信仰の戦い。

旧約本文はありません。 エフェソの信徒への手紙6章10-20節(新359頁) 前置き 今日は、エフェソ書の最後の説教です。今年、私が考える一番大事なテーマは「教会とは何か?」です。エフェソ書は、教会の意義について明確に教えてくれます。「天地創造の前から神にあらかじめ定めされ、キリストによって救われ、その御旨に適って生きるキリストの体なる共同体。」これが教会の意義です。したがって、教会は神の御心によってキリストの民となった、キリストと共に歩まなければならない存在です。この世の思想、生き方ではなく、キリストの御心と生き方に聞き従わなければならない存在です。私たちは、この日本の地に住んでいますが、実は主の御国に属する存在です。この地にいるが、実は天に属している存在、それがキリストの体なる共同体、教会のアイデンティティなのです。今日の本文は、その教会を成すキリスト者の信仰生活について、特に「信仰の戦い」について語ります。最近、多くの兄弟姉妹が体や心の疲れと痛みを感じています。今日の本文を通じて、このような状況を乗り越え、また進んでいけるエネルギーを主なる神に与えていただくことを祈ります。 1. 血肉の戦いではなく、霊の戦いを。 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:12) 戦いは良くないというのが常識です。聖書も隣人への愛、さらに自分の敵への愛までも命じます。できるだけ、忍耐してどんな形でも戦わないことが望ましいです。しかし、聖書が勧める戦いがあります。それは霊の戦いです。今日の本文6章11節は、その戦いが血と肉の戦いではなく、悪の霊たちを相手にすることだと語ります。天にいる悪の諸霊、つまり悪魔を意味します。しかし、聖書が語る悪魔は、映画に登場する怪物のような存在のことではありません。昔のヘブライ人のある文献には、これらの悪魔は堕落した天使であると記してあります。そして、彼らは神に逆らう存在です。彼らは神の座を奪い取るために神を裏切り、神の罰を受けた堕落天使、すなわち悪魔になったとあります。このような悪魔の働きは創世記のアダムとエヴァを誘惑した蛇、ヨブ記のサタンのような存在から現れます。新約聖書にも悪魔についての言及があるほどです。実に悪魔はいると思います。しかし、私たちは悪魔が私たちの人生を操り、強制的に私たちを罪に追い込む存在だと考えてはなりません。「悪魔の誘惑」という言葉があるように、確かに神に逆らう者、悪魔は人間を罪へと誘惑します。しかし、その罪を選ぶのは悪魔ではなく、人間そのものです。 古代のヘブライ人たちは、天使と悪魔が本当にいる霊的な存在ではあるが、それと共に人間も、神に従う者が即ち天使のような者であり、神に逆らう者が即ち悪魔のような者だと考えました。第3の存在である天使や悪魔に自分の責任を転嫁してはならず、人間そのものが、生き方によって天使にもなれ、悪魔にもなれるという見解だったと思います。 ですので、霊の戦いとは、ある意味、悪魔という霊的な存在との戦いだけでなく、悪と罪によって誘惑され、神に逆らうようになり得る、人間自分自身との戦いとも言えると思います。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33) イエス•キリストは「わたしは既に世に勝っている。(悪の権勢に勝利している。)」と言われました。つまり、主と悪の戦いは、すでに終わり、結果は決まっています。主イエスが勝利され、この世はそのイエスの支配下にあるのです。つまり、すでに勝利した戦場です。したがって、主の民である私たちも、主によって、すでに勝利したのです。しかし、聖書は私たちにまだ残っている悪と罪の本性に躓かないよう、それと戦って勝つことを命じます。勝利者として、勝利者にふさわしい人生を勧めているのです。だから、霊の戦いは自分自身の罪との戦いです。誘惑と勝利の中で、私たちが取るべき生き方を選んで生き続けること。それがまさに霊の戦い、信仰の戦いなのです。 2. 神の武具を身に着けなさい。 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ書6:11,13) 今日の本文は、霊の戦いに勝利する人生のために「神の武具」を身に着けることを命じます。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(14-17)、その神の武具は次の通りです。真理の帯、正義を胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして最も重要な(聖)霊の剣、すなわち神の御言葉なのです。このような武具は、古代ローマの兵隊の姿と似ています。①真理とは変わらない主の御心を意味します。ひとえに神だけが勝利者であり、真の主であるという変わらない事実のことです。ローマ軍兵の帯は現代のものとは異なります。それは腰を支えて強い力で武器を振るうようにする武具です。真理に立って主の御心に頼る時、強い信頼の力を発するようになるということです。 ②正義(義、正しさ)とは、キリストによる、天地創造の摂理に忠実な模様です。つまり、神に属している欠けることのない完全さを意味します。人間はたとえ罪によって不完全であっても、主イエスの義によって完全な者と見なされ、神に認められるという意味です。胸当ては心臓を守る鎧のことです。私たちは生まれつき罪人ですが、キリストの義は私たちを正しい者と認めさせます。私自身は自分を義にすることが出来ないが、キリストの義は、私たちを罪人ではなく正しい者とさせる唯一の原動力になります。 ③平和とは、神と隣人との和解を意味します。平和の福音の履物は、キリストの福音によって、神と隣人を愛し、真の和解を成し遂げていけるようにします。隣人を憎むということは、血肉の戦いを意味します。しかし、キリストの平和が私たちと共にあり、それを私たちの履物とする時、私たちは隣人を愛することで血肉の戦いを避け、霊の戦いだけに集中できる人生を生きていけるようになります。 ④そして、また大事な私たちの武具は信仰の盾です。盾は矢と刃物を防ぐ防具です。世は私たちに否定的で不信心の思想を絶えず伝えます。悪魔は私たちに死と堕落の生き方と思想をそそのかします。しかし、主への堅い信仰の盾があるなら、私たちは決して欺かれずに、主の御心だけに従って生きるようになるでしょう。 ⑤救いの兜、兜は勝利を象徴します。ローマ時代、戦争に勝利した将軍は、月桂冠をかぶって行進しました。キリストの救いによって、私たちはすでに勝利した存在です。時々、人生の辛さや試練によって自分自身が負け犬のように感じられる時もあります。しかし、主による私たちの勝利を忘れてはなりません。自分の状態を見る前に、主がどんな状態でおられるかを憶えましょう。主イエス•キリストはすでに勝利した方です。⑥最後に最も大事な武具は、私たちの武器、聖霊の剣です。今日の本文は、聖霊の剣が、神の言葉であると語ります。神の言葉は力が強いです。この世は私たちが敗北者だと非難していますが、主の言葉は、私たちが勝利者だと応援しています。この世は私たちが失敗したと言いますが、主の言葉は私たちが成功していると言います。この世は皆が私たちを憎んでいると語りますが、主の御言葉は私たちが神に愛されていると語ります。自分の考え、世の考えに呑みこまれて迷っている時に、主の御言葉は、私たちの考えを新たにし、神の御心どおりに進むように導きます。したがって、神の御言葉は私たちの唯一の信仰の武器、聖霊の武器なのです。自分の考えを盲信しないでください。ひたすら、主の御言葉だけを信じるのです。以上、6つの神の武具を通して、私たちはすでに勝利された、主に従ってこの世を生きていくのです。 3. 祈りによって生きる勝利の人生。 そして、本文は、その神の武具による信仰の人生に、祈りが伴うと語ります。祈りは神と私たちのコミュニケーションです。ひざまずいて両手を合わせて敬虔にすることも祈りですが、私たちの人生のすべてにおいて、神に助けを求め、神の御心を待ち望み、主の御言葉通りに生きようとすることも祈りです。神とつながり、神の後をついていくことが、まさに祈りの人生なのです。このような人生を通してキリスト者は勝利を保ち、その共同体である教会も勝利することになるでしょう。「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。」(19) 最後に本文は、つまりパウロは自分のためにも祈ってくれと求めます。神と私たちのコミュニケーションとしての祈りだけでなく、私たちの兄弟姉妹のための祈りも大事です。それによって主の教会を健全に立てていくのです。神の武具によって信仰を守り、神の言葉の剣で罪と悪に勝ち、祈りによって神とつながり、祈りによって兄弟姉妹を助ける人生。それがエフェソ書が勧める教会の望ましい生き方ではないでしょうか? それがまさに勝利の人生ではないでしょうか? 締め括り この頃、体と心の痛みと疲れで苦しんでいる兄弟姉妹がおられます。 入院、体調不良、心の試練、家族の病気、自分の病気で思い煩いの方がおられます。しかし、そのような時、主に寄りかかり、躓かず、あきらめず、再び立ち上がって前に進むことを、聖書は勧めています。 私たちは弱くても、私たちの主であるキリストは永遠に変わらないからです。自分の状況ではなく、神の導きを憶え、自分は弱くても、神は変わることなく勝利者であることを憶えて、信仰の人生を生きていきたいと思います。そのような人生のために、今日の本文は神の武具と祈りの人生を話しているのです。私たちはすでにキリストによって勝利した者です。それが教会という共同体の意義なのです。したがって、最後までキリストの勝利を信じ、主に従って生きる私たちであることを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

