創世記24章1-14節(旧33頁)
ヨハネによる福音書3章22-30節(新168頁)
前回の創世記の説教ではアブラハムが妻のサラと、その子孫のために墓を備える物語を話しました。ところで、カナンの墓、つまりマクぺラの洞穴は、単なる墓地という次元を超えるアブラハムの子孫たちが必ず帰るべき神との約束の地という意味を持っていました。創世記の次の出エジプト記は、アブラハムの子孫イスラエルがこの約束の地に帰っていく物語なのです。私たちキリスト者にも帰るべき所があります。主イエスは、神の民でありアブラハムの霊的な子孫である私たち教会員に必ず帰るべき所を備えてくださるために十字架で死んでくださった方です。私たちの帰るべき所とは、まさに創り主であり、救い者である三位一体なる神の統治のもとなのです。神がアブラハムを通して、マクぺラの洞穴を与えてくださったように、キリストを通しては真の救いをくださいました。私たちは、マクペラの物語を通してキリストの御救いを固く記憶し、常に主の恵みのもとのみにいることを誓って生きるべきでしょう。
1.神の祝福について。
今日の本文は神の民アブラハムが何事においても神の祝福のもとで生きていたという記録から始まります。「アブラハムは多くの日を重ね、老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。」(1)創世記12章でアブラハムを呼び出された神は彼に約束されました。「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創12:2)しかし、アブラハムは祝福どころか、数多くの信仰の失敗と苦しみの中で暮らしました。妻を2度も捨て、相続人にしようとしていた甥と別れ、側女の故に家庭の問題が起きました。約束の相続人の兆しは中々見えませんでした。こんなアブラハムは本当に祝福された人だったのでしょうか。果たして神の祝福とは何でしょうか。まず、我々は聖書が語る「祝福」という概念を確実に理解する必要があります。もともと、祝福を意味するヘブライ語の「バラク」は「誰かに向かって跪く。」という意味です。神がアブラハムにくださった祝福とは、「経済的な豊かさ、子どもたちの出世、無病長寿」などの漠然とした世俗的な幸せを意味するものではありませんでした。アブラハムの祝福は、彼が真の神に出会い、その御前に跪き、主に従って生きることでした。
ここで跪くということは惨めに屈服するという意味ではありません。人が自分の存在理由に気付き、創り主の御前に出ること。つまり、自分の在り方を悟ることなのです。アブラハムは信仰の失敗と苦しみの中で暮らしていましたが、神は一度もアブラハムをお離れになりませんでした。神は、時には、何もお答えになりませんでしたが、その時でさえも変ることなく彼の人生の中におられたのです。アブラハムは紆余曲折の歳月の中でも、変わらず神と共に歩み、神がくださった信仰によって数多くの苦難と逆境を乗り越えました。アブラハムの人生は、神の無い自己中心的な生き方から、神に跪き、すべてを委ね、神と同道する神中心的な生き方に変わっていきました。聖書が語る祝福とは、まさにそういうことです。民が神の御心に従順に聞き従うことなのです。私たちの求めるべき祝福は創り主であり、救い主である主なる神を知ること、また共に生きることなのです。喜怒哀楽の中でも変わることなく、主と歩むことこそが祝福の真の意味なのです。その時はじめて、主は霊的な祝福と共に肉的な祝福をも与えてくださるでしょう。我々がイエスを信じて生きるということは、神に跪いて生きるという意味です。自分の考え、自らからの基準ではなく、聖書の御言葉を通して教えていただく神の御旨、神の基準に自分のことを合わせることです。そこから神の祝福は始まるのです。
2.アブラハムの年老いた僕(しもべ)。
アブラハムは今日の本文で重大な決定を下すことになりました。「私の一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」(4)それは、相続人イサクの結婚のために、故郷の一族の所に行って、嫁を連れてくることでした。イサクは神の約束の実でした。アブラハムと結ばれた神の約束は、彼の死後に息子を通して、同じく受け継がれるべき大事なものでした。そういうわけでイサクが妻をめとることは、神とイサクとの約束を守るための、とても大事なことでした。「私の故郷、私の一族」という言葉の意味は同じ価値観を共有する存在という意味です。周りのカナン民族は、神に呪われるべき存在でした。彼らは異邦の神々を拝み、邪悪な宗教行為も平気にやってしまう罪人たちでした。彼らの最大の罪は真の創り主、神を拒否することでした。当時、大きな影響力を持っていたアブラハムが唯一の真の神を信じていることを知っていたにもかかわらず、彼らは自分たちの偽りの神々を信じ、淫らで罪深い人生を送りました。アブラハムは、そのような呪われるべき異邦の信仰の中から約束の子孫イサクを守り、聖なる約束を継承させるために同族から嫁を見つけようとしていたのです。
