歴代誌下 7章1~22節 (旧679頁)
マルコによる福音書 11章12~19節 (新84頁)
前置き
前回の説教で、イエスは3年間の奉仕の御業を終え、いよいよご自分の命を十字架で捧げ、罪人を赦し、救ってくださるためにエルサレムに向かっていかれました。旧約の預言のように、子ろばに乗ったメシアとしてエルサレムにお入りになったイエスは、大勢の群衆が叫んだ「ホサナ(主よ、どうか私たちを救ってください。)」、すなわち罪からご自分の民をお救いになるために十字架に進んでいかれます。これからのマルコによる福音書は、そのイエスの最後の一週間について描きます。そして今日の本文は、その初日にあった出来事の記録です。今日の本文で、私たちは何を学べるでしょうか? 一緒に探ってみましょう。
1。イエスが実のないイチジクの木を呪い、神殿から商人を追い出した理由。
今日の本文には、イエスが神殿にお入りになる前に、実のないイチジクの木を呪われ、神殿境内から商人たちを追い出される物語が登場します。なぜイエスはイチジクの木を呪い、神殿の商人たちを追い出されたのでしょうか。ドイツの医師であり、神学者であるシュヴァイツァーはイエスが差し迫った死の前で理性を失い、イチジクの木を呪ったと解釈しました。また、ある人たちはイエスが神経質な方なので、商人たちを追い出されたとも解釈しました。しかし、果たして、本当にそのためだったのでしょうか。それでは、より適切な解釈のために、まず前回の本文を読んでみましょう。「イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った。」(11) エルサレムに来られたメシア・イエスは一番先に「神殿」に行かれました。そして、その境内を見て回りました。ここで「見て回る。(ペリブレポ)」という意味のギリシャ語をより詳しく意訳すると「注意深く貫いて見る。」という語でも表現することができます。イエスがエルサレムに来て当時のユダヤ教の最も重要な場所であった神殿にお入りになり、まともに機能を全うしているかどうか「注意深く貫いて見」て判断されたというわけです。旧約聖書のエゼキエル書44章は、メシアの時代の神殿と祭司がどうあるべきか、よく説明しています。「彼ら(祭司)は、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。」(エゼキエル44:23)
神はエゼキエル書を通じて、望ましい神殿の在り方を教えてくださいます。「見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。… 主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。 … 見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。」(エゼキエル43:2-5中)エゼキエル書によると、神の栄光が神殿に到来する時、すなわちメシアが神殿に臨む時に、神殿は神の区別された祭司によって、聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教える場所にならなければならないと記録されています。しかし、メシア・イエスが神殿にお臨みになった時、神殿の祭司のうち誰も民を教えず、メシアの到来を待っていませんでした。むしろ、彼らは神殿を利用して世俗的な商売をしていたのです。そのため、神殿はまるで市場のようになっていました。マルコによる福音書は、それを「強盗の巣」と表現しています。 「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。」(11:15) ところで、なぜ商人たちは、聖なる神殿の境内で両替をし、動物を売っていたのでしょうか? それを知るためには、当時の神殿の祭司たちの行動と変質した神殿の礼拝について探ってみる必要があります。
イエスの当時の神殿の祭司たちは、サドカイ派と呼ばれました。彼らはユダヤの宗教指導者であったにもかかわらず、非常に世俗的な勢力でした。また、ローマ帝国と結託し、神殿を用いて民の金を奪い取る売国奴のようなことをしていました。旧約の律法には、神に供え物を捧げる時には「傷のないものを捧げるべき」と明示されています。サドカイ派の祭司たちは、この掟を悪用し、民が連れてきた供え物の獣から、いくら小さい傷だといっても捜し出し「傷があってはならない」という名目で断り、商人たちに安値に売らせた後、自分たちが備えた「傷のない獣」を高値で買わせました。そこで、民は、損害を負いつつ、自分の「傷のある獣」を神殿と契約した商人たちに売り、新たに「傷のない獣」を買わなければなりませんでした。ところで、面白いのは、民が売った「傷のある獣」が、何日か後には「傷のない動物」となって、他の人に再び売られたということです。 また、外国に在住するユダヤ人同胞たちが神殿詣でに来た時、ローマ帝国の銀貨であるデナリオンを持ってくると、「ローマ皇帝の肖像があるから、偶像である」という名目で、ユダヤの銀貨であるシェケルに、高い手数料で両替させました。 つまり、サドカイ派の祭司たちは、神殿を私的に利用して獣と両替商売をしたわけです。イエスが神殿にお入りになる前にイチジクの木を呪い、神殿に入った後に怒って商人たちを追い出されたことは、まさにこのような宗教指導者たちの誤った行動を裁かれるという象徴的意味を含んでいました。
2。神殿の機能
