啓示をくだされる神さま。

出エジプト記19章3-6節(旧124頁) マルコによる福音書3章13-19節(新65頁) 前置き 前回の創世記の説教では、寄留者を歓待したアブラハムの物語を通じて、聖書が語る「寄留者への持て成し」の真の意味について話してみました。聖書によると、神は時々寄留者の姿で、我々の前に現れる方であり、その寄留者を通じて、我々に御言葉をくださる方でいらっしゃいました。前回の説教では、その寄留者という存在が、私たちの周りの弱い者や私たちの最も嫌な人である場合もあると話しました。新約聖書マタイによる福音書25章でイエス様は、このように仰せになりました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」私たちが本当に主を愛し、信じる人なら、私たちは、どのような姿で現れるか分からない主への歓待のために常に備えて生きなければなりません。そして、その備えとは、私たちの隣人に対する愛と嫌な人への赦しから、初めて証明されるものです。正しい人アブラハムが前回の本文を通じて見せた寄留者への歓待は、まさにこのような成熟した信仰を表すものです。自分より他人を優れた者とする信仰、他人を赦し、愛する信仰、そういう寄留者を歓待する成熟した信仰を通して、神はアブラハムを祝福してくださったように、ご自分の民を祝福してくださるでしょう。 1. 祝福の啓示をくだされる神様。 アブラハムが招いた寄留者たち、すなわち神の御使いたちは、アブラハムの持て成しを受けて、ソドムに足を運ぼうとしました。その時、神は御使いたちの口を通じて、アブラハムに言われました。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(17-18)前回の説教で私は、「旧約聖書に登場する神の御使いたちは、神に全権を委ねられた、神に代わる存在である。」とお話ししました。彼らが天使だったのか、人だったのか、聖書からははっきり分かりませんが、神が彼らに主の御言葉による権威をお委ねになったのは明らかです。彼らがアブラハムに言い伝えた言葉は、「アブラハムは神の特別な人だから、神は隠すことなく仰せになる。」ということでした。 この言葉の神学的な意味は神がアブラハムに啓示してくださるということです。「いと高き神が人が理解できる方法で御言葉をくださること」を神学用語で「啓示」と言います。神の御言葉は人間が自力で理解することが出来ない高次元的なものです。しかし、神は神に選ばれた者たちが聞き取れる形で御言葉を与えてくださいますが、それがまさに啓示なのです。つまり、神は寄留者たちの口を通じて、アブラハムだけが聞くことができる大事な啓示を与えてくださったということです。 その啓示の内容は二つでした。 一つは祝福の啓示であり、もう一つは裁きの啓示でした。特に祝福の啓示はアブラハムと、その子孫への祝福についてのものでした。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(18-19)かつて、アブラハムをご自分の民としてお呼びくださり、契約を結んでくださった神様でしたが、その後24年の間、神様は、時にはまるで答えてくださらない方であるかのように、時には存在しておられない方であるかのように、ご自分のことを隠され、アブラハムの信仰をお試みになりました。しかし、その御試みはアブラハムを苦しめるための試練ではありませんでした。それはアブラハムの信仰を鍛え、成長させる神の愛でした。神様は「主の道を守り、主に従って正義を行うよう」彼をお選びになり、成長させられたのです。その信仰の試練を乗り切ったアブラハムは、寄留者への歓待を通じて、自分の成長した信仰を、確実に神様にお示しすることが出来たのです。その結果、神は信仰的に成長したアブラハムに、アブラハムと子孫が強い国民となり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入るだろうと祝福の啓示を与えてくださったわけです。 確かに神様は、ご自分の民を愛してくださる方です。しかし、神様はその民を甘やかす方ではありません。愛しておられるから、試練をくださるのです。「可愛い子には旅をさせよ。」という諺があるように、神はアブラハムを愛しておられるから、お試みになり、試練をお許しになったわけです。そして、その試練の結果は祝福の啓示とともに、実際にその啓示が代々続き、成し遂げられることでした。アブラハムの息子イサク、孫ヤコブ、その息子エジプトの総理ヨセフ、モーセ、ダビデ、そしてイエス·キリストに至るまで、神の啓示は代々成し遂げられていきました。実際、ヨセフ、モーセ、ダビデは民を泥沼から救い出し、主イエスは完全な御救いを成し遂げられる救い主でした。そして、アブラハムにくださった、その啓示のように、アブラハムの霊的な子孫である主の教会は、神の御言葉と約束、すなわち「主の道を守り、主に従って正義を行うキリスト」の御言葉の上に立ち、今でも受け継がれているのです。 2.裁きの啓示をくだされる神様。 ところで、神は裁きの啓示もくださいました。それは罪に満ちたソドムに対する恐ろしい審判の予告でした。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」(20-21)神様はアブラハムに祝福の啓示を与えてくださったとは反対に、ソドムの人々のことに対しては残酷な裁きの啓示を下されました。なぜ、神様はアブラハムへの祝福の啓示をくだされるや否や、裁きの啓示をくだされたのでしょうか? それは神への信仰を持って生きていたアブラハムと、神に逆らう人生を生きていたソドムの人々を明らかに対比するためでした。次の説教ではソドムとゴモラについて、もっと詳細に分かち合う予定ですが、そこの人たちは深刻な罪人たちでした。「ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(19:4-5)、彼らはアブラハムを離れてソドムに着いた神からの寄留者たちを歓待せず、乱暴に扱おうとしました。彼らが、どのような乱暴なことを犯したのかは、次の説教で詳しくお話ししましょう。明らかなのは、彼らの行為がアブラハムとは正反対の、寄留者への脅威だったということでした。 「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(19)先に神は、この言葉を通じて、なぜアブラハムをお呼びになり、試練を通して成長させ、神の祝福の民にしてくださったのかを教えてくださいました。それはアブラハムを「主に従って正義を行う」人にしてくださるためでした。それが神の民が持つべき在り方だったからです。ここで言う「主に従う。」という表現はヘブライ語で「チェダカ」と言いすが、「全ての人間が守るべき普遍的な正しさ。」という意味だそうです。また「正義を行う。」という言葉は、ヘブライ語で「ミシュパート」と言いますが、「神の民として守るべき律法的な正しさ。」という意味だそうです。神様はアブラハムと、その子孫を「全ての人間が守るべき普遍的な正しさ。」と「神の民として守るべき律法的な正しさ。」を守りつつ生きる、真の正しい人にさせるためにアブラハムをお選びになり、試練を与えられ、養ってくださったのです。そして、そのような生き方の最も基本的な姿勢は、隣人への接し方に現れるのです。ところが、ソドムの人たちには、そうしたチェダカとミシュパートが欠けている状態でした。彼らは自分たちの力を信じ、余所者を蔑んで、生きていたわけです。つまり、彼らには神様に認められるべき、正しさがなかったということです。 神様が御使いたちを遣わして、ソドムを滅亡させようとなさった理由は、このような彼らの悪をお裁きになるためでした。ところで、問題はアブラハムの甥ロトが、そこに住んでいるということでした。確かに啓示される神様は、ご自分の民に祝福の言葉をくださる方です。しかし、神は罪に満ちて悔い改めずに生きる人々へ裁きと呪いの言葉をもくださる方です。そして、その呪いと裁きの啓示は、世の中に生きている主の民、つまり教会を通じてくださるのです。神はアブラハムにソドムへの裁きの啓示をくださることで、ソドムに住んでいる甥ロトのために祈らせてくださいました。そのため、アブラハムは22-33節に出てくる繰り返される懇請で、神様がソドムを許してくださることを願ったのです。神様がこの日本に主の教会を立ててくださった理由も、それと同じです。日本の民族が正義ではなく悪を行なって生きていけば、神は必ずこの国をお裁きになるでしょう。このお裁きからは米国も、中国も、韓国も自由ではありません。終わりの日に、すべての存在が神に裁かれるのが決まっているからです。しかし、神は愛する日本の教会を通じて、日本の民族と社会に神の警告を伝えることを望んでおられます。日本キリスト大会が政府の政策に時々抗議状を送る理由も、そういう意味があるからです。それがまさに私たちが伝道をしなければならない大事な理由なのです。 締め括り 啓示に関する話は、今日の新約の本文からも見つかります。イエス様はしるしと奇跡を見ても悔い改めない、ガリラヤのいくつかの町を責められつつ、このように仰いました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11:25)神は、いつも聖書を通して祝福と裁きの啓示をくださる方です。そして神に仕える、主の民は、その祝福と裁きの啓示を聞くことが出来る特権を持っています。聖書は神の愛と祝福だけを語ってはいません。神の裁きと呪いをも語っているのです。だから自分の好きな箇所だけを読んで、勝手に聖書を誤解してはいけません。神の祝福と裁きはコインの両面のように、いつも共存するものです。賢い親は、適切な褒め言葉と戒めを通して、子どもを育てます。そのように神も愛と裁きを通して、この世を治めておられるのです。主イエスは、このような神の啓示を我々に与えてくださり、祝福を極大化し、裁きを最小化してくださるために来られた方です。今日、アブラハムの物語を通じて、私たちは神の啓示について知ることが出来ました。私たちは、主に愛される民として、神の啓示が持つ二つの面を覚え、主の御言葉に従って生きるべきでしょう。神の啓示を大事にし、主に喜ばれる志免教会になることを願います。

