創世記38章12-26節(旧66頁)
マタイによる福音書1章1-6節(新1頁)
前置き
1.前回の説教のあらすじ
今日は、前回の創世記38章の説教で、全て話せなかったユダの物語について、考えてみたいと思います。前回の本文の内容に手短に触れてみましょう。ヤコブの息子であるユダと彼の兄弟たちは、目の敵のようだった弟ヨセフをエジプトに売り渡した後、父親にはヨセフが獣に殺されたと偽りを告げました。ヤコブはその話しを聞いて嘆き悲しみました。その後、ユダは兄弟たちと別れてカナン地域に移住し、そこで異邦人たちと付き合い、その地域の女と結婚しました。そしてユダは3人の息子を儲けました。一番目はエルでしたが、彼は神の意に反する者でした。彼はタマルという異邦の女と結婚しましたが、自分の罪のため、子供も儲けず、若死にしました。そこで、ユダはエルの子供を持たない嫁タマルに、次男のオナンの子種によって妊娠させようとしました。しかし、オナンは兄嫁に子供が生まれれば、自分の財産が少なくなることを懸念し、子種を与えずにそれを地面に流しました。神はそれを悪く思われ、オナンも罰して殺されました。それを見たユダは三男のシェラが成人するまで嫁タマルを実家に戻し、待たせました。しかし、ユダは三男のシェラもエルとオナンのように殺されるのではないかと恐れ、彼が成人したにもかかわらず、タマルを呼び寄せず、放置しておきました。
なぜ、次男のオナンは兄嫁に子種を与えなければならなかったのでしょうか?オナンはなぜ、兄嫁に子種を与えないことで罰せられ、殺されたのでしょうか?私たちは前回の説教で旧約のレビラト婚について語り、それがヨベル(角笛の音)の年の精神に基づいた制度であることを学びました。ヨベルの年とは、旧約時代、神がご自分の民イスラエルにお与えになった土地を、50年ごとに元の地主に返す回復の年のことです。ヨベルの年の贖罪の日に角笛を吹くと、経済的な事情で土地を失った人、他人の奴隷となった人、他郷暮らしをする人たちが皆解放され、帰郷して自分の土地を返してもらうことができました。すべての土地の真の主人は、神おひとりですので、神がその土地を再びご自分の民にお返しになり、皆が平等に神の祝福のもとに帰ってくるという意味を持っていました。それは一度滅びた存在を立ち直らせる主の恵みを象徴しました。ユダの長男であるエルが亡くなり、ユダの次男であるオナンが兄嫁に子種を与え、兄の跡継ぎにすることは、このヨベルの年の精神に基づいたエルの家庭の回復を意味します。たとえエルが自分の罪によって罰せられ、死ななければならなかったとしても、神は弟のオナンの子種をその兄嫁に与え、息子を産ませることで、エルの家庭が再出発するように配慮してくださったのです。なのに、オナンはそのような神の御心を無視し、自分の私利私欲のために子種を与えず、流したわけです。それがオナンの罪となって、彼は殺されたのです。
2.ユダという人の本質
しかし、その父ユダもまた、ヨベルの年の精神に対する認識が薄かったようです。それゆえか彼は、三男シェラをタマルに与えませんでした。漠然と残りの独り息子だけでも生かさなければならないという極めて人間的な思いが彼を愚かにしたのです。これを通じて、私たちはあの偉大なダビデ王と主イエス•キリストの先祖であるにもかかわらず、ユダ自身は、そんなに信仰的な人物ではなかったことが分かります。結局、今日の本文では、タマルが自分の夫の跡を継ぐという一念で、義父ユダが認識していなかったことを遂行する場面を目撃することになります。「かなりの年月がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。ユダは喪に服した後、友人のアドラム人ヒラと一緒に、ティムナの羊の毛を刈る者のところへ上って行った。」(38:12) ユダの二人の息子が亡くなり、タマルが実家に帰ってから、かなりの年月が経ち、ユダの妻が亡くなりました。ここで「ユダが喪に服した後」という表現は、原文的に訳すると「ユダが慰められた後」という表現になりますが、ヨセフを失ったヤコブが「慰められることを拒んだ。」(37:35)と比較されます。また、タマルが「やもめの着物」(38:14)を着ていたこととも比較されます。つまり、ユダは他人の悲しみに無感覚で、自分自身だけを大事にする自己中心的な人間だったということが分かります。さて、ユダがティムナに行った理由は「羊の毛を刈る」ためでしたが、この「羊毛刈り」ということは、単に羊の毛を刈る作業という意味ではなく、当時の盛大な祭りを意味する表現です。数年の間、育てた羊の群れの毛を刈るということは、まるで穀物の収穫のような豊かさを意味したからです。そして彼は、そこで娼婦を探し求めました。おそらく、祭りで酔っ払い(何人かの学者たちの解釈)、自分の性的欲求を考えたということでしょう。妻が亡くなって間もないのに情けない人間です。