聖餐について考える。

出エジプト記 24章1-11節(旧134頁) ルカによる福音書22章19-20節(新154頁) 前置き 「生きるために食べよ、食べるために生きてはならない。」古代ギリシャの哲学者であるソクラテスの言葉だと言われます。これは単純に何かを食べるという意味ではなく、食べるという言葉で象徴される人間の欲望について、その欲望にとらわれず、人間らしく生きなさいという意味だと思います。このように、食べるということは、人間の本能的な欲望を表す行為でもあります。人は食べなくては生きることが出来ない存在です。食べる行為は、人間の欲望と生存の間でハラハラする綱渡りのような、深い意味を持つ本能です。食べるという行為は、人間の生命と直結する問題です。ですから、私たちは、いつも食べることについて、深い関心を持って生きるべきです。食べることは、人間の善と悪を包括する善と悪の両面性を持つ行為です。私たちは、この食べるという行為を通して、神から祝福され、また、裁かれます。今日は教会の最も代表的な食べる行為である聖餐について考えてみたいと思います。なぜ、神は聖餐という食べる行為を通して、私たちの信仰を告白させ、教会を立てていかれるのでしょうか。 1.変質した『食べる』という行為。 神は人間の創造の時「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と祝福されました。そして、まもなく「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」と言われました。神が人間を造られた理由は、人間が栄え、地に満ちて、世界を支配し、それによって神に礼拝することを望んでおられたからです。神はそのような人間に「食べる」という行為を祝福としてくださったのです。人間にとって食事とは、他の被造物を支配し、神に仕える力を得るための祝福です。このような意味から考えてみれば、この食事という概念は、単に自分の欲望を満たす、ただの快楽だけのための行為でないことが分かります。食事は、人間が世界を正しく支配するために、神に与えられた祝福なのです。人間は世界の正しい支配によって、神を崇め、神に栄光を帰すために食べるのです。創世記1章28節の「支配する」という言葉は、暴力的な征服や抑圧とは違います。戦争して略奪するという意味でもありません。初めの人は罪のない存在で、一切不正な行為、罪を伴う行為を犯さない存在でした。 彼らの中に神の形が完全に残っており、罪から自由な状態でした。そのような状態の者の『支配』は、暴力や戦争のようなものではなく、神のように被造物を見守り、治めることだったのです。神は暴力や、抑圧ではなく、愛と正義とで被造物を支配されるからです。食事を通して力を得た最初の人間は愛と正義を持って他の被造物を守り、そのような行為を通して神に栄光を帰す存在でした。ということで、食べるということは、単に欲望を満たす行為ではありませんでした。善を行うための、神の賜物であり、正しい支配の原動力だったのです。しかし、この聖なる行為、食べる行為が、人間の罪によって変質しました。アダムは神の座を奪おうとの欲望で、神が禁じられた「知識の木の実」を取って食べてしまいました。愛と正義を行うために何かを食べたのではなく、もっぱら自分の欲望と必要のために食べたのです。その瞬間、この世に罪が入ってきたのです。食べることで罪を犯したわけです。神の栄光のために善を行うための食べるという行為ではなく、自分の欲望を満たすための行為としての『食べる』に変質したわけです。生命の行為が、死の行為に変わりました。祝福のための行為が、呪いをもたらす行為となってしまったのです。 2.食べることの大事さ。 というわけで、聖書に出て来る「飲み食い」とは、祝福と呪い、両面性を持つ言葉なのです。イエスはルカによる福音書17:27で「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」と言われました。神の祝福のために人間に与えられた「食べる」という行為が罪のゆえに人間の邪悪な欲望の象徴となったのです。この食べるという人間の本能のため、この世には、多くの悲劇が起こりました。ローマのような古代の帝国も、最初は小さな村からでした。肥えた土地で平和に住んでいた小さな部族は、少しづつ人口の増加を経験し、食糧が足りなくなってきました。とういうことで、自分の部族を保たせるために、隣の村を攻め、人々を殺し、食糧を奪い取りました。そのように征服を重ねて、最初の小さな村は大きい帝国になっていきました。数多くの人々が帝国の食べ物のために殺され、多くの国々が略奪されたのです。これが帝国が生まれた過程なのです。神がエデンの園を造られ、最初になさったのは人間に食べ物をくださることでした。人が堕落して神を背いた時、最初に消えたのも食べ物でした。 「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。 お前は顔に汗を流してパンを得る。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:17-19) 食べ物は楽に得られるものではありません。食べるというのは神の祝福です。神が食べ物をくださらなければ、人間は食べるもののために、他者に害を及ぼす存在となるのです。神は呪われた人間に一生労して、食べ物を得よと命じられましたが、人間の罪はその労苦の代わりに他者への暴力による解決を選んだのです。食べるために他者を殺し、破壊したのです。これが帝国主義の始終です。このような世の中で、神はご自分の民イスラエルを呼び出されたのです。自分の食べ物のためにイスラエルを弾圧したエジプトからイスラエルを救い出されたのです。神は彼らにマナとウズラと水をくださいました。そして、乳と蜜の流れる土地にまで導かれたのです。神は主の正しい民を育てようとイスラエルに食べ物をくださったのです。今日の本文で神はモーセと祭司と70人の長老たちを呼び集められました。イスラエルは神と共に飲み食い、神の民として生まれ変わりました。他者の食べ物を奪い取る時代に神は真の食べ物をイスラエルにくださったのです。 3.聖餐 – 食べることによって、新たに始まる交わり。 私たちの聖餐は、食べ物をくださる神の恵みに似ています。神が許された食べるという行為を通して、民が主の恵みを憶える礼典です。罪によって汚れた食べるという行為から脱し、純粋に神と和解し、隣人と一緒に交わるようになる生命の行為です。イエスは十字架につけられる前夜、弟子たちを呼び集め、過越祭の晩餐を施されました。『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさいと言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさいと言われました。』(コリント11:23-25)初めに人が食べて犯した罪を、新しく「食べる」ということによって解決されるため、イエスはご自分の血を象徴する杯と、ご自分の肉を象徴するパンとを弟子たちに食べ物としてくださいました。出エジプト記のモーセと長老たちが神から与えられた食べ物を飲み食いしながら、神と和解したように、イエスは、ご自分の血と肉とを通して人々を召され、契約を結ばれ、神と和解させられたのです。これらの契約の食事を通して神は人間との交わりを求められつつ、人間と人間の美しい交わりを望んでおらたのです。 私たちは、聖餐の時、杯とパンにあずかります。その食べるという行為を通して、神の民である私たちは、主の御前に立ちます。今もなお、この世の悪は自分の欲望を満たすために何かを食い尽くそうと探し回ります。その食べるということのために周りの人々を苦しめることも頻繁に起こります。自分自身と自分の家族と自分の共同体のために他の人々を苦しめることを当たり前に思う人が、依然として存在します。しかし、神は違う方です。御子イエス・キリストを犠牲にさせ、イエスの血と肉とを象徴するぶどう酒とパンを通して罪人に生命の食べ物を与えてくださいます。神が生命の食べ物をくださるという象徴、私たちも飲み食いして経験する象徴、その象徴が、私たちが行う聖餐なのです。この杯とパンに与かる私たちは、キリストの血と肉を分かち合い、キリストの体として生まれ変わります。そして、これからは自分の欲望のために悪を満たす生き方を捨てて、キリストの愛と正義を通して善を行うために生きていく人生を誓うのです。このような私たちに神は永遠の命の約束を与えられたのです。これらの聖餐の精神の中におられる聖霊が私達に生徒の交わりを味わう恵みを注いでくださるのです。 締め括り。 エデンの園には、知識の木の実のほか、命の木の実もあったと言われます。それは永遠の命を与える木の実だったのです。創世記に記された命の木の実は、真の救いと恵みを意味するシンボルです。無くなった神の園に永遠の命があったということです。しかし、罪によって追い出されたアダムはその命の木の実を食べることができなくなってしまいました。言い換えれば永遠の死にさらされたということです。しかし、神はイエス・キリストを通して、私たちが永遠の命を得ることが出来る機会を与えてくださいました。肉体は死んでも、魂は生き残って神と共におり、終わりの日には肉体の復活を通して、罪のない完全な体を取り戻して神の国で永遠に生きることです。その無くなった命の木の実として、私たちにイエス・キリストをくださったのです。私たちが、聖餐に与かり、主イエスの肉と血を飲み食いすることは、この失われた命の木の実を食べるのと同じことです。失った命の木の実を、イエス・キリストによって再び食べるということです。聖餐を食べる行為の意味を顧み、欲望のためではなく、善を行うために食べる人生であることを望みます。キリストの肉と血を分かち合う、私たちは正しくこの世を支配して神の愛と正義に満ちた世界を造るために聖餐に臨むべきであります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

