帰っていくべき地。

創世記23章1-20節(旧32頁)          ヨハネによる福音書14章1-3節(新196頁) 前置き サラが神に召されました。長い間、夫と共に、神の民として生きてきたサラ。しかし、彼女の人生には数多くの出来事があり、その度にサラは傷つき、挫折しながら生きてきました。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」(ヘブライ11:11-12)けれど、彼女には神への信仰がありました。時には信仰の失敗もありましたが、それでも信仰を持って生きてきた彼女は、最終的に息子を得、その名前どおりに「諸国民の母」という誉も得ることになりました。確かにサラには短所もありましたが、神はその短所よりは彼女の信仰を見て、彼女を導いてくださいました。神は民の短所ではなく信頼をご覧になる方です。「私は出来ないが、神はお出来になる。」という信仰を持って生きる者は、一生、神に導かれ、終わりの日に褒められるでしょう。 1.サラを葬るアブラハム。 サラはヘブロンのマムレに葬られました。前回の説教のモリヤの山での出来事の後、アブラハムとイサクはベエル・シェバに帰ってきたのですが、なぜ、サラはヘブロンに葬られたのでしょうか。(ベエル・シェバとヘブロンの距離は約60km)ユダヤのあるラビはこのように主張したと言われます。「ふだん、アブラハムの信仰を妬んでいた天使たちが、アブラハムとイサクがモリヤに向かう間、サラにアブラハムの計画を言い付け、仲たがいをさせた。サラはその話を聞いてアブラハムの後ろを追った。サラは結局、二人を逃し、ヘブロンで立ち止まった。その後、アブラハムとイサクは無事に帰宅したが、衝撃を受けたサラはヘブロンに滞在し、夫と別居した。結局、サラはその衝撃の故に息を引き取ることになった。」昔のラビたちの話は信憑性が低いので、事実として受け入れる必要はありませんが、私たちはこの話からサラの悲しみを垣間見ることが出来ると思います。おそらくサラはイサクを生け贄にすることで、ひどく傷ついたはずです。我々は時々「神の御心だから」という言い訳で、知らず知らずに隣人を傷つけることがあります。人々は息子を捧げたアブラハムの信仰だけを称賛しがちですが、妻サラの心はどうだったでしょうか。聖書をさまざまな側面から読み、黙想しながら、神への信仰と隣人への愛と配慮の関係について深く考えるべきではないかと思います。 「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。」(創世記23:2-3)一生、サラと共に生きてきたアブラハム、妻の死去は、彼にとって大きな悲しみになったことでしょう。ある研究によると、「配偶者の死は子供の死を超える大きな衝撃を与える。」と言われます。いつも一緒だった人が亡くなってしまうと、比較できない甚だしい喪失感がやって来るからです。サラの生前、アブラハムは彼女を二度も見捨て、また側女との関係を傍観して、サラの心を傷つけました。アブラハムの悲しみは、そういう過去への悔恨からもたらされたものではないでしょうか。今、私たちのそばにいる人は本当に大切です。連れ合いを大事にして愛するべきです。今は日常ですが、いつか、「さよなら」と言う時が来るからです。また、先に連れ合いを亡くした方々は、過去の愛を記憶し、赦すべきことは赦し、大事にして生きるべきでしょう。さて、先に読みました3節には「立ち上がる」という表現がありましたが、これはヘブライ語で「クム」という表現です。どこかで聞いたこと、ございませんか。先週、登場したアラム語の「タリタ・クム」に係わりがあります。「クム」には「起きる、立ち上がる」という意味もありますが、何かを「確定する、確かめる」という意味もあるそうです。妻の死を経験したアブラハムは、今後の何かをはっきり定めるために立ち上がったのです。(ヘブライ語とアラム語は近い言語。) 2.ヘブロンの土地を買い取った理由。 「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」(創23:4)アブラハムが立ち上がった理由は、妻のために墓を買い取るためでした。ところで、この墓はサラ一人だけのためのものではありませんでした。「こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。」(倉23:17-18)(新共同訳ではアブラハムの所有となったと記されているが、原文では前のクムを使ってアブラハムの所有と確定されたと記されている。)アブラハムはマムレの前のマクペラの洞穴と、その他を買い取りましたが、このマムレは非常に大事な場所でした。創世記18章で神の御使いたちがアブラハムに訪れた場所がマムレでした。神は、そこでイサクの誕生と、世界の全民族がアブラハムによって祝福に入ると確定してくださいました。マムレは神の民アブラハムが信仰的に成長するたびにいた場所です。