罪人をキリストに導く律法。

ヨシュア記1章5‐9節 (旧340頁) ローマの信徒への手紙7章1-6節(新282頁) 聖書はイエス・キリストが律法を完全にされる方だと語っています。キリストは決して律法を無視する方ではなく、むしろ、律法の精神を完全に示してくださるという意味です。ですから、私たちキリスト者は旧約の律法を無視してはいけません。神がイスラエルに律法を与えられた理由は、その律法を通して、神の御心を学び、その御心に基づいて生きていくようにガイドラインを提示してくださるためでした。この律法に隠れている神の御心は、ご自分の民が神と隣人を愛し、神の民らしく生きていくことです。結局、私たちに律法が与えられた理由は、愛を行うためです。したがって、聖書は、今日も私たちにこう訴えます。『愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。』(ローマ13:10)今日はローマ書7章を通じて、このような律法の機能と律法とキリストとの関係をどのように理解すべきかについて、皆さんとみ言葉を共にしたいと思います。 1.旧約の律法。 我々はすでに前のローマ書の説教を通して律法について分かち合いました。日本に日本国の憲法があるように、古代のイスラエルには、イスラエルの憲法に当たる律法がありました。そのため、律法にはイスラエル人のための司法、民法、刑法等のような実質的な法律が多く含まれていました。ところが、この律法は一般的な憲法とは異なる性格を持っていました。イスラエルは祭政一致社会でしたので、律法が憲法の機能を有すると共に、宗教法としての機能をも持っていました。 『それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法の全ての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。 』(申命記17:19)律法は、神を畏れることを学ばせる掟だったのです。そのため、律法には神への知識、神への崇め方、善と悪とは何かについて記されていました。すなわち、律法とは主の民の生活のための一般的な法律と神に仕える祭祀法が網羅されているイスラエル民族の生の基準だったのです。 『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることを全て忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。』(ヨシュア1:8)イスラエル民族がエジプトから出て40年の荒野での生活を終えた後、ヨルダン川を渡ろうとする時、神がヨシュアに一番最初に命じられたのは、律法を厳しく守ることでした。この律法が向後カナンの地で繰り広げられる苦難と挫折から、イスラエルの進むべき道を教えてくれる道しるべだったからです。また、この律法は、罪を悟らせる機能も持っていました。『ただ、強く、大いに雄々しくあって、私の僕モーセが命じた律法を全て忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。』(ヨシュア1:7)律法を守り、行なう際に、右にも左にもそれない生き方を学ぶことができたからです。右に左にそれるということは、神の御心に適わない生を意味するものです。つまり、罪のことです。神は律法を通して、罪と義について教えてくださり、義の道に進んでいく際に祝福してくださると約束されたのです。 旧約では、すでに律法が義と罪を分別し、どう生きるべきかを教えてくれる道具であることを明らかに示されていました。聖書は律法を行うことによって救いに至るのではなく、律法の行いを通して神の御導きを悟り、その中での生き方を教えてくれただけです。つまり、神は民が律法を行うことによって贖われるのではなく、律法を行うことによって罪を離れ、正しく生きるようになることを教えてくださったのです。そのように律法を行う生の中で、神の御心に基づいて、救いが決められるのです。ここに人間の力はちっとも要りません。しかし、イスラエルの宗教指導者たちは、律法を行うことによって義とされると思っていました。彼らは律法の役割について完全に誤解していたわけです。なので、イエスが来られた時代の宗教指導者たちは、律法の精神を忘れ去り、自分の宗教的な行為を誇り、律法についてよく知らず、律法を完全に守ることができない弱い人々を無視して裁きました。残念なことに、イエスの時代の律法は、完全に誤解されていました。 2.新約の律法。 パウロは、このような律法への誤った理解に対して、正しい律法観を植え付けようとしました。今日の新約本文の言葉は、そのような背景の下で、律法について論じているのです。『それとも、兄弟たち、私は律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。 』(ローマ書7:1-2)パウロは、律法とイエスについて、律法は元夫であり、イエスは新しい夫であると比喩しました。イスラエルの律法では、元夫が死ねば、新しい夫と再婚することが許されるという法があったからです。これはイエス・キリストによって、律法の支配にいた人が、キリストの支配に移されるという比喩なのです。神から前にいただいた律法は人を正しい生に導き、その正しい生を通して神に近づかせる道具でした。したがって、律法は、正しい行為とは何か、罪とは何かについての知識だけを与えるガイドだったのです。そのガイドに沿って最終的に至って会う存在は律法そのものによる救いではなく、律法を与えられた神による救いでした。 時が満ち、神は神の救いを成し遂げる存在を遣わしてくださいました。彼はイエス・キリストでした。イエスを通しての福音は、義と罪を教えることだけの役割を超え、積極的にその罪から贖われる方法をも教えてくれました。つまり、律法にはない神の救いを満足させる教えだったのです。そして、その福音の結果は、イエス・キリストを信じて罪から自由になる完全な救いでした。『ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、私たちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。』(4)そういうわけで、律法はイエス・キリストに出会った人に、もはや力を発することができなくなりました。まるで、元夫が死ねば、妻に何の影響も与えられないように、キリストの中で律法は、罪を定める、その力を失ってしまいました。律法が義と罪を教える機能だけを持っていたのに対して、キリストによる福音は義を完成させ、罪の影響力を完全に打ち破る律法の完成を成し遂げたからです。そのため、イエス・キリストを信じる者は、律法に定められた罪人という身分から完全に解き放たれました。それまで律法が義と罪を仕分ける道具であったのに対して、キリストはその律法が果たせなかった罪人を義人に生まれ変わらせる力をも持っておられるからです。 『こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。 しかし、信仰が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません。』(ガラテヤ3:24-25)パウロのまた他の聖書であるガラテヤ書はこれについて、いっそう簡単に説明しています。養育係とはローマ時代に、両親に代わって子供たちを養い、彼らが両親の跡継ぎとして、立派に成長できるように導く奴隷でした。(ローマの奴隷の意味については、先週の説教で説明しました。)旧約の律法は、キリストがこの地上に来られ、私たちに真の救いと恵みをくださる時まで、民を導く養育係に過ぎませんでした。だから、律法そのものが、私たちを罪から自由にすることはできません。私たちは、律法を通して、自分が正しいかどうか、罪人かどうかを悟るようになるだけです。このように過去の罪を悟らせる律法が、私たちを捕らえた元夫のような存在であれば、キリストは福音をもって私たちを自由にする、真の夫となり、私たちと永遠に一緒におられる方です。要はキリストに導く養育係としての役割、それが新約聖書が語る律法の機能であるということです。 3.神様のために実を結ぶ民。 このように、旧約も新約も、律法では私たちの信仰は完全にはならないということを口を揃えて語っています。しかし、人々は意外と、これらの律法を守る生を通して信仰の守り甲斐を得たりします。ある人々は聖書の言葉に打ち込んだあまり、自分より知識の少ない人を裁いたりします。神学校でも、そんな場合があります。神学知識の多い学生が同級生を見下したり、責めたりすることもあります。神学校を卒業した後も、まだ、そのようにする人がいます。積極的な信仰の行ないのない人に、実践が足りないと咎めたりします。恥ずかしいのですが、以上の例え話は、私自身の話でもあります。ところで、ある日、その全ての振る舞いが、過去のユダヤ人が持っていた律法への自負と似ていることであると認識しました。知識が、行為が、私たちを救うことはできないのですけれども、まるでイエスの時代の律法主義者たちのように相手側にいる人を裁き、侮る愚を犯してしまったのです。 数多くの知識、祈り、行い、等々。この全ては、私たちの信仰のために必ず必要なものです。しかし、最も大事なものは、我々が律法から学んだ知識、行いなどが目指すべきところは、その知識と行い自体による個人的な満足感ではなく、知識と行いによって結ばれるキリストの実を結ぶべきだということです。 『兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、全てはあなたがたを造り上げるためにすべきです。』(コリント14:26)ここでの『造り上げる』という言葉の意味は、キリストの教会を健全に建てるという意味です。私はこれこそがキリストによる神様のための実だと思います。神がお許しくださった律法も、結局は、律法そのものではなく、神から与えられた最終的な価値、イエス・キリストを示し、主の教会に仕えるためのものです。つまり、キリストを通じた信仰の実を結ばせるものです。私たちの律法による行いで、キリストの実が結ばれなければ、いかなる有益なことも罪の道具となり、最終的には無益なものとなります。律法は、ただ、私達をキリストに導く道しるべに過ぎません。 『私たちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。 しかし今は、私たちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。』(ローマ6:5-6)律法は私たちに罪とは何かについて認識させる道具です。しかし、律法によって、その罪に気付いただけで、キリストによる悔い改めと罪の赦しを受け入れなければ、律法は私たちを死から自由にすることはできません。でもキリストを信じる者は、そのような律法の支配から解放され自由にされた存在です。私たちは、いつでもキリストを通して悔い改めることができ、赦されることができ、キリストを通しての実を結ぶことができます。主による「“霊”に従う新しい生き方」とは、私たちがキリストに従い、キリストに倣って生きていくことです。律法の教えに従って生きると同時に、律法の限界を明らかに悟り、その律法が導くところ、すなわち、イエスを信じること、キリストに見倣うこと、彼の民らしく、良い実を結びつつ生きていくことを追求することこそ、神が私たちに律法を与えられた本当の理由ではないでしょうか? 結論 過去、キリストを知らなかった私たちは、罪の実を結ぶ人生を生きてきました。神を信じず、他人を憎み、自分だけのために生きて来ました。いくら聖書をよく知っていたとしても、善行をたくさん行ったとしても、キリストの恵みがなければ、私たちの生は、最終的に律法に罪を定められ、罪人として裁かれ、罪の実を結ぶ生になって死んだはずでしょう。しかし、今、キリストを知っている私たちは、私たちの罪が何なのかが分かるようになり、その罪から完全に自由になりました。キリストが贖ってくださったからです。そしてキリストによる聖霊の導きのゆえに、本当に善を行い、義の実を結ぶことができる立場に立つことになりました。この全てが、イエス様の愛と救いによる恵みなのです。したがって、律法の影響から自由な者になっていきましょう。足りない部分があっても、キリストを信じて生きていきましょう。律法の教えを行ないながら義の実を結んでいきましょう。主が私たちの弱さを知り、助けてくださるでしょう。主の御守りの下で、律法の精神である愛を行い、主と隣人に喜ばれる神の民、志免教会として、私たちの生を生きていきましょう。

罪に死に、キリストに生きる。