ユダは実に霊的に暗い人でした。彼は本質的に罪人だったのです。死んだ夫エルの後を継がせる計画を立てたタマルは、祭りの真っ最中のティムナの近くに行って娼婦に変装し、自分の愚かな義父ユダに接近しました。おそらく、ユダは羊毛刈り祭りで酔っ払い、欲情に燃えていたでしょう。そして自分の嫁とも気づかず、関係を結んでしまったのでしょう。私たちは聖書に登場する人々が、私たちより高い信仰のレベルと道徳性を持っていると誤解しやすいです。しかし、聖書は登場人物の愚かさと不様を加減なく見せてくれます。あの有名なダビデ王さえも、聖書は絶対に美化しません。聖書は人間の罪についてことごとく告発しているものです。ユダは嫁を娼婦(レゾーナ、語源はザナ-姦淫する。-)と勘違いしました。それはあくまでも自分の欲情を晴らすためでした。39章で弟ヨセフがポティファルの妻の誘惑から最後まで自分を守ったことと、比較される場面です。「ひもの付いた印章と杖」そして、ユダはあまりにも簡単に自分のアイデンティティを意味する物を娼婦に手渡ししました。その後、ユダは自分のものを取り返すために知人を通して、子山羊一匹を送り届けようとしました。この時もユダは自分が「神殿娼婦(ケデシャ-古代神殿で崇拝行為として売春をしていた女司祭)」と関係を結んだと知人をだましました。欲望で娼婦を買った彼が、異邦の基準として聖なる神殿娼婦に会ったと嘘をついたというわけです。
3。人の善悪とは関係ない神の計画。
また、ユダは自分も欲情に目が暗んで姦淫を犯したのに、嫁が妊娠すると、自分の罪は顧みず、是非も正さず、盲目的に嫁を焼き殺そうとしました。彼はこのように自分のことしか知らず、罪に無感覚で、無慈悲な人だったのです。ユダは神が愛された族長たち、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であり、また神が愛された偉大なダビデ、そして、救い主イエス・キリストの先祖であります。しかし、彼の人生の一歩一歩を見ると、あまりにも情けない人だったということが分かります。神の御心には関心もなく、神の御心に従うこともなく、子供たちは信仰とは遠く育て、他人の心や立場には興味がなく、自分の欲望に目がくらみ、自己中心的に生きる罪人の中の罪人でした。単に聖書に登場する偉大な人物の祖先だからといって、その人まで偉大な信仰者として扱えないということです。しかし、私たちはこのような愚かなユダであったにもかかわらず、彼を用いられる神の恵みを憶えなければなりません。神のご計画は人間の善と知恵、悪と愚かさと何の関わりもありません。ある人が高い道徳性と信仰を持っていても、根深い罪と不信心を持っていても、神の計画の成就には、いかなる影響も及ぼすことができないことを憶えておくべきです。神はどんなことがあっても、他の存在に左右されず、神の御心に従って、その計画を必ず成し遂げていかれる方だからです。
ユダはヨベルの年の精神への認識が薄すぎる人間でした。子供たちを立派に育てることもできませんでした。不信仰で、人間味もない人でした。それでも、神はその嫁タマルを通して、ユダがヨベルの年の精神に気づくようにしてくださり、後を継がせてくださり、(現代的な観点からしては不適切に見えるかもしれませんが、)何とかペレツという息子を産ませてくださいました。そして、そのペレツを通じて神は旧約の代表的な人物であるダビデ(旧約のメシア的な人物)と真の救い主であるキリストが生まれるようにしてくださいました。主の恵みによって罪人から正しい人が生まれるようになったということでしょう。ここに私たちの希望があります。今、私たちの信仰が立派でなくても、私たち自身が罪人として生まれたとしても、到底、自分の力では救われることが出来ない、絶望的な状況であっても、神の御心の中にいれば、私たちはキリストを通じて神の計画(救い)が成し遂げられることを見つけるでしょう。信仰者にとって最も大事なことは「自分が立派な人であり、自分が何かを成し遂げる。」ではありません。「自分が信じる主なる神が偉大な方であり、その方が自分のことを導いてくださる。」が大事なのです。これがまさにキリスト教が語る「信仰」なのです。神は罪人のユダが自分の過ちについて悟るように導いてくださいました。ユダは立派な信仰者ではありませんでしたが、神はどうにか彼を見捨てることなく、変えていかれたのです。それを通じて、最終的にユダは自分の過ちを認め、後には父親ヤコブに盛大な祝福を受け、キリストの先祖となる信仰の人物に変わっていくのです。
締め括り
ユダは、実にどうしようもない罪人でした。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫だったにもかかわらず、彼の人生は全く信仰者の姿ではありませんでした。しかし、神は最後まで彼を見捨てられず、少しずつ変えていかれました。もちろん彼の2人の息子は死んでしまいましたが、タマルを通じて、また新しい息子2人を与え、そのうち1人をメシアの系図に乗せてくださいました。神は罪を憎まれる方ですが、罪人まで憎まれる方ではありません。罪人を新たにされ、正しい人に生まれ変わらせることを望んでおられる方です。人にはできないが、神にはお出来になるので、神はユダのような罪人も少しずつ変えていかれるのです。ユダの罪から私たちの姿を見出します。しかし、神は私たちに罪があるにも関わらず、必ずユダのように私たちを見捨てられず、主イエスの贖いによって救ってくださる方でしょう。私たちもまた、そのように罪人をあきらめない神の御恵に留まっていることを憶えつつ生きるべきでしょう。ユダの物語に鑑み、私たち自身を顧みることを願います。主の豊かな恵みを祈ります。