列王記上19章18節(旧566頁)
ローマの信徒への手紙11章1-5節(新289頁)
前置き
前のローマ書の説教では、二つの義についてお話しました。神による義と人間が自ら得ようとする義についての話でした。多くの人々は、自分の努力と行いによって、義とされると考える傾向があると思います。これは、神の旧約の民であるイスラエルにも当たる話しでした。行いによって自らの義を成していくと、義とされるという思いは、イエスの時代のユダヤ人たちにもあまねく広がっていた義への観念でした。しかし、ローマ書によると、真の義とは、人間の行いからではなく、唯一の完全な神からのみ出るということが分かります。人間がいくら努力しても、自らが自分の行いを通しては、義とされることは出来ません。義とされる道はもっぱら、神が許してくださったキリストを信じることによってのみ、得ることが出来るのです。パウロは、イスラエルが神に捨てられたかのようになった理由が、神の義ではなく、自分の義を追い求めることにあったと主張しました。しかし、パウロは、今日の言葉によって、そのようなイスラエルも、実際は神に捨てられたのではなく、依然として、神の恵みの中にあることを話しています。人間の目には捨てられたかのようになった存在ですが、神の御心の中では、救いの計画の中にあるということでしょう。今日は、イスラエルをお見捨てにならず、彼らの救いを望んでおられる神について話してみましょう。
1.イスラエルは本当に、神に捨てられたのか。
歴史的にキリスト教徒は、ユダヤ人を敵視する場合が多かったようです。特に、中世ヨーロッパの十字軍はイスラム教徒との戦争を繰り広げながら、イスラム教徒だけでなく、多くのユダヤ人も殺しました。イエスを迫害したユダヤ人の子孫であるという名目で虐殺を犯したからです。歴史上、ヨーロッパのキリスト教徒は、過去のユダヤ人がイエスを迫害したということに加えて、ユダヤ人は神に呪われているという観念をも持っていました。あの有名な宗教改革者であるマーティン・ルーサーさえも、ユダヤ人は嘘つきだと非難し、以後、このようなルーサーの書は、ナチスに悪用され、ホロコーストを擁護する背景となったりしました。そのためか、私たちは、なんとなくユダヤ人は神に捨てられたと思いがちです。一体なぜ、我々はイスラエルが神に捨てられたという思いを持つようにされたのでしょうか?おそらく、福音書に現れるイエスへのユダヤ人の迫害と対立などの記録のためではないでしょうか?
パウロはローマ書を通して、続けてユダヤ人の誤解と過ちについて告発しました。律法の行いを大事にする彼ら、イスラエルという選民思想に拘る彼ら、律法を完全に守ることが出来ると主張する彼らの過ちへの反論で一貫したのです。しかし、パウロは、決して彼らが神に捨てられたとは信じていませんでした。むしろ、イスラエルのためなら、自分が神から見捨てられた者となっても良いとさえ、思っているほど、イスラエルを愛し、彼らの救いを願ったのです。神はイザヤ書の言葉を通して、このように仰いました。『わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。』(イザヤ55:8)神は、いつも人の思いを超える、全く違う道を提示される場合が多いのです。神は決して、イスラエルを捨てられませんでした。むしろ神は、イスラエルが捨てられたような姿になるまでに、イスラエルを低められ、彼らが受け取るべき祝福を異邦人にも、分け与えてくださいました。そして、キリストを通して、必ず、イスラエルにも救いを与えてくださるでしょう。イスラエルの救いは、まだ現在進行中なのです。
2.神は反逆したイスラエルに7,000人を残して置かれた。