詩編16章7-11節 (旧846頁) ローマの信徒への手紙6章1-14節(新280頁) 前置き 私たちは、これまでのローマの信徒への手紙の言葉を通して、人間の罪深い本質について、そのような人間を愛しておられる神について、神と人間を和解させてくださるキリストの恵みについて、そして、そのようなキリストの恵みを実現させる聖霊について分かち合いました。ローマ書は非常に複雑な内容と理解しにくい内容の話をたくさん含んでいる聖書ですが、その最も大事な教えは、『イエス・キリストが罪から私たちを救ってくださった。』ということです。レントとイースターを通して分かち合ったもの、つまり、ご自分の民の罪をお赦しくださるために死んでくださり、復活されたイエス・キリストを覚えながら、再びローマ書の話を続けていきたいと思います。複雑で容易ではない内容のローマ書の言葉ですが、最後まで、よく学ぶことが出来るよう、皆さんのご協力とお祈りをお願いいたします。 1.パウロの時代の人々の救いに対する誤解 ローマは、帝国の首都として罪に満ち満ちた都市でした。ローマ教会はそのような罪の都市にありながら同時に、イエス・キリストを信じる信仰の共同体でもありました。パウロは、ローマ書を通して彼らの信仰を褒めると共に、それでも、人間は罪人であるということを改めて強調しました。パウロはいくら神を信じると自負する者でも、神の御前で罪の悔い改めがない場合、また、神ではなく、自分の力に頼って救いを得ようとするなら、決して救いに至ることが出来ないと警告しました。旧約の神の民であるユダヤ人にしろ、新約の異邦人のキリスト者にしろ、ひたすらイエス・キリストを救い主として信じ、自分の罪を告白して、神様に従う時のみ、民族と出身を問わず救われると教えたのです。キリストによって義とされた人は、他の何物でもないキリストへの信仰だけによって救われました。信仰によって救いを得た義人は、どのような苦難の中でも、神が共におられる祝福を得る人です。彼らは永遠に、神と和解できる恵みの中にとどまる人です。罪によって神と離れた人類は、ただイエス・キリストを通して神と和解することができます。キリストにあって生きていく者は永遠に神を自分の誇りとして、主と同行することができます。以上がローマ書1-5章の主な内容でした。 ローマ書1-5章の言葉で最も重要な内容は、まさに 『どんな罪人であっても、イエスを信じることによって義とされ、神の民として生きることになる。』ということです。罪人は神を離れ、不義を行い、それによる罪の中に生きて、神に見捨てられる永遠の死に至る運命でした。ですが、神様はそのような罪人にキリストによる新しい人生を得る機会をくださったということです。しかし、パウロがイスラエルとローマ帝国の各地で教えた、この恵みの福音は、当時ローマ帝国に蔓延していた、ある異端思想によって深刻に歪められてしまいました。それは『グノーシス主義、霊知主義』でした。グノーシス主義とは、『人は真の知識によってのみ、救われる。』という教えを中心とした宗教的、文化的思想でした。(グノーシスはギリシャ語で知識、認識を意味する。)『真の知識を通して救いを得る。』という言葉そのものは、非常に耳に聞き良い言葉だと思うんですが、その真の知識というのは、キリストの真理と救いとは何の関係もないものでした。グノーシス主義には、様々な教えがありましたが、その中で最も代表的なものは『肉体は悪、霊は善。』」という二元論でした。彼らはこれが真の知識の基本だと信じていました。 彼らが主張した『肉体は邪悪な神によって創造されたので、悪であり、霊は善良な神によって創造されたので、善である。』という教えは、色んな副作用をもたらしました。たとえば、『アダムを創造した旧約の神は邪悪な神、イエスを遣わした新約の神は善良な神。』 あるいは『肉体は邪悪なものであるため、イエスの肉体は復活せず、彼の魂だけが復活した。』などの教えでした。彼らのうちには、『肉体は邪悪であるため、どんなに善良に生きても肉体は救われない。だから、飲み食いしつつ楽しもう。』と主張する快楽主義もありました。当時の一部の人々は、これらのグノーシス主義的な快楽主義に陥って、『イエス様を信じれば、私たちの魂は、必ず救いを得ることが決まっている、だから、思う存分、自由に生きよう。』という考えでパウロの教えを誤解し、わがままに生きる人もいたそうです。『律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。』(ローマ5:20)快楽主義のグノーシス主義者たちは、これらのパウロの教えを誤解して、『私たちが罪を犯しても、主はより大きな恵みをくださる。』というこじつけを主張したと言われます。このようにパウロが教えたキリストの福音を歪曲したグノーシス主義の教えは、当時の教会に数多くの混乱と誤解を増し加えました。 これらの副作用の痕跡は、聖書の他の箇所でも見つけることができます。 『行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう。』(ヤコブ2:18)当時の教会の中では『ただ信仰によってのみ救われる。』という言葉を誤解した人が度々見られました。彼らは放蕩な生活をしたり、または、近所の人や社会には何の関心もなく、ただ自分だけに集中したりする誤った信仰生活をしていました。我が儘に生きても、信仰さえあれば、救われると思っていたわけです。そういうわけで、ヤコブは『魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。』と話したのです。確かにパウロの教えのように罪人は、ただイエス・キリストによってのみ、救いを得ることが出来ます。しかし当時の世界は誤った信念のために、福音を歪めることが多かったのです。ですのでパウロはこのような教えを通して強く警告したのです。 『どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪の中に生きることができるでしょう。 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、また、その死にあずかるために洗礼を受けたことを。』(ローマ6:1-3)残念なことは、このように信仰のみ強調して、実践のない信仰生活を続ける人々が、今も少なからず、いるということです。今日の言葉は、信仰を口実として、誤った生き方を通す人へのパウロの警告なのです。 2.罪に死に、キリストに生きるということとは? ならば、キリスト者はどのような生き方を通すべきでしょうか?『あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。』(ローマ6:22)(ローマ時代の奴隷は、日本で知られている概念とは意味が違います。言葉の上では奴隷ですけれども、持ち主の助力者としての意味の方がさらに強いのです。それでも、違和感があると思いますのでしもべと言い替えさせていただきます。)本当にイエス・キリストを信じ、神に救われた者は、自分の思いのままには生きていきません。キリスト者は自分が神のしもべとされたことを自ら自覚している者だからです。しもべとされたのは、持ち主がいるという意味でしょう。持ち主の意志に聞き従い、持ち主の命令に服従することが、真のしもべとされた者の在り方でしょう。パウロが語っている『信仰によってのみ、救いを得る。』という言葉は、私たちが主のしもべとなったという意味です。これは単に信じるだけで、すべてが終わるという意味ではありません。しもべとして行うべき役割があるということです。キリストを信じて罪から解き放された私たちは、神のしもべに相応しい生活を営まなければなりません。それこそがキリストを信じる人の真の在り方、信仰なのです。今日の本文に出てくる言葉のように、イエスを信じるということは、私たちがイエス・キリストの死と復活を通して、主のしもべとされ、主の御心に適う生を生きるということです。つまり、キリストのしもべであるキリスト者は、イエスに従う人生が必ず伴われなければならないということです。 イエスは神のご意志に従って、この世に生まれ、従順に生きて、神の御心に応じて死んでくださいました。主の人生はすべての面で御自分の欲望と考えではなく、遣わされた方の御心に従う人生だったということでしょう。主によって救われたキリスト者の生き方も、これと同様であるべきだと思います。神に聞き従い、死に至られた主のように、キリスト者の人生も、自分の欲望ではなく、主の御心に従って生きるべきでしょう。そういうわけでローマ書はキリスト者のアイデンティティについてこう語ります。『私たちがキリストと一体になってその死の姿に肖(あやか)るならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。』(5)キリスト者の生活は、キリストと一つになって彼の生き方に従うことです。しかし、我々は、自分が決してそのような生き方を貫いていないということをしみじみと感じています。私たちは、すでにキリスト者となった者ですが、いつも自分の考えばかりで生きようとする傾向があると思います。隣人を愛すべきですが、気に入らない人を憎む傾向もあると思います。神に従うべきですが、最終的には自己中心的に生きていく傾向があると思います。両親を敬うべきですが、そんなに優しくない傾向があると思います。欲張ってはいけませんが、欲張りの本性を持っていると思います。私たちの生活の中に、キリストの姿より、自分の判断に従う姿が、しばしば見られると思います。つまり、依然として、私たちに罪の影響力があるということでしょう。 ローマ書によると、私たちは既に罪に死んだということが分かります。なのに、なぜ、まだ罪人の性質を持っているのでしょうか?キリスト者は明らかに罪の赦しを受けた者なのです。キリストの血潮が私たちの過去と現在と未来の罪を全て洗い上げました。これは、神が確証してくださることです。しかし、私たちは『既にと未だとの間』に生きる存在です。『私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。』(4)キリスト者はキリストの死にあずかる洗礼を受けました。私たちは、この洗礼という言葉を通して、今の私たちの状況を推測して見ることができます。私たちは、主の御名によって洗礼を受けます。洗礼は死んだ者が生き返ること、すなわち、復活の象徴です。しかし、私たちは、実際にはまだ死も復活も経験していません。それでも、主はキリストの御名による、この洗礼を通して、我々はすでに罪に対して死に、キリストによって復活されたと見なしてくださいます。本当に死に、復活したのではないですが、そのように認めてくださるということです。つまり、私たちは、まだ罪を持っている不完全な存在ですが、キリストによって、神に罪のない、復活された義人と認められているのです。 私たちは、主に洗礼を授けられ、新しく創造された者となったと、主の正しい民となったと信じて生きていきます。しかし、私たちの中には、まだ罪が残っています。そして、まだ完全な善を実践して生きることが出来ません。しかし、主はキリストの名によって行われた、洗礼を通して、私たちキリスト者を『すでに死んで、復活した存在』としてくださいました。そして終わりの日に、神の御前に立つ時まで、私たちを義と認められ、導いてくださるでしょう。キリストと共に生きることは、このような御導きの中に生きることを意味します。私たち自身はまだ取るに足りなく、完全ではありませんが、キリストという正しい方の手柄を拠り所とし、自分も義人と認められたこと、まだ完全ではないけれど、最後の日の完全な存在になるまで、主が我らを守ってくださること、これこそがキリストを信じる人に与えられるかけがえのない大事な神の恵みなのです。私たちは、キリストによって罪に死んだ者として、キリストによって復活した者と認められ、生きている者です。ですから、私たちに罪の痕跡が残っているからと言って、恐れる必要はありません。私たち自身のことを深く知り、主に喜ばれる人生とは何なのかと、どのように善を実践して生きていくべきかと、苦悶する時、主は私たちが進むべき道を喜んで教えてくださるでしょう。 締め括り 『あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。』(12-13)私たちは、キリストによって義と認められた存在です。したがって、私たちは私たちの中にある罪に沿って生きてはなりません。私たちは主の義のための道具として、それに合致する人生を生きていくべきです。主の義のための道具として自分自身を神に捧げるということは、単純な献身、あるいは奉仕を意味するものではありません。神の御心に合致する人生とは何なのかと悩み、それを自分の生活の中に適用させて、神に聞き従う人生。主に喜ばれる生活のために孤軍奮闘する人生、それらこそが、主の義のための道具としての人生なのでしょう。『命の道を教えてくださいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。』(詩篇16:11)主は、主に従う者らに、彼らの進むべき命の道を示してくださいます。信仰によって救われたということに満足して、我が 儘に生きる人生ではなく、毎日、主が示してくださる命の道とは何かと悩みつつ、キリストに属している者として生きていきましょう。常に我々の信仰に適う善の実践を追求する時、神は義とされた者として、私たちのことを喜ばれ、正しい道に導いてくださるでしょう。

コロナ騒ぎは神の呪いか?終末の徴(しるし)か?

