創世記49章29~33節 (旧91頁)
ヘブライ人への手紙11章17~22節 (新415頁)
前置き
今日は、2020年から3年間続いてきた創世記の最後の説教です。まだ、48章、49章、50章が残っており、説教したい箇所が多いですが、今までと重なる内容を繰り返すことになると思い、大事な内容だけを取り上げて最後の説教をしたいと思います。ちなみに48章はヤコブの孫たちへの祝福、49章はヤコブの息子たちへの預言、そして50章はヤコブの葬儀とヤコブの息子たちの和解について描かれています。今日の説教は、その中で49章後尾にあるヤコブの最後の遺言について考えてみたいと思います。48、49、50章は読むだけで理解できる内容ですので、帰宅後に一読することをお勧めします。今日の説教のタイトルのように、創世記は罪によって遠ざかってしまった神と人間が、信仰によって再び結ばれる物語であります。今日は、創世記の大事な教えをもう一度振り返り、私たちの信仰生活において、適用できる教訓を考えてみたいと思います。
1. 信仰によって生きてきたヤコブの最期。
アブラハムの孫、イサクの息子、イスラエルという民族の名前の根源である人、ある意味で創世記の本当の主人公だとも言えるヤコブが、波乱万丈の人生を後にして神に召されました。ヤコブはアブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長の中で、最も欲張りで、弱い信仰で、世俗的な人と評価される人物です。しかし、彼はアブラハムとイサク以上に、劇的な神の導きと守りの中で生きてきた人でした。若い頃の彼は、揺れやすい信仰で生きたのですが、それでも神は彼と常に共に歩んでくださり、彼が信仰の道を踏み外さないように導いてくださいました。そして、今日の新約本文は、彼の人生をこう評価しています。「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。」(ヘブライ11:21) 私たちはこの言葉の「信仰によって」という表現に注目する必要があります。ヤコブは若い頃、神の御心ではなく、自分の意思に従って生きようとする人でした。彼は常に神のもとではなく、他のところを追い求める人でした。自分の利益のためには嘘もつき、欲張りで、算用高く、特定の妻と息子への偏愛で家族どうしの葛藤の元になる人でした。客観的に彼は信仰者として好ましくない生き方の人物だったのです。
しかし、彼の逝去後、長い時間が経ち、新約聖書は彼を「信仰によって」生きた人と評価しています。若い頃、信仰とは関係なく生きたヤコブが、神のお導きによって年を重ねつつ信仰の人物に成長していき、最終的には神のお許しによって信仰の先達として新約聖書に記されるようになったのです。私たちはそれを通じて、信仰というものの本質についてわかるようになります。信仰は信じる人によるものではなく、信仰をくださる方によるものであるということです。人が自らの立派な信仰によって信仰者として認められるわけではなく、神がご自分の恵みによって罪人を赦してくださり、信じる人と見なしてくださるから、信仰者として認められるというわけです。そういう意味で、私たちは自分の努力によってキリスト者になったわけではありません。父のお選び、キリストの御救い、聖霊のお導きによる信仰を通して、私たちは義とされ、キリスト者となったのです。私たちは今日も罪から自由ではない弱い存在です。しかし、主は常に私たちが信仰によって生きるように助けてくださいます。そして、私たちが主に召される日、主は私たちを「信仰によって生きた者」と呼ばれながら迎えてくださるでしょう。だから、今現在の自分の信仰の弱さのため、がっかりしないようにしましょう。自分の力で信仰生活をうまくいかせるわけではありません。主なる神が、私たちの信仰を導いてくださるのです。ヤコブは、その神の信仰のお導きによって信仰者と認められたのです。
2. 創世記が持つ真の意味。
「罪人に信仰への道が開かれた。」これが創世記が持つ最も大事な教えです。私たちは創世記という聖書について聞く時、「この世界がどのように創造されたのかを話す書だ。」と思うかもしれません。しかし、それは誤解です。創世記は、世界がどのように造られたのかを教える書ではありません。一部の無神論者たちは、聖書に現れる創造が、科学的に全く根拠のない嘘だと言います。「どうして世界が6日間に造られるだろうか、科学的にあり得ないことではないだろか。」と批判します。創世記が世界の創造についての書だと思うからです。しかし、それは創世記への完全に間違った理解の結果です。実際、創世記は創造に重点を置いた書ではありません。それなのになぜ創世記と呼ばれるのでしょうか? 創世記1章1節をヘブライ語で読むと「ベレシト(初めに)バラ(創造した)エロヒム(神が)」となります。「初めに神が創造された。」という意味です。創世記が創世記と呼ばれる理由は、この「ベレシト」にあります。古代中東の書籍(巻物)は別に題名がなく、第一行目の文章の最初の単語を題名として使う場合が多かったと言われます。たとえば、出エジプト記のヘブライ語のタイトルは「出」とか「エジプト」とか「記」とかではありません。「名前」がヘブライ語の出エジプト記のタイトルです。