神と教会の協力。

出エジプト記7章1~7節(旧103頁) マタイによる福音書16章19節(新32頁) 前置き ヤコブの息子ヨセフがエジプト帝国の総理だった時代、ヤコブの家族(イスラエル)は大飢饉を避けてエジプトに入ることになります。最初70人余りだったイスラエルの家族は、主の恵みにより約400年間数十万以上の民族に成長しました。しかし、その間、エジプトの王朝が変わり、一時、総理の民族だったイスラエルは、エジプトの新しい王朝によって奴隷民族に成り果ててしまいました。彼らは毎日重労働の中でうめき声を上げました。そして、彼らのうめき声と嘆きがクライマックスに達した時、神はイスラエルを憶え、救おうと決心されました。そこで、神はイスラエルの救いのために一人を呼び出されますが、彼はモーセでした。最初、モーセは神のお呼び出しを断りましたが、結局、神のご意志に服従し、エジプトに行くことになりました。そして、ファラオの前に立ち、神からのイスラエル解放の命令を告げ知らせます。しかし、モーセはファラオに見事に断られ、追い出されることになります。それだけでなく、モーセによってイスラエルの労働はさらに加えられ、イスラエルはモーセを恨むようになります。そしてモーセもその結果に失望し、神に嘆きます。すると、主なる神は必ずイスラエルを解放し、モーセを助けると約束されます。 1.慰めてくださる神。 今日は、イスラエル解放のための神の新しい御業の始まりである7章から話してみたいと思います。「主はモーセに言われた。見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。」(出7:1-2) 神は、挫折したモーセに「あなたをファラオに対して神の代わりとする。」と言われました。新共同訳聖書には「神の代わりとする」と書いてあるのですが、原文や英語の聖書から見ると「ファラオに対して必ず神のようにする。」という意味になります。今はたとえファラオに追い出され、無力感を憶えるモーセだとしても、神は必ずモーセをファラオに優れた者に立てて、用いられるという約束です。ファラオは自らがエジプトの神であると自負する存在でしたが、神はそのファラオを屈服させる大きな権威をモーセに与え、用いられると約束されたのです。モーセは前の5章で、このように言いました。 「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」(出 5:22-23) モーセは神を恨むニュアンスで抗議しましたが、主はモーセの心を知り、彼を慰め、再び立ち上がることができるようにお励ましと約束をくださいました。私たちは「神を絶対に恨んではならず、いつも丁寧に接しなければならない」と考え、神を自分と遠い存在として距離感を置いているかもしれません。もちろん、絶対者と被造物の間の徹底した規律は確かに必要です。しかし、神は恨みや嘆きを抱いている者にむやみに罰を与える方、彼らを見捨てる厳しさだけの方ではありません。神は絶対者でありながら、私たちの父でもある方です。辛くて悲しい時に、私たちは父なる神に嘆き悲しんで祈ることができます。その嘆きをお聴きになる神は、私たちに無礼だと罰を与えられず、私たちの悩みと痛みを聴き、分かり、慰めてくださり、また別の道を親切に教えてくださるお父さまなのです。7章が始まってから、神はまずモーセを慰めてくださいました。そして、彼に親切に新しい道を教えてくださいます。神は慰めてくださる方です。そして、希望を与えてくださる方です。私たちはその神が私たちと共におられ、わたしたちの父であることを忘れてはなりません。 2.協力者をくださる神。 「あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが…ファラオに語るであろう。」神はモーセの兄アロンが、モーセと一緒に活言われました。モーセ一人で孤独な戦いをするわけではなく、協力者が共に働くと言われたのです。ここで、私たちはキリスト教の大事な価値観について学ぶことができます。それは、主からいただく使命は一人ではなく、神による協力者と共に成し遂げていくべきであるということです。神は絶対に一人のキリスト者だけに多くの務めをお委ねになる方ではありません。キリストのもとで兄弟姉妹となった、すべての者が一緒に協力して、主にいただいた務めを全うしていくのです。私たちはキリストが教会の頭であり、私たちはその肢であることをよく知っています。そして、主はキリストにあって、肢と肢が互いに助け合い、愛し合い、協力し合うことを望んでおられます。一人の兄弟が弱くなると、他の兄弟姉妹が弱くなった兄弟を助け、また別の姉妹が困難にあうと、他の兄弟姉妹が祈りと助けで回復できるように助けていくのです。そのような助けと協力の中で、教会は一つになり、一緒に建てられていくのです。 そういうわけで、主は教会を建てられ、民を呼び出されたのです。長老派である日本キリスト教会には小会があります。しかし、小会員が他の兄弟姉妹より大きい権威を持っているわけではありません。牧師、長老、執事、そして教会のすべての兄弟姉妹がキリストの御名のもとで互いに協力しあって主の教会を健全に建てていくのです。小会員は奉仕のための務めに過ぎず、兄弟姉妹みんなが同じように神の民として召されていることを憶えてください。そして今日の説教のタイトルのように、主ご自身も民たちと協力してくださる方です。もちろん、主おひとりですべてを成し遂げることができます。  とりわけ、罪人の救いに限っては神は人間と絶対ご協力なさいません。しかし、主は民の生活においては、私たちをご自分の手と足と召され、主と一つになった体として、この世に仕えていくようになさいます。十数年前、ある牧師が私にこんな質問をしました。「私たちはキリストをどのように見ることができますか?」その質問の答えは次のようでした。「主は、ご自分の体なる教会を通してご自分のことを表されます。」主は全能者であるにもかかわらず、ご自分の民の人生を通してご自分のことを表されます。そのため、主は自ら弱い民と一つになってくださり、民と協力して教会を成していかれるのです。つまり、教会は偉大な主が私たちのような罪人を主の協力者として呼んでくださった栄光の証拠なのです。その光栄を私たちは忘れてはなりません。 3.教会は神の協力者。 「ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。」(出7:4-6) 神はモーセを慰め、アロンと一緒に再びファラオに行くことを命じられました。そして二人は神の御言葉に聞き従い、再びファラオのところに行きます。神はこのように失望した者、挫折した者、躓きの者、傷ついた者を、そのまま放っておかれず、引き起こされ、再び進んでいく力をくださる方です。そして、その弱い民を用いて、主の権能を見せてくださる方です。神はご自分の御手を下してお裁きになる方ですが、その裁きを下されるまで、ご自分の民を通して、この世に介入されます。何の予告も、機会も与えず、むやみに裁かれるのではなく、ご自分の民の口と手と足によって、神の御言葉を伝えさせられるのです。まず教会を世の中に遣わされて神の御言葉を告げ知らせるようになさった後、御言葉通りに救いと裁きを下されるわけです。神はこのように教会をご自分の協力者として先に遣わされ、お働きになる方です。 私たちは、それぞれ異なる経緯で、キリストに出会い。主の民となったのですが、今では同じ志免教会に集って、主の肢となっています。 私たちは皆弱い存在ですが、主は私たち一人一人を召され、キリストの体として、この世に遣わされたのです。主は私たちの口と手と足を用いられ、主の御言葉を宣べ伝えさせられます。私たちには資格がありませんが、それにもかかわらず、キリストは、ご自分の体という資格を与えて主の御言葉を代わりに伝えるようになさるのです。ですから、私たち志免教会は神の協力者です。これは私たちの光栄なのです。私たちが主の御言葉を伝えなければ、私たちの隣人は御言葉を聞くことができず、私たちが神の御言葉を伝えれば、私たちの隣人は私たちによって、御言葉を聞くようになります。ですから、私たちは神の大事な協力者なのです。この世はやがてキリストが再臨する時に裁きを受けることになるでしょう。私たちの誰も神の御言葉を伝えなければ、私たちの近所の人々は、御言葉を聞く機会を失い、みじめに裁きを受けることになるでしょう。しかし、私たちが伝えた主の御言葉を聞けば、悔い改める機会を得るようになるでしょう。だから、私たちは御言葉を宣べ伝える主の大事な協力者なのです。私たちの伝道によって隣人に御言葉が伝わり、私たちの奉仕によって、隣人に主の愛が伝わるのです。だから、教会は主の大事な協力者であるのです。 締め括り 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19) 今日の説教を準備しながら思い出した新約聖書の言葉です。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した時、イエスは彼にこのように言われたのです。プロテスタント教会は、この言葉が、当時ペトロを中心とする新約の教会への言葉と解釈し、教会の権威を表す御言葉だと思っています。神は教会に主と共に働く栄光をくださいました。そして、今日も教会の活動を通して、この世にキリストの恵みと愛とを宣べ伝えることを望んでおられます。したがって、私たちは自らが神の大事な協力者であるというプライドを持って生きるべきです。主なる神はご自分ですべてのことを成し遂げることが出来る方ですが、わざわざ、主の民である教会に主の協力者としての栄光の資格をくださったのです。今日の本文で、神がモーセを主のメッセンジャーとして用いられたように、私たちの教会もまたこの時代のモーセのように神に用いられているということを憶えましょう。主の協力者として、この地域のために祈り、福音を宣べ伝える、大事な志免教会になることを祈り願います。父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

人生、うまく行かない時

サムエル記上1章9~18節(旧428頁) 使徒言行録12章1~7節(新236頁) 今年の春、志免教会の有志たちは韓国を訪問されました。その時、水曜日もあり祈祷会 を開き、共に礼拝を守られたことを覚えています。その時、皆様に祈祷会の勧告をするこ とが許され、感謝でありました。その時、私はサムエル上1章1−8節の御言葉を通して、「自 分の目に正しいとするところを行う時代に生き抜く方法」という題で、皆様と恵みを分かち 合ったと思います。その時の記憶が生々しく思い出されます。日本に帰国されるとき、天気 のせいで、少し困難を覚えられたということを聞いております。とにかく、皆んとこんな形で もう一度お目にかかることができ嬉しく思います。 その時、私はこんな話を致しました。サムエルの著者がいうこの世とは、各自、自分の目 に正しいことを行う、自分の方法で、自分の考えて生きれるところだということでした。ある 意味では自由に生きるところだと言えるし、またある意味では放縦に生きるところであると も言えます。  間違ったことでも、よくないことでも、悪いことでも、みんな勝手にするから、いい。問題な 1い。皆んなが過ちを犯せば、なんともないと思ってしまうところがこの世です。ことわざの 中に、皆んなで渡れば怖くないという言葉があるように、間違っても集団ですれば平気で できるのがこの世の方式です。人はよく言います。「みなん、そうやってるよ」。皆んながや るから私もやる。 しかし、ここに自分の目に正しいとするところに従って生きるのではなく、神に祈りつつ、神 によって生きることを求めてもがいている一人の女がいます。この世と妥協することなく、 神の導きに合わせて生きていきたいと願う人です。世渡り上手に生きることをやめて、祈り をもって生きようとする女です。毎度、神殿に上って祈るハンナという女です。 彼女の人生は普通の人ではありません。彼女は本当に、轗軻崎嶇たる人生の行路を旅す る人でした。なぜなら、6節にありますように「主が子供をお授けにならなかった」からで す。口語訳はもっとはっきりと「主がその胎を閉ざされた」と訳します。 神が人を不幸にされるとは、一体どういうことでしょうか?いつくしみ深い主であるはずなのに、最初から胎を閉ざしてしまうなんて、あり得るのでしょうか?理解できるのでしょうか?本当に、なんという惨めなことでしょう。何で?私だけこんな目に遭わなければならないのかと、祈る度に、問い立てて、問い詰めたと思います。本当に、なげかわしい人生でした。祈っても、ただ涙だけがポタポタと流れ落ちるのみだったと思います。 立ち上がる こういう状況の中で、今日の本文である9節が始まるのです。「シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった」とあります。食事の後とありますが、8節にありますように、多分彼女は食べるのも、飲むのもしなかったと思います。断食をして祈ったのです。嘆き、悲しみ、崩れ落ちる心をもって立ち上がりました。 しかし、ここで著者は「立ち上がった」というヘブライ語をとても特別な形を使っています。立ち上がるとは、いつもと同じように毎度椅子から立ち上がるという平常的な意味ではなく、一回限りの出来事として立ち上がるという意味の形をしている動詞が使われています。 今まで準備してきたものを全て吐き出して、よしやるぞう!立ち上がれ!思い切ってやり出す。もう一かばちかやってみよう!最後の挑戦かのように、彼女は立ち上がったのです。何とは決断して、兵士たちが総攻撃のために立ち上がるように、立ち上がったのです。 7節にありますように、「毎年、ペニナのことで、彼女は苦しみ、泣いたのです。」ストレス一杯でした。もうこれ以上、我慢できなかったでしょう。ただ座り込んで祈るだけで、自分の人生を嘆くばかりの消極的な姿勢から、主に向かって立ち上がったのです。 実は、新共同訳はただ「立ち上がった」とありますが、ヘブライ語の聖書をギリシャ語の聖書に翻訳したものである70人訳を見ると「主の前に立ち上がった」と訳しています。 そうです。彼女は立ち上がったのですが、意地を張るために立ち上がったのではなく、主の前に立ったのです。とにかく立ち上がってみようという意味ではなく、主の前に立ち上がってみようと、彼女は決断したのです。 サムエル上の1章を読みながら一つのキーワードのようなものは「立ち上がる」という用語ではないかと思います。ヘブライ語で「クーム」という言葉ですが、1章で2回、使われます。もう一回は23節です。「主がそのことを成就してくださるように」。「成就する」と訳されたのもクームです。言い換えると、主の前に信仰を持って立ち上がるのであれば、主はそれを成就なさる、成し遂げてくださるという信仰的な繋がりがそこにあるということです。 ハンナは信仰の女でした。信仰を持って主の前に立ち上がるのであれば、主は契約を立てるかのように、それを約束なさり、成し遂げてくださると、彼女は信じたのです。 私たちは腰が重いです。なかなか、新しいことへの立ち上がりができないのです。前例がないとやらない。誰がやる時まで待つ。結局、誰もやらない。立ち上がらない。 しかしハンナは立ち上がりました。主が胎を閉じたから、諦めるしかない。祈っても意味なし。人生とは、主の予定に導かれるのみですと、諦めて断念する人ではなかったのです。主よ、あなたが閉じたのであれば、あなたがそれを解くこともできるでしょう。だから、あなたのみ前に立ち上がりました。聖書が言う予定とは運命ではありません。私たちキリスト者は決定論者ではありません。祈りによって変えられる可能性のある予定が聖書の予定です。 主との交わり そしてハンナはどうしましたか?10節です。「悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」とあります。主の前に立ち上がり、主のいのり、そして11節では「万軍の主よ」と叫びます。 聖書を読むと、神、主という言葉を使います。神に対する用語は大きく二つあります。神と主です。神はエロヒムの訳語で、主はヤーヴェです。聖書はこのように言葉を使い分けるのはそこにある意味があるからです。一般的に言われるのはヤーヴェは人格的な神を言い表す時に、用いられると言われます。だから人と交わり、人と契約を立てるなどのことが言われるのです。創世記1章と2章を読めばその違いがはっきり見えてきます。2章では、主 は世界を創造され、人にそれを委ねて行くこと、契約を立てていくことが記されています。被造物を信じてくださる主の暖かさを感じ取れるのです。 ハンナはこのヤーヴェなる主と深い交わりを持っていたのです。人格的な交わりという祈りを捧げることができたのです。彼女は主を思うと激しく泣くばかりでした。泣いて泣いていたということです。なぜ、私たちが子供を避けられなかったのか?恨みもあったでしょう。主が嫌になった時もあったでしょう。それでも、彼女は諦めずに祈ります。 その最初の言葉は「万軍の主よ」という呼びかけです。まさに全てがお出来になる全知全能の神よ !と呼びかけているのです。“万軍の主よ、はしための苦しみをご覧ください。はしためにみ心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら。” 彼女は神のみを信じたのです。主との深い交わりを通して、ハンナは主が万軍の主であることをはっきりと告白したのです。だから、彼女は主を信頼しきったのです。「戰車を誇るもあり、馬を誇る 者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に滿ちて立ち上がる」(詩編20:7,8)。 主を誇るもの、主を信頼する者は、立ち上がれると、彼女は信じていたのです。人間の力を信じるものは結局、力を失って倒れるが、主を信頼する者は、立ち上がれるのです。 そして祈り続けます。 「男の子をお授けくださいますなら、その子の一生をおささげし、その子の頭には決してカミソリを当てません」。 これは士師記の13章5節にありますマムソンのお母さんに対する主の御使の話と似ています。「身ごもって 男の 子を 産むであろうその 子は 胎􁀻にいるときから,…

