新しい天と新しい地

福岡 東アジア平和センター長 黄南徳(ファン・ナムドク) 牧師 イザヤ書65章17〜25節 (旧1169頁)エフェソの人への手紙2章14〜16節 (新354頁) 今日、読んだイザヤ書65章は、イスラエルがバビロンから解放されて故国に戻った以降の状況を示しています。 バビロンを占領したペルシャの王、キュロスの勅令で、イスラエルの民は待ちわびていた解放を迎えました。故国に帰ってきた彼らは、神殿も建築し、すべてが本来の場所に戻ったような気がしました。 しかし、イスラエルの民は国を建て直すために努力しましたが、すべてが思ったとおりにうまくいったのではありませんでした。 例えば、対外的には当時の国際情勢が良くありませんでした。 ペルシャとギリシャの間で戦争が起き、イスラエルはまたペルシャに税金を納めなければならなかったため、経済的な困難がありました。イスラエル内部でも、サマリアとユダヤが対立していました。 一言でいうと、紀元前5世紀、イスラエルは国内外の困難に直面し、民衆は疲弊してしまっていました。 神殿建築も厳しいものでした。 その昔、ソロモン王国の時に建てた神殿を思えば、今彼らが建てようとしている神殿は小さく質素なものです。 だから、バビロンから解放されたからといって、すべてが順調によくなっていったわけではありません。 こんな困難な状況にいるイスラエルの民に向かってイザヤは言っています。 19節です。<わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。> この言葉によると、それまではエルサレムでは泣き声が多く、泣き叫ぶ声が多かったということです。 そして 20-21節の言葉を見ますと そこには、もはや若死にする者も 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。 百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。 彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。 この言葉は、多くの人が戦争で無念にも命を落とし、自分の家もなく、ブドウ園を作っても、人手に渡ることの多かった当時の社会像を物語っています。 本文の言葉に接する皆さんの中には、この様な状況が今日の私たちには当てはまらないと考える方もいるでしょう。 今は戦争もなく平穏な状態で、仮に幼くして亡くなる子がいるといってもそれはアフリカのような貧しい国で起きていることで、医学の発達した日本とは関係ない話だと思うかもしれません。 まして、日本は平均寿命が長い、高齢化社会となりました。 では、イザヤ書は私達には全く関係のないことでしょうか? 今日の現実はどうですか? 日本は早くから近代化の道を歩みました。 経済が発展してアジアで豊かな国になりました。もちろんアジアでは日本以外にシンガポール、台湾、韓国なども経済的に豊かな国と呼ばれています。しかし、このような資本主義諸国を見れば、経済が発展すればするほど、金持ちと貧しい人々との経済的格差が深刻になることがわかります。労働者達は低賃金で労働災害の危険にさらされたまま仕事をしています。農民たちは一年中農作業をしますが、多くの借金を負うことになっています。 前述のアジアで豊かな国々において、統計的に差はありますが、貧しい人々が苦しい生活を送っていることは共通しています。 特に貧しいアジアやアフリカ、南米など、いわゆる第3世界の民衆の生活がますます困難になっています。 イザヤ書に照らしてみると、 今日この世界にたった一人でも戦争や貧困で 不当に死ぬ子供と老人がいたら、一人でも自分がした労働の果実を得ることができず奪われる人がいたら、住む所のないホームレスがいたら、正義のためのイザヤの宣言を私たちはもう一度聞かなければなりません。 イザヤは厳しい時代状況の中で、「見よ, わたしは 新しい 天と 新しい 地を 創造する。初めからのことを思い 起こす者はない。それはだれの 心にも 上ることはない」という神様の言葉を宣言します。 新しい天と新しい地を創造する神、歴史の支配者である神、その神の正義と平和を、イスラエルの民に宣言しています。 絶望の中で希望を約束しています。 そうして明日に、そして未来に向かって立たせます。 2020年は全ての人にとって大変な時間でした。 私はコロナが初めて発症したとき、長くても3カ月くらいだろうと思っていました。 こんなに長い間人類が苦しむとは思いませんでした。…

アブラハムとメルキゼデク。

創世記14章13〜24節 (旧18頁)・ヘブライ人への手紙7章1-3節 (新407頁) 前置き 過去2回の説教で、私たちはアブラハムという人が犯した罪について話しました。信仰の父と呼ばれるアブラハムでしたが、彼にも私たちと全く同じ罪があったのです。彼は神に何も伺わずに、自分自身の判断で、飢饉を避けてエジプトに行きました。彼はそこで、生き残るために妻を他人に渡してしまい、それを通して不正の富を得る罪を犯しました。その後、彼は神に赦され、再びカナンに戻ってきましたが、そこで彼は不正に得た富の結果により、甥との不和が起こり、別れてしまいました。偉大な信仰の人物であったアブラハムさえも、結局、罪のゆえに残念な姿を見せたわけです。しかし、神は彼の罪をお赦しくださり、変わらず彼と共にいてくださいました。そして今日の本文は、一人の男を通して神がアブラハムと一緒におられることを証明しています。その男は、まさにサレムの王メルキゼデクでした。今日はアブラハムとメルキゼデクの物語を通して、ご自分の民と一緒におられる神様、そして神から遣わされたイエス・キリストについて話してみたいと思います。 1.アブラハムを正しく変化させる神の同行。 私たちは、漠然とアブラハム、モーセ、ダビデ、洗礼者のヨハネ、12人の使徒のような、聖書に登場する信仰の人物たちが私たちより、遥かに優れた信仰を持っているだろうと考えたりします。しかし、聖書はそのような信仰の人物たちの欠点さえも加減せずに表します。これは、聖書と同じころの古代に記された中東やギリシャの、褒め言葉で一貫した英雄たちの話と比べれば、非常に独特な違いだと言えるでしょう。特に信仰の父と呼ばれるアブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教のすべてで、偉大な信仰の人物だと評価されていますが、聖書は彼の罪をありのままに記録することにより、彼の欠点を暴露しています。しかし、聖書はそのような欠点のある人物と最後まで一緒に歩んでくださる神の偉大さをも一緒に示しています。そして、そのような偉大な神の同行は、かつて取るに足りなかった聖書の人物を、偉大な信仰者に導く重要なターニングポイントになりました。前の創世記12章13章の物語の中で、私たちに失望を抱かせたアブラハムは、今日の本文を通しては、全く違う姿を見せてくれます。このように神様は、罪人の欠点をお赦しくださり、彼らと共に歩んでくださって、主の民が真の信仰者になれるように養ってくださる方です。 「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。さあ、目を上げて、…見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。…アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」(13:14-18)エジプトでの失敗、甥との不和で、自分のどん底を見せたアブラハムでしたが、それでも、神はアブラハムと一緒にいてくださいました。このような神の同行は彼を変化させました。ロトと別れた後、アブラハムはヘブロンという地域に移住しました。過去、飢饉を避けて華麗なエジプトに行ったのと、また、ロトが潤ったが、罪に染まっていたソドムに行ったのとは違って、彼は比較的に発展していなかったヘブロンの地域、しかも、華麗さと遠い山林の地域に行ったのです。しかし、彼は、もうこれ以上欲張らず、謙虚に礼拝の生活を追い求めていきました。以降、彼は神だけに依り頼む人に変わっていったはずでしょう。人は何かに依存的な存在です。誉、富、権力、他人に頼りがちな本性を持っています。しかし、この世のどれ一つも永遠なものはありません。アブラハムにあった、財産も、親類も、結局はすべて変わってしまいました。しかし、神だけは変わることなく、彼と永遠におられる存在でした。移り変わりの無い神様によって、アブラハムは徐々に信仰の人に変わっていきました。 2.神の同行がもたらしたアブラハムの変化。 神が共におられることを信じ、神様の御前に礼拝者として立つようになったアブラハムは変化していました。それは、自分を捨てて去った甥を救うために、命をかけるほどの犠牲を覚悟した今日の本文の物語を通して知ることができます。私は前回の説教で、アブラハムと甥ロトが各々の財産を守るために、別れを選んだとお話ししました。ロトは叔父と同行しながら豊かになりました。しかし、彼はそのような恩を忘れてしまい、自分の目に良い土地を選んで、アブラハムを離れてしまいました。おそらく、アブラハムはそのような甥の裏切りに悔しさを感じたかもしれません。面倒をみてもらった恩も知らぬ、自分の利益だけを取るやつだと憎んだかもしれません。しかし、神の同行を信じたアブラハムは、そのような過去を省み、ロトを赦したのでしょう。 「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。…アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。」(14:11-14)今日の本文では朗読しませんでしたが、創世記14章は国々の戦争から始まります。 1節に登場する国は、おそらくバベルの塔が建てられた地域にあった強い国々だったと思われます。シンアルという地名が11章のバベルの塔の話にも書かれているからです。 この地域で打ち立てられた国々の中には、大きくて強い帝国が多かったです。旧約聖書でイスラエルを支配したアッシリヤ、バビロン、ペルシャなどのような国々が、この地域で発展しました。創世記14章によると、ある日、シンアルと、その同盟国の王たちが自分たちに支配されていた、ソドムとゴモラを含む5ヶ国の反乱を鎮めるために戦争を引き起こしました。その中のソドムに住んでいたアブラハムの甥ロトも戦争に巻き込まれ、彼らの捕虜となってしまいました。もし、アブラハムに何の変化も無かったら、自分を捨て去った甥を、そのまま放っておいていたのかもしれません。しかし、アブラハムは、取り急ぎ、自分の手下を率いて、甥を救うために戦場に向かいました。自分の命が危険にさらされる可能性がある状況でも、アブラハムは神だけを信じて、行ったのです。彼はわずか318人の手下を率いて、同盟部族とシンアルの同盟軍を追いかけました。そして、アブラハムは甥と財産を救い出しました。かつて神を信頼せず、飢饉を避けてエジプトに行ってしまったアブラハム、それにより信仰の失敗を味わった彼は、今回は、神との同伴の中で、自分を捨て去った甥を救うために命をかけたのです。神の同道を信頼するようになったアブラハムは変わりました。自分の命だけを大事にしていた彼が、他人のために自らの命をかける大胆な信仰者に変わったのです。そして、神はそんな彼に勝利を与えてくださいました。 3.変化したアブラハムを出迎えた神の祭司。 「アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。 」( 14:17-18)アブラハムがソドムと、その同盟国を侵略した王たちを打ち破って戻ってくる時、アブラハムに助けられたソドムの王がアブラハムを迎えました。その時、ソドムの王と一緒にアブラハムを出迎えた、もう一人の人がいましたが、彼は神の祭司であるサレムの王メルキゼデクでした。メルキゼデクに関しては、今日の新約本文で詳細に記されています。 「メルキゼデクという名の意味は、まず、義の王、次にサレムの王、つまり、平和の王です。 彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。」メルキゼデクはヘブライ語で「義の王」という意味です。また、今日の本文では、サレムの王とも呼ばれていたが、エルサレム地域の王だったとの解釈もあり、ヘブライ語サレムの意味に従い、平和の王の解釈もあります。また、ユダヤ教のラビの中に彼がノアの子孫だと思っている人もいました。そして、現代の神学者たちは、彼をアンジェリーク・ルプリースト、つまり、超越的な祭司とも呼びます。 いずれにせよ、メルキゼデクは義と平和を愛し、神の子のような、聖なる存在、すなわち人間を超越する存在としての神の祭司でした。それ故に、ヘブライ書では、このメルキゼデクが永遠の祭司として、神と民の間を仲保する旧約聖書に表れるキリストの象徴として表現されています。神は神の子のような、神聖で義と平和を愛するメルキゼデクを送ってくださり、アブラハムへの祝福を通して、アブラハムを愛しておられることを確かめてくださいました。アブラハムは、神の民として召されましたが、神を完全に信頼していない者でした。そして、神よりも自分の考えを優先にし、信仰の失敗を経験した者です。しかし、神はそのような取るに足りなくて、愚かな彼を最後までお見捨てにならず、お待ちくださいました。そのような神の愛と導きの中で、アブラハムは少しずつ正しい道を追う信仰の人物になっていきました。そして、自分の考えではなく、神の御心に聞き従おうとしたアブラハムは、最終的に神の子のような祭司メルキゼデクに出会い、祝福を受ける、大きな恵みを体験したのです。 今日の本文でメルキゼデクが重要な理由は、神の子イエスに対する代表的な旧約のモデルだからです。もともとイスラエルで祭司はレビ族のサドカイ派系列のみ行うことが出来る職として知られていますが、実際に聖書に記された最初の祭司は、レビ族ではなく、イスラエル人でもない、このメルキゼデクだったのです。ひょっとしたら、メルキゼデクはイエス・キリストが旧約で、直接人間の姿をとって現れた存在なのかもしれません。ユダヤ族の子孫であるイエスが、真の祭司と呼ばれることが出来る理由も、まさにこのメルキゼデクというレビ族ではない、最初の祭司から、その職を受け継ぐ方だからです。彼はアブラハムに十分の一を受けることで、アブラハムの礼拝を神にお帰ししました。神はイエスのモデルである、彼を介してアブラハムを祝福なさり、それから、アブラハムが神の偉大な民として生きていくことを予告なさったのです。神は祭司を通して、王に油を注ぎ、彼を祝福なさいます。神の祭司に出会ったアブラハムは、それからは単純な神の民と呼ばれるレベルを超えて、神が立ててくださった王のような存在として生きていき、このアブラハムの子孫を通して、真の王イエス・キリストが生まれることになったのです。このように、神に希望を置いて、神様と共に歩んだアブラハムは、メルキゼデクとの出会いを通じ、キリストと呼ばれる救い主の先祖として、いっそう確実な土台を築きました。 締め括り 「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。」(14:19)神の祭司メルキゼデクの祝福を受けたアブラハムは、その後15章で、神だけを信じる信仰によって、神に義とされました。義の王メルキゼデクの祝福を受けたアブラハムは、真の正しい人として神のご計画のように、祝福の源となりました。私たち人間は、知らず知らず罪を犯して生きています。神に従わず、隣人を憎みがちな存在です。しかし、それでも、神は、その人間を愛しておられ、神を追い求める者を祝福してくださる方です。そして、神は旧約のメルキゼデクのような神の真の祭司であるキリストを遣わしてくださり、神に従おうとする者を祝福し、神の民にしてくださる方です。私たちに罪があるといって絶望する必要はありません。私たちが罪人であっても、神を求め、信じて生きていく際に、主は私たちと同道してくださり、キリストを通して私たちを変化させてくださるからです。今日の本文を通して、大昔からご自分の民のために祭司を備えてくださった神、今もまた、キリストという私たちの祭司をくださる神を覚えましょう。そして、私たちを信仰に導かれる神を信頼しましょう。