「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。」(出エジプト1:1) ヘブライ語の出エジプト記1章1節の一番最初に出てくる接続詞を除いて「名前」という意味の「シェモト」が文章の一番前に出てくるからです。出エジプト記というタイトルは、後、ギリシャの翻訳に付けられた題名です。また創世記の物語に戻って、つまり創世記は最初の文章のために名付けられたタイトルに過ぎません。創世記の真の主題は「信仰のない罪人たちが、信仰によって神に立ち返る。」なのです。主は創世記の登場人物、アブラハムとイサクとヤコブを通して、本格的に信仰の歴史を始められ、この3人が登場する理由を裏付けするために創造、堕落、人類についてお話になったのです。(1章から11章まで)だから、私たちは創世記を読む際に創造だけに重点を置いてはなりません。「世界を創造された神が、堕落によって汚された罪人を愛し、彼らに信仰を与え、彼らをご自分に引き戻されるために信仰の先祖であるアブラハムとその子孫イスラエルをお呼びになった。」に重点を置かなければなりません。したがって、創世記の最も重要なテーマは「信仰」なのです。私たちはできないことを神はお出来になるという信仰。私たちが信仰を作るのではなく、神が私たちに信仰をくださるという信仰。創世記は、まさにその信仰のために記された書なのです。
3. 信仰によって。
「ヤコブは息子たちに命じた。間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」(創世記49:29) 今日の旧約本文は、それほど重要な言葉だとは感じられないかもしれません。ただ、ヤコブの遺言の中の一つに過ぎないと思われるかもしれません。しかし、「ヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」という表現ほど、ヤコブの最後の信仰をよく表わす言葉はないと思います。若き日のヤコブは信仰と遠い人間でした。しかし、数多くの人生の喜怒哀楽の中で、ヤコブは神が養ってくださった信仰によって、真の信仰者に成長していきました。若い頃の彼は、自分自身の思いのままに生きようとする人でしたが、死を目の前にした今では、神の御心に従順に従い、神おひとりだけを崇める人となっていました。「ヘト人エフロンの畑にある洞穴(マクペラ)」とは、創世記23章でアブラハムが、ヘト人エフロンから銀400で買い取ったアブラハムの土地です。そして、そこは神がアブラハムの子孫に与えると約束された乳と密の流れる地カナンを意味する場所でした。ヤコブはその地を偲びつつ、死んでも神の約束の地に帰ろうとしたわけです。ヤコブは昔の自分の欲望に満ちた人生から完全に変わり、信仰によって神の約束を憶えながら死んでいったのです。もしかして、ヤコブにはエジプトで盛大な葬儀を行い、華やかな墓に葬られる選択肢もあったかもしれません。もし若い頃のヤコブだったら、そうしたかもしれません。しかし、最期のヤコブは、この世の栄ではなく、信仰によって神の約束を選んだのです。
結局のところ、創世記の長い話しは信仰についての物語なのです。創世記で一番比重の大きい人物であるヤコブは、この世の栄ではなく、神への信仰を選びました。創世記の1章から11章の間に登場した数多くの人類が神を背いて罪の道に沿って行ったのに、ヤコブはその道から脱し、神への信仰の道に沿って行ったのです。だからヤコブは「信仰によって」神の御前で自分の人生の最期を迎えたのです。このように創世記は信仰の書です。不信仰の中で信仰を選んだ偉大な信仰の先達の物語です。そして創世記は今日も私たちに不信仰と信仰の分かれ道を見せ、正しい選びを求めています。過去3年間の説教の内容が全て覚えられるわけではないと思います。説教をした私もすべて覚えることは無理です。しかし、これ一つだけははっきり覚えましょう。神は信仰によって生きる人をお呼びになるために信仰の書である創世記をくださいました。そして、私たちは創世記に登場した信仰の先達を継ぐ信仰者として神に召されたキリスト者なのです。確かに私たちの信仰は弱いです。しかし、神はいつも私たちの弱い信仰を大切に守ってくださり、私たちと一緒に歩いてくださいます。創世記を通じて学んだ神への信仰の物語を記憶し、弱いけれど、変わりない信仰を追求していく私たちであることを祈ります。
締め括り
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。正しい者は信仰によって生きると書いてあるとおりです。」(ローマ1:17) キリスト教において、信仰とは、存在の前提条件であると言っても過言ではないと思います。信仰がなければ神の創造を信じることができず、信仰がなければ主イエスの救いを信じることもできず、信仰がなければ今も私と共にいて私を導いてくださる聖霊の御業を信じることもできず、信仰がなければ私たちの人生が神によって守られているということも信じられないでしょう。したがって、信仰はキリスト者の最も重要な価値の中で一つなのです。神が志免教会の兄弟姉妹に変わらない信仰を与えてくださることを祈ります。また、その信仰によって世に勝利して生きていく私たちであることを祈ります。正しい者は信仰によって生きます。今週も信仰によって生きていく私たちになることを祈ります。父と子と聖霊の名によって。 アーメン。