互いに助け合いなさい。

申命記5章16節(旧289頁) エフェソの信徒への手紙6章1~9節(新359頁) 前置き 今年の志免教会の主題聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)です。この言葉は、教会の本義について教える言葉です。 私たちは、エフェソ書を通じて、教会とは何かについて学んできました。教会は天地創造の前にあらかじめ定められた主の民がイエス·キリストによって救われ、召し出され、主の体として一つになった共同体です。したがって、教会はこの世の価値観ではなく、キリストの御心に適う生き方で生きなければならない存在です。聖書によると、キリストの御心に適う存在は、神と隣人を愛して生きる者です。したがって、エフェソ書の1-3章ではキリストと教会の関係について神学的に説明し、4-6章ではキリスト者の実質的で実践的な生き方(奉仕と愛の生き方)について説明しているのです。今日の教えも4~6章に属する実践的な話です。今日の本文では、親子の関係、そして主従関係について話していますが、親子と主従関係だけでなく、普遍的なキリスト者の生き方についても学ぶことができます。今日の本文から主なる神の尊いお教えを学ぶことを祈ります。 1.親と子供たちに。 「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です。 そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができるという約束です。」(1-3) 今日の本文はまず子供たちへの勧めから始まります。それは、自分の親を敬うべきということです。「約束を伴う最初の掟」とは、基本的に神がモーセに与えてくださった「十戒」を意味するものであり、より広く考えると、十戒で代表される「律法の精神」を意味するものでもあるでしょう。つまり、旧約の律法も、新約の福音も親への尊敬を何より大切にしていたということです。 「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(4) また、エフェソ書は子供たちだけでなく、親にも子供たちを大事に育てることを勧めています。子供たちを軽んじて扱うことではなく、怒らせないで尊重の気持ちで大切にしつけ諭しなさいということです。これらによって、私たちは親子の関係が、主にあって、互いに尊敬と尊重で成り立つべき関係であることが分かります。親それぞれ違いますが、一般的に親は幼い子供を自分に属する存在として考えがちだと思います。それがやりすぎて、保護者という名目で自分が望むことを強いる場合も少なからずあります。愛と執着を勘違いして子供を牛耳ってしまうのです。しかし、子供は親の所有ではありません。自分の思い通りに操れない自我を持った独立の存在です。 子供たちは、親を通して生まれたのですが、親と同じように神の被造物です。つまり、主なる神の所有なのです。したがって、私たちは子供たちを愛するとともに、個人として尊重し、神に託された存在として大事に養っていかなければなりません。子供たちも同じです。生まれた時から親の懐で育ってきたため、親を当たり前な存在と考えがちだと思います。礼儀作法をよく教えた家庭もあるでしょうが、成長するにつれて親を軽んじて、大事にしない子供たちも少なからずいます。しかし、聖書は語ります。「何よりも親を敬いなさい。」 今日の本文にはこんな言葉があります。「主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。(ディカイオス)」ここで正しいという言葉は「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」あるいは「キリストによって義とされた。」の「義、正しさ」と同じ表現です。つまり、主イエスに救われた、正しい者は「当たり前に親を敬う者」ということです。親子の関係は複雑微妙です。しかし、聖書ははっきり言い切っています。互いに敬い尊重し、愛し合って生きていきなさいということです。親だからといって、むやみに権威を強いてはならず、子供だからといって親を軽んじてはならないということです。親も子も皆神の被造物であり、キリストのものです。キリスト者なら近ければ近いほど、お互いを大切に助けあう存在として親子に接しなければなりません。 2.主人と下部たちへ。 今日の本文は親子の関係だけでなく、主人と下部(本文では奴隷)の関係についても話しています。「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」(5) エフェソ書が記された時代のローマには奴隷制度がありました。ところがローマの奴隷制度は、東洋やアメリカの奴隷制度とは、少し違う概念でした。呼称は奴隷でしたが、彼らは主人に属し給料をもらい、能力によって自由民のように扱われる者もいました。たとえば、貴族の家庭教師の中に奴隷の身分を持った者が少なくありませんでした。時には、主人の助けで奴隷の身分を清算して自由を得、ローマ帝国の市民になる者もいたと言われます。そういう意味として、今日の本文に出てくる奴隷は、現在の会社員とも、ある程度重なっているかもしれません。とにかく聖書はこの下部たちに「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」と勧めています。現代的に再解釈して言うと、会社員が会社のために誠実に働き、キリストに仕えるように自分の上司に仕えるという意味でも理解できるでしょう。ただし、間違って理解してはなりません。これは、社長や人事管理者に賄賂を渡したり、法律以上に激務したりしなさいという意味ではありません。上司が自分に親切であれ、不親切であれ、自分のすべてのことを神が見守っておられるからという気持ちで誠実に生きていきなさいという意味です。 キリスト者は、神が自分の生活を見守っておられるという前提を持って生きる存在です。他人の目を意識せずに、ひとえに神の御前でキリストの肢として誠実に生きるのです。人生のすべてをキリストに仕えるかのように生きるのです。また、今日の本文は主人(上司)にも勧めています。「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(9) ローマ帝国の奴隷が、他文化圏の奴隷とやや違ったからといって、彼らの生殺与奪権が主人たちになかったというわけではありません。ローマの奴隷たちも主人の扱い次第で、他の文化圏の奴隷たちのように悲惨に最期を迎える場合もあったでしょう。しかし、聖書はキリスト者なら無慈悲な主人になってはならず、自分と下部の真の主人である神の前に畏れをもって行うことを勧めます。「彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」神の前ですべての人間は同等です。この地に主人と奴隷として生まれただけで、すべての人間が、神にかたどって創造されたのは同じです。神において主人と下部はありません。皆が神の形で造られた大事な存在だからです。ですから、キリスト者の上司なら、地位の上下を問わず、人を人として扱う慈愛と奉仕の心で部下に接しなければなりません。自分が主人ではなく、神が真の主人でおられるという認識を持って、下の人々を配慮しつつ生きるべきです。 3.キリスト者の普遍的な生き方 今日の言葉を通して、私たちは親子の関係、主従の関係について学びました。そして、この2つの例は共通点を持っています。相手の高低を問わず、互いに大事に扱いあうべきということです。親は子供を尊重し、子供は親を敬わなければなりません。上司は下部を慈愛で接し、下部は主人に誠実に仕えるべきです。地位の上下を問わず、キリスト者なら相手に丁寧に接するべきです。そのような人生こそが神と隣人に仕え、愛するキリスト者の望ましい生き方ではないでしょうか。ですから、今日の説教の題を「互いに仕えあいなさい」と決めたわけです。親子に対する例話は親と子供だけでなく、教会内の信仰の先輩と後輩の間にも適用できる話でしょう。親が子供を愛し尊重するように、信仰の成熟した先輩キリスト者が、まだ信仰の弱い後輩キリスト者を愛するものです。子供が親を敬うように後輩キリスト者も先輩キリスト者を尊敬し、彼の信仰から良いことを教えてもらうのです。主人と下部の関係は、教会の牧師と信徒にも適用できる話でしょう。(もちろん牧師が下部の立場に立っていると私は力強く主張したいです。)牧師は主に仕えるように、差別なく教会員に仕え、教会員たちは牧師を尊重するのです。このように今日の本文を私たちの教会生活にも適用できるでしょう。 締め括り エフェソ書が、繰り返して、互いに仕えあい、愛し合うことを強調する理由は、教会が主イエス·キリストの体だからです。三位一体なる神には、一つの位格が他の位格より優れているという概念がありません。御父、御子、御霊が同じ権能と同等の権威を持っておられます。ただし、御子と聖霊がへりくだり、進んで御父の御心に聞き従われるのです。教会員の生活も同じです。牧師、長老、執事が優れているわけではなく、新しい信者が劣っているわけでもありません。皆が主のもとで同等のキリストの体して存在するのです。したがって、聖書は互いに自分より兄弟姉妹を優れた者とし、互いに仕えあうことを勧めているのです。自分自身を低くし、兄弟と姉妹を高め、互いに愛し合い、誠実に仕え合うこと。それが教会として召された私たちキリスト者がとるべき望ましい生き方ではないでしょうか? 天地創造の前に招かれたキリストの体なる共同体。このようにキリストの体と呼ばれる私たちは、世の価値観ではなく、キリストの価値観、謙虚と愛と奉仕の価値観をもって、この世を生きていかなければなりません。志免教会もそうであることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