罪を赦す人の子の権威。

ダニエル記7章13-14節 (旧1393頁) マルコによる福音書2章1-12節 (新63頁) 前置き イエスが、この地で行なわれた御業は大きく3つに分けられます。それは癒すこと、宣教すること、教えることでした。癒しとは、単に肉体の治癒だけの意味を超えて、罪を赦す意味をも持っています。これはイエスによって、もはや罪の支配ではなく、主に治められる神の国が到来することを意味するものでした。宣教とは、罪によって神と敵になった罪人に、キリストを通した神との和解がもたらされることを宣言し、罪人が神の御前に出て来て、御赦しと,御救いを受けるように導くことでした。最後に教えることとは、神の御言葉を通して罪人を教え、それを介して、神の御旨に従わせること、神の民にさせることでした。イエス・キリストは、罪深いこの世で罪人を赦し、神に帰らせるために臨まれた方です。そして癒し、宣教、教えを通して、それを行われました。それらの点を覚えつつ、今日の言葉を取り上げてみましょう。 1.中風の人のようなイスラエルの状況。 ガリラヤ地方のあちこちを巡回なさりながら、弱い者たちを癒し、宣教し、教えてくださったイエスは、再び主のおもな活動地域であったカファルナウムに来られました。カファルナウムはヘブライ語で、町を意味する「カファル」と慰めを意味する「ナハム」の合成語です。すなわち、カファルナウムとは「慰めの町」という意味です。イエス・キリストは裁きのために来られた方ではなく、慰めと救いのために来られた方です。主がおもに活動なさった、カファルナウムが持つ意味を通して、マルコ書の読み手は、主が来られた意味を、もう一度顧みることが出来るでしょう。 「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで隙間もないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、」(2:1-2)イエスは、この慰めの町、カファルナウムで神の御言葉を宣言なさいました。当時の堕落したイスラエルの宗教指導者たちから真の慰めを得られなかった人々は、主イエスに希望を置いて、訪ねてきました。神様は、共同体を正しく導くために指導者を立て、ご自分の民をお委ねになります。しかし、指導者が神の御前に正しくない時、彼らは民を守る者ではなく、民を苦しめる者になってしまいます。 「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。」(ルカ5:17)今日の本文の内容は、マタイ、マルコ、ルカ書で共通して登場しますが、宗教指導者たちの話も同じく出てきます。状況的に、彼らは主を批判するために集まったようです。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。」彼らがイエスに否定的に反応するからです。主は貧しい者たちと弱い者たちのために癒しを施されましたが、イスラエルの宗教指導者たちは、貧しい者と弱い者の座を奪い、ひたすらイエスを責めるために集まったのです。 「四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」(2:3-4 )イエスを責めようとする、イスラエルの指導者たちの邪悪さの故に、群衆は家の外に追い立てられ、最も癒しが必要な中風の人は、家の中に入ることさえ出来ませんでした。今日の本文は、単純に中風の人と彼をイエスに連れて行った4人の物語ではありません。これは当時のイスラエルの悲劇を描いた物語です。神の御言葉と愛を正しく教えることも、行うこともなかった、邪悪な指導者たちのために、イスラエルでは真の癒しが起こることがなかったのです。イスラエルはまるで床の中風の人のように麻痺して患っている状態でした。 2. 4人の信仰をご覧になり、中風の人を癒してくださったイエス。 キリスト教は、神と信者が、互いに反応する宗教です。生ける神が信者を愛してくださり、信者も、その神の愛にお応えする関係の宗教なのです。つまり、信者なら、神への渇望を持って、積極的に反応を行うべきだということです。今日の本文に中風の人と一緒にいた4人が、まさにそのような人たちだったのです。邪悪な宗教指導者たちによって、もたらされた妨げのために、人々がイエスと向かい合う機会が奪われたにも関わらず、彼らは家の屋根をはがして、主に中風の人をつり降ろしました。 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されると言われた。」(5)主は、その4人の信仰をお測りになり、中風の人をお治しくださいました。ところで、ここで少し疑問が生じます。プロテスタント教会は、明らかに自分の信仰によって、自分が救われる宗教、つまり他人の信仰を通して救われる宗教ではありません。そんな方式は、中世のカトリック教会で行われたことでした。まだ、救いが不透明な知人のために、免罪符を買えば煉獄の知人の魂が天国に昇れるというような信仰で、中世のカトリックで通用していた方式です。 ですから、私たちは、今日の本文を文字、そのままに受け入れ、中風の人を運んだ、4人の信仰のおかげで、中風の人が癒されたという風に解釈してはならないでしょう。私たちは、今日の話を通して、中風の人が持つ意味が、当事者だけではなく、中風の人のような状況であった当時のイスラエルの社会を認識する必要があります。指導者の正しい導きの不在のために、当時のイスラエルは全身が麻痺した中風の人のように、霊的な麻痺の中にあり、その結果、大勢の民が苦しみに陥っていたと理解しなければなりません。教会共同体も時には罪のために病んだり、崩れたりします。中風の人のように機能が麻痺した教会になってしまうこともあります。しかし、あの4人の人々のように、積極的に神との関係の回復を追い求め、立ち上がる人々が必要なのです。我々は、皆、すべて諦めてしまう中風の人のような者にも、何とかやってみようとする、あの4人のような者にもなれるのです。イエス様がくださる癒しと回復を待ち望み、如何なる妨げと逆境にも、主を探しに出る私たちになる必要があるでしょう。主はそのような人を用いて、教会を再び立ててくださり、進むべき道を開いてくださる方でいらっしゃるからです。 3.罪をお赦しになる人の子、イエス。 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されると言われた。」(5)イエスは、4人の活躍で、イエスに辿り着いた中風の人に癒しを許してくださいました。ところで、主は中風の人に、「私があなたを治してあげる。」あるいは「あなたは私に癒される。」と言われませんでした。主は「あなたの罪は赦される。」と仰ったのです。今日、我々は、主のこの御言葉を介して、前回の説教で分かち合った癒しの本義について、もう一度学ぶことが出来ます。主のお癒しは贖いを前提とする癒しです。肉体と魂の癒し自体が目的ではなく、罪人への赦しの証明として癒しが施されるわけです。したがって主に癒された人は、その癒しが霊的であれ、肉体的であれ、それを通して神が、自分を愛しておられ、罪の赦しを通して完全な神の子供となることを待ち望んでおられるということを覚え、悔い改めの座に進むべきです。主は、人間の罪を赦してくださるために、この地に来られた方だからです。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(7)イエスの癒しと罪の赦しを目撃した宗教指導者たちは、主の発言を神への冒涜だと評価しました。主が「あなたの罪は赦される。」と言われた言葉は、ギリシャ語的に「神である私によってあなたの罪は赦される。」という意味が含まれている表現でした。宗教指導者たちは、人間であるイエスが自ら神であると認めることを見て、神への大きな冒涜だと思いました。しかし、イエスは彼らの心を見抜かれ、ご自分が病気を癒し、また、それよりも深刻な人間の罪をも赦してくださる贖いの神であることを証明なさるために、中風の人をお癒しくださいました。それにも関わらず、霊的な目が閉じてしまった、指導者たちは、イエス・キリストが真の神であるという事実を悟ることが出来ませんでした。 イスラエルの全歴史をまとめて、罪を赦す権限を持つ存在は、神様お独りのみでした。今日の本文で、我々はどのようにイエスが神であることを知ることが出来るでしょうか?私たちは、今日の本文で、主が言われた「人の子」という表現に焦点を当てる必要があります。 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(10)人の子という表現は、旧約のダニエル書で出てくる言葉で、神のメシアを指す表現です。 「夜の幻をなお見ていると、見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。」(7:13-14)旧約聖書の預言者ダニエルは、獣で表現された世界の諸帝国同士の食うか食われるかとの阿鼻叫喚の幻を見て、最終的に、そのすべてに勝利し、支配する者は、まさに「日の老いたる者の前に立った人の子のような者」である預言しました。ただ、その人の子だけが、滅びることのない権威を受けて、この世界を支配すると神に教えていただいたわけです。マルコは今日の本文の出来事と人の子という表現を通して、イエスが罪を赦し、この世を正しく導いていかれる真の神であることを告白しているのです。 締め括り。 今日の本文は、多くの内容を含んでいるので、一度、整理して終わりたいと思います。第一に、正しくない指導者によって、教会共同体が不健全になり得るということです。ここで、指導者とは牧師、長老だけでなく、ペテロの手紙Ⅰの言葉のように、神の聖なる祭司として召された、すべての信徒に該当するものです。一人の間違いによって、共同体全体が病むことを覚え、常に謙虚と真実に生きていくべきでしょう。第二に、共同体が病んで、無力な時でも、誰かは神に進まなければならないということです。中風の人を移した4人のように、共同体のために、神を渇望する人々が必要だということです。これもまた、私たちみんなに当たる教えです。第三に、主イエスは、罪を赦してくださる神様であることです。私たちの希望は、ひとえに主にあります。私たちは、絶えず悔い改めながら、主イエスが神様であることを認めて生きていくべきです。主イエスは、旧約から預言された真のメシア、神様です。主だけが罪を赦すことが出来、教会を回復することが出来ます。主は、なぜ人の子と自称なさったのでしょうか?主は神でいらっしゃいますが、人々の間に一緒におられる方、つまり真の神であり、真の人である方だからです。この人の子イエスに私たちの希望を置いて、罪を告白し、主に従っていく私たち志免教会になることを望みます。

富は神の祝福か?

