異邦のための宣教。

イザヤ書61章1-4節(旧1162頁)       マルコによる福音書5章1-20節(新69頁) 前置き イエスはマルコ福音書1章で弟子たちをお呼び出しになった後、ガリラヤのカファルナウムという村にて本格的にお働きを始められました。イエスはガリラヤ全域からご自身を訪ねてくる、あらゆる哀れな民を拒絶なさらず、彼らを癒し、教え、宣教してくださいました。身と心をお尽くしになったイエスの御業を通して、ガリラヤの哀れな民は癒しと慰め、そして自由を得、自分たちを変わらず愛してくださる神を発見しました。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ8:23後‐9:1)旧約のイザヤ書は、このように罪によって神に見捨てられ、辱めを受けるガリラヤ(旧約時代のゼブルンとナフタリ族の地。)の哀れな民たちが、真の栄光を受けるだろうと予言しています。主がエルサレムの指導者やローマの支配者ではなく、このガリラヤ地域に先に臨まれ、貧しい民からお訪ねになった理由は、まさに、このような旧約の予言がイエスによって成就されていることを示してくださるためでした。貧しいガリラヤの民は、まるで異邦人のような扱いと差別の中に生きてきました。しかし、主は彼らに一番先に仕えてくださることで、差別なく人間を愛することを示してくださったのです。そして主のその愛は、本日の言葉を通して本当の異邦にまで広がり始めます。 1.宣教とは何か? まずは宣教について話してみましょう。日本最初のキリスト教宣教師はスペインのカトリック教会の司祭であったフランシスコ·ザビエルでした。彼はこんにちのマレーシアで偶然出会った弥次郎という日本人から日本について聞き、1549年に鹿児島に上陸し、日本での宣教を始めました。その後、戦国時代が終わり、江戸幕府が立つと、日本のカトリック教会は激しい迫害を受けて、ほとんど無くなりましたが、残された者たちはカクレキリシタンという名で、その命脈を保ちました。最初のキリスト教宣教師ザビエルの上陸から約300年後、1858年の日米修好通商条約によって日本は開港し、その翌年からアメリカからの宣教師たちが日本に上陸することになりました。それから日本でのプロテスタント教会の宣教が始まり、今に至っています。カトリックのザビエル、プロテスタントの宣教師たち、彼らは出身地も、所属教派も、時代も異なりましたが、そのすべてを超える共通の教えを持っていました。それは「イエス·キリストは救い主である。」という唯一無二の神の福音でした。ところで、新約聖書はいろいろな箇所で、このような福音を伝える行為を「ケリュソ」というギリシャ語で表現しています。「ケリュソ」には、「王のご命令を公布する。」という意味があり、創り主でいらっしゃる神の厳重なご命令を世に宣べ伝えるという、強力な神の権威を含む表現です。 私は前のマルコ福音説教でイエスが、この地上に来られ、おもに行われた御業が「癒し、教え、宣教」の三つだったと申し上げました。主は神の厳重なご命令に聞き従い、癒しと教えと宣教を通して哀れな民を神に導いてくださいましたが、まさにそれが「ケリュソ(宣教)」だったのです。ここで重要なことは癒しと教えと宣教が、それぞれ別のものではなく、そのすべてが一つになって宣教を成すということです。宣教とは、神の厳重なご命令を宣べ伝える行為です。「イエス・キリストは救い主である。」という創り主、神の最も重要な御言葉を信者の口の言葉と生活での実践を通して、世に宣べ伝える行為なのです。イエスは御言葉だけを宣べ伝えた方ではありません。民の癒しのために眠れず、福音の教えのために食事も忘れ、宣教のために十字架に自らを犠牲になられた方です。主は神のご命令に従い、民の救いを成し遂げられるために身と心とを進んで捧げられた方なのです。そういう意味で、イエスは真の最初の宣教師でした。そして復活されたイエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マ28:18-20)という新しい命令を下されることで、「ケリュソ(宣教)」の務めを私たち教会にもお委ねになってくださいました。したがって、我々は自分が宣教師であることを自覚し、隣人に仕え、福音を伝える人生を生きるべきです。ザビエルと明治時代の宣教師たちだけが宣教師ではなく、私たち皆が共通の福音にあずかっている主に遣わされた宣教師であることを忘れてはなりません。 2.悪霊に取り付かれた者を癒されるイエス。 「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 2イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。」(1-2)ガリラヤでの宣教に一段落つけられたイエスは、湖の向こう岸のゲラサ人の地域に足を運ばれました。主はそこで悪霊に取り付かれたある人に出会われました。マルコ福音書1章でイエスが初めてガリラヤでの御業に取り掛かられた時、主は会堂にいた悪霊に取り付かれた人を一番先に直してくださいました。ところで、湖の向こう岸でも一番先に悪霊に取り付かれた人と出会われたというわけです。これは偶然の一致でしょうか? 「悪霊に取り付かれた。」という表現は、単に「ある人が悪霊の故に狂ってしまった。」という個人的な事項だけの意味ではありません。確かにその人は、実際に悪霊に取り付かれ、苦しんでいたはずでしょう。ですが、マルコ福音書は彼のことを通じて両義的に当時の異常な状況を私たちに教えているのです。イエスが到着された場所が神の正しい統治ではなく、悪霊に表現される邪悪な世の支配の下にあるという、当時の社会的な状況を示しているのです。正義と愛ではなく、不正と憎しみが溢れる病んでいる社会を表現することです。つまり、ガリラヤ全域と国境地域が、このような状況下にあったことを表しているのです。