歴代誌下7章11-16節 (旧679頁) ルカによる福音書 21章7-19節(新151頁) 前置き 去年12月、中国武漢で初めて発生した以降、世界の各地にウイルスによる被害が広がっています。全世界的に感染者の人数が200万人を突破し、日本でも、すでに1万人以上の感染者が出たそうです。徳田安春という学者は23日の毎日新聞とのインタビューで、日本で今まで発表されたものより、12倍を超える感染者がいるだろうという見解を明らかにしました。このような状況を見るたびに、人々は恐怖を感じ、まさか、こんなことが実際に起きるとは想像も出来なかったと思ったりすると思います。特にキリスト者は、なぜ、神様がこんなに、人々がひどい目に遭うことを許されたのかと疑問を抱くかも知れません。ひょっとしたら、聖書に記されているように、こんな状況は神様の呪いによることなのでしょうか?もしかしたら、人類に終末が近づいてきたのではないでしょうか?神様はもうこれ以上、人間を愛しておられないのではないでしょうか?こんな状況に生きていく私たちキリスト者は、どのような考え方を持って生きるべきでしょうか?今日は聖書の御言葉を通して、コロナ19のような感染症に対する私たちの在り方について、話してみたいと思います。そして、一日も早く、今の状況が落ち着いて、前のような自由な交わり、安らかな礼拝の生活になることを、心から切に祈ります。 1.コロナ感染症は神の呪いなのか?‐考えの転換 『主はそこでイスラエルに疫病をもたらされ、イスラエル人のうち七万人が倒れた。 』(歴代誌上21章14節)、イスラエルのダビデが神の御言葉に聞き従わず、イスラエルの人口調査を実施したとき、神はダビデに呪いをかけられました。ダビデが人口調査をしようとした理由は、イスラエルの力を調べてみるためでした。かつて、神はダビデとイスラエルを守り、諸国より優れた国としてくださいました。しかし、神がイスラエルを優れた国としてくださった理由は、イスラエルを他の国より栄えさせ、周辺国を征服させる意図ではありませんでした。 『今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』(出エジプト19:5-6)むしろ、主はイスラエルが祝福された祭司の王国として、神を世の中に伝えるように導こうとなさるためでした。しかし、ダビデは、そのようなイスラエルのアイデンティティを忘れ去り、自分の力を誇るために人口を数えたのです。 これは神の御前に大きな罪とされました。これによってイスラエルは神に伝染病の呪いを受けることになりました。そのために、イスラエルで何の罪もない7万人の民が死ぬことになりました。以後、神は伝染病をおさめられ、ダビデの高慢を悟らせてくださいました。ダビデは自分の高慢を悟り、悔い改めましたが、その代償はあまりにも、大きくて、その被害は甚だしかったです。この出来事は、歴代誌上21章に登場する話です。このような話は、旧約聖書で少なからず現れます。なので、私たちは伝染病が神の呪いだという思いを持ちやすいと思います。しかし、私たちは、旧約の話を何の解釈もせず、文字通りに受け入れてはいけません。なぜなら、旧約の出来事と現在の私たちの間には、イエス・キリストという強力な仲保者がおられるからです。イエスは助け主、聖霊を遣わされ、今日もご自分の民のために御手を差し伸べられ、導いていらっしゃいます。『同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。』(ローマ8:26)神は、ご自分の民を助けてくださり、愛してくださる方です。人類への神の呪いは、キリストによって、すでに解決されました。それでは、なぜ、神は私たちにこのような感染症を許されるのでしょうか?この伝染病が神の呪いではなければ、果たして、何なのでしょうか? 私たちは、人間中心的な考え方を変える必要があります。私たち人間は、神が創造された被造物の一つに過ぎません。もちろん、主は人間に被造物の代表という大事な役割を与えてくださいました。だからといって、人間がすべての被造物の中で最も優れた存在だという考えは高慢ではないかと思います。人間も結局、被造物の一つであり、すべてのものは神のものだからです。この言葉は、ウイルスも、最終的には神の被造物だという意味です。創世記によると、初めに神は人間に『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』と命じられました。ここでの『従わせる。支配する。』という意味は、『導く。世話をする。』に近い意味なのです。近代の欧米の人間はこの聖書の原文と翻訳文の違いのため、聖書の教えを間違って受け入れたのです。あれから、東西を問わず、人間は、自分の欲望のために、自然を傷つけたり、地球を汚染させたりしました。しかし、ウイルスは動植物や人間に寄生して、自分の生を生き抜いただけです。そうしたウイルスが人間の無分別な開発、あるいは、不自然な食生活を通して、私たちと出会うようになったのです。私たちは、ウイルスから被害を受けることによって、ウイルスを悪と規定する傾向があります。しかし、過去長い間、人間が神の前に行った悪が、ウイルスのそれより、はるかに大きいと思います。ウイルスを悪と規定するということは、私たち人間は、善良な存在であるという無言の前提を持っているので可能な考えなのです。これは果たして神様の御前で正しい考え方なのでしょうか?私たちも、結局、被造物に過ぎない存在です。私たちは、より謙虚にウイルスを扱う必要があると思います。 ウイルスは神の呪いではありません。私たちは、自分の知らないうちにウイルスから、多くの助けを受けてきました。例えば、ウイルスは細菌(バクテリア)に寄生する場合もあると言われます。かつて、人類を滅亡に追い込むほどの致命的な細菌がウイルスの寄生によって絶滅されたという科学界の話もありますし、ウイルスを用いて、多くのワクチンが開発されたり、自然の多くの部分が保たれたという話しもあります。現在はいかがでしょうか?コロナ19の影響でインドと中国の産業地帯の灰色の空に、再び青さが戻ってきたり、南米のウミガメが海岸に戻って来たというニュースもあります。ウイルスは、相変わらず、神から命じられた自分の生を生きていくだけです。むしろ、自然を害し、地球を痛めたのは人間なのです。神の被造物である、この世界に、より大きな害を及ぼしている存在は私たち人間なのでしょうか?それとも、ウイルスでしょうか?私たちは、このウイルスを通して謙虚さを持って、神の前に進まなければならないと思います。私たちは、神が造られた自然の前で、小さな存在に過ぎません。私たちはこの自然の世話をする神のしもべなのです。ウイルス騒ぎを眺めて、自分自身を謙虚に省みる私たちになって、人間中心的な考えを棄て、さらに神様中心的な考え方を持って生きていきたいと思います。 2.伝染病は終末の試練の徴なのか? – 恐怖を捨て去ること。 今日の新約本文では、ある人々がイエス様にエルサレム神殿の見事な石と飾りについて話しました。彼らはエルサレム神殿がまるで永遠にあるかのように、その規模と姿に惚れて、主の前で感心したのです。実際にイエスの時代の神殿は、ソロモンが建てた神殿より、はるかに大きく、綺麗な見掛けだったと言われます。その際、主はそのような神殿が石の上に石一つも残らず、崩れると言われました。すると、その人たちは主にそのことが起こるときには、どんな徴があるのかと尋ねてきました。これに主は『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』(ルカ21:10-11)と言われました。主は彼らに神殿が崩れる日は、全世界が滅びるかのように恐ろしいことが起こると仰ったのです。 神殿は、実際に西暦70年にローマ帝国によって崩壊しました。そのとき、エルサレムでは、数多くの虐殺があって、イスラエル全域で人々の悲鳴と遺体が絶えませんでした。イスラエル民族にとって神殿が崩れたということは、戦争、地震、飢饉、疫病のように神に捨てられること同然の恐ろしいことでした。また、イスラエルのアイデンティティが壊れるようなことでした。しかし、その時代のユダヤ人たちの感覚のない私たちは、このような恐ろしい徴に関する聖書の言葉を読むたびに、当時のユダヤ人たちの考えとは異なり、漠然と終末の兆しとして受け入れる傾向があると思います。主は、戦争、地震、飢饉、感染症というイメージを通して、神殿が崩れるということが、いかに衝撃的なことなのかを教えてくださいましたが、聖書を読む私たちは文字通りの意味を受け入れ、まるで、これが終末の時にある試練だと考えてしまうかも知れないということです。そのため、一部の人々は、コロナ19のような伝染病が神からくだされた終末の徴だと受け入れたりします。ひょっとしたら、この感染症によって、人々が死に、苦しむとき、キリストが再臨なさるのではないかと、世界が終わるのではないかと恐怖を感じるからです。 しかし、私たちは終末と試練について、漠然と考えてはいけないと思います。私たちは、まず、終末について、正しい概念を明らかにする必要があります。終末とは、『世の終わりに起きる出来事に関する教義』と解釈できます。この終わりというのは漠然と『主が再臨する時、人類が滅びるとき』を意味するものではありません。新約聖書から示される終末論の特徴は、『神の終末へのご計画は、まだ、最終的には完成されていないが、すでにイエス・キリストの中で成し遂げられている。』ということです。したがって、新約の終末論は、一方では、現在的な側面、すなわち『すでに実現されたもの』という側面と、他方では、未来的な側面『まだ、実現されていないもの』という側面を持っています。言葉が複雑になったと思いますが、一体これは何を意味するのでしょうか?まさにイエス様がこの地上に生まれた時、すでに終末は始まったということです。そして、イエスが再び来られる再臨の日に、この終末が完全に終結するという意味でもあります。したがって、イエス以降に生まれた私たちは、すでに終末の世界を生きているのです。この終末は、イエスが再臨される終わりの日に、完全に成し遂げられるでしょう。 20世紀にはすでに世界的に大きな戦争がありました。当時、米軍の空襲によって東京、名古屋などの大きい都市が火の海のようになりました。原爆によって犠牲になった人、戦争による孤児と寡婦がたくさん生まれました。飢えて死んだ人も多かったのです。今はいかがでしょうか?日本のあちこちで、相変わらず、大小の地震が起きます。世の中に依然として、戦争、地震、飢饉、疫病は存在します。にも拘わらず、主の再臨はありませんでした。したがって、私たちは、今のような恐ろしい感染症が流行しているからといって、人類が滅びるのではないかと恐れる必要はありません。これらの試練があるからといって、すぐに終わりが来ると恐怖に怯える必要もありません。私たちは、すでに終末の中に生きているからです。しかし、まだ、終わりではありません。したがって、恐れを捨て去りましょう。いつか、今の状況が終わり、我々は再び集まって礼拝を守り、お交わり出来ると信じます。ただし、私達の出来ることは頑張って行ってまいりましょう。聖書を読み、祈りをし、近所の人を助け、神を愛してまいりましょう。密集、密閉、密接を避け、手をよく洗って、免疫力のために食事もちゃんとして、運動も熱心にしましょう。神が世界を治してくださる、その日を楽しみにしており、健やかな生活を続けていきましょう。そのような生活の中で、主は新しい明日を開いてくださるでしょう。 結論 コロナ19に対する教会の在り方。 ソロモンは神の神殿を完成したときに、神の御前で民を憐れんでくださり、助けてくださることを求めて祈りました。その夜、主はソロモンの夢に現れ、その祈りにお答えになりました。『わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、 もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。』(歴代誌下7:13-14) 主は罰を与えられても、癒してくださる神様であり、見捨てられても、お探しになる方なのです。ましてや、キリストによって、永遠に主の子供とされた私たちを死の中で惨めに放って置かれる方ではないでしょう。主は必ず今の状況を治してくださいます。そのような主の慰めと癒しを期待し、謙虚さと祈りをもって神様を見上げましょう。私たちがキリストの御名を通して、神に切に求めるとき、主は必ず私たちを顧み、守ってくださるのです。根拠のない恐怖を捨て、約束の神を見上げ、試練の中でも、喜びを持って一日一日を過ごす私たち志免教会になりましょう。

私の羊の世話をしなさい。