ローマ書10章21節では、イスラエルに対する神の御心を覗き見ることが出来ます。『わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた。』イスラエルはどんな民族ですか?神はイスラエルを救われるために、当時の超大国であるエジプトを滅ぼすまで、巨大な奇跡を起こされました。以降、イスラエルを神の山に導き、十戒の石板で代表される律法をくださり、40年という長い間にわたって、彼らをカナンまで導かれました。その間、彼らの不従順と堕落を見過ごし、お赦しくださりながら、まともな国家として養ってくださいました。そればかりか、敵に襲われ、泣き叫ぶたびに、イスラエルを救ってくださいました。それにも拘わらず、イスラエルは変わりませんでした。継続して、神の御旨に聞き従わず、勝手に振舞いました。偶像崇拝と背反は民族代々の大きな罪でした。しかし、神は不従順と反抗に一貫するイスラエルの民を完全には滅ぼされませんでした。むしろ『一日中手を差し伸べ』、新たな機会を与えてくださいました。そのためか、神様は、いくら罪によって、暗くなった時代にも、義人を残してくださいました。今日のローマ書は、これについて『バアルに跪かなかった7000人を自分のために残しておいた。』と表現しています。
ここで、7,000人の話は、なぜ出てくるのでしょうか?これは列王記上17章-19章に登場する話のことです。イスラエルのアハブ王と女王イゼベルは偶像に仕える指導者でした。当時、神は偶像崇拝に満ち溢れていたイスラエルの罪を罰せられるために、預言者エリヤの口を通して『数年の間、露も降りず、雨も降らない。』と宣言なさいました。以降、イスラエルに酷い飢饉が生じました。飢饉のため、辛い3年が経った後、エリヤはアハブ王に足を運びました。しかし、アハブとイゼベルは、相変わらず悔い改めず、依然として罪を犯していました。そこで、エリヤは真のイスラエルの神は、誰なのかを証明するために、対決を申し込みました。アハブとイゼベルが仕えるバアルとアシェラの預言者850人と、真の神様に仕える預言者エリヤ1人の対決でした。各自が自分の神に祈り、雨を降らせる神が本物の神であるというのが対決の主な内容でした。バアルとアシェラの850人の預言者は、自らを傷つけながら長い時間、祈りました。ですが、空からは一滴の雨も降りませんでした。時間が経ち、エリヤの番になって、切に祈ると、空は雲に覆われ、すぐに雨が降り出しました。神様はエリヤの味方になってくださったのです。エリヤは、そこで850人の偶像崇拝者を打ち破り、イスラエルの神様だけが、真の神であることを証明しました。エリヤが勝利したので、その後、イスラエルは、神を畏れ、偶像崇拝から抜け出し、悔い改めて、すぐに神のみに仕えるように変わるはずでした。
しかし、世の中はちっとも変わりませんでした。かえって、アハブとイゼベルは激しく怒り、エリヤを殺そうとしました。巨大な神のしるしがあったにも拘わらず、全く変わらないイスラエルを見て、エリヤは絶望してしまいました。エリヤは荒野に逃げ出し、変わらないイスラエルを見て、このように告白しました。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』(列王記上19:4)しかし、神は彼に食物と慰めを与え、彼を神の山に導き出されました。神の山に辿り着いたエリヤは3つの巨大なしるしを目撃することになりました。 『主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。』(列王記上19:11-12)風と地震と火との巨大なしるしに神はおられませんでした。むしろ、神は静かに囁く声におられ、エリヤにお声をかけられました。そして言われました。『わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。』(列王記上19:18)
神は巨大なしるしのように、華麗な姿では訪れませんでした。むしろ静かに囁く音のように来られたのです。『静かに囁く声』を意味するヘブライ語には『鑿で石を穿つ小さな音。』という意味もあるそうです。聖書で石を穿つ模様は、どの箇所で登場するのでしょうか?何ヶ所かあると思いますが、私はエリヤが風と地震と火とを目撃した、その場所と関わりがあるのではないかと思います。そこはどこでしょうか?まさに神の山です。出エジプト後、神の山で十戒石板をくださった神が、その十戒の石板をお造りになった、その時と関係のある表現ではないでしょうか?つまり、静かに囁く声とは、神様の偉大な御言葉を意味するものではないでしょうか?