真実を見抜く目。

 サムエル記上16章1-13節(旧453頁) マルコによる福音書3章31-35節(新66頁) 前置き 人間は世界を自己中心的に認識する傾向の存在です。クイズを出してみましょう。次はどの国に関する内容でしょうか? 「ナシレマッ、プトラジャヤ、バハサ・ムラユ」 おそらく、何のことなのか全くお分かりにならないと思います。それでは、これはいかがでしょうか? 「ハンバーガー、ニューヨーク、イングリッシュ」 この言葉は多分お分かりだと思います。それではこれはいかがでしょうか? 「お寿司、大阪、日本語」一番前にお話ししたのは、マレーシアの代表的な食べ物、ナシレマッ、代表的な行政地区プトラジャヤ、そしてマレーシア語を意味するバハサ・ムラユでした。遠いし、あまり興味がないので、普通の日本人は知らない人が多いと思います。しかし、アメリカの食べ物、都市、言語の場合は日本と多少関係があるため、お分かりになるでしょう。もし寿司、大阪、日本語が分からないなら、その人は日本人ではないでしょう。このように人は自分のことを中心に物事を認識していく傾向があります。このような自己中心的な認識は人のアイデンティティを築いていく大事なものでしょうが、また、多くの偏見と限界をもたらすものでもあります。そのため、人間は世界を自己中心的に歪曲して認識したりします。人間はいつも真実とは関係ない自己中心的な受け入れ方で、すべてのことを判断するものです。今日の本文は、イエスの身内の人々がイエスをどのように認識し、誤解していたのかについて教えています。互いによく知り合っている家族という歪んだ認識のため、メシアを見損なったイエスの身内の姿。このような姿が私たちのなかには無いでしょうか。今日は真実を見抜く目について話してみたいと思います。 1.自分の認識を通してイエスを理解していた主の親族。 今日の本文には含まれていないですが、前回の説教の本文には、このような言葉がありました。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。あの男は気が変になっていると言われていたからである。」(マルコ3:21)イエスが貧しい群れを「癒し、教え、宣教している時」主は食事も碌に摂れないほど、ご多忙の状況でした。一方では主は世話をしなければならない可哀想な人々を助けられ、他方ではイエスを中傷する人々と論争をしておられました。当時、イエスに対する評価は二つに分かれていました。1つは、「イエスは神に遣わされた偉大な預言者である。」という肯定的な評価と、もう1つは、「イエスはイスラエルを乱す気狂いである。」という否定的な評価でした。多くの人がイエスに癒され、苦しみから抜け出して自由を得てイエス様を称えました。しかし、ある人たちはイエスの権威を認めず、イエスへの間違った噂を作り出しました。イエスに対する偽りの認識から脱し、信仰を持って頼んだ人々は癒しを得、イエスの本質をまともに認識するようになりましたが、イエスに対する偽りの認識を作り、イエスを信じない人々はイエスを「気が変になっている。」と歪曲してしまったのです。ところで、残念なことに、イエスの身内の人々はイエスについての良い噂ではなく、悪い噂を受け入れたということでした。なぜなら、彼らは家族という固定した視座からイエスを認識していたからです。 聖書には、こういう言葉があります。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけであると言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがお出来にならなかった。」(マルコ6:3-5)いくら、イエスが偉大な命の言葉を宣べ伝えられるといっても、イエスの故郷の人々はイエスを、ただの隣の息子、知り合い、平凡な人として受け入れました。今まで自分たちが持ってきた認識の中においてだけ、イエスのことを考えていた彼らは、神がイエスにくださったメシアという大事な役割への認識を見逃したというわけでした。そして、そのような認識を見逃がした人々に、イエスは何の奇跡も行うことが出来ませんでした。神は人の信仰をご覧になってお働きになる方ですが、歪んだ認識を持っている彼らには全く信仰がなかったからです。同じくイエスの身内の人々は、歪んだ認識による不信仰によって、イエスに与えられた本当の役割、つまりメシアとしてのイエスのことを見抜くことが出来なかったのです。 2.人は自分がすでに認識したものだけを受け入れようとする。 旧約からも認識に関する話が見られます。今日の旧約本文で、イスラエルの第一代の王であったサウルの不信仰の故に、神は新しい王を立てようとされました。そのために神は預言者サムエルをベツレヘムの人エッサイのところにお送りになりました。サムエルがエッサイに会い、彼の息子たちにも会った時、彼はエッサイの長男であるエリアブを見て、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ。」と思いました。おそらくエリアブは王になれるほどの容姿を持っていたのでしょう。ところが、その時、神はこう言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)エッサイには8人の息子がいましたが、エリアブを含む7人の息子たちは、みな候補から外れることになりました。かえって神は、エッサイが呼びもしなかった素朴な羊飼いの末っ子ダビデをお選びになり、満足され、彼を王に立ててくださいました。サムエルも含め人々は人の外見だけを見ました。しかし、神は人の心をご覧になり、王を立てられたのです。サムエルとエッサイの頭の中には、「王と言えば、こうあるべきだ。」という過去から作られてきた認識があったのでしょう。しかし、神は人々の持つ、そのような固定観念を超越し、真に王とするに値する存在を見つけ出されたのです。これは人間の間違った認識が神によって拒まれたということでしょう 旧約本文7節で「目に映ること」とはアインというヘブライ語を翻訳した表現です。これは「自分が好きなものだけを見る。」という意味で、創世記ではエヴァが知識の木の実を見た時に使われた言葉です。エヴァの目に、その木の実はとても見栄えの良いものでした。しかし、神の御目にその木は、人間に死をもたらすものでした。サムエルの目に、エレアブは非常に立派に見えました。しかし、神様が知識の木の実の本質を知っておられたように、エリアブは本質的に神の御心に適わない者でした。「長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心は私が知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう。」(サムエル上17:28)末っ子という自分の固定した認識により、ダビデをお遣わしになった神の御心に気づくことが出来なかったことから、彼が王になれなかった理由が分かります。神は本質をご覧になる方です。人間の本質である心をご覧になる方なのです。まだ、若くて未成熟なダビデでしたが、彼の心の本質は、神への純粋な信仰に満ちていました。その本質を見抜かれた神がダビデをお選びになり、彼にイスラエル王国をお預けになったのです。「私は人間が見るようには見ない。」神の御心と人間の思いは違います。しかし、人間は自分が、すでに認識したものだけを選ぼうとします。しかし、それはいつも神の御心と相反する可能性を持っています。そして、その人間の認識は、神への信仰を妨げる要素になりがちです。 3.信仰―自分が持っている認識を飛び越えること。 大信仰問答を始めた時、私たちは神認識という言葉を学びました。それは「人間は神をどう認識するのか?」という質問から始まるものでした。ある人は路傍の地蔵尊を神だと認識したり、ある人は神社の巨木を神だと認識したり、ある人はお寺の仏像を神だと認識したり、またある人は一介の人間を神だと認識したりします。いくら、彼らに聖書の御言葉を見せながら、真の神はイエス·キリストの父なる神だと言っても、そう簡単には信じられません。なぜならば、すでに彼らには、歪んだ神認識が備わっているからです。だから、伝道が難しいわけです。この前の説教でイエスを悪魔ベルゼブルの手下だと中傷した律法学者たちも、結局は自分の認識に捉われ、イエスの存在を押し曲げたのです。また、イエスに「気が変になっている。」と乱暴に言ってしまった何人かのユダヤ人も、自分の認識に捉われ、イエスを信じられなかったのです。そしてイエスの身内の人々さえも、イエスの存在を正しく認識できず、自分たちの経験と考えに閉じ籠ってイエスのことを誤解したのです。 このように人間の認識は、人が信仰によって生きるのに大きな障害になるものです。 「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。」(32)今日イエスを取り押さえに来た家族は、その歪んだ認識による不信仰のため、イエスを一介の人間、自分の子供、兄弟、親戚にしか考えられませんでした。「まさか、彼がメシアであるはずがないだろう?」これがイエスの家族の認識だったのです。その時、イエスは人がどんな認識を持って生きるべきなのか教えてくださいます。「イエスは、私の母、私の兄弟とはだれかと答え、周りに座っている人々を見回して言われた。見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(33-35)主はただの同じ血統、家柄、出身がイエスの家族の印ではなく、到底信じられない状況であっても、イエスの本質を受け入れる者たち、自分の認識を飛び越えてキリストによる新しい認識を受け入れる者たち、すなわち神の御心を行う人たちをイエスの家族と呼んでくださったのです。ここで私たちは真の信仰とは、自分が持っている認識の範囲の中でのみ信じるのではなく、自分が持っているすべての認識と思想を超越し、神がお望みになるものを受け入れ、信じる時にはじめて、生まれるものであることが分かります。信仰を持っている私たちは、今日、自分が持っているすべての自己中心的な考え方を神に捧げ、ひとえに神の御言葉が示すことを受け入れようとする生き方を持つべきでしょう。自分が認識している範囲の中だけで信じることは、自分の認識によって歪められ、結局は変質してしまうものだからです。 締め括り。 「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3:7-9) 当時のユダヤ最高の学者、ガマリエルの弟子として、ファリサイ派の次期指導者として適任者だった使徒パウロは、キリスト者を迫害するために、勢いよく振舞っている途中、主なるキリストに出会い、キリスト者となりました。彼はローマ市民権を持ち、前途有望なファリサイ派の人でした。しかし、イエスに出会ってからの彼は、自分が持っていた、すべての認識と思想を残さず捨てました。そして彼は、真の霊的真実、つまり真理であるイエスの福音を追い求め、殉教してこの世を去りました。しかし、彼は偉大な使徒として、2000年が経った今でも我々に福音の教えを宣べ伝えています。真実を見抜くためには、自分の知識と認識を捨てなければならない時もあります。自分が持っているものが、全てではないということを認めなければならない時もあるものです。自分の考えを抑え、聖書が教えてくれる神の御言葉で自分の認識を満たしていく時、私たちは真実を見抜く目を得られるでしょう。今まで、一生、自分が正しいと思ってきた全ての物事には、いつでも移り変わる恐れがあります。変わることなく永遠なものは、唯一の神と、その御言葉だけであるということを覚え、自分のことを弁え、へりくだって生きる志免教会になることを願います。

