出エジプト記3章1~12節(旧96頁)
ローマの信徒への手紙11章29節(新291頁)
前置き
前回の出エジプト記2章の説教では「神が契約を思い起こされた」との題で、エジプトでのモーセの失敗とミディアンでのモーセの新しい人生について話しました。40歳のモーセはエジプト王女の養子であって、エジプト人も無視できないほどの身分の高い人でした。しかし、イスラエル人の実母を乳母として育った彼は、イスラエル人のアイデンティティを持っていました。そういうわけで、モーセは自分の力でイスラエル民族の解放を導こうとします。しかし、彼の試みは人間的な意図と情熱によるもので、結局失敗で終わります。民族を思うモーセの心は純粋で立派なものだったと思います。しかし、彼の試みは神のご意志とは関係ない自分自身の意志によるものでした。ミディアンに逃げたモーセは、40年後、平凡な年寄りの羊飼いになっていました。彼の人生はもう終わりのようでした。そんなある日、彼はある山で神と出会うようになりました。そして、40年前にすでに失敗したイスラエルの解放という務めを、アブラハムとイサクとヤコブとの契約(約束)を思い起こされた神のご意志により、再び与えていただくことになりました。果たしてモーセは、昔、一度失敗したイスラエル解放という務めを成功できるでしょうか? 今日は本文を通じてモーセの召命と使命、また出エジプト記に現れる神の性質について学びたいと思います。
1.出エジプト記に現れる神への知識。
まず、今日の本文を通じて、神の性質について考えてみたいと思います。「モーセは、しゅうとであり、ミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」(出エジプト記3:1-2) モーセは羊の群れを飼っている途中、ある山に近づくことになりました。そこは「ホレブ」と呼ばれる山で、「ホレブ」は廃墟を意味する言葉でした。ところで、彼はそこで世の中にはあり得ない不思議な現象を目撃します。それは「柴が火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」不思議な現象でした。火はすべてを消滅する強さの象徴であり、柴は燃えやすく、すぐに消えてしまう弱さの象徴であります。科学的に、柴に火がついたということは、柴が灰になって消えてしまうことを意味します。なのに、本文の柴は燃え尽きません。モーセの目に、その光景はいかに不思議なことだったでしょうか。モーセが燃え上がる柴を見ていたら柴の間から神の声が聞こえてきます。「モーセよ、モーセよ。ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」そして神は引き続きおっしゃいました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神という存在の顕現に恐れてしまいました。神は果たしてどういう方なのでしょうか?
人間は到底神を知ることができない極めて限られた存在です。しかし、神は聖書を通して、ご自分の存在を人間が認識できるように教えてくださいます。私たちは、今日の出エジプト記からも、制限的ですが、神について知ることができます。第一、神はホレブ山、つまり「廃墟」という名の山で、モーセにあってくださいました。モーセは 40 年前にイスラエルの解放に失敗し、みすぼらしく逃走した失敗者でした。80歳の彼はまるで廃墟のように権力も若さも情熱も失った弱い老いた羊飼いに過ぎませんでした。しかし、神は廃墟のようになったモーセを廃墟という名の山でお呼び出しになりました。今日の本文5節で神はおっしゃいます。「あなたの立っている場所は聖なる土地である。」ホレブ山も、モーセの人生も、廃墟のようでしたが、その廃墟に神がご臨在なさると、廃墟は「聖なる土地」になりました。これを通して、私たちは神がおられるなら、廃墟も聖なる土地になれるということが分かります。神に出会ったモーセは、その後、廃墟のような人生を終え、神の聖なる僕として生まれ変わることになります。第二に、神は炎という強さと柴という弱さを共存させられる方です。旧約聖書のイザヤ書には、こんな言葉があります。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」(イザヤ43:3)これは神に遣わされるメシアについてのイザヤ書の預言です。
つまり、神のメッセンジャーであるメシアについての預言を通して、神が強さと弱さ、どちらにも属されず、むしろ、その二つを調和させて治められる方であることが分かります。絶対的な強さの神と絶対的な弱さの罪人の間で執り成しておられるキリストから、私たちは燃える柴の間におられる神の本質を覗き見ることができると思います。第三に、神はアブラハムとイサクとヤコブとの契約(約束)を覚えてモーセを召される方でした。「わたしは…アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。…わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、…彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは…エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、…へ彼らを導き上る。」(出エジプト記3:6-8中) 神はご自分の言葉、つまり契約(約束)通りにお働きになる方です。神は創造主であり、最も強い方でありますが、わがままに行動なさらず、モーセの先祖と結んだ契約に基づいてイスラエルを導かれる方です。神が私たちに聖書をくださった理由も、聖書の記録に基づいて、主の御言葉、つまり約束通りに私たちを導き、救い出してくださるためです。これによって、私たちは神が必ず約束を守られる方であり、変わらず信頼できる方であることが分かります。
2.キリスト者をお呼び出しになる神。
「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(3:9-10) そのような神が今日モーセを神の山に呼ばれたのです。そして、アブラハムとイサクとヤコブと結んだ約束どおりに、神の御心に従ってモーセに「イスラエルの解放」という新しい使命を与えてくださいました。若い頃、自分の情熱と意志により「イスラエルの解放」という業を成し遂げようとしたモーセ、しかし、神のお導きがなかったその計画はモーセ自身の野望に過ぎませんでした。そして、神の導きのない彼の野望は見事に失敗してしまいました。その後、ミディアンに逃げた彼は、平凡な羊飼いになって人生の終わりを目の前にしていました。しかし、燃える柴の間に臨まれた神。強さにも、弱さにも属されず、それらを調和させて治められる神。廃墟という名の山にご臨在なさり、そこをむしろ聖なる土地にしてくださった神。ご自分の独断ではなく民との契約(約束)にあって、お働きになる神。その神が、失敗したモーセを呼び出され、同じ「イスラエルの解放」ではありますが、今回は神ご自身が主体となり、もう一度モーセに使命を与えてくださったわけのです。私たちは、ここでキリスト者の召命と使命について考えるようになります。果たしてキリスト者の召命と使命とはどういうものでしょうか?
