出エジプト記 2章1~10節(旧95頁)
ペトロの手紙一 1章5節(新428頁)
前置き
前回の出エジプト記の説教では、ヘブライ人(イスラエル)の男の子が生まれたら殺せというファラオの抑圧と、それに抵抗した2人の助産婦の信仰について話しました。ファラオの命令に従わず、神への畏れをもって抵抗した二人の助産婦の名前は、シフラとプアでした。シフラは「清い」プアは「輝く」という意味でした。旧約聖書は登場人物の名前を通して、その人の性格を示すケースが多いですが、シフラとプアもそのような意味で、望ましい信仰の人物として描かれています。彼らは神への畏れから、この世の権勢に抵抗する弱いが勇気を持っている信仰者でした。彼らの信仰をご覧になった神は、彼らに知恵を与え、守り、祝福してくださいました。前回の説教を通じて、私たちは教会がどのように世の悪い権勢に抵抗して生きるべきかについて考えることができました。現代では、教会への目に見える抑圧はほとんどありません。しかし、少なくとも主の教会を成す私たちキリスト者は、この世の悪い権勢とは何であり、それによって抑圧される時、どのように対応していくべきかを悩みつつ生きる必要があると思います。
1. ファラオの抑圧とモーセの脱出。
「ファラオは全国民に命じた。生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジプト1:22)かつてヨセフが総理だった王朝である「ヒクソス人の王朝」が終わり、再び権力を握ったエジプト人はヒクソス人と同じ系統のヘブライ人がエジプト国内で増加することをただ見ていられませんでした。そこで、ヘブライ人の大人へのエジプト人の抑圧がありましたが、神の恵みにより、ヘブライ人はむしろさらに増えていきました。また、ファラオはヘブライの助産婦に男の子を殺せと命じましたが、助産婦は賢くその命令に抵抗しました。結局、ファラオは、その抑圧の対象をヘブライの大人から直接男の子たちに変えたました。そんな状況で、レビ族のある夫婦が息子を産みましたが、その子がまさに出エジプトの主人公であるモーセでした。「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。」(出エジプト2:1-2)新共同訳聖書にはその男の子が「かわいかった」と書いてあります。「かわいい」にいろいろな意味があるでしょうが、原文的にはヘブライ語の「トーブ」の翻訳です。「トーブ」は「良い」という意味で、神が天地創造の時、被造物をご覧になって言われた「良し」と同じ表現です。出エジプト記はこの「良い子」を通して、将来、神がなさる「良い業」を予告したのです。
「しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。」(出エジプト2:3) ところが、この「良い子」は生まれてすぐ大きな逆境に直面することになります。「男児殺害」の現場で、もはや隠しきれなくなった親は、少なくとも殺すわけにはいかないという心で、息子をパピルスの籠に入れてナイル河に流しました。出エジプト記は、ここで創世記の記録と重なっているようなイメージを記録します。それは籠です。籠はヘブライ語でテバと言います。そしてまた「テバ」は創世記のノアの箱舟を意味する表現でもあります。創世記では、神が水で罪に満ちた世を滅ぼされた時、ノア家族だけが「テバ」に乗せられ、救われることになったと記されています。男の子はやむなく親から離れてナイル河に流されれなければなりませんでしたが、この子はテバに乗っていました。ここで、私たちにこの子の運命が分かってきます。彼は神によって救われると予想できます。おそらく昔のイスラエル人は、このヘブライ語の単語を見て、誰でもノアの箱舟を思い起こしたはずです。「箱舟によって生き残ったノアの家族のように、この子もパピルスの籠に乗って救われるだろう。」このように旧約聖書は人の名前や、ある物事のイメージに特別な意味を含ませたりもします。
2. 女性たちの活躍。
「その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると」(出エジプト2:4)男の子はパピルスの籠に乗ってナイル河に流れていきました。そして、彼の姉は遠くから籠がどこに流れていくかを見守っています。ところで偶然にも、その籠はファラオの娘のところに至りました。「ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、これは、きっと、ヘブライ人の子ですと言った。」(出エジプト2:5-6) ファラオの娘なら、きっと父親によって行われる「ヘブライ人の男児殺害」について知っていたはずです。それでも、彼女はヘブライ人の子を哀れに思いました。おそらく、彼女の母性愛がヘブライ人の子であることが分かったにもかかわらず、知らないふりをさせなかったわけでしょう。神はエジプトの王女を用いられ、最も危険な目にさらされたヘブライ人の子を、最も安全なエジプトの中心部に送られたのです。「そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」(出エジプト2:7) だけでなく、籠を見守っていた男の子の姉は、大胆にも王女に近づき、乳母が必要ではないかと尋ねることさえします。