ソドムが滅ぼされた理由。

創世記19章1-11節(旧25頁)ユダの手紙1章7節(新450頁) 前置き 私たちは、なぜ神様を信じるのでしょうか? 教会に行けば心の平和を得るから、聖書の御言葉を聞けば慰められるから、祈れば不安が消えるから、イエスを信じれば天国に行くと言われるからなど、数多くの信仰の理由があるでしょう。しかし、平和、慰め、安定、天国は信仰の目標ではなく、信仰がもたらす賜物に過ぎないというのが聖書の主な教えです。私たちに信仰が与えられた理由は、神と共に生きる人生そのもののためです。私たちを造られ、救われ、導かれる三位一体なる神と共に生きさせるため、私たちに信仰が与えられ、その人生の結果として私たちに平和、慰め、安定、天国が与えられるということです。ですから、信仰が持つ真の意味は「キリストを通じて神様を信じ、神と共に生きる人生」と言えるでしょう。それでは、果たして神と共に生きる人生とは、どんな人生なのでしょうか? マタイによる福音書22章37-40節では、そのような生き方を神と隣人を愛する人生だと教えています。神を信じ、一緒に生きる人なら、神と隣人への愛を実践して生きるべきであるということです。結論から申し上げますと、今日本文のソドムと周辺地域が滅ぼされた理由は、まさに、この神への愛、隣人への愛、つまり愛の無い社会だったからです。ソドムの人たちは、どのように生きていたので、神に裁かれ、滅ぼされたのでしょうか? 本文を通して確認してみましょう。 1.なぜ、神はお裁きになるのか? この前、説教で私はこんなことを言ったことがあります。「神の御愛と御裁きはコインの両面のようなものです。」神は、この世を愛する方であり、ヨハネ第一の手紙には 「神は愛だからです。」という語句もあるほど、愛は神の代表的なイメージです。しかし、神の愛は公明正大で、正義に満ちた愛です。すべての存在を愛するという言い訳で、何の関心もなく、世の中を無秩序に放っておいたら、それは愛ではなく、むしろ無関心になるでしょう。ですから、神は神の御心に逆らう物事には裁きを下される方なのです。裁きを通して、この世の秩序を守ってくださり、世への真の愛を示してくださるわけです。しかし、明らかなことは、神は、ただ滅ぼすために裁かれる方ではなく、すべての存在が救われることを望んでおられる方だということです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテⅠ2:4)前回の旧約本文と今回の本文の間には、神とアブラハムとの会話があります。本文が長過ぎになると思い、やむなく省略したのですが、その内容は皆さんがよくご存知だと思います。「もし、ソドムに10人の正しい者がいるなら、その十人のために私は滅ぼさない。」という内容です。(創世記18:16-33) その言葉の中には、こういう語句もありました。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びの通りかどうか見て確かめよう。」(創世記18:20-21)もし、神が無慈悲な裁きだけを望んでいる存在だったら、神はあえてソドムの行跡をご自分で確かめるために御使いを遣わされなかったでしょう。すでにご存知のことをお確かめになる必要がないからです。しかし、神は御使いたちを遣わされ、ソドム地域の人々に本当に重い罪があるかどうか、自ら確かめようとされました。彼らに小さなことでも正しい姿があれば、赦してくださるお気持ちを持っておられたからでしょう。ソドムに御使いたちをお送りになる神にアブラハムは、「もし、あの町に正しい者が何人かいたら。」と仮定して、しつこく神の憐みを求めました。 なぜならば、ソドムには甥ロトも住んでいたからです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」(創18:23)アブラハムは、たとえロトと財産の葛藤で別れたといっても、ロトが信仰者であり、正しい者だと思っていました。だから、アブラハムは甥のために、神にしつこく訴えたわけです。これは即ちアブラハムの執り成しの祈りでした。自分の必要だけのための祈りではなく、自分を捨て去った甥のための愛の祈りだったのです。そこで、神はその祈りをお聞きになり、10人でも正しい者がいるなら滅ぼさないと約束され、アブラハムの祈りを受け入れてくださいました。 2.「ソドムの人々の罪」 夕方に神の御使いたちは、ソドムの門のところに到着しました。その時アブラハムの甥ロトは、神からの二人の御使いを見て迎えました。 「二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏した。」(創世記19:1)ロトは叔父のアブラハムのように、神の御使いに会うやいなや、歓待して自分の家に招き、叔父のように手厚く持て成しました。これによって私たちは、ロトもアブラハムのように寄留者を歓待する信仰者であることが分かります。また、ロトが座っていた門という場所からも、ロトの性格を推し測ってみることが出来ます。 旧約時代の城門は、地域の指導者が民衆の気の毒な事情を聞き、判決を下した場所でした。おそらく、ロトは正当な裁判にも目を注ぎ、社会的な正義を守ろうと努める人だったわけでしょう。たとえ過去に財産による葛藤でアブラハムと別れたロトだといっても、彼は基本的に神の御言葉を大切にし、正しく生きようとする人だったと思われます。しかし、後に出てくるロトの行為の故に、彼にも信仰の欠点があったことが分かります。それを知るためには、まず、ソドムの人たちの罪から探ってみる必要があります。そのソドムの人々の罪による出来事を通じて現れるロトの姿から、私たちはロトの過ちを見つけることが出来るからです。 それでは、ソドムの人々の罪は何だったでしょうか。18章20節には「訴える叫び」という表現があります。これは「暴力を告発する訴え、大号泣、苦しみによる叫び」を意味するもので、他人によって苦しめられる人間の苦しみと悲しみを意味する言葉です。神がソドムを裁こうとなさった理由は、ソドムによってソドム周辺の人々、より正確には弱い者たちが受ける苦難を見付けられたからです。今日の本文では、そうしたソドムの罪を、ある出来事を通して詳しく見せています。「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、 わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(4-5)夜になって御使いたちが休もうとする時、ロトの家の外では大騒ぎが起こりました。それはソドムの人々が御使いたちに会いに来たことでした。 ここで私たちは、「なぶりものにする。」という表現を注意深く見守るべきだと思います。それは暴力的に性的関係を持つという意味です。この表現は、男性が男性と性的関係を持つというニュアンスがあるため、時々同性愛を意味すると解釈する場合もありますが、この表現には、より深い意味が含まれています。それは自分たちの力を見せ付け、弱い者たちを暴力的に屈服させるという意味です。 私は、前の創世記の説教で、古代中東社会での歓待は一つの特定の社会の中でのみ、通じるものだったとお話ししました。たとえば、「ある種族同士は互いに親切にしても、その種族以外の人には親切にする必要がない。」という、社会的なルールがあったわけです。アブラハムの時代にはしばしば同性、異性を問わず、自分より弱い人に、性暴力を犯すことで自分が優位にあることを示そうとする悪習がありました。つまり、ソドムの人々の罪は、単なる性犯罪のレベルを超える、寄留者を押さえつけ、弱い者を苦しめる、歓待しない生き方にありました。ところで、このような姿はロトにも見えたのです。最初は罪に満ちたソドムの中でも、ロトは正しい者の姿を保っている様でした。ですが、ロトの一言によってロトもソドムの罪に染まっていることが分かります。 「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私には、まだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」(倉19:7-8)一見、ロトは神の御使いを守ろうとする正しい心を持っているように見えました。しかし、ロトは神の御使いを守る代わりに、自分の娘たちを暴力の生け贄にしようとしました。結局、ロトも社会的な弱者である女性を簡単に暴力の被害者に追い込んでしまいました。残念なことにソドムに住んでいたロトさえも、不義に満ちたソドムの文化に染まってしまったというわけでした。 3.正しい10人の不在のため、滅ぼされるソドム。 結局、最後の希望だったロトさえ、正しくないと判定されました。 「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」(9)ソドムの人たちも、ロトも、結局は弱い者の世話をし、善を行う姿から遠ざかり、寄留者を抑圧し、弱い者を軽んじる罪を現わしてしまいました。しかも、ソドムの人々はロトをも攻撃しようとしました。実に阿鼻叫喚の様でした。彼らには、愛も、正義も、歓待もありませんでした。ただ、彼らは他人を抑えつけ、自分の欲望だけを追い求め、身勝手に悪を行う罪悪そのものの存在になっているのでした。こういうわけで、ソドムに赦しの機会を与えるために派遣された神の御使いたちは、ソドムを無惨に裁く審判官になってしまいました。神の御使いたちは、まるで、ソドムの人たちの霊的な状態を意味するかのように、彼らの目を潰し、その場から退けようとしました。以後、ソドムは神の激しい裁きにより、滅びてしまいます。神は華やかな供え物や多くの財物を願う方ではありません。神は神を愛し、隣人を愛する素朴だが正しい者の生き方から喜びをお求めになる方なのです。しかし、ソドムの人々は、そのような素朴で正しい人生より、自分の強さと力を誇り、隣人を貶め、結局、神まで蔑む人生を生きました。ソドムには、神の御心に適う10人がいなかったので、ついに滅ぼされてしまったのです。 締め括り 今日の新約本文にはソドムの罪に関する言及が記されています。「自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。」(6-7)ユダヤ人たちの伝説によると、ある天使たちが神の王座を狙ったところ、永遠の鎖に縛られ、裁かれたと言われます。ソドムの人々は、その堕落した天使たちに似ていました。彼らには、神への愛や隣人への愛なんて、重要ではありませんでした。過去の堕落した天使たちのように、ただ自分が高くなることだけを願っていたのです。他人を配慮せず、自分だけが高められる人生、一時は賢い生き方に見えるかもしれません。 世の中の政治家や金持ちの中に、このように弱者を配慮しない人は結構多いです。しかし、私たちははっきり知っておくべきです。私たちの社会が弱者を大切にしなければ、結局、神に裁かれ、滅ぼされるでしょう。ソドムの物語は、現代でも同様に適用される見せしめです。弱者を苦しめ、強者だけを高める社会は結局滅びるでしょう。私たちの教会は、このような社会において、どのように生きていくべきでしょうか。私たちはこの地域の正しい人10人として生きているでしょうか。神は隣人愛を通して、神への愛を確かめられる方です。神を本当に愛するなら、自分のことを弁え、隣人を尊重し、主が望んでおられる正しい生き方を実践しつつ生きるべきでしょう。