主の弟子。

出エジプト記19章3-6節(旧124頁)マルコによる福音書3章13-19節(新65頁) 前置き 去るマルコによる福音書の説教では、神の子について分かちあいました。イエス様の時代、神の子という表現が持っていた意味は、信仰や宗教に限った意味ではありませんでした。当時、神の子という表現はローマの皇帝を指していて、非常に政治的で社会的な意味を持つ言葉でした。これを通して、私たちは神の子と呼ばれたイエスが、ただ静的な信仰の領域にだけ限られた方ではなく、ローマ皇帝の権威を超越した、社会を変革し、世の中を変える実践的で動的な存在だったということが分かりました。私たちは神の子イエスを信じる存在です。これは、ただ私たちが、私たちの救い、平和だけに関心を持つのではなく、この世の政治的な理不尽や社会的な問題にも、もっと関心を持って、祈りと実践によって、生きていかなければならないという役割を持っているという意味です。イエス・キリストは21世紀にも、神の子としておられる方です。この主の民として召された私たちは、政治、社会、経済すべての領域において関心を持ち、正しく生きていくべき存在だということが前回の説教の筋書きでした。今日は、前回の説教に引き続き、この神の子イエスがお呼び出しになった弟子という存在について考えてみたいと思います。 1. 山-神がお働きを始められる場所。 「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。」(マルコ3:13)聖書での山という表現には「未来への備え、神のご臨在、神の権能」などの意味があると言われます。聖書に登場するすべての山について、このように解釈することは無理でしょうが、特別な出来事があった山は、このように解釈する場合が多いです。我々は、このような意味を、本日の旧約聖書の本文を通して見ることができます。エジプト帝国の暴政によって、奴隷のように生きていたイスラエル民族は、神の強力な権能である10の災いによって、自由な存在となりました。しかし、この自由は、身勝手に生きてもいいという放縦の意味ではなく、神の民となるという責任と義務を求められる責任のある自由でした。このような真の自由を与えるために、神はイスラエルに旧約の律法をくださったのです。その時イスラエルの指導者モーセはシナイ山という神聖な場所で、この律法を受けたのです。「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。」(出19:3) 神に律法を頂いたイスラエルは、単なる神の奴隷ではなく、身分の変化を受けたものでした。「もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出19:5-6)つまり、山で神に出会ったイスラエルは奴隷の民族から祭司の民族として、新しく立つことになったのです。 今日の新約の本文は、このようなシナイ山での出来事に非常に似ています。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:13-15)マルコによる福音書でのイエスは、1章と2章で何人かの弟子たちをお呼び出しになりましたが、彼らに宣教をさせたり、悪霊を追い出す権能を与えたりはしませんでした。癒しと宣教と教えとは、おもにイエスご自身が行われ、弟子たちは静かに、その後に従うイメージだったのです。しかし、主イエスは山に登って公に弟子たちを呼び寄せられ、また、彼らに権能を与えられて、イエスの御業に参加できる機会をくださったのです。マタイによる福音書にも弟子をお召しになる場面が登場しますが、その時、主はこのように言われます。「行って、天の国は近づいたと宣べ伝えなさい。 病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:7-8)主は、今まで受動的なイメージだった弟子たちを能動的な存在と変えられ、主の力を分け与えてくださいました。 そして、ご自分が行なっていた御業である「癒し、教え、宣教」の権限を与えてくださったのです。シナイ山でイスラエルをお召しになった神が、奴隷だったイスラエルを祭司の王国、聖なる国民、すなわち礼拝者として新しく呼んでくださったように、イエスも山に登って主の人々を呼んでくださり、ご自分のように癒して、教えて、宣教する弟子として新しく立ててくださったわけです。 2.誰がイエスの弟子なのか? このようにシナイ山の神と、山の上のイエスは非常に似ています。旧約の神がイスラエルの民を通して新しい御業をご計画なさったように、新約のイエスもご自分の弟子たちを呼び寄せられ、旧約とは区別される新しい御業をご計画なさったのです。それでは、果たして、誰がイエスの弟子になれるのでしょうか? 今日の新約本文には、このような言葉があります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると」(13)主は、主がお望みになる者を呼び寄せられ、ご自分の弟子にされました。この世のすべての人が神の弟子になることができるわけではありません。主の弟子になるということは、主の呼びかけに応じた者にのみ可能なことです。イスラエル民族がシナイ山で、神の民に選ばれたことは、神が即興で行われたことではありませんでした。「お前ら、せっかく自由の身になったのだから私の民になれ。」との意味ではなかったということです。そのお選びは、既にイスラエルが打ち立てられる前の、先祖アブラハムと結んだ契約の結果であり、そのアブラハムとの契約ですら、アダムとエヴァとの堕落にまで遡る、初めからの神の徹底したご計画に基づくものなのです。このように、神様に選ばれ、召されるということは、神の計画の中にいる者だけが得られる特権なのです。聖書はこれを神の摂理であり、経綸であると語っています。 だからといって、主に呼び寄せられた者たちが、みんな服従したり、弟子になったりするわけでもありません。ただ神の呼びかけに従順に応える者だけが、召された者になるのであり、弟子になれるのです。今日の本文には「彼らはそばに集まって来た。」(ギリシャ語 デロ、応じる。)という言葉があるからです。神はわがままな暴君ではありません。神はいつも人間の自由な意志を尊重して、人をお召しになる方なのです。神の呼びかけに応じない者たちまで、強制的に呼び出される方ではありません。我々人間は神にとって、操り人形ではなく、人格を持っている被造物だからです。主は伝道者たちの伝道を通して、聖書の御言葉を通して、牧師の説教を通して、毎日毎日、常に呼び掛けていらっしゃる方です。その主の呼びかけを聞いた者が、それに従順に応える時にはじめて、神様のお招きは完成するのです。これは、人間の選択の問題ではなく、神への服従の問題でしょう。そして、そのように召され、聞き従う者こそが、イエスの弟子に選ばれるのです。だから主のお選びと呼びかけに応じ、聞き従って、この場に集っている私たちが、まさに主イエスの弟子なのです。新約聖書の使徒だけが弟子ではなく、教会の牧師だけが弟子ではなく、長老や執事だけが弟子ではなく、主の御言葉を聞き、答え、主の御前に出てきた、すべての人々が、まさにイエス•キリストの弟子なのです。 3.今日も私たちを弟子として呼んでおられる主。 「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:14-15)主は12人の弟子を召され、彼らをご自分のそばに置いてくださいました。主が弟子をお呼びになった理由は、奴隷のように仕事ばかりさせるためではありません。主が彼らと同道し、愛してくださるためです。弟子として呼ばれた我々は今、我々の主でいらっしゃるイエスと共に生きています。決して私たちは独りではなく、私たちのすべてを守り、助けてくださる主と共にいるのです。また、主が弟子をお呼びになった理由は、宣教をさせるためです。ここで言う宣教とは、人を連れて来て礼拝の場に座らせるということだけを意味することではありません。もちろん、そのような行為も宣教でしょうが、ここでいう宣教とは、もっと根本的な意味、つまりイエスが救い主であること、神が真のお独りの神であることを、私たちの生活を通して伝えることなのです。我々がキリスト者であることを明らかにし、我々の生涯の中で、キリストの弟子として隣人に感動を与えることも宣教なのです。最後に、主が弟子をお呼びになった理由は、弟子たちを通して悪霊を追い出すためです。これは実際に悪霊を追い払うという意味もあるでしょうが、悪霊と表現される、この世の理不尽と悪の中で正義を追い求め、そのような正しい生き方を貫くという意味にも解釈できるでしょう。 このように、主は「主と同道する弟子」「キリストの救いと愛を宣べ伝える弟子」「世の悪や不条理に対抗する弟子」を立ち上がらせるために弟子をお呼び寄せになるのです。そして、歴史的にその弟子たちは、キリスト者と呼ばれてきました。聖書に12人の使徒たちという表現があるからといって、弟子が特別な人だと思ってはなりません。 12という数字は聖書の完全数として「全て」という意味をも持っているからです。したがって、今日、主を信じて教会を成す私たちは皆、主に愛される弟子です。皆さんと私が即ちイエスの弟子でなのです。だから、弟子という言葉に特別な意味をつけたり、私たちとは別の偉い人、牧師や伝道師のような神学を専攻した人などと考えたりしてはならないでしょう。最後に今日の言葉で、主イエスはおもにギリシャ語の現在形の動詞を使っておられます。弟子たちが主と一緒にいること、主に遣わされること、主に宣教させられること、悪霊を追い出すこと、すべてが現在形です。ギリシャ語で現在形が持つ文法的意味は、その文章を読む現在の読み手にも同じく有効であるということです。つまり、我々が今日の本文を読んでいる、ただいまの時点でも、主は弟子を呼ばれ、我々と一緒におられ、宣教させられ、この世を変えておられるということです。皆さん、忘れないようにしましょう。私たちは主の弟子です。そして我々の主イエス·キリストは今日も変わることなく、私たちに弟子としての生活を促していらっしゃいます。 締め括り 今日は3時から牧師就職式が持たれます。今日の就職式の式文には牧師の誓約と教会員の誓約が出て来ます。ところで、教会員の誓約が牧師の誓約より約2倍ほど長いです。そこで私はこれはただの牧師だけの就職式ではなく、牧師と教会員が一緒に就職する就職式ではないかと思いました。今日、主はこの志免教会という小さな山に私たちをお招きくださり、主の弟子としてお召しくださるでしょう。主が志免教会の教会員たちと牧師がイエスの共同体となり、主と共に歩んで福音を宣教し、正義を追い求めて生きることを望んでおられます。今日の御言葉を通じて、志免教会のみんなが、主イエスの弟子であることを、もう一度、心に留めていくことを願います。私たち志免教会を通じて神様が志免町に祝福を、私たちを通じて癒し、教え、宣教してくださることを願います。主の弟子である志免教会に神の大きな恵みが共にあることを信じます。

寄留者への歓待。

創世記18章1-15節(旧23頁) マタイによる福音書25章31-46節(新50頁) 前置き 神の民として選ばれ、生まれ故郷、父の家を離れたアブラハムは、24年という長年を寄留者(旅人)として暮らさなければなりませんでした。しかし、土地と子孫を与えるという神の約束は、24年経っても果たされず、土地と子孫を得るためのアブラハムなりの努力も、何も成し遂げられず、無駄になってしまいました。75歳に神に召されたアブラハムは、まもなく100歳を目の前にする歳になってしまいました。しかし、老いたアブラハムが、すべてを諦めようとする時に、神は再び現れ、神の約束は依然として有効であると教えてくださいました。そして神は、その約束の証としてアブラハムの家の男たちに割礼を受けることを命じられました。契約と割礼のヘブライ語の表現が同じであることから、神との契約を永遠に覚えさせる神のご命令だったことが分かります。以上が今までのアブラハムに係わる筋書です。以後、神はご自分の御使いたちをアブラハムに遣わしてくださいました。今日の旧約本文は、その御使いたちとアブラハムの出会いについての物語です。私たちは今日の話を通じて、どんな教訓を得られるでしょうか?今日は寄留者を通して、訪れてくださる神について話してみたいと思います。 1.神様から遣わされた者たち。 カナン地域でアブラハムが生活していた主な場所は、現在のエルサレムから南側に30kmくらい離れているマムレ(ヘブロン)という所でした。神のご命令によってカナンに降ってきたアブラハムは、過去24年間のうちに、その地域の有名な者になっていました。彼は牧草地が足りなくて、甥と別れるほど、多くの家畜を飼っており、シンアル地域の王たちと戦って勝つほどの相当な戦力もを持っていました。神が契約してくださった土地がなくても、神が約束してくださった子供が生まれなくても、彼には現在持っている財産や権力だけで十分に意気揚々と生きることができる力がありました。そればかりか、ハガルを通して儲けた息子、イシュマエルもいましたので、相続人への心配も一安心できる状況でした。しかし、彼は相変らず神に仕えました。アブラハムは24年間、多くの失敗と試行錯誤を経験してきました。しかし、彼が偉大な信仰の父として、神に認められた理由は、自分の状況がどうであれ、彼が神の約束を覚え、信じたことにあるでしょう。私は創世記を説教して来つつ、何度もアブラハムが私たちと同じ、平凡で間違いと失敗の多い人だったと話しましたが、それでも、アブラハムが持っていた、このような神への信仰は現代を生きる私たちが、倣っていくべき良い信仰の手本になると思います。 もし、アブラハムが自分の財産と現在の状況に満足し、神の約束を軽んじ、神に仕えようとしなかったら、彼は今日の本文に現れた3人の御使いに出会うことが出来なかったはずでしょう。聖書には今日登場した3人の御使いが華麗な服を着ていたとか、多くのしもべを引き連れていたとかの話は記されていません。ただ、3人の人が彼に向かって立っていたと記してあるだけです。しかし、常に神の御言葉を待ち、神に仕えようとする心構えを持っていたアブラハムでしたので、その3人が訪れてきた時、彼らが神に遣わされた者だと気付き、すぐに彼らを迎え、持て成したのではないでしょうか? 過去のユダヤ人のラビたちは、この3人が神の天使だと信じていました。特に、ラシュというラビは、その3人が、ミカエル、ラファエル、ガブリエルという有名な天使たちだと思いました。この天使という言葉は、神のメッセンジャーという意味で、天使が現れるということは、神の御言葉が臨むこと、つまり神が直接お出でになることと同じくらいの権威がある意味だったと言われます。勿論、今日の本文を通しては、彼らが天使であるかどうかははっきり分かりません。しかし、少なくとも神の御言葉が彼らを通じて、アブラハムの所に来たということは、はっきり分かります。ところで、彼らはみすぼらしい旅人たちでした。神の尊い御言葉が通り過ぎる寄留者を通して届いたということでしょう。 2.神は寄留者の姿でお出でになる方。 聖書で寄留者とは、助けを求めている旅人、余所者として解釈される場合が多かったです。当時のメソポタミアやカナンの原住民は旅人たちを暖かく持て成したそうです。あの有名なハンムラビ法典にも、旅人への扱いについて記録されていると言われます。しかし、彼らが持て成した旅人は同じ民族や国に限る存在でした。外国人や旅人には手厚い持て成しをしなかったのが学界の定説です。彼らは何の利益にもならなかったからです。しかし、アブラハムは世の中の論理ではなく、神への奉仕の意味として3人の客を喜んで迎え、持て成しました。ところで、その客たちは、実際に神の御使いたちで、彼らは神の御言葉を持ってきたのです。我々はこれを通して、神は自ら現れる方でもありますが、通り過ぎる寄留者、余所者、弱者を通しても現れる方であるということが分かります。もし、アブラハムが彼らを迎える前に、カナン地域のどの種族から来た人なのか、どの家柄の人なのか、3人の身分を選り分けようとしたならば、彼は神からの大事な御使いたちを逃してしまったのかもしれません。しかし、アブラハムは当時のカナンで通用していた持て成しではなく、いつ神の御使いが来るか分からないという心構えで3人を招き、歓待したわけです。 今日の新約本文でイエスは、主が再臨なさって、この世をお裁きになる時のことについて教えてくださいました。主が天使たちを皆、従えて栄光に輝く座に着かれる時、正しい人たちをお呼びになり「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」と仰いました。すると、 正しい人たちが聞き返しました。「主よ、いつ我々がそうしたのでしょうか?」その時、主は「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」とお答えになりました。私たちは、この物語を通して、主が貧しい隣人や旅人の姿を持って、私たちの所に訪ねて来られる方であることが分かります。ひょっとしたら、今一緒に礼拝を捧げている兄弟姉妹が、実は我々の間におられる主であるかもしれません。志免教会のご近所さんたちがイエスであるかもしれません。私たちの一番嫌いな人が、私の前に来ておられる主であるかも知れません。私たちが彼らを遠ざけ、冷遇する時、もしかしたら、私たちは主を遠ざけ、冷遇しているのかもしれません。私たちの隣人愛は判官贔屓のようなものではありません。私たちの他者へ愛は、私たちの間におられる主イエスへの愛から湧き出るべきものなのです。誰が、どんな姿で主の代わりに私たちの前に立っているか分からないからです。 3.最も不要で、憎い者を愛せよ。 多少、政治的な話になるかと思いますが、日々関係が悪化している日韓関係を例に挙げてみましょう。日本は、韓国人にとって、他の国々では感じられない様々な感情を起こさせる国です。歴史的には深い遺憾があり、文化的には一番親しみのある、微妙な国なのです。つまり、愛憎の国なのです。日本人にとって韓国はどうでしょうか?日本人の中には激しく韓国を蔑む人もいますが、一方では身の置き所のないほどに韓国を重んじ、愛してくださる方もいます。同じく、韓国人の中にも日本を蔑む人がおり、日本を大事にし、重んじる人がいます。このような日韓関係の中で、日本と韓国の教会は、真の平和のために協力関係を大事にし、過去の悲劇を省み、新しい未来を作っていくために手を携えています。私も日本の教会に仕えようという確信を持って以来、日本への盲目的な遺憾を控え、中立性を持って愛と協力に進もうと心を込めて生きています。なぜでしょうか? それは、いくら憎い相手がいると言っても、彼らから神の存在を見つけ、彼らを愛するのがイエス・キリストの御教えだからです。私は日本という国を考える時に、ここにおられる皆様、ご近所の皆様の中におられる主イエスが思い起こされ、憎むことが出来ません。日韓の教会がお互いに心を一つにして、愛しあい、仕えあうべき理由は、相手の民族と国を愛しなければならない理由は、そのような愛と協力の中にキリストがおられるからです。だから、相手を憎むことは、その中におられるキリストを憎むことと等しいことなのです。 マスコミは、いつも相手の国を中傷します。「首相が、大統領が」から始め、相手を盲目的に絶対悪のように作ってしまいます。そして人々がそのような見方で付いて来るように煽り続けます。政治家たちがそれを願っているから、わざわざ忖度しているわけです。その結果、もし、戦争でも起きたら、死ぬのは為政者や政治家ではありません。私たちの子供、親戚が、そして私たち自身が死ぬのです。それは決して主の御心ではありません。主イエスは愛と和解を望んでおられます。だから、一度でもいいので相手の立場から考えてみるべきではないでしょうか? 両国とも神様でない以上、きっとそれぞれの過ちがあるはずでしょう。が、両方ともまるで、自分が神様のようになり、互いに中傷し合い、争い合うだけです。自分の民族と国だけを大事にすることは、イエスのお教えではありません。それは帝国主義なのです。アブラハムは国と民族を問わず、寄留者を丁寧に持て成しました。そして、その寄留者を通して神の祝福を受けました。また、神は寄留者の口を通じて、アブラハムとサラが、切に願っていた息子の誕生を預言してくださいました。そして、私たち皆が知っている通りにアブラハムとサラは信仰の父と母になりました。私たちに何の役にも立たないような人を私たちの中にいる寄留者として考えていきましょう。憎い人をイエスのように扱いましょう。兄弟姉妹と隣人を愛しましょう。そんな我々の人生をこそ、神は喜ばれるでしょう。寄留者への歓待と愛を通して、主の祝福が我々に臨むでしょう。 締め括り 今日の説教を準備しながら私の過去の人生を振り返ってみました。正直、まだ心の中に遺憾の念を持っている人たちが何人かいます。未だに赦し難い人がいます。しかし、神様は今日の言葉を通して、私に仰せになります。「まだ赦せないのか?」「彼らがイエスなら、私からの寄留者ならどうする?」結局、悔い改め、赦すしかないと思いました。皆さんはいかがでしょうか? まだ赦せない、憎い、無視したい人がいますか? イエスを信じること、神の民になることは、決してたやすいことではありません。憎い人を、役に立たないと思える人を、愛さなければならないからです。しかし、その度に主イエスのことを考えましょう。イエスは神と敵だった私たちを救ってくださるために、ご自分の血潮を流され、犠牲になってくださいました。何の益にもならない貧しい者たちをわざわざ捜し回ってくださいました。これは、今日の本文でアブラハムが行なった旅人を持て成した人生と一脈通じる生き方ではないでしょうか? 今日の言葉を通して、心から赦し、自分のように愛し、キリストに倣っていく機会になることを祈ります。そのような人生を生きる時にはじめて主は「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と誉めてくださるでしょう。また、信仰の父として認められたアブラハムのように、神の祝福があるでしょう。