詩編 23編1-3節 (旧854頁) ヨハネによる福音書 21章15-19節(新211頁) 前置き 私は小学校5年生頃から教会に通ってまいりましたが、約30年間、去るイースター礼拝のような静かな礼拝は初めてでした。主の体なる教会が一つとなって一緒にパンを裂き、賛美をし、み言葉にあずかり、神様を崇める礼拝が、どれだけ、大切なことだったのかを改めて感じられる時間でした。教会をこのように一つにならせてくださったキリストの愛と犠牲、復活についても、もう一度覚え、感謝する時間でした。この状況が過ぎ去り、恐れることなく、礼拝を守り、お交わりできる日が一日も早く来ることを心から願います。思ったより長くなるかも知れない、今のウイルス騒ぎのために祈っていく私たち教会になることをお願いしたいと思います。 1.主の復活が私たちに及ぼす影響。 イエスは復活されました。罪の支払う代償は死であるというローマ書の言葉のように、人間の罪によって死んでいく、この世の中に本当の命を与えてくださるために、主は復活なさいました。人間の罪、それは自分自身だけのために、すべてのものを排除、差別し、憎み、最終的には自分自身まで打ち砕く破滅そのものです。そして、その破滅の終わりは、神との関係が切れてしまう永遠の死なのです。私たち、人間はこのような罪から決して自由になることが出来ません。私たちは、常に神のご命令に完全に聞き従わず、隣人を自分の体のように愛しておらず、いつも自分の欲望の中に生きる傾向のある存在だからです。あるキリスト者はこう言いました。 『罪がすなわち自分であり、自分はすなわち罪そのものである。』それだけに私たちは罪の誘惑と力を振り払うことが難しいです。私たち、キリスト者が主イエスを救い主と信じて、従う理由は主が、このようにあまりにも罪に近くにいる私たちのために、そのすべての罪を背負い、代わりに死んで、罪の力を完全に打ち破り、復活されたからです。 主が、このように罪の力に勝ち、復活なさったことと同時に、罪と、その支払う代償である死は、その力を完全に失ってしまいました。もちろん、人間の心と生に、まだ罪が存在することは確かです。しかし、今の罪は過去の罪とは、根本的に異なる状態です。主が人間の罪を清める救いの道を与えてくださったからです。主が来られる前に、ほとんどの人類が罪によって、神に捨てられ死ぬしかなかったのが、主が来られた今では、罪人がキリストの名によって罪を告白し、神様に赦されることが出来るようになりました。罪と死に勝利した主は、弱い人間の能力ではなく、強力なご自分の力を保証とし、罪人を赦してくださるのです。そのお赦しには死も対抗できないのです。主が成し遂げられた最大の御業は、まさに、そのいかなる罪人をもお赦しくださる資格と力を持って、罪人を救ってくださったということでしょう。主はご自分のその力を通して罪人を召され、罪を告白させ、新しい道に進ませてくださいます。 私たちは、これを悔い改めと言います。悔い改めとは、自分の罪を神の御前でことごとく告白し、その罪の道から完全に向き直ることを意味します。しかし、これは自分の力、意志で、簡単に達成できるものではありません。主が送ってくださる聖霊の御助けによって成し遂げられるものです。だから、いくら悔い改めをしても、なかなか直らないからといって、自分を、あまりに咎める必要はないと思います。もし、繰り返し罪を犯しても、諦めず続けて、キリストに頼り、罪を告白し、少しずつ正しい方向に変わっていこうとすれば、主が喜んで助けてくださるのでしょう。主は旧約と新約の御言葉を通して、このような悔い改めのある人生を促されました。『論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。』(イザヤ1:18)『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。』(ヨハネ1:9)主はこのように、自分の復活を通して、罪人を召され、悔い改めさせることを望んでおられる方なのです。 2.悔い改めさせる主。 先に、この悔い改めについてお話した理由は、今日の本文の主な内容が、ペトロの悔い改めであるからです。よく知っておられるように、主の一番弟子だと自他が認めていたペトロは、主を三度も否定しました。『あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』(マタイ16:18)イエスは生前ペトロに、イエス自身が教会をお建てになり、その教会を通して陰府の力に勝利すると宣言なさいました。もちろん、私たちはこのペトロがカトリック教会のように法王だとは思いません。しかし、主が彼を信頼されたのは否めない事実であります。ペトロは教会を成す弟子たちの象徴でした。つまり、主はペトロと呼ばれる一人の人物を通して、ペトロのように主を信じるすべての弟子たちに教会の成立を宣言なさったのです。そうした彼が主を裏切ってしまいました。信頼される弟子、弟子たちの象徴だった彼が、事実上、ユダのような裏切り者になったということです。 そんなペトロが、再び主に用いられるためには、何をすべきだったのでしょうか?それは『悔い改め』でした。ペトロとユダの同じ点は、両方、主を裏切ったということでした。しかし、両方の違いは、ペトロは悔い改めをしたということです。彼は主を否定した罪のために非常にいじけており、再び許されないという恐れに怯えていたかもしれません。しかし、イエスは彼を訪れてくださいました。そして、悔い改めさせ、もう一度彼に機会を与えてくださいました。『ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか』(15)、このような主の御質問にペトロは、自分の心を告白しました。 『はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。』その時、主のお答えは、『私の小羊を飼いなさい』でした。そして、主は同じ質問を2回繰り返し、ペトロもそれに対して『私はあなたを愛しております。』と明らかに答えました。それは、すなわち悔い改めの告白でした。主はそのようなペトロに『私の羊の世話をしなさい。』との答えを通して、ペトロに再び弟子としての人生を許してくださいました。 主が御自分の民を召されるときは、まず、悔い改めをお求めになります。その悔い改めは、キリスト自身が成し遂げられた救いと復活を通して、ご自分が、じかに保証してくださる完全な悔い改めです。主を3回も否定していたペトロは、主の御招きと愛とを通して悔い改めることが出来ました。まるで、3回の否定を、洗ってくださるかのように3回の告白を促され、悔い改めを許してくださるのです。キリストの救いの恵みの下にいる私たちは、いつでも主に悔い改めることが出来ます。誰でも、キリストの名を持って神に進めば、悔い改めることが許されます。新しい生活を始めることが出来るということです。主がペトロにお許しくださった悔い改めは、今を生きていく私たちにも適用されるものです。私たちの生活の中で悔い改めるべきことはありませんか?今でも自分の欲望のために、他人を憎み、神を軽蔑することはないでしょうか?主の赦しの招きに応じたペトロのように、今日も悔い改めと赦しを与えてくださる主の前で、自分の罪を告白する私たちになることを望みます。 3.教会に使命を与えてくださる主。 キリスト者にとって、悔い改めることが出来るようになったということ、主に赦されるようになったということは、ただ、私たちに与えられた救いの結果ではありません。むしろ、救いによって与えられた使命の始まりなのです。主はペトロに『私の羊を飼いなさい、私の羊の世話をしなさい。』と3回も強調されました。単に『主が私を愛してくださり、私も主を愛する。』ということだけで、終わることではありません。救われたキリスト者、つまり、私たちには『主の羊の世話をすること』という役割が残っています。それは、私たち、教会の使命なのです。つまり、主が許された悔い改めと救いは主に受けた私たちの使命のための第一歩にすぎません。私たちは、救われた者として、他人に仕える人生という使命を持っており、この使命は、私たちが主に召される終わりの日まで、私たちに託されている生き方なのです。 今日の本文に出てくる『飼いなさい。』とは、「ボスコ」というギリシャ語の言葉です。これは『餌をやる。飼う。』という意味です。また、『世話をする。』という言葉は、『フォイマイノ』で、『牧者として世話をする。治める。』という言葉です。これは両方、『主の羊を食わせ、養う。』という意味で、似ているニュアンスの表現です。主に赦された者、主に救われた者、主の弟子となった者。すなわち、教会は『主の羊を養い、飼う存在。』という意味です。私たちが、イースター礼拝を通して、主の復活を喜び、その復活による私たちの救いに感謝しているならば、我々は、この主の命令に聞き従う義務があるという意味です。主は大牧者であり、私たちは彼の羊飼いです。ここでの羊とは、被造物の代表である人間、すべての人類に適用される言葉です。私たちが本当に救われたクリスチャたちなら、自分の近所の人を、助け、食べさせ、守るべきです。すなわち愛して生きるべきだということでしょう。これは、主イエス・キリストが直接命じられた厳重な命令であります。しかし、残念なことに我々は主に与えられた、この命令を100%実行する能力がありません。実際に自分一人の人生を正しく保つことも難しいのが事実でしょう。しかし、幸いなことに、主は私たちに完璧を求めてはおられません。 主はペトロに『私を愛しているか。』とお聞きになりました。そのとき、主は『アガペー』というギリシャ語で愛を求められました。すると、ペトロは『アガペー』ではなく『フィロス』という言葉を使って、『私は主を愛しています。』と答えました。2番目も同じようにしました。すると、3番目の質問では、主も『フィロス』という言葉を使用して愛をお聞きになり、ペトロも『フィロス』を使用して答えました。『アガペー』も『フィロス』も愛という意味ですが、『アガペー』の方は神的な愛を意味する傾向があります。これに比べて『フィロス』は、もうちょっと人間的な愛の表現です。主が『アガペー』という言葉を用いられたとき、ペトロは、大胆に神的な愛で応答することが出来ませんでした。彼は神ではないし、背信の経験もあったからです。その時、主は『フィロス』を使用されることによって、弱いペトロに合わせて愛を求められました。私たちは、100%主と同じような完全な愛を実践することが出来ません。しかし、我々が愛しようとする際に、主は私たちの出来る範囲で、私たちのレベルに合わせて求めてくださるでしょう。したがって、我々は、救われた者として、私たちのできる小さなことから、近所の人を愛し、仕えつつ、生きていけばいいでしょう。主は決して私達のできないことをあえて強要なさいません。すでに主が成し遂げられた救いと愛なのです。我々は自分のレベルに合わせて愛して生きていけばいいのです。その時、主はさらに大きな恵みと力を私たちに与えてくださるでしょう。 締め括り 今日の本文はペトロの殉教を仄めかして話しを結びます。主に救われた弟子、主に聞き従う民には使命が与えられます。そして、その使命は、殉教を求めることもあるでしょう。ペトロは十字架に逆さにつけられて殉教したと言われます。しかし、主に赦された後、彼の人生は使命者の生であり、羊を飼い、世話をする生になりました。キリスト教の伝説によると、彼は二度と裏切らず、喜んで殉教に臨んだそうです。キリストの救いと聖霊の助けが彼を勇気のある弟子に導いてくれたのでしょう。私たちの人生も、このようになることを願います。主は昨日も今日も、明日も、私たちの大きな大牧者として、私たちを導いてくださる方です。私たちは、このような主に従って『主は私の羊飼い』と告白して生きていくことになります。このような大牧者キリストに従い、隣人の世話をし、愛する真の羊飼いとして生きていきたいと思います。主の復活と赦しによって、私たちの生活の中でも、そのような決意と勇気があふれますように祈り願います。      

イエスによる真の至聖所。

詩編 28編2節 (旧858頁) ヨハネによる福音書 20章11-18節(新209頁) 前置き 主イエス・キリストの復活を許してくださった父なる神様に栄光と感謝をお捧げいたします。皆さんの心にも復活の喜びが豊かにありますように祈ります。私たちは、去るレントと苦難週を通して、主イエスがご自分の民のために、神の栄光のために苦難と恥、そして死を喜んでお受けになったことが分かりました。神であるイエスが受けなくてもよい苦難を受けられた理由は、神には真の栄光を、人には、真の救いを与えてくださる大きな御業を成し遂げられるためでした。そのため、苦難と死から復活なさったイエスは、神に至る、たった一つの門であり、人間の救いのための、ただ一つの道でいらっしゃいます。今日は復活されたキリストが、私たちにとってどのような存在なのか、主を信じる者は、キリストを通してどんな存在として生きるようになるのか、語り合う時間になることを願います。 1.真の大祭司、イエス。 ヘブライ人への手紙は、神と人の間を執り成されるイエス・キリストを私たちの大祭司と呼んでいます。 『天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。』(ヘブライ3:1)大祭司は神と人とをつなぐ存在です。聖なる神は罪に汚れた人間をそのままでは会ってくださいません。罪人が何の準備もなく神に会ったら、神の神聖によって、滅ぼされるからです。なので、大祭司はこのような神と人との間で仲保者の役割を行います。イエスは、神が遣わされた真の大祭司として、神にも、人間にも繋がっているお方なのです。旧約の大祭司は、年に一度、神に許され、至聖所に入って民の罪を告白してお赦しを受けました。したがって、大祭司は神の赦しを象徴する聖なる存在です。 旧約に登場する人間の大祭司は、イスラエル民族のレビ族の人でした。レビ族の先祖レビは彼の兄弟シメオンと、妹の仇を討つためにヒビ族の人達を虐殺した人物でした。(創世記34:25)つまり、レビ族にも罪人の血が流れているということです。しかし、主は悪を善に変えられ、そのような罪深いレビ族を神の御前で仕える聖なる祭司一族としてくださいました。しかし、ヘブライ書は、私たちの大祭司イエス・キリストは、そのようなレビ族とは始めから全く違う存在であると語ります。 『イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。』(ヘブライ6:20) メルキゼデクは創世記14章に登場する神の真の大祭司です。彼には父も、母も、系図もなく、また、生涯の初めも、命の終わりもない超人間的な存在で、神の子に似ている者でした。ヘブライ書は創世記に登場した、このメルキゼデクが信仰の先祖アブラハムより偉大な真の大祭司であると証明しました。『このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。』(ヘブライ7:1)また、詩編では、将来、真の大祭司として来られる救い主メシアが、レビ族からではなく、このメルキゼデクのように来られると証言しました。『主は誓い、思い返されることはない。わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク(わたしの正しい王)』(詩篇110:4)イエス・キリストは人間の罪によって汚れていない神の真の大祭司、メルキゼデクのように真の大祭司として、この地に来られました。そのため、多くの学者たちは、大祭司メルキゼデクを、新約聖書のイエスを象徴する旧約聖書のモデルだと教えています。 つまり、イエス・キリストは、罪によって汚れたことのない、罪のない方です。罪のない方ですので、他の生け贄の血を必要としないのです。ひとえにご自分の聖なる血潮で罪人を赦し、新たにしてくださいます。主は神と私たち人間を完全に一つに和解させてくださる真の仲保者であられます。そして、私たちが罪のために恐れず、いつでも神の御許に進むことが出来るよう、導いてくださる真の大祭司でいらっしゃいます。イエス・キリストの死と復活は、このような真の大祭司として、神の御前にお立ちになるための準備段階だったのです。復活されたイエスは、いつまでも、永遠にご自分の民の罪を贖い、正しい道に導かれる永遠の大祭司として、私たちと一緒に歩んでくださるでしょう。 2.ご自分の民を至聖所に導かれるイエス。 大祭司の存在は、彼が働く至聖所があるということを意味します。至聖所とは、エルサレム神殿の最も奥にある神様のご臨在の場所です。至聖所に入るためにレビ族の大祭司は1年に一度ある贖罪日に、身を清め、亜麻布の長い服を着て、無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として捧げた後、やっと入ることが許されました。当時、イスラエル民族のすべての民のための贖罪の献げ物が無傷の若い雄牛だっただけに、大祭司の至聖所入場が、非常に神聖で、恐ろしい儀式だったということが分かります。もし、入っても大祭司に少しでも罪が残っている場合、その場で即死するほど、恐ろしい場所でした。そこには契約の箱がありました。聖書ではこの契約の箱が神の足台だと記されています。『ダビデ王は立ち上がって言った。わたしの兄弟たち、わたしの民よ、聞け。わたしは主の契約の箱、わたしたちの神の足台を安置する神殿を建てる志を抱き、その建築のために準備を進めてきた。』(歴代誌上28:2)、すなわち、神殿の中、契約の箱が置かれる至聖所は聖なる神がご臨在なさる場所だったということです。 今日の週報に契約の箱のイメージを載せておきましたので、ご参照くださいませ。契約の箱の蓋には、ケルビムと呼ばれる二つの天使像がありました。聖書は、この二つの天使像との間の空間を贖いの座と語っています。また、至聖所の契約の箱には、十戒の石板が入っていたそうです。これは、神の御言葉、御命令、御意志が、契約の箱という象徴物として、この地上にあったということを意味します。それほど契約の箱は、神とこの世を繋ぎ合わせる大事なシンボルなのです。つまり、大祭司、至聖所、契約の箱は、罪に満ちた世の中に神の赦しと臨在があることを象徴する大切な執り成しの象徴です。今日、私が大祭司と至聖所、契約の箱を、何度も長く説明する理由は、まさに今日の新約聖書の本文に大祭司、至聖所、契約の箱を象徴するイメージが隠れているからです。『イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 』(ヨハネ20:12) イエス・キリストの遺体が置かれた墓、そこは死の気配が漂うところでした。イエス・キリストは十字架で死に、葬られました。彼が普通の人間だったら、そこから腐敗し、骨だけが残り、最終的には埃のように消えていったのでしょう。しかし、イエス・キリストはそこで復活され、死の気配を破って命の主になられました。そして、イエスが死から蘇られたその場所は、命が死に勝利した場所になったのです。イエスはそこで、罪の支払う報酬である死に勝利したのです。イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が来て座っていました。これは、まるで神の聖なる契約の箱を連想させるような模様でした。キリストの復活は、死に支配されていた墓を、神の契約の箱のあった至聖所のよう変えさせました。死が変わって命となり、墓が変わって至聖所になったのです。神の大祭司イエス・キリストが、この地上に神の至聖所をもたらしてくださったのです。 神の至聖所は、誰もが入ることの出来ない聖なる場所でした。しかし、大祭司イエスを通して成し遂げられた贖いと赦しは至聖所を私たちの生活の中にもたらしました。イエスを信じる全ての場所が至聖所となり、イエスと一緒にいる全ての場所が至聖所となったのです。死に満ちた墓も、人々の罪が蔓延された世の中も、苦しみと悲しみで破られた人生も、イエスと共に歩むなら、神様の栄光に満ちた至聖所となることが出来ます。ひたすら、主の御名を呼ぶとき、イエスを我らの主と信じるとき、イエス・キリストは、私たちの人生に神の至聖所をもたらすでしょう。その時、私たちは、今日の言葉のように、神を私たちの父、私たちの神と呼ぶことが出来るようになるでしょう。『わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上ると。』(ヨハネ20:17) 締め括り 『嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。』(詩篇28:2)詩編の詩人は、苦しみの中で、神の御助けを求めました。聖なる神殿の最も聖なる場所である至聖所におられる神に依り頼みました。至聖所は、このように御救いと御助けの場所でした。イエス・キリストの苦難と復活は、私たちにこのように遠くにある至聖所を、私たちの人生の真ん中にもたらす出来事になりました。そのため、キリストに寄り掛かる私たちは、いつでも至聖所の神に進んでいくことが出来ます。また、人生自体が至聖所となった私たちは、常に神を私たちの父と呼ぶことが出来るようになりました。最近、ウイルスのため、大変で、不安でいらっしゃると思います。しかし、この時間もいつかは過ぎ去ることでしょう。実はこのウイルスよりも、さらに恐ろしくて怖い死がいつも私たちの生活の中に隠れています。私たちがウイルスに恐怖を感じる理由は、ウイルスそのものではなく、ウイルスによる死だからです。しかし、神は、キリストが許された人生の至聖所を通して、いつでも死に勝って私たちを助けてくださり、導いてくださるでしょう。私たちの人生が主イエスによって神の至聖所となることを悟り、感謝していきたいと思います。至聖所の主である大祭司キリストは、私たちの人生を至聖所とされ、永遠に私たちと一緒におられるでしょう。

イエスの十字架。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 19章14-30節(新207頁) 前置き 本来、十字架はローマ帝国の残酷な処刑道具でした。しかし、今や十字架は救いと命、平和の象徴として、さらに知られています。呪いと冒涜、苦しみの象徴であった十字架は、いかにして、こんなに別のイメージを持つようになったんでしょうか?それは、その十字架の上で、主イエス・キリストが、特別なことを成し遂げられたからです。神は呪いを祝福に変えることが出来る方です。もともと、罪によって死ぬしかなかった私たちは、神様であるキリストが十字架で成し遂げられた救いの恵みにより、正しい民として新たに生まれ変わりました。キリストが十字架で私たちのすべての罪を受け持って、代わりに死んでくださったからです。十字架も同様です。もともと、呪いの象徴だったものですが、イエスが十字架で全人類の罪を負って死に、救いを成就させましたので、もうこれ以上、呪いの象徴ではなく、救いの象徴になったということです。今日は苦しみを受けるイエスの出来事を通して、主の十字架について、さらに詳しく話してみたいと思います。 1.呪いを祝福に変える王の十字架。 『見よ、あなたたちの王だ』(14)ユダヤ人は、イエスを殺すために、主を掴まえて総督に引き渡しました。そして、主が自称ユダヤ人の王だという名目で皇帝に反逆を図ったという濡れ衣を着せました。父なる神は、イエスをユダヤ人の王として、ご自分の民に遣わされました。 『聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。』(詩篇2:6)旧約聖書はこのように神に認められる王が遣わされると証言しています。その結果が、まさにイエス・キリストのご降臨だと、私たちは告白しています。しかし、ユダヤ人たちは、むしろ、イエスを否定し、神聖冒涜を犯した罪人として取り扱いました。そして、何の関わりのない反逆罪を主張し、イエスを殺そうとしました。しかし、神様は、むしろローマ総督ピラトの口を用いて、もう一度、イエス・キリストがユダヤ人の王であることを、ユダヤ人の目の前で明らかにご宣言なさいました。 「見よ、あなたがたの王だ。」 『ピラトが、あなたたちの王をわたしが十字架につけるのかと言うと、祭司長たちは、わたしたちには、皇帝のほかに王はありませんと答えた。』(15)しかし、ユダヤ人たちは、結局、イエスも、神様も、捨て、偶像のように扱っていたローマの皇帝が自分たちの王だと告白してしまいました。ユダヤ人の王は果たして誰だったのでしょうか?神だったのでしょうか?イエス・キリストだったのでしょうか?それとも、ローマの皇帝だったのでしょうか?『地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか』(詩篇2:2)神を拒む地上の王や支配者たちがやるべき逆らいを、神の民と呼ばれるユダヤ人たちがやってしまいました。彼ら、自らが主の油注がれた方に敵対することにより、地上の王のように振舞ってしまいました。つまり、彼らの王は彼ら自身だったということです。自分たちの欲望が彼らの神だったのです。 『天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り。』(詩篇2:4)それに対して、神は彼らをまるで、嘲られるかのように、ローマの総督ピラトの口を借りて、『イエスが王だ。』とされたのです。 旧約の油注がれた方は、メシアを意味します。そして、メシアは通常、イスラエルの王を意味しました。神はメシア、すなわち、イスラエルの王が、この世に否定されることを、旧約聖書のあちこちで既に教えてくださいました。しかし、神はまた、詩編を通して、苦しみと逆らいの中でも、神ご自身が、王を守り、立ててくださることを宣言されました。王であるイエスの苦しみと死は確かに悲しいことだと思います。しかし、彼の苦しみは無駄な苦難ではありませんでした。彼の苦難は、神が保証してくださる王の苦難だったからです。皮肉なことに、苦しみと逆らいの十字架は、イエス・キリストが、神に認められた王であることを証明するシンボルです。苦難の十字架がキリストの王であられることを証明する逆説的な道具になったということです。したがって、十字架は、もはや呪いの象徴ではありません。神の救いの象徴です。この世が十字架を否定しても、神はこの十字架を通して、祝福を受ける者を探しておられます。神がキリストを通して、十字架の呪いを祝福にお変えになったからです。この十字架のイエスを信じる者には、呪いが祝福に変わる神様の逆説的な恵みが臨みます。それはまさに神の御救いなのです。 2.教会を守る和合の十字架。 イエスは生前、各界各層の弟子を養われました。貧しい者、豊かな者、独立運動家、帝国協力者、穏健派、急進派など、様々な性格の人々を集め、神の国について教えられました。彼らは、皆、違う思想を持っていましたが、イエス・キリストを中心として、一つの共同体を成したのです。このように神の国は、様々な人々が、イエス・キリストを中心とし、互いに愛し合い、大事に守り合う愛と和合の国です。イエスがこれらの各界各層の人々を集め、弟子として、教えられたのは、神の国が、ただ理想の国ではなく、既にこの地上で成されたことを示すためでした。主の共同体は、このような神の国の一部でした。しかし、イエスが亡くなる前、これらの愛と和合の共同体にヒビが入る出来事が生じました。ユダがイエスを裏切ったこと、ペテロがイエスを否認したこと、弟子たちが主を放って置いて逃げたことなど、色んな出来事がありました。これは主の共同体の崩壊のように見えたでしょう。すべての人の目に、イエス・キリストの王国は終わったと見えたでしょう。 しかし、主は命が尽きるまで、決してそのような愛と和合の共同体を諦められませんでした。『イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、婦人よ、御覧なさい。