イザヤ書1章11-17節(旧1061頁)
マルコによる福音書7章1-23節(新74頁)
前置き
先々週の説教では「五つのパンと二匹の魚の奇跡の後、逆風に恐れていた弟子たちと、湖の上を歩いて彼らのところにおいでになったイエス」の物語について語りました。その物語を通して、キリストの教会が追い求めるべき目標は「単に規模が大きくなることではなく、主の御心を正しく知り、それに従うこと」であり、キリスト者が追い求めるべき価値は「この世での成功ではなく、神の御心に聞き従う生き方」であることが分かりました。神を知らない未信者と、神の民であるキリスト者の違いは、その点にありました。キリスト者の人生の中にも苦難と試練があり得るものです。しかし、神はその苦難と試練の中でも、いつもご自分の民を見守っておられ、主がお定めになった時に民を助けてくださる方です。その神を忘れず、心を尽くし、み旨を求めて生きることが、キリスト者に与えられた真の人生の意味なのです。我々の人生の中には、財物、名誉、権力などが必要な時もあるでしょうが、それが我々の人生の目標になってはならないでしょう。神がキリストを通して私たちを召され、聖霊を通して私たちと共に歩んでくださる理由は、私たちの世俗の成功のためではありません。神とその御心を知り、その御旨のままに生きるためであることを忘れてはなりません。
1.昔の人の言い伝えとは?
「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」(マルコ7:1-2)イエスの御業を妨げるために血眼になっていた、当時のユダヤ人の指導者たち(ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち)が、イエスの所に訪ねて来ました。ファリサイ派とは、ユダヤ教の純粋性を守ろうとする根本主義ユダヤ人の集団であり、律法学者とは、旧約聖書を研究し、その律法を大事にしていた、いわば神学者でした。ファリサイ派の人々をあえて現在に照らしてみれば、祈り、黙想、礼拝、献金、聖餐式、宗教記念日などを徹底して守る、信心深い宗教者と言えるでしょう。また、律法学者は神学の専攻者、神学校の教授、牧師と言えるでしょう。しかし、彼らの問題点は、そのすべての宗教的な儀式と知識には精通しているものの、神に遣わされた真のメシアを見分ける目がないということでした。これを通して、ひとつはっきりさせておきたいことは、私たちが、いくら礼拝と宗教生活と聖書の研究に情熱的に取り組んでいると言っても、神の御心とは何か、何をやるべきかが分からなければ、私たちも、ファリサイ派や律法学者と、そんなに違いのない存在として、神に判断されるかも知れないということです。ただ、表だけの宗教的な情熱は、人の目を欺くことは出来るでしょうが、人の心を見ておられる神の御目には、すべてがばれてしまうだけでしょう。
「そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」(5)彼らはイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは神の律法を固く守らないのですか?」と言いませんでした。「なぜ、昔の人の言い伝えに従って歩まないのですか?」と言ったのです。その時、イエスは「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(6-8)と責められました。ここでの昔の人の言い伝えとは、旧約の律法そのものを意味するものではありません。皆さん、タルムードというユダヤ人の書物についてお聞きになったことがございますか。このタルムードとは「ミシュナー」と「ゲマラ」というモーセ五書についての、ユダヤのラビたちの解釈と討論を収録した本です。今日の本文に出てくる「昔の人の言い伝え」はミシュナーである可能性が高いです。牧師は聖書の解説書を参考にして説教を準備したりします。しかし、解説書は聖書そのものではありません。聖書についての神学者たちの解釈にすぎず、時代や状況の移り変わりによって変わりがちなものです。ひとえに変わらないものは、聖書の中の神の御言葉だけです。ところが、今日の本文のユダヤ人たちは、神の御言葉である律法の精神は無視しながら、昔の人の言い伝えであるミシュナーを大切に扱い、なぜ主の弟子たちが、それを守らないのかを問い詰めていたのでした。
2.律法の精神
それでは、ここでユダヤ人たちが無視していた律法の精神とは、何でしょうか? イエスは彼らに「あなたたちは偽善者だ。」という表現で咎められました。ここで「偽善者」は、ギリシャ語で「俳優」を意味する「ヒュポクリテース」という言葉で表現されています。つまり、「あなたたちの信仰の行いは、真心の籠もっていない演技にすぎない」という意味なのでしょう。数年前にハリウッド映画の「ラストサムライ」を印象深く観たことがあります。その時、有名な日本の俳優である渡辺謙さんにはまって、ファンになりました。明治維新後、新時代になっても、侍の伝統と精神を守ろうとする仁義に厚い武士、彼の演技は印象的でした。しかし、私は渡辺さんが本当の侍ではないことを知っています。いくら外見と演技が現実のようだと言っても、彼は現代の俳優であるだけです。その後、彼は他の映画に日本帝国の士官として、また、現代の教授としても出演しました。イエスが言われた、偽善者を意味する「ヒュポクリテース(俳優)」という表現も、そんなものでしょう。ファリサイ派の人々と律法学者たちが律法を固く守るという名目で、昔の人の言い伝えを力強く取り上げていますが、実際、そこには律法の教えから示されるべき、何かが欠けているということです。彼らは律法が語る神の御心が分からず、ただ律法の解釈のために人為的に作られた人間の教えだけを、まるで俳優が演技をするかように偽善的に守ろうとしていたということです。彼らはそのような偽善的な姿勢でイエスと弟子たちを批判していたわけです。
