創世記18章1-15節(旧23頁)
マタイによる福音書25章31-46節(新50頁)
前置き
神の民として選ばれ、生まれ故郷、父の家を離れたアブラハムは、24年という長年を寄留者(旅人)として暮らさなければなりませんでした。しかし、土地と子孫を与えるという神の約束は、24年経っても果たされず、土地と子孫を得るためのアブラハムなりの努力も、何も成し遂げられず、無駄になってしまいました。75歳に神に召されたアブラハムは、まもなく100歳を目の前にする歳になってしまいました。しかし、老いたアブラハムが、すべてを諦めようとする時に、神は再び現れ、神の約束は依然として有効であると教えてくださいました。そして神は、その約束の証としてアブラハムの家の男たちに割礼を受けることを命じられました。契約と割礼のヘブライ語の表現が同じであることから、神との契約を永遠に覚えさせる神のご命令だったことが分かります。以上が今までのアブラハムに係わる筋書です。以後、神はご自分の御使いたちをアブラハムに遣わしてくださいました。今日の旧約本文は、その御使いたちとアブラハムの出会いについての物語です。私たちは今日の話を通じて、どんな教訓を得られるでしょうか?今日は寄留者を通して、訪れてくださる神について話してみたいと思います。
1.神様から遣わされた者たち。
カナン地域でアブラハムが生活していた主な場所は、現在のエルサレムから南側に30kmくらい離れているマムレ(ヘブロン)という所でした。神のご命令によってカナンに降ってきたアブラハムは、過去24年間のうちに、その地域の有名な者になっていました。彼は牧草地が足りなくて、甥と別れるほど、多くの家畜を飼っており、シンアル地域の王たちと戦って勝つほどの相当な戦力もを持っていました。神が契約してくださった土地がなくても、神が約束してくださった子供が生まれなくても、彼には現在持っている財産や権力だけで十分に意気揚々と生きることができる力がありました。そればかりか、ハガルを通して儲けた息子、イシュマエルもいましたので、相続人への心配も一安心できる状況でした。しかし、彼は相変らず神に仕えました。アブラハムは24年間、多くの失敗と試行錯誤を経験してきました。しかし、彼が偉大な信仰の父として、神に認められた理由は、自分の状況がどうであれ、彼が神の約束を覚え、信じたことにあるでしょう。私は創世記を説教して来つつ、何度もアブラハムが私たちと同じ、平凡で間違いと失敗の多い人だったと話しましたが、それでも、アブラハムが持っていた、このような神への信仰は現代を生きる私たちが、倣っていくべき良い信仰の手本になると思います。
もし、アブラハムが自分の財産と現在の状況に満足し、神の約束を軽んじ、神に仕えようとしなかったら、彼は今日の本文に現れた3人の御使いに出会うことが出来なかったはずでしょう。聖書には今日登場した3人の御使いが華麗な服を着ていたとか、多くのしもべを引き連れていたとかの話は記されていません。ただ、3人の人が彼に向かって立っていたと記してあるだけです。しかし、常に神の御言葉を待ち、神に仕えようとする心構えを持っていたアブラハムでしたので、その3人が訪れてきた時、彼らが神に遣わされた者だと気付き、すぐに彼らを迎え、持て成したのではないでしょうか? 過去のユダヤ人のラビたちは、この3人が神の天使だと信じていました。特に、ラシュというラビは、その3人が、ミカエル、ラファエル、ガブリエルという有名な天使たちだと思いました。この天使という言葉は、神のメッセンジャーという意味で、天使が現れるということは、神の御言葉が臨むこと、つまり神が直接お出でになることと同じくらいの権威がある意味だったと言われます。勿論、今日の本文を通しては、彼らが天使であるかどうかははっきり分かりません。しかし、少なくとも神の御言葉が彼らを通じて、アブラハムの所に来たということは、はっきり分かります。ところで、彼らはみすぼらしい旅人たちでした。神の尊い御言葉が通り過ぎる寄留者を通して届いたということでしょう。
2.神は寄留者の姿でお出でになる方。
聖書で寄留者とは、助けを求めている旅人、余所者として解釈される場合が多かったです。当時のメソポタミアやカナンの原住民は旅人たちを暖かく持て成したそうです。あの有名なハンムラビ法典にも、旅人への扱いについて記録されていると言われます。しかし、彼らが持て成した旅人は同じ民族や国に限る存在でした。外国人や旅人には手厚い持て成しをしなかったのが学界の定説です。彼らは何の利益にもならなかったからです。しかし、アブラハムは世の中の論理ではなく、神への奉仕の意味として3人の客を喜んで迎え、持て成しました。ところで、その客たちは、実際に神の御使いたちで、彼らは神の御言葉を持ってきたのです。我々はこれを通して、神は自ら現れる方でもありますが、通り過ぎる寄留者、余所者、弱者を通しても現れる方であるということが分かります。もし、アブラハムが彼らを迎える前に、カナン地域のどの種族から来た人なのか、どの家柄の人なのか、3人の身分を選り分けようとしたならば、彼は神からの大事な御使いたちを逃してしまったのかもしれません。しかし、アブラハムは当時のカナンで通用していた持て成しではなく、いつ神の御使いが来るか分からないという心構えで3人を招き、歓待したわけです。