創世記13章1〜18節 (旧16頁) テモテの手紙Ⅰ 6章17-19節 (新390頁) 前置き 前回の創世記の説教では、飢饉によってエジプトに行ったアブラハムの信仰の失敗についてお話しました。彼はカナンで遭った飢饉について、神の御心を伺わずに、もっぱら自分の判断で、神が定めてくださった土地、カナンを去ってしまいました。その結果、彼は妻を他人に渡すことになり、不正な富を得ることになり、エジプトの住民に災いをもたらすことになってしまいました。私たちは、これらを通して、神の御心を求めず、自分の判断だけを追求する人生が、どれだけ、大きな問題を引き起こしてしまうのかが、はっきり分かりました。今日は、そのようなアブラハムの失敗から生まれたもう一つの問題を取り上げてみたいと思います。それは不正な富が巻き起こす問題なのです。人間の生活において富は必要不可欠なものです。しかし、富は肯定的な側面と否定的な側面の二面性を持っています。聖書は、富に対して、どのように語っているのか、また、私たちは富に対して、どのような心得を持つべきか、今日の言葉を通して考えてみたいと思います。 1.旧約聖書が語る富。 皆さんは、お金のない世界をお考えになったことがありますか?お金は非常に重要な価値を持っています。お金、つまり富が無ければ、日用の糧を食べることが出来ず、基本的な衣服を着ることも出来ず、また、風と雨を避けることも出来ないでしょう。富が無ければ、子供たちに良質の教育をさせることが出来ず、家族を誠実に扶養することも出来ません。このように富の力は強いのです。そのため、世のすべての人々は富をなすために毎日、熱心に働き、生きていくのです。文明が生まれて以来、人々は富を用いて多くのことを享受してきました。ひょっとすると、富は人間という存在を人間らしく生きさせる、最も基本的な価値であるかもしれません。しかし、富は人を破滅させるものでもあります。富のゆえに暴力が生じ、富のゆえに関係が崩れ、富のゆえに命を失うことも珍しくないからです。宝くじに当たって、大きな富を手に入れたものの、悲劇的な結果に終わる話は、よくあることでしょう。そのためか、聖書は富に対して中立的な姿勢を取りながら、同時に過度の富がもたらす副作用についても警告しているのです。 先ほど、申し上げましたように、旧約聖書は、富に対して否定的には語っていません。神は忠実なダビデ王に多くの富と権力をくださり、知恵を求めた、彼の息子であるソロモンにも富を許してくださいました。旧約で富は神の祝福の一つだったからです。しかし、この富は人を変質させる力を持っているようです。最初は神の御前に純粋だった信仰の人物たちも、富と権力を味わってからは変わってしまったからです。ダビデは他人を羨むことのないほどの富と権力を手に入れてから、神に禁じられた人口調査を強いて行なって、罰せられてしまいました。 (サムエル下24)ソロモンは富と権力を手に入れてから、隣国との同盟のために、異教徒の娘を王妃に迎えました。その結果、イスラエルは二分されてしまいました。(列王記上11)また、ダビデとソロモンの子孫であったヒゼキヤ王はバビロンから来た使者に自分の富を誇ってしまい、神に滅亡の予言を聞かされてしまいました。 (列王記下20)このように、富そのものは、悪いものではありませんが、その富を取り扱う人間の心が変わって、富を悪の道具に使ってしまったのです。これが富に対する聖書の基本的な視座なのです。 2.アブラハムとロトを別れさせた富の副作用。 多くの旧約神学者たちは、アブラハムが甥ロトと同行した理由が、ロトを自分の相続人にするためだったと思いました。神がアブラハムをお召しになった時、彼には子供がいなかったからです。そのため、アブラハムは、甥を養子縁組し、相続人にするつもりでロトを連れていったのでしょう。ところで、アブラハムは、そのロトの目の前で大きな間違いを犯してしまいました。それは前回の説教でお話しましたアブラハムの信仰の失敗によるものでした。韓国のことわざの中に「子供の前では、冷たい水もやたらに飲めない。」という言葉があります。その意味は、「目上の人の悪い言動を若者たちが、やたらと見て真似をする。」という意味です。アブラハムは、自分の大切な妻を他人に渡し、あまりにも簡単に不正な財産を得ました。そして、神がそれを解決してくださる時まで、別に悔い改めの姿も示さなかったのです。おそらくアブラハムは、そんな望ましくない姿を見習ったロトに、知らず知らずに間違った富と信仰の基準を提示してしまったのかもしれません。そして、そのようなアブラハムの過ちは、カナンに戻ってきた後、実際の出来事として現れ始めました。 「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていました。 その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかったのです。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのです。 アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。」(13:5-7)エジプトを去って、カナンに戻ってきたアブラハムの前に予期せぬ問題が待っていました。多くの財産により、甥との関係に葛藤が生じたことでした。エジプトに行く前まで、二人は様々な問題に出くわしても、理解し合って力を合わせ、逆境を勝ち抜いたはずでしょう。しかし、エジプトで得られた不正な富のゆえに二人の間に葛藤がもたらされたのです。その富により増えた数多くの家畜のため、飼う者たちの間に争いが起きたからです。また、一度エジプトを体験して、富に対する間違った基準を持つようになったロトは、過去のように叔父と一緒に逆境を乗り越えることなく、自分の富を守るため、アブラハムを離れようとする心をも持つことになったのでしょう。 「アブラムはロトに言った。わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。 あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。」(13:8-10)当初からアブラハムがロトを相続人として養子縁組をしたならば、アブラハムはロトをそう簡単に行かしてはならなかったのでしょう。しかし、彼らの富は、そのような関係を破壊してしまいました。互いに葛藤があっても、アブラハムはロトを抱き、調和をなさなければならなかったはずです。しかし、彼はあまりにも簡単に別れを宣言してしまいました。また、ロトも叔父に良い土地を譲らず、まるでエジプトのように潤った地を選んで、離れてしまいました。その結果として、ロトは罪と悪の地、ソドムとゴモラで悲惨な結末を迎えることになります。結局、エジプトからの不正な富さえ無かったら、起こるはずの無かった葛藤が、二人の間を引き離してしまったのです。富による貪欲と富への異常な追求が、二人共に別れという極端な結果をもたらしてしまったのです。 3.聖書を通して学ぶ富に対する心構え。 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)主は山上の垂訓の時、まるで、富を人の主人のように描かれました。現代の多くの人々も富から自由になることが出来ません。差し当たって、国からの年金が出なければ、あるいは、職場からの給料が出なければ、私たちは果たして気軽に日常生活を営み、教会に行って礼拝をささげることが出来るのでしょうか?それだけに富は重要なものであり、絶対に必要なものです。しかし、それにもかかわらず、私たちは、その富のみを追い求めて、生きてはいけない存在です。富を利用するが、富に捕らわれない生き方が必要なのです。富のために仁義に反してはならず、富のために信仰を捨ててもなりません。つまり、富が私達の主人のようになってはならないという意味です。私たちは、ひとえに神様のみを主人にして生きるべき、キリスト者だからです。 「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15:1)ロトが去っていった後、相続人への希望も、富の意味への希望も失われたアブラハムに、神は現れて言われました。 「私こそがあなたの富である」主はアブラハムにとっての真の富が、神ご自身であると教えてくださいました。そして、アブラハムが、その神を信じた時、初めて神は彼を義と認めてくださいました。富は神様が私たちに与えられたプレゼントに過ぎないものです。プレゼントは、あれば良いし、なくても構わないものでしょう。もともと、我らのものではありません。重要なことは、私たちにプレゼントを与える存在なのです。私達はプレゼントを渡すとき、「気持ちだけです。」と言ったりします。重要なのはプレゼントをする者と、その心なのです。プレゼント自体が大事ではありません。富に対する私たちの心構えも同じです。重要なのは、富を与えてくださった神様への信仰なのです。私たちが、日常生活の中で本当に神の御前に恥のない信仰者として立つためには、富への正しい姿勢を取ることからだと思います。 締め括り 「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 」(テモテⅠ6:17-18)私たちの真の富は、神ご自身でいらっしゃいます。そして神を通して、私たちに来られたイエス・キリストなのです。旧約で富と豊かさで表現された数多くの神の祝福は、新約になってからは、イエス・キリストと、その方への信仰として、完全に置き換えられました。金持ちも貧しい者も、キリストへの信仰と信頼がなければ、すべてが無意味になることを忘れてはならないでしょう。神様が私たちに与えられた富を用いて、神と隣人に仕え、富のとりこではなく、富の主人として生きるべきでしょう。それが私たちに与えられた富への在り方なのです。富は神の祝福になることも、呪いになることも出来るものです。もし私たちが主の御心に従って、神に望みを置いて、富を正しく利用すれば、その富は私たちに祝福となるでしょう。私たちの富を用いて、神と隣人への愛を実践して生きていきましょう。私たちの行い次第で、富の性質が変わることを心に留めて、神の御心に適う一週間を過ごしましょう。