あなたの子ですと言われた。 』(26)私たちは、この言葉に接するとき、ふと、主が母親のために、最後の親孝行をなさるだろうと考えがちだと思います。しかし、これは単に母親への親孝行だけの意味ではないと思います。イエスには兄弟がいたからです。私はこれを、母親の親孝行や愛を超える信徒と信徒の和合の象徴であると解釈したいと思います。『それから弟子に言われた。見なさい。あなたの母です。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。』イエスのこのような御命令に応じて、主の愛する弟子はイエスの母親を自分の母親のように仕えました。主は最後の命令として、和合を命じられて、息を引き取られました。 ですが、もし、このように信徒と信徒が、新たに和合したことだけで、イエスが完全に亡くなられたら、これは、ただ美しい悲劇に過ぎなかったと思います。しかし、主がこのように母親を愛する弟子に任せられた理由は、少し後で、復活され、聖霊を通して母親とも、弟子とも、共におられると約束されたからです。主は亡くなられました。しかし、主の復活は決まっています。主は弟子に母を任せることによって、家族のような共同体、和合する共同体、愛の共同体を夢見ておられたのです。そして、その夢は、主が復活されることによって、必ず成し遂げられることでしょう。十字架は和合の象徴です。イエス・キリストを頭と信じ、聞き従う教会は、主の愛の中で永遠に一つになるでしょう。私は今日、この主の和合の御命令が、志免教会でも守られることを望みます。私たちは、皆住む所も、出身も、事情も異なりますが、イエス・キリストの十字架を通して一つになりました。これからも、愛し合い、助け合う和合の共同体になることを願います。 3.神の御心と信徒の救いを成し遂げる成就の十字架。 『この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、渇くと言われた。』(28)ここでの『成し遂げられる。』という言葉は、「借金を完全に返済する。」という意味をも持っています。罪人のために十字架につけられたイエスは、その十字架での死を通して罪人の罪を完全に償われました。罪を犯した人間に罪の報いとして、死の判決を下される方は神様です。だから、この罪の報いは必ず返さなければなりません。しかし、すでに罪を持っている人間は、その罪を完全に解決する力も、資格もありません。そのため、イエスは、罪のない神として、その判決を満足させるために、自ら人間になられました。そして、十字架での苦しみを通して人間が返さなければならない罪の報いを、ご自分を犠牲にして、償われました。つまり、裁判官が罪人の立場に代わりに行き、罪を完全に解決したということでしょう。これは死と、完全に反対側におられる神様が、自ら死を選ばれたという、絶対に有り得ない大きな出来事でした。 しかし、この『成し遂げられる。』という言葉には、さらに深い意味があります。イエスは十字架の苦難を通して何を成し遂げられたのでしょう?人間は苦難というイメージを考えるとき、『肉体と精神の痛み』を思い起こす傾向があると思います。しかし、神様が感じておられる苦難は、人間のそれとは異なります。三位一体なる神は父、子、聖霊という三つの位格でいらっしゃいます。この位格というのは人間からすれば、人格であると言えるでしょう。理論的には、三位一体なる神は、死を経験しない方です。しかし、御子イエス様は罪人を救うために、特別に死を選ばれました。これは三位一体なる神に大きな苦しみになりました。神は、罪とは全く関係のない方なのに、御子なる神様が直接、罪を担当されたからです。罪を担当した御子は、三位一体から切れる痛みを味わわなければなりませんでした。父なる神も、その罪の担当のために御子を捨てなければなりませんでした。これは人間が想像もできないほどの大きな神の苦難でした。 私たちは、聖書を通して、主が受けた肉体と精神の苦しみを覗き見ることが出来ます。しかし、我々が必ず知っておくべきことがあります。主の真の苦難は、神様が『イエスを罪人の代わりに死なせる。』とご計画なさった時から、始まったということです。すでに非常に長い間、主の死は決まっていました。大昔からあった御子の苦難の計画は三位一体においては、その存在自体が苦難でありました。主は十字架で、このような永遠に近い、神の苦難を完全に終わらせました。人間の罪によって、生じた神の永遠に近い苦しみが、十字架の上で完全に解決されたということです。主の十字架での死は、神のご計画を完全に成就した出来事です。そして、その計画に基づいて、人間に完全な救いを与える偉大な苦難でした。主は十字架の苦難と死を通して、神の御心を成し遂げ、人間の救いも完全に成就なさいました。このように主の十字架での苦難は、神においても人間においても、完全な成就を与えた、大きな恵みとなりました。 締め括り 十字架は、特別なものではありません。十字架は、お守りのようなものでもありません。十字架が私たちを救うとは言えません。救いはただイエス・キリストだけの事柄だからです。しかし、十字架には、私たちを救ってくださった神様の恵みが潜んでいます。私たちは、十字架を眺めるときに、イエス・キリストの苦難と愛が自然に思い起こされます。重要なことは、今でもこの十字架の恵みが、私たちの間に、まだ存在しているということです。この十字架の恵みは、主が再び来られる日まで、変わることなく永遠に続くでしょう。呪いの十字架をこのように祝福の十字架に変えてくださったイエス・キリストの愛と恵みを覚えていく一週間になりますように。主の苦難が私たちの喜びとなり、主の死が私たちの命になりました。主の恵みに溢れる一週間になることを祈ります。

ピラトとイエス。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 19章1-16節(新206頁) 前置き レント5週間目の主日を迎えました。過去5週間、私たちは、救い主、イエスが誰なのか、なぜ来られたのか、どんなことをされたのかについて分かち合いました。特に、先週は、神の子イエスが人の子、つまり罪人のために、イエス自らが罪人の立場に降って来られ、逆に罪人を神の子の位置まで引き上げてくださったことについて、お話しました。神の子であり、神そのものであるイエスは人の子、罪人の救いと贖いのために、自らを低めてくださったのです。このように低くなられたイエスは、罪人が受けるべき苦難を代わりに受けてくださいました。古今東西のキリスト者が、1000年以上の長い間に告白してきた使徒信条には、このような文章があります。『ピラトのもとで苦しみを受け、(十字架につけられ、)死んで葬られ。』主は人々の罪のために代わりに死んでくださいました。それにも拘わらず、主は生前、人々に否定されました。そして、使徒信条の告白のように、ピラトのもとで苦しみ受け、死ななければなりませんでした。キリストは、まるで苦難を受けるために来られたように、最後まで苦しみを受けられました。そして最後に、その苦しみがピラトという人を通じて死にまで繋がりました。今日はキリストが受けた苦難。特に、ピラトとの関わりを中心として、今日の本文のことについて話してみたいと思います。 1.ピラトに苦しみを受け。 キリスト者なら誰でも使徒信条を通して、ピラトという名前を聞くことになります。自分がキリスト者であると自負している人なら、ピラトによってイエス・キリストが殺されたという事実を知らざるを得ないと思います。しかし、ピラトについて詳細に説明してみようとすれば、言葉に詰まるのが現実だと思います。ローマ帝国のイスラエル総督、イエスを裁判した人、おそらく、ここまでが私たちが持っている一般的な知識でしょう。ピラトは西暦26年から約10年間、イスラエルを治めた総督でした。彼は、聖書での優柔不断なイメージとは違い、非常に残酷な人だったと言われます。『何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜたことをイエスに告げた』(ルカ13:1)当時、イスラエルは大敵パルティアとの最前線に近かっただけに、常に軍事的緊張が強い地域でしたので、治めるに容易な所ではありませんでした。特に、イスラエル地域は民衆の反乱が頻繁に起こる傾向があったので、宥和的な支配が難しい植民地でした。そのため皇帝はユダヤ人に対して強腰だったピラトを派遣したそうです。ピラトは、イスラエル民族に決して友好的な人物ではありませんでした。ユダヤ人の祭り、過越祭に偶像のように扱われてきたローマ皇帝の肖像画をエルサレム城内に入れたり、ユダヤ人の宗教的伝統を無視したり、無断で神殿の資金を使って水路を建設したりしました。そして、そのようなピラトへの糾弾集会を流血鎮圧したこともあったと言われます。 それでも、今日の本文でのピラトは、イエスを殺そうとはしていません。 『祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、十字架につけろ。十字架につけろと叫んだ。ピラトは言った。あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。』(19: 6)ヨハネによる福音書だけでなく、他の福音書でも、イエスを生かそうとした部分が出てきます。また、ピラトの妻は、イエスに友好的な人でもありました。『ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。』(マタイ27:19)確かに、ピラトはローマ人でしたので、ユダヤ人にも、イエスにも友好的ではありませんでした。また、ユダヤ人とイエスの関係についても、深く考えなかったのです。しかし、イスカリオテのユダのように悪意を持って、イエスを売り渡した裏切り者でもないし、ペテロのようにイエスを否定したキリスト者でもありませんでした。それにも拘わらず、なぜまだ私たちは、まるでピラトによってイエスが苦しみを受け、殺されたという風に、彼を決めつけているのでしょうか? これには、2つの見解があります。第一に、初期のキリスト者が、イエスの受難が、ピラトの支配下で起きた本当のことだったということを強調するためでした。主イエスの十字架での出来事が、誰かによって作られた仮想の話ではなく、実際のことであると強調するための初期キリスト者たちの証であるというわけです。使徒信条の形成から1800年も経った今では、ピラトが伝説の人物のように感じられるかも知れませんが、当時はそんなに遠くない時代の人物だったからです。実際、ローマの有名な歴史家タキトゥスは自分の文章に『ティベリウス皇帝時代、イエスという人が総督ピラトに処刑を受け、殺された。』という記録を残したと言われます。第二に、公的で法律的な死であることを明らかにするためでした。ピラトによるキリストの死は、人間による世の権力が下した法律的な死でした。彼はユダヤ人によって神聖冒涜罪として告発されましたが、最終的にはピラトによってローマ帝国への反逆罪と判決を受けました。全能なる神はそのような世の権力の判決を用いて、神の律法に合致する死にまで、拡張されました。『キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われていると書いてあるからです。』(3:13)当時のユダヤ人たちは、イエスを木にかけて殺すことが出来ませんでした。ユダヤ人には死刑執行権がなかったからです。しかし、主が律法どおりの死に至るためには、木に掛けられて死ぬ必要がありました。そんな時に、神様はローマの権力を用いて、イエス・キリストを木にかけられる死、つまり、十字架へ導かれたのです。 この世でも、神の国でも、イエスの死は、知る人ぞ知る、私的で密かな死ではありませんでした。これは、この世でも、すべての人々に明らかに証明された公の死であり、霊的にも、神様に認められた死でした。大祭司カイアファの言葉のように『皆を生かすための一人の死』であり、ヘブライ人への手紙の言葉のように『完全な贖いの生け贄のための霊的な大祭司の死』でした。これによって、イエス・キリストの死は、世界のすべての存在に適用できる公の死になったのです。このような公の死によって、イエス・キリストを信じる人の救いも公的な救いになりました。私たちの救いは、この世界でも、神の国でも、しっかり認められた救いなんです。ピラトは、当時のイスラエル地域の最高権力者でした。また、彼はローマ帝国を象徴する人物、すなわち彼はこの世を代表する人物でした。そんな彼に判決を受けたイエス・キリストは、それにより、歴史的にも、法律的にも認められる死を経験なさいました。また、そのピラトの判決を用いられた神は、神の霊的な法律。律法を満足させる死をキリストに下してくださいました。ある意味で、ピラトは、キリストを実際に嫌がっていた人殺しではないかもしれません。しかし、彼には法律的な責任がありました。そのような公の権限は、イエスの死を単なる説話や一方的な主張ではなく、法的効力のある公の死として認められるようにするための手段となりました。 2.ピラトとイエス。 だからといって、ピラトに責任がないとは言えません。彼はイエス・キリストにどんな罪もないことを知っていたからです。彼には、イエスの処刑を求めるユダヤ人に対して拒否出来る力がありました。しかし、彼はユダヤ人のこの言葉に揺らいでしまいました。『ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。』