神は世界を創造された方です。つまり、被造物であるこの世のすべては創り主である神の統治の下にあるということです。創造した者が造られた物の下にいることはあり得ないからです。そんなわけで、神はイザヤ書を通して次のように言われました。「天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。」(66:1)すなわち、神にとって、旧約の神殿は、絶対に必要なものではないということです。むしろ神は、この世の主の民のために神殿をくださったのです。「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」(レビ記26:11-12) 被造物より大きい神が、被造物である人間たちと関係を結んでくださるために聖なる幕屋をくださり、以後、それがソロモンの時代に神殿として発展したということです。そして最も決定的な神殿の存在理由は、今日の旧約本文から見ることができます。「今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16) つまり、神殿の機能は、神が人間のためにくださった場所で、人間が神とお交わりを持つこと、すなわち祈りのためです。
なのに、イエスの時代のユダヤの宗教指導者たちは、この聖なる祈りの場である神殿で民をだまし、自分の私利私欲のために、商売をしていたわけです。そのため、イエスは神殿の商人たちを追い出し、宗教指導者である祭司たちを叱られたのです。イエス様がイチジクの木を呪われたことも、この神殿を汚した宗教指導者への呪いを象徴するものです。聖書でイチジクの木は「平和と安定」を象徴する道具としてしばしば使われます。神は宗教指導者である祭司たちを神と民を取りなす役割のために、民に平和と安定の道を示すために遣わしてくださいました。 しかし、祭司たちは民に神の御心と御言葉を正しく教えず、むしろ自分のお金儲けのために神殿を悪用していたのです。「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。」(11:12-13確かに本文の背景は春なので、イチジクの本格的な季節ではない、しかし、イチジクは春、夏、2回にわたって実を結ぶ。というのは、イエスがイチジクに近寄られた時も、イチジクは春の実を結んでいるべきだったということを意味する。)春のイチジクの木は、先に実が出てから、葉っぱが茂るようになると言われます。つまり、実はなく葉っぱだけが茂っているイチジクの木は、正常じゃなく何の役にも立たないということです。イエスの時代の宗教指導者たちの姿と似ているのです。
イエスはマルコによる福音書1章15節で以下のように宣言されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」すでにメシアの時になりましたが、イスラエルの宗教指導者たちは、その時に葉っぱだけ茂って、実はないイチジクの木のように有名無実な存在になっていました。主イエスはイチジクの木に向けた呪いを通じて、当時の宗教指導者たちが、神に裁かれるようになることを象徴的にお示しくださったのです。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」(18)しかし、宗教指導者たちは警告するイエスを恐れるどころか、かえって主を殺そうとするだけでした。彼らは「あのいちじくの木が根元から枯れている」(20)の御言葉のように、神に呪われ、根元から枯れたイチジクのように滅びるでしょう。主イエスは、このような堕落した宗教指導者たちと、その寿命を迎えた神殿の機能をご覧になって、ヨハネによる福音書2章でこう言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」主はこのような機能を失った建物としての神殿の代わりに、主ご自身が神と民を取り成してくださる真の神殿になられ、神への真の礼拝を回復させると宣言されたのです。
締め括り
今日の本文を通じて、私たちが学ぶべき教訓は何でしょうか? 聖書のあちこちに、このような表現があります。「見よ、わたしは盗人のように来る。」すなわち、イエスが突然、誰も分からない時に、再臨されるということです。その時、私たちはどんな姿であるべきでしょうか? 私たちが生きている、この世に、もはや神の神殿はありません。エルサレムの神殿は西暦70年にローマ帝国によって崩壊し、現在はイスラムの寺院があるだけです。それでは、今の時代の神殿はどこにあるのでしょうか。先ほど申し上げたように、イエスがまさに真の神殿になって神と民を取り成しておられます。だから、イエスがおられる所は、どこでも神殿になれるのです。ということは、主の体なる私たち志免教会も現代の神の神殿として機能できるということです。志免教会堂という建物が神殿であるという意味ではなく、ここに集まっているイエスの体となった志免教会員の一人一人が、まさに神の神殿であるということです。この神殿として生きていく私たちは、果たして実を結ぶイチジクのような人生を生きているのでしょうか。 葉っぱだけが茂っているイチジクのような姿ではないでしょうか。この教会にいる私たちは、主の御言葉のように、聖と俗、汚れたものと清いものとを区別する、正しい人生を追求しているのでしょうか。神殿の堕落した祭司たちや商人たちのように生きているのではないでしょうか。もし、今突然、イエスが志免教会に到来されれば、私たちは主の御前で堂々と立つことができるのでしょうか? 今日の御言葉を通じて、神の神殿である、私たち志免教会の在り方について考えてみたいと思います。その反省と悩みを主イエスは喜んで祝福してくださるからです。