神を冒涜する罪

レビ記24章10-16節(旧201頁) マルコによる福音書3章20-30節(新66頁) 前置き 14世紀から15世紀にかけて、ヨーロッパには100年戦争という、イギリスとフランスとの大きい戦争がありました。その戦争でフランスを救った有名な英雄の中には、私たちがよく知っているジャンヌ・ダルクという女性もいました。しかし彼女は、自分の祖国を救ったにもかかわらず、神聖冒涜という濡れ衣を着せられ、火あぶり刑に処せられました。彼女の罪名は「邪悪な魔女であり、悪魔の声を聞き、王権と教会権を乱す神聖冒涜者」でした。しかし実は、当時フランスの政界と宗教界は彼女を利用して、必要がなくなると自分たちの利益のための生け贄として殺したというわけでした。無実の罪で殺された彼女は1920年に初めて、カトリック教会の聖人と認められ、晴れて無罪の身となりました。残念なのは、歴史上、ジャンヌ・ダルクのように、政治家や宗教家の利益のために、無実にもかかわらず神聖冒涜の罪で処刑されたケースが多かったということです。このように神聖冒涜は特定の集団の利益のために間違って用いられることが非常に多かったのです。人間の罪の性質は、神の神聖ささえも神の栄光ではなく、自分たちの必要のための道具として用いたのです。それでは聖書は、この神聖冒涜について、どのように語っているのでしょうか。果たして真の神聖冒涜とは何でしょうか。今日の新約の本文を通して、聖書が語る真の神聖冒涜について、考えてみましょう。 1.旧約に現われる神聖冒涜の事件。 400年間、エジプトの奴隷であったイスラエルは、神によって救われ、ついにエジプトの奴隷生活から逃れることができました。神は彼らを解放され、シナイ山に導いてくださいました。また、彼らに神の律法である「十戒」を与えられ、神と世を執り成す聖なる国民として打ち立ててくださいました。そういうわけで、イスラエルは自分たちの欲望と利益のために生きる存在ではなく、神の栄光のために生きる聖別された存在としての特権と義務を持つ、神の所有として生まれ変わりました。ここで特別なことは、神様がアブラハムの血統ではなく、神様への信仰を通してイスラエルを選び出してくださったということでした。「イスラエルの人々の間に、イスラエル人を母とし、エジプト人を父に持つ男がいた。」(10)神のお導きにつき従ってエジプトを立ち去った人々の中には、純血のアブラハムの子孫でない人たちもいましたが、その中にエジプト人の父を持つハーフもいたのです。 つまり、神はイスラエルという共同体を民族ではなく、神への信仰の有無で、ご規定なさったということです。 この点を通して、私たちは神が血統ではなく信仰をお測りになり、ご自分の民をお呼びになる方であることが分かります。相手が誰でも神を信じる存在なら、神の御目にはイスラエルであるということでしょう。ところで、ある日、エジプト人の父を持つある男が大きな過ちを犯してしまいました。それは神の御名を冒涜したことでした。「イスラエル人を母に持つこの男が主の御名を口にして冒瀆した。人々は彼をモーセのところに連行した。」(11)父がエジプト人であるにもかかわらず、イスラエルの一員として認められ、神の律法まで受けた彼でしたが、彼は十戒の第三の戒を破って神の御名を口にして冒涜したわけです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(出エジプト20:7)もちろん、第3の戒に記してある「主の御名をみだりに唱える。」という言葉と、今日の本文の「主の御名を口にして冒涜する。」という言葉の原文は異なる単語でしょうが、広い意味としては第3の戒めに含まれることで、神の存在を否定し、その御心に逆らうことを意味します。結局、彼は神様に呪われ、石で打ち殺されました。このように、旧約時代には、すでに神の民に選ばれた存在さえも、神を冒涜すれば、赦されることが出来ない厳重な時代だったのです。 2.神聖を冒涜した律法学者たち。 ところで、今日の新約本文にも、このように神聖を冒涜する場面が見られます。「エルサレムから下って来た律法学者たちも、あの男はベルゼブルに取りつかれていると言い、また、悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると言っていた。」(22)まさにイスラエルの宗教指導者である律法学者たちが、貧しい民の面倒を見ておられるイエスを悪霊の手下と貶める出来事でした。律法学者たちは旧約聖書を研究し、民に聖書の御言葉を教える先生たちでしたが、聖書の知識とは別に、神様から遣わされたイエスの正体を全く見抜くことができず、イエスを中傷し、むしろ主の御業を否定して、呪いをかけていたのです。律法で常に大事にされている隣人への愛と神への愛を行っておられるイエスの御業を見ても、彼らは自分たちの既得権だけに目が眩み、律法を守りつつ働いておられたイエスを、ベルゼブルという悪魔の手下と貶めたわけです。イエス・キリストは、罪によって神から遠ざかっている罪人たちに悔い改めを促し、その悔い改めを通して神様と和解させてくださるために来られた救い主です。イエスが貧しい民を癒し、御言葉を教え、福音の宣教をしてくださった理由は、罪人を救おうとする神の御意志を成し遂げるためでした。つまり、イエスの御業が、すなわち神の御業だったということです。なのに、イスラエルの律法学者たちは、むしろイエスの御業を悪魔の仕業と扱き下ろすことで、律法で禁じられている神への神聖冒涜を犯してしまったのです。 ここでちょっと、今日の新約本文に登場するベルゼブルとは、どんな存在なのでしょうか? ベルゼブルとは、古代のカナンで崇拝されていた男神であるバアルに由来します。バアルは「支配者、主、王」という意味ですが、長い間カナンの最高の神とされていました。その後、バアルという名称は「高い所の主」という意味の「ベルゼブル」に変わっていたのです。おそらく古代のカナンの人々が雨と雷の神であったバアルを高い所に住む神と信じ、「高い所の主」と呼ぶようになったでしょう。ところで、ユダヤ人は、このベルゼブルをベエルゼブブと変えて呼んだそうです。「ベエルゼブブ」は、ベルゼブルに似た発音ですが、その意味は全く違うものでした。ハエの王をという意味を持っているからです。おそらく、イスラエルの神を真の神だと信じていたユダヤ人が、異教徒の神であったベルゼブルをからかい、「つまらないハエの王」と呼んだことに由来したと思います。しかし、ハエの王という滑稽なあだ名とは別に、ユダヤ人にとってベルゼブルは、あらゆる悪霊を支配する強力な悪魔であり、神の正反対にある邪悪な存在とされていました。このようにイスラエルの神から遣わされたイエスをベルゼブルの手下と考えたというのは、神様の御業を悪魔の仕業と見なしていたことに等しい深刻な問題でした。それだけに、当時のイスラエルの宗教指導者たちは、神の御業と悪魔の仕業も、見分けがつかないほど、霊的に堕落していたのでした。その堕落は、知らないいちに神聖冒涜の罪をもたらしました。 3.神聖冒涜にもかかわらず。 しかし、今日の旧約本文とは異なり、律法学者たちは何の呪いも受けていませんでした。「イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。どうして、サタンがサタンを追い出せよう。サタンが内輪揉めして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」(23、26)むしろ、イエスは律法学者たちに、悪魔が悪魔を追い出すことはなく、そうすれば、むしろ悪魔の力が弱まるだけだと教えてくださいました。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(27)また、イエスは、ご自身がそのベルゼブルのような悪魔たちを縛り上げられる強い方であることを比喩を用いて、教えてくださいました。つまり、イエスは悪魔ではなく、むしろ悪魔を裁く全能者であることを教えてくださったのです。 そして、イエスはご自分のことを貶めるのが、いかに深刻な神聖冒涜なのか、教えてくださいました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28、29)聖霊は人々に、イエスの救いと愛を信じさせてくださる存在です。しかし、律法学者たちは自分たちの罪によって、イエスを信じることができず、むしろ呪いをかけてしまいました。それは聖霊の御業を妨げる神聖冒涜にあたる罪でした。しかし、主は彼らを呪われ、罰されるより、彼らを赦してくださることを望んでおられました。 律法学者たちが神聖を冒涜する罪を犯しましたが、新約本文と旧約本文の間には大きな違いがありました。旧約本文にも新約本文にも神聖冒涜が見つかりますが、旧約のエジプト人の息子は殺され、新約の律法学者たちは生き残りました。それは、なぜでしょうか?  それはイエスの存在によってでした。イエスは呪い、殺すために来られた方ではありません。むしろ救い、生かすために来られた方なのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28、29)今日のこの言葉は、主が律法学者たちに呪いをかけられるように見えますが、この言葉には、もっと深い意味があります。すでに28節で、どんな罪や冒涜の言葉が赦されると言われた主が、29節では、赦せない罪もあると仰るのにはぶつかり合いがあるからです。したがって、29節の言葉は、罪の根本的な原因を赦さないという意味として受け止めるべきだと思います。なので、私は28、29節の言葉を、このようにも読めると思います。「律法学者たちよ、お前たちの罪と冒涜は赦される。しかし、君らを罪に導き、イエスを信じられないようにする悪霊、すなわち聖霊を冒涜する存在たちは必ず裁きを受ける。」 つまり、イエスはご自分を呪い、冒涜した律法学者たちの罪までも赦してくださったということです。そして、その裏面にある、より根本的な悪への裁きをお告げになったのです。これがイエスの存在理由です。罪人を赦され、罪の源をお裁きになることです。 締め括り 新約聖書が語る神聖冒涜とは、「イエスを信じず、拒否すること」です。そういう意味として、我々が生きているこの世は、神聖を冒涜する世界です。日増しにイエスを信じるのが難しい世の中になりつつあります。会社では日曜日に仕事をさせ、学校では日曜日に部活などをさせます。世の中の文化はキリスト教の信仰をつまらないものだと言い募ります。世の風潮は霊的な関心より、肉的な関心により集中させています。結局、イエスを信じにくくしているのです。このような神聖冒涜の世の中で、神はそれでも変わることなくイエスを信じる者を探しておられます。終わりの日、イエス・キリストは、必ずこの神聖を冒涜する世を裁かれるでしょう。そして、この堕落した世界の支配者である悪魔たちをお裁きになるでしょう。また、イエスのもとへ進み、信じ、聞き従う者たちを救われ、報いてくださるでしょう。このような世の中で、我々はどのように生きていくべきでしょうか? ご自分のことを呪い、冒涜した律法学者たちさえ、お赦しくださったイエスを仰ぎ見、より一層、キリストへの堅い信仰を持って生きることを願います。また、本文の律法学者たちのような、世の人々を悔い改めへと導く私たちになることを願います。神聖冒涜の世の中で神聖を尊重し、イエスへの信仰を貫いていく志免教会になることを願います。

啓示をくだされる神さま。

出エジプト記19章3-6節(旧124頁) マルコによる福音書3章13-19節(新65頁) 前置き 前回の創世記の説教では、寄留者を歓待したアブラハムの物語を通じて、聖書が語る「寄留者への持て成し」の真の意味について話してみました。聖書によると、神は時々寄留者の姿で、我々の前に現れる方であり、その寄留者を通じて、我々に御言葉をくださる方でいらっしゃいました。前回の説教では、その寄留者という存在が、私たちの周りの弱い者や私たちの最も嫌な人である場合もあると話しました。新約聖書マタイによる福音書25章でイエス様は、このように仰せになりました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」私たちが本当に主を愛し、信じる人なら、私たちは、どのような姿で現れるか分からない主への歓待のために常に備えて生きなければなりません。そして、その備えとは、私たちの隣人に対する愛と嫌な人への赦しから、初めて証明されるものです。正しい人アブラハムが前回の本文を通じて見せた寄留者への歓待は、まさにこのような成熟した信仰を表すものです。自分より他人を優れた者とする信仰、他人を赦し、愛する信仰、そういう寄留者を歓待する成熟した信仰を通して、神はアブラハムを祝福してくださったように、ご自分の民を祝福してくださるでしょう。 1. 祝福の啓示をくだされる神様。 アブラハムが招いた寄留者たち、すなわち神の御使いたちは、アブラハムの持て成しを受けて、ソドムに足を運ぼうとしました。その時、神は御使いたちの口を通じて、アブラハムに言われました。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(17-18)前回の説教で私は、「旧約聖書に登場する神の御使いたちは、神に全権を委ねられた、神に代わる存在である。」とお話ししました。彼らが天使だったのか、人だったのか、聖書からははっきり分かりませんが、神が彼らに主の御言葉による権威をお委ねになったのは明らかです。彼らがアブラハムに言い伝えた言葉は、「アブラハムは神の特別な人だから、神は隠すことなく仰せになる。」ということでした。 この言葉の神学的な意味は神がアブラハムに啓示してくださるということです。「いと高き神が人が理解できる方法で御言葉をくださること」を神学用語で「啓示」と言います。神の御言葉は人間が自力で理解することが出来ない高次元的なものです。しかし、神は神に選ばれた者たちが聞き取れる形で御言葉を与えてくださいますが、それがまさに啓示なのです。つまり、神は寄留者たちの口を通じて、アブラハムだけが聞くことができる大事な啓示を与えてくださったということです。 その啓示の内容は二つでした。 一つは祝福の啓示であり、もう一つは裁きの啓示でした。特に祝福の啓示はアブラハムと、その子孫への祝福についてのものでした。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(18-19)かつて、アブラハムをご自分の民としてお呼びくださり、契約を結んでくださった神様でしたが、その後24年の間、神様は、時にはまるで答えてくださらない方であるかのように、時には存在しておられない方であるかのように、ご自分のことを隠され、アブラハムの信仰をお試みになりました。しかし、その御試みはアブラハムを苦しめるための試練ではありませんでした。それはアブラハムの信仰を鍛え、成長させる神の愛でした。神様は「主の道を守り、主に従って正義を行うよう」彼をお選びになり、成長させられたのです。その信仰の試練を乗り切ったアブラハムは、寄留者への歓待を通じて、自分の成長した信仰を、確実に神様にお示しすることが出来たのです。その結果、神は信仰的に成長したアブラハムに、アブラハムと子孫が強い国民となり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入るだろうと祝福の啓示を与えてくださったわけです。 確かに神様は、ご自分の民を愛してくださる方です。しかし、神様はその民を甘やかす方ではありません。愛しておられるから、試練をくださるのです。「可愛い子には旅をさせよ。」という諺があるように、神はアブラハムを愛しておられるから、お試みになり、試練をお許しになったわけです。そして、その試練の結果は祝福の啓示とともに、実際にその啓示が代々続き、成し遂げられることでした。アブラハムの息子イサク、孫ヤコブ、その息子エジプトの総理ヨセフ、モーセ、ダビデ、そしてイエス·キリストに至るまで、神の啓示は代々成し遂げられていきました。実際、ヨセフ、モーセ、ダビデは民を泥沼から救い出し、主イエスは完全な御救いを成し遂げられる救い主でした。そして、アブラハムにくださった、その啓示のように、アブラハムの霊的な子孫である主の教会は、神の御言葉と約束、すなわち「主の道を守り、主に従って正義を行うキリスト」の御言葉の上に立ち、今でも受け継がれているのです。 2.裁きの啓示をくだされる神様。 ところで、神は裁きの啓示もくださいました。それは罪に満ちたソドムに対する恐ろしい審判の予告でした。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」(20-21)神様はアブラハムに祝福の啓示を与えてくださったとは反対に、ソドムの人々のことに対しては残酷な裁きの啓示を下されました。なぜ、神様はアブラハムへの祝福の啓示をくだされるや否や、裁きの啓示をくだされたのでしょうか? それは神への信仰を持って生きていたアブラハムと、神に逆らう人生を生きていたソドムの人々を明らかに対比するためでした。次の説教ではソドムとゴモラについて、もっと詳細に分かち合う予定ですが、そこの人たちは深刻な罪人たちでした。「ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(19:4-5)、彼らはアブラハムを離れてソドムに着いた神からの寄留者たちを歓待せず、乱暴に扱おうとしました。彼らが、どのような乱暴なことを犯したのかは、次の説教で詳しくお話ししましょう。明らかなのは、彼らの行為がアブラハムとは正反対の、寄留者への脅威だったということでした。 「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(19)先に神は、この言葉を通じて、なぜアブラハムをお呼びになり、試練を通して成長させ、神の祝福の民にしてくださったのかを教えてくださいました。それはアブラハムを「主に従って正義を行う」人にしてくださるためでした。それが神の民が持つべき在り方だったからです。ここで言う「主に従う。」という表現はヘブライ語で「チェダカ」と言いすが、「全ての人間が守るべき普遍的な正しさ。」という意味だそうです。また「正義を行う。」という言葉は、ヘブライ語で「ミシュパート」と言いますが、「神の民として守るべき律法的な正しさ。」という意味だそうです。神様はアブラハムと、その子孫を「全ての人間が守るべき普遍的な正しさ。」と「神の民として守るべき律法的な正しさ。」を守りつつ生きる、真の正しい人にさせるためにアブラハムをお選びになり、試練を与えられ、養ってくださったのです。そして、そのような生き方の最も基本的な姿勢は、隣人への接し方に現れるのです。ところが、ソドムの人たちには、そうしたチェダカとミシュパートが欠けている状態でした。彼らは自分たちの力を信じ、余所者を蔑んで、生きていたわけです。つまり、彼らには神様に認められるべき、正しさがなかったということです。 神様が御使いたちを遣わして、ソドムを滅亡させようとなさった理由は、このような彼らの悪をお裁きになるためでした。ところで、問題はアブラハムの甥ロトが、そこに住んでいるということでした。確かに啓示される神様は、ご自分の民に祝福の言葉をくださる方です。しかし、神は罪に満ちて悔い改めずに生きる人々へ裁きと呪いの言葉をもくださる方です。そして、その呪いと裁きの啓示は、世の中に生きている主の民、つまり教会を通じてくださるのです。神はアブラハムにソドムへの裁きの啓示をくださることで、ソドムに住んでいる甥ロトのために祈らせてくださいました。そのため、アブラハムは22-33節に出てくる繰り返される懇請で、神様がソドムを許してくださることを願ったのです。神様がこの日本に主の教会を立ててくださった理由も、それと同じです。日本の民族が正義ではなく悪を行なって生きていけば、神は必ずこの国をお裁きになるでしょう。このお裁きからは米国も、中国も、韓国も自由ではありません。終わりの日に、すべての存在が神に裁かれるのが決まっているからです。しかし、神は愛する日本の教会を通じて、日本の民族と社会に神の警告を伝えることを望んでおられます。日本キリスト大会が政府の政策に時々抗議状を送る理由も、そういう意味があるからです。それがまさに私たちが伝道をしなければならない大事な理由なのです。 締め括り 啓示に関する話は、今日の新約の本文からも見つかります。イエス様はしるしと奇跡を見ても悔い改めない、ガリラヤのいくつかの町を責められつつ、このように仰いました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11:25)神は、いつも聖書を通して祝福と裁きの啓示をくださる方です。そして神に仕える、主の民は、その祝福と裁きの啓示を聞くことが出来る特権を持っています。聖書は神の愛と祝福だけを語ってはいません。神の裁きと呪いをも語っているのです。だから自分の好きな箇所だけを読んで、勝手に聖書を誤解してはいけません。神の祝福と裁きはコインの両面のように、いつも共存するものです。賢い親は、適切な褒め言葉と戒めを通して、子どもを育てます。そのように神も愛と裁きを通して、この世を治めておられるのです。主イエスは、このような神の啓示を我々に与えてくださり、祝福を極大化し、裁きを最小化してくださるために来られた方です。今日、アブラハムの物語を通じて、私たちは神の啓示について知ることが出来ました。私たちは、主に愛される民として、神の啓示が持つ二つの面を覚え、主の御言葉に従って生きるべきでしょう。神の啓示を大事にし、主に喜ばれる志免教会になることを願います。