(19:12)イエスには罪がありませんでしたが、ピラトは、自分の権力のために、自分の地位を保つために、罪のない人に有罪の判決を告げてしまいました。本文の友という言葉は、ギリシャ語で二つの意味を持っています。一般的に、「友」という意味とローマ帝国の「信頼すべき臣下」という意味です。当時、『神の子』という名称は、ローマ帝国では、ローマ皇帝にのみ、使える言葉でした。そして、ユダヤの王という言葉は、ローマ帝国の支配を否定する反逆の言葉でした。自ら神の子、ユダヤの王と認めるイエス・キリストを釈放することは、ローマ帝国皇帝の存在を否定することに当たる意味でした。ユダヤ人たちは、これを狙ったのです。ピラトがイエスを釈放すれば、それはローマ皇帝の友、すなわち信頼すべき臣下として不適切な行為だったという意味です。ピラトは『自分の権力を保つか?罪のない者を釈放するか?』という絶体絶命の分かれ目の前に立ちました。結局、ピラトはイエス・キリストに十字架型を許し、不当な判決を下しました。そして、これは自分の前におられる真の神の子を否定する大きな罪になりました。 ピラトは自分なりに努めました。たとえ茨の冠、みすぼらしい紫の服であっても、イエスに着けさせた冠と紫の服は王を象徴するものでした。彼はこれをイエスに与えることによって『君たちが、自称王であり、反逆者であると告発する、その人は、何の力もない存在に過ぎない。彼には罪がない。』ということを示すために、わざわざイエスにそのような装いを身に着けさせたのです。それでも、ユダヤ人は満足していませんでした。イエスが自ら『神の子である。』という言葉を言うことにより、ユダヤ人の律法を破り、自分たちが崇める神の神聖を冒涜したという理由のためでした。これらのことを通して、ピラトはイエスについて、様々な知識を持つようになりました。神の子、ユダヤの王。そして彼の言動などを通じ、イエスが普通の人ではないということを悟るようになったのです。明らかに、ピラトも彼に尋常ではない力があることも感じたことでしょう。しかし、ピラトは、そのような悟りとは反対側に向かいました。イエス・キリストから漂ってくる真理を無視し、この地上での誉れ、権力、地位を、さらに追い求めてしまいました。それなりに努力した彼ですが、最終的に彼は、イエス・キリストを棄ててしまいました。神様から与えられる最後のチャンスさえも逃してしまったのです。そのため、彼は永遠にキリストを殺した罪人として世に記憶されることになりました。 2000年も経った今でも、福岡県の片隅でさえ、彼の仕業が記憶されています。『ピラトのもとで苦しみを受け。』 『ピラトは、お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。 そこで、ピラトは言った。わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』(19:9-10)それでもピラトは、自分がイエス・キリストより上にある者だと思いました。イエス・キリストが神の子であるという話を聞いて、恐怖を感じた彼ですが、彼は目に見えない権威ではなく、目に見える権力を選んだのです。そのため、ピラトは権限について話したわけです。ここでの権限という表現は「エクスシア」というギリシャ語ですが、これは「皇帝の権威による権限」を意味します。ピラトはローマ皇帝に権限を委任された、イスラエルにあるローマ皇帝の分身のような存在でした。彼は自分がその地域で最も地位の高い者であること知っていました。彼はそれが自分の拠り所だと思ったわけです。しかし、主は言われました。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。』(19:11)しかし、主は、それより上にある方、目に見える世界と目に見えない世界を支配される『真の皇帝』神様をご覧になりました。神はすべての権威の上におられる権威です。ピラトは一介の人間に過ぎないローマ皇帝の権威に頼って権限を話しました。しかし、イエスは、そのより上にある真の権限を持っておられる神様を見上げられました。 結局、ピラトはローマ皇帝の権限を自分の砦にし、イエスを裁判の席に連れ出しました。『ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。』(19:13)一見、力のないイエスが、権力者ピラトの前に来て裁判を受けるように見えます。人間の目には、イエスは既に終わったことも同然でした。ところで、私たちはここで一つの表現に焦点を当てる必要があります。これはギリシャ語の『エカディセン・エフィ・べマトス』という言葉です。不思議なことに、この言葉には二つの意味があります。解釈の仕方次第で『ピラトは裁判の席に座った』。という意味にもなり、『イエスが裁判の席に座った。』という意味にもなるからです。もちろん、自然な解釈は、『イエスを裁判の席に着かせた。』ですが、ヨハネによる福音書の著者はわざわざこのような二重のイメージを含ませることを図ったのです。 『正しくないピラトは罪人として、裁判官であるイエスの前に立った。』ということでしょう。世の権力を自分の拠り所としたピラトは表面上では、イエスを裁きましたが、実に彼は神の正義の前でイエス・キリストに裁かれる存在になってしまいました。そのためか、キリスト教の伝説には、このような話が伝わってきます。 『ピラトは晩年にカリグラ皇帝によって、平民に降格され、流刑になった。結局、自ら命を絶った。』主の真理ではなく、この世のものだけを求めた彼は、今でも、イエス・キリストを殺した罪人として、多くのキリスト者たちに記憶されています。 締め括り レントの最後の主日です。私たちは、ピラトという不幸な罪人を通して、真の権力と偽の権力が区別できなかった彼の愚かさを学びました。キリスト者は、世界の視点とは異なる方向に進む者です。神の子キリストは、人の子である私たちの罪のために来られました。そして、私たちを神の子にしてくださいました。このように、キリストに出会った私たちは、どのような人生を生きて行くべきでしょうか?世の中の目に見えるものは、あまりにも派手で見事です。しかし、主の真理は私たちの目に簡単に見えません。キリストに従うべきか?ピラトに従っていくべきか?今日の聖書は、私たちに真剣に問うています。来週は受難週です。ここ数週間の説教を振り返って、私たちが進むべき道はどっちなのか、どのように生きていくべきなのか、考える一日一日になることを願います。一週間の生活の中で、主の恵みが豊かにありますように祈り願います。

神の子、人の子。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 18章28-40節(新205頁) 前置き ただ、イエスだけが人の罪を贖ってくださる神から遣わされた真の大祭司でいらっしゃいます。『キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。』(ヘブライ9:10-11)聖書はヘブライ書を通して、イエス・キリストが神から遣わされた、真の大祭司であることを明らかにしました。しかし、主は神ではなく、人の手によって立てられた偽の大祭司たちに苦しみを受けました。イエスは、この世の権力を追い求めた偽の大祭司たちを通して、この世に否定されました。 『門番の女中はペトロに言った。あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。ペトロは、違うと言った。』(ヨハネ18:17)また、イエスの一番弟子であると、自他共に認めたペトロさえ、イエスを否定しました。主はペトロと代表される、教会からさえも、否定されたわけです。イエスは、この世だけでなく、ご自分の身内にも、否定されることによって、すべての人に拒まれました。なぜ、イエスは、世からも、教会からも否定されたのでしょうか?『彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。』(イザヤ53:5)それはまさに、主が否定される代わりに、罪人が認められ、彼が苦しみを受けことによって、不義な人類に癒しをくださるためでした。イエスは、すなわち、不義な罪人のために、代わりに否定と苦難を受けられたのです。 1.バラバ、人の子。 このように、主は、大切なご自分の命を捧げて、罪人を救ってくださいました。ご自身が滅ぼされるべき罪人の立場に降っていかれ、罪人をご自分の栄光の立場に引っ張り上げられたということでしょう。これは、特に今日の本文の最後の言葉で明らかに示されています。『過越祭には、誰か一人をあなたたちに釈放するのが、慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。すると、彼らは、その男ではない。バラバを。と大声で言い返した。バラバは強盗であった。』(ヨハネ18:39-40)今日の最後の言葉を始めから取り上げる理由は、このバラバという名前の示唆するところが大きいからです。『ピラトは、人々が集まって来たときに言った。どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。』(マタイ27:17)ヨハネ福音書ではバラバという名前だけで書かれていますが、マタイ福音書では、フル・ネームのバラバ・イエスと記されていることが分かります。イエスという名前は、私たちが信じている主の名前です。ところが、偶然にも、この強盗死刑囚の名前も、イエスでした。 イエスは旧約聖書に登場するイスラエルの指導者、ヨシュアをギリシャ語に読んだものです。ヨシュアは『主は救いである。』という意味です。イエスも、そのような意味の名前でした。ある本で読んだ話しですが、昔の日本では、太郎や花子のような名前が多かったそうです。イエスの時代のイスラエルでイエスという名前は、まるで太郎や花子のようにかなり一般的な名前だったようです。名前の内容も神を賛美するものであり、旧約聖書のヨシュアという人も、偉大な信仰の人物だったので、多くの人に愛用されたことでしょう。しかし、そのような一般的な名前だからといっても、キリスト・イエスとバラバ・イエスとの間には雲泥の差があります。この時代のイスラエルでは、ヘブライ語ではなく、アラム語というヘブライ語に近い言語を主に使用していました。バビロン捕囚の時代を経て言語が、かなり変わったわけです。アラム語で『バル』は息子という意味です。そして、『アッパ』は父という意味です。つまり、バルにアッパを加えた『バルアッパ』バラバは『父の子』という意味です。 私たちは、『天にまします私たちの父よ。』という言葉をもって祈りを始めたりします。そのため、このバラバという名前のアッパ、すなわち、父が神様を意味すると考えるかもしれません。バラバ、父なる神の子、本当に格好いいのではないでしょうか?しかし、我々が必ず知るべきことは、イエスが来られる前には、人が神を父と呼ぶことが許されなかったということです。不従順と罪の歴史を持っている、私たち人間は、あえて神に父と呼ぶことが出来ない、資格のない存在でした。しかし、イエス・キリストの贖いによって、やっと人間は神を父と呼ぶことが出来るようになったのです。その前には、神を信じるといっても、神のしもべに過ぎなかったのでしょう。つまり、バラバとは神の子という意味ではありません。バラバは父の子、自分の罪のために苦しまなければならない人間の息子。すなわち、人の子を意味するものです。 2.人の子たちの愚かさ。 人の子。どこか、たくさん聞いた言葉ではないでしょうか?『人の子が、仕えられるためではなく 仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと、同じように。』(マタイ20:28)イエスは、福音書でご自分を指す時に、「人の子」という言葉をよく用いられました。これを通して、イエスが自らをバラバと言われたといっても過言ではないだろうと思います。神の御子イエス・キリストが自らを人の子であると示されたというのは、果たしてどのような意味なのでしょうか?もちろん、主は自らを謙虚に低めるために人の子という別称を用いられたかも知れません。しかし、それだけでなく、さらに罪によって死ぬしかない罪人の立場に、ご自分が身をもって立ち、罪人に仕えるために、自分自身のことを人の子であるとなさったことではないでしょうか?イエスは神の子でいらっしゃいました​​が、自らが人の子、バラバになり、罪人の苦しみと悲しみ、罪による死のところに行かれたということではないでしょうか?今日の本文の最後の言葉は、このようなイメージを私たちに示しています。『神の子が、人の子の立場に行かれた。それによって人の子は、死から救われて、代わりに神の子とされた。』これが今日の言葉が、私たちに示している主の恵みだと思います。 しかし、人々はこのように人の子を愛してくださった主イエスの心が分かりませんでした。誰よりも、神の御心をよく知り、従うべきであった大祭司は、神のご計画も分からないまま、ただ自分の利益のために、キリストの死を望んだ者です。『一人の人間が、民の代わりに、死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。』(18:14)神はこのような邪悪な者の口を借りて、お一人、キリストの死によって、多くの命が救われるようになると教えてくださいました。しかし、そのようなことを告げたことにも拘わらず、大祭司は、ただ自分の利益のために、一人のキリストが死ななければならないと思っただけです。