今日の新約本文でイエスは、主が再臨なさって、この世をお裁きになる時のことについて教えてくださいました。主が天使たちを皆、従えて栄光に輝く座に着かれる時、正しい人たちをお呼びになり「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」と仰いました。すると、 正しい人たちが聞き返しました。「主よ、いつ我々がそうしたのでしょうか?」その時、主は「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」とお答えになりました。私たちは、この物語を通して、主が貧しい隣人や旅人の姿を持って、私たちの所に訪ねて来られる方であることが分かります。ひょっとしたら、今一緒に礼拝を捧げている兄弟姉妹が、実は我々の間におられる主であるかもしれません。志免教会のご近所さんたちがイエスであるかもしれません。私たちの一番嫌いな人が、私の前に来ておられる主であるかも知れません。私たちが彼らを遠ざけ、冷遇する時、もしかしたら、私たちは主を遠ざけ、冷遇しているのかもしれません。私たちの隣人愛は判官贔屓のようなものではありません。私たちの他者へ愛は、私たちの間におられる主イエスへの愛から湧き出るべきものなのです。誰が、どんな姿で主の代わりに私たちの前に立っているか分からないからです。
3.最も不要で、憎い者を愛せよ。
多少、政治的な話になるかと思いますが、日々関係が悪化している日韓関係を例に挙げてみましょう。日本は、韓国人にとって、他の国々では感じられない様々な感情を起こさせる国です。歴史的には深い遺憾があり、文化的には一番親しみのある、微妙な国なのです。つまり、愛憎の国なのです。日本人にとって韓国はどうでしょうか?日本人の中には激しく韓国を蔑む人もいますが、一方では身の置き所のないほどに韓国を重んじ、愛してくださる方もいます。同じく、韓国人の中にも日本を蔑む人がおり、日本を大事にし、重んじる人がいます。このような日韓関係の中で、日本と韓国の教会は、真の平和のために協力関係を大事にし、過去の悲劇を省み、新しい未来を作っていくために手を携えています。私も日本の教会に仕えようという確信を持って以来、日本への盲目的な遺憾を控え、中立性を持って愛と協力に進もうと心を込めて生きています。なぜでしょうか? それは、いくら憎い相手がいると言っても、彼らから神の存在を見つけ、彼らを愛するのがイエス・キリストの御教えだからです。私は日本という国を考える時に、ここにおられる皆様、ご近所の皆様の中におられる主イエスが思い起こされ、憎むことが出来ません。日韓の教会がお互いに心を一つにして、愛しあい、仕えあうべき理由は、相手の民族と国を愛しなければならない理由は、そのような愛と協力の中にキリストがおられるからです。だから、相手を憎むことは、その中におられるキリストを憎むことと等しいことなのです。
マスコミは、いつも相手の国を中傷します。「首相が、大統領が」から始め、相手を盲目的に絶対悪のように作ってしまいます。そして人々がそのような見方で付いて来るように煽り続けます。政治家たちがそれを願っているから、わざわざ忖度しているわけです。その結果、もし、戦争でも起きたら、死ぬのは為政者や政治家ではありません。私たちの子供、親戚が、そして私たち自身が死ぬのです。それは決して主の御心ではありません。主イエスは愛と和解を望んでおられます。だから、一度でもいいので相手の立場から考えてみるべきではないでしょうか? 両国とも神様でない以上、きっとそれぞれの過ちがあるはずでしょう。が、両方ともまるで、自分が神様のようになり、互いに中傷し合い、争い合うだけです。自分の民族と国だけを大事にすることは、イエスのお教えではありません。それは帝国主義なのです。アブラハムは国と民族を問わず、寄留者を丁寧に持て成しました。そして、その寄留者を通して神の祝福を受けました。また、神は寄留者の口を通じて、アブラハムとサラが、切に願っていた息子の誕生を預言してくださいました。そして、私たち皆が知っている通りにアブラハムとサラは信仰の父と母になりました。私たちに何の役にも立たないような人を私たちの中にいる寄留者として考えていきましょう。憎い人をイエスのように扱いましょう。兄弟姉妹と隣人を愛しましょう。そんな我々の人生をこそ、神は喜ばれるでしょう。寄留者への歓待と愛を通して、主の祝福が我々に臨むでしょう。
締め括り
今日の説教を準備しながら私の過去の人生を振り返ってみました。正直、まだ心の中に遺憾の念を持っている人たちが何人かいます。未だに赦し難い人がいます。しかし、神様は今日の言葉を通して、私に仰せになります。「まだ赦せないのか?」「彼らがイエスなら、私からの寄留者ならどうする?」結局、悔い改め、赦すしかないと思いました。皆さんはいかがでしょうか? まだ赦せない、憎い、無視したい人がいますか? イエスを信じること、神の民になることは、決してたやすいことではありません。憎い人を、役に立たないと思える人を、愛さなければならないからです。しかし、その度に主イエスのことを考えましょう。イエスは神と敵だった私たちを救ってくださるために、ご自分の血潮を流され、犠牲になってくださいました。何の益にもならない貧しい者たちをわざわざ捜し回ってくださいました。これは、今日の本文でアブラハムが行なった旅人を持て成した人生と一脈通じる生き方ではないでしょうか? 今日の言葉を通して、心から赦し、自分のように愛し、キリストに倣っていく機会になることを祈ります。そのような人生を生きる時にはじめて主は「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と誉めてくださるでしょう。また、信仰の父として認められたアブラハムのように、神の祝福があるでしょう。