神の子イエス

創世記18章1-15節(旧23頁)マタイによる福音書18章10-14節(新35頁) 前置き もう、マルコ福音書を始めてから半年が経っています。それにも拘わらず、話の進みが遅すぎて、先々週やっと2章を終えて、今週からは3章に入ることになりました。もちろん、一週間おきに創世記をも取り上げているため、もっと遅くなっていると思いますが、マルコ福音書の短い文章の中には、奥深い意味が多く含まれていて、さらに遅くなっているかと思います。しかし、マルコ福音書には21世紀を生きる我々に、依然として有効な教えが、たくさん隠れているので、ゆっくり吟味しつつ語り合っていきたいと思います。イエスはローマ帝国の下で迫害を受けていた主の教会にキリストによる希望を与えてくださり、またイエスご自身が罪と悪に満ちたこの世に、どのように対抗なさったのかを教えてくださるために、私たちにマルコ福音書を残してくださったと思います。マルコ福音書を通して、主イエスがどれだけご自分の民を愛しておられるのかを、また現代を生きていく私たちに、どれだけ希望と勇気を与えることを望んでおられるのかを、一緒に学び、覚えていきましょう。今日は神の子イエスという題で皆さんとマルコ福音書3章の言葉を話してみたいと思います。 1.人を愛されたイエス·キリスト イエス様はマルコ福音書2章後半で、安息日の本当の意味について教えてくださいました。 ‘安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。'(マルコ2:27)主は安息日に宗教儀式としての礼拝だけでなく、神が与えられた隣人に愛を実践することで、真の安息日の精神を守ることを命じられました。今日の本文3章1-6節は、もう一度安息日を背景にし、イエス様が人をどのように愛されたのか、実践的なイエス様の生き方を示してくれます。当時、ユダヤ人は安息日に「働かないこと」という旧約の律法を誤解し、安息日に人を助けることさえ犯罪だと見なしていました。もともと律法が安息日の労働を禁じた理由は、「自分の欲望のための労働や娯楽を止め、神様に完全な礼拝を捧げなさい。」という意味だったからです。 つまり、きちんと聖別された安息日を過ごせとの意味だったのです。 しかし、イエス当時の宗教者たちは、それを誤解して安息日にすべての労働を禁止し、さらに隣人を助け、人を生かすことさえ労働と見なしてしまいました。特に、律法を研究していたファリサイ派の人々は、そのような評価基準に基づき、人々を罪に定めたりしました。 聖別のための禁止が、人を罪に定めるための禁止に変質したわけです。 「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」(3:1-2)そのため、彼らは安息日に片手の萎えた人を治そうとしていたイエス様に注目し、何とかイエス様を罪に定めたがっていました。イエス様が前の2章で「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と仰ったにもかかわらず、彼らはものともせず、イエスを不正な者として中傷するために血眼になっていました。それでも、主は彼らの評価よりも、片手の萎えた人を治されることに力を注いでおられました。ここでの「片手の萎えた人」という表現は、自力では何もできない弱い者を意味する表現です。しばしば聖書は「手」という表現を「力」と解釈したりします。神様は安息日という、本質を失い、口実だけ残っている宗教儀式より、安息日に何もできない者、他人の助けを切実に求めている者を助けることに心を注がれることで、真の聖別とは何か、神様の御心とは何かを教えることをお望みになったのです。そのために力の弱い者に力を与え、助けを求める者を助けてくださったわけです。キリストは神への真の礼拝とは、神様が私たちに与えて下さった隣人を愛し、助ける生き方を伴うことだと教えてくださったのです。 安息日の後、イエスはガリラヤ湖に足を運ばれました。その時、おびただしい群衆がイエスのところに従って来ました。彼らの中にはイスラエル人だけでなく、異邦の人々もいました。彼らはローマ帝国の支配下にある貧しくて哀れな人々でした。イエスのうわさをことごとく聞いた彼らは、自分たちの宗教やローマ帝国では満たされなかった慰めと癒しを請うために、イエスのそばに集まって来たのです。群衆はイエスに会うために押しつぶされるほど、たくさん集まりました。 しかし、イエスは彼らを無視なさらず、皆が怪我せずに主を見ることが出来るように、小船にお乗りになりました。イエスは彼らを癒され、悪霊を追い出してくださいました。イエスは彼らの苦しみと悲しみを知っておられ、治すことを望んでおられたのです。神の聖なる者、油注がれた者イエス·キリストは、人を愛し、彼らを助けるために来られた方でした。イエスは、真の神でありますが、人間でもある、神と人の間の仲保者でした。みずから人間になるほどに、主は人間を愛してくださったのです。神の子イエスは、このように神という絶対的な存在でしたが、人間を愛する憐れみの主でした。 そして、その主は今日もキリストの愛と助けを望んでいる、私たちを喜んで愛してくださる方なのです。 2.神の子という表現について。 「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、あなたは神の子だと叫んだ。」(3:11)その時、貧しくて病んでいる人々を苦しめていた汚れた霊どもは、イエスを見てひれ伏し、「あなたは神の子だ」と叫びました。イエスはまだご自分の時ではなかったので、彼らに「ご自分のことを言いふらさないように」と厳しく戒められました。御父から来られ、人間の間にいらっしゃるイエスは、実に神の子でした。そして、イエスを敵視する汚れた霊どもは、イエスが神の子であることを見抜き、証ししました。敵対する者がイエスを神の子と認めるとは、いかに皮肉なことなのでしょうか。ところで、イエスの当時のローマ帝国において、「神の子」という言葉には、どのような意味があったのでしょうか? 聖書がイエスのことを「神の子」だと証しするから、当たり前にイエスは神の子なのでしょうか? それとも、他の裏の意味があるのでしょうか?事実、この「神の子」という短い表現には、当時の歴史的、文化的、政治的な奥深い意味が隠されていました。イエスはなぜ、このように「神の子」と表現した霊どもを叱られ、戒められたでしょうか? これを理解するためにはイエスの時代から約400年前に遡らなければなりません。 紀元前、約360年ごろ、古代ギリシャの小さな国家、マケドニア王国にアレクサンドロスという王子が生まれました。当時、マケドニアはそれほど大きな国ではありませんでした。しかし、20歳になったアレクサンドロスは特有の勇猛さと実力を発揮し、周辺のギリシャ諸国とエジプトを征服していきました。彼はギリシャ、エジプト征服にとどまらず、西のペルシャを攻撃しました。当時のイスラエル民族はペルシャの支配下にありましたが、アレクサンドロスはペルシャを征服し、イスラエル民族をも支配することになりました。その後、アレクサンドロスは西へと進撃し続け、現在のインドの一部までも掌握し、ギリシャ帝国を打ち立てました。(広さ九州→アメリカ)このすべての征服活動は、わずか10年にしかならない短い期間に行なわれました。 それで人々は今でもアレクサンドロスを偉大な王という意味で、大王と呼びます。ところが、アレクサンドロスの業績は土地の拡張だけにとどまることではありませんでした。彼はギリシャの文化をペルシャとインドの地域まで伝え、西洋と東洋の文化が結びついた、いわゆるヘレニズム文化の発端となりました。以後、ヘレニズム文化は西洋に逆流入し、その影響はギリシャ帝国のみならず、ギリシャ帝国の滅亡後、ローマ帝国の全盛期にも影響を及ぼすほど、強力なものでした。 そのヘレニズムの影響で、ローマ帝国の支配下で記された新約聖書は、ほとんどがギリシャ語版であり、ローマ帝国が誕生する前、すでに旧約聖書はギリシャ語に翻訳されたのです。 ところで、アレクサンドロス大王は自らをゼウスの子だと言いました。つまり「神の子」だと主張したわけです。以降、ローマ帝国の皇帝たちが自らを神の子と呼んだ理由も、こうしたアレクサンドロス大王への羨望と嫉妬、尊敬の意味を盛り込んでいるためでした。したがって、イエスの時代にあって、「神の子」という言葉は、ローマ皇帝を意味する表現でした。ところで、イエスに敵対していた悪霊たちは、このようなイエスの真の存在意味を見抜き、イエスにまるでアレクサンドロス大王のような権威を込めて「神の子」と呼んだわけです。当時、「神の子」と呼ばれることには、政治的な意味が深くあったため、政治犯と見なされ、十字架につけられ、殺される危険性を持っていました。そういうわけで、イエスはまだご自分の時になっていないとご判断なさり、悪霊どもにイエスについて言い表すことを厳しく戒められたのです。当時のローマの皇帝は、自分の名誉と権力を高めるために、「神の子」と呼ばれることを望んでいました。貧しい人々を支配し、弱い者たちを征服し、もっぱら自分の既得権だけのために世界を治めようとしていたのです。しかし、真の神の子、イエスは彼らと違いました。イエスは「神の子」でいらっしゃいましたが、ご自分の名誉、権力、既得権のためではなく、父なる神が憐れんで愛しておられた弱い者たちの名誉、力、回復のために神の子として来られたのです。イエスはアレクサンドロス大王より偉大なお方でしたが、高いところではなく、最も低いところに来られ、愛と慰めと希望を与えてくださった、真の神の子だったのです。 締め括り 今日の旧約本文である詩編2編は、「神の子(メシア)への賛美」です。この詩篇2編がいつ記録されたのかは詳しく分かりませんが、イスラエル民族がバビロンに滅ぼされる前、王政時代に記録されたという仮説が有力です。つまり、アレクサンドロス大王やローマ皇帝を意味する「神の子」よりも、ずっと前の概念だという意味です。 おそらく、このような詩編2編の影響で、イエスの時代の人々も、神の子という表現に対する旧約のイメージを知っていたと言えるでしょう。 それにアレクサンドロスによるヘレニズム文化的な「神の子」という意味も知っていたはずでしょう。結局イエスは、このようなヘブライ的な、そしてヘレニズム的な文化が重なっているローマ帝国の支配下のイスラエル社会に真の「神の子」として来られた方なのです。しかし、イエスはこの世が示すローマ皇帝としての神の子ではありませんでした。詩編2編のように、世の権力の上におられ、この世とあの世、両方とも治められる真の神の子でした。 この真の神の子イエスは、いつかこの世の悪い権勢を退け、正義と愛の王として再臨されるでしょう。我々キリスト者は、そのイエスを信じて、イエスが行われた神と隣人への愛を重要な価値として、生きていくべきでしょう。 神の子イエスは、敵には審判者として、民には救い主として来られる方です。そのイエスの再臨を待ち望む存在として、イエスに倣い、聖別されたものとして、正義をもって生きる私たちになることを願います。

