イザヤ書11章1-10節 (旧1078頁)
ヨハネによる福音書13章34-35節 (新196頁)
前置き
今日は、韓国釜山の巨堤教会の青年の皆さんが志免教会の礼拝にお越しくださいました。志免教会は青年の皆さんを、心から歓迎します。ありがとうございます。巨堤教会は大韓イエス教長老会高神派に属した教会です。高神派は、日本統治時代の朝鮮教会において、神社参拝の強要を拒み、喜んで殉教し、投獄された、いわば出獄聖徒たちの跡継ぎです。高神派の先輩たちは、日本帝国の宗教弾圧によって、苦難を受けることになってしまいましたが、だからこそ、その跡継ぎである高神の若者たちは、さらに日本のために祈り、日本の教会を愛し協力していく、大事な根拠を持っていると思います。そして、日本キリスト教会は過去の過ちをことごとく悔い改め、神の御前で、正しい教会として立っていくために、力を尽くす教会です。現在、高神派は日本キリスト教会と直接的な協力関係を結んではいませんが、キリストにあって、同じ一つの体なる教会として、日本キリスト教会と一緒に歩んで行かなければならないと思います。日本の教会の状況を正しく知り、特に日本キリスト教会九州中会と志免教会を憶え、祈っていただくこと、そして、キリストにあって深い霊的な交わりを作っていくことを願います。
1.神の愛について
キリスト者なら、聖書を通じて、愛という表現をよく耳にしたり、また口にしたりします。愛、実に美しい言葉です。ところで、私たちが頻繁に聞いたり、語ったりする愛とは、果たしてどういうものなのしょうか? ギリシャ語には、4つの愛の概念があると言われます。一つ、自分のエゴに基づいて快楽と官能を追求するエロスがあります。異性間の愛を意味する場合が多いです。二つ、フィロスです。友愛、師弟の間の愛を意味します。ストルゲーもあります。子供への親の愛、親への子供の愛です。もしかしたら、人間の愛の中で、最も神の愛に似たような愛であるかもしれません。最後にアガペーがあります。アガペーは、神の聖なる愛、無条件的な愛、すなわちイエス·キリストの愛の根源であり、三位一体の相互の愛と言えます。このように、ギリシャの世界には、4種類の愛があると言われますが、私たちが追求すべき愛は、断然キリストご自身が実践されたアガペーだと思います。もちろん、人間はアガペーを完全に行うことはできません。ただ、主のみお出来になる完璧な愛だからです。あくまで、追求なのです。私たちは罪を持った人間としての自分の限界を認めなければならないからです。それでは、4つの愛の中で、神の愛であるアガペーについて考えてみましょう。
先日、連合婦人会閉会祈祷会でも、そして3週間前の水曜祈祷会でもお話しましたが、「神は愛です。」という言葉について、今日も、もう一度お話したいと思います。第一ヨハネの手紙の4章16節には「神は愛です」という言葉があります。なぜ、神を愛と言うのでしょうか? ある意味で、愛は神の被造物です。被造物を神と言うのは偶像作りではないでしょうか。しかし、驚くべきことは、神が聖書を通して「神は愛」という言葉を許してくださったということです。神がご自身のことを愛と認めてくださったわけです。しかし、私たちははっきりする必要があります。「神は愛」という言葉は、可能ですが「愛がすなわち神」という言葉は、成立できないということです。つまり、神ご自身が自らを被造物である愛に比喩され、自らを低くされたということです。この世のすべての被造物より、はるかに大きい神が、愛という小さい概念の被造物に合わせて、ご自分について教えてくださったのです。人間は神を感じることも、触れることも、見ることもできない、小さい存在です。それに対し、神は宇宙よりも大きい方です。しかし、主は愛という人間が理解できる言語によって、ご自身を私たちに表してくださいました。人間にとって、不可解な対象である神が、ご自分がすなわち愛という言葉を通して、私たちにご自分のことを表してくださったわけです。つまり、主は愛によって、人間との交わりをお造りになったということです。
その神の愛の最も決定的な出来事は、断然、イエス·キリストのご到来とご奉仕、死、そして復活です。人間が見ることも、知ることもできない神は、キリストという存在を通して、人間を訪れてくださいました。そして、その方の全生涯による犠牲と愛とで、私たちを救ってくださったのです。大きな神が、小さな被造物である人間の姿でおいでになり、主イエスを信じる者たちの救いのために、自らを犠牲にしてくださったのです。まるで、愛という小さな被造物に、ご自分を合わせてくださったように、イエス·キリストという最も完全な人間として来られた神が、キリストの愛によって私たちにご自分のことを見せてくださったのです。また、神はイエス·キリストという最も完全な神によって、私たちの人生の中に来られ、私たちを救いへと導いてくださったのです。したがって、神の愛、アガペーは見捨てられるべき罪人にご自分を与えてくださるための神の自己卑下なのです。あえて、憐れんでくださらなくても、見捨てられても構わない、罪に満ちた存在のために、自らを犠牲になさった愛なのです。神の愛は、このように意味のない存在を意味のある存在に生まれ変わらせる神の救いの原動力なのです。したがって、私たちが追求すべき愛は、この神の限りのない愛、つまりアガペーの愛なのです。