今日の説教の題は「キリスト者の使命」ですが、神の召しという意味の「召命」についても考えてみたいと思います。おそらく「召命」という表現は日常会話ではあまり使わないと思います。召命はキリスト教用語だと書いてある辞書もあります。召命は漢字そのままで、召して命じるという意味です。そして使命は、その召命に応じて命令通りに行うことを意味します。神は主に召された民が、以前、どのように生きてきたかを懸念されません。昔、犯罪を犯した人も、失敗した人も、わがままだった人も、間違いだらけの人も、キリストの御名によって、神の前に悔い改め、隣人に謝り、二度と昔ような人生を生きないと誓うなら、神はご自分の民としての資格を与え、主の僕として召してくださいます。かつてエジプト王女の養子だったモーセは強さに属した人でした。彼は自分の情熱にとらわれ、神の御心とは関係なく生きており、結局自分の血気を抑え切れずエジプト人を殺してしまいました。自分の力が自分の失敗をもたらしたわけです。以後、彼は弱者の人生を送らなければなりませんでした。しかし、彼が一番弱くなった時、神は彼の失敗を全くお気になさらず、主の御心に従って彼を呼び出され、もう一度機会を与えてくださいました。これが神の召命なのです。過去、失敗、弱さは全く関係ありません。神はご自分の意志に従って呼ばれるだけです。神には強者であれ、弱者であれ、意味がありません。神はただご自分の民を通して、神の御業を進めていかれるだけです。
そして神は召命によって召された者に、過去とは関係なく召命に従って生きる機会を与えてくださいます。これが私たちの使命になるのです。使命は、私たちが神に委ねていただいた何かを成功させるという概念ではありません。使命は私たちを呼び、再び神と共に歩む機会をくださった神のご意志に従って、神のお導きのもとで主と共に生きることそのものなのです。したがって、私たちの使命を完成させる者は、私たち自身ではなく、使命をくださった神なのです。モーセは出エジプト記14章でこう歌いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。」(出エジプト記14:13) エジプトから脱出してカナンへ向かうイスラエルに委ねられたことは、神が見せてくださる救いの道に沿って歩くことだけでした。火の柱と雲の柱で寒さと暑さを防ぎ、エジプトの軍隊から守り、紅海の真ん中に道を開いてくださった方は神おひとりでした。モーセとイスラエルは、その神の導きに従って歩むだけで十分だったのです。それがまさに神の民の召命に従った人生、使命なのです。神がすべてをなさるから私たちは何もしなくても良いという意味ではありません。 私たちに与えられた日常に充実にし、神に頼り、兄弟姉妹を愛し、隣人に仕えるという主の御心に聞き従って主と共に生きること。それこそがキリスト者に与えられた使命なのです。
締め括り
「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ローマ書11:29) 神は仕えられるために民を呼ばれた方ではありません。神はご自分の利益のために民に使命をくださる方でもありません。神のお呼び出し、そしてそれに伴う民の使命は一種の賜物なのです。そして、それは絶対に取り消されない、変わらない神の祝福です。私たち、教会はキリストの体という特別な使命を持って神に召されました。そして神はその使命の人生の中で私たちが主と共に永遠に幸せに生きることを望んでおられます。以前のモーセは失敗者でした。しかし、神は彼の過去ではなく現在と未来を眺められつつ、彼と共に歩んでくださいました。私たちもキリストによって神の民と呼ばれた存在です。そして私たちの使命は、そのお呼び出し通りにキリストと共に歩んで生きていくことです。以前の私たちがどんな人だったか、過去の私たちの罪、私たちの失敗、私たちの弱さは何の問題にもなりません。神はキリストを通して、私たちを召され、その使命によってキリストと共に生きていくことを望んでおられます。そのような人生の中で神は私たちの悩みと人生の問題を解決し、私たちに真の喜びと幸せを与えてくれるでしょう。この神のお呼び出しに応じ、その召命通りに使命を果たして生きることを願います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。