと、神、主という言葉を使います。神に対する用語は大きく二つあります。神と主です。神はエロヒムの訳語で、主はヤーヴェです。聖書はこのように言葉を使い分けるのはそこにある意味があるからです。一般的に言われるのはヤーヴェは人格的な神を言い表す時に、用いられると言われます。だから人と交わり、人と契約を立てるなどのことが言われるのです。創世記1章と2章を読めばその違いがはっきり見えてきます。2章では、主 は世界を創造され、人にそれを委ねて行くこと、契約を立てていくことが記されています。被造物を信じてくださる主の暖かさを感じ取れるのです。
ハンナはこのヤーヴェなる主と深い交わりを持っていたのです。人格的な交わりという祈りを捧げることができたのです。彼女は主を思うと激しく泣くばかりでした。泣いて泣いていたということです。なぜ、私たちが子供を避けられなかったのか?恨みもあったでしょう。主が嫌になった時もあったでしょう。それでも、彼女は諦めずに祈ります。
その最初の言葉は「万軍の主よ」という呼びかけです。まさに全てがお出来になる全知全能の神よ !と呼びかけているのです。“万軍の主よ、はしための苦しみをご覧ください。はしためにみ心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら。”
彼女は神のみを信じたのです。主との深い交わりを通して、ハンナは主が万軍の主であることをはっきりと告白したのです。だから、彼女は主を信頼しきったのです。「戰車を誇るもあり、馬を誇る 者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に滿ちて立ち上がる」(詩編20:7,8)。
主を誇るもの、主を信頼する者は、立ち上がれると、彼女は信じていたのです。人間の力を信じるものは結局、力を失って倒れるが、主を信頼する者は、立ち上がれるのです。
そして祈り続けます。
「男の子をお授けくださいますなら、その子の一生をおささげし、その子の頭には決してカミソリを当てません」。
これは士師記の13章5節にありますマムソンのお母さんに対する主の御使の話と似ています。「身ごもって 男の 子を 産むであろうその 子は 胎にいるときから, ナジル人として 神 にささげられているので, その 子の 頭にかみそりを 當ててはならない」。
サムソンとサムエルは同じナジル人ですが、サムソンの場合は主の御使が言われたことであり、サムエルはお母さんが言われたことです。
愛する兄弟姉妹、
この世を救う英雄の生まれの話はサムソンのように、天使たちの介入による場合がよくあります。しかし、サムエルの場合、サムエルの英雄性は彼のお母さんによるものであったことを忘れないでください。
お母さんの祈りによって、子供の存在意味が変わってきます。確かに「主が胎を閉ざされました」。「世界の始まる前からあらかじめ定められた」(Iコリン2:7)のが私たちの人生です。 いうなら、そう運命付けられているのが、私たちの人生です。 しかし、聖書はそう言われつつも、祈りによって閉ざされたものを開くことができるとも言われます。
私たちの人生は祈りによって変えられていきます。うまくいかいとき、私たちに許されている祈りによって突破していきましょう。