しかし、アブラハムは高齢が故に、動きが不自由な状態でした。それで彼は自分が一番信頼する僕 (しもべ)を、自分の代わりに送ろうとしました。「アブラハムは家の全財産を任せている年老いた僕(しもべ)に言った。手を私の腿の間に入れ… 主にかけて誓いなさい。あなたは…私の一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」(2-4)今日の本文には、僕(しもべ)の名前が載せられていませんが、多くのユダヤ教のラビやキリスト教の学者たちは、この人が15章に登場するエリエゼルではないかと推測しました。「わが神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」(15:2)甥のロトが去り、イサクも生まれる前、アブラハムは僕(しもべ)エリエゼルを自分の相続人にしようとしました。おそらくそれだけにエリエゼルは忠実で、偽りのない人だったでしょう。アブラハムは、彼に自分の腿の間に手を入れさせて誓わせました。ここで「腿の間」という言葉は「ヤレク」というヘブライ語で、婉曲的に男性の生殖器(割礼部)を意味します。つまり、神の契約を意味する割礼の痕跡を通して真剣に誓いなさいという意味なのです。それだけアブラハムは、エリエゼルを信頼し、重要な務めを任せようとしたわけでした。
「そこで、僕(しもべ)は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。 」(9)もし、アブラハムの年老いた僕(しもべ)が、本当に15章のエリエゼルだとすれば、彼の忠誠心は本当に驚くべきものです。もし、イサクが生まれなかったら、この僕(しもべ)はアブラハムの相続人になるに違いありませんでした。おそらく、彼にはアブラハムの死後、その一家を始末して、アブラハムのすべてを奪い取る力もあったはずです。しかし、彼は謙虚にアブラハムに仕え、自分の若い主人のために、ベエルシェバからハランまで900kmにも達する遠い道のりを何の不満もつぶやかず旅しました。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。」(12)むしろ彼は主人の願いが叶うことを神に切に祈るほどでした。たとえ自分への何の利益もないとしても、主人のことを自分のことのように思い、命をかけて遠い道のりを進んでいった忠実さ。自分のものになり得る財産を受け継いだ若いイサクを大切にして彼に代わって嫁を探しに行った主人への愛。自分も高齢なのに主人のために喜んで仕える心得。主人公の席を主人とその息子に返し、自分はただ黙々と主人の命令に従う謙遜さ。彼の姿から忠実なキリスト者の在り方が見つかります。
3.主に仕える僕(しもべ)の在り方。
アブラハムの僕(しもべ)の仕え方を見ながら、一番初めに思い浮かんだ新約の箇所はヨハネによる福音書3:28-30でした。「私は、自分はメシアではないと言い、自分はあの方の前に遣わされた者だと言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は栄え、私は衰えねばならない。」イエスが公生涯をお始めになった時から、主の道を備えるために先に来ていた洗礼者ヨハネの人気は、徐々に落ち、その影響力を失っていきました。洗礼者ヨハネの弟子たちは、それを見て残念に思っていました。しかし、洗礼者ヨハネはむしろ自分の消えゆく人気よりも、主なるイエスの栄えをもっと喜んでいました。我々はキリストによって救われ、神の子となった主の民です。尊い命を捧げて我々を神に導いてくださった、主イエスのために我々は何をすればいいでしょうか? 本当に祝福された主の民は、限りのない欲望に溺れて、世俗的な祝福だけを求める者ではないはずです。自分を救ってくださった神の御救いが、さらに世の中に広がっていくように、主の道を備えていく者に違いありません。
締め括り
私は、皆さんが宗教生活をなさらないことを願います。「ただ心の安らぎのために、ただ慰められるために、ただこの世での繁栄のために」のように、うわべだけの宗教生活をなさらないことを願います。それらのことは他の宗教からも、いくらでも得られるものです。宗教生活と信仰生活は完全に異なるものです。主の福音は宗教ではなく生活です。神社参拝のような崇拝行為ではなく、神と共に生きることです。私たちが愛する人たちと触れ合って幸せに生きることと同じように、人間の罪によって関係が切れてしまった、唯一の神に立ち帰って、その方と共感しつつ共に生きることです。我々を呼び出し、赦し、子供にしてくださった神と共に幸せに歩む皆さんになることを願います。イエスは我々にそのような人生を与えてくださるために、十字架の上で残酷な苦しみをお受けになったのです。自分自身が今すぐ栄えなくても、主と福音、教会が栄えるのなら、それに満足できる真の信仰者になることを願います。今日、アブラハムの年老いた僕(しもべ)が見せてくれた忠実な姿から、また、ご自分の民を救ってくださるために、すべての栄光を捨てられ、血潮を流してくださったイエスの姿が見えます。私たちもアブラハムの僕(しもべ)と苦しみのイエスに見習い、謙虚に神だけを崇める人生を生きていきたいと思います。神の御前に跪き、共に歩む忠実な民になってまいりましょう。そのような人生の中で、主なる唯一の神は私たちを限りなく祝福してくださるでしょう。