主イエスは、福音書のいくつかの箇所を通して、律法の精神について教えてくださいました。「第一の掟は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない。」(マタイ22、マガ12、ヌガ10) 律法は神と隣人を愛することこそを、最も重要なものだと教えています。我々は、時々今日の本文に出てくる「昔の人の言い伝え」と「旧約の律法」を間違って受け取ってしまい、「律法は行いだけを煽り、神の愛とは関連なく、望ましくないもの。」と誤解しがちだと思います。しかし、そうした間違った理解は、おそらく、当時のユダヤ人の間違った律法遵守、つまり昔の人の言い伝えを律法の精神だと勘違いしていた人たちによって生じた誤解ではないかと思います。今日の本文で、イエスはこの点を叩き直そうとしておられるのです。当時の多くのユダヤ人たちは律法が持っている本当の意味、つまり神と隣人への愛を行って守ることには消極的で、ただ自分が追求する「伝統に従って何かを守る」という拘りに陥り、神がくださった律法の本質を歪曲してしまいました。そういうわけで、イエスは「コルバン(神への供え物)」という間違った昔の人の言い伝えを取り上げて、そのため、十戒の大事な第5の戒である両親への敬いが守られていないと教えてくださったわけです。主は、ユダヤ人の間違った伝統の矛盾と罪について教えてくださったのです。
3. 主が本当に望まれること。
ユダヤ人たちは、自民族が神に選ばれた唯一の民だと信じていました。自分たち以外は、皆が呪われるべきだという間違った優越主義を持っていたのです。彼らは自分たちと違う存在に対して無慈悲な判断と呪いをかけました。しかし、それゆえに彼らは結局、自分たちが崇めようとする神ご自身であるキリストさえも、呪われた存在として烙印を押す愚行を犯してしまいました。自分たちが大事に扱う昔の人の言い伝えに目が眩み、真の神を見分けられず、不浄な存在にしてしまったのです。自分たちの神であるイエスさえも見分けられない彼らが、隣人を蔑視することは、当然のことでした。イエスは真の律法の精神と真の清さについて教えてくださることによって、人々が律法の真の精神について悟ることをお望みになりました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(15)主がご自分の民に本当に望まれることは、律法の最も重要な教えである「神と隣人への愛」なのです。人を汚すのは手を洗わなかったり、汚れた物に触れたりすることではありません。神の御言葉である律法の精神を歪め、自分の考えや拘りに神を合わせようとすること、それこそがまさに本当の汚れたものなのです。
「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」(イサヤ1:11,16,17)イサヤは、ユダヤ王国で活躍した予言者でした。(元々、イスラエルは一つの国でしたが、ダビデ王の息子ソロモンの死後、北のイスラエルと南のユダヤに分裂することになりました。)彼は、神の御前に何の誠実な信心もなく、ただ習慣的に出てきて宗教儀式を行っていたユダヤ人たちに、このような神の御言葉を宣べ伝えたのでした。ユダヤの民が、いくら熱心に神殿に集まり、献げ物を捧げ、神を祭ると言っても、神は愛の実践のない民から礼拝をお受けになりませんでした。むしろ、そんな華麗な礼拝をやめて、生活の中で愛を実践することを望まれたのです。しかし、そうした主の仰せに最後まで従わなかったユダヤ人は、結局、紀元前586年ごろにバビロン帝国に滅ぼされてしまいました。律法の真の精神である愛を実践し、律法の教えを固く守って生きることを望んでおられる神でしたが、民はその神の御心に従わず、その結果は滅びだったのです。
締め括り。
何十年が経ち、バビロンがペルシャに滅ぼされた後、皇帝キュロスはユダヤ人の文化や宗教に配慮してくれました。ネヘミヤとエズラといった立派な指導者によって、ユダヤ人は自らを改革するようになりました。しかし、時間が経ってイエスの時代になった時、その子孫たちは再び律法の精神を損ねる過ちを犯してしまいました。神が望まれるキリスト者の生き方は、外見だけ見事な宗教生活ではありません。そのような側面も時には必要ではありますが、何よりも大事なことは、世の中で神の言葉を実践しつつ生きることです。イエスは、その神の御言葉に聞き従い、御言葉(律法)の精神である愛の実践のために人間になってくださり、人間への愛のために、人間の代わりに十字架につけられて死に、人間の罪を赦してくださいました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ15:12-14) 主イエスは私たちへの愛の極み、つまり赦しと救いのために、十字架にかけられ、また、私たちを友、民、神の子としてくださるために復活なさったのです。神が本当に望まれることは、愛の実践です。我々がこの福岡に生きる主の民であることを示すしるしも、愛の実践にあります。私たちの愛が実践される時に、私たちの礼拝も真の礼拝として一層輝くことでしょう。神は私たちの愛の実践をご覧になって祝福してくださるでしょう。そのような我々になりますように祈ります。