聖霊と教会。

ハガイ書2章1-9節(旧1477頁)エフェソの信徒への手紙2章14-22節(新354頁) 前置き キリスト教は、御父、御子、聖霊の三位一体なる神を信じる共同体です。創造から終末まで、すべてをご計画なさる父なる神と、その御父の御言葉であり、ご意志として神と人の間をお執り成しになる御子イエスと、御父と御子から遣わされ、教会と世を導いていかれる聖霊、このように3位が一つになって三位一体の神としておられる方です。しかし、私たちには主に父なる神と御子イエスにだけ集中する傾向があり、聖霊に対しては、よく見落としたりする場合があると思います。このように聖霊が見落とされる傾向について、アメリカの、ある神学者は、このように語りました。「聖霊は長い間、まるでシンデレラのような存在だった。2人の姉妹は舞踏会によく行き、シンデレラは全く行けなかったように、聖霊は御父と御子に比べ、いつも冷遇を受けた。」それほど、聖霊は頻繁には取り上げられない方だと思います。私たちは普段、聖霊について、どんな認識を持って生きているでしょうか? 実際、父なる神やイエス・キリストに比べて、聖霊への認識は薄いのではないでしょうか。私たちは毎年聖霊降臨節(ペンテコステ)を記念していますが、私たちの実生活の中で聖霊はどのような位置を占めておられるのでしょうか。今日は三位一体の聖霊と、そのご降臨について話してみたいと思います。 1.「聖霊がご降臨なさる。」 イエスは十字架で御救いを成し遂げられた後、3日目に復活されました。復活なさった主は40日間、弟子たちとイエスに従っていた人々に現われ、ご自分の復活を証しし、この世の終わりまで福音を宣べ伝えることを命じられました。そして昇天なさり、父なる神の右に行かれました。弟子たちは復活された主を目撃し、その方が本当に神の子であると信じるようになりました。それでも、彼らは主イエスの不在を恐れていました。しかし弟子たちは主の御言葉に従い、ご命令通りに行いました。その命令とは、神の約束、つまり聖霊の降臨を待つことでした。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4-5)生前のイエスは繰り返し聖霊が来られると予告してくださいました。 使徒言行録によると、その聖霊が降れば、主の民は神に力を受け、地の果てに至るまで主の証人になると記されています。そして、その結果、聖霊によって主の教会が打ち立てられました。 主が天に昇られた後、10日間、弟子たちは主が約束してくださった聖霊を待ちながら祈りに力を尽くしました。そんな五旬節の日、(過ぎ越し祭後50日目、イエス昇天後10日目、ユダヤ人の祭り七週祭)突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話し出しました。聖霊に満たされたペトロは、過去のような恐れではなく、確信を持ってイエス・キリストと、その福音を堂々と宣べ伝えました。そして、その日、彼の伝道によって3000人の人々がイエスを信じるようになりました。主の教会はこのように聖霊のご降臨から本格的に始まりました。イエス様が繰り返して予告された聖霊の登場は弱い信仰を強く、不信を信頼に変える、また、主の福音を地の果てに至るまで伝える原動力になりました。このすべては、聖霊の降臨から、はじめて実現したのでした。 2.聖霊はどなたであり、何をなさる方なのか。 それでは、聖霊はどんなお方なのでしょうか。聖霊はヘブライ語では「ルーアッハ」、ギリシャ語では「プニュマ」と言います。いずれの単語も「風、息」という意味を持っています。神の霊である聖霊は、人間が触れることも、見ることもできない超越的な存在です。しかし、風が見えなくても存在するのと同様に、御父と御子から来られた聖霊は、民の生活に介入し、共にいてくださる方です。聖霊はまるで風のように人間の統制を超える方です。時には、そよ風のように優しく私たちの間にいらっしゃる方で、時には嵐のように強く私たちを導いてくださる方です。聖霊は創造の前から御父、御子と共にいらっしゃった神様で、創世記1章でも現れる方です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(倉1:2)また聖霊は息のような方です。生き物が息をついて生命をつないでいくように、聖霊はキリスト者に神による御言葉と信仰、すなわち神による生命を与える方です。聖霊を通して生命の主であるキリストを知るようになり、信じるようになり、日常生活で神様の御言葉に聞き従って生きるように導いてくださいます。初めの混沌と暗闇と無秩序に満ちた世界に秩序と生命を与えてくださったように、聖霊は地上のキリスト者に信仰と生命と秩序を与えてくださる生命の息のような方なのです。 聖霊は教会と切っても切れない方です。御父と御子がご計画なさり、成し遂げられた、すべてのことが聖霊を通して、この世に成就されます。イエスは頭、教会は体という教会論の概念も、イエス様と私たちを一つにつなげてくださる聖霊がいらっしゃらなければ、成り立たない話です。私たちに与えられた聖書も各時代の預言者たちが、聖霊を通して書き残した神の御言葉の記録です。江戸時代にカクレキリシタンへの迫害が激しかったにもかかわらず、19世紀に再びプロテスタントの宣教師が来日したことも、宣教に対する聖霊の情熱のゆえです。聖書を読む時の悟りも、主日の説教も聖霊によるものです。教会員の国籍が異なる志免教会が、一つの心を持って礼拝する理由も、聖霊によって一つになったため、可能なのです。キリスト者が自分だけを愛する人間の本性を乗り越え、神と隣人を愛するようになるのも、この聖霊による信仰と愛のゆえです。 もし、聖霊が来られなかったら、2000年前に打ち立てられたキリスト教会は100年も経たないうちに消えてしまったのかも知れません。しかし、御父と御子から我々に遣わされた聖霊のお導きによって、教会は2000年間の歴史で健在に続いて来ました。 3.教会を保たせてくださる聖霊 今日の旧約本文は、この聖霊が旧約時代にも主の民と共におられ、活動された方であるということを示してくれます。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。(ハガイ2:4-5)聖霊は初めからおられ、旧約時代の神様の民とも常にいてくださった方です。イスラエルの国が滅び、神様がいらっしゃらないように感じられる時も、聖霊は変わらず常に民の間におられました。それでは、このように旧約時代から存在しておられた聖霊が、なぜ五旬節に再びキリスト者たちに臨まれたのでしょうか。これは、これまで不在だった聖霊が、新しく臨まれるという意味ではなく、常におられた聖霊がキリストの新約の教会を打ち立ててくださるために、新しい力をくださったと理解するのが正しいでしょう。初めから常におられた聖霊が、イエスの十字架での犠牲と復活によって建てられた主イエスの教会を支え、その教会を保たせてくださることを示すために降臨という出来事を起こしてくださったわけでしょう。 このように、新約の民、つまりキリスト者に臨まれた聖霊は、聖書を通して現れる神の御言葉を我々に教えてくださる方です。またキリスト者の心に神の御心に聞き従おうとする聖なる熱望をくださる方です。聖霊はキリストへの信仰をくださり、神と隣人への愛をくださる方です。このように主の教会がキリストを中心にし、しっかりと建てられるように、聖霊は教会を助けてくれる方です。そういうわけで、イエス様はヨハネによる福音書を通じて「助け主」聖霊が来られると何度も強調してくださったのです。イエス様は肉体を持った方でしたので、世の中のすべての所にいらっしゃることが出来ませんでしたが、霊でいらっしゃる聖霊は、時空間を越えて、いつでもどこでもキリストの民と共にいてくださる方です。したがって、主イエスの教会がある場所には、かならず聖霊が一緒におられます。「(教会は)使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22)聖霊は今日も教会を導かれる方として父と子のご意志を私たちに教えてくださり、この世の終わりまで教会と共にいてくださるでしょう。 締め括り プロテスタント教会の代表的な神学者、ジャン·カルバンは、著書『キリスト教綱要』で、「聖霊はキリスト者だけでなく、神を信じない者の中でも、ご自分の御業を成し遂げ得る方である。」と語りました。それは聖霊が教会だけに限られる方ではなく、この世のすべてのことをご覧になる方であり、治めておられる方であるという意味でしょう。この聖霊が特別に教会のために降臨してくださったということは、教会を神の民として認め、愛と恵みとを持って教会を守るという神様の強いご意志の表現ではないでしょうか。キリスト者である私たちは、主の御心に聞き従い、神への信仰と隣人への愛を持って生きていきます。また、もし罪を犯したり、間違ったりすると罪悪感を感じて悔い改めの座に進みます。これらのすべては、私たちキリスト者の意志ではなく、キリストによって私たちに与えられた聖霊の善良な影響力からではないでしょうか。だから、信仰を持って、愛を持って、悔い改めの心を持って生きていく私たちの中には、聖霊が共にいらっしゃるのです。聖霊は絶対に遠くにおられる方ではありません。聖霊は常に私たちの中に一緒におられ、私たちが感じるにしろ、感じられないにしろ、私たちの人生を導いてくださいます。聖霊降臨節を迎え、私たちの間にいらっしゃる聖霊を覚え、御父、御子だけでなく、聖霊まで、三位一体なる神様が私たちの主となられ、私たちの生を守ってくださることを信じ、感謝をささげる志免教会になることを切に祈り願います。