イエスの御業。

イザヤ書61章1〜4節 (旧1162頁)マルコによる福音書 1章29-45節 (新61頁) 前置き 30年間、平凡に生きて来られたイエスは、洗礼者ヨハネに洗礼を受けることと、荒野で試練を経験なさることを通して公生涯、すなわちキリストとしての生涯をお始めになりました。以降、主は神の国の到来を宣言なさり、弟子たちをお召になり、この世の罪人のための本格的な救いの旅に出られました。イエスは公生涯の最初のしるしとして、カファルナウムの会堂で、汚れた霊に取り付かれた人についていた悪霊を追い出されましたが、マタイの福音書によると、悪霊が追い出されることは、悪魔の支配下に置かれている、この世に神の統治が到来したことを象徴するものでした。 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)つまり、イエスが悪霊を追い出された出来事は、罪に満ちた、この地に神のお赦しをもたらし、もはや罪の呪いではなく、神のお赦しと愛を持って世を新たにしようとするイエスの覚悟を示す象徴的なことだったのです。今日の本文は、そのような新しい世のためのイエスの御業を描いています。今日の本文を通して主がなさった生前の御業について話してみましょう。 1.イエスという方。 私たちが信じるイエスはどんな方でしょうか?キリスト教の教義では、このイエスが完全な神であると同時に、また、完全な人間であると教えています。それでは、まず、人間イエスについて話してみましょう。イエスの時代のイスラエルには、イエスという名前が珍しくなかったと言われます。イスラエルの歴史上、最も偉大な人物の一人である、モーセの後継者ヨシュアに由来した名前だったからです。ヨシュアは「神が救ってくださる。」という意味を持っています。ヨシュアという名前は、時には「ホセア」や「イエス」とも呼ばれましたが、これらも、また「神が救ってくださる。」という意味を持っていました。以後、イエスは罪人の贖いのために十字架で処刑されましたが、ユダヤ教では、イエスが神の呪いを受けて死んだと信じていました。そういうわけで、ユダヤ教では、イエスという名前を不正に考え、タブー視したそうです。イエスはベツレヘム出身のヨセフとマリアの長男として、お生まれになりましたが、彼らの祖先は共通して、ダビデ王だったと言われます。そのため、聖書はイエスをダビデの子孫であると称しています。イエスは公生涯が始まる時まで、家族と一緒に暮らし、大工を生業として生きてこられました。 イエスは30歳になった時から、ご自分の町、ナザレを離れられ、公生涯をお始めになったと知られています。 また、イエスは初めから存在しておられた神様です。私たちが三位一体と呼んでいる神は、父、御子、聖霊の三位が独りの神としておられる方です。この三位一体は、世界が造られる前からおられ、世界の創造、維持、終末までの、すべてを司られる神です。三位一体なる神は、各自、限りの無い権能を持っておられますが、自ら低くなられ、お互いに協力し合って、摂理を行われて、それを通して、この世界を治めて行かれる方です。そのような神の統治は、今でも移り変わりが無く、これからも永遠に続くでしょう。御父は、この世のすべてをご計画される方です。御子は父なる神の御言葉、すなわち神のご意志でいらっしゃり、神の計画をこの世に啓示なさる方です。そして、聖霊は、その御父の計画を御子の啓示によって、世の中で成し遂げられ、行われる方でいらっしゃいます。イエスが完全な神であり、完全な人間であるという意味は、神の全能さと人間の弱さをすべて知っておられ、そういうわけで神と人間の間で完全な仲保者になることが出来るということを意味します。イエスの御業は、これらの完全な神であり、人間であるという、神と人間への完全な知識の中で、この世を新たにしつつ、回復させる救いのお働きなのです。 2.イエス・キリストの御働き それでは、イエスは、この地上でどのようなお働きをなさったのでしょうか?私たちは今日の本文を通して、イエスが3つのお働きをなさったことが分かります。一つ目に、イエスが癒しをなさったということです。 「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(1:30-31)イエスの時代のユダヤ地域は、邪悪な王の支配とローマ帝国の圧政の故に、権力と富のある人は住みやすい所でしたが、貧しくて弱い人々には、ますます苦しくなる所でした。神は旧約聖書を通して、常に貧しくて弱い者たちの世話を見なさいと命じられました。また、貧富の隔たりを無くし、誰もが神のご支配の中で平和に生きる世界を追い求めるイスラエルをお望みになりました。しかし、イエスの時代は、そのような神の御意志とは、あまりにも遠ざかっている現実に置かれていました。王と総督は自分の権力と富だけを貪り、その下の祭司と宗教人たちも大きく異なるところがありませんでした。 前回の説教で、私は悪魔の性質について、自らを神のように高めようとする傲慢さだと話しました。当時の指導者たちは、低くて弱い者には関心を持たず、ひたすら自分の政治的、社会的、宗教的な権力が高まることだけに気を取られていました。イエス様が、この地に来られ、病んだ人を癒し、悪霊を追い出し、弱い者たちと一緒におられたというのは、そのような世の風潮に真正面から抵抗する行為でした。イエスは貧しい弟子の家族を癒してくださることから始め、あらゆる病人を治され、人を苦しめる悪魔を追い出され、罪人を清めてくださいました。 「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、御心ならば、わたしを清くすることがおできになりますと言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、よろしい。清くなれと言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 」(1:40-42)イエスのお癒しは、真の王でいらっしゃる神様が、イエスを介して、弱い者たちと一緒におられることを積極的に見せてくださる行為でした。最も高いところから来られたイエスは、最も低いところに自ら臨まれて、お慰めくださり、お癒しくださって、神が民の間におられることを証明されました。 二つ目に、イエスは宣教なさいました。 「イエスは言われた。近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38)今日の本文に宣教するとして翻訳された単語は、ギリシャ語で「ケリュッソ」と言いますが、「宣言する。述べ伝える。告げる。」などの意味を持っています。つまり、今日の本文の「宣教する」は、イエスの説教、あるいは宣言として翻訳することが出来ます。この「ケリュッソ」という言葉から、キリストを通した救い、罪の赦し、恵みなどを述べ伝えるという意味の「ケリュグマ」という概念が由来しました。イエスが病人を癒され、悪霊に取り付かれてた者から悪魔を追い出された理由は、神の国がこの地上に臨んだということを宣言する宣教をなさるためでした。イエスは、この宣教のために、神から人間にお生まれになったのです。もし、ただ、癒されるばかり、悪霊を追い出されるばかり、糧を分けてくださるばかりで、イエスのお働きが終わったならば、イエスの御業は中途半端になってしまったはずでしょう。主が癒してくださった理由は、その癒しと伴う宣教を通して、人々がイエスを信じて、神の民になり、神の国に入るように導いてくださるためだったのです。 三つ目に、イエスはお教えになりました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(44)イエスはお癒しを受けるために、主のところに来た重い皮膚病を患っている人を清めてくださり、それから彼が何をすべきかを教えてくださいました。主はレビ記の教えに基づいて、回復された人の在り方を教えてくださったのです。主は旧約聖書の言葉を無視なさらず、その言葉に応じて、祭司のところに行ってモーセが定めたものを献げて、人々に証明することを命じられました。主は、聖書の言葉を生活の中で適用するように、導かれ、治った人が御言葉のように行なうことを望まれたのです。イエスは癒しと共に、御言葉を教えてくださる方です。癒しを通じて体と生活を新たにしてくださり、御言葉の教えを通じて、魂と信仰を新たにしてくださいます。イエスは今でも聖霊を通して、教会にお教えをくださいます。聖日の説教と、個人の黙想を通して、主は今日も、御心を教えてくださり、その教えを通して信徒の進むべき道を教えてくださるのです。 締め括り 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1)かつて、イザヤ書は、神が油注がれたメシアを遣わし、貧しくて弱い者を救い、慰めてくださることを予告しました。主イエスがこの地に来られ、御業を行われたのは、このようなメシアの到来を実際に証明することでした。主はお癒しを通して、弱い者を立ててくださり、宣教なさることを通して、主の救いを知らせてくださいました。そして教えてくださることを通して、信者の在り方を教えてくださいました。私はこのような主の3つの御業が、キリストの教会が貫くべき働きであると思います。私たち教会は、主の体なる共同体です。私たちは、楽園に入るだけのために、主を信じる存在ではありません。このようにお働きになるまでに、世を愛してくださった主の、そのご意志を受け継ぐ者として召されたのです。イエスが再び来られる、その日まで、主がお働きになったように、教会は働くべきです。イエスは今日も、聖霊を通して私たちの間におられます。そして、その聖霊を通して、教会が働くことを望んでおられます。 21世紀の日本社会で、私たち教会は何をすることが出来るでしょうか?今日の言葉を顧みつつ、我々が働くべきことは何なのか、悟りを得る一週間になることを願います。