したがって、イエスが悪霊を追い払われたということは、神の統治のない場所に神の統治をもたらす、イエスの霊的な癒しを意味する表現しています。救い主イエスのおいでになる場所では不正がなくなり、膨大な罪の影響が力を失うからです。 「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。イエスが、汚れた霊、この人から出て行けと言われたからである。」(6-8)まるで悪霊に取り付かれたような、この世はイエス・キリストの権能によってのみ癒されるものです。世界を支配している悪は、主の権威の下では、如何なる反抗もできません。私たちはこれをはっきりと認識するべきです。世の巨大な悪に跪くことなく、主がそれより、はるかに大きな方であり、十分にこの世の悪を裁かれる方であることを信じなければなりません。「そこで、イエスが、名は何というのかとお尋ねになると、名はレギオン。大勢だからと言った。」(9) 悪霊に取り付かれた者に付いていた汚れた霊は軍団を意味するレギオンという名の存在でした。当時のローマ軍の一つの軍団が約6000人だったことに照らすと、その人を苦しめていた悪霊が如何に強かったのかが分かります。主イエスは一言でこの悪霊どもを豚の大群に送り込んで裁かれました。ユダヤ教の代表的な不正な獣の一つであった豚に、悪霊が追い出されたことから、この世を支配する悪の勢力の性質がはっきり示されます。このように主は御言葉を持って強力な悪を裁かれ、悪霊に取り付かれた哀れな者を救ってくださることで、異邦への宣教をお始めになりました。 3.疎外される者への主の宣教。 ゲラサ人の地方は当時のイスラエルとデカポリスの国境地域でした。デカとは10、ポリスとは町を意味しており、ローマ以前のギリシャ帝国時代に建てられたイスラエルの東側の10の町のことでした。ゲラサはその一つの町だったそうです。当時のイスラエル民族は徹底した民族主義を唱え、異邦人を否定的に考えていました。ユダヤ人のある記録によると、異邦人は「神に裁かれるべき地獄の焚き物」と思われていたそうです。このように、ゲラサ地域はユダヤ人に嫌がれる所でした。しかし、主はそこを素通りされずお訪ねになったのです。神は最も疎外される所、最も不正な所を決して見落とされる方ではありません。そんな所こそ、主の愛と癒しを最も切実に必要とする所だからです。極東の島国、地の果てにあった日本に、主の御言葉を持ってきたザビエル、厳しい鎖国の江戸時代を経て、何とかキリストの福音を持ってきた宣教師たち、主はご自分の僕たちを通して、この国に福音を届けてくださいました。しかし、相変わらず日本は福音が必要な国です。日本に来た最初宣教師から500年経っています。プロテスタントの伝道開始から160年経っています。ですが、日本の福音率はごくわずかで、悪の支配は相変わらず健在です。しかし、神様は移り変わりなく、この日本という国を愛しておられます。 数日前、コロナに感染したある妊婦が入院できず、自宅出産のあげく、子どもを亡くした事件がありました。数多くの市民たちが病床がなくて自宅で療養中だそうです。朝日、東京新聞などの比較的に進歩的なマスコミによると、政治的関係によって、無理やりにオリンピックを開催し、また、そのための緩いコロナ対策によって、日本の弱い市民たちが苦しんでいると評価していました。また、相次ぐ緊急事態宣言により、多くの自営業者たちが廃業などに苦しんでいるそうです。しかし、政治家たちは自分たちの権力のために、今でも自分たちの安全だけを考えています。これはただ日本だけの問題ではありません。アメリカ、中国、韓国、ヨーロッパなど、全世界がまるで汚れた霊に取り付かれているかのように、権力者に操られ、弱い一般市民が真っ先に苦しんでいます。神の御目は、まさにそこを向いています。彼らと共に歩むこと、彼らのために祈ること、彼らの苦しみを分かち合うこと、それが神が望んでおられる、また違う意味としての宣教ではないでしょうか?このような状況の中での教会の役目は何でしょうか。イエスはこの世を、どう考えておられるでしょうか。世の中の理不尽をじっと眺めると、この世が依然として悪霊に取り付かれていることが分かります。本当の意味での宣教、教会はそのために何をしていくべきでしょうか? 結論 私は主の身体なる教会の外にいる、すべての人が、私たちが仕えるべき異邦だと思います。日本には0.4%のキリスト教系の人口がいると言われています。プロテスタント、カトリック、異端を含めて、その程度だそうです。もしかしたら、この日本の99.9%の人口がイエス様には異邦人に見えるかもしれません。しかし、神は彼らを変わらず愛しておられ、彼らに主の福音を宣べ伝える宣教を望んでおられます。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1)旧約イザヤ書にはメシアの到来時の、その役目について予言されています。メシア主イエスはこのように良い知らせをお伝えになるために真の宣教師として来られました。そして、その役目をご自分の身体なる教会の私たちにも分け与えてくださいました。まるで汚れた霊に取り付かれているかような、この世を眺めながら、我が教会の在り方について思い巡らしていくべきだと思います。主は主の肢である教会を通して宣教をなさいます。私たちは志免教会という共同体の中で、自分だけの救いに満足しているのではないでしょうか? 私たちの助けを求めている隣人のために何が出来るだろうかという悩んでいるでしょうか?確かに私たちは小さな群れで、社会的な影響力も弱いです。しかし、だからこそ、もっと教会の外の異邦の隣人のために祈り、仕え、私たちの在り方について思い悩んでいくべきです。その中に主の宣教が始まるのです。私たち志免教会にそういう正しい悩みがありますように祈ります。