主の弟子。

出エジプト記19章3-6節(旧124頁)マルコによる福音書3章13-19節(新65頁) 前置き 去るマルコによる福音書の説教では、神の子について分かちあいました。イエス様の時代、神の子という表現が持っていた意味は、信仰や宗教に限った意味ではありませんでした。当時、神の子という表現はローマの皇帝を指していて、非常に政治的で社会的な意味を持つ言葉でした。これを通して、私たちは神の子と呼ばれたイエスが、ただ静的な信仰の領域にだけ限られた方ではなく、ローマ皇帝の権威を超越した、社会を変革し、世の中を変える実践的で動的な存在だったということが分かりました。私たちは神の子イエスを信じる存在です。これは、ただ私たちが、私たちの救い、平和だけに関心を持つのではなく、この世の政治的な理不尽や社会的な問題にも、もっと関心を持って、祈りと実践によって、生きていかなければならないという役割を持っているという意味です。イエス・キリストは21世紀にも、神の子としておられる方です。この主の民として召された私たちは、政治、社会、経済すべての領域において関心を持ち、正しく生きていくべき存在だということが前回の説教の筋書きでした。今日は、前回の説教に引き続き、この神の子イエスがお呼び出しになった弟子という存在について考えてみたいと思います。 1. 山-神がお働きを始められる場所。 「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。」(マルコ3:13)聖書での山という表現には「未来への備え、神のご臨在、神の権能」などの意味があると言われます。聖書に登場するすべての山について、このように解釈することは無理でしょうが、特別な出来事があった山は、このように解釈する場合が多いです。我々は、このような意味を、本日の旧約聖書の本文を通して見ることができます。エジプト帝国の暴政によって、奴隷のように生きていたイスラエル民族は、神の強力な権能である10の災いによって、自由な存在となりました。しかし、この自由は、身勝手に生きてもいいという放縦の意味ではなく、神の民となるという責任と義務を求められる責任のある自由でした。このような真の自由を与えるために、神はイスラエルに旧約の律法をくださったのです。その時イスラエルの指導者モーセはシナイ山という神聖な場所で、この律法を受けたのです。「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。」(出19:3) 神に律法を頂いたイスラエルは、単なる神の奴隷ではなく、身分の変化を受けたものでした。「もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出19:5-6)つまり、山で神に出会ったイスラエルは奴隷の民族から祭司の民族として、新しく立つことになったのです。 今日の新約の本文は、このようなシナイ山での出来事に非常に似ています。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:13-15)マルコによる福音書でのイエスは、1章と2章で何人かの弟子たちをお呼び出しになりましたが、彼らに宣教をさせたり、悪霊を追い出す権能を与えたりはしませんでした。癒しと宣教と教えとは、おもにイエスご自身が行われ、弟子たちは静かに、その後に従うイメージだったのです。しかし、主イエスは山に登って公に弟子たちを呼び寄せられ、また、彼らに権能を与えられて、イエスの御業に参加できる機会をくださったのです。マタイによる福音書にも弟子をお召しになる場面が登場しますが、その時、主はこのように言われます。「行って、天の国は近づいたと宣べ伝えなさい。 病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:7-8)主は、今まで受動的なイメージだった弟子たちを能動的な存在と変えられ、主の力を分け与えてくださいました。 そして、ご自分が行なっていた御業である「癒し、教え、宣教」の権限を与えてくださったのです。シナイ山でイスラエルをお召しになった神が、奴隷だったイスラエルを祭司の王国、聖なる国民、すなわち礼拝者として新しく呼んでくださったように、イエスも山に登って主の人々を呼んでくださり、ご自分のように癒して、教えて、宣教する弟子として新しく立ててくださったわけです。 2.誰がイエスの弟子なのか? このようにシナイ山の神と、山の上のイエスは非常に似ています。旧約の神がイスラエルの民を通して新しい御業をご計画なさったように、新約のイエスもご自分の弟子たちを呼び寄せられ、旧約とは区別される新しい御業をご計画なさったのです。それでは、果たして、誰がイエスの弟子になれるのでしょうか? 今日の新約本文には、このような言葉があります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると」(13)主は、主がお望みになる者を呼び寄せられ、ご自分の弟子にされました。この世のすべての人が神の弟子になることができるわけではありません。主の弟子になるということは、主の呼びかけに応じた者にのみ可能なことです。イスラエル民族がシナイ山で、神の民に選ばれたことは、神が即興で行われたことではありませんでした。「お前ら、せっかく自由の身になったのだから私の民になれ。」との意味ではなかったということです。そのお選びは、既にイスラエルが打ち立てられる前の、先祖アブラハムと結んだ契約の結果であり、そのアブラハムとの契約ですら、アダムとエヴァとの堕落にまで遡る、初めからの神の徹底したご計画に基づくものなのです。このように、神様に選ばれ、召されるということは、神の計画の中にいる者だけが得られる特権なのです。聖書はこれを神の摂理であり、経綸であると語っています。 だからといって、主に呼び寄せられた者たちが、みんな服従したり、弟子になったりするわけでもありません。ただ神の呼びかけに従順に応える者だけが、召された者になるのであり、弟子になれるのです。今日の本文には「彼らはそばに集まって来た。」(ギリシャ語 デロ、応じる。)という言葉があるからです。神はわがままな暴君ではありません。神はいつも人間の自由な意志を尊重して、人をお召しになる方なのです。神の呼びかけに応じない者たちまで、強制的に呼び出される方ではありません。我々人間は神にとって、操り人形ではなく、人格を持っている被造物だからです。主は伝道者たちの伝道を通して、聖書の御言葉を通して、牧師の説教を通して、毎日毎日、常に呼び掛けていらっしゃる方です。その主の呼びかけを聞いた者が、それに従順に応える時にはじめて、神様のお招きは完成するのです。これは、人間の選択の問題ではなく、神への服従の問題でしょう。そして、そのように召され、聞き従う者こそが、イエスの弟子に選ばれるのです。だから主のお選びと呼びかけに応じ、聞き従って、この場に集っている私たちが、まさに主イエスの弟子なのです。新約聖書の使徒だけが弟子ではなく、教会の牧師だけが弟子ではなく、長老や執事だけが弟子ではなく、主の御言葉を聞き、答え、主の御前に出てきた、すべての人々が、まさにイエス•キリストの弟子なのです。 3.今日も私たちを弟子として呼んでおられる主。 「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:14-15)主は12人の弟子を召され、彼らをご自分のそばに置いてくださいました。主が弟子をお呼びになった理由は、奴隷のように仕事ばかりさせるためではありません。主が彼らと同道し、愛してくださるためです。弟子として呼ばれた我々は今、我々の主でいらっしゃるイエスと共に生きています。決して私たちは独りではなく、私たちのすべてを守り、助けてくださる主と共にいるのです。また、主が弟子をお呼びになった理由は、宣教をさせるためです。ここで言う宣教とは、人を連れて来て礼拝の場に座らせるということだけを意味することではありません。もちろん、そのような行為も宣教でしょうが、ここでいう宣教とは、もっと根本的な意味、つまりイエスが救い主であること、神が真のお独りの神であることを、私たちの生活を通して伝えることなのです。我々がキリスト者であることを明らかにし、我々の生涯の中で、キリストの弟子として隣人に感動を与えることも宣教なのです。最後に、主が弟子をお呼びになった理由は、弟子たちを通して悪霊を追い出すためです。これは実際に悪霊を追い払うという意味もあるでしょうが、悪霊と表現される、この世の理不尽と悪の中で正義を追い求め、そのような正しい生き方を貫くという意味にも解釈できるでしょう。 このように、主は「主と同道する弟子」「キリストの救いと愛を宣べ伝える弟子」「世の悪や不条理に対抗する弟子」を立ち上がらせるために弟子をお呼び寄せになるのです。そして、歴史的にその弟子たちは、キリスト者と呼ばれてきました。聖書に12人の使徒たちという表現があるからといって、弟子が特別な人だと思ってはなりません。 12という数字は聖書の完全数として「全て」という意味をも持っているからです。したがって、今日、主を信じて教会を成す私たちは皆、主に愛される弟子です。皆さんと私が即ちイエスの弟子でなのです。だから、弟子という言葉に特別な意味をつけたり、私たちとは別の偉い人、牧師や伝道師のような神学を専攻した人などと考えたりしてはならないでしょう。最後に今日の言葉で、主イエスはおもにギリシャ語の現在形の動詞を使っておられます。弟子たちが主と一緒にいること、主に遣わされること、主に宣教させられること、悪霊を追い出すこと、すべてが現在形です。ギリシャ語で現在形が持つ文法的意味は、その文章を読む現在の読み手にも同じく有効であるということです。つまり、我々が今日の本文を読んでいる、ただいまの時点でも、主は弟子を呼ばれ、我々と一緒におられ、宣教させられ、この世を変えておられるということです。皆さん、忘れないようにしましょう。私たちは主の弟子です。そして我々の主イエス·キリストは今日も変わることなく、私たちに弟子としての生活を促していらっしゃいます。 締め括り 今日は3時から牧師就職式が持たれます。今日の就職式の式文には牧師の誓約と教会員の誓約が出て来ます。ところで、教会員の誓約が牧師の誓約より約2倍ほど長いです。そこで私はこれはただの牧師だけの就職式ではなく、牧師と教会員が一緒に就職する就職式ではないかと思いました。今日、主はこの志免教会という小さな山に私たちをお招きくださり、主の弟子としてお召しくださるでしょう。主が志免教会の教会員たちと牧師がイエスの共同体となり、主と共に歩んで福音を宣教し、正義を追い求めて生きることを望んでおられます。今日の御言葉を通じて、志免教会のみんなが、主イエスの弟子であることを、もう一度、心に留めていくことを願います。私たち志免教会を通じて神様が志免町に祝福を、私たちを通じて癒し、教え、宣教してくださることを願います。主の弟子である志免教会に神の大きな恵みが共にあることを信じます。