人間の悲惨さ。

創世記12章10〜20節 (旧 16 頁) ローマの信徒への手紙7章21〜25節 (新 283 頁) 前置き 神は如何なる正しさも無かったアブラハムを、神の主権的なお選びを通して、ご自分の民としてお召しくださいました。そして、それからアブラハムを大きな国民になさり、彼らを通して、この世を祝福してくださるとお告げになりました。以後、神の約束は成し遂げられ、イスラエルという民族が打ち立てられ、最終的には、そのイスラエルを通して、世界を救うイエス・キリストが来られるようになりました。しかし、その道筋には、数多くの試行錯誤と紆余曲折もあったのです。もちろん神様に力が足りなくて、試行錯誤や紆余曲折があったわけではありません」。神に召された人々の失敗により、そのようなことが起こってしまったわけです。神に召されても、人間は依然として力不足の存在であり、罪のゆえに苦しむ存在です。人間から完全に罪の影響が消える日は、キリストが再臨なさる終わりの日であるため、その日が来るまで、私たちはやむを得ず、罪の影響下に生きなければならなりません。これが人間が持つ最高の悲惨さです。今日はアブラハムの物語を通して、人間の悲惨さについて分かち合い、神がその惨めさの中で、どのように人間を導かれるかを話してみたいと思います。 1.アブラハムという人が持つ意義。 私の知り合いの牧師が旧約学の博士号取得のために、エルサレムで何年間か滞在したことがあります。彼から聞いた逸話ですが、その人の現地の知人の中に警察官がいたそうです。ある日、その警察官が儀礼的な検問のために車を止めさせたようですが、車の中には、友達4人が乗っていたそうです。ところで、その4人の名前がす​​べてイブライム、すなわちアブラハムだったという話でした。日本の名前で例えてみると、運転席の男は佐藤アブラハム、助手席は田中アブラハム、運転席の後部座席には、鈴木アブラハム、助手席の後部座席には高橋アブラハムが座っていたわけです。皆がアブラハムという同じ名前の友達だったのです。そればかりか、全世界的にもアブラハムという名前は多いです。それだけにアブラハムという人の存在は重んじられていると思います。このようにアブラハムは、ただの聖書のエキストラに過ぎない存在ではありません。アブラハムは、神にも、人間にも非常に重要に扱われる存在です。なぜアブラハムはこのように重要な位置を占める存在となったのでしょうか? 創世記1章から11章までは、アダム以後、人間の罪と罪人たち、そして、その間に弱くても生き長らえてきた正しい人の系図について取り上げています。しかし、本格的な救いの歴史は、まだ現れていない状況でした。ところが、このアブラハムを中心として、今まで薄ぼんやりとだけ見えていた、救いの歴史が一層顕著に展開しはじめました。神は、アダムが堕落した後、彼の子孫が生き残ることが出来るように、彼らを見捨てられず、常に彼らと共にいてくださいました。特に、彼らの中でアブラハムの祖先であった、アダムの三男、セトの子孫は神の特別なお守りの中に生きてきました。これは彼らを介して、メシアを遣わそうとなさった、神のご計画によるものでした。そして、神は、その計画をアブラハムを通して、初めて明確に成し遂げていかれました。これは、このアブラハムという人の息子と孫によって、確立される国民、すなわち、イスラエルを通して人間を救う救い主が来ることになっていたからです。それほどアブラハムは、罪人の歴史の中で、本格的に正しい人の歴史を立てていく記念碑的な人です。そういうわけで、聖書は、このアブラハムを信仰の父と呼ぶのです。 2.アブラハムという罪人。 しかし、このように偉大なアブラハムも、創世記では、たまに残念な姿を見せます。今日の本文は、そのようなアブラハムのがっかりな姿の一つです。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」(創12:10)まず、彼は神に伺わずに、エジプトに下って行きました。古代にあって、飢饉というのは、現代の私たちが感じる旱魃や、大雨などとは比較できないほどの、危険なものでした。飢饉に遭ったら、すぐに死んでしまうとの認識でした。アブラハムがウルを離れた理由も、この飢饉によることだったと推定されるほど、飢饉は人間の生命を脅かすものだったのです。このように飢饉を恐れる古代人たちの姿については、十分に理解できる部分だと思います。しかし、アブラハムが見落としたことがありました。それは神の存在でした。アブラハムがウルで、神を知らないうちに飢饉を経験したとすれば、今回の飢饉との違いは、アブラハムの傍らに神がおられたということです。かつて神は彼を祝福の源にすると祝福なさいました。これはすなわち、神がアブラハムと共におられるという約束でもあったのです。しかし、聖書を読めば、アブラハムは、神に何の要求も質問もしなかったということが分かります。結局、彼は、ただ自分の判断に従って、神を無視し、カナンを去ってしまったということでしょう。 ここで、もう一つの問題は、アブラハムがエジプトに下ったということです。旧約聖書で、エジプトといえば、比喩的に人間の罪と堕落を象徴したりします。つまり、アブラハムは、自分の判断に基づいて、神が定めてくださった場所を離れて、罪と堕落の人間の場所に行ってしまったということです。このように神に伺わず、自分の判断に従ってエジプトに行ってしまったアブラハムの罪は、以来、まるでドミノのように連鎖反応を引き起こし始めます。 「エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。」(創12:12-13)恣意的な判断でエジプトに行ったアブラハムを待っていたのは、現地人の警戒だったのであり、アブラハムは生き残るために、いざとなったら自分の妻を捨てようとする非倫理的な罪の心を持っていたのです。 「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。 ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。 アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。」(創12:14-16)生き残るために妻を他人に渡したアブラハムは、その対価として、ファラオと同盟を結び、また、多くの財産を得ました。それでも聖書にはアブラハムが悔い改めたという言葉が、たった一言もありません。妻を諦めて、安全と富を得たというのは、まさに彼が神に頼らず、自分の意志で生きようとする人だったという意味ではないでしょうか? 結局、神はサライのことで、エジプトに恐ろしい病気を下されました。ファラオは、この災いにより、サライがアブラハムの妹ではなく、妻であることを知るようになりました。エジプトが罪と堕落の象徴として言われるところだったとしても、そこに住む人たちも、結局は、私たちのような普通の人でした。日韓感情によって、両国のイメージが、互いに良くなくても、日韓のすべての人が、そのような悪人ではないように、エジプトの人たちも、家族や職場と生活がある普通の人だったわけです。アブラハムは、自分の命を守るために、エジプトの人々にも恐ろしい病気という大変な迷惑をかけてしまったのです。まとめてみましょう。アブラハムは神に伺わないことで神を無視し、自分の判断に従い、エジプトに行ってしまいました。エジプトでは、生き残るために、自分の一人だけの妻を妹だと騙し、他人に渡して安全と富を保障されました。自分の嘘のゆえに、エジプトの多くの人々をひどい目に遭わせました。また、今日の言葉には出て来ませんが、不正で増やしたエジプトからの財産のゆえに、甥のロトとの関係が悪化し、彼を滅ぼされるべき、罪の町であったソドムとゴモラに行かせてしまいました。そのため、最終的にロトの家庭が破壊される結果をもたらしました。 3.人間の悲惨さ。 人が神に召されたからといって、自動的に正しい人になるわけではありません。 2020年の統計で、全世界で21億人のクリスチャンがいると言われます。これは現存人類の33%に達する数字です。しかし、すべてのクリスチャンが本当に神の御前で正しく生きているのでしょうか?毎週、説教する牧師だと言って、皆、正しく生きていると断言することはできません。毎週、教会堂に出席していると言っても、神様に認められていると勝手には言えないでしょう。アブラハムのような偉大な信仰の人物でも、結局、罪のために、今日の本文のような出来事を起こしてしまいました。こういうのが人間の悲惨さです。人がいくら自分の思いで、これは正しいと考えても、その結果が人間の考えとは正反対に出たりすることがしばしばあります。 「罪に落ちたというのは、どういうことですか?-それは人間が神の律法を破り、神から与えられた自由を乱用して、かえって、真の自由を失ってしまい、欲望と不従順との奴隷となってしまったことです。」日本キリスト教会の大信仰問答、人間編45問では、人間が堕落の罪によって、神に与えられた真の自由を守れず、かえって、その自由の乱用により、罪の奴隷となってしまったと教えています。 ひょっとしたら、アブラハムは飢饉のため、神に伺ってみようとの思いも持てずに、取り急ぎ、今まで通りに自分の決定に従い、エジプトに行ったのかもしれません。しかし、神のいない自由を乱用した結果、神を無視することになり、妻を裏切り、正しくない富を得、他人に災いを起こす、悪い結果をもたらしました。これがまさにアブラハムを通して表現された信者に潜んでいる悲惨な罪なのです。これはただ、アブラハムのみの事柄ではないでしょう。私たちも人生の中で神の御心とは関係ない、自分の思いに捉われて、勝手に行なってしまった後、悔い改めた経験があるでしょう。今日の新約本文で使徒パウロはこう言いました。 「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。内なる人としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」(ローマ7:21-23)私たちがキリストを信じ、聖書を読み、切に祈り、信仰生活をしても、罪は相変わらず、私たちの中に残っています。そして、その罪は連鎖反応を起こし、私たちの人生を惨めに作ります。私たちは、自分の中に、このような悲惨さが、依然として残っていることを謙虚に受け止め、自分の弱さを認めなければなりません。そして、そこからキリストに依り頼み、悔い改めるべきです。自分の罪と弱さと惨めさを認め、神に求める人に神は避ける道をくださるからです。 締め括り 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)神は、後にアブラハムを再びカナンに導かれ、彼に生きる道を与えてくださいました。アブラハムは罪を犯しましたが、神はお赦しをもって、彼のすべてを回復させてくださり、再び神の御前に生きさせてくださいました。私たちキリスト者も、もともと罪と悲惨さから自由ではありませんが、神はキリストを通して、そのような私たちが、その罪と悲惨さに勝ち抜く力を与えてくださいます。あの偉大なアブラハムも罪のゆえに躓きました。自分の妻を売り、他人を苦しめる罪を犯したのです。ましてや、我々は罪から自由なのでしょうか?そうではないでしょう。しかし、神は私たちが、そのような生活の中で勝ち抜くことができるよう、キリストを通して一緒に歩んでくださいます。人間は悲惨な存在です。しかし、その悲惨さをキリストは知っておられ、そのために聖霊を通して、一緒にいてくださるのです。今日の言葉を通して、私たちを罪と悲惨さに見捨てられず、導いてくださる神を仰ぎ見ることを願います。

神を知る知識。

イザヤ書1章11- 17節 (旧1061頁)マルコによる福音書1章21-28節(新62頁) 前置き 今日の新約の本文は、一ヶ月前に分かち合ったイエスがカファルナウムの会堂で悪霊を追い出された本文と同じ箇所です。しかし、前の説教で取り上げなかった話しがあり、今日は異なる視点から本文をもう一度探ってみたいと思います。私は一ヶ月前の説教で悪魔の性質について話しました。神の御心に逆らって、自分自身が神のようになろうとするのが、悪魔の代表的な性質であるとお話しました。アダムとエヴァが神を裏切った理由も、自分が神のようになるためであり、バベルの人々が罪を犯してバベルの塔を建てた理由も、自分たちが神の御座に上って行こうとする理由からでした。そして、私たちが生きていくこの世界も、自分が神のようになり、他者を踏みつけ、さらに高いところに上がろうとする、悪魔の性質に似ている所であると説教しました。このような世の中で、キリストの体なる教会、すなわち、キリスト者は、神の御座を奪おうとする悪魔の性質に対抗して、唯一の神のみに仕え、主の御心にふさわしい生活をしなければならないというのが、この前の説教の主題でした。今日は本文が持っているもう一つの部分について考え、私たちが貫くべき在り方について、分かち合いたいと思います。 1.天使と悪魔。 古代ヘブライの、ある文献の中に、このような文章があるそうです。 「神の御心に従う人がすなわち天使であり、神に逆らう人がすなわち悪魔である。」これは善いことをすれば天使となり、悪いことをすれば悪魔となるという、単純な話ではないでしょう。また、霊的存在としての天使と悪魔への知識だけにとどまる意味でもないと思います。おそらく、この文章の本当の意味は、神の御言葉に対する人間の心構えに従って、人間が善良な存在になることも、邪悪な存在になることも出来るという意味でしょう。イランとインドの地域にはゾロアスター教という宗教があります。有名な哲学者ニーチェの著書である「ツァラトゥストラはこう語った。」のツァラトゥストラが、まさにこのゾロアスターです。ゾロアスター教は、そのゾロアスターという人が打ち立てた宗教なのです。この宗教は天国と地獄、天使と悪魔などを認める教義を持っていました。ところで、この宗教はヘレニズム時代に西洋に渡っていき、ギリシャやローマの文化に影響を与え、インドの方にも渡っていき、ヒンドゥー教や仏教に影響を及ぼしたそうです。そんな影響で、旧約聖書では、あまり示されなかった天国と地獄、天使と悪魔に関する概念が、ヘレニズム文化の影響を受けた新約聖書には、より顕著に現れていると言われます。 東アジア地域に住んでいる私たちは、大なり小なり、このゾロアスター教の影響を受けた仏教文化圏で生きてきました。また、キリスト教の教義でも、そのような影響を少なからず見つけることができます。もちろん、天国と地獄、天使と悪魔は存在すると信じています。彼らの存在を認める新約は、神に与えられた御言葉であり、旧約でもそのような概念が全く無いわけではないからです。しかし、我々は天国と地獄、天使と悪魔を、漠然と私たちが住んでいる現実と懸け離れたものとして受け入れてはならないでしょう。むしろ、旧約を記録した、古代ヘブライ人の視点から、天使と悪魔について考えて見るべきだと思います。もし、神の御言葉を聞くだけで、実践の無い、ただ頭の中の知識としてのみ、受け入れるだけならば、我々は結局、神に従わない悪魔のような人と評価されてしまうかも知れません。反対に私たちが神の言葉を情熱を尽くして信じ、実践するなら、私たちは神に天使のような存在として褒められるでしょう。私たちに「信仰によってキリストに救われた。」という信仰があるなら、私たちはそのキリストに救われた者が持つべき在り方にふさわしい存在として、神に聞き従う人、善を行う人、天使のような人として生きていくべきでしょう。 2.悪魔も持っている神への知識、しかし。 イエスがシモン・ペトロとアンドレ、ヤコブとヨハネを召された後、ある安息日に、主は彼らの町であったカファルナウムの会堂に入って行かれました。むかしバビロンによってエルサレムの神殿が崩れた後、ユダヤ人たちは、神殿の不在による民族の信仰の堕落を挽回するために、町々に会堂を設置し、それを中心に信仰と社会を導いていこうとしました。以後、新しい神殿が再び建てられましたが、会堂を中心とする彼らの生き方は変わりませんでした。つまり、会堂はまるで今の教会堂と役場の両面性を持つ場所だったということです。当時、ラビなら誰でも会堂で聖書の説き明かしを行うことが出来ました。ラビの一人と見なされていたイエス様も、会堂で解き明かしされるためにお入りになったのです。ところで、そこに汚れた霊に取りつかれた男がいたのです。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(23-24)大勢の人々が主の御言葉を聞いて、「権威ある者のようなお教え」に驚いていた時、イエスが神の聖者であることを最初に見抜いたのは、普通の人ではなく、この悪霊に取り付かれた者でした。 一部の人々は、この言葉を読んで、こう考えることもあるでしょう。 「さすが、主は偉大なお方だ。悪魔たちも、イエスがどなたなのか、きちんと知っているのだ。ならば、私たちも、彼らに負けるわけにはいかない。よりいっそう主を熱心に信じ、聞き従おう!」ですが、当時の文化の背景であったヘレニズムの観点から見れば、その悪霊に取り付かれた人が叫んだ「あなたは神の聖なる者だ。」という言葉は、単に造り主、唯一の神への畏敬の念を持つ服従の意味としての叫びではありませんでした。これは、古代ギリシャの神殿で行われていた「神を呼び出す行為」と似ているものだったのです。彼らはイエス・キリストを自分の救い主、この世界の支配者として受け入れて告白したわけではなく、「偉大なゼウスよ、神聖なる神々よ。」のように異邦の祭礼的な表現として、イエスを呼んだのです。彼らはイエスを聖なる者と言いましたが、彼らの行為は、そのイエスに仕える者の姿ではありませんでした。人に取り付いて、彼らを苦しめ、傷付ける邪悪な仕業をしていただけです。彼らはイエスに滅ぼされないことだけを願って恐れていたのです。私たちが、いくら教会で「主を信じます。神を愛しています。主は聖なる方です。」と告白しても、それが実践のない、ただの口先だけの叫びにすぎなければ、結局、私たちも本文の悪魔が持っていた神への間違った知識と、そんなに違いが無いのかも知れません。神を知る知識は、言葉だけで示されるものではありません。キリストの民にふさわしい生き方がなければ、それはただ、神に認められない、無意味な知識で終わってしまうでしょう。 3.神を知る知識 – 関係と実践。 旧約聖書には、「ヤダ」というヘブライ語の表現があります。これは日本語で「知る」、「理解する」と翻訳できます。ところで、この「ヤダ」が意味する「知る」という意味は、頭だけで知るという意味ではありません。旧約聖書で「ヤダ」を用いて表現した非常に印象深い箇所があります。創世記18章の話です。三人の神の使いがソドムとゴモラを滅ぼそうと行く途中、アブラハムがその使いたちに会って食事を持て成しました。その時、神様が彼らを手厚くもてなしたアブラハムにこう言われました。 「わたしがアブラハムを選んだのは、彼をとおして息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(創世記18:19)この言葉に「わたしがアブラハムを選んだ。」という表現が出てきますが、ここで「選んだ。」という言葉が「ヤダ」を翻訳した表現です。神はアブラハムを非常に信頼なさり、その人を通して素晴らしい御業を成し遂げようという意味で彼を「ヤダ」つまり、お知りになったという意味です。私たちが神を知ることは、まず神様が私たちを知ってくださり、私たちに神への知識を与えてくださったことを意味します。そして、その知識は、単に「知っている」という意味を超える「神との密接な関係」を意味するのです。つまり、神を知るということは、神とキリスト者の間に主従関係を結び、主のご意志に服従し、信頼するという意味です。 今日の新約本文の悪霊も、イエスを知ってはいました。主が神の独り子であることも、偉大な審判者であることも知っていたのです。しかし、イエスへの彼の知識は、関係という意味での知識ではありませんでした。ただ頭で知るだけのものでした。イエスの御言葉に聞き従う意志も、心もなく、イエスが命じられた「自分の体のように隣人を愛しなさい。」という言葉のような、他人への配慮と愛もありませんでした。神への彼の知識は、ただ知っていることだけにとどまるものだったのです。異邦の偶像崇拝者が生きてもいない神々に自分の欲望のために意味のない祈りをすることと同じように、悪魔が理解していたイエスは、主としてのイエスではなく、ただ自分と関係のない存在への認識であるだけだったのです。私たちは、神をどのように理解しているでしょうか?また、神をどのように知っているでしょうか?ただ、祈りと礼拝とを捧げれば、祝福してくださる神という意味だけで信じているのではないでしょう?人が神への正しい知識を持っているならば、それは神との関係、つまり、生活での実践を通して示されるべきです。会堂で悪霊に取り付かれた者と周りの人々を苦しめていた悪魔のような行為をしながら、ただ、頭の知識だけで、神を知っていると思うなら、神はその知識を否定なさるかも知れません。そして「私はあなたを決して知らない。」と言われるかも知れません。私たちは、今日の本文を通して、どのように神を知り、理解しているのかを顧みるべきでしょう。私たちは、神を知っていますか?そうであれば、私たちの生き方は、どのような方向に進むべきでしょうか? 締め括り 「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか、わたしの庭を踏み荒らす者よ。洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」旧約のイスラエルの民は、神への誤った理解を持っていました。異邦の偶像のように、ただ多くの供物と祭礼を捧げれば、神が祝福してくださるだろうと思ったのです。しかし、神は、ご自分の民が生け贄を捧げるより、神の民らしく生きることをお望みになりました。頭の知識だけで、従順に聞き従う行為なしに生きることは、神の御前に大きな罪になります。私たちの生活の中で必ず、神への知識に相応する実践が必要です。確かに私達の救いはイエスの御救いにかかっています。ひとえにイエスへの信仰だけが我々を救いに導きます。しかし、善い行いを無視して、救いだけを追い求めて生きているのなら、私たちは自分の信仰が正しいかどうか省みるべきだと思います。イエスをまともに知っている者は、神を愛され、隣人を愛されたイエスに倣って生きようとする意志を持って生きるからです。人は誰でも天使のようにも、悪魔のようにもなることができます。神を知る正しい知識を持って、キリストの民として神と隣人を愛し、キリスト者らしい人生を生きていきましょう。神の祝福は、このような知識の実践のある生活にあるからです。

