エレミヤ書3章22節 (旧1179頁)
マルコによる福音書1章14-15 節 (新61頁)
前置き
マルコによる福音書は、イエスを信じているという理由だけで、ローマ帝国の迫害を受けて絶望していた、当時のキリスト者に、神は変わらない方でおられ、その独り子イエスも、これまで通り信徒たちと一緒におられるという希望のメッセージとして記録された書です。そのため、マルコによる福音書は一切の美辞麗句をそぎ落とし、最も重要な神の愛とキリストの福音について、力強く証ししています。マルコによる福音書の冒頭では、イエス様が、ご自分の民キリスト者と共にいてくださるために、メシアでいらっしゃるにも拘わらず、罪人が受けるべき洗礼と試練とを御受けになることによって、信じる者と一緒におられることを語りました。イエスは今日もまた、主の体なる教会と共におられ、教会の試練と苦しみを同じように体験しておられます。私たちは、マルコによる福音書の言葉を通して、ともにおられるイエスの御心を感じることが出来ます。このような愛と恵みの主を覚え、変わることなく、生ける主を仰ぎ見て、生きていきましょう。今日は、イエスを信じる者に促された福音と神の国、そして、悔い改めについて話してみたいと思います。
1.福音 – ユーアンゲリオン
皆さん、オリンピックといえば、どの競技を最初に思い浮べられますか?いくつかの種目があるでしょうが、私はオリンピックの花と呼ばれるマラソンが一番に初めに思い起こされます。マラソンという言葉は、地名に由来したもので、ギリシャの首都アテネから40キロメートルくらい、離れている人口9000人ほどの小さな町の名前です。約2500年前、アテネを侵攻したペルシャ帝国はマラソン市の周辺の野原でアテネの兵士たちと戦いました。アテネから11000人、ペルシャから15000人の大規模な戦でした。アテネは勝利に向かって真剣に戦いました。アテネの市民も心から勝利を願っていたはずでしょう。その願いが聞き届けられたのか、最終的には数的劣勢にも拘わらず、アテネ軍がペルシャ軍に大勝利を収めました。勝報を伝えるメッセンジャーはアテネの勝利を伝えるために、喜びをもってアテネに走り出しました。彼は一度も休まず、40キロメートルも離れているアテネにひた走りしました。結局、彼はアテネに到着して勝利のニュースを伝えて、倒れ息を引き取ったそうです。これに由来した陸上競技が、まさにマラソンなのです。マラソン競技では、そのメッセンジャーを記念して、メッセンジャーが走り抜いた距離と推定される42.195 キロメートルをマラソンの正式距離と定めています。
ここで息を引き取ったメッセンジャーが持って行った勝報のことをユーアンゲリオンと呼んだそうです。あまりにも良いニュース、言わば福音なのです。私たちが福音と呼んでいる言葉のギリシャ語が、まさに、このユーアンゲリオンです。福音はつまり、勝利のニュースなのです。このユーアンゲリオンという概念は、時間が経って、ローマ帝国の時代になっても、相変わらず続いていました。なので、ユーアンゲリオンは、帝国の勝報や、皇帝の勅令などを意味する言葉でした。この地上は、力の原理で支配される世界です。古代エジプト帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国、近代のイギリス帝国、旧日本帝国、現代のアメリカや中国のように、世界は力の原理に基づいて、弱い者は苦しみを受け、強い者は威張って生きる、理不尽な世界です。過去から、これらの地上の原理は、一度も変わったことがなく、世界を支配する原理だったわけです。支配者たちは、自分らの勝利を良いニュースと呼んで、弱い者の屈従を当たり前に思っていたのです。強い者のために、弱い者たちが犠牲になっても、彼らには何の問題にもなりませんでした。どうせ、彼らにとって世界は強い者のための舞台だったからです。果たして、そのような強い者の福音が、弱い者にも同じく福音だったのでしょうか?強い者のユーアンゲリオンが、弱い者にも同様に適用されたのでしょうか?