寄留者への歓待。

創世記18章1-15節(旧23頁) マタイによる福音書25章31-46節(新50頁) 前置き 神の民として選ばれ、生まれ故郷、父の家を離れたアブラハムは、24年という長年を寄留者(旅人)として暮らさなければなりませんでした。しかし、土地と子孫を与えるという神の約束は、24年経っても果たされず、土地と子孫を得るためのアブラハムなりの努力も、何も成し遂げられず、無駄になってしまいました。75歳に神に召されたアブラハムは、まもなく100歳を目の前にする歳になってしまいました。しかし、老いたアブラハムが、すべてを諦めようとする時に、神は再び現れ、神の約束は依然として有効であると教えてくださいました。そして神は、その約束の証としてアブラハムの家の男たちに割礼を受けることを命じられました。契約と割礼のヘブライ語の表現が同じであることから、神との契約を永遠に覚えさせる神のご命令だったことが分かります。以上が今までのアブラハムに係わる筋書です。以後、神はご自分の御使いたちをアブラハムに遣わしてくださいました。今日の旧約本文は、その御使いたちとアブラハムの出会いについての物語です。私たちは今日の話を通じて、どんな教訓を得られるでしょうか?今日は寄留者を通して、訪れてくださる神について話してみたいと思います。 1.神様から遣わされた者たち。 カナン地域でアブラハムが生活していた主な場所は、現在のエルサレムから南側に30kmくらい離れているマムレ(ヘブロン)という所でした。神のご命令によってカナンに降ってきたアブラハムは、過去24年間のうちに、その地域の有名な者になっていました。彼は牧草地が足りなくて、甥と別れるほど、多くの家畜を飼っており、シンアル地域の王たちと戦って勝つほどの相当な戦力もを持っていました。神が契約してくださった土地がなくても、神が約束してくださった子供が生まれなくても、彼には現在持っている財産や権力だけで十分に意気揚々と生きることができる力がありました。そればかりか、ハガルを通して儲けた息子、イシュマエルもいましたので、相続人への心配も一安心できる状況でした。しかし、彼は相変らず神に仕えました。アブラハムは24年間、多くの失敗と試行錯誤を経験してきました。しかし、彼が偉大な信仰の父として、神に認められた理由は、自分の状況がどうであれ、彼が神の約束を覚え、信じたことにあるでしょう。私は創世記を説教して来つつ、何度もアブラハムが私たちと同じ、平凡で間違いと失敗の多い人だったと話しましたが、それでも、アブラハムが持っていた、このような神への信仰は現代を生きる私たちが、倣っていくべき良い信仰の手本になると思います。 もし、アブラハムが自分の財産と現在の状況に満足し、神の約束を軽んじ、神に仕えようとしなかったら、彼は今日の本文に現れた3人の御使いに出会うことが出来なかったはずでしょう。聖書には今日登場した3人の御使いが華麗な服を着ていたとか、多くのしもべを引き連れていたとかの話は記されていません。ただ、3人の人が彼に向かって立っていたと記してあるだけです。しかし、常に神の御言葉を待ち、神に仕えようとする心構えを持っていたアブラハムでしたので、その3人が訪れてきた時、彼らが神に遣わされた者だと気付き、すぐに彼らを迎え、持て成したのではないでしょうか? 過去のユダヤ人のラビたちは、この3人が神の天使だと信じていました。特に、ラシュというラビは、その3人が、ミカエル、ラファエル、ガブリエルという有名な天使たちだと思いました。この天使という言葉は、神のメッセンジャーという意味で、天使が現れるということは、神の御言葉が臨むこと、つまり神が直接お出でになることと同じくらいの権威がある意味だったと言われます。勿論、今日の本文を通しては、彼らが天使であるかどうかははっきり分かりません。しかし、少なくとも神の御言葉が彼らを通じて、アブラハムの所に来たということは、はっきり分かります。ところで、彼らはみすぼらしい旅人たちでした。神の尊い御言葉が通り過ぎる寄留者を通して届いたということでしょう。 2.神は寄留者の姿でお出でになる方。 聖書で寄留者とは、助けを求めている旅人、余所者として解釈される場合が多かったです。当時のメソポタミアやカナンの原住民は旅人たちを暖かく持て成したそうです。あの有名なハンムラビ法典にも、旅人への扱いについて記録されていると言われます。しかし、彼らが持て成した旅人は同じ民族や国に限る存在でした。外国人や旅人には手厚い持て成しをしなかったのが学界の定説です。彼らは何の利益にもならなかったからです。しかし、アブラハムは世の中の論理ではなく、神への奉仕の意味として3人の客を喜んで迎え、持て成しました。ところで、その客たちは、実際に神の御使いたちで、彼らは神の御言葉を持ってきたのです。我々はこれを通して、神は自ら現れる方でもありますが、通り過ぎる寄留者、余所者、弱者を通しても現れる方であるということが分かります。もし、アブラハムが彼らを迎える前に、カナン地域のどの種族から来た人なのか、どの家柄の人なのか、3人の身分を選り分けようとしたならば、彼は神からの大事な御使いたちを逃してしまったのかもしれません。しかし、アブラハムは当時のカナンで通用していた持て成しではなく、いつ神の御使いが来るか分からないという心構えで3人を招き、歓待したわけです。 今日の新約本文でイエスは、主が再臨なさって、この世をお裁きになる時のことについて教えてくださいました。主が天使たちを皆、従えて栄光に輝く座に着かれる時、正しい人たちをお呼びになり「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」と仰いました。すると、 正しい人たちが聞き返しました。「主よ、いつ我々がそうしたのでしょうか?」その時、主は「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」とお答えになりました。私たちは、この物語を通して、主が貧しい隣人や旅人の姿を持って、私たちの所に訪ねて来られる方であることが分かります。ひょっとしたら、今一緒に礼拝を捧げている兄弟姉妹が、実は我々の間におられる主であるかもしれません。志免教会のご近所さんたちがイエスであるかもしれません。私たちの一番嫌いな人が、私の前に来ておられる主であるかも知れません。私たちが彼らを遠ざけ、冷遇する時、もしかしたら、私たちは主を遠ざけ、冷遇しているのかもしれません。私たちの隣人愛は判官贔屓のようなものではありません。私たちの他者へ愛は、私たちの間におられる主イエスへの愛から湧き出るべきものなのです。誰が、どんな姿で主の代わりに私たちの前に立っているか分からないからです。 3.最も不要で、憎い者を愛せよ。 多少、政治的な話になるかと思いますが、日々関係が悪化している日韓関係を例に挙げてみましょう。日本は、韓国人にとって、他の国々では感じられない様々な感情を起こさせる国です。歴史的には深い遺憾があり、文化的には一番親しみのある、微妙な国なのです。つまり、愛憎の国なのです。日本人にとって韓国はどうでしょうか?日本人の中には激しく韓国を蔑む人もいますが、一方では身の置き所のないほどに韓国を重んじ、愛してくださる方もいます。同じく、韓国人の中にも日本を蔑む人がおり、日本を大事にし、重んじる人がいます。このような日韓関係の中で、日本と韓国の教会は、真の平和のために協力関係を大事にし、過去の悲劇を省み、新しい未来を作っていくために手を携えています。私も日本の教会に仕えようという確信を持って以来、日本への盲目的な遺憾を控え、中立性を持って愛と協力に進もうと心を込めて生きています。なぜでしょうか? それは、いくら憎い相手がいると言っても、彼らから神の存在を見つけ、彼らを愛するのがイエス・キリストの御教えだからです。私は日本という国を考える時に、ここにおられる皆様、ご近所の皆様の中におられる主イエスが思い起こされ、憎むことが出来ません。日韓の教会がお互いに心を一つにして、愛しあい、仕えあうべき理由は、相手の民族と国を愛しなければならない理由は、そのような愛と協力の中にキリストがおられるからです。だから、相手を憎むことは、その中におられるキリストを憎むことと等しいことなのです。 マスコミは、いつも相手の国を中傷します。「首相が、大統領が」から始め、相手を盲目的に絶対悪のように作ってしまいます。そして人々がそのような見方で付いて来るように煽り続けます。政治家たちがそれを願っているから、わざわざ忖度しているわけです。その結果、もし、戦争でも起きたら、死ぬのは為政者や政治家ではありません。私たちの子供、親戚が、そして私たち自身が死ぬのです。それは決して主の御心ではありません。主イエスは愛と和解を望んでおられます。だから、一度でもいいので相手の立場から考えてみるべきではないでしょうか? 両国とも神様でない以上、きっとそれぞれの過ちがあるはずでしょう。が、両方ともまるで、自分が神様のようになり、互いに中傷し合い、争い合うだけです。自分の民族と国だけを大事にすることは、イエスのお教えではありません。それは帝国主義なのです。アブラハムは国と民族を問わず、寄留者を丁寧に持て成しました。そして、その寄留者を通して神の祝福を受けました。また、神は寄留者の口を通じて、アブラハムとサラが、切に願っていた息子の誕生を預言してくださいました。そして、私たち皆が知っている通りにアブラハムとサラは信仰の父と母になりました。私たちに何の役にも立たないような人を私たちの中にいる寄留者として考えていきましょう。憎い人をイエスのように扱いましょう。兄弟姉妹と隣人を愛しましょう。そんな我々の人生をこそ、神は喜ばれるでしょう。寄留者への歓待と愛を通して、主の祝福が我々に臨むでしょう。 締め括り 今日の説教を準備しながら私の過去の人生を振り返ってみました。正直、まだ心の中に遺憾の念を持っている人たちが何人かいます。未だに赦し難い人がいます。しかし、神様は今日の言葉を通して、私に仰せになります。「まだ赦せないのか?」「彼らがイエスなら、私からの寄留者ならどうする?」結局、悔い改め、赦すしかないと思いました。皆さんはいかがでしょうか? まだ赦せない、憎い、無視したい人がいますか? イエスを信じること、神の民になることは、決してたやすいことではありません。憎い人を、役に立たないと思える人を、愛さなければならないからです。しかし、その度に主イエスのことを考えましょう。イエスは神と敵だった私たちを救ってくださるために、ご自分の血潮を流され、犠牲になってくださいました。何の益にもならない貧しい者たちをわざわざ捜し回ってくださいました。これは、今日の本文でアブラハムが行なった旅人を持て成した人生と一脈通じる生き方ではないでしょうか? 今日の言葉を通して、心から赦し、自分のように愛し、キリストに倣っていく機会になることを祈ります。そのような人生を生きる時にはじめて主は「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と誉めてくださるでしょう。また、信仰の父として認められたアブラハムのように、神の祝福があるでしょう。

