詩編62編8-9節(旧895頁)
ルカによる福音書23章39-43節(新158頁)
前置き
前回の説教の時は、本当に残念な気持ちでした。非常に大事な栄光の意味についての内容でしたのに、まともな説明が出来なかったからです。到底、満足が出来ない説教だったと思います。前回の説教での「人の子」に関しては、皆さんがほとんどお分かりだったと思います。一方では強力なメシアとして来られた人の子、また他方では弱い人間として来られた人の子、人の子であるイエスのその両面性を通して、私たちの救いを成し遂げてくださった主について学んだのです。その次はその人の子の栄光に関する内容でしたが、私はその「栄光」という概念を、聞き取りやすく説明することが出来なかったと思います。そこで、今日は、予定されていた創世記の説教を来週に延ばして、聖書が語る「栄光」の意味についてもう一度詳しく話してみようとしています。できる限り、分かりやすく説教を準備しようと自分なり努力しましたが、多少、抽象的な内容でもありますので、難しく感じられる方がおられるかもしれません。しかし、明らかなことは聖書が語る「栄光」は、世間が漠然と考えている「ただの栄えた光」ではないということです。栄光の意味を正しく理解する時に、私たちは、なぜキリストが十字架につけられなければならなかったのかが分かるようになり、人の子であるイエスの栄光とは何かについて正しく理解することができるようになると思います。どうか主が悟りを与えてくださいますように祈ります。
1。誤解しがちな栄光の概念。
ルカによる福音書23章には、イエスと共に十字架につけられた、二人の犯罪人の物語が登場しています。二人の犯罪人のうち一人は、イエスをののしりつつ「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と叫びました。彼は本当のメシアなら強い権力があるはずだと思っていたようです。すると、もう一人の犯罪人が、彼をたしなめて言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」彼はメシアの権力ではなくイエスというメシアの存在自体に注目したわけです。私たちは、これを通じてメシアに対する2種類の人間像を見ることが出来ます。一人は「メシアという存在ではなく、その権力」を追求する者、もう一人は「権力とは関係なくメシアの存在自体」を追求する者です。おそらく、世の多くの人々はイエスをののしり叫んだ、前の犯罪人のような見方でメシアを理解しているかもしれません。そして、そのような「強くて圧倒的な権力」がメシアの栄光だと思うかもしれません。しかし、聖書はもう一人の犯罪人の見方からメシアの栄光について語っています。「権力の有無とは関係なく、もっぱら神の御心に服従し、何の罪もなく十字架にかけられたメシア」の存在そのものを栄光だと語っているのです。この二人の犯罪人の中で、果たして誰がメシアの栄光を正しく理解しているのでしょうか? 話を変えて、中世のカトリック教会はイエスをののしった犯罪人のような見方から神の栄光を理解しようとしていました。
権力、名誉、財物を神の祝福であり、栄光だと思いました。まるで、メシアの権力を望んだ、今日の犯罪人が持った見方のように、神の栄光を間違って理解したのです。その結果、中世カトリック教会は権力、名誉、財物のために数多くの不正と犯罪、戦争をもたらしてしまいました。そういうわけで、堕落したカトリック教会から抜け出して宗教改革を打ち立てた信仰者たちは、権力としての栄光を追求していた中世カトリックの神学を「栄光の神学」と名付け、中世カトリック教会の「栄光への誤解」を批判しました。宗教改革者たちは、神の御心に従順に聞き従い、十字架の上で死ぬまで服従されたイエスそのものから真の栄光を見つけようとしたのです。神は十字架のいけにえとして、数多くの人類を救ってくださるためにイエスを遣わされました。そして、イエスは十分な力があったにもかかわらず、神の御心に服従し、自ら死んでくださいました。その結果、神はキリストの死を通して、罪人の救いという御心を成就されたのです。宗教改革者たちは、死ぬまで従順に行われたイエスの生き方を追い求め、自らの神学を「十字架の神学」と名付けました。十字架で死んでくださったイエスと、その存在自体から、神の栄光を見つけようとしたわけです。私たちは、栄光についてどんなイメージを持っているでしょうか。「圧倒的で強力で輝かしい何か」を思い起こしているのではないでしょうか? しかし、神の御心への服従と十字架上でのみすぼらしい死から、はじめてキリストの栄光が現れたことを忘れてはならないと思います。
2.栄光の真の意味について。
以上の話を聞いて、聖書が語る栄光は漠然とした「圧倒的で強力で輝かしい何か」のイメージではないということがお分かりになったと思います。それでは、栄光とは何でしょうか。内容が複雑で難しくなると思いますので、単刀直入に結論から話して説明に移りましょう。「ある存在が自分らしく存在する状態。その存在について正しく知り、正しく言い表す(告白)こと」が聖書が語る栄光のイメージです。つまり「神が神らしくいらっしゃること。」が神の栄光であり、「その神について正しく知り告白すること」が神を信じる者の栄光という意味です。父なる神においては、その存在自体が神らしい状態です。創り主ですから存在なさる自体がすでに栄光であるのです。(神が存在しなければ、世界も存在できない) 救い主イエスにおいては、十字架で死んで復活し、民を救われることが救い主らしい状態です。主イエスはすでに死に、復活され、民を救われましたので、栄光の中におられます。助け主、聖霊においては、神の民を助けて導かれるのが助け主らしい状態です。聖霊はすでにその民を助け導いていらっしゃいますので、もう栄光の中におられます。そして、以上の三位一体なる神の栄光について正しく知り、信じ、告白することこそが、まさに神にかたどって創造された人間がとうぜん取るべき人間らしい状態、つまり人間の栄光なのです。