それらをまとめてみると、神は大きなしるし、激しい移り変わりではなく、神の小さな言葉としてエリヤに来られたのではないでしょうか。神は華麗で大きな移り変わりより、小さくても、忠実な神の御言葉をもって、世界を導いていかれる方です。大きな力を持っておられる神様が、あえて大きなしるしや、奇跡などの移り変わりに頼る必要はないからです。静かに囁く音のような小さな形であっても、神がおられるだけで歴史は成し遂げられていくのです。エリヤはイスラエルの変革は失敗だったと思ったかも知れませんが、むしろ、神は囁く声で、新しい歴史を始められました。そして、その歴史は、変わらず神のみに仕える、信者7,000人から始まりました。
3.決して諦めることのない神。
神はローマ書10章21節の言葉のように、依然としてイスラエルに向かって「一日中手を差し伸べておられる方」でいらっしゃいます。また、5節のように『現に今も、恵みによって選ばれた者』(5)を残して置かれる方です。神様はイスラエル民族の中にも、そのような選ばれた者らを残してくださるでしょう。なぜなら、神様の救いの選びは、ユダヤ人にしろ、異邦人にしろ、差別なく適用されるからです。実に、神の救いは、人種、国家、身分を問わず、すべての人類に同じように適用される、大きな恵みです。極めて堕落したイスラエルの中でもバアルとアシェラに屈せず、跪かなかった7000人の正しい者を残しておかれたように、神は如何なる民族も差別なく、キリストへの信仰をご覧になり、神の御心に従って救ってくださるでしょう。キリストが十字架の上で成し遂げられた恵みは、それほど深くて大きいものだからです。ローマ書11章では、イスラエルの民は神の『栽培されているオリーブの木』であり、異邦の民は『接ぎ木された野生のオリーブの木』であると表現しています。神様が、依然として大切に思われるイスラエルは、神にしばらく捨てられたかのように見えますが、いつか必ず救われるのでしょう。神は彼らを決して諦められないでしょう。
それでは、今日の言葉について、日本のキリスト者はどのように理解すべきでしょうか? 2000年前のイスラエル人の救いと現代に生きる私たちと、果たして何の関係があるのでしょうか?まずは、イスラエルを決して、諦められない神様が、私たちもまた、諦められないという信頼が得られると思います。『教会は霊的なイスラエル』という言葉のように、神は教会をも大切に思われるからです。また、イスラエルに罪が溢れた時代にも拘わらず、7,000人の信者を残して置かれたという言葉のように、小さな群れで成長も遅い日本の教会にも、神に選ばれた者たちが確かにいるということに希望を置きたいと思います。今日の言葉を通して、日本の教会の将来を守ってくださる神を期待することができます。最後にイスラエル民族の苦難がキリスト教会と呼ばれる新しい共同体が生まれる機会になったように、私たちの教会の苦難の中で、新しい命を造ってくださる神様に期待したいと思います。私たちの生活で起こる、すべてのことに、神の深い御心があることを信じ、神の御導きに付き従う我らになりましょう。
締め括り
今日の言葉は、見方によっては、私たちと時間も、空間も遠く離れている、イスラエルという民族の救いの話だと感じやすいと思います。実際に、今日の本文が持つ意味そのものも、イスラエルの救いについての内容を含んでいます。しかし、神の旧約の民であるイスラエルを見捨てられず、再び救うことを望んでおられる主の愛を見て、すでに自分の民として救ってくださった私たちに向かっての神の愛についても、もう一度考えてみる機会になれば幸いと思います。神はイスラエルを諦められなかったように、私たちを、諦められないでしょう。現在、私たちの世界に存在する理解できない理不尽や苦難、将来が全く見えない現状の中でも、神がそのすべてを知っておられ、私たちの間におられることを、もう一度覚えていく時間になることを願います。イスラエルの話を通して、私達が分かるのは、神は決して私たちを捨てられないということでしょう。私たちと永遠に共におられる神に期待し、喜びを持って一週間を過ごす志免教会になることを祈り願います。