2.イエスのユーアンゲリオン。
今日の本文で、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。ユーアンゲリオン、つまり福音という言葉が強い者であったローマ皇帝により、強い者のための概念として用いられていた時に、イエス様も福音という言葉を言い出されたわけです。それは、イエス様も世間の強い者らのような帝国主義者だったからでしょうか?そうではないでしょう。イエスは「神の国」の予告として福音を仰ったのです。強い者が弱い者を踏みにじる、帝国のための福音ではなく、天地万物を創造なさり、愛を持って、世界を治めておられる神の福音なのです。 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者です。洗礼者ヨハネが捕らえられて殺されたというのは、旧約時代が終わり、新しいイエスの時代が臨んだとの意味です。神は過去からの権力と暴力が支配していた時代に終焉を告げられ、神が手ずから治められる神の国を予告させ、その神の国の支配をイエスにお任せになるために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。イエス様が告げ知らせた福音とは、神の民らを暴力にまみれた、この世の支配から脱出させて、愛と恵みの神の国にお移しになる、神の支配の宣言だったのです。
アダムの息子カインが、神を離れて最初にしたのは、自分を守るための城を築くことでした。以来、彼の子孫は、自分のために他国を苦しめる残酷な古代の王たちになりました。彼らは自分自身のために、他人を踏みつけ、殺しました。帝国主義は、そのような暴力に基づく支配方式です。しかし、イエスは他人のために、自らを犠牲になさり、彼らを御自分の民とさせ、愛してくださいました。イエス様が支配なさる、神の国とは、そのような所です。力の原理ではなく、愛の原理で統治される所なのです。弱い者が守られ、強い者が仕える国です。なので、神の国で最も献身的に民に仕える方は、王であられる神、すなわち、イエス・キリストなのです。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」イエス様が初めて福音を宣べ伝えたところは、聖なる都であるエルサレムでも、帝国の首都ローマでもなく、差別と憎しみに傷付いていたガリラヤでした。主はガリラヤのナザレで育ち、いつもガリラヤ地域を中心として御働きになり、そこで弱い人々に御仕えになりました。主イエスは、愛と恵みに満ちた神の国を建てるために、みずから低いところに臨まれました。そして、主御自分の血潮で、弱い者のための愛の国、神の国を成し遂げられました。そのような主が、御自分の民を、直接治められるのが、福音が持つ真の意味なのです。したがって、福音は、弱い者(自分の罪を悟り、悔い改める罪人)がイエスを通して神の愛の中に入り込むことを意味するものです。
3.神の国の民の在り方? – 悔い改め
ところで、イエス様は、このような神の国と、その福音を享受するためには、必ず行うべきことがあると言われています。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」イエスが公生涯に踏み出された時、すでに神の国は近づいてきていました。イエスの到来自体が神の国の到来を知らせる出発点だったからです。そして、キリストの十字架上での犠牲と復活を通して、神の国は、さらに完全に打ち立てられました。だから、イエス・キリストを信じる私たちは、すでに神の国に生きている存在です。神の国の王でいらっしゃるイエス様が、私たちと一緒におられ、私たちも主の支配の中で生きているからです。ここで、私たちは神の国という概念が場所というよりは、神の支配そのものであることが分かります。神の国を既に生きている存在として、私たちは、どのような生き方を貫くべきでしょうか?それは正に「悔い改めて福音を信じる。」ことです。福音を信じるということは、神が弱い者を召され、罪人を赦され、神の愛の中で、神の国の民として生きさせてくださることを信じるという意味ですので、そんなに説明が難しくありません。ならば、悔い改めとは何でしょうか?皆さんは悔い改めを、如何に理解しておられるでしょうか?過去の罪を悔み、自分のことを改善することを意味するのでしょうか?