神の子イエス

創世記18章1-15節(旧23頁)マタイによる福音書18章10-14節(新35頁) 前置き もう、マルコ福音書を始めてから半年が経っています。それにも拘わらず、話の進みが遅すぎて、先々週やっと2章を終えて、今週からは3章に入ることになりました。もちろん、一週間おきに創世記をも取り上げているため、もっと遅くなっていると思いますが、マルコ福音書の短い文章の中には、奥深い意味が多く含まれていて、さらに遅くなっているかと思います。しかし、マルコ福音書には21世紀を生きる我々に、依然として有効な教えが、たくさん隠れているので、ゆっくり吟味しつつ語り合っていきたいと思います。イエスはローマ帝国の下で迫害を受けていた主の教会にキリストによる希望を与えてくださり、またイエスご自身が罪と悪に満ちたこの世に、どのように対抗なさったのかを教えてくださるために、私たちにマルコ福音書を残してくださったと思います。マルコ福音書を通して、主イエスがどれだけご自分の民を愛しておられるのかを、また現代を生きていく私たちに、どれだけ希望と勇気を与えることを望んでおられるのかを、一緒に学び、覚えていきましょう。今日は神の子イエスという題で皆さんとマルコ福音書3章の言葉を話してみたいと思います。 1.人を愛されたイエス·キリスト イエス様はマルコ福音書2章後半で、安息日の本当の意味について教えてくださいました。 ‘安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。'(マルコ2:27)主は安息日に宗教儀式としての礼拝だけでなく、神が与えられた隣人に愛を実践することで、真の安息日の精神を守ることを命じられました。今日の本文3章1-6節は、もう一度安息日を背景にし、イエス様が人をどのように愛されたのか、実践的なイエス様の生き方を示してくれます。当時、ユダヤ人は安息日に「働かないこと」という旧約の律法を誤解し、安息日に人を助けることさえ犯罪だと見なしていました。もともと律法が安息日の労働を禁じた理由は、「自分の欲望のための労働や娯楽を止め、神様に完全な礼拝を捧げなさい。」という意味だったからです。 つまり、きちんと聖別された安息日を過ごせとの意味だったのです。 しかし、イエス当時の宗教者たちは、それを誤解して安息日にすべての労働を禁止し、さらに隣人を助け、人を生かすことさえ労働と見なしてしまいました。特に、律法を研究していたファリサイ派の人々は、そのような評価基準に基づき、人々を罪に定めたりしました。 聖別のための禁止が、人を罪に定めるための禁止に変質したわけです。 「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」(3:1-2)そのため、彼らは安息日に片手の萎えた人を治そうとしていたイエス様に注目し、何とかイエス様を罪に定めたがっていました。イエス様が前の2章で「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と仰ったにもかかわらず、彼らはものともせず、イエスを不正な者として中傷するために血眼になっていました。それでも、主は彼らの評価よりも、片手の萎えた人を治されることに力を注いでおられました。ここでの「片手の萎えた人」という表現は、自力では何もできない弱い者を意味する表現です。しばしば聖書は「手」という表現を「力」と解釈したりします。神様は安息日という、本質を失い、口実だけ残っている宗教儀式より、安息日に何もできない者、他人の助けを切実に求めている者を助けることに心を注がれることで、真の聖別とは何か、神様の御心とは何かを教えることをお望みになったのです。そのために力の弱い者に力を与え、助けを求める者を助けてくださったわけです。キリストは神への真の礼拝とは、神様が私たちに与えて下さった隣人を愛し、助ける生き方を伴うことだと教えてくださったのです。 安息日の後、イエスはガリラヤ湖に足を運ばれました。その時、おびただしい群衆がイエスのところに従って来ました。彼らの中にはイスラエル人だけでなく、異邦の人々もいました。彼らはローマ帝国の支配下にある貧しくて哀れな人々でした。イエスのうわさをことごとく聞いた彼らは、自分たちの宗教やローマ帝国では満たされなかった慰めと癒しを請うために、イエスのそばに集まって来たのです。群衆はイエスに会うために押しつぶされるほど、たくさん集まりました。 しかし、イエスは彼らを無視なさらず、皆が怪我せずに主を見ることが出来るように、小船にお乗りになりました。イエスは彼らを癒され、悪霊を追い出してくださいました。イエスは彼らの苦しみと悲しみを知っておられ、治すことを望んでおられたのです。神の聖なる者、油注がれた者イエス·キリストは、人を愛し、彼らを助けるために来られた方でした。イエスは、真の神でありますが、人間でもある、神と人の間の仲保者でした。みずから人間になるほどに、主は人間を愛してくださったのです。神の子イエスは、このように神という絶対的な存在でしたが、人間を愛する憐れみの主でした。 そして、その主は今日もキリストの愛と助けを望んでいる、私たちを喜んで愛してくださる方なのです。 2.神の子という表現について。 「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、あなたは神の子だと叫んだ。」(3:11)その時、貧しくて病んでいる人々を苦しめていた汚れた霊どもは、イエスを見てひれ伏し、「あなたは神の子だ」と叫びました。イエスはまだご自分の時ではなかったので、彼らに「ご自分のことを言いふらさないように」と厳しく戒められました。御父から来られ、人間の間にいらっしゃるイエスは、実に神の子でした。そして、イエスを敵視する汚れた霊どもは、イエスが神の子であることを見抜き、証ししました。敵対する者がイエスを神の子と認めるとは、いかに皮肉なことなのでしょうか。ところで、イエスの当時のローマ帝国において、「神の子」という言葉には、どのような意味があったのでしょうか? 聖書がイエスのことを「神の子」だと証しするから、当たり前にイエスは神の子なのでしょうか? それとも、他の裏の意味があるのでしょうか?事実、この「神の子」という短い表現には、当時の歴史的、文化的、政治的な奥深い意味が隠されていました。イエスはなぜ、このように「神の子」と表現した霊どもを叱られ、戒められたでしょうか? これを理解するためにはイエスの時代から約400年前に遡らなければなりません。 紀元前、約360年ごろ、古代ギリシャの小さな国家、マケドニア王国にアレクサンドロスという王子が生まれました。当時、マケドニアはそれほど大きな国ではありませんでした。しかし、20歳になったアレクサンドロスは特有の勇猛さと実力を発揮し、周辺のギリシャ諸国とエジプトを征服していきました。彼はギリシャ、エジプト征服にとどまらず、西のペルシャを攻撃しました。当時のイスラエル民族はペルシャの支配下にありましたが、アレクサンドロスはペルシャを征服し、イスラエル民族をも支配することになりました。その後、アレクサンドロスは西へと進撃し続け、現在のインドの一部までも掌握し、ギリシャ帝国を打ち立てました。(広さ九州→アメリカ)このすべての征服活動は、わずか10年にしかならない短い期間に行なわれました。 それで人々は今でもアレクサンドロスを偉大な王という意味で、大王と呼びます。ところが、アレクサンドロスの業績は土地の拡張だけにとどまることではありませんでした。彼はギリシャの文化をペルシャとインドの地域まで伝え、西洋と東洋の文化が結びついた、いわゆるヘレニズム文化の発端となりました。以後、ヘレニズム文化は西洋に逆流入し、その影響はギリシャ帝国のみならず、ギリシャ帝国の滅亡後、ローマ帝国の全盛期にも影響を及ぼすほど、強力なものでした。 そのヘレニズムの影響で、ローマ帝国の支配下で記された新約聖書は、ほとんどがギリシャ語版であり、ローマ帝国が誕生する前、すでに旧約聖書はギリシャ語に翻訳されたのです。 ところで、アレクサンドロス大王は自らをゼウスの子だと言いました。つまり「神の子」だと主張したわけです。以降、ローマ帝国の皇帝たちが自らを神の子と呼んだ理由も、こうしたアレクサンドロス大王への羨望と嫉妬、尊敬の意味を盛り込んでいるためでした。したがって、イエスの時代にあって、「神の子」という言葉は、ローマ皇帝を意味する表現でした。ところで、イエスに敵対していた悪霊たちは、このようなイエスの真の存在意味を見抜き、イエスにまるでアレクサンドロス大王のような権威を込めて「神の子」と呼んだわけです。当時、「神の子」と呼ばれることには、政治的な意味が深くあったため、政治犯と見なされ、十字架につけられ、殺される危険性を持っていました。そういうわけで、イエスはまだご自分の時になっていないとご判断なさり、悪霊どもにイエスについて言い表すことを厳しく戒められたのです。当時のローマの皇帝は、自分の名誉と権力を高めるために、「神の子」と呼ばれることを望んでいました。貧しい人々を支配し、弱い者たちを征服し、もっぱら自分の既得権だけのために世界を治めようとしていたのです。しかし、真の神の子、イエスは彼らと違いました。イエスは「神の子」でいらっしゃいましたが、ご自分の名誉、権力、既得権のためではなく、父なる神が憐れんで愛しておられた弱い者たちの名誉、力、回復のために神の子として来られたのです。イエスはアレクサンドロス大王より偉大なお方でしたが、高いところではなく、最も低いところに来られ、愛と慰めと希望を与えてくださった、真の神の子だったのです。 締め括り 今日の旧約本文である詩編2編は、「神の子(メシア)への賛美」です。この詩篇2編がいつ記録されたのかは詳しく分かりませんが、イスラエル民族がバビロンに滅ぼされる前、王政時代に記録されたという仮説が有力です。つまり、アレクサンドロス大王やローマ皇帝を意味する「神の子」よりも、ずっと前の概念だという意味です。 おそらく、このような詩編2編の影響で、イエスの時代の人々も、神の子という表現に対する旧約のイメージを知っていたと言えるでしょう。 それにアレクサンドロスによるヘレニズム文化的な「神の子」という意味も知っていたはずでしょう。結局イエスは、このようなヘブライ的な、そしてヘレニズム的な文化が重なっているローマ帝国の支配下のイスラエル社会に真の「神の子」として来られた方なのです。しかし、イエスはこの世が示すローマ皇帝としての神の子ではありませんでした。詩編2編のように、世の権力の上におられ、この世とあの世、両方とも治められる真の神の子でした。 この真の神の子イエスは、いつかこの世の悪い権勢を退け、正義と愛の王として再臨されるでしょう。我々キリスト者は、そのイエスを信じて、イエスが行われた神と隣人への愛を重要な価値として、生きていくべきでしょう。 神の子イエスは、敵には審判者として、民には救い主として来られる方です。そのイエスの再臨を待ち望む存在として、イエスに倣い、聖別されたものとして、正義をもって生きる私たちになることを願います。