神のお召し。

創世記11章27節-12章9節 (旧15頁) 使徒言行録7章2-5節(新224頁) 前置き 私たちは、これまでの創世記の説教を通して、神の完全無欠な創造、人間の堕落、堕落後の人間の歩みについて学びました。それを通して、私たちが明確に分かるようになったのは、人間に明らかに罪の問題があるということ、神が人間を愛し、その人間の罪を解決することを望んでおられるということでした。そのような神の人間への愛は創世記12章のアブラハムの登場により、具体的に成し始められました。私たちは聖書で読む語句の中でしばしば「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉を目にします。特にアブラハムの孫であるヤコブが神と出会った後に、神はその名を変えてくださいましたが、まさにイスラエルという名前でした。そして新約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの精神を継承した共同体が、キリストの体なる教会であると証言しています。神はアブラハムをご自分の民として召され、以降モーセを通して民が追求すべき精神である律法と、イエスによる全人類を救う福音を与えてくださいました。神は、その律法と福音の中で、神が選ばれた民を教会と、お名づけくださいました。したがって、今日、私たちが取り上げるアブラハムの物語は、アブラハムという一人の人間の話ではなく、教会の話です。アブラハムに与えられた召しを通じ、私たちに託された召しとは何かについて、考えてみる時間になることを願います。 1.正しくない者をお召しくださる神様。 本格的に聖書の内容を取り上げる前に、テラとアブラハムが登場する昔話を分かち合いたいと思います。まずはヨベル書というユダヤ教の古代文献に出てきた話です。 「カルデヤのウルに父テラと一緒に木造偶像を作っていたアブラハムが父に質問しました。お父さん、木で作られた偶像は、息も命も無いのに、なぜ人々はそれに拝むんですか?するとテラが答えました。息子よ、私も知っている。しかし、我々が、この偶像が偽神だと言ったら、私たちは、この偶像を崇拝する者たちに狙われて殺されるだろう。だから知らないふりをしなさい。」次は、ミドラーシュというユダヤ教のモーセ五書の解説書に出てくる話です。 「父と偶像の商売をしているアブラハムは、命もない偶像を崇拝する人々を、全く理解することができませんでした。ある日、アブラハムは作業室の木の棒を持って小さい偶像をすべて叩き壊しました。そして、一番大きい偶像の手の上に、その木の棒を置きました。しばらくして、テラが戻って来た時、作業室はぐちゃぐちゃになっていました。それで、テラはアブラハムに問い詰めました。何だ!これ!お前の仕業か!するとアブラハムは言います。一番大きい偶像が小さい偶像らを妬んで、叩き潰しました。するとテラは真っ赤になった顔で叱りました。馬鹿野郎!とんでもないことを言うな。生きてもいない偶像が、これらを倒せるもんか!馬鹿にするな!」 ユダヤ人は、自分たちの先祖アブラハムが正しい人だと思いました。ヨベル書とミドラーシュの物語には、そのようなユダヤ人の心が込められていたのです。しかし、聖書のどこにも、アブラハムが自ら正しかったので、神に召されたという話はありません。むしろ、何の正しさもなかったアブラハムが、自分自身ではなく、ひとえに神を信じ込んだので、神に義と認められたと証ししています。結局、アブラハムも罪を持っている罪人に過ぎなかったということでしょう。アブラハムが住んでいたウルはメソポタミア文明の中心地のような町でした。ウルは多くの神​​々を信じる多神教社会であり、アブラハムはそこで偶像を作る偶像崇拝者だったのです。つまり、彼は自分自身が神を訪れて行ったわけではなく、神が彼にお訪れになり、選ばれて、神の民にしてくださったわけです。神はこのように、義のない者に義をお与えになり、ご自分で保証してくださる方です。そして、新約聖書の時代には、その役割がキリストに受け継がれました。クリスチャンは正しいから救われた存在ではありません。誰かを憎んだり、悪い心を持ったりします。しかし、神は信徒の行為ではなく、キリストのお執り成しを介して、ご自分の民をお受け入れくださいます。だから、神のお召しは、主イエスによる、無償の贈り物であることを忘れてはなりません。 2.主の民を、お先に知っておられる神様。 創世記には、神がアブラハムを「ハラン」から呼び出されたと記されています。聖書によると、ハランはアブラハムの死んだ兄弟の名前だったと言われます。テラの家族はウルに住んでいたが、なぜ当時の文明と文化の中心地であったウルを離れて、ハランに移ったのでしょうか?息子ハランの死を悲しんでいたテラが痛い記憶を振るい落とすために引っ越ししたわけでしょうか?あるいは、神がウルで、その家族に現れて、移住を命じられたのでしょうか?使徒言行録の7章でステファノの説教では、このように取り上げられています。 「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行けと言われました。」ステファノはテラの家族の移住が神のお召しによるものだというニュアンスで話しました。ところがこのように見れば、創世記と使徒言行録の言葉に矛盾が生じるということが分かります。神がアブラハムをお召し出しになった場所が、創世記ではハランであり、使徒言行録ではウルであるからです。一体、神がアブラハムをお召しになった、正確な場所はどこなのでしょうか? 様々な解釈があるでしょうが、確かなことは、神はアブラハムがウルにいる時から、すでに彼をお選びになったということです。ひょっとしたら、アブラハムはウルで神に出会ったかも知れないし、あるいは、後にハランで出会った可能性もあります。しかし、明らかことは、アブラハムが神に出会う前に、神はすでにアブラハムを知っておられ、選んでくださったということです。おそらくステファノは、すでにお選びになった、その神の偉大さを示すために、ウルでアブラハムに現れたと言ったのかもしれません。聖書外的な話ですが、アブラハムが生きていた時代と推定されている、紀元前2000年ごろ、ウルには、強力な王国があったと言われます。人々はそれをウル第3王朝と呼びます。ところで、このウル第3王朝は、強力な国だったにも拘わらず、その歴史は100年強にしか至らかったと知られています。考古学者たちが、その理由を知るために研究をした結果、当時ウルの地層から強い塩分が発見されたそうです。数千年の農業の故に、土地が荒れてしまい、塩分が多くなって農業が難しくなり、それによって飢饉が生じたわけです。おそらくウル第3王朝は、そのような飢饉による国力の低下と異民族の侵略によって滅びてしまったかも知れません。その頃、全人口の4割くらいが故郷を捨てて、ハランなどの新しい場所に移っていったそうです。日本の状況に言い替えれば、割合的に九州地方の4倍の人口が他国に行ってしまったという意味です。 私たちは、テラの家族が、なぜウルを離れてしまったのか、なぜハランに定着したのか詳しくは知ることができません。上記のような歴史的な理由か、本当に神が現れて導かれたからか、聖書だけでは分かりません。しかし、重要な事実は、飢饉と移住、神のお召しを問わず、そのすべてが神のご計画の中にあったということです。神はすでにアダムとセト、ノア、セムを通じてアブラハムの人生をきちんきちんと準備なさいました。そして創世記12章に至って、最終的に神は彼の人生に介入なさいました。アブラハムは神を知りませんでしたが、神はこの世界の創造、人間の堕落、人類の興亡盛衰の中で、アブラハムという存在の登場を備えておられたのです。神のご計画は、私たちの考えとは全く異なる方法で近づいてきます。私たちが神を知るにも前に、神は、すでに私たちのことを知っておられ、私たちと出会う日を待ち望んでくださり、私たちに訪れて来られたのです。日本の1億3000万人の中で、たった1人である私に来てくださったわけです。それぞれ生きてきた人生も、記憶と経験も異なりますが、神は私たちの苦難の中と、喜びの中で、私たちとの出会いを準備なさり、神がお定めになった時に、私たちに来てくださいました。神は、私たちが生まれる前から私たちを知っておられました。その神が御子の血を通して、私たちを救い、お召しくださったのです。それだけにあなたは神にとって大切な存在なのです。 3.神に召された者たちの在り方。 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」神はアブラハムが祝福の源になると言われました。しかし、彼は長い間祝福どころか、心配の中で生きなければなりませんでした。神の計画により、召されたアブラハムでしたが、彼は後を継ぐ子供もなく、老いていく一方でした。彼は故郷のウルを離れなければならない困難を経験し、ハランでも辛うじて落ち着いたようなものでした。しかし、神は彼に現われて、自分のすべてを捨てて、神に従いなさいと命じられました。しかし、その結果は絶え間ない苦難の連続でした。神に付き従うということは、ただ幸せになるだけの道ではありません。 ローマ時代には「皇帝が上か、キリストが上か」という質問によって、16世紀の日本では踏み絵を拒否したというわけで、また植民地信徒たちの中には、主イエスを唱えて特高によって拷問を受け、死んだ人もいました。共産主義者たちがイエスを信じる人を残酷に銃殺した場合もあり、今も中東では、福音のためにイスラムの原理主義者たちに殺されるクリスチャンも存在しています。 ヘブライ書には、このような言葉があるほどです。 「彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。」(ヘブライ11 )数多くの聖書の人物たちは、もし神を知らなかったら経験しなくても構わない苦難を、神の民であった故に経験して生きました。それにもかかわらず、神は常に神の民を召しておられます。なぜならば、神はその民を通して、この世界に祝福をもたらされる方だからです。神はアブラハムがまだ神を知らなかった時から、彼を選ばれ、彼が世のための祝福の源となるように導いてくださいました。そして、その結果は、キリストの到来に繋がりました。神様が私たちを召される理由も、私たちを通して、祝福をくださるためです。私たちの口と生活を通して伝わる、主の福音を通して救われる者をお召しになるためです。ですから、私たちが神に召された者であれば、私たち自身がそれを認めて頷くことができれば、どのような苦難と迫害があっても、打ち勝つ強力な信仰を持って生きるべきです。そのような生き方に、神はきっと避ける道をくださり、満ち溢れた祝福をくださるでしょう。 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:24-26)キリストは、主のその苦難をご自分の栄光になさいました。そして、主イエスは、苦難の十字架を栄光の十字架に変えられました。皆さん、今日は、少し心が重くなる説教をしました。しかし、「苦難なくして、栄光は果たせない。」という言葉もあるでしょう。私たちが、この世を生きていきながら、幸せと喜びだけを追い求める信仰生活をするなら、神が望んでおられる福音の前進は成し遂げられないでしょう。私たちの全生涯が苦難のみに満たされてはいけないでしょうが、それでも、私たちを召された父なる神、私たちを救われた主イエス・キリスト、私たちを導かれる聖霊と共に歩んで、他人に福音を伝える者として苦難を恐れず、生きて行きましょう。神の召しは苦難と栄光の二つの顔を持って来ます。そのような召しに忠実に適う時に、神は「忠実な良い僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ。」と褒めてくださると信じます。

