創世記2章24節(旧3頁)
エフェソの信徒への手紙5章21~33節(新358頁)
前置き
前のエフェソ書の説教で、私は1-3章ではキリストと教会(キリスト者)の関係についての神学的な話が、また、4-6章では、キリストと教会の神学的な話に伴う実質的かつ実践的な生き方についての話が書いてあると申し上げました。教会は神によって天地創造の前にあらかじめ定められ、キリストによって救われ(キリストを頭とし)、聖霊の導きによって歩む、主の体なる共同体として神に召された存在であるとお話ししました。そういうわけで、教会は、もはや神を知らない世に属した人の生き方ではなく、主の体なる共同体にふさわしく、キリストに似ていく生き方を追い求めて生きるべきであるというのが、今までの説教の主な内容でした。今日は教会の実践的な生き方の中でも、最も重要なことについてお話したいと思います。それは夫と妻の関係、つまり夫婦の関係についての話です。パウロは、今日の話を通して、夫婦の関係をキリストと教会の関係につなげて教えています。それだけにキリスト者の夫婦関係は、信仰と密接な関係を結んでいるものです。今日の説教を通して夫婦の関係、そして、キリストと教会の関係について考えてみたいと思います。
1.互いに仕え合いなさい。
今日の本文は夫婦の関係について話す前に、まず、エフェソ教会の信徒たちにキリストへの畏れをもって、互いに仕えあうことを勧めています。 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ5:21) ここで「互いに仕えあう」という表現の原文は「降伏する。屈服する。服従する」という意味の言葉です。21節は今日の本文とも深い関りを持っていますが、前の本文とも繋がる箇所です。キリストによって救われ、神の民となり、神に倣っていこうとする者はキリストに属する者として、兄弟姉妹に対して謙虚に生きなければならないという意味の言葉です。この箇所を読むと、フィリピ書の言葉が思い起こされます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい…キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:3-7) つまり、主の民はイエス·キリストにならって、自分の血気と固執を捨て、謙虚に兄弟姉妹、隣人に仕えて生きるべきであるということです。
そして、今日の本文は、この「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」という言葉が、夫婦関係にも適用されると語っているのです。夫婦は世界で一番近い間柄です。親と子供の関係も夫婦関係に勝らないと思います。したがって、夫婦は一生を一緒に生きる、最も身近な隣人どうしなのです。一番身近で、一番よく知り、一番よく接する隣人なので、何よりもお互いへの理解と愛が先に出来なければなりません。しかし、実際、それは本当に難しいものです。現代を背景にしたドラマや映画を観ると、夫が妻を殴ったり、無視したり、見下ろしたりする場面がたびたび出てきます。ドラマは現実の反映ですから、本当にそういうことがあるでしょう。あるいは、激しい気性の妻がいる家庭では、逆に妻が夫を無視したり、見下したり、ひどい場合は妻に暴行される夫もいると言われます。夫と妻が互いに暴言、暴力をふるうことはキリスト者にとって、絶対にありえない、あってはならない、キリスト者にふさわしくない夫婦関係です。クリスチャンホーム、特に夫婦関係において最も基礎的かつ重要な課題は「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合うこと」なのです。夫だからといって妻を軽く扱ってはならず、妻も同じように夫を大事にしなければなりません。ここからキリスト者の家庭の秩序は始まるのです。
2.妻と夫へのパウロの勧告。
「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自ら、その体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」(エフェソ5:22-24) まず、パウロは妻たちに自分の夫に仕えなさいと勧めています。ここで「仕える」は21節に書いてあった「互いに仕える」と同じギリシャ語です。つまり、妻だけが夫に仕えるべきということではなく、夫も妻に仕えるべきという意味を含んでいるでしょう。パウロは夫は妻の頭(ケファリ)だと語ります。 私たちはよく「キリストは教会の頭」という言葉を使いますが、この「頭」の語源が「ケファリ」なのです。今日の「夫は妻の頭である」という表現にも、このケファリが使われました。ケファリという言葉は「カプト」という表現に由来したという見解がありますが、カプトは「つかむ、握る」を意味します。つまり、ある存在のアイデンティティを表す基礎かつ代表的なもの、すなわち根本を意味する表現です。古代の人々は、人の頭が体全体の根本だと考えたようです。そのためパウロは体なる教会の根本はイエス•キリストであり、それに似た夫婦関係として、妻の根本は夫だと語ったわけです。