おそらく、姉は死を覚悟して王女に近づいたことでしょう。そして、その結果は驚くべきものでした。「そうしておくれと、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますからと言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ」(出エジプト2:8-9) 男の子は王女の養子となり、また実母によって育てられることになったのです。神は男の子の母親、姉そしてエジプトの王女を用いられ、死にさらされていた彼を助け、また彼を当時の最も安全な場所である王女のもとに送られました。神はこの3人の女性を通して神の御業を成功的に成し遂げられたわけです。それは女性の活躍を顕かに示す箇所でした。神は女性を大切に思って用いられる方です。もし愛する息子を生かすための母親の情熱がなかったら、弟を守るための姉の勇気と覚悟がなかったら、ヘブライの子を助けたいとの王女の決断がなかったら、この子「モーセ」はどうなったでしょうか? 男もできないことを3人の女性が果たしたわけです。このように神は女性を用いられ、主の教会(イスラエル)を健全に建てられたのです。日本は比較的に男性中心の社会だと思います。しかし、もし女性がいなければ、日本の教会はどう保たれるでしょうか?志免教会の姉妹の皆さんも神に用いられる主の働き手としてプライドを持って生きていかれるよう祈ります。
3. 民の危機は主からの機会。
今日の説教のタイトルは「危機ではなく機会」です。 つまり、今日の本文のテーマは「逆説」であります。民に迫ってきた危機は、神が与えられる機会になりうるということです。神はイスラエルの民に、ただ「気楽に暮らしなさい」という意味として、彼らの先祖をエジプトに送られたわけではありません。神はすでに創世記の御言葉を通して、アブラハムにはっきり言われました。「主はアブラムに言われた。よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」(創世記15:13-14) 主はアブラハムの時から出エジプトについて予告されたのです。わずか70人の家族でエジプトに入ったアブラハムの子孫たち、すなわちイスラエルは、もう数十万になってエジプトという卵殻を破り、神の約束の地であるカナンに出ていかなければなりません。しかし、イスラエルはエジプトでの生活に慣れすぎて出エジプトのことは全く考えていませんでした。イスラエルに降りかかったエジプトの抑圧は実に辛いです。エジプトによって無実に殺された男の子たちのことは、とても悲しいです。しかし、この苦しみと悲しみといった危機はイスラエルが目覚め、自分の 進むべき方向がどこなのかを知らせる機会となりました。危機が機会となったわけです。イスラエルは今やエジプトという悪夢から目覚めなければなりません。そして神がお備えくださった約束の地であるカナンに進んでいかなければなりません。
今日の本文に登場するパピルスの籠の子モーセは、実はイスラエルを象徴する存在とも言えます。エジプトの抑圧のもとで、どこに進むべきかも分からないまま、何もできずに川に流される非常に不安な存在、イスラエルは、まるでそんな赤ちゃんモーセと似ています。しかし、神はその不安な存在であるモーセをエジプト王女のもとに導かれ、水から引き出されるように導いてくださいます。 (モーセという名前はヘブライ語で水から引き出すという意味の「マシャ」に由来します。)このようなモーセの姿からイスラエルの未来を予想することが出来ます。イスラエルは危機の真ん中で何もできなかったが、まるで籠(箱舟)に乗ったかのように神のお導きによってエジプトから脱出する機会を得ます。まるでモーセがナイル河から引き出されたように、紅海を渡って新しい救いの地に進むようになるでしょう。何もできない存在ですが、すべてがお出来になる存在によって危機の中から機会を得るようになるでしょう。私たちの教会も同じです。私たちには出来ることより、出来ないことがさらに多いです。 特に他国の教会に比べて規模が顕かに小さい日本の教会はなおさらです。現在も教会はますます小さくなっています。しかし、私たちは憶えなければなりません。私たちが河のような世の中で、何もできない存在のように見えようとも、私たちの背後にはすべてがお出来になる神がおられることを。そして神は私たちの弱さ、危機を通して、むしろ強さと機会を与えてくださる方であるということを。
締め括り
今日の説教を準備しながら、新約聖書のペトロの手紙の言葉が思い起されました。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(第一ペトロ1:5) 主の民の危機が、むしろ神による機会になりうる理由は、主の民は主の御守りの中に生きる存在だからです。つまり、神がキリストを通して、私たちを守ってくださるからです。第一ペトロの言葉のように「終わりの時に準備されている救い」すなわち、キリストがこの世に再び来られる再臨の日、すべてを屈服させ、主の勝利を宣言する終末の日まで、私たちは神の力によって守られて生きていく存在です。したがって、私たちに迫ってくる危機は、神の御守りの中で、むしろ機会となってくるものでしょう。キリストが十字架での死という危機を十字架での復活という機会に変え、死から命をもたらされたように、私たちの教会も神のお導きのもとで危機を機会として生きていくでしょう。神が志免教会の弱さと必要を知っておられ、新しい機会をくださることを信じます。そのような主の御守りと御助けを待ち望みつつ、主と共に歩いていく私たちであることを願います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。