創世記6章1-8節 (旧8頁)
ヘブライ人への手紙11章6-7節(新414頁)
信仰による箱舟。
先々週の創世記の説教では、アダムの系図を通して、アダムの息子たちであるカインとセトの子孫を比べて話してみました。神を疎かに扱ったカインの子孫と、神を慕っていたアベルの信仰を受け継いだセトの子孫の、互いに対比される生き方について分かち合いました。また、私たち自身は、そのカインとセトの子孫の生き方の中で、どっちの方に近い生活をしているのか、反省する必要があるとも話しました。私たちは、カインの子孫に近く生きているのでしょうか?それとも、セトの子孫に近く生きているのでしょうか?常に自分のことを弁えて生きるべきだと思います。今日は、神が人間の不義をどのように考えておられるのか、また、それに対して、どのような結論を下されたのか、ノアの洪水物語を通して、取り上げてみたいと思います。今日の言葉を通して、罪への警戒心を持って、神に喜ばれ、神の御心に聞き従う志免教会になることを願います。
1.不義の力。
「地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(創世記6:1-2)創世記6章は多少昔話、あるいは伝説のような形式で始まります。神の子らと人の娘たちという表現で始まるからです。歴史的に、この語句には、多くの解釈がついてきました。神の子らが天使を意味するという解釈もあり、地の王たちを意味するという解釈もありました。改革派神学では、神の子らは「神を信じる者」であり、人の娘たちは「神を信じない者」との解釈もありました。諸々の解釈が存在しますが、重要なことは神の子らと人の娘たちが出会い、一つになったとき、神は心を痛められ、裁きを決断なさったということです。 「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」(3)1-3節の言葉を通して、神の子らにしろ、人の娘たちにしろ、両方の存在の遭遇は、善をもたらすどころか、さらに大きな罪をもたらしてしまったということが分かります。
これは「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(2)との言葉から、その手掛かりを得ることが出来ます。神の子らは人の娘たちの美しさを見て、自分が欲しい女を妻としました。ここでの「美しい」という言葉はヘブライ語で「トブ」と言います。これは「良い。」という意味ですが、ここでは「自分の目に良い。」という意味で使われます。しばらく、エデンの園に背景を移してみましょう。アダムの妻、エバが「善悪の知識の実」を見たとき、ヘビに惑わされ、「いかにもおいしそうで、目を引き付ける」と感じました。ここでも、ヘブライ語「トブ」が遣わされています。善悪の実を禁じられた神の御言葉とは別に、自分の目には、その木の実が良いものと感じられたわけです。つまり、今日の本文の神の子らも、エバが犯した罪を同様に犯していたのではないでしょうか?神の御言葉とは関係なく、自分の意志に従うこと、神の御命令よりも、自分の考えが優先される罪を犯したということです。神の子らは、アダムとエバ、そしてカインの子孫のように、神を無視する罪を再び犯してしまったのです。
神は人間が罪を乗り越えていくことを望んでおられたかも知れません。しかし、かつてのカインのため、その希望は破れてしまいました。もし改革派神学の解釈のように、神の子らは、セトの子孫、すなわち信じる者であり、人の娘たちは、カインの子孫、すなわち未信者であれば、最終的にはセトの子孫もカインの子孫のように、神の御前で罪を犯してしまったとの意味として解釈されます。結局、人間は信者にせよ、未信者にせよ、皆が罪人であり、神に失望感だけを抱かせる存在だということです。だから、主を信じる神の民さえも、絶対に罪から自由になることは出来ません。すべての人が罪の影響下にあるという意味です。それは残念ながら現代を生きている私たちにも当たる事柄です。人間の不義は、こんなにも強いものです。 「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12)実に使徒パウロの言葉のように、世の中に本当の義人はなく、皆が悪に向かって走っていく不義の者ばかりです。神の洪水は、このような理由に基づいたものです。神は義に満ちた世界をお望みになりましたが、皆が不義に向かって生きていたからです。
2.神のご堪忍にも終わりがある。
詳しくは説明しませんでしたが、創世記5章はアダムの子孫の系図です。4章はカインの系図であり、5章はアダムの子孫の中でも、セトの系図なのです。聖書に記されているアダムの創造当時を初年とすれば、洪水は1656年後の時点で発生します。(ホームページのお知らせメニューの20200927週報での画像をご参考ください。)これが本当の1656年なのか、象徴的な年数なのかは分かりませんが、大事なのはアダムの犯罪後から、長い長い歳月が流れてきたということは分かります。聖書にはセトの子孫が罪を犯したという直接的な言及はありません。むしろ主の御名を呼び始めたエノシュ、神と共に歩んだエノクのように義人もいました。しかし、我々が見逃してはならないのは、5章の系図に出てくる者らだけが、セトの子孫ではないということです。おそらく系図には、長男の名前だけが記されているのでしょう。つまり、セトの子孫の中にも、多くの人々がいて、彼らの中にも、罪を犯す者がいたと考える必要があるということです。ひょっとしたら系図に登場する人たちも罪を犯したかもしれません。しかし、神はノアの時代まで1000年以上の長い歳月をご堪忍くださいました。罪人が闊歩する時代にも、神は忍耐され、正しい者を探しておられたのです。神が罪人をお扱いになる方法は、まさにご堪忍なのです。神はすぐにお裁きにならず、常に忍耐なさることによって罪人を御覧になる方なのです。