私の名前はキリスト者です。

創世記17章4-8節(旧21頁) マタイによる福音書28章18-20節(新60頁) 前置き 創世記17章で神はアブラハムと契約を結ばれた後、24年ぶりにアブラハムに現われられました。しかし、アブラハムには約束された相続人も土地も、どれ一つ、まともに成就されたものがありませんでした。むしろ、相次ぐアブラハムの不信仰のため、問題が起こる一方でした。それでも、アブラハムに再び現れた神様は、変わらずアブラハムの相続人が生まれ、また、大いなる国民になるとの約束を思い起こさせてくださいました。アブラハムは変わりましたが、神様のご意志には移り変わりがなかったわけです。神様は 24年前に結ばれた契約を再確認なさり、依然としてアブラハムが神との契約関係の中にいるということを明らかにしてくださいました。そして、その契約の象徴として、アブラハムと彼に属している男子全員に割礼を命じられました。割礼とは、人間に与えられた神との契約の象徴でした。それによって、割礼を受けた者が神様との変わらない契約の中にいることを覚えさせてくださったということです。以上が前回の創世記説教の粗筋でした。 今日は17章に登場するまた違う話、アブラハムの改名を取り上げて聖書に現れる改名と神のお導きについて話してみたいと思います。 1.名前が持つ意味。 幼い頃、私はドンウという名前が気に入りませんでした。私の名前には ‘東側、助ける’という意味の漢字が含まれています。今では週に2回くらい食べるほど、饂飩が好きですが、当時の私は、逆に発音すれば、ウドンというあだ名になってしまいましたので、自分の名前が本当に恥ずかしかったのです。また、あだ名が日本の食べ物で、かなり丸々と太っていたゆえ、相撲取りとも言われていました。私の名前は祖父が占い師からもらった名前で、別に意味がありませんでした。東側のドンに、人助けのウで、東側を手伝う人という意味だったのです。それで同じ名前のまま漢字を変えて改名しようかと悩んだこともありました。しかし、30代に入ってから日本の宣教への確信を持ち、その準備を始めた時、母に「ドンウが東側にある日本へ宣教をしに行く人だから、神様がドンウと名付けてくださったようだ。」と言われました。これが本当に神の御旨かは分かるすべがないと思いましたが、そう言われると、今まで好きではなかった自分の名前が意味のあるものと感じられました。また、日本に来て、自己紹介をする時に、饂飩を逆に言うとドンウになると説明すれば簡単ですので、本当に便利です。そういうわけで、今では、私の名前がとても好きになっています。 人の名前には、その人のアイデンティティが含まれています。もちろん、大した意味が無さそうな名前もあるでしょうが、少なくとも両親や家族が心を込めて名づけてくれたのは確かでしょう。そのような意味でアブラムの名前にも深い意味がありました。アブラムは当時の有り触れた名前で「神は尊い。」または「尊い父」という意味だったそうです。アブラハムの家族が祭っていた異邦の神を称える名前であると同時にアブラハム自身を高める名前でもありました。おそらくアブラハムの家族は、彼が異邦の神の祝福の中で尊い者として暮らすことを願い、このように名付けたのかも知れません。聖書は登場人物の名前を重要に扱っています。例えば、出エジプト記に登場するモーセは、水(死)から引き上げるという意味として(死のようなエジプトの奴隷から引き上げ)、また、彼の跡継ぎであったヨシュア(主は救いである。)は、イスラエルの戦争を勝利へと導き、定住を指揮した救済者のような存在として、聖書に、その名が記されています。同じく創世記17章で神は、信仰の父となる存在として、アブラムの名をアブラハムに変えてくださいました。主は彼が神によって名前が変わった新しい存在として信仰の父らしく生きることを望まれたからです。 2.名前が変わったという意味。 人の名前には、その人が生きていた時代の状況が反映されています。 1900年代の初めから、戦後、日本と国交を再開した1965年にかけて、韓国には「子」で終わる女性の名前が非常に多かったです。明子、英子、淑子、順子、涼子など、日本の和名と同じ、韓国語式発音の韓国語の名前でした。なぜなら、その時の韓国は今とは比べ物にならないほど、日本から影響を受けていたからです。朝鮮戦争以後、アメリカとの関係が深まるにつれ、デイヴィッド·キム、トーマス·キムなど、英語の名前を使う人も増えました。このように人の名前は、当時の文化、経済、社会的な影響を受けます。つまり、名前にその時代の価値観や、状況が染み込んでいるということです。アブラハムの孫ヤコブは、兄の踵を掴んで生まれた存在で、ヤコブという名前には「踵、誤魔化す者、奪う者」という意味がありました。これによって、父のイサクが兄に比べて、ヤコブが好きでなかったこと、ヤコブが野望と欲望の強い人だったことが分かります。 世の中の全ての人は生まれるや否や名前をもらいます。そして、その名前のままで生きていく場合が多いです。しかし、途中で名前を変える場合もあります。日本の有名な細菌学者の野口英世は、もともと野口清作という名前を持っていました。しかし、ある日、ある小説を読んでいる際に、自分と同じ名前の医者が怠惰のため人生を台無しにするという話を読み、名前を変えたと言われます。しかし、聖書で名前を変えた人たちには、ほとんど神様によって新しい名前が与えられました。「神は尊い」あるいは「尊い父」という意味のアブラムは、「あらゆる国の父」という意味のアブラハムに改名されました。神様は異邦の神と自身を高める名前を持っていたアブラムに偶像と自分自身ではなく、唯一の神様だけを高める、信仰の父になれという意味でアブラハムという名前を与えてくださったのです。また、その孫ヤコブは、ヤボク川辺で神にイスラエルという名前を頂きましたが、これは「神様と戦って勝った。」という意味でした。人を騙し、詐欺師のように生きてきた過去の人生を清算し、神様と誠実に関係し、神様の民らしく生きろという意味を持つ名前でした。 また、新約聖書にも名前と関連した事例があります。今日の新約本文に出てくる使徒ペトロのことです。もちろん、この場合は名前が変わったというよりは、普段の名前を使いつつ、象徴的な新しい名前を頂いたことになります。「シモン・ペトロが、あなたはメシア、生ける神の子ですと答えた。すると、イエスはお答えになった。シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたに、このことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」ペトロは「主イエスが神の子である」と信仰告白をしました。その時、主はイエスへの信仰を告白したシモンにペトロという新しい名前を与えてくださいました。ペトロとは「岩」という意味です。主はペトロに岩という名を授けられることによって、ペトロが告白した信仰告白の上に、岩のように堅牢で変わらない教会を建て、その教会を通して陰府の力を打ち砕くと仰せられました。(新共同訳には対抗できないと記されていますが、叩き壊すという言葉が本来の意味に近いです。)このように聖書で名前が変わったり、新しい名前をもらったりすることは、人の人生が変わる全く新しい始まりを意味するものでした。 3.我らの名前はキリスト者。 それでは、今日の、この名前が変わるという話は、私たちにとって、どういう意味があるのでしょうか? カトリック教会では信徒たちに洗礼名を与えます。洗礼名を与えることで洗礼前後の生き方をはっきりと区別する意味があるそうです。しかし、プロテスタント教会では、そこまではしていません。しかし、我々はイエスへの信仰によって、キリスト者という新しいアイデンティティーと名前を持つようになります。イエス・キリストの教会は普遍的で使徒的な教えを受け入れ、イエスの体となった共同体というアイデンティティを持ちます。 普遍的で使徒的な教えという言葉は、すべての信じる者が同様に共有する使徒によって伝えられたキリストへの信仰告白と主の福音を意味します。そして、そのような告白と福音のある人生を生きるキリスト・イエスの人々という意味で、キリスト者と呼ばれるようになるのです。私たちはキリストを信じることで、過去の人生とは完全に別の存在となったのです。神を知らなかった存在が、神を知るようになり、イエスを信じなかった者が信じるようになり、自分だけを愛した存在が、隣人も愛するようになったのです。我々はキリストを信じることにより、その存在の意味自体が変わった、キリスト者になりました。 そして、その変わった名前のように、私たちは貫くべき新しい生き方を求められるようになりました。 締め括り 主はアブラハム、ヤコブ、ペトロの名前を変えてくださることで、彼らに新しい人生を与えてくださいました。名前を変えてくださった上で、いつも彼らと一緒に歩んでくださいました。イエスもペトロが告白した信仰告白の上に岩のような堅い教会を建て、その教会と世の終わりまで一緒におられると約束してくださいました。イエスは、ご自分によってキリスト者という名前を持つようになった私たちと、いつも一緒に歩んでくださる方なのです。主がその名をくださったからです。なので、私たちは日本人、ニュージーランド人、韓国人、中国人として生まれましたが、キリスト者として同じアイデンティティーを持っています。それは誰にも奪われることのない、変わらない事実です。私たちは神様に選ばれた存在として、誰でもは受けることの出来ない、名誉な名前をいただいたのです。だから、私自身がキリスト者であることを恥じ入ったり、隠したりしないようにしましょう。私たちを通してキリストが現れるからです。私たちが自分の身分を隠せば、キリストも私たちによって隠されるでしょう。神様は今日も私たちに「君は誰なのか」とお聞きになります。その時、私たちは「私の名前はキリスト者です。」と誇りを持って答えるべきでしょう。アブラハムは、主にいただいたアブラハムという名前で残りの人生を生き、信仰の父と認められました。私たちもまた神様にいただいたキリスト者という名前通りに生きていき、キリスト者として神様に帰っていく日を待ち望みましょう。

