列王記上17章17-24節(旧562頁)
マルコによる福音書5章35-43節(新70頁)
1.「会堂長ヤイロ」
今日の新約本文のヤイロはユダヤ教の会堂長でした。ところで、ヤイロが長として働いていた会堂とはどんな場所でしょうか? その由来を知るためには、旧約の歴史を探ってみる必要があります。旧約のイスラエルがバビロン帝国に滅ぼされた時、ソロモン王が建てた最初のエルサレム神殿は無残に破壊されました。イエスの時代のエルサレム神殿は、捕囚から解き放たれたイスラエルの民が建てた第2の神殿で、改築されたものでした。会堂は最初の神殿が破壊された後、無くなったエルサレム神殿に代わる場所として作られ、ユダヤ人の共同体を代表する建物でした。この会堂はイエスの時代に約300ヵ所が存在していたと言われていますが、ユダヤ人は会堂が神殿のように主のご臨在の場所だと信じていたそうです。そこではモーセ五書に関する研究、説教、教育などが行われ、時には民法、刑法、宗教法などを取り扱うこともあったと言われています。つまり、この会堂は宗教と社会をまとめるユダヤ社会の中心とされていたわけです。そして、ヤイロは、この会堂を指導する偉い身分の会堂長だったのです。私たちは今日の本文でイエスの御前に力なくひれ伏しているヤイロを見て、会堂長が持つ存在の重さを見落しがちかもしれませんが、当時の会堂長は相当な宗教的、社会的な権威を持っている者でした。
「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(5:22-23)そんな会堂長ヤイロが働きを始めたばかりのイエスという若者にひれ伏したということは、自分のプライドを捨て去る、大きな勇気を伴う行為でした。ユダヤ教の指導者が、当時のユダヤ教において異端児のように見なされていたイエスに頭を下げるということは、会堂長の職を諦めようとするほどの覚悟があったからでしょう。ここまで自分のことを屈服させたヤイロは、イエスがすぐに自分の家に駆けつけて娘を治してくれると期待していたはずです。しかし、イエスは赴く途中、前回の説教の出血病の女に出会い、時間を使いました。一刻を争う状況でしたが、イエスには余裕があるように見えました。おそらく、ヤイロは、焦りと不安で辛かったことでしょう。その時、遠くから何人かの人々が駆けて来ました。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(5:35)彼らは、ヤイロの娘が、結局亡くなったという訃報を持って来た者らでした。イエスが到着する前に、ヤイロの娘は息を引き取ってしまったのです。
2.「信仰とは待ち望むこと」
しかし、主は依然としてお急ぎになりませんでした。「イエスはその話をそばで聞いて、恐れることはない。ただ信じなさいと会堂長に言われた。」イエスはヤイロに二つのことを求められました。それは「恐れるな。」と「ただ信じなさい。」でした。ここで、私たちはその前の表現にもっと目を注ぐべきだと思います。「イエスはその話をそばで聞いて。」この表現は「じっと聞いている。」というよりは、「それを聞いて気にしなかった。」というニュアンスで解釈したほうが、より正しいと思います。イエスは、「人々が何と言っても、あなたはそれに心を奪われるな。恐れずに、ただ私を信じなさい。」と求められたわけです。私たちの人生の中で自分の心を奪う自我からの声、社会からの声、この世からの声が、如何に多いことでしょうか。「私の知る限り、これは違うだろう。」「ニュースではそれは違うと言っただろう。」「この日本ではそうなるわけがないだろう。」など、数多くの声があります。しかし、主はそのすべての他の声を気にせず、ただ主のお声だけを聞くことを望んでおられます。私たちの信仰は、私たちの状況によって揺れるものになってはいけません。どんな状況であっても揺れることなく、ただ主の約束、御言葉だけを信じる信仰にならなければなりません。これを通して、キリスト者が追求すべき信仰の特徴が分かります。
我々の信仰を、真の信仰にする原動力は、イエス・キリストの存在そのものにあります。いつも揺れ動いてしまう私の「信じる。」という感情が、私の信仰を定めるわけではなく、私に信仰をくださり、その信仰を守り、保たせてくださる、移り変わりのない主イエスだけが私たちの信仰をお定めくださる方なのです。こんなイエスの御前で、「娘は死んだ。もう諦めよう。」という人々の声には、何の意味もありませんでした。イエスがヤイロの家に行かれることを、すでにお決めになり、その決定には「必ず、君の娘を治してあげる。」という主の約束が含まれていたからです。ヤイロに信仰と約束をくださった主は、ご自身が与えてくださった、その信仰と約束に答えくださるために、必ずヤイロの娘を生かしてくださるでしょう。