2.お互いに愛しあいなさい。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35) 今日の本文は、主イエスが逮捕される夜、最後の晩餐と弟子たちの足洗い後、弟子たちにくださった御言葉です。ここの「愛しあいなさい。」は「アガペー」の動詞形である「アガパオ」です。愚かな弟子たちは、互いにアガペーしあうことのできない存在です。しかし、イエスはご自分の体である教会を形成していく、この弟子たちが、自分の力ではなく、キリストによって、互いにアガペーしあうことをお望みになりました。彼らが互いにアガペーしあう時、彼らによって、キリストが表されることになるからです。教会と教会の愛、信徒と信徒の愛がキリストを表し、主の存在を宣べ伝える力になるからです。ですから、私たちは、誰よりも熱く愛しなければなりません。異性との愛、友との愛、親子の愛を超える神の完全な愛を追い求め、私たちの全生涯を通して、愛しあいつつ生きていかなければなりません。したがって、愛は、教会が存在する理由であり、愛のない教会は死んだものと同じなのです。旧約のイザヤ預言者はこう唱えました。
「わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:9) 主のご統治なさる国、神の国では猛獣と草食動物が幼子の手に導かれることになるでしょう。皆が神の愛に満たされ、お互いに大切にしあい、愛し合って生きるようになるでしょう。神の国は、ただ、死後に入る来世のことではありません。主イエスがこの地上に来られ、主なる神のご統治を宣言された時、神の国はすでに、この地上で始まったのです。そして、その地上での神の国を最も明らかに表す存在は、主イエスの教会なのです。ですから、教会は、主のご命令に聴き従い、愛しあって行かなければなりません。キリストの身なる教会の一人一人が主の愛にならって生きていかなければなりません。その愛の中で、神と御国が、この世の人々に明確に現れるからです。日本と韓国は大昔から深い関係を結んできました。時には、良い関係を、時には悪い関係を結んできたのです。昔、朝鮮半島では倭寇(わこう)という海賊に多くの人々が被害を受けました。ところが、朝鮮半島からも、日本の人々を苦しめた新羅寇(しらぎこう)という海賊もいたそうです。モンゴルの日本来襲の際、高麗が攻撃を支えたとの歴史もあり、豊臣秀吉時代には日本が朝鮮を攻撃したこともあります。また、近代になっては日本帝国が朝鮮を侵略し、植民地にした事実もあります。日本と韓国は数多くの遺憾の歴史を作ってきたのです。
だからこそ、日本の教会と韓国の教会の関係はさらに格別です。キリストという一つの頭を崇める一つの教会として、民族と国家とイデオロギーを越え、お互いに愛し合い、協力しあっていくという大事な使命を持っているからです。日本と韓国とを問わず、キリストが私たちを愛によって一つの教会に結んでくださったからです。志免教会の皆さん、巨堤(ゴゼ)教会の青年たちを憶えてください。彼らが政治的に厄介な隣国の人ではなく、キリストにあって私たちの兄弟であり、姉妹であることを忘れないでください。巨堤(ゴゼ)教会の青年の皆さん、志免教会を憶えてください。彼らが歴史的に残念な隣国の人だという政治的な認識から離れ、私たちが愛し、仕えていくべき存在であるという新しい心を持って生きていきましょう。志免教会と巨堤教会が国と民族と言語の溝を乗り越え、キリストにあって愛し合い、一つになる時、この世が私たちを通じて主キリストを知るようになり、神の国が来るのを知るようになるでしょう。今日の礼拝が日本と韓国の教会を一つにする愛の始まりであることを祈ります。私たちの愛の中で、キリストはご自分の栄光を限りなく表してくださることを信じます。
締め括り
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(第一コリント13:1-3) なぜ、使徒パウロがこのように力強く愛を語ったのでしょうか。考えてみたいと思います。愛についての実践的な課題を一つ出させていただきましょうか。教会の中に、いやな人がいれば、その人を愛する心をくださいと祈りましょう。陰口を話したい人はいるならば。心の中に、その人のために「愛しています。」と10回唱えましょう。積極的な愛の実践のために努力しましょう。口先だけではなく、行動によって証明してください。神の国、主の教会の根拠は主の愛から始まります。主の愛が十字架の救いをもたらしたからです。このような主の愛を記憶し、私たちもお互いに愛し合い、主にあって生きていきましょう。ここに集っておられる皆さんの上に神の愛と恵みが豊かでありますよう祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。