過去の罪を悔い、自分のことを改めるという意味も、悔い改めの一部であることは、紛れもない事実です。しかし、悔い改めとは、単純に悔みだけに止まる(とどまる)レベルとしての概念ではありません。今日の説教の初めにマラソンの戦いの話をしました。また、ユーアンゲリオン、すなわち福音は、その戦いで勝利を勝ち取った時の勝報を意味する表現であると申し上げました。聖書に記されている悔い改めには、戦闘に勝利した凱旋将軍が、敵の捕囚となっていた人々を救い、解放させて、故郷に戻らせるという意味が含まれています。捕囚だった者が、凱旋将軍によって、自由人となり、その身分が変わったというのが、悔い改めの具体的なイメージであると言えるでしょう。つまり、イエスが十字架で罪に勝ち抜き、罪の影響下にあった罪人を神の国の民とならせたということから、悔い改めの基本的な概念が始まるのです。したがって、悔い改めは、キリストの勝利に基づくものです。主の勝利によって、御自分の民を過去の罪の生き方から立ち帰らせ、神の民としての生き方を追い求めさせるという意味です。過去の罪にまみれ、神を知らない人生から逃れ、絶えず凱旋将軍イエスに倣って、神に向かってUターンするということを意味します。もうこれ以上、罪の捕囚として、身勝手に生きるのではなく、神の側に立って、キリストの御心に服従して神を追求して生きるということです。だから、悔い改めとは、絶え間なくイエスに倣っていく、我らの心構えなのです。つまり、悔い改めは主イエスに解放された罪人が、全生涯を通して、諦めずイエスに付き従う生き方そのものなのです。
多くのキリスト者は回心し、決断して、イエスを信じるようになったら、二度と罪を犯さないようになると漠然と考えたりします。それは、回心直後の何日かの間は可能であるかも知れませんが、結局、人間の罪の性質は、再び現れます。その時、キリスト者は、自分自身に失望したりします。実際に罪の性質から完全に自由になるのは、不可能だと言っても過言ではないでしょう。そのため、正しい信仰を持つキリスト者は、自分に残っている罪のために、常に悩みます。そのたびに、本当に回心をしたのか、自分のことを疑います。しかし、このような悩みは極めて自然で、望ましい悩みです。むしろ、何も心配せず、自分の過ちも分からない人の方が問題です。なぜ、主はキリスト者に過去の罪の性質を残され、悔い改めさせるのでしょうか?これは絶え間ない悔い改めを介して、私たちを主イエスと共に生きさせ、日々新たになるようにするためです。キリストの恵みによって、最初に悔い改めた私たちは、その後も絶え間ない悔い改めを通して少しずつ、正しく変わっていきます。神の召しを受けて、この世から去る時まで、我々は悔い改め続けて、変わっていくということです。神学ではそれを聖化と言います。過去の生き方から何度も何度も立ち返って、神の民らしく生き、引き続き、自分の人生を神に向けさせること、それが、まさに悔い改めなのです。したがって、悔い改めとは神の国を生きるための、キリスト者の呼吸のようなものです。常に呼吸して生きるように、常に悔い改めて生きるということです。それが、キリスト者の悔い改めが持つ本義なのです。
締め括り
私たちは、キリストの御名によって神の民となったキリスト者です。しかし、私たちに残っている罪のため、残念なことに一気に完全に聖化されることはありませんでした。そのために必要なものが悔い改めなのです。私たちは、依然として罪に対して弱い姿で生きていきます。しかし、常に悔い改めることにより、私たち自身を神に捧げるときに、キリストは主の聖霊を通して、私たちを守り、導いてくださるのです。 「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。」(エレミヤ3:22)主は旧約時代から堕落した民をお招きになる方でした。そして、我々はキリストを通して、神の国を生きる民となりました。主が私たちに悔い改めをお促しになり、悔い改めにお導きくださるからです。したがって、もし、罪を犯したと気づいたら、ありのままに罪を認め、神に助けを求めましょう。まるで、呼吸をするかのように、どんなに小さな罪でも、へりくだって絶えず悔い改めて生きていきましょう。神がキリストの御名を通して私たちを赦してくださり、神の国の民として受け入れてくださるでしょう。神の国を生きる民として悔い改め、毎日、神の御前で新たになる志免教会になることを祈り願います。