キリストと新しい出発を。

イザヤ書43章18~19節(旧1131頁) コリントの信徒への手紙二5章17節(新331頁) むかしむかしあるところに、善い羊飼いがいました。彼には100匹の愛する羊がいました。そんなある日、突然、空に黒い雲が垂れ込め、激しい雨風が吹き出しました。彼は急いで野原の羊の群れを呼び集め、羊小屋に入らせました。羊の数を数えた後、自分も家に入ろうとしたのですが、何度数えても1匹の羊がいませんでした。心細くなった彼は急いで上着を着て、雨風の中に走っていきました。風雨が強すぎて、見失った羊を見つけることは出来なさそうでした。それにもかかわらず、彼はあきらめず、野原へ、森へ、また川沿いへ、その羊1匹のために探し回りました。99匹の羊がいるから、あきらめれば良かったのに、彼は羊1匹のために探し続けたのです。結局、彼は川に溺れてもがいている羊を見つけました。川の水が増えて危険だったのに、彼はあきらめずに命をかけて羊を助け救いました。彼はすごく疲れてしまったのですが、救い出された羊を見て、疲れを忘れ、笑顔満面になりました。いつの間にか雨風はおさまり、晴間が見えてきました。羊を担いで家に帰ってきた羊飼いは大喜びで、友達や近所の人々を呼び集めて祝宴を張りました。 1. 新しい始まりを語る聖書。 以上の物語は、新約聖書のルカによる福音書15章に出てくる短い話を脚色したものです。キリスト教の神が、このように見失った一人の魂のために、ご自分のすべてを惜しげもなく、喜んで犠牲になさり、ご自分の愛する民を救い出してくださることを示す例え話なのです。聖書は、神が見失った民を愛されたあまり、ご自分の子イエス·キリストを十字架の犠牲にし、その代わりに見失った民を救われる神の愛の物語です。そして、神はこのように見失った民たちがキリストによって救われ、神と和解することを誰よりも望んでおられます。ですから、神は世のすべての人々がキリストを知り、もう一度、新しく始まる機会を与えてくださることを望んでおられる方なのです。キリスト教は、実に新しい始まりのための宗教であると言っても過言ではないほど、回復と和解と再出発を信仰の大事な価値にしているのです。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。」(イザヤ43:18-19) 新約聖書でもない旧約聖書の預言者に、神の御言葉をこのように宣べ伝えさせるほど、神はご自分の民の過去の罪を赦され、新しく始まることが出来るように、御心を遣っておられる方なのです。 新しい始まりは、本当に感激的で喜ばしいことであり、私たちの人生にとってかけがえのない祝福であります。私たちは人生を歩みながら、一度以上「あの時、ああしてたら、その時、こうしてたら」のような後悔をしがちです。しかし、誰かはこのように言いました。「歴史にもしもはない。」 実際、歴史にもしもはありません。すでに起こったことを元に戻すことは、映画でしか見られないことだからです。しかし、聖書は語ります。「過去のことは後ろにして、イエス·キリストによって、今から新しく進みなさい。」歴史の巻き戻しはありえないことですが、過去の生き方を反省し、新しく生き始めることは出来るということです。たとえ失敗、挫折、悲しみ、そして後悔が、私たちの人生の進みをさえぎっているとしても、聖書はそれにもかかわらず、神はあなたと一緒におられ、あなたが新しい出発をして幸せに生きることを望んでおられると声を限りに訴えているのです。過去のことに足を引っ張られて座り込んでいませんか? 昔の罪により、二度と前に進めないと悩んでいませんか? 世の中の皆が、君にはできないと指差ししていると思い、つまづていませんか? しかし、そのような世のささやきに騙されないようにしましょう。この世を創造し、あなたを知り、誰よりもあなたを愛しておられる、造り主なる神は、今日もあなたに語っておられます。「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。」これが、あなたに向けた神の本当の御心なのです。 2. キリストによる新しい出発。 ところで、聖書は真の新しい出発のために、一つ先にしなければならないことがあると語ります。それはキリストの贖いによって、罪赦されることです。聖書の教えによると、世のすべての良くない物事が、人間の罪から生まれるので、その罪への解決が絶対に必要であります。聖書が語る新しい始まりは、その罪の解決の後、有効になるのです。名称からも分かるように、キリスト教はイエス·キリストを信じる宗教です。しかし、キリスト教が、他宗教と異なる点は、天国に入るため、あるいは欲望の実現のため、それとも自分の有益のために信仰を持つことではないということです。(他宗教を非難するわけではありません。違いを話しているだけです。) キリスト教の目標は、キリストによって自分の罪が赦され、神と和解し、主と一緒に生きることなのです。それによる神のお贈り物(おまけ)が死後の楽園、人生の有益などなのです。夫婦が互いの財産を狙って結婚するわけではなく、愛しているから結婚すると同じように、キリスト教も他の理由ではなく、神と和解し、共に生きるためにイエスを信じ、信仰を持つということです。したがって、キリスト教の最も重要な信仰の姿はまさに「キリストによって、自分の罪を赦され、神と和解する新しい人生。」なのです。旧約聖書の創世記には、神の天地創造以後、人間が自分の意志で堕落する姿が描かれています。蛇に誘惑されたアダムとエヴァが、すすんで知識の木の実を取って食べ、神を裏切って呪いを受けるという物語は、皆さんも聞いたことがあると思います。 これは、人間は悪の影響を受けやすく、その結果、罪を犯し、結局は滅びに至りやすい存在であるということを意味する物語です。そういうことで、神は自分の罪に束縛され、自ら真の善を行うことが出来ない人間のために、一つの計画を立てられましたが、それは人間の罪を赦し、真の善へと導く完全な存在を、この世に遣わしてくださることでした。そして、聖書は、その完全な存在が、「イエス·キリスト」であると証言しています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23) 聖書が語る罪とは、殺人、暴力、詐欺などの凶悪な犯罪だけを意味するわけではありません。隣人を愛しないこと、心の中に憎しみと怒りがあること、怠惰と貪欲、淫らな行為と暴言、造り主を知ろうともせず、拒否することなど、人間が行うべき善を行わない、すべてのことも罪であると語っているのです。しかし、聖書は神に遣わされた存在、イエス·キリストによって、それらの罪が赦されると力強く証しています。そして、その罪の赦しによって、もう一度新しい人生を始める力を得ることができると述べています。そういうわけで、今日の新約本文は「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:17)と語っているのです。つまり、聖書は新しい始まりへの第一歩はキリストとの出会いに基づくと教えているのです。 締め括り 最後に、ある日本人の牧師の話をして、説教を終わりたいと思います。前科7犯のヤクザ出身の進藤龍也牧師は、高校中退後、18歳にヤクザになりました。悪いことばかり犯しながら生きていた彼は、28歳の時、暴力組織の組長代行となりましたが、覚醒剤中毒が原因で破門になり、組織から退出されました。彼は3度目の刑務所服役中に前妻が差し入れた聖書を読み、イエスを信じ、回心することになりました。彼の人生は完全に壊れていたのですが、聖書に記された神の御言葉は、彼の罪を悟らせ、神の赦しを得る方法を教えたのです。そして、彼は結局イエス·キリストに出会い、信仰者になりました。それから、彼は昔の生き方をきれいに清算し、牧師としての新しい人生を始めることになりました。彼は出所後、2005年に神学校を卒業し、同時に開拓伝道を始め、現在は埼玉県川口市の単立教会「罪人の友、主イエス・キリスト教会」の牧師として働いています。今では、日本各地の刑務所の収監者との手紙連絡および面会を通して、キリストの福音を宣べ伝えています。 彼は後日書いた著書でこう語りました。「人生が計画通りにうまく行かず、絶望して間違った人生を生きてきたと後悔と挫折に陥る時、一人の命を大切にしてくださる神は決して、あなたのことを諦められないことを覚えてください。」神は、あなたの新しい始まりを応援しておられます。神はあなたを絶対に諦められません。イエス・キリストの恵みにより、この神と出会いがありますように切に祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