聖霊と教会。

ハガイ書2章1-9節(旧1477頁)エフェソの信徒への手紙2章14-22節(新354頁) 前置き キリスト教は、御父、御子、聖霊の三位一体なる神を信じる共同体です。創造から終末まで、すべてをご計画なさる父なる神と、その御父の御言葉であり、ご意志として神と人の間をお執り成しになる御子イエスと、御父と御子から遣わされ、教会と世を導いていかれる聖霊、このように3位が一つになって三位一体の神としておられる方です。しかし、私たちには主に父なる神と御子イエスにだけ集中する傾向があり、聖霊に対しては、よく見落としたりする場合があると思います。このように聖霊が見落とされる傾向について、アメリカの、ある神学者は、このように語りました。「聖霊は長い間、まるでシンデレラのような存在だった。2人の姉妹は舞踏会によく行き、シンデレラは全く行けなかったように、聖霊は御父と御子に比べ、いつも冷遇を受けた。」それほど、聖霊は頻繁には取り上げられない方だと思います。私たちは普段、聖霊について、どんな認識を持って生きているでしょうか? 実際、父なる神やイエス・キリストに比べて、聖霊への認識は薄いのではないでしょうか。私たちは毎年聖霊降臨節(ペンテコステ)を記念していますが、私たちの実生活の中で聖霊はどのような位置を占めておられるのでしょうか。今日は三位一体の聖霊と、そのご降臨について話してみたいと思います。 1.「聖霊がご降臨なさる。」 イエスは十字架で御救いを成し遂げられた後、3日目に復活されました。復活なさった主は40日間、弟子たちとイエスに従っていた人々に現われ、ご自分の復活を証しし、この世の終わりまで福音を宣べ伝えることを命じられました。そして昇天なさり、父なる神の右に行かれました。弟子たちは復活された主を目撃し、その方が本当に神の子であると信じるようになりました。それでも、彼らは主イエスの不在を恐れていました。しかし弟子たちは主の御言葉に従い、ご命令通りに行いました。その命令とは、神の約束、つまり聖霊の降臨を待つことでした。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4-5)生前のイエスは繰り返し聖霊が来られると予告してくださいました。 使徒言行録によると、その聖霊が降れば、主の民は神に力を受け、地の果てに至るまで主の証人になると記されています。そして、その結果、聖霊によって主の教会が打ち立てられました。 主が天に昇られた後、10日間、弟子たちは主が約束してくださった聖霊を待ちながら祈りに力を尽くしました。そんな五旬節の日、(過ぎ越し祭後50日目、イエス昇天後10日目、ユダヤ人の祭り七週祭)突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話し出しました。聖霊に満たされたペトロは、過去のような恐れではなく、確信を持ってイエス・キリストと、その福音を堂々と宣べ伝えました。そして、その日、彼の伝道によって3000人の人々がイエスを信じるようになりました。主の教会はこのように聖霊のご降臨から本格的に始まりました。イエス様が繰り返して予告された聖霊の登場は弱い信仰を強く、不信を信頼に変える、また、主の福音を地の果てに至るまで伝える原動力になりました。このすべては、聖霊の降臨から、はじめて実現したのでした。 2.聖霊はどなたであり、何をなさる方なのか。 それでは、聖霊はどんなお方なのでしょうか。聖霊はヘブライ語では「ルーアッハ」、ギリシャ語では「プニュマ」と言います。いずれの単語も「風、息」という意味を持っています。神の霊である聖霊は、人間が触れることも、見ることもできない超越的な存在です。しかし、風が見えなくても存在するのと同様に、御父と御子から来られた聖霊は、民の生活に介入し、共にいてくださる方です。聖霊はまるで風のように人間の統制を超える方です。時には、そよ風のように優しく私たちの間にいらっしゃる方で、時には嵐のように強く私たちを導いてくださる方です。聖霊は創造の前から御父、御子と共にいらっしゃった神様で、創世記1章でも現れる方です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(倉1:2)また聖霊は息のような方です。生き物が息をついて生命をつないでいくように、聖霊はキリスト者に神による御言葉と信仰、すなわち神による生命を与える方です。聖霊を通して生命の主であるキリストを知るようになり、信じるようになり、日常生活で神様の御言葉に聞き従って生きるように導いてくださいます。初めの混沌と暗闇と無秩序に満ちた世界に秩序と生命を与えてくださったように、聖霊は地上のキリスト者に信仰と生命と秩序を与えてくださる生命の息のような方なのです。 聖霊は教会と切っても切れない方です。御父と御子がご計画なさり、成し遂げられた、すべてのことが聖霊を通して、この世に成就されます。イエスは頭、教会は体という教会論の概念も、イエス様と私たちを一つにつなげてくださる聖霊がいらっしゃらなければ、成り立たない話です。私たちに与えられた聖書も各時代の預言者たちが、聖霊を通して書き残した神の御言葉の記録です。江戸時代にカクレキリシタンへの迫害が激しかったにもかかわらず、19世紀に再びプロテスタントの宣教師が来日したことも、宣教に対する聖霊の情熱のゆえです。聖書を読む時の悟りも、主日の説教も聖霊によるものです。教会員の国籍が異なる志免教会が、一つの心を持って礼拝する理由も、聖霊によって一つになったため、可能なのです。キリスト者が自分だけを愛する人間の本性を乗り越え、神と隣人を愛するようになるのも、この聖霊による信仰と愛のゆえです。 もし、聖霊が来られなかったら、2000年前に打ち立てられたキリスト教会は100年も経たないうちに消えてしまったのかも知れません。しかし、御父と御子から我々に遣わされた聖霊のお導きによって、教会は2000年間の歴史で健在に続いて来ました。 3.教会を保たせてくださる聖霊 今日の旧約本文は、この聖霊が旧約時代にも主の民と共におられ、活動された方であるということを示してくれます。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。(ハガイ2:4-5)聖霊は初めからおられ、旧約時代の神様の民とも常にいてくださった方です。イスラエルの国が滅び、神様がいらっしゃらないように感じられる時も、聖霊は変わらず常に民の間におられました。それでは、このように旧約時代から存在しておられた聖霊が、なぜ五旬節に再びキリスト者たちに臨まれたのでしょうか。これは、これまで不在だった聖霊が、新しく臨まれるという意味ではなく、常におられた聖霊がキリストの新約の教会を打ち立ててくださるために、新しい力をくださったと理解するのが正しいでしょう。初めから常におられた聖霊が、イエスの十字架での犠牲と復活によって建てられた主イエスの教会を支え、その教会を保たせてくださることを示すために降臨という出来事を起こしてくださったわけでしょう。 このように、新約の民、つまりキリスト者に臨まれた聖霊は、聖書を通して現れる神の御言葉を我々に教えてくださる方です。またキリスト者の心に神の御心に聞き従おうとする聖なる熱望をくださる方です。聖霊はキリストへの信仰をくださり、神と隣人への愛をくださる方です。このように主の教会がキリストを中心にし、しっかりと建てられるように、聖霊は教会を助けてくれる方です。そういうわけで、イエス様はヨハネによる福音書を通じて「助け主」聖霊が来られると何度も強調してくださったのです。イエス様は肉体を持った方でしたので、世の中のすべての所にいらっしゃることが出来ませんでしたが、霊でいらっしゃる聖霊は、時空間を越えて、いつでもどこでもキリストの民と共にいてくださる方です。したがって、主イエスの教会がある場所には、かならず聖霊が一緒におられます。「(教会は)使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22)聖霊は今日も教会を導かれる方として父と子のご意志を私たちに教えてくださり、この世の終わりまで教会と共にいてくださるでしょう。 締め括り プロテスタント教会の代表的な神学者、ジャン·カルバンは、著書『キリスト教綱要』で、「聖霊はキリスト者だけでなく、神を信じない者の中でも、ご自分の御業を成し遂げ得る方である。」と語りました。それは聖霊が教会だけに限られる方ではなく、この世のすべてのことをご覧になる方であり、治めておられる方であるという意味でしょう。この聖霊が特別に教会のために降臨してくださったということは、教会を神の民として認め、愛と恵みとを持って教会を守るという神様の強いご意志の表現ではないでしょうか。キリスト者である私たちは、主の御心に聞き従い、神への信仰と隣人への愛を持って生きていきます。また、もし罪を犯したり、間違ったりすると罪悪感を感じて悔い改めの座に進みます。これらのすべては、私たちキリスト者の意志ではなく、キリストによって私たちに与えられた聖霊の善良な影響力からではないでしょうか。だから、信仰を持って、愛を持って、悔い改めの心を持って生きていく私たちの中には、聖霊が共にいらっしゃるのです。聖霊は絶対に遠くにおられる方ではありません。聖霊は常に私たちの中に一緒におられ、私たちが感じるにしろ、感じられないにしろ、私たちの人生を導いてくださいます。聖霊降臨節を迎え、私たちの間にいらっしゃる聖霊を覚え、御父、御子だけでなく、聖霊まで、三位一体なる神様が私たちの主となられ、私たちの生を守ってくださることを信じ、感謝をささげる志免教会になることを切に祈り願います。

私の名前はキリスト者です。

創世記17章4-8節(旧21頁) マタイによる福音書28章18-20節(新60頁) 前置き 創世記17章で神はアブラハムと契約を結ばれた後、24年ぶりにアブラハムに現われられました。しかし、アブラハムには約束された相続人も土地も、どれ一つ、まともに成就されたものがありませんでした。むしろ、相次ぐアブラハムの不信仰のため、問題が起こる一方でした。それでも、アブラハムに再び現れた神様は、変わらずアブラハムの相続人が生まれ、また、大いなる国民になるとの約束を思い起こさせてくださいました。アブラハムは変わりましたが、神様のご意志には移り変わりがなかったわけです。神様は 24年前に結ばれた契約を再確認なさり、依然としてアブラハムが神との契約関係の中にいるということを明らかにしてくださいました。そして、その契約の象徴として、アブラハムと彼に属している男子全員に割礼を命じられました。割礼とは、人間に与えられた神との契約の象徴でした。それによって、割礼を受けた者が神様との変わらない契約の中にいることを覚えさせてくださったということです。以上が前回の創世記説教の粗筋でした。 今日は17章に登場するまた違う話、アブラハムの改名を取り上げて聖書に現れる改名と神のお導きについて話してみたいと思います。 1.名前が持つ意味。 幼い頃、私はドンウという名前が気に入りませんでした。私の名前には ‘東側、助ける’という意味の漢字が含まれています。今では週に2回くらい食べるほど、饂飩が好きですが、当時の私は、逆に発音すれば、ウドンというあだ名になってしまいましたので、自分の名前が本当に恥ずかしかったのです。また、あだ名が日本の食べ物で、かなり丸々と太っていたゆえ、相撲取りとも言われていました。私の名前は祖父が占い師からもらった名前で、別に意味がありませんでした。東側のドンに、人助けのウで、東側を手伝う人という意味だったのです。それで同じ名前のまま漢字を変えて改名しようかと悩んだこともありました。しかし、30代に入ってから日本の宣教への確信を持ち、その準備を始めた時、母に「ドンウが東側にある日本へ宣教をしに行く人だから、神様がドンウと名付けてくださったようだ。」と言われました。これが本当に神の御旨かは分かるすべがないと思いましたが、そう言われると、今まで好きではなかった自分の名前が意味のあるものと感じられました。また、日本に来て、自己紹介をする時に、饂飩を逆に言うとドンウになると説明すれば簡単ですので、本当に便利です。そういうわけで、今では、私の名前がとても好きになっています。 人の名前には、その人のアイデンティティが含まれています。もちろん、大した意味が無さそうな名前もあるでしょうが、少なくとも両親や家族が心を込めて名づけてくれたのは確かでしょう。そのような意味でアブラムの名前にも深い意味がありました。アブラムは当時の有り触れた名前で「神は尊い。」または「尊い父」という意味だったそうです。アブラハムの家族が祭っていた異邦の神を称える名前であると同時にアブラハム自身を高める名前でもありました。おそらくアブラハムの家族は、彼が異邦の神の祝福の中で尊い者として暮らすことを願い、このように名付けたのかも知れません。聖書は登場人物の名前を重要に扱っています。例えば、出エジプト記に登場するモーセは、水(死)から引き上げるという意味として(死のようなエジプトの奴隷から引き上げ)、また、彼の跡継ぎであったヨシュア(主は救いである。)は、イスラエルの戦争を勝利へと導き、定住を指揮した救済者のような存在として、聖書に、その名が記されています。同じく創世記17章で神は、信仰の父となる存在として、アブラムの名をアブラハムに変えてくださいました。主は彼が神によって名前が変わった新しい存在として信仰の父らしく生きることを望まれたからです。 2.名前が変わったという意味。 人の名前には、その人が生きていた時代の状況が反映されています。 1900年代の初めから、戦後、日本と国交を再開した1965年にかけて、韓国には「子」で終わる女性の名前が非常に多かったです。明子、英子、淑子、順子、涼子など、日本の和名と同じ、韓国語式発音の韓国語の名前でした。なぜなら、その時の韓国は今とは比べ物にならないほど、日本から影響を受けていたからです。朝鮮戦争以後、アメリカとの関係が深まるにつれ、デイヴィッド·キム、トーマス·キムなど、英語の名前を使う人も増えました。このように人の名前は、当時の文化、経済、社会的な影響を受けます。つまり、名前にその時代の価値観や、状況が染み込んでいるということです。アブラハムの孫ヤコブは、兄の踵を掴んで生まれた存在で、ヤコブという名前には「踵、誤魔化す者、奪う者」という意味がありました。これによって、父のイサクが兄に比べて、ヤコブが好きでなかったこと、ヤコブが野望と欲望の強い人だったことが分かります。 世の中の全ての人は生まれるや否や名前をもらいます。そして、その名前のままで生きていく場合が多いです。しかし、途中で名前を変える場合もあります。日本の有名な細菌学者の野口英世は、もともと野口清作という名前を持っていました。しかし、ある日、ある小説を読んでいる際に、自分と同じ名前の医者が怠惰のため人生を台無しにするという話を読み、名前を変えたと言われます。しかし、聖書で名前を変えた人たちには、ほとんど神様によって新しい名前が与えられました。「神は尊い」あるいは「尊い父」という意味のアブラムは、「あらゆる国の父」という意味のアブラハムに改名されました。神様は異邦の神と自身を高める名前を持っていたアブラムに偶像と自分自身ではなく、唯一の神様だけを高める、信仰の父になれという意味でアブラハムという名前を与えてくださったのです。また、その孫ヤコブは、ヤボク川辺で神にイスラエルという名前を頂きましたが、これは「神様と戦って勝った。」という意味でした。人を騙し、詐欺師のように生きてきた過去の人生を清算し、神様と誠実に関係し、神様の民らしく生きろという意味を持つ名前でした。 また、新約聖書にも名前と関連した事例があります。今日の新約本文に出てくる使徒ペトロのことです。もちろん、この場合は名前が変わったというよりは、普段の名前を使いつつ、象徴的な新しい名前を頂いたことになります。「シモン・ペトロが、あなたはメシア、生ける神の子ですと答えた。すると、イエスはお答えになった。シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたに、このことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」ペトロは「主イエスが神の子である」と信仰告白をしました。その時、主はイエスへの信仰を告白したシモンにペトロという新しい名前を与えてくださいました。ペトロとは「岩」という意味です。主はペトロに岩という名を授けられることによって、ペトロが告白した信仰告白の上に、岩のように堅牢で変わらない教会を建て、その教会を通して陰府の力を打ち砕くと仰せられました。(新共同訳には対抗できないと記されていますが、叩き壊すという言葉が本来の意味に近いです。)このように聖書で名前が変わったり、新しい名前をもらったりすることは、人の人生が変わる全く新しい始まりを意味するものでした。 3.我らの名前はキリスト者。 それでは、今日の、この名前が変わるという話は、私たちにとって、どういう意味があるのでしょうか? カトリック教会では信徒たちに洗礼名を与えます。洗礼名を与えることで洗礼前後の生き方をはっきりと区別する意味があるそうです。しかし、プロテスタント教会では、そこまではしていません。しかし、我々はイエスへの信仰によって、キリスト者という新しいアイデンティティーと名前を持つようになります。イエス・キリストの教会は普遍的で使徒的な教えを受け入れ、イエスの体となった共同体というアイデンティティを持ちます。 普遍的で使徒的な教えという言葉は、すべての信じる者が同様に共有する使徒によって伝えられたキリストへの信仰告白と主の福音を意味します。そして、そのような告白と福音のある人生を生きるキリスト・イエスの人々という意味で、キリスト者と呼ばれるようになるのです。私たちはキリストを信じることで、過去の人生とは完全に別の存在となったのです。神を知らなかった存在が、神を知るようになり、イエスを信じなかった者が信じるようになり、自分だけを愛した存在が、隣人も愛するようになったのです。我々はキリストを信じることにより、その存在の意味自体が変わった、キリスト者になりました。 そして、その変わった名前のように、私たちは貫くべき新しい生き方を求められるようになりました。 締め括り 主はアブラハム、ヤコブ、ペトロの名前を変えてくださることで、彼らに新しい人生を与えてくださいました。名前を変えてくださった上で、いつも彼らと一緒に歩んでくださいました。イエスもペトロが告白した信仰告白の上に岩のような堅い教会を建て、その教会と世の終わりまで一緒におられると約束してくださいました。イエスは、ご自分によってキリスト者という名前を持つようになった私たちと、いつも一緒に歩んでくださる方なのです。主がその名をくださったからです。なので、私たちは日本人、ニュージーランド人、韓国人、中国人として生まれましたが、キリスト者として同じアイデンティティーを持っています。それは誰にも奪われることのない、変わらない事実です。私たちは神様に選ばれた存在として、誰でもは受けることの出来ない、名誉な名前をいただいたのです。だから、私自身がキリスト者であることを恥じ入ったり、隠したりしないようにしましょう。私たちを通してキリストが現れるからです。私たちが自分の身分を隠せば、キリストも私たちによって隠されるでしょう。神様は今日も私たちに「君は誰なのか」とお聞きになります。その時、私たちは「私の名前はキリスト者です。」と誇りを持って答えるべきでしょう。アブラハムは、主にいただいたアブラハムという名前で残りの人生を生き、信仰の父と認められました。私たちもまた神様にいただいたキリスト者という名前通りに生きていき、キリスト者として神様に帰っていく日を待ち望みましょう。