大事なことは主の御心とご意志です。主の御心とご意志がある限り、必ず成し遂げられると信じるのが、真の信仰なのです。ですから信仰には待ち望むことが必要です。約束を必ず成し遂げてくださる主への待ち望みが必要なのです。神は高い確率で私たちが願っている時ではなく、神のお定めになった時に応えてくださる場合が多いです。ヤイロはその主の時を待ち望みました。切迫していましたが、出血病の女と共におられる主を待ち望んでおり、すでに娘の訃報を聞いたにも拘わらず、変わらず主を待ち望んでいました。主が死んだ娘のところに着かれるまで、彼は主を待ち望み続けていました。静かに主の時を待ち望むこと、それが、まさにヤイロの真の信仰の現れだったのです。
3.生と死を支配なさるイエス。
「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。人々はイエスをあざ笑った。」(5:38-40)主がヤイロに堂々と「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われた理由は、主の御目に少女の死は死ではなく、ひと眠りから起き上がるための過程に過ぎなかったからです。ヤイロに娘を治してやると約束なさった主イエスにとって、娘の死は、間もなく目覚めるに決まっているひと眠りに過ぎませんでした。先駆けて、主はヤイロに信仰を与えてくださいました。そして娘の救いを約束してくださいました。待ち望みつつ主の約束を信じていたヤイロの信仰を通して、主は「君の娘は死んだのではなく、ただ寝ている。」という、この世の観点とは全く違う、新しい観点で世を見通す目を与えてくださいました。つまり、キリスト者に信仰が与えられたということは、この世を見直せる、新しい目が開かれたという意味なのです。ですから、私の自我からの声、社会からの声、この世からの声は何の力も持つことが出来ないのです。ただ主の約束の御言葉と主の約束を信じる我々の信仰があるだけです。人々は少女が寝ていると言われた主をあざ笑いましたが、主は彼女の手を取って実際に起き上がらせてくださいました。「タリタクム、少女よ、起きなさい。」ヤイロの信仰に応えてくださった主のご宣言によって、愛する娘の死という恐怖は、本当にひと眠りのようなものに変わってしまいました。
「タリタ、クム」という主のご宣言の中で、この世を虜にしていた死の権勢は、単なるひと眠りのように弱まってしまいました。 私たちがキリストの復活を信じ、そして、私たちもキリストのように終わりの日に新たなる存在として復活することを信じる理由は、このように主が死の権勢を弱めてくださったからです。主イエスはすべてを死に追いやる、ガリラヤ湖の嵐を静められました。ゲラサ人の地方で出会った悪霊に取り付かれていた者から、汚れた霊を追い払われました。12年間も出血病で苦しんでいた不浄な女を清めてくださいました。そして、今日の本文を通しては、既に死んでしまった少女を起き上がらせてくださいました。このすべての奇跡は、この世を支配していた邪悪な死の権勢へのキリストの勝利を意味します。主はすでに勝利を持って、この世に来られました。ですから、主はご自分を信じる者たちに信仰をお求めになるのです。「私はすでに勝利を持ってきた。私の勝利を受け入れるか否かは、あなたたちの信仰次第である。」主は聖書の御言葉を通して、私たちに、このように勝利なさった主への信仰を求めておられるのです。 私たちはすでに勝利を持ってこられ、主ご自身への信仰を求めておられる、キリストの御前にどのような生き方で生きるべきでしょうか?
締め括り
今日の旧約本文の言葉はアハブという悪い王が治めていたイスラエルの暗黒時代、神の預言者であったエリヤが、ある少年を蘇らせた話で、今日の新約の本文に非常に似ています。エリヤがある寡婦の息子を死から生き返らせた時、寡婦はエリヤに向かってこのように叫びました。「今私は分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」今日の新約本文は、おそらく、このような旧約のエリヤの物語と、ある程度、関りがあると思います。私たちは今日の旧約と新約の物語を通して、少女を生き返らせた主イエスが神から遣わされた方であり、その方を通して私たちに与えられる御言葉が、真実な神の御言葉であることが分かります。このように主は死を退け、生命をもたらす真の勝利者であり、その民に信仰をお求めになる信仰の主であります。私たちの生が、主による信仰に基づいた生であることを望みます。今日も主が私たちの間におられ、私たちの信仰の中で働いておられることを信じつつ生きることを願います。聖と死を支配される主、本当の勝利者イエスは、今日も我らの信仰を求めておられます。