つまり、ヘブロンのマムレは「神の民アブラハム」という存在が養われた場所であり、神とアブラハムの子孫イスラエルの関係を証明する記念碑的な場所であったのです。妻の死後、アブラハムは神との約束を記憶し、妻はもとより、自分と子孫たちの帰るべき「約束の地」を確実にしようとしました。それでマムレを買い取ろうとしたわけです。 「どうか、 御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」(6) 「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください。」(11) アブラハムが、その土地を買おうとした時、先住民の指導者だったエフロンは、土地をただであげると言っていました。しかし、それは婉曲な拒絶を含む表現でした。本音と建前という概念がありますが、エフロンの行動がそれに似ていました。エフロンは、表向きでは親切に行動しましたが、裏では土地を売りたくない気持ちを持っていました。しかし、アブラハムは神が確定してくださった、この地を必ず所有しなければならないという信念を持っていました。 結局、エフロンは銀400シェケルという、土地の本来の価値より、はるかに高値を示しました。それでも、アブラハムは意に介さず、その土地を買い取りました。神は創世記15章13節で、アブラハムの子孫がエジプトで400年間奴隷として生きるだろうと予言されました。アブラハムは妻の死をきっかけに、神が約束された土地を妻と自分が葬られる土地として買い、以後、自分の子孫たちが帰ってくるべき場所として備えたわけでした。 3.「主の民には帰るべき所がある」 古代ユダヤの墓を上から見下ろすと、まるで手のような形になっていたと言われます。入口に入ると手のひらのように広い場所があり、死者を亜麻布に包んで安置したそうです。そして数年後に、その遺体が骸骨になると、指のような別の墓室に移したということです。そのため、先祖の遺骨が古ければ古いほど、内側に安置されたそうです。つまり、同じ墓に同一家系の人々が代々に葬られるわけです。旧約聖書には、このような表現があります。「あなたは先祖の列に加えられる。」ユダヤ人にとって最も名誉ある死は、安らかに死に、先祖の墓室に安置されることであり、最も不名誉な死は遺体が毀損(きそん)されて先祖の墓室に入れないことです。そして、最後の日、復活の日には、その骨に生命が立ち戻り、蘇るということが彼らの信仰でした。それほど、アブラハムが妻と自分の墓に気を遣ったことには、子孫のためのこういう理由があったのです。実際に息子のイサク夫婦も、孫のヤコブ夫婦も(レアだけ、ラケルはベツレヘムに。)マクペラの畑の洞穴に葬られます。とにかく、マムレのマクペラにはアブラハムの子孫に与えられた、神からの恵みの場所であり、彼らが必ず帰るべき土地であるという記念碑的な意味がありました。現代にも外国に暮らしていたユダヤ人が、死後にイスラエルに葬られる場合が少なからずあると言われます。先祖の列に加えられたいという考え方が今でも残っているからです。 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ福音書14:1-3)今日の旧約と新約の本文の間に神学的な関りがあるかどうかは、私には、はっきり見つけられませんでした。しかし、アブラハムの子孫であるイスラエル民族に必ず帰るべき地があったように、私たちキリスト者にも必ず帰るべき所があるという点で、今日の新約本文が強く思い浮かびました。旧約が語る地という概念は、神の祝福と恵みを意味し、新約になっては、この地の意味がイエス・キリストの御救いに変わることになりました。神の祝福された神殿の意味がイエス・キリストの教会共同体と変わったように、旧約の地の概念も新約の主の御救いに変わったわけです。 締め括り アブラハムが、自分たちの帰っていくべき地であるマクペラの洞穴を備えたとすれば、我が主イエス·キリストは、ご自分の血潮によって御国に帰って行ける御救いを備えてくださいました。我々は、イエスを通して真の神に出会い、その方の国に入ることが出来るのです。アブラハムが愛する妻と子孫のために土地を買い取ったように、イエス·キリストは愛する民の救いのために、ご自分の血を流して神への道を設けられました。本日、旧約の本文を見ながら、我々は記憶しなければなりません。旧約のアブラハムが行なったことを、新約では誰が行なったのか、神の約束の地を記憶させた旧約のアブラハムの出来事を黙想しつつ、神の御救いを約束された新約のキリストを共に記憶すべきでしょう。 私たちには必ず帰っていくべき地があります。そこには苦しみも、悲しみも、痛みも、差別も、民族も、国家もありません。ただ、キリストの支配と神の愛だけがあるだけです。私たちは必ず帰っていかなければなりません。父なる神がキリストを通して、主の前に出てくるすべての民を喜んでお迎えくださるでしょう。 そのような信仰を持ってアブラハムの物語を理解し、キリスト・イエスの恵みを覚える私たち志免教会になることを願います。