新しい葡萄酒は新しい革袋に。

イザヤ55章1-5節(旧1152頁) マルコによる福音書2章21-22節(新64頁) 前置き 「新しい酒は新しい革袋に盛れ。」 テレビや新聞、インターネットなどで、このような語句をしばしば目にします。「新しい考えを表現したり、新しいものを生かしたりするためには、それに応じた新たな形式や環境が必要であること。」のたとえとして、他国はもちろん日本でもよく使われる表現です。皆さんも、よくご存じだと思われますが、この語句は新約聖書の「新しい葡萄酒は新しい革袋に」という言葉に由来するものです。しかし、社会で一般的に使われる、この表現は聖書の本当の意味を見落とした表現だと思います。なぜかというと、もともと、この表現にはイエスを信じる者として、それに相応しい生き方を促す意味が含まれているからです。イエス様は、なぜ、このような表現をお使いになったのでしょうか? そして、この表現の本当の意味は何でしょうか? 今日の話はマルコによる福音書2章の話を復習する気持ちで分かち合いたいと思います。それでは、「新しい葡萄酒は新しい革袋に」という表現を通じて、神の共同体、教会が貫くべき在り方ついて考えてみましょう。 1. 間違った宗教儀式に陥っていたイエスの時代のイスラエル社会。 もともと、今日の本文は、一ヵ月前に取り上げた断食に直接的な関係がある言葉です。その時、私は断食について語りつつ、断食に代表される、宗教儀式に陥った信仰生活の問題点について語りました。私たちは、その断食に関する言葉を通して、現代の私たちも礼拝、献金、祈りなどの宗教行為にあまりにも集中したあげく、私たちが望むべき実質的な信仰の在り方を忘れ去る可能性があるという警告を受けました。断食は、イスラエルの代表的な宗教行為でした。 当時の宗教指導者、もしくは宗教に熱心だったユダヤの宗教共同体は、少なくとも月に2回、多くは週に何度も断食をしたと言われます。特に、当時尊敬されていたファリサイ派の人々は、頻繁に断食を行い、貧しい者たちへ救済を施したりしました。彼らは断食の時に、洗面もせず、顔の辛い表情をも隠さずいたそうです。自分が断食していることを隠さなかったわけです。そして、そのような姿を取りつつ救済を行なったりしました。そのような行為を通じて、イエス様が登場する前まで、ファリサイ派の人々はユダヤ人の社会で多くの尊敬を受けました。「今日もファリサイ派の先生たちが偉いことをしておられる。」「彼らは私たちと違う。神の正しい者たちだ。」そのような一般の民らの褒め言葉と尊敬が彼らの後についてきました。 しかし、彼らのその行為の裏には「そうだ。この私はあなた達とは違うのだ。私は正しい者だから。」という偽善的な姿が隠れていました。彼らの救済の行為そのものには、確かに社会的な良い機能があったのでしょうが、彼らの心の奥底には、神の栄光よりは、ひそかに自分の義を表わそうとする宗教的な欲望が潜んでいたわけです。そのため、彼らは、何の褒め言葉も代価も求めずに、ただ貧しい者たちを治し、宣教し、教えてくださるイエス様に憎しみを抱くようになりました。イエスが自分らの人気を横取りすると思ったからです。彼らは、道端や神殿の入口に立って長い時間祈ったり、断食の時には苦しい様子を見せたり、救済の時にはたいそうな物を与えるかのように威張ったりして、人々に立派な先生だと褒められたのです。しかし、イエス様は彼らよりもっと多くの慰めと癒しと奇跡を行われながら、何の代価も求められませんでした。ただ、主が望んでおられたことは、人々が悔い改めて、神の懐に帰って来ることだけだったのです。そういうわけで人々の関心と愛がイエス様に集中するのは当然の結果でした。それにより、ファリサイ派の人々とユダヤ人の宗教指導者たちは自然とイエスを憎むようになったわけです。 2.私たちの姿はどうなのか。 イエスの当時、都エルサレムは表向きは神に生け贄を捧げる神殿があり、断食と祈りを行い、貧しい者たちに救済を施し、それなりに宗教的な秩序が定着された所でした。しかし、エルサレムを離れると、貧しい人々の呻き声が聞かれ、少数者が疎外され、既得権者の偽善による理不尽に満ちた場所でした。今日の本文イザヤ書を通じて神様は仰いました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」(イサヤ55:1-2)神は、このように誰でも神様の御前に来て、飾り気と偽善のない真のお交わりをお望みになる方でした。でも、イエスの時代のイスラエル社会は多くの献金や祈りや目に見える宗教的な行為が、宗教的な熱心さを代弁し、それによって自分の宗教的な欲望を満たしていく、神様とはあまりにも、かけ離れた宗教社会だったのです。このような社会の中で、最も貧しく低い所の者たちは何の慰めも、助けも得ることができませんでした。 恐ろしいことは、このような様子が、単に聖書の中にだけ、存在する問題ではないということです。ひょっとしたら、これは現代の私たちの中にも存在する姿かも知れません。以前ある教会で働いている時に、このような経験をしたことがあります。礼拝の時、説教をしていたとき、ふと辛い目にあった未信者の近所の方の話をして、祈りを求めたことがあります。しかし、その話で時間が少し長くなりました。その日の説教の内容とは少し、ずれるところもあり、信徒たちに申し訳ない気がありました。ところで案の定、礼拝後に信者の一人が来て、説教する時は余計な話は控えてほしいと言いました。その近所さんの話以外に特に聖書から外れた話をした記憶がなかったので、その話を指摘されるんだと思い、丁寧に謝りました。その方の意図は十分わかりました。礼拝の時間には礼拝に集中しようという願いだったはずです。その意図は非常に正しいと思われました。しかし、一方ではこんな気もしました。「一体、神様への礼拝とは何だろう?」同時に、聖書の言葉が一つ思い浮かんできました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」(マタイ9:13)その日は、なんとなく悲しくなりました。 3. 宗教儀式ではなく信仰と愛を持って。 私は韓国の長老教の高神派出身です。高神派は旧日本帝国の神社参拝強制への反対運動で有名な教派です。彼らの信仰的な誇りは韓国の教会の中でも非常に高いことで有名です。なので、私が韓国にいた時は「高神派的な信仰」という表現をよく聞きました。また、日本に来てからは、「日本キリスト教会的な説教」という表現もよく耳にしました。ですので、日本キリスト教会も高神派教会のように信仰的なプライドがとても高いと感じました。ところで、その度に高神派的な信仰とは何か? 日本キリスト教会的な説教とは何か?と問い返さざるをえませんでした。イエス様が望まれたのは、高神派的な信仰、また日キ的な説教なのでしょうか? キリストが望んでおられる価値は何なのかと思いました。もちろん、形式も大事です。が、主の教会には、もっと大事な普遍的な価値があると思いました。ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちが断食する時、人々はイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と尋ねました。しかし、それは弟子たちへの不満ではありません。イエス様への不満の抗議だったのです。おそらく、彼らにもユダヤ教への大きな誇りがあったはずでしょう。彼らは「なぜ、あなたは我々の律法を無視するのですか?」と問い詰めたのです。皮肉にも自分たちに律法を与えてくださった方に、律法を守れと問い詰めたわけです。 その時、イエス様は「新しい葡萄酒は新しい革袋に。」というやや理解しにくいお話をされました。これは果たしてどういう意味なのでしょうか。イエス様は旧約の律法を完成なさるために来られた方です。そして、主は旧約の数多くの律法が「神と隣人への愛の実践」のために与えられたものであると教えてくださいました。つまり、律法の完成とは、律法に含まれている精神、愛を明らかにすることだと言って過言ではないでしょう。主は多くの宗教儀式や教義的な立場ではなく、神の愛をどうすればもっとこの地で行なうことが出来るのかに関心を持っておられたのです。もちろん、律法も教義も大事なものです。しかし、そのすべてが神が命じた愛の実践ための道具であることを見逃してはならないでしょう。イエス様はご自身の福音を通して、偽善的な宗教儀式に縛られていた過去の姿を捨てて、神様と隣人への真の愛と実践のある、新しい信仰をお望みになりました。自分の宗教的な欲望のための信仰ではなく、神様がご計画なさった、真に生き生きとする信仰を望まれるのです。神がお求めになることは、何十年も繰り返される習慣的な宗教活動ではなく、ただ一分一秒でも隣人への真の憐れみと愛ではないでしょうか。このイエスを信じる私たちは、過去ユダヤ人が追い求めた自分の信仰的な欲望や偽善的な宗教生活ではなく、真に主の手と足となり、主の栄光のために行い、神と隣人の喜びになるために努力しつつ生きるべきでしょう。 締め括り 主イエスはご自分の犠牲を通して、愛の宗教という新しい革袋としての教会を打ち立てられました。そして、その教会に属する者たちは、新しい葡萄酒のように、神の御心に適う人生を生きるべきです。古い革袋に新しい葡萄酒を入れると、熟成から生まれるガスによって袋が裂けて使えなくなってしまいます。主イエスは新しい革袋として、愛の共同体である教会を与えてくださいました。そして、その中で生きている私たちは主による愛の実践を貫いて生きるべきでしょう。その時はじめて、私たちは良質の美味しい葡萄酒のように、神の喜びになれるでしょう。短い例話をあげて説教を終わりたいと思います。どこかで読んだ文章ですが、ある教派の牧師が天国に行く夢を見たそうです。宝石のような川が流れ、青い草原が広がり、神の24人の長老たちと真っ白な天使たちが神に賛美をしていました。うっとりした彼はそばの天使に尋ねました。「天国にはカトリック信者が多いですか。プロテスタント信者が多いですか?」彼は教理的な質問をしたわけです。その時の天使は、たった一言で言いました。「ここには、神の子羊だけがいる。」そして、彼は夢から覚めたという話でした。神の国は宗教儀式と教理のみで行く所ではありません。それを通して、自分の人生でイエスを信じ、主に倣った愛と実践がある時、私の人生の中に現れるものです。また、そのように生きる者こそ、きっと死後、神が備えてくださった天国に入るでしょう。宗教ではなく実生活として神への信仰と隣人への愛を持って生きていく私たちになることを祈り願います。