もう少し詳しく説明してみましょう。聖書の原文には栄光を意味する二つの表現があります。一つはヘブライ語の「カーボード」で、もう一つは先週も取り上げましたギリシャ語の「ドクサ」です。「カーボード」は語源的に「重い」という意味です。私たちは「慎重な人」という表現をよく使います。それは「重みがあり、忠実である」というイメージでしょう。カーボードもそれと似たイメージです。「ある存在が自分の存在理由にふさわしく重みと忠実さを持っているさま」なのです。旧約聖書が語る「栄光」は、ある存在が自分の存在理由に重みを持って忠実である状態を意味します。ある存在の強い力や輝かしい光ではなく、もしそれらのものがなくても、その存在自体が持つ存在理由に忠実な状態がまさに光栄なのです。言い換えれば「ある存在が自分らしく存在すること」という意味です。それでは新約聖書は何と語っているでしょうか。先週の取り上げましたギリシャ語の「ドクサ」がそれです。新約聖書で栄光を意味するギリシャ語「ドクサ」は「~に対して正しい見解を持つ。~に対して正しい見解を持たせる)を意味します。言い換えれば「~について正しく知る。~について正しく知らせる)」という意味です。「ある存在について正しく知っていること。 正しく言い表すこと。」とも言えるでしょう。それがまさに新約が語る栄光の意味なのです。
したがって「誰かが自分の存在に重みを持って忠実であること 」「ある存在について正しく知り、正しく言い表すこと」が、聖書が語る栄光のイメージなのです。そのような意味として、先週の本文に出たヤコボとヨハネ兄弟は、イエスに大変な失礼を犯してしまいました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(マルコ 10:35,37) 私たちは先ほど、救い主イエスの栄光とは「十字架で死んで復活し、主の民を救われる救い主らしい状態」を意味すると言いました。つまり主イエスの栄光は、他人とまったく共有出来ない、十字架での犠牲と復活から生まれるものです。弟子たちが主イエスの栄光を分け与えられるためには、まずは死ななければならなりません。しかし、死んだと言っても罪のある二人は他人を救えません。主の栄光は他人と分かち合えないものです。なのに、弟子たちは主の栄光の意味を正しく知らずに、ただ欲しがったわけです。それで、イエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(マルコ10:38) それでもヤコボとヨハネは「できます」と、せんえつな言動をしました。キリストの栄光は「キリストがキリストらしくおられること」すなわち、「十字架の死と復活による民の救い」を意味します。それらは誰とも共有できないキリストだけに託された栄光なのです。それに対する人間が受けるべき栄光は、ただただ「キリストの存在理由を正しく知り、正しく告白することだけです。
3.現在を生きている私たちにとって栄光とは?
したがって、私たちは栄光に対して、誤解しないようにしましょう。栄光とは太陽のように輝き、台風のように強い、波のように激しい何かを意味するものではありません。神の栄光は「神が神らしく存在なさること」であり、そのような「神のことを正しく知り、正しく言い表す(告白)こと。」が信者の栄光なのです。もちろん聖書には神の栄光を「圧倒的で強力で輝く何か」のように描くときもあります。しかし、それは全能なる神であるゆえに当然に現れる、権能なのです。それ自体が栄光ではないということです。神の栄光が持つ最も重要な意味は「神が神らしくいらっしゃることと、それを正しく知り、告白すること。」です。ここで私たち自身に適用したいことがあります。「正しく知り、告白すること」という表現です。大信仰問答10問には、このような言葉があります。「まことの神を知り、そして、信ずることは、神を崇め、神の国と神の義とを求めて生きることである。」正しく知るということは、正しく信じることを伴います。そして正しく信じる者は、正しく神を崇め、神の国と神の義とを求めて生きるために、自分の信仰を公に告白する者です。私たちが礼拝の時、信仰を告白する理由も、私たちの知識と信仰を神と人の前に公に告白するためです。そのような意味として、「正しく知り、正しく告白する、私たちの信仰」は、私たちキリスト者にとって「栄光」になるのです。神を知り、信じて、告白することこそが、私たちが私たちらしく生きる存在理由、まさに私たちの栄光であるのです。
締め括り
今日の説教は先週よりは聞きやすかったでしょうか。もしかしたら依然として難しく感じられる方がおられるかもしれません。私にも神学が難しいです。しかし、大丈夫です。 皆さん、お忘れになっても問題ありません。いつか、また聞く機会があるでしょう。そもそも聖書も、説教も、何度も読み、何度も聞いて学び続けるべきものだからです。ただし、これ一つだけは覚えてほしいです。神の栄光とは、漠然とした「圧倒的で強力で輝く何か」ではなく、「神が神らしくいらっしゃること。」であり、キリスト者の栄光とは「その神のことを正しく知り、正しく告白すること」であるということです。この二つだけを覚えてくださっても、今日の説教は成功だと思います。最後に詩篇の言葉を一節読んで説教を終えたいと思います。「わたしの救いと栄え(栄光、カーボード)は神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」(詩編62:8) 神の栄光と私たちの栄光への正しい理解を持って信仰生活を続けていきたいと思います。今週も主の栄光にあって生きていく志免教会になりますように祈ります。