新しい葡萄酒は新しい革袋に。

イザヤ55章1-5節(旧1152頁) マルコによる福音書2章21-22節(新64頁) 前置き 「新しい酒は新しい革袋に盛れ。」 テレビや新聞、インターネットなどで、このような語句をしばしば目にします。「新しい考えを表現したり、新しいものを生かしたりするためには、それに応じた新たな形式や環境が必要であること。」のたとえとして、他国はもちろん日本でもよく使われる表現です。皆さんも、よくご存じだと思われますが、この語句は新約聖書の「新しい葡萄酒は新しい革袋に」という言葉に由来するものです。しかし、社会で一般的に使われる、この表現は聖書の本当の意味を見落とした表現だと思います。なぜかというと、もともと、この表現にはイエスを信じる者として、それに相応しい生き方を促す意味が含まれているからです。イエス様は、なぜ、このような表現をお使いになったのでしょうか? そして、この表現の本当の意味は何でしょうか? 今日の話はマルコによる福音書2章の話を復習する気持ちで分かち合いたいと思います。それでは、「新しい葡萄酒は新しい革袋に」という表現を通じて、神の共同体、教会が貫くべき在り方ついて考えてみましょう。 1. 間違った宗教儀式に陥っていたイエスの時代のイスラエル社会。 もともと、今日の本文は、一ヵ月前に取り上げた断食に直接的な関係がある言葉です。その時、私は断食について語りつつ、断食に代表される、宗教儀式に陥った信仰生活の問題点について語りました。私たちは、その断食に関する言葉を通して、現代の私たちも礼拝、献金、祈りなどの宗教行為にあまりにも集中したあげく、私たちが望むべき実質的な信仰の在り方を忘れ去る可能性があるという警告を受けました。断食は、イスラエルの代表的な宗教行為でした。 当時の宗教指導者、もしくは宗教に熱心だったユダヤの宗教共同体は、少なくとも月に2回、多くは週に何度も断食をしたと言われます。特に、当時尊敬されていたファリサイ派の人々は、頻繁に断食を行い、貧しい者たちへ救済を施したりしました。彼らは断食の時に、洗面もせず、顔の辛い表情をも隠さずいたそうです。自分が断食していることを隠さなかったわけです。そして、そのような姿を取りつつ救済を行なったりしました。そのような行為を通じて、イエス様が登場する前まで、ファリサイ派の人々はユダヤ人の社会で多くの尊敬を受けました。「今日もファリサイ派の先生たちが偉いことをしておられる。」「彼らは私たちと違う。神の正しい者たちだ。」そのような一般の民らの褒め言葉と尊敬が彼らの後についてきました。 しかし、彼らのその行為の裏には「そうだ。この私はあなた達とは違うのだ。私は正しい者だから。」という偽善的な姿が隠れていました。彼らの救済の行為そのものには、確かに社会的な良い機能があったのでしょうが、彼らの心の奥底には、神の栄光よりは、ひそかに自分の義を表わそうとする宗教的な欲望が潜んでいたわけです。そのため、彼らは、何の褒め言葉も代価も求めずに、ただ貧しい者たちを治し、宣教し、教えてくださるイエス様に憎しみを抱くようになりました。イエスが自分らの人気を横取りすると思ったからです。彼らは、道端や神殿の入口に立って長い時間祈ったり、断食の時には苦しい様子を見せたり、救済の時にはたいそうな物を与えるかのように威張ったりして、人々に立派な先生だと褒められたのです。しかし、イエス様は彼らよりもっと多くの慰めと癒しと奇跡を行われながら、何の代価も求められませんでした。ただ、主が望んでおられたことは、人々が悔い改めて、神の懐に帰って来ることだけだったのです。そういうわけで人々の関心と愛がイエス様に集中するのは当然の結果でした。それにより、ファリサイ派の人々とユダヤ人の宗教指導者たちは自然とイエスを憎むようになったわけです。 2.私たちの姿はどうなのか。 イエスの当時、都エルサレムは表向きは神に生け贄を捧げる神殿があり、断食と祈りを行い、貧しい者たちに救済を施し、それなりに宗教的な秩序が定着された所でした。しかし、エルサレムを離れると、貧しい人々の呻き声が聞かれ、少数者が疎外され、既得権者の偽善による理不尽に満ちた場所でした。今日の本文イザヤ書を通じて神様は仰いました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」(イサヤ55:1-2)神は、このように誰でも神様の御前に来て、飾り気と偽善のない真のお交わりをお望みになる方でした。でも、イエスの時代のイスラエル社会は多くの献金や祈りや目に見える宗教的な行為が、宗教的な熱心さを代弁し、それによって自分の宗教的な欲望を満たしていく、神様とはあまりにも、かけ離れた宗教社会だったのです。このような社会の中で、最も貧しく低い所の者たちは何の慰めも、助けも得ることができませんでした。 恐ろしいことは、このような様子が、単に聖書の中にだけ、存在する問題ではないということです。ひょっとしたら、これは現代の私たちの中にも存在する姿かも知れません。以前ある教会で働いている時に、このような経験をしたことがあります。礼拝の時、説教をしていたとき、ふと辛い目にあった未信者の近所の方の話をして、祈りを求めたことがあります。しかし、その話で時間が少し長くなりました。その日の説教の内容とは少し、ずれるところもあり、信徒たちに申し訳ない気がありました。ところで案の定、礼拝後に信者の一人が来て、説教する時は余計な話は控えてほしいと言いました。その近所さんの話以外に特に聖書から外れた話をした記憶がなかったので、その話を指摘されるんだと思い、丁寧に謝りました。その方の意図は十分わかりました。礼拝の時間には礼拝に集中しようという願いだったはずです。その意図は非常に正しいと思われました。しかし、一方ではこんな気もしました。「一体、神様への礼拝とは何だろう?」同時に、聖書の言葉が一つ思い浮かんできました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」(マタイ9:13)その日は、なんとなく悲しくなりました。 3. 宗教儀式ではなく信仰と愛を持って。 私は韓国の長老教の高神派出身です。高神派は旧日本帝国の神社参拝強制への反対運動で有名な教派です。彼らの信仰的な誇りは韓国の教会の中でも非常に高いことで有名です。なので、私が韓国にいた時は「高神派的な信仰」という表現をよく聞きました。また、日本に来てからは、「日本キリスト教会的な説教」という表現もよく耳にしました。ですので、日本キリスト教会も高神派教会のように信仰的なプライドがとても高いと感じました。ところで、その度に高神派的な信仰とは何か? 日本キリスト教会的な説教とは何か?と問い返さざるをえませんでした。イエス様が望まれたのは、高神派的な信仰、また日キ的な説教なのでしょうか? キリストが望んでおられる価値は何なのかと思いました。もちろん、形式も大事です。が、主の教会には、もっと大事な普遍的な価値があると思いました。ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちが断食する時、人々はイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と尋ねました。しかし、それは弟子たちへの不満ではありません。イエス様への不満の抗議だったのです。おそらく、彼らにもユダヤ教への大きな誇りがあったはずでしょう。彼らは「なぜ、あなたは我々の律法を無視するのですか?」と問い詰めたのです。皮肉にも自分たちに律法を与えてくださった方に、律法を守れと問い詰めたわけです。 その時、イエス様は「新しい葡萄酒は新しい革袋に。」というやや理解しにくいお話をされました。これは果たしてどういう意味なのでしょうか。イエス様は旧約の律法を完成なさるために来られた方です。そして、主は旧約の数多くの律法が「神と隣人への愛の実践」のために与えられたものであると教えてくださいました。つまり、律法の完成とは、律法に含まれている精神、愛を明らかにすることだと言って過言ではないでしょう。主は多くの宗教儀式や教義的な立場ではなく、神の愛をどうすればもっとこの地で行なうことが出来るのかに関心を持っておられたのです。もちろん、律法も教義も大事なものです。しかし、そのすべてが神が命じた愛の実践ための道具であることを見逃してはならないでしょう。イエス様はご自身の福音を通して、偽善的な宗教儀式に縛られていた過去の姿を捨てて、神様と隣人への真の愛と実践のある、新しい信仰をお望みになりました。自分の宗教的な欲望のための信仰ではなく、神様がご計画なさった、真に生き生きとする信仰を望まれるのです。神がお求めになることは、何十年も繰り返される習慣的な宗教活動ではなく、ただ一分一秒でも隣人への真の憐れみと愛ではないでしょうか。このイエスを信じる私たちは、過去ユダヤ人が追い求めた自分の信仰的な欲望や偽善的な宗教生活ではなく、真に主の手と足となり、主の栄光のために行い、神と隣人の喜びになるために努力しつつ生きるべきでしょう。 締め括り 主イエスはご自分の犠牲を通して、愛の宗教という新しい革袋としての教会を打ち立てられました。そして、その教会に属する者たちは、新しい葡萄酒のように、神の御心に適う人生を生きるべきです。古い革袋に新しい葡萄酒を入れると、熟成から生まれるガスによって袋が裂けて使えなくなってしまいます。主イエスは新しい革袋として、愛の共同体である教会を与えてくださいました。そして、その中で生きている私たちは主による愛の実践を貫いて生きるべきでしょう。その時はじめて、私たちは良質の美味しい葡萄酒のように、神の喜びになれるでしょう。短い例話をあげて説教を終わりたいと思います。どこかで読んだ文章ですが、ある教派の牧師が天国に行く夢を見たそうです。宝石のような川が流れ、青い草原が広がり、神の24人の長老たちと真っ白な天使たちが神に賛美をしていました。うっとりした彼はそばの天使に尋ねました。「天国にはカトリック信者が多いですか。プロテスタント信者が多いですか?」彼は教理的な質問をしたわけです。その時の天使は、たった一言で言いました。「ここには、神の子羊だけがいる。」そして、彼は夢から覚めたという話でした。神の国は宗教儀式と教理のみで行く所ではありません。それを通して、自分の人生でイエスを信じ、主に倣った愛と実践がある時、私の人生の中に現れるものです。また、そのように生きる者こそ、きっと死後、神が備えてくださった天国に入るでしょう。宗教ではなく実生活として神への信仰と隣人への愛を持って生きていく私たちになることを祈り願います。