わたしは主である。

出エジプト記6章1~13節(旧101頁) フィリピの信徒への手紙2章10~11節(新363頁) 前置き 前回の説教では「わたしの民を去らせなさい」という神のご命令を告げ知らせるために、ファラオの前に行ったモーセの話が描かれました。モーセはファラオに神の厳重な命令を申し伝えましたが、ファラオはその言葉を無視して、むしろイスラエルの民に今までより、さらに重い労役を命令した後、モーセを追い出しました。ファラオとモーセとの出来事によって、むしろ労役が増えてしまったイスラエルの民はモーセを恨みました。そして、このような結果に失望したモーセも神に嘆きました。その話を通して、私たちは神の御言葉に従ったにもかかわらず、物事がうまくいかない場合もありうるということが分かりました。しかし、神は主の御心とご計画を、必ず成し遂げられる方です。たかが100年も生きることのできない人間の愚かな考えで、永遠におられる神の知恵と計画を判断しようとするなら、人間は必ず神に失望し恨むことになってしまいます。しかし、主の御心に信頼し、その御業の成就を待ち望む者は、最後には、必ずご自分の計画を成就される神の恵みに気づき、感謝するようになるでしょう。私たちは前回の説教で、神への変わらない信頼を持って神の御心を待ち望みながら生きる信仰の人生の大事さを学びました。 1. わたしがあなたたちの主である。 6章が始まるやいなや、神はモーセに言われました。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」(出エジプト6:1) それはイスラエルの民が必ずエジプトから解放されるという希望のメッセージでした。ただ、ほうほうの体で逃げるのではなく、主の強い手(ファラオとは比べ物にならない圧倒的な権能)によって解放されるということです。そして、ファラオが持ちこたえられず、イスラエルを追い出してしまうほど、二度と狙わないほどの絶対的な力でイスラエルを解放させるという約束です。イスラエル民族とモーセは人間の目に、あまりにも強くて大きく見えるファラオの権力に圧倒されてしまいましたが、主はそのファラオでさえ、どうしようもない、より大きな力によってイスラエルを救うことを約束されます。前の5章でイスラエルとモーセはたった一度のファラオの横暴に圧倒され、怯えてしまいました。そして、むしろ、ファラオより偉大なイスラエルの神を恨みました。人間は自分が感じること、見ること、聞くことによって、この世界を判断しがちな存在です。そんな理由で、目に見えませんが、確かにおられる偉大な神の権能をもすぐ見落としてしまう傾向があります。 しかし、神は、人間の考えを、はるかに超える偉大な方です。ファラオは神を奴隷たちの神に過ぎないと思って無視しましたが、その結果は奴隷たちの神の裁きによる滅びでした。現代の日本を生きる私たちも、小さくて弱く見える日本の教会を見ながら神の威厳をすぐ忘れてしまうかもしまうかもしれません。日本の政治家、財閥、権力者に比べて、日本の教会が、あまりにも小さくて弱い群れであるのは事実だからです。しかし、私たちの目に映るのがすべてではありません。神は世のすべてのものの上におられ、世のすべてのものは主の支配のもとにあります。私たちの目には見えないだけで、聖書は神があらゆる名にまさる名を持っておられる真の王であることを常に証しています。ところで、この偉大な神が今日の本文を通して、こう語っておられます。「わたしは主である。…わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。…」(6-7中)神は、ご自分への弱い信頼と不信仰で生きる民でさえ哀れみ、救って導くことを望んでおられる私たちの主です。主は決して弱い民を嫌に思われることなく、むしろ、わたしはあなたの神であると宣言なさる方です。このような主なる神を憶え、目に見えることだけを信じるのではなく、目に見えない主の偉大さを拠り所とし、信仰を堅く守る私たちであることを願います。 2. わたしは主である。 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。」(3-5) 神はなぜ信仰の弱いイスラエルの民を見捨てられず、憐れんで救ってくださることを望まれたでしょうか? それは、神がかつてイスラエルの先祖たちと結ばれた「約束(契約)」のためです。前の説教で、私たちは神がモーセにご自分の御名を教えてくださったと学びました。ヘブライ語の「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」直訳すると「わたしはある」、意訳すると「わたしは自ら存在する者である。」「わたしはすべてのものの源である。」がそれでした。今日の本文によると、神はモーセとイスラエルの祖先であるアブラハムとイサクとヤコブには、主という神の御名を知らせなかったと書いてあります。ただ全能の神であるとご自分のことを現わされたのです。ところで、 以前の説教では「わたしはある」が神の御名であると学んだのに、なぜ今日の本文は「主(ヘブライ語ヤハウェ・エホバ)」という名が神の御名であると語っているのでしょうか? その理由は、「わたしはある。」と訳された原文と「主」と訳された原文に深い関係があるからです。日本語の聖書では説明が難しい理由が原文の聖書には書いてあるからです。日本の教会では「ヤハウェ」あるいは「エホバ」という表現をあまり使いません。 「エホバの証人」のような異端団体が使っているから、なるべく控えようとの理由もあるかもしれないし、「ヤハウェ」という表現を全て「主」と翻訳したギリシャ語旧約聖書に影響を受けたからであるかもしれません。しかし、ヤハウェやエホバという表現は異端的でも悪い言葉でもありません。「ヤハウェ」は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」というヘブライ語を略して読んだ表現だという説もあります。つまり「ヤハウェ」(日本語聖書で「主」)という表現は「わたしはある」という神の御名を圧縮した言葉であり、今日の本文ではその表現を「主」と訳しているのです。したがって、今日の説教のタイトルである「わたしは主である」という言葉は、「わたしはヤハウェである。」との翻訳ができ、その意味は「わたしはあるという者である」「わたしは自ら存在する者である」と理解しても問題ないと思います。自ら存在する神は、その昔、イスラエルの先祖たちと約束を結ばれましたが、彼らにはご自分の御名を教えてくださいませんでした。しかし、彼らとの約束を憶えておられる神は、先祖たちへの恵みよりも、いっそう豊かな恵みでイスラエルの民にご自分の御名を教えてくださいました。旧約聖書で名前を知らせるということは、より深い関係を結ぶという意味だと解説書に書いてありました。イスラエルの先祖たちと契約を結んだ神は、今やその子孫であるイスラエルとより深い関係を結んで約束を守っていかれるということです。憐れみ豊かな神は、昨日よりさらに大きな恵みで今日の民たちを愛してくださる方です。全能の主は今よりもっと大きな恵みで明日を生きる民と歩んでいかれる神です。 3。わたしは契約を憶える神である。 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」(6:8)ファラオには追い出され、民には恨まれることになったモーセ、失望したモーセに神はもう一度ご自分の計画についてお話しになりました。その昔、イスラエルの先祖であるアブラハムとイサクとヤコブと結んだ契約(約束)を憶えておられる神は、約束通りに必ずその子孫イスラエルを解放させ、約束の地に導き入れると言われました。たとえ、イスラエルが奴隷だとしても、ファラオの権力が強いとしても、モーセが失敗したとしても、神にとってそれらは何の問題にもなりませんでした。神は必ずご自分の約束を守られ、主の御心のままにご計画を成し遂げて行かれる方だからです。神が約束を憶えておられるということは、民と結んだ約束を必ず守るという神の情熱を表す表現です。何があっても必ず守るという神の堅いご意志なのです。創世記で、神はアブラハムにこう言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創世記12:2) また、イサクにはこう言われました。「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」(創26:4) 最後にヤコブにはこう言われました。「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」(創28:14) このようにアブラハムとイサクとヤコブと約束された神は、その約束通りにイスラエルを解放し、カナンに導いて行かれるでしょう。そして、その約束はもうすぐ出エジプト記で成し遂げられます。神は必ず約束(契約)を守られる方です。ところで、私たちは一つ憶えておかなければなりません。アブラハムとイサクとヤコブと結んだ神の約束は出エジプト記だけに限られる約束ではないということです。主の約束は出エジプト記でも成し遂げられますが、究極的には新約聖書のイエス·キリストによって完全に成就しました。旧約の神の約束は、旧約に限るものではなく、以後ダビデにつながり、最後にはイエス·キリストの十字架の救いによって完成します。したがって、神がアブラハムとイサクとヤコブと結んだ契約は、新約時代を生る私たちにも同じく適用されるものです。アブラハムとイサクとヤコブへの神の祝福の約束は、キリストによって私たちにも有効です。しかも、キリストによってさらに堅くなった約束です。約束を憶えておられる神は、キリストを通してより豊かな恵みをもって、私たちを祝福してくださいます。そして、その約束はキリストによって永遠に守られます。このように、神の約束は旧約だけでなく、新約にまでつながる、私たちに与えられた変わらない永遠の約束なのです。 締め括り 聖書が語る「主」という表現は、漠然と誰かを高めるための謙譲表現ではありません。私たちの人生を司る絶対的な方に捧げるべき最高の呼称です。ローマ時代には皇帝や王族、あるいは自分の命を左右する主人に使う表現でした。神が私たちの主になったということ、キリストが私たちの主になったということは、私たちのすべてを知り、導き、治める方が神、キリストしかないという意味です。神が私たちの主であるということは、私たちの生と死を神お独りだけが支配しておられるということです。その主がアブラハムとイサクとヤコブを通してご自分の民を祝福してくださいました。そして、その祝福によって旧約のイスラエルは救われ、その祝福によって新約の私たちは永遠に神の祝福のもとに生きることが出来るのです。したがって「主」という言葉が持つ大きな意味を憶えつつ生きるわたしたちであることを祈ります。最後に、今日の新約本文を読んで説教を終わりたいと思います。「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、イエス・キリストは主であると公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:10-11)神が、この「主」としてイエス·キリストを私たちに遣わしてくださいました。それを憶え、主の約束を信頼しつつ生きる志免教会であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

キリストが教会になさったように。

創世記2章24節(旧3頁) エフェソの信徒への手紙5章21~33節(新358頁) 前置き 前のエフェソ書の説教で、私は1-3章ではキリストと教会(キリスト者)の関係についての神学的な話が、また、4-6章では、キリストと教会の神学的な話に伴う実質的かつ実践的な生き方についての話が書いてあると申し上げました。教会は神によって天地創造の前にあらかじめ定められ、キリストによって救われ(キリストを頭とし)、聖霊の導きによって歩む、主の体なる共同体として神に召された存在であるとお話ししました。そういうわけで、教会は、もはや神を知らない世に属した人の生き方ではなく、主の体なる共同体にふさわしく、キリストに似ていく生き方を追い求めて生きるべきであるというのが、今までの説教の主な内容でした。今日は教会の実践的な生き方の中でも、最も重要なことについてお話したいと思います。それは夫と妻の関係、つまり夫婦の関係についての話です。パウロは、今日の話を通して、夫婦の関係をキリストと教会の関係につなげて教えています。それだけにキリスト者の夫婦関係は、信仰と密接な関係を結んでいるものです。今日の説教を通して夫婦の関係、そして、キリストと教会の関係について考えてみたいと思います。 1.互いに仕え合いなさい。 今日の本文は夫婦の関係について話す前に、まず、エフェソ教会の信徒たちにキリストへの畏れをもって、互いに仕えあうことを勧めています。 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ5:21) ここで「互いに仕えあう」という表現の原文は「降伏する。屈服する。服従する」という意味の言葉です。21節は今日の本文とも深い関りを持っていますが、前の本文とも繋がる箇所です。キリストによって救われ、神の民となり、神に倣っていこうとする者はキリストに属する者として、兄弟姉妹に対して謙虚に生きなければならないという意味の言葉です。この箇所を読むと、フィリピ書の言葉が思い起こされます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい…キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:3-7) つまり、主の民はイエス·キリストにならって、自分の血気と固執を捨て、謙虚に兄弟姉妹、隣人に仕えて生きるべきであるということです。 そして、今日の本文は、この「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」という言葉が、夫婦関係にも適用されると語っているのです。夫婦は世界で一番近い間柄です。親と子供の関係も夫婦関係に勝らないと思います。したがって、夫婦は一生を一緒に生きる、最も身近な隣人どうしなのです。一番身近で、一番よく知り、一番よく接する隣人なので、何よりもお互いへの理解と愛が先に出来なければなりません。しかし、実際、それは本当に難しいものです。現代を背景にしたドラマや映画を観ると、夫が妻を殴ったり、無視したり、見下ろしたりする場面がたびたび出てきます。ドラマは現実の反映ですから、本当にそういうことがあるでしょう。あるいは、激しい気性の妻がいる家庭では、逆に妻が夫を無視したり、見下したり、ひどい場合は妻に暴行される夫もいると言われます。夫と妻が互いに暴言、暴力をふるうことはキリスト者にとって、絶対にありえない、あってはならない、キリスト者にふさわしくない夫婦関係です。クリスチャンホーム、特に夫婦関係において最も基礎的かつ重要な課題は「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合うこと」なのです。夫だからといって妻を軽く扱ってはならず、妻も同じように夫を大事にしなければなりません。ここからキリスト者の家庭の秩序は始まるのです。 2.妻と夫へのパウロの勧告。 「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自ら、その体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」(エフェソ5:22-24) まず、パウロは妻たちに自分の夫に仕えなさいと勧めています。ここで「仕える」は21節に書いてあった「互いに仕える」と同じギリシャ語です。つまり、妻だけが夫に仕えるべきということではなく、夫も妻に仕えるべきという意味を含んでいるでしょう。パウロは夫は妻の頭(ケファリ)だと語ります。 私たちはよく「キリストは教会の頭」という言葉を使いますが、この「頭」の語源が「ケファリ」なのです。今日の「夫は妻の頭である」という表現にも、このケファリが使われました。ケファリという言葉は「カプト」という表現に由来したという見解がありますが、カプトは「つかむ、握る」を意味します。つまり、ある存在のアイデンティティを表す基礎かつ代表的なもの、すなわち根本を意味する表現です。古代の人々は、人の頭が体全体の根本だと考えたようです。そのためパウロは体なる教会の根本はイエス•キリストであり、それに似た夫婦関係として、妻の根本は夫だと語ったわけです。 根本となるということは、「権威とともに責任を持つ」ということです。真の権威のある夫なら、責任を持って自分の妻を愛しなければなりません。昔から日本や韓国のような北東アジアの文化では、女性の権威が男性の権威に比べて劣るものとされました。だから、男尊女卑という言葉も生まれたのでしょう。しかし、それは男の権威だけを強いた誤った結果です。聖書は妻が夫より劣るという話をしていません。夫に権威と責任を与え、権威と共に責任をも持って、妻を愛するように教えているのです。それが、イエスが教会へなさった愛と似ているからです。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ5:25) 父なる神は、イエス·キリストに教会の頭という権威を委ねられました。加えて、教会への責任をも与えられました。そのため、イエス·キリストは、教会のためにご自分の命を惜しげなく捧げました。したがって、キリストと教会との関係と似ている夫婦の関係において、夫は妻のために自分の命をかけるほど深く愛し、仕え、責任を負わなければなりません。キリストが教会になさった、そのすべてのことが、まさにキリスト者の夫たちに与えられた主の教えなのです。それが聖書が語る夫の権威であり、責任であるのです。 3。夫婦は世界で一番小さい教会。 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ5:31-33) 今日の本文は、旧約の創世記2章24節を引用した言葉です。神は創造の時、最後の段階として人(男)を造られました。そして、神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:16)と言われ、女も造られました。つまり、神は創造の完成を男と女の完成、つまり夫婦の完成として成し遂げられたわけです。そのため、結婚は夫婦二人が一つとなり、主の創造の秩序を果たす偉大な行為なのです。だから、夫なしでは妻もなく、妻なしでは夫もいません。キリストのおられない教会がありえないように、キリストにとっても教会はとても大切で重要な存在です。そのため、キリストは教会を命かけてまで愛されたのです。夫婦は、このように二人が互いに仕えあって一つとなる時、完全になるのです。パウロは夫婦が、キリストと教会との関係に見習って生きることを願ったのです。 私は、世界で一番小さな教会が夫婦だと思います。まるで三位一体なる神が御父、御子、御霊として一つになられたように、キリストと夫と妻が一つになり、地上の一番小さな三位一体を成すのが、夫婦という教会だと思います。(これは神学的な教えではなく、私の個人の見解です。) したがって、神が私たちにくださった配偶者を愛をもって仕えるべきです。私たちは決して偶然出会い、夫婦になったわけではありません。神が天地創造の前に主の教会をあらかじめお定めになって呼んでくださったように、世界で一番小さな教会である夫婦も天地創造の前から、神によって定められ、教会として召されたのです。ですから、配偶者に仕え、愛し、その仕えと愛とを通して、教会を愛されたキリストの恵みを憶えて生きたいと思います。だからといって、配偶者が先に亡くなったり、独身の方や配偶者が未信者である方は、がっかりしないようにしましょう。私たちには共通した夫(花婿)であるキリストがおられるからです。真の夫であるキリストが、皆さんを花嫁として愛しておられることを忘れないでください。むしろ、真の夫であるキリストの愛によって、信じない配偶者に仕えてください。もし、配偶者がいなければ、キリストの愛によって、自分の隣人や家族や教会の兄弟姉妹に仕えてください。大事なのは夫と妻の関係を通して、キリストと教会の関係、尊敬と奉仕と愛の関係を学ぶことだからです。 締め括り 9月8日は、私たち夫婦の結婚5周年の日でした。お見合いで出会ってから、相手のことも深く知らず、たった105日で結婚しました。以後、福岡に渡って5年経ちました。ということは、宣教師としての私の人生は、妻との夫婦生活とあらゆる面において重なります。この5年間、喜怒哀楽を共に経験しつつ一緒に歩んできました。結論的に、神がこの結婚を計画されたということをしみじみと感じる時間でした。だからこそ、今日の言葉は、私自身への主の言葉であるかもしれないと思いました。私はこれからも妻を大切にしながら、互いに仕えあって生きていきたいと思います。今日の説教によって、皆さんにも聖霊なる神がくださる教訓があったと思います。キリスト者の配偶者がいたら、今日の言葉のようにお互いに仕え合いながら、これからも幸せに生きてください。未信者の配偶者がいたら、キリストの愛によって仕えてください。独身者ならキリストを自分の夫とし、主に倣って神と隣人を愛して生きてください。キリストが教会にくださった愛を身につけて生きていくことを願います。今日の御言葉を通じて夫婦関係、そしてキリストと教会の関係について、もう一度考える機会となることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