しかし、それでも、神は盲目的に永遠に忍耐する方ではありません。 「主は言われた。わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。こうして、人の一生は百二十年となった。」(3)人の不義のために、御心を痛められた神は彼らから、聖霊を取り上げようとなさいました。アダムとエバが初めて犯罪した以来、多くの罪人が罪を犯してきましたが、神は絶えず忍耐して来られました。いつも彼らが悔い改めて戻って来るのをお待ちくださいました。しかし、決して人間が罪から立ち返ることはありませんでした。結局、神は彼らの限界をご確認なさることになりました。「神の霊が人の中に永久にとどまらない。」という意味は、これ以上、神がご堪忍なさらないということを意味する表現です。結局、神が罪に満ちた、この世を裁こうとご英断を下されたという意味です。懺悔のない人間の姿、創り主のご意志に逆らう人間の本質、神はそのような人間を滅ぼされ、すべてを新しく始めようとなさったのです。「人は肉にすぎないのだから。」という御言葉が、それを証言してくれます。
我らは知らず知らずに「肉にすぎない。」という語句を見ながら、霊は善、肉は悪という極端な思いを持つ恐れがあります。ですが、そのような見方は聖書に適う解釈ではありません。神は創造を終えて、被造物を御覧になり、極めて善かったと仰いました。つまり、霊も肉も神の被造物であるだけに創造の善を秘めているからです。ただ、それらは人間の罪によって歪んでいるだけです。3章で言う「人は肉にすぎないのだから。」とは、もうこれ以上、御霊が宿っていない存在、決して自分で正しくなる可能性のない、明らかな限界を持つ存在という意味として受け入れるべきだと思います。このように罪によって肉にすぎないようになった人間を見て神は心を痛められたのです。 「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(5-6)実際に、神は全能者でいらっしゃいますので、心を痛めることも、後悔もされない方です。すべてのことを知っておられるので、人間の堕落をすでに予見しておられるからです。それにもかかわらず、聖書にあえて神が後悔なさった、心を痛めたと記されている理由は何でしょうか?これは神が人間の罪に対して、どれだけ真剣に考えておられるのか、人間に知らせるためではないでしょうか?神は人間の罪に敏感に反応する方でいらっしゃいます。結局、神はこのような人間の罪を御覧になり、裁きを決定なさいます。神の長い長いご堪忍が終わることになったのです。
3.ノアの信仰を通して救いをお許しくださった神。
しかし、神は、そんな罪の中でも、義人がいれば、避ける道を備えてくださる方です。神は義人のいるところに恵みを与えてくださる方です。お手元の別紙の画像を見ていただくと(ホームページのお知らせメニューの20200927週報での画像をご参考ください。)、セトの系図の神の民が全部死ぬ時まで、神は忍耐され、裁きを留保してくださったことが分かります。ノアの父レメクが死に、祖父メトシェラが死去してから、初めて神は洪水の裁きを下されました。セトの系図に出てくる子孫が全く罪を犯さなかったのか、あるいは罪を犯したのか、聖書では知ることが出来ませんが、少なくとも、神は彼らを義人と見なしてくださったのです。そして、彼ら皆が亡くなった時、初めて神はノアの家族だけを残し、世界をお裁きになりました。 「ノアは主の好意を得た。」(8)人間の罪によって世界が堕落し、神が心を痛めるようになったとしても、神は御自分が正しいと認める者に好意を施してくださる方です。しかし、彼らが完全無欠だから好意を保たせてくださるわけではありません。神が彼らをお選びくださり、義と認めてくださったから保たせてくださるのです。聖書はこの好意を恵みと言います。恵みは、神のみから来る主のお贈り物です。
今日の新約本文はノアについてこう述べています。 「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(ヘブライ11:7)旧約では出てきませんが、神がノアに好意を施された理由が、ノアの中にあった信仰に基づくことが分かります。堕落した世の中を生きるノアでしたが、それでも神の愛と御導きを信じた、その信仰が神がノアを選び、好意を示してくださる理由になったのです。ノアの信仰は、神に与えられた120年の間、神の御言葉に聞き従い、巨大な箱舟を造ったことを通して垣間見ることが出来るでしょう。 「正しい者は信仰によって生きる。」という言葉のように、ノアは信仰によって義人と認められ、生き残ったのです。世界は依然として罪に満ちています。人間による悪、罪、戦争などが絶えず起こっています。しかし、神はこの混乱な時代にもノアのような信仰者を探しておられます。神はその信仰のある義人を通して、世界をお救いくださるのでしょう。ここで一つ、私たちの大きな慰めがあります。そのような義人が今、私たちの間に、すでに来ておられるということです。神から遣わされた真の義人。まさにイエス・キリストのことです。ノアは不完全な者だったにも拘わらず、神への信仰によって義人と認められました。しかし、私たちの間におられるイエス・キリストは、神そのものであり、信仰と義の源であられます。そして、私たちは、このイエスを信じる群れです。私たちはキリストを信じる信仰によって、義人と認められ、完全無欠な神の恵みのもとにいるのです。
締め括り
イエス・キリストは、この時代のノアです。我々は相変わらず罪を持っていますが、そのイエスの恵みによって義人と見なされます。主は箱舟のような主の教会を立てられ、救われる者を探しておられます。イエス・キリストが頭となる私達の教会は、この時代に主が許された箱舟です。そして、私たちは、イエス・キリストと共に、その箱舟に乗り込んだ主の家族なのです。だから、私たちもまた、そのイエス・キリストの心に倣い、信仰の外にいる者らに救いの主を伝えるべきでしょう。堕落したこの世でも義人を探し、長くご堪忍なさる神を仰ぎ見ましょう。やがて世は神の恐ろしい裁きを受けるでしょう。しかし、キリストに救われた群れは、神の国に入るでしょう。その日を待ち望み、キリストの救いと恵みを伝えて生きてまいりましょう。主の恵みが志免教会にありますように祈ります。