根本となるということは、「権威とともに責任を持つ」ということです。真の権威のある夫なら、責任を持って自分の妻を愛しなければなりません。昔から日本や韓国のような北東アジアの文化では、女性の権威が男性の権威に比べて劣るものとされました。だから、男尊女卑という言葉も生まれたのでしょう。しかし、それは男の権威だけを強いた誤った結果です。聖書は妻が夫より劣るという話をしていません。夫に権威と責任を与え、権威と共に責任をも持って、妻を愛するように教えているのです。それが、イエスが教会へなさった愛と似ているからです。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ5:25) 父なる神は、イエス·キリストに教会の頭という権威を委ねられました。加えて、教会への責任をも与えられました。そのため、イエス·キリストは、教会のためにご自分の命を惜しげなく捧げました。したがって、キリストと教会との関係と似ている夫婦の関係において、夫は妻のために自分の命をかけるほど深く愛し、仕え、責任を負わなければなりません。キリストが教会になさった、そのすべてのことが、まさにキリスト者の夫たちに与えられた主の教えなのです。それが聖書が語る夫の権威であり、責任であるのです。
3。夫婦は世界で一番小さい教会。
「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ5:31-33) 今日の本文は、旧約の創世記2章24節を引用した言葉です。神は創造の時、最後の段階として人(男)を造られました。そして、神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:16)と言われ、女も造られました。つまり、神は創造の完成を男と女の完成、つまり夫婦の完成として成し遂げられたわけです。そのため、結婚は夫婦二人が一つとなり、主の創造の秩序を果たす偉大な行為なのです。だから、夫なしでは妻もなく、妻なしでは夫もいません。キリストのおられない教会がありえないように、キリストにとっても教会はとても大切で重要な存在です。そのため、キリストは教会を命かけてまで愛されたのです。夫婦は、このように二人が互いに仕えあって一つとなる時、完全になるのです。パウロは夫婦が、キリストと教会との関係に見習って生きることを願ったのです。
私は、世界で一番小さな教会が夫婦だと思います。まるで三位一体なる神が御父、御子、御霊として一つになられたように、キリストと夫と妻が一つになり、地上の一番小さな三位一体を成すのが、夫婦という教会だと思います。(これは神学的な教えではなく、私の個人の見解です。) したがって、神が私たちにくださった配偶者を愛をもって仕えるべきです。私たちは決して偶然出会い、夫婦になったわけではありません。神が天地創造の前に主の教会をあらかじめお定めになって呼んでくださったように、世界で一番小さな教会である夫婦も天地創造の前から、神によって定められ、教会として召されたのです。ですから、配偶者に仕え、愛し、その仕えと愛とを通して、教会を愛されたキリストの恵みを憶えて生きたいと思います。だからといって、配偶者が先に亡くなったり、独身の方や配偶者が未信者である方は、がっかりしないようにしましょう。私たちには共通した夫(花婿)であるキリストがおられるからです。真の夫であるキリストが、皆さんを花嫁として愛しておられることを忘れないでください。むしろ、真の夫であるキリストの愛によって、信じない配偶者に仕えてください。もし、配偶者がいなければ、キリストの愛によって、自分の隣人や家族や教会の兄弟姉妹に仕えてください。大事なのは夫と妻の関係を通して、キリストと教会の関係、尊敬と奉仕と愛の関係を学ぶことだからです。
締め括り
9月8日は、私たち夫婦の結婚5周年の日でした。お見合いで出会ってから、相手のことも深く知らず、たった105日で結婚しました。以後、福岡に渡って5年経ちました。ということは、宣教師としての私の人生は、妻との夫婦生活とあらゆる面において重なります。この5年間、喜怒哀楽を共に経験しつつ一緒に歩んできました。結論的に、神がこの結婚を計画されたということをしみじみと感じる時間でした。だからこそ、今日の言葉は、私自身への主の言葉であるかもしれないと思いました。私はこれからも妻を大切にしながら、互いに仕えあって生きていきたいと思います。今日の説教によって、皆さんにも聖霊なる神がくださる教訓があったと思います。キリスト者の配偶者がいたら、今日の言葉のようにお互いに仕え合いながら、これからも幸せに生きてください。未信者の配偶者がいたら、キリストの愛によって仕えてください。独身者ならキリストを自分の夫とし、主に倣って神と隣人を愛して生きてください。キリストが教会にくださった愛を身につけて生きていくことを願います。今日の御言葉を通じて夫婦関係、そしてキリストと教会の関係について、もう一度考える機会となることを祈り願います。
父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。