主の御言葉に従ったのに。

出エジプト記5章1~23節(旧100頁) コリントの信徒への手紙一 1章25節(新300頁) 前置き モーセは、主なる神に召され、ついにエジプトに出発することになりました。アブラハムとイサクとヤコブの神、誰よりも偉大なイスラエルの神の御使いとなり、苦しんでいるイスラエルの民を救い出すために、モーセはエジプトに赴いたのです。ところが、残念なことに、今日の本文ではモーセの失敗の話が出てきます。モーセは神の御言葉に聞き従い、自分の意志を捨てて主のご命令どおりにファラオのもとに行き、主の御言葉を申し伝えたのに、むしろ、その結果はファラオの怒りとイスラエルの苦しみにつながってしまいました。神の御言葉に従ったのに、結果は失敗と民からの恨みだったわけです。私たちは、これをどう理解すれば良いでしょうか? 今日は出エジプト記5章の言葉を通じて、私たちの信仰の大きな難題の一つである「主の言葉に従ったのに、なぜうまくいかないだろうか?」について考えてみたいと思います。 1.二人の王の対立。 まずは、今日の本文の背景について話しましょう。「その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。ファラオは、『主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない』と答えた。」(出5:1-2) エジプトに到着したモーセは、兄弟のアロンと一緒にファラオのもとに行きます。そして、自分を遣わされたイスラエルの神が「ご自分の民であるイスラエルの解放」を命令されたと述べ伝えます。しかし、ファラオは「主とは一体何者なのか。わたしは主など知らない。」と神を敵対しつつ無視します。古代中東の人々は、各地域ごとに神々がいると信じていました。エジプトには太陽の神、河の神、空気の神といった様々な神々があり、他の国々にも数多くの神々への信仰があったのです。当時の古代人たちは、それぞれの神々に自分の場所があり、そこを支配し、それぞれの名前を持っていると信じていました。そのため、エジプトを支配するファラオも、神同然に扱われていたのです。つまり、奴隷イスラエルに主と言われる名前も居場所も知らない突然現れた神という存在を、エジプトで神とされていたファラオは認められなかったわけです。このように出エジプト記5章は、始めから「イスラエルの神とエジプトのファラオ」という真の王と世の王の対立を描いています。 ファラオは、イスラエルの神を無視でもするかのように、モーセが伝えた言葉を聞かず、かえって、イスラエルをさらに苦しめました。当時はレンガを作る時、泥がよく固まるように、わらを入れたのですが、ファラオは、これ以上そのわらを提供せず、イスラエルが自分たちで集めるようにさせました。(レンガの数量はそのまま。)   主なる神はイスラエルを解放するためにモーセを遣わされたのに、それとは違って ファラオはさらに積極的に自分の権力を用いてイスラエルへの束縛を厳しく加えたのです。「ファラオはこう言われる。『今後、お前たちにわらは一切与えない。お前たちはどこにでも行って、自分でわらを見つけて取って来い。ただし、仕事の量は少しも減らさない』」(出5:10-11) ここで「仕事」の語源であるヘブライ語「アバド」は「神に仕える」という意味の表現です。つまり、イスラエルの神という方の命令を無視したファラオは、むしろ自分こそが神であるというニュアンスでイスラエルの民に重労働の弾圧をしたのです。ところで、神とファラオの対立の中、イスラエルの民は、ファラオより、むしろモーセのほうを恨むようになります。神の解放の命令のため、自分たちの労働が増えたことに対する不満だったのです。つまり、神の民と言われるイスラエルがファラオではなく、むしろ、神を恨むようになったということです。 2.主の御言葉に従ったのに。 「彼らは、二人に抗議した。どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです。」(出5:20-21) 先祖の神の命令により、イスラエルを解放するためにエジプトへ来たモーセ。もしかしたら、イスラエルはそのモーセの登場に一抹の希望を持ったのかもしれません。しかし、結論として、そのモーセの登場のため、イスラエルの労働はさらに厳しくなってしまいました。イスラエル人は、幼い頃から自分たちの先祖の話を聞いて育ったはずです。そして先祖を召された神についても、よく聞いてきたはずです。だから、先祖の神がいつか現れ、イスラエルを解放してくださるという希望があったに違いありません。とういうことで、モーセを応援する人もいたでしょう。しかし、彼らはモーセのため、自分たちの労働が増えたという現実に失望し、あまりにも簡単にモーセと神を恨むようになってしまいました。私たちは第三者の立場からモーセの話を読んでいるため、イスラエルの民の恨みを情けないものと思いやすいです。もう少しでエジプトから救われるのに、辛抱強くない彼らの信仰がとても弱く 感じられるかもしれません。しかし、それが私たち自身のことであれば、私たちは果たして、おとなしく神に信頼しつづけ、恨みも文句も一言も言わず、忍耐できますでしょうか。 「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。」(出5:22) イスラエルの民はモーセに、またモーセは神に、恨みと不満を言うのを見て、私たちは彼らの不信仰を非難するだけにとどまってはなりません。むしろ、それを自分に適用し、果たして自分は、こんな状況で神を恨まず、信頼しつづけていけるだろうかと、自分のことを振り返ってみなければなりません。信仰生活をつづけながら、こんな経験はとても起こりやすいです。「神様の御言葉に従ったのに、何もかもうまくいかない。」と神の業を疑うのはよくあることです。  私たちはなぜ「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」と恨み、文句するようになるのでしょうか? それは、人間には自分の物差しで、世のすべて(神の業でさえ)を確かめようとする傾向があるからです。長いといっても、100年にも至らない人間が、昔おられ、今おられ、永遠におられる神の御業を自分の物差しで判断しようとするからです。神が一日の計画を立てられたのに、たった1秒後に「自分の思い通りになっていない」と勝手に思って不満を抱いてしまうからです。 3.神への信頼 つまり「神の御言葉どおりに従ったのに、うまくいかない。」と思い、傷つく理由は、神への弱い信頼に基づきます。今日の本文でイスラエル民族は、神という真の王とファラオという世の王の間で迷っています。神についての理解も足りず、その方の権能を経験したこともなかったので、直ちに自分の生活に影響を及ぼすファラオの暴政に屈服してしまうのです。そして、その結果が、神の御使いモーセに対する恨みになったわけです。これは、実はモーセではなく、神への恨みなのです。神より世の王を大きく思い、恐れるから、神に対して恨むわけです。私たちは神を信じていると公に言っていますが、果たして世の王の支配から自由になれるでしょうか? 今、私たちにとって、世の王は誰でしょうか? ファラオでしょうか? 天皇でしょうか? それとも首相でしょうか? いいえ、神に逆らうこの世の風潮に従う私たち自身が、この世の王なのです。私たちはこの世界を70年、80年生きながら、自分が立てた基準のもとで、この世の価値観に足並をそろえていきやすいです。口先では信仰を語りますが、実際、自分自身の基準と世の基準とで世界を眺めているかもしれません。神は聖書を通して「私を信じろ」と語っておられますが、私たち自身の経験と世の中の風潮を見ている私たちは「信じずに信じるふり」ばかりしているかもしれません。 そして、事がうまくいかないと、それを神のせいにしているかもしれません。つまり、私たち自身が神に逆らうファラオであり、神を恨むイスラエルの民であり、モーセのようになっているかもしれないということです。そんな私たちに聖書はこう言います。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いです。」(一コリント1:25) また、イエスはこのように言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音20:29) 私たちは神の全能さ、賢さ、強さに信頼し、その方のお導きを忍耐しつつ待ち望んでいく必要があります。そして、今すぐ自分の目の前の結果に執着せず、神の御心を最後まで疑わずに信じ続けていく必要があります。5章でイスラエルとモーセはファラオの暴政のため、神を恨みました。しかし、すぐ次の箇所である6章1節で神はこう言われます。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。」(出6:1)そして、7章ではエジプトへの神の裁きが始まります。イスラエルとモーセが神への信頼を守り、もう少し忍耐していたら、彼らはまもなく神の御業を目撃し、恨みの代わりに讃美と感謝を捧げることになったでしょう。 締め括り 今日の説教のテーマは「神への信頼と忍耐」です。神の民と呼ばれていますが、この世に生きなければならない私たちは、必然的に神に逆らう世の風潮のもとに生きることになっています。ですから、私たちは聖書の御言葉を、しっかり自分の基準とし、世の風潮と自分の思いに流されないように注意する必要があります。私たちは主の御言葉に信頼し、忍耐をもって生きることで、神の御心を待ち望んでいかなければなりません。そうでなければ、私たちは結局イスラエルの民とモーセがしたように、神を恨んでしまうようになるかもしれません。もし、「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」と思うようになったら、その時が「私たちの信仰を顧みるべき時」なのです。神の計画を私たち自身の思いで判断してはいないか、私たちは果たして神の御言葉に信頼しているどうか顧みるのです。神と私たちの時間は全く違う速度で流れています。主の時を待ち望んで「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」ではなく「今は辛いが、私への主の計画は必ず成し遂げられる。」という信仰で生きる志免教会であることを祈り願います。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