初めであり、終わりである神様。

イザヤ書40章27-31節 (旧1125頁)ヨハネの黙示録22章12-13節(新479頁) 前置き 明けましておめでとうございます。いよいよ2021年の新しい年が明けました。今年も神の恵みの中で平和と喜びに満ちた一年になることを祈ります。皆さんは、今年、どのような願いを持っておられますが?私はコロナ禍が終結することに加えて、志免教会を通して働かれる神の御手を、皆さんと一緒に見ることを願います。その御手による御業が何なのかについては、今、私が詳細に言うのは難しいと思います。神がどのようなことをなさるかは、私も知ることが出来ないからです。ただし、私個人の願いは、どうか志免教会の周りの隣人が教会に向かって、心の扉をいっそう大きく開くこと、そして、皆さんのご家族の神を知らない方々、神との関係が遠ざかっている方々が、神の御前に来ることを通して、神が私たちの間に働いておられることを発見したいと思います。もちろん、そうでなくとも、神はすべての物事の主でいらっしゃり、ほめたたえられるべき神様です。しかし、少なくとも、これらの願いを持って、新しい一年を祈りを持って生きていきたいと思います。 2021年は、神の偉大さが志免教会の歩みの中で、そして、皆さんの生活の中で、明かるく輝くことを望みます。 1.初めであり、終わりである神様。 皆さんはヨハネの黙示録を好んでお読みになりますか?黙示録はかなり難しい本でしょう?黙示録は、その内容が難解で意味も不明確な部分が多くあるため、神学を専攻した人々にも、難しい聖書だと言われています。しかし、この難しい黙示録も、割と明確にテーマを持っています。私はそれが、まさに今日の新約本文の語句だと思います。 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(12-13)黙示録が、非常に難しい聖書であることは明らかですが、黙示録は、私たちの主であるイエスが、この世界を治めておられることと、いつの日か、この世界をことごとく御裁きになることと、それまで信仰を堅く守る者に報いてくださることについては、明確に語っています。」そういうわけで、黙示録の冒頭と末尾に「 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉が出て来るのです。これはキリストがすべての物事の主でいらっしゃることを強調するわけです。神は、最初から最後までを司られる方です。神によって、この世界が造られ、神によって私たちが生まれ、神によって私たちは、この教会堂に集って、すべての初めであり、終わりである神様を礼拝することが出来るのです。 先週の説教で、私は永遠という言葉についてお話しました。キリスト教にとって永遠とは、「神が最初から最後まで、全てを司ること。」であり、永遠の命とは、その「すべてを司る神と共に歩み、生きていくこと」だと話しました。今日の本文の「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉も、この永遠と深い関係を持っているのです。神様が最初から最後までの全てのことを司られ、すべてのものを治める永遠の御方でおられること、その方がお遣わしになったキリストが、その支配を自らなさっておられることを黙示録は力強く告白しているのです。過ぎし1年を振り返ってみると、全世界でコロナによって180万人が亡くなりました。米国と中国、日本と韓国が対立しました。北朝鮮は相変わらず、核兵器で世界を脅かしています。私たち人間の生活の中で、昨年の様々な問題は、命が脅かされるほどの恐ろしいことでした。いくら強力な権力者であっても、戦争と疫病の猛威の前では、手が付けられないからです。しかし、この全ての出来事はアルファであり、オメガである神様のご計画の中の、ほんの微かなことにすぎません。もちろん、戦争や疫病で人が死ぬことを神のご計画だとは言えないでしょう。もし、神が無分別な死をあおぎ立てる方であれば、彼はすでに神ではなく、悪魔であるでしょう。 すべてが神のご計画の中にあるということは、神が、この混乱した世界の中でも、神の御心に基づいて、世界を正しく導いていかれるという意味です。創造の時、初めの人間が犯した罪の結果は、この世の中に混乱をもたらすことでした。神が初めに造られた完全な世界は、人間の罪によって崩されました。対立も、戦争も、疫病も、そのような人間の罪の故に生まれた悪の副産物なのです。しかし、神はそのような混沌の世界の中でも、相変わらず、キリストを通して慰めと救いとを与えてくださる方です。 「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(Ⅱペトロ3:8)現在、私たちの人生の中で起こる、すべての危機は、人間のみに適用されるものです。神様の立場においては、この世界の千年が、私たちがお茶を分かち合うほどの短い時間にすぎないかも知れません。つまり、この地の危機が神の危機になることは有り得ないということです。神は、その危機よりも大きい方であるからです。むしろ、神にとって、そのような微かな危機の中でも、人間をお覚えくださり、愛してくださる主の偉大さに感謝したいと思います。神がお造りになった、この世界が罪と悪の故に混乱しているけれども、神はいつか、この罪と悪を終わらせられることでしょう。その神を堅く信じ、世の危機に怯えず、神の偉大さに畏れおののく私たちになることを望みます。初めであり、終わりである神様が、この一年も私たちと共におられることを願います。 2.慰めと力を与えてくださる神様。 神は慰めてくださる方です。ヨハネの黙示録の審判者、神様は、神を憎み、逆らう者らに向かって裁きを下される方です。しかし、神を愛し、主の子供として生きようとする者には、喜んで父になってくださる方です。皆さんにとって父という存在は、どのような記憶として残っていますか?私は10歳になるまで、父がいませんでした。私が生まれる前に父は船舶事故によって亡くなったからです。そんななか10歳の冬ごろに、母の再婚を控え、今の父に出会いました。背が高く、声も太く、心が暖かいおじさんが、生まれてから一度も父がいなかった私に、父となってくれました。父がいなかったので、友達の前で父の話を持ち出すことが出来なかった私が、自然に父の話を持ち出すことになりました。それ以来30年間、私の父は私の一人だけの父となったのです。神もそのような方です。過去、肉体の父がどのような人であったかとは関係なく、父なる神様は、完全な愛と慰めと救いの父になってくださる方です。神がキリストを通して私たちをご自分の子供として召された理由は、私たちが天の父なる神様から愛と慰めと救いをいただくためだったのです。 今日の旧約本文は、神を捨て去って、罪と悪の道に進んでいたイスラエルの民が、神の御裁きを受け、バビロンの捕囚として連行された後、神によって解放され、故郷に帰ってくる時、記された慰めの言葉です。 70年間バビロンとペルシャの捕囚として生きてきて、神様が自分たちを憎んでおられると誤解していたイスラエルの民に、神は、愛の神であり、慰める方であり、力をくださる父であることを知らせるためにこの言葉が与えられたわけです。 「ヤコブよ、なぜ言うのか?イスラエルよ、なぜ断言するのか?わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。」(イザヤ40:27)神様がご自分の民に罰を与えられる理由は、彼らを滅ぼすためではありませんでした。神は、主の民が間違った道に行くときに、懲らしめを下されて、神に帰ってくるようになさる方です。親が愛する子供に戒めを与えるように、先生が大切に思う学生に罰を与えるように、神の民に与えられる苦難は、神の御裁きではなく、愛の懲らしめであるのです。神はご自分の民が幸せと喜びを持って、世を生きて行くことを願っておられる方です。しかし、幸せと喜びを口実に我が儘に生きることは望んでおられません。神はその民が信仰を堅く守り、隣人への愛を持って、主と一緒に同行する生活の中で真の幸せと喜びを見つけることを願っておられる方なのです。そのような生活を促すために、神は私たち、信徒に苦難を与えられるのです。 きっと2021年度も、コロナ禍は完全には終息しないと思います。一部の人々は、神が世界を御裁きになるために、コロナを下されたと言うでしょう。しかし、神が神の被造物である人類を呪われるためにコロナをくださったわけではないでしょう。神はこのような困難な状況を通して、人類が自ら反省し、顧みるためにコロナを与えられたかも知れません。教会も同様です。様々な困難な状況に直面している場合でも、神は私達を厳しく叱られるためではなく、私たち自身に悔い改めを促され、神様を仰ぎ見させるために困難な状況を許しておられるのだろうと信じています。神は今日も主の民を慰めてくださる方です。神は私たちを愛しておられる慰めの神様だからです。 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(28-31) 締め括り イスラエル王国があったパレスチナ地域には、イヌワシという大きい種のワシが生息していると言われます。翼を伸ばすと、2メートルに達し、体重も7キロに達するほどの大きい鷲です。この7キロもなるイヌワシが空に飛んで上がるためには、自分の翼の筋肉だけでは無理なようです。そのため、イヌワシは風を利用して空に飛んで上がるそうです。今日の旧約本文の言葉も、それに関連があると思います。神はワシを飛び上がらせる風のように、その民に力を与えてくださる方です。アルファとオメガ、初めと終わりであられる神様は、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる方でいらっしゃいます。今年もこの神様に依り頼んで、一日一日を生きていく私たちになることを願います。私たちの目の前に暗闇と障壁が遮っていても、神様が与えられる聖霊の風に私たちの全てを委ね力強く生きていく志免教会になることを望みます。イエス・キリストを中心に一つになって、神と隣人を愛し、お互いのために祈り合い、慰め合う生き生きとした志免教会になってまいりましょう。主が喜びを持って、この一年も私たちと一緒に歩んでくださるでしょう。