契約と割礼

創世記17章1-10節(旧21頁)ローマの信徒への手紙2章28-29節(新276頁) 前置き 前回は2度にわたる創世記16章の説教を通して、アブラハム、サラ、ハガルの不信仰を考えてみることが出来ました。「相続人を与える。」という神の約束を完全に信頼することが出来なかったアブラハムとサラの不信仰、アブラハムの子を身ごもって、鼻高々になったハガルの傲慢など。アブラハム、サラ、ハガルが罪のゆえ、どれだけ不完全な存在だったのかを通して、人間の限界について改めて顧みることが出来ました。しかし、重要なことは、そのような人間の限界があるにも関わらず、神は決して彼らを見捨てられず、堪忍して待ってくださり、憐れんでくださり、導いてくださったということでした。今日の創世記17章は、その愛の神がアブラハムとサラに、いっそう具体的な相続人の誕生の約束をくださり、かつてアブラハムと結ばれた契約を堅く守っていかれることを強調する箇所です。このように神は罪人に罰だけを下される無慈悲な存在ではなく、罪人のことを顧みられ、回復を望んでおられる愛の神なのです。私たちは、初めの人間の堕落以来、一貫性を持って変わらず人間を見捨てず、愛し、導いてこられた神の愛を深く覚えるべきです。今日は創世記17章を通じて愛の神が罪を犯す不完全な人間と結ばれた契約、またその証拠であった割礼について分かち合いましょう。 1.民と契約を結んでくださる神様。 創世記15章で、神はアブラハムと契約を結んでくださいました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創15:5)現代の我々は、「契約とはビジネス的なものであり、いざという時は破棄も在り得るだろう。」と考えるかもしれません。しかし、アブラハムの時代の契約は違いました。 契約を破った者は、相手によって、どんな悲惨な目に遭っても抗議できない、まるで命がけのような行為でした。15章で、神は真っ二つに切り裂かれた動物の間を通り過ぎ、アブラハムに相続人を与え、彼を通して大いなる国民を打ち立ててくださるという約束をくださいました。真っ二つに切り裂かれた動物の間を通り過ぎる当時の契約のやり方は、契約を破った者が、そのように惨めに死ぬという意味でした。 ところで、神はアブラハムではなくご自分だけが、そこを通り過ぎてくださいました。それは「完全なる神様が、不完全なアブラハムではなく、移り変わりのない御自身を保証にして、永遠にアブラハムとその子孫を守ってくださる。」という契約への堅い御意志と愛とを示すものでした。そして今日の本文は15章のその契約をもう一度確かめる場面から始まります。「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」(創世記17:1-2) 神様はアブラハムが75歳の時、彼と契約を結ばれて以来、それを忘れず24年ぶりに現れ、過去のその契約をもう一度確証されました。人間は神様との約束を忘れても、神様は人間との約束を決して忘れられません。神は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」と言われました。ところで、この言葉のヘブライ語の文章は、古代中東の国々の条約の前置きのような形で書いてあるそうです。歴史家たちによると、古代世界では国家間に主従関係があったそうです。強い国が弱い国を屈服させ、強制的に保護者としての役割を自任し、変わらぬ忠誠と貢物を求めたということです。そして、本文で神様はこのような方式でアブラハムとの契約を再確認なさいました。もちろん、神が当時の強大国のように武力で強制的にアブラハムを征服され、苦しめられたという意味ではありません。ただし、人間であるアブラハムが神様の御心を理解できるように、人間のやり方を借りて、武力による忠誠ではなく、愛による信仰を求められたということです。アブラハムは、過去24年間、少なからず不信仰な生き方をしてきました。そういうわけで神様は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」という言葉をもって、アブラハムに「神様と契約を結んだ民なら、それにふさわしい人生を生きなさい。」と婉曲的に戒められたわけです。その時はじめて、アブラハムは神様と結んだ契約の中で栄えていくからでしょう。 今日本文に登場する契約という言葉はヘブライ語で「ベリット」と言います。この「ベリット」は「断ち切る」を意味する動詞「バサール」に由来する名詞だそうです。それでは、何を断ち切るという意味でしょうか? おそらく、神様と何の係わりも無かった過去の罪に満ちた人生を断ち切り、今後、神様の民として新たな人生を生き始めるという意味ではないでしょうか? 基本的に神様はその民と契約を結び、お交わりになる方です。これは罪によって神様を離れてしまった人間が、過去の生き方を断ち切り、改めて神様の民になるという意味だからです。 つまり、神様は罪人をご自分の子としてお呼びくださり、新しい人生を生きさせてくださるために、罪人と契約を結ばれるのです。 これは神様のためではなく、罪人のための契約なのです。我々は、このような神の契約を、またキリストを通しても、改めて見ることができます。アブラハムの子孫と呼ばれるイエスはなぜ十字架につけられ、真っ二つに切り裂かれた動物のように悲惨に死なれたのでしょうか。それはイエスが贖罪のために民の代わりに死に、罪の呪いを断ち切るためでした。契約を守れない存在が死ななければならなかった古代社会において、イエスの犠牲は神様が罪人の代わりに死んでくださったという意味を持っています。(15章参照)そして、イエスは復活なさり、罪人との契約を全うしてくださいました。私たちは、このようなキリストを信じることによって、アブラハムが神様と結んだ契約を再確認することが出来ます。そして、そのイエスを通して、私たちは神様の子供として、神様との契約者として、御国の民として永遠に生きるです。 2.人間側の契約の象徴-割礼。 「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。」(倉17:10)神様は今日の言葉を通じてアブラハムとの契約を再確認され、アブラハムに割礼を命じられました。この割礼には一体どんな意味があったのでしょうか。「あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。 包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(創世記17:13-14)割礼は神の民が神様と契約を結んだという象徴であり、男性の重要な部分に痕跡を残す行為でありました。つまり、包皮を切る行為(バサール)を通して、神様との契約(ベリット)の痕跡を民の体に残すことでした。神様はこの割礼を非常に重要に思われ、割礼を受けなかった者は神様との契約を拒否し、破った者と見なされ、民の中から断たれるほど厳重な刑罰に処されました。 なぜなら、この割礼とは神様の契約に応える人間の応答だったからです。神様が切り裂かれ動物の間を通り過ぎて契約を結ばれたならば、民は男性の包皮を切り取ることで神様と結んだ契約の証拠にしたわけです。神様は契約を結んだ人間が必ず割礼を受けることで、神様との契約を確証し、記憶することを望まれたのです。 また、割礼には二つの別の意味が含まれていたと主張する学者たちもいます。一つは子孫の繁栄のためでした。古代中東ではアブラハムの子孫であるイスラエルが打ち立てられる前にも、エジプトでは種族にしたがって割礼を行う場合があったと言われます。なぜなら、男性の包皮のゆえに生じやすい性病を予防し、また割礼を受ける前より、受けた後のほうが、妊娠の確率が高くなったからだと言われます。面白いことに、現代医学でも、この主張がある程度、認められており、世界保健機関でも男性の包皮を切る手術を勧める発表があったそうです。二つ目は、割礼を通して子孫の出産を神にお委ねするという意味があったからという主張です。古代の社会では男の性に子孫を残す重要な機能があるため、大事にされました。しかし、その一部を刃物で切り取るということは男の性の死を意味することだったのです。つまり割礼は男性、すなわち人間の力で子孫を栄えさせるのではなく、神だけが子孫を栄えさせてくださるという象徴だったのでしょう。したがって、割礼には神様に種族の繁栄をお任せし、その方が子孫を守り、導いてくださるという信仰が込められていたということです。神様は生命をくださる方だからです。このように割礼には科学的にも信仰的にも少なからず意味があるという主張も存在します。 それでは、私たちが生きる現代において、割礼はどのような意味を持っているのでしょうか。明らかなことは、イエスの復活以来、この旧約の割礼という儀式の機能は無くなったということです。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」(ローマ4:11)使徒パウロはローマ書を通して、割礼が持つ本来の意味について解き明かしました。当時ユダヤ人たちは、割礼を受けなければ、神の民ではないと主張し、初代教会の中にも、そのような思想を持った者が少なからず存在しました。しかし、パウロは割礼そのものに力があるわけではなく、割礼は神への信仰の象徴にすぎないと力説しました。イエス様が十字架で罪人たちを救ってくださった後、主はイエスへの信仰を持って生きる罪人たちをお赦しくださり、永遠の契約を結んで神様の民と認めてくださいました。旧約時代には割礼の痕跡を通して神様との契約を表したとすれば、キリストの復活後からはキリストへの信仰を通して神様との契約を表すということです。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、律法の条文ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28-29)したがって、イエスを信じる私たちは体や行いで神様との契約を証明することが出来ません。 ひとえにイエス·キリストを信じる信仰だけで、神との契約を証明することが出来るのです。 前置き 今日は創世記17章を通して、契約と割礼について話してみました。私たちは神様との契約の中に生きています。神様は御自分の民と契約を結ばれ、彼らが過去のように罪人としてではなく、契約の中にいる神様の子供として生きることをお望みになります。旧約では、その契約の証拠として体に割礼を受けたとすれば、現代を生きる我々キリスト者は、イエスへの信仰を証として、神との契約を結んだ存在です。もうこれ以上肉体の割礼で神の民になるのではなく、ひたすらキリストへの信仰と関係を通して神様と契約を結ぶのです。ですから、キリストを通して神様と契約を結んだ者らしく、私たちの心を神様に捧げ、神様の御心に聞き従う者として生きていきましょう。今日の新約本文のように「霊によって心に施された割礼こそ割礼」なのです。神様を信じない罪、他人を憎む罪を心から断ち切るために神様のお導きを求めて生きましょう。ご自分の血潮を流して私たちを神との契約へと導いてくださったイエス様が、私たちの心の中に聖霊による割礼をくださり、毎日私たちを新しく導いてくださるでしょう。キリストによって神様と契約を結んだ存在、主の聖霊によって心の中に割礼を受けた存在という我々のアイデンティティを覚え、主と共に一週間を生きていく志免教会になることを祈り願います。

安息日論争

申命記5章12-15節(旧289頁)マルコによる福音書2章23-28節(新64頁) 前置き 前回のマルコ福音書の説教では断食について話しました。断食とは、自ら飲食を断ち、肉体の欲望を抑え、罪を悔い改め、自分のことを省みるための行為でした。旧約では年に一度、贖罪日に断食を行うことで自らを反省し悔い改めたようです。(レビ記23:27)また、時間が経ち、断食は貧しい隣人を助けるという意味も持つようになりました。(イザヤ58:6)しかし、このように断食が持つ立派な精神は、イエスの時代に至っては偽善的な宗教儀式に変質してしまったようです。(マ6:16)イエスはそうした偽善としての断食を強く拒否されました。 私たちは、前回の説教で、この断食という代表的な宗教儀式を例に挙げ、偽善的な宗教行為に陥らず、神への信仰と隣人への愛とを持って生きるべきだと学びました。こんにちの私たちには宗教儀式としての断食を行う機会はあまりありません。しかし、私たちは依然として、礼拝、献金、祈りなど、宗教儀式の中で生きています。 イエス様が偽善的な宗教行為としての断食を拒否されたように、私たちも、また信仰生活が偽善的な宗教儀式にならないように注意しなければなりません。私たちは、ひたすら神と隣人への愛を示す手立てとして、宗教儀式を追い求めて生きるべきでしょう。 1.安息日についての論争が起こった理由。 「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 ファリサイ派の人々がイエスに、御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのかと言った。 」(23-24)ある安息日に、イエスと弟子たちが麦畑を通っていました。 彼らは道をつけるために(直訳ギリシャ語)、穂を摘みました。それを見たファリサイ派の人々が抗議しました。「どうして安息日にしてはならないことをするのか。」彼らはなぜ抗議したのでしょうか。もしかして、イエスと弟子たちが麦畑を荒らすことを糾弾するつもりだったのでしょうか? これと同様の本文がマタイによる福音書にも出て来ていますが、「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。」(マ12:1)と表現されています。 旧約聖書の申命記23:25には、これに関する規定があります。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」つまり、イエスと弟子たちが道を作りながら麦の穂を摘んで食べたのは、犯罪行為ではなく、社会的に許された合法的なやり方でした。ところが、ファリサイ派の人々は彼らの行為を見て、「安息日にしてはならないこと」だと叱ったのです。弟子たちの行為は不法じゃなかったのに、なぜファリサイ派の人々は彼らを非難したのでしょうか? その理由は、イエスと弟子たちが昔の人の言い伝えを破っていると考えたからです。この昔の人の言い伝えとは、モーゼ五書を解説した『ミシュナー』という解説書を意味するのですが、有名なラビたちが残した記録でした。このミシュナーにはモーゼ五書ほどの権威は無く、その中にはラビたちの個人的な主張も含まれていて、神の御言葉だとは言えない書でした。しかし、ユダヤ人は、それを聖書に次ぐものと重要に扱い、それを中心に数多くの規定を作り出しました。その中には安息日に関する解説もありましたが、例えば「安息日に働いてはならない。だから、旅をして800M以上歩くことを禁止。人が壁の下敷きになっても石の退かすことを禁止。隣の牛が穴に落ちても救うことを禁止。」などのように、とんでもないことが安息日の禁止規定となっていたそうです。宗教的に重要な安息日を守るためには、他人への奉仕や愛の行為はやめるしかないと思ったわけです。もともと旧約に記された安息日の労働禁止は、自分の欲望、娯楽のために働いてはならないという意味だったのに、昔の人たちは、それを極端に誤解したわけでした。それで、ファリサイ派の人々は弟子たちが安息日に麦畑の穂を摘んだことを労働だと見なし、昔の人の言い伝えを破っていると主張したわけです。 2.神が安息日を制定された理由 イエスのお働きを補助していた弟子たちは、おそらく食事を済ます時間さえなかったでしょう。そんな彼らが、お腹を満たすために麦畑の穂を摘んだことは、もしかしたら生きるための最小限の行為だったのかもしれません。しかし、ファリサイ派の人々は彼らの事情には関心がありませんでした。 彼らは昔の人たちが残した歪んだ言い伝えを用いて、イエスと弟子たちを責めることにだけ関心があったのです。神は、なぜイスラエルに「安息日を守ってこれを聖別せよ。」という律法を与えられたのでしょうか? 安息日を宗教的な日と定め、人間を束縛し、神様に礼拝だけさせるために造られたのでしょうか? 旧約本文の申命記の十戒はこのように語っています。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記5:15)神は、かつてエジプトの奴隷として生きていたイスラエルに、真の自由をくださるために安息日を制定されました。神は強い者が弱い者を弾圧し、自分の欲望を満たしていたエジプトの間違った文化を打ち破り、弱い者をも人間らしく生きさせられるために安息日をくださったのです。 つまり、神がイスラエルを尊く思われ、安息日をくださったという意味です。古代社会において弱い者には人権がありませんでした。彼らは家畜や品物のような存在でした。強い者が命じると死ぬしかなく、差別は当然のことでした。古代中東社会で安息というのは神々、王族、祭司だけの特権であり、弱い者たちは彼らの特権のために死ぬほど仕えなければならない存在に過ぎなかったのです。そのような社会で神は弱い者たちにも安息という特権をくださるために安息日を造られたわけです。 弱い者を王のように扱ってくださったという意味です。 「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」(申命記5:14)それは、単にイスラエルにだけ適用されることではなく、家畜、異民族、よそ者にも同じことでした。このように安息日は神の支配の下にある、すべての存在に許された自由と平和の日でした。それなのに、ファリサイ派の人々は、人よりも宗教儀式に目がくらみ、人を憐れまず、罪に定めるだけでした。 3.安息日は人のためにある。 「イエスは言われた。ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(2:25-26)イエスは安息日に弟子たちが麦の穂を摘んだことを咎めるファリサイ派の人々に、イスラエルの代表的な王、ダビデを挙げて仰いました。サムエル記Ⅰ21章で、ダビデが自分を殺そうとしていたサウル王を避けて逃げる際に、幕屋の供えのパンを食べたことを取り上げられたのです。「このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである。」(レビ記24:9)幕屋の供えのパンは、神様と民の契約を象徴する聖なる物であり、誰もが食べられる物ではありませんでした。 聖なる祭司だけが、聖なる場所で食べられる聖別された物だったのです。 しかし、神様に選ばれたダビデは、それを食べて何の罰も受けませんでした。 神様が彼を王として用いられるために守ってくださったからです。 つまり、神にとって、当時のダビデは供えのパンよりも大切な存在だったということでしょう。   もちろん、律法は大事なものです。ダビデと供えのパンの出来事は特別なケースです。ダビデのように絶体絶命の状況でない限り、律法は必ず守るべきです。それでは、弟子たちを咎めるファリサイ派の人々に反論なさったイエスは、律法を無視されたわけでしょうか? 違います。イエスは律法と安息日の存在理由を誰よりも、よく知っておられました。それは、人を人間らしく生きさせるためでした。「イエスは言われた。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。(マタイ22:37-40)主はご自分が神の子で、ダビデのような偉い人だから安息日なんて破っても良いという趣旨でダビデを取り上げられたわけではありません。 安息日も律法も大事ですが、そのすべてが人のためのものだから、たとえ安息日だと言っても、人の苦しみと悲しみを顧み、助けなければならないということを教えくださるためでした。御父は、イエスを通して、主を信じるすべての人をご自分の子とされます。当時のユダヤ人の社会、法則、慣習のように、人を歯車のように軽んじるのではなく、一人一人を神の子として愛し、重んじておられるのです。 しかし、ユダヤ社会は旧態依然として、人の生命よりも社会、法則、慣習をより大事にしました。そしてそれは神の御心とは相反するものでした。 だからイエスはこれを問題視されたのです。 締め括り 私たちは先週の大信仰問答を通して、人の在り方について学びました。それは神を知り、崇め、一緒に生きることでした。ところで、イエスは神様との関係に劣らないほど、隣人との関係をも大事にされました。すなわち、イエスは律法を通して、神への愛はもちろん、隣人への愛までも学ぶことをお望みになったわけです。今日の本文の、ファリサイ派の人々は、そんな主の御心が分からなかったのです。 彼らはただ、知識と宗教儀式だけを大切にし、自分たちと違う隣人を軽んじ、それを主の御心だと理解しました。そのようなファリサイ派の人々に向かって、イエスは厳重に宣言されました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(27-28)イエスはご自分のことを人の子と言われました。イエスが自らを人の子と呼ばれたのは、神であるご自分が人々の間に共におられることを強調する意味だったと思います。それほど、神は人を愛しておられるのです。新約の時代に安息日というのは、主日だけではありません。主イエスと共に生きるすべての日が安息日であり、主日なのです。したがって、私たちは日曜日の宗教儀式に閉じ籠って、他人を罪に定めず、どうすれば彼らをもっと愛し、共に生きていけるのかと悩みつつ生きるべきでしょう。安息日の主であるイエス様が、私たちにそのような人生を促しておられるからです。