光の子としての生き方

イザヤ書60章 1~2節(旧1159頁) エフェソの信徒への手紙5章1~21節(新357頁) 前置き 前回の説教で、何度も申し上げましたように、エフェソ書は、使徒パウロが小アジア地域(トルコ地域)の自分によって開拓されたエフェソ教会に寄せた手紙です。前半の1-3章にはキリストの福音ついての神学的な教えが記してあり、また、後半の4-6章には、その神学的な教えに伴う信徒の実践的な生き方についての教えが記してあります。私たちは前半の教えを通じて「主なる神が天地創造の前から、ご自分の民をあらかじめお選びになり、キリストを通して救ってくださり、キリストが頭となる教会としてお呼び出しくださった。」という神学的な知識を得るようになりました。そして、後半では、その神に選ばれ、救われ、教会に召された私たちが、この世でどう生きるべきか(実際の生活/生き方)について学びます。したがって、今日の5章の言葉もキリスト者の生活についてのパウロの教えだと言えます。今日の本文より、私たちはどのような教訓を得ることができますでしょうか? 一緒に考えてみたいと思います。 1.神に倣う者=愛によって歩む者。 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1-2) パウロはエフェソ教会の兄弟姉妹たちが神に倣う人生を生きることを勧めます。そして、そのような生き方を「愛によって歩むこと」と語ります。使徒パウロはエフェソ書4章1節で、エフェソ教会の信徒たちに「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。」と言いました。また続いて2節と3節では「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」とも語りました。私はここで「愛」という言葉に注目したいと思います。別の箇所ですが、使徒パウロは、第1コリント13章で次のように語りました。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:13) 私たちはこの言葉を読む時、信仰、希望、愛というものが別々であり、その中で愛がもっとも優れたものであると誤解しがちです。しかし、それは翻訳による誤解です。これは愛だけが優れているという意味ではなく、三つとも大事だが、その中で愛が一番基礎であるという意味です。 つまり、愛がなければ、信仰も虚しくなり、希望もただの欲望に過ぎなくなってしまうということです。したがって、キリスト者にとって「愛」は、私たちの信仰と希望を完全にする信仰生活の土台のようなものです。だから、神に倣う人生とは、愛をもって生きる人生であるのです。私たちが主と崇める三位一体なる神は、愛という関係の中で、世界を創造され、人間を造られ、歴史を導かれ、罪人を救ってくださいました。御父、御子、御霊が愛という関係にあって協力され、一つになられ、この世を支配しておられるということです。それと同じようにイエス·キリストも愛によって主の教会を立てられ、保たせていかれます。三位一体なる神が愛の関係によって結ばれ、お独りの神としておられることと同じように、教会もキリストの愛のもとで、キリストと結ばれた主の体として一つであるのです。主イエスのもとで一つとなった志免教会の兄弟姉妹の関係も、この愛に基づくものです。したがって、愛はキリスト者の人生の最も基礎となる大事なものです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(1コリント13:4-7) 神に倣う者、キリスト者なら、この愛の実践によって、自分が神の子供であることを証明しなければならなりません。神は愛そのものでおられるからです。 2.キリスト者は光の子である。 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」(エフェソ5:8-9) 神に倣う人生が、すなわち愛をもって生きる人生であるということを語ったパウロは、引き続き、キリスト者は光の子であると語ります。そして光の子にふさわしく生きることを勧めます。その生き方とは、光から生じる、あらゆる善意と正義と真実のある人生なのです。パウロは光の子となる前の人間は「暗闇」だったと語ります。この光の子と暗闇についてのパウロの話を聞くと、ふと、ヨハネによる福音書の1章5節の言葉が思い出されます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」ヨハネ福音書は、初めに神の御言葉があり、その御言葉の内に生命の光があったと語りました。そして、その光が暗闇に照らされても、暗闇は光を理解しなかったと言います。ここで御言葉とはキリストのことであり、キリストの御言葉によって、この世に生命の光が照らされたという意味です。しかし、この世の罪と悪に支配されている人々、すなわち暗闇に属した罪人たちはイエスの御言葉を聞いても理解が出来ないということです。光と暗闇は両立できないからです。キリストの救いによって罪と悪の支配から抜け出し、主のものとなった人は、これ以上暗闇に属さず、光に属した者であり、主の御言葉に反応することが出来るようになるのです。 もし、通りすがりの人に「あなたには暗闇と罪がないか」と問うたら、どうなるでしょうか。彼が真のキリスト者なら、自分の暗闇と罪を認め、しかし、主イエスによって清められたと言うでしょう。しかし、キリスト者でなければ、彼は自分には何の暗闇も罪もないと言い返すでしょう。暗闇に属した人は、自分の暗闇を認められません。しかし光に属した者、すなわちキリストによって光の子となった人は、真の光である神の御言葉を受け入れます。だからこそ、聖書に記してある神の御言葉に基づき、自分が罪人であることを認めるというわけです。私たちは神の御言葉であるキリストによって、私たち自身がどんな惨めな存在だったのかを知る知恵の光を、自分の罪を顧みる悔い改めの光を、神の御言葉が聞き取れる悟りの光を得た存在です。世の人々は決して気づくことも、悟ることもできないキリストによる霊的な知識が、光である主イエスの御言葉を通じて、私たちに来るのです。光が暗闇の中で輝いても、暗闇は光を理解しなかったですが、今や光の子と呼ばれるようになった私たちは、神の御言葉の光によって、自分の罪について、神の恵みについて、理解するようになったのです。ですから、私たちはもう光の子として生きるしかありません。3-5節に記された「みだらなこと、いろいろの汚れたこと、貪欲なこと、卑わいな言葉、愚かな話、下品な冗談」は私たちの生活においてはあり得ません。みだらな者、汚れた者、また貪欲な者としての生き方に違和感を覚えるようになります。それらは、光の子にはふさわしくない、暗闇に属した偶像崇拝者の生き方だからです。 3.光の子としての生き方。 「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:11,15,17) したがってエフェソ書は私たちに勧めます。「光に属した者として光の実を結び、知恵をいただいた者として主の御心が何であるかを悟って生きなさい。」キリスト教は「死後、天国に入るための宗教」ではありません。私たちはこれを間違えてはなりません。ここ5年間、私が志免教会に来てから、皆さんに何度もお話しました。私たちが天国に入ることは、いわば「おまけ」です。来世の天国が信仰の目標ではありません。私たちの人生の目標は「キリストと共に生きること」です。キリストと共に生きるために、父なる神はキリストを遣わされ、私たちを救ってくださったのです。つまり、今日の御言葉のように、神に倣った光の子として、常にキリストと共に生きさせるために、神は、イエス・キリストを十字架のいけにえとされ、私たちをお呼び出しくださいました。それがまさに私たちの救いなのです。そして、そのおまけとして私たちは死んでも天国で主と共に生きることになり、将来キリストが再臨される時に栄光の姿で復活することになるのです。したがって最も大事なことは、光の子として「主イエスと共に生きること」なのです。 この話をしていると、また、もう一人の使徒であるペトロの教えが思い出されます。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。」(1ペトロ4:3) ペトロは暗闇の生き方は、かつてキリスト者になる前のことで、十分だと語りました。今やキリストの救いによって、神の子、光の子となった私たちは、昔の人生を踏襲してはいけません。もちろん、私たちの罪により、昔の生き方から完全に自由になるのは難しいです。しかし、だからこそ、主は悔い改めの機会を毎日毎日与えてくださるのです。光の子なら、その名にふさわしく生きるべきです。失敗したらまた悔い改めて、やり直せばいいです。キリストがその血潮を流し、私たちを救ってくださった理由を覚えて生きましょう。憎しみよりは愛を、欲望よりは清潔を、愚かな言葉よりは感謝の言葉を追い求め、神に倣っていく人生のために頑張っていきましょう。主の御言葉に聞き従って光の道を歩みつつ神に倣っていく私たちであることを祈ります。 締め括り 最後に、今日の旧約本文であるイザヤ書60章1-2節を読んで説教を終えたいと思います。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」私たちが生きる、この世界は暗闇に満ちています。しかし、私たちは真の光であるキリストによって、暗闇の道から出て、光の道に入っています。ですから、これ以上暗闇に属した人生を送らないように自らの生き方を吟味し、正しい方向に進んでいくために主に祈りつつ助けを求めましょう。起きましょう。そして光を放ちましょう。主の栄光が主イエス·キリストによって私たちの上に輝いています。 暗闇に照らされた神の栄光を憶え、その方の子供にふさわしく生きていきましょう。 キリスト・イエスが今日も私たちをその道に導いてくださるために神と私たちの間で執り成しておられます。光の子として光の人生を生きていく私たちであることを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。