私の神、私の盾。

詩編18編 2-4節 (旧847頁) ヨハネによる福音書17章3節(新202頁) 前置き。 もう、今年の最後の礼拝が持たれるようになりました。今年の初めに、過去一年を守ってくださり、新しい一年を導いてくださる神様に感謝する礼拝を捧げましたが、あっという間に一年が経ち、また、年末の礼拝をささげるようになりました。今年も本当に多くの出来事がありました。今年は特に、「コロナで始まり、コロナで終わる。」と言っても過言ではないほどの一年だったと思います。コロナによって4月には、一ヶ月くらい礼拝を休止しなければならない時もあり、伝道礼拝も先送りに先送りを重ねてクリスマスになって、やっと守ることが出来ました。イエス・キリストの体なる教会であることを告白する聖餐も、一緒にお交わりするマナの会も、無期限に延ばされるようになりました。しかし、それにも拘わらず、やむを得ない事情のある方を除いては、皆で礼拝を守ることが許され、特に、昨年のように韓国からの訪問者がいなかったにも関わらず、礼拝への出席者の数が全く変わりませんでした。日本のキリスト教会内外の他の教会の礼拝出席者が大幅に減少したことに比べれば、志免教会はコロナによる打撃がほとんど無かったとも言えるでしょう。他の教会の出席者が減じたのは、本当に心痛むことですが、外国人宣教師に変わり、お互いの心を分かち合い、慣れていく時間の中にあって、このように無事に一年が経っていくのを見て、感謝しないわけにはいきません。来年はコロナが静まり、安定を取り戻して、いっそう神への感謝と礼拝を持って生きる私たちになることを願います。 1.イエス – 私の神、私の盾。 そういう意味で、今日は、私たちを守ってくださる神様、そしてイエス・キリストについて話してみたいと思います。 「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔、ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。」(詩篇18:2-4)この詩編は、ダビデが歌った感謝の賛美詩として知られています。この詩編の言葉は、ダビデの晩年を取り上げているサムエル記下の22章でも、ほぼ同様の内容で、出てきています。サミュエル記上下を通して、ダビデの人生を最初から最後まで説き明かしたサムエル記は、ほぼ最後の部分で、ダビデが歌ったと言われる、この賛美を持って、ダビデが神様の御前で、どのような心構えを持って生きて来た人なのか、また、神に、如何に愛を受けた人なのか、まとめているのです。以降、この賛美詩は、エルサレムの神殿で、神に礼拝する時に歌う賛美になったと言われます。この賛美詩は、神に愛されたダビデ、すなわち神の人を守ってくださり、導いてくださった神様に感謝を捧げる、感謝の賛美なのです。 イエス・キリストの先祖ダビデは、イスラエル民族の歴史上、最も偉大な王でした。彼はイスラエルの歴史の中で、最も広い領土を征服した人であり、イスラエルの名を高めた人であり、多くの手下を率いていた人でした。しかし、彼が神に偉大な王と認められた理由は、広い土地を征服したからではなく、優れた政治力によるわけでもなく、彼の人柄が素晴らしかったからでもありません。新約聖書の使徒言行録はダビデという人について、こう証ししています。 「わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。(未来形)」(行13:22)ダビデが偉大な王として認められた理由は、たった一つ、神が彼を愛され、お受入れになったからです。彼がまだ王になる前に、敵に脅(おど)される前に、何の影響力も無かった時に、神はすでに彼を選ばれ、彼のことを喜ばれました。神はダビデの行為を御覧になって、喜ばれたわけではなく、その人のありのままを御覧になり、特に神への彼の信仰を御覧になって喜ばれたわけです。 過去1年間、私たちは礼拝を休んだこともあり、聖餐を守ることが出来ず、コロナによって積極的な伝道を行なうことも出来ませんでした。もし教会が会社だったら、良い実績を出したとは言えないでしょう。しかし、主は、私たちの行為と結果に基づいて、私たちを愛しておられる方ではありません。ダビデが何者でもない時に、神がダビデのことを喜ばれたように、私たちが何も出来ない時にも、神は私たちを愛してくださいます。なぜなら、私たちはキリストの体なる教会として、神に愛されている存在だからです。神は私たちの素晴らしい行為や結果だけを求める御方ではありません。神は私たちの頭でいらっしゃるキリストをご覧になる御方なのです。そして、そのキリストにある私たちの信仰を御覧になり、私たちを喜びを持って愛してくださるのです。私たちは、その主イエスによって、移り変わりの無い愛の中で、ここ1年を生きてきました。神の御前で私たちを愛される者としてくださるキリストに感謝する今年の最後の礼拝になることを願います。主イエス・キリストは、私たちの神、私たちの盾、私たちの岩、私たちの救いの角であり。私たちの砦の塔であられます。そのようなイエスに感謝し、今年を終え、来年を始める私たちになることを望みます。 2.救ってくださるイエス・キリスト。 今年の主題聖句は、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)でした。それだけに、今年の説教で最も強調したかった存在は、イエス・キリストだったのです。しかし、この言葉の冒頭に出てくる、永遠の命という言葉も強調したい表現です。皆さん、永遠の命とは、果たして何でしょうか?今年、筑紫野教会での水曜祈祷会の説教の後、ある方が私に聞いて来られました。 「先生、永遠とは果たして何ですか?神と共に住むのは良いと思いますが、永遠なら、長すぎで退屈になるのではないでしょうか?」もちろん、その方の冗談半分の話だったと思いますが、私は、その質問を聞いて、信徒の皆さんが永遠という概念について、誤解しておられるかも知れないと思いました。人は永遠という言葉について、「無限の時間」だと、漠然と思いがちだと思います。しかし、西洋の哲学では、無限の時間を生きることを、「永遠の命」と呼ばず、「不滅」と呼びます。哲学者たちは「永遠とは時間の外に存在する概念」だと信じていました。つまり、永遠とは、時間とは関係なく、「最初から最後まで、その中のすべての物事」と思った方が望ましいと思います。キリスト教的に言えば、永遠とは、「世界をお造りになった神が、また世界を御裁きになる、その終わりの日まで、神のご計画の中で、司られている全ての物事を意味する概念」です。したがって、永遠の始まりと終わりは神様だけが知っておられ、人間はあえて触れることができない、計り知れないレベルの概念です。だから、神様が永遠の命を与えてくださるということは、単に長い時間を生きるという意味ではなく、神ご自身の計画の中で、最初から最後まで、私たちを導き、私たちの生の全てに責任を負ってくださるという意味です。 キリスト教は、その名称の通り、イエス・キリストを中心とする教会です。私たちの信仰、生活、すべてがキリストを中心に行われる宗教であるのです。しかし、キリスト教は宗教というには、あまりにも、私たちの生活と密接な関係を持ちます。過去、私の祖母は、いくつかの宗教で信仰生活をしました。日本から来た天理教、韓国の仏教、後は台湾から来た、仏教、道教、キリスト教のように、複数の宗教がミックスされた宗教をも信じました。そうするうちに、母の絶え間ない伝道によって70歳の頃に、イエスに出会い、本当に神を信じるようになりました。それ以前の宗教は、優れた教えを持ってはいましたが、宗教の対象と信徒の現実の生活との接点がありませんでした。お経を唱え、宗教行為を行い、宗教の教義を勉強しましたが、その中心的な内容は、「自分の努力の有無によって、人に生まれ変わるか、極楽に入るか、超越者になる。」という教えでした。その宗教には全能の神がご自分の民の生に責任を負うという概念がありませんでした。つまり、永遠の命が無かったということです。超越者と信徒との間に接点がない、別々の宗教だったのです。しかし、キリスト教は超越者が信者の生活に介入して、彼らの人生に責任を負います。それこそがキリスト教と他宗教との異なる点なのです。したがって、キリスト教は宗教というよりは、人生、生活そのものに、より近いものです。 キリスト教は信仰の対象である神様が、信徒の生活に入って来られ、共に歩んで行かれる、まるで親と子、先生と学生、友人と友人のような関係で、私たちと一緒に生きて行かれる宗教です。イエス・キリストは、単に私たちを天国に導くための、何の感情も、人格もない全能者だけに止まる神ではなく、私たちの喜怒哀楽を分かち合い、人生の旅を一緒に歩んでくださる、誰よりも人格的な存在なのです。キリスト教が語る真の救いとは、そのようなことです。キリスト教で語られる天国は、救いの結果ではなく、救われた者に与えられる救いの旅のご褒美なのです。私たちの真の救いは、まさにこのキリストを通して、神の子として認められたものであり、神の中で神と共に喜怒哀楽の世界を生きていくこと、そのものなのです。つまり、イエスによる神との歩みが、まさに私たちの救いです。そういう意味で、私たちは、すでに救いと天国の中にいる存在なのです。今日の旧約本文の言葉も、そのような文脈で理解すべきものだと思います。神は、まるで盾、砦の塔、岩のように、主がお選びになった民らのことに責任を負ってくださり、彼らを守ってくださり、愛してくださる方です。その神様は、ご自分の民が帰ってくることが出来る道として、私たちに、イエス・キリストを送ってくださいました。その神様は、いろいろ大変なことが多かった今年も自分の民である志免教会を放って置かれず、愛を持って歩みを共にしてくださったのです。 締め括り 来年も、神と共に愛と平和とを持って歩んでいく志免教会であることを望みます。教会員同士の関係が一層深まり、教会員のご家族の間にも平和が満ち溢れ、教会の近所の人々にも、志免教会は平和の場所、親切な所、美しい所という印象が残ることを願います。なぜなら、私たちの教会は、人の力によって成り立つ場所じゃなくて、ひとえに神様の御導きによって成り立つ主の共同体だからです。主が私たちを愛し、私たちと一緒におられることに慰められ、これからも神の喜び、隣人の喜びになる、私達志免教会になることを願います。2021年度も、主の恵みと愛に満ちた教会、そして教会員の生活になることを祈り願います。