主こそ民を顧みられる神

創世記16章1-16節(旧20頁)エフェソの信徒への手紙1章17-19節(新353頁) 前置き 神に召され、カナンに来たアブラハム夫婦には10年が経っても子供がいませんでした。神は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(15:4)と約束されましたが、その約束は、成し遂げられる気配が見えませんでした。結局、アブラハムの妻サラは、神の御心ではなく、自分の判断に従ってアブラハムに一つ提案をしました。それは自分の女奴隷のハガルを二番目の妻にして相続人を設けようとの話でした。しかし、話しはサラの考えとは違う方向に流れていきました。 ハガルは結婚して身ごもると、自分の女主人であるサラを軽んじたからです。これによってサラは心を傷つけられ、ハガルはサラに憎まれ、アブラハムはハガルを見捨ててしまいました。これにより私たちは、神の約束を待ち望まなかった、アブラハムとサラがもたらした悪い結果を目撃することになりました。その結果は思いもよらなかった人間関係と家庭の破綻でした。神はいつも聖書を通して私たちに約束をくださいます。そして、その約束が叶うまで待つことを望んでおられます。創世記16章は神の約束を待ち望むことがどれだけ重要か、神の約束を無視した人間の態度が、どんな結果をもたらすのかを示してくれます。今日はもう一度、創世記16章について話してみたいと思います。今回は、アブラハムとサラではなく ハガルの立場から探ってみましょう。アブラハムとサラを通して神の約束への待望の大事さを学びましたが、ハガルを通しては何を教えてもらえるでしょうか? 1.高慢になってしまったハガル。 創世記16章の出来事が起こった主な理由は、アブラハムとサラの不信仰によるものでした。神は明らかに相続人の約束をくださいましたが、アブラハムとサラは、それを待たず自分たちの判断通りに振舞い、神の約束を無視したわけです。しかし、ハガルにも16章の出来事への少なからぬ責任がありました。それはハガルの高慢でした。「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」(4)当時、ハガルはエジプトから連れてきたサラの女奴隷に過ぎない身分でした。なのに、どうして妊娠と同時に女主人であるサラを軽んじることが出来たのでしょうか。その理由は当時の社会相にありました。 現代にも女性の人権は男性に比べて劣悪な方ではないかと思いますが、アブラハム当時の社会では女性の人権は、はるかに劣悪でした。 女性は男性の財産の一部と見なされ、夫や息子のいない女性は家畜や品物のような扱いを受けるしかありませんでした。このような社会で女性が一人の人格として尊重されるためには、夫と相続人が必要でした。 ところで、ハガルにいきなり夫が出来、また、女主人にはいない相続人を身ごもったのですから、どれほど鼻高々となったことでしょうか。ハガルは、自分が女主人を蹴落としてアブラハムの正妻になったと思ったのでしょう。 急に身分が上昇したと思ったハガルは奴隷という自分の地位を忘れ去り、高ぶってしまったわけでした。 アブラハムとサラが神の約束を待ち望まず、間違った決定を下したとしても、もしハガルが自分の立場を弁えて謙遜に行なっていたら、16章の出来事は起こらなかったかもしれません。むしろ二番目の妻としてサラに認められ、アブラハムにも愛されたかもしれません。 ですが、鼻高々となってしまったハガルは、自分の高慢によってアブラハムとサラから追い出されてしまいました。 創世記16章はハガルに対して一度もサラと同等に扱っていません。 ヘブライ語原文では側女ではなく妻として一度言及していますが、当時の文化に照らしても、聖書の文脈に照らしても、ハガルは明らかにサラより低い地位にある存在でした。 7節から登場する主の御使いも、ハガルをはっきりサラの奴隷だと呼んでいます。「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。」(箴言16:18)、新旧約を問わず、聖書は常に謙遜であることを命じます。 人は人生を通していつも浮き沈みを繰り返します。 名誉、財物、権勢を得る時があれば、そのすべてを失う時もあります。人は神ではないからです。したがって、人はいつも移り変わる自分の立場を認め、力があろうが無かろうが、神の御前でへりくだってあるべきです。高慢な者は必ず倒れるからです。確かにアブラハムとサラの不信心が今日の物語の発端です。ですが、その出来事の本当の理由は、ハガルの高慢からだったと言っても過言ではないでしょう。 2.無関心と排除を経験するハガル。 アブラハムは、サラとハガルとの葛藤を見て、無責任な姿勢で一貫しました。「サライはアブラムに言った。私が不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたの懐に与えたのは私なのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、私を軽んじるようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように。アブラムはサライに答えた。あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(15:5-6)アブラハム当時の遊牧民文化における一夫多妻制は一般的なものでした。その理由は多くの子供を得るためでした。当時は今のように工場やスーパーマーケットは無い時代でしたので、すべてを自給自足しなければなりませんでした。そのため、将来の労働力となる子供が多いことは祝福とされました。「若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は。」(詩篇127:3-5)そのため、一夫多妻制にも関わらず、円滑な出産と家庭の平和のため、本妻ほどではありませんでしたが、二番目の妻、三番目の妻たちも、ある程度尊重されていたそうです。ですが、アブラハムはハガルを尊重せず、あまりにも簡単に見捨ててしまいました。 当時、ハガルが感じた裏切られた気持ちと絶望は、どれほど大きかったでしょうか。 世の中の誰も自分の味方ではないと思ったはずでしょう。 結局、ハガルはエジプトに立ち帰ろうとしました。もちろん本文にはエジプトに帰ろうとしたという話はありません。 ただ、ハガルが「荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとり」(7)にいたと言うだけです。さて、ここでシュル街道という場所が登場しますが、これは出エジプト記にも登場しています。「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を3日の間進んだが、水を得なかった。」(出エジプト記15:22)シュルとはエジプトからカナンに向かう途中にある荒れ野地域なのです。 つまり、カナン地域に住んでいたハガルは、自分の故郷エジプトへ帰る途中、シュルという地域に留まっていたわけです。 旧約聖書におけるエジプトという表現は、地域としてのエジプト、国家としてのエジプトという意味と共に、象徴的に「偶像崇拝」「圧制」「罪」「不従順」などの否定的な概念として、よく使われる表現です。つまり、ハガルは象徴的に神の民の座を離れ、神に逆らう偶像の地に戻ろうとしていたとも解釈できるでしょう。ハガルは自分の高慢によってサラに過ちを犯しましたが、その結果は夫の無関心、共同体からの排除でした。高慢になったハガルの罪は明らかな間違いです。しかし、アブラハムとサラの無関心と排除は、ハガルという人をさらに大きな罪の道に追い立てる、もう一つの間違いだったのです。このように、高慢と無関心、そして排除は、罪に罪を加える、より大きな問題を生むだけです。無関心と排除では何事も解決できません。 3.人間の問題を解決してくださる神。 しかし、神は無責任なアブラハムとは違いました。10年間アブラハムに現われなかったかのように描かれた神が、むしろアブラハムとサラから排除されたハガルには現れられたからです。主人公にも現れない神が、脇役を助けてくださるために現れたわけです。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです。」「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」(8-9)神はハガルに、彼女がやるべきことを教えてくださいました。神は彼女の行方を知らずに「お前はどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねられたわけではありません。これは情報を得るための質問ではなく、ハガルが冷静に現実を認識し、覚醒することを促す婉曲な表現なのです。言い換えれば「ハガル、君は誰なのか?君はアブラハムの妻となったが、相変わらずサラに仕える者だ。それは私の意志である。だから、サラのもとに帰って服従しなさい。」すなわち、神はハガルに主の御心を教えてくださり、彼女の高慢さを取り除き、罪の道に陥らないように助けてくださるために、彼女を訪ねて来られたのです。 また、神は不安を抱えているハガルを慰められるために、希望の約束を与えてくださいました。「私は、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。」(10-11)、神はハガルを祝福し、彼女の赴くべき方向を正しく示してくださいました。神は高慢と罪によって完全に崩れるところだったハガルを憐れんでくださり、彼女が新たなる人生を送れるように配慮してくださったのです。「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、あなたこそエル・ロイ(私を顧みられる神)ですと言った。それは、彼女が、神が私を顧みられた後もなお、私はここで見続けていたではないかと言ったからである。 そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。」(13-14)ハガルは自分を虐げた女主人サラや自分を捨てたアブラハムとは違って、自分を認め、今後の人生と息子を守ると約束してくださった神の愛を感じるようになりました。ハガルはエジプトからの奴隷であり、共同体に見捨てられた存在でありましたが、むしろ、この出来事を通じて万軍の主に出会うことになりました。そして彼女は自分のことを大切にしてくださる神への信仰を持ってアブラハムのところに帰ることになりました。人間たちの罪による葛藤と問題の中で、神は赦しと愛と希望をもって問題を解決してくださいました。葛藤と暴力は、問題を解決することができません。ひとえに、神によるお赦しと愛と希望だけが世の中の問題を解決できるものです。 締め括り 神に出会い、自分の位置を悟ったハガルは、神が自分に出会ってくださった場所をベエル・ラハイ・ロイ、すなわち「私を顧みられる生ける神の泉」と名づけ、その方との出会いを記念しました。神は創世記16章の主人公であるアブラハムとサラだけを大事になさる方ではありません。神は異邦の女ハガルという脇役にも、喜んで出会い、導いてくださる神です。神は彼女も同様に愛し給うた方なのです。 神はいくら小さな者であっても神に出会うことを望んでおられる方なのです。16章の葛藤の中で傷ついて絶望したハガルは悟らせてくださる神に出会い、その方への真の信仰を持つことになりました。パウロはエフェソ書を通じて、こう語りました。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エフェソ1:17-19)今日も、神はキリストを通じて、民が神の御心を悟ることを望んでおられます。神がハガルに出会って信仰をくださり、彼女を顧みられたように、私たちのことをも顧みてくださり、キリストによる深い信仰を願っておられます。その方への信頼と信仰を持っていつも神の中で生きる志免教会になることを祈ります。