つまり、彼は自分が何を言ったのかも、知らなかったわけです。『ペトロは打ち消して、違うと言った。』(25)教会を代表する使徒たちの中でも、イエスの一番弟子であったペトロは、失望と不安の中で、イエス・キリストを否定しました。彼はイエス・キリストを完全に信じていなかったかも知れません。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』(ルカ9:22)イエスが明らかにご自分が復活されると教えてくださったことにも拘わらず、ペトロは権力者イエスの片腕になろうとしていた自分の考えと野心に陥って、主の御心を正しく知らず、誤解していたわけです。 イスラエルの群衆は、邪悪な大祭司やファリサイ派の人などによって煽られて、一週間前にホサナを叫んで歓迎していた姿とは違って、イエスを十字架につけろと叫びました。イエスが自分たちが願っていた権力者ではないことに気が付いたからです。彼らが追求したのは、イエスによる神の国ではなかったかもしれません。彼らは帝国の皇帝としてのイエスを期待したかも知れません。『祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、十字架につけろ。十字架につけろと叫んだ。ピラトは言った。あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見いだせない。』(19: 6)ローマ帝国の総督であったピラトは、いかがでしょうか?キリストから罪が見つからなかったことにも拘わらず、イスラエルの多数がせがんできて、イエスを十字架に押し込んでしまいました。罪人である人の子、バラバの代わりに、神の子、イエスを捨てたのです。『地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか』(詩篇2:2)の言葉のように、人々は神の油注がれた者、神の子イエス・キリストに逆らい、殺そうとしました。このすべての愚かな人々、皆が人の子であり、誰もが、バラバだったのです。しかし、イエス・キリストは、自分自身を迫害する、このすべての人の罪のために、自ら人の子バラバになってくださいました。そして、父なる神の御心に聞き従い、十字架の道に進んで行かれました。 3.イエス・キリストが証する真理‐神の国。 ピラトはローマ帝国から派遣された、イスラエルの本当の権力者でした。イスラエルで彼に反抗する人はいませんでした。イスラエルの王であったヘロデも、権力者であった大祭司も彼に逆らうことが出来ませんでした。彼は、イスラエルの王のような人物でした。しかし、実は彼も人の子に過ぎなかったのです。彼も結局、バラバの立場にあるべき一介の人間だったということです。『ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、お前がユダヤ人の王なのかと言った。』(ヨハネ18:33)そのようなピラトが、真のイスラエルの王であるキリストにお前がユダヤ人の王なのかと尋ねてきたのです。皮肉なことに、罪人の王が、義人の王に『本当の王なのか』と尋ねる愚かを犯したということです。『イエスはお答えになった。私の国は、この世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。 』(36)そんな彼に、主は『私が王であることは、確かである。しかし、私の国はこの世のものではない』とお答になりました。 神の子である主が、人の子らに苦しめられ、死まで至ることになりましたが、彼らを憎まず、愛してくださった理由は、イエス・キリストの御心が人の思いよりも遥かに高くにあったからです。人の子は、ただ自分の目に見えるもの、自分たちの測りうるものだけを見ようとします。すなわち、この地にある自分の有益だけに心を尽すということです。これは、ペトロ、大祭司、群衆、ピラト、すべての人に同じ事柄です。そして、これは私たちにも該当するものなのです。しかし、主は、ご自分の有益ではなく、ご自分の苦難によって成就される、人の子らの救いと神の御国の成立を眺められたのです。神の子において、人の子の立場に来なければならないという、義務はありません。罪を犯し、神から離れたのは人間のほうだったからです。神様は何の理由もなく、人間を捨てられたことではありません。人間が先に神様に不従順したからです。人々が罪のため滅ぼされても、神には何の被害も及ぼされません。それにもかかわらず、むしろ、神は最後まで人間への責任を負い、ご自分の被造物である人間を生かそうとなさいました。しかも、御子イエスを捨ててまでです。神はこれらのすべての罪人が赦しを受けて、キリストを中心として一つになる真の平和と愛の国を望まれました。イエス・キリストはこのような神の国を望んでおられたのです。 『そこでピラトが、それでは、やはり王なのかと言うと、イエスはお答えになった。私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。』(37)キリストが、この世に王として来られた理由は、権力者になって君臨するためではありません。彼が来られた理由は、真理について証しをするためでした。ピラトはイエスに『真理とは何なのか?』と問いました。これは私たちもすべき質問でもあります。過去、私はローマ2章の説教をしながら、真理の意味について、お話しました。聖書が語る真理とは、『表だけに見られる現象ではなく、ある物事の背後に隠れている本当のことを意味する。』と言いました。イエス・キリストがこの世の王として来られたのは、目に見える大帝国(表)を立てるためではありません。それより、目に見えない神の国(真理)を立てるために来られたのです。この世のことしか、知らなかったピラトは、イエス・キリストが夢見た本当のこと、即ち、真理とは何か、分かることが出来ませんでした。ここでの主イエスが証しした真理とは神の国の成立です。世の帝国より、はるかに大いなる神様が、手ずから治められる、神の国がイエスによって成し遂げられることです。これこそが本当の真理まのです。すべての罪人が罪による死の恐怖から抜け出し、神の子として、互いに愛しあい、神のご意志を成し遂げていく神の国。それこそが、神の国、イエス・キリストが仰る真理なのです。そこは神に許された人だけが享受できる国です。その国は神の子という身分がある時だけ、堂々と入ることができる所です。この世の人類、すべての罪人が持っているバラバ・イエス、人の子という身分としては許されません。しかし、キリスト・イエスによって神の子という身分にされた人は、罪人ではなく、義人として、神の国に入ることになります。『人の子であるあなたは、私によって、神の子となりなさい。そして、神の国に入りなさい。』イエス様が伝えようとした真理は、これなのです。 結論。 イエスは神の子です。神の子という言葉は、神の被造物という言葉ではなく、父なる神と同等の立場にたっているという意味です。須恵町の信徒たち、志免町の信徒たち、韓国からの牧師夫婦。私たちは、故郷、家柄、状況は異なりますが、人間という点では同じです。イエスは御子と呼ばれますが、父よりも劣る存在ではありません。つまり、彼も偉大な神様であるということです。この神様自らが人となられ、人間にご自分の特権を分けてくださいました。そのため、私たちは神の子となることが出来るのです。神の子になったので、私たちは恐怖と不安を追い払い、神の子と認められ、神の国に入ることができます。ペトロ、大祭司、群衆、ピラト、そして、私たちまで、すべての人は、この世の目に見えるものだけを追い求めていました。しかし、イエスは、すべての罪人を赦し、神に至る道を開いてくださいました。我々は皆、バラバなのです。我々は皆、人の子です。しかし、私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、もはや人の子ではなく、神の子として生きていくことができます。このために、主が私たちに来てくださったのです。この一週間、神の子として召された私たちの在り方を省み、主の喜びとなる人生を生きていきましょう。皆様の上に主の恵みがありますように祈り願います。

否定されるイエス。

聖書朗読  イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 18章12-27節(新204頁) 前置き イエス・キリストはご自分を信じる者に神との和解の道を開いてくださいました。神の子であり、神ご自身である主が自分の特権を棄て、この地上に来られ、多くの人々にご自分の特権を分けてくださいました。 『自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。』(ヨハネ1:12)その特権は、まさに神に捨てられた罪人が主への信仰によって、神の子となる特権です。主を信じる者は、キリストのお蔭で、神の子となる資格を得ることになります。そして、その資格によって、罪人が神に禁じられた神の国の民になることが出来ます。 『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』(ヨハネ1:4)主を信じる者は、罪と死のために道に迷っている真っ暗な人生から抜け出し、暗闇を照らす真の光を得ることができます。主イエスは、このように苦しんでいる民を救ってくださるために喜んで、皆の救い主として来られました。しかし、今日の本文では、ご自分の民も、この世も、イエス・キリストを打ち消し、拒みました。なぜ、イエス・キリストは御愛と御救いとを持って来られたにも拘わらず、打ち消されたのでしょう?そして、そのように否定されたイエス・キリストを、私たちはどう思うべきでしょうか?今日は否定されるイエスという題で皆さんと一緒に御言葉を分かち合いたいと思います。 1.ご自分の民に否定されるイエス 先週イエスは、自分を捕まえるためにやって来たローマの兵士とユダヤ人たちにわざわざ捕らわれてくださり、代わりに弟子たちを生かしてくださいました。主は力なく逮捕されたのではなく、弟子たちを救うためにわざわざ逮捕されたのです。これは、主の民のために、ご自分が代わりに死んでくださることを予め示す出来事でもありました。 『わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。』(18:8)しかし、主のこのような姿とは違って、弟子たちは皆、主を捨てて逃げてしまいました。これと繋がる有名な場面が、ペトロがイエスを三度も打ち消した話です。『門番の女中はペトロに言った。あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。ペトロは、違うと言った。』(18:17)15節の言葉を読むと、主に従った、ある弟子の一人が大祭司の知り合いであったと記されています。おそらく、この人はヨハネによる福音書の著者である使徒ヨハネだと思います。どんなわけで、一介のガリラヤの漁師であった使徒ヨハネが大祭司の知り合いだったのでしょうか?ある聖書学者たちによれば、案外にヨハネの家は裕福だったそうです。つまり、ヨハネ、本人ではなく、彼の父ゼベダイの方が大祭司とも会ったことのあるほどの金持ちだったということです。だから、門番の女中は、このヨハネに無礼に振舞うことができない立場だったということでしょう。従って、彼の知り合いであるペトロにも失礼な態度を取ることができないはずでした。 ギリシャ語のニュアンスどおりに翻訳すると、彼女は、かなり丁寧にペトロに尋ねたことが分かります。 17節をもっと詳しく翻訳してみましょう。 「あなたがイエスの弟子である、あのヨハネさんと一緒にいるのを見れば、あなたもイエスの弟子ですよね?そうではありませんか?」この言葉には、どんな脅かそうとする意図も、追い詰めようとする姿勢もありませんでした。しかし、ペトロはきっぱりと否定しました。 「違う。」時間が経ち、今度は周りの人たちから『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』(25)と聞いてもらいました。今度は、前の女中とは違って、少し強圧的な質問でした。ペトロは再び否定しました。するとそばにいた大祭司の僕の一人が『園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。』(26)と明らかに目撃した人として追い詰め、ペトロに問い質しました。しかし、最後まで、ペトロは口を極めて否定しました。その時、主の言葉どおり、鶏が鳴きました。ペテロは、柔らかな質問から、鋭い問い質しまで、全面的に主を否定したのです。ペテロは、いつも主の一番弟子という自負を持っていました。なので、自分は、いつも主と共におり、共に死ぬだろうと言い放ちました。しかし、その一番弟子という自負は、果たして純粋なものだったのでしょうか?彼は神の子と呼ばれるイエスが、この世の価値に相応しい偉大な存在、つまり、王のような権力者になると思っていました。 もちろん、その心にかすかな信仰もあったと思います。しかし、マルコの福音書10章でヤコブとヨハネの兄弟が『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』と願った時、ペテロも、その言葉を聞いて、他の弟子たちと一緒に腹を立てました。このように、彼の主な関心は、イエスによる世の権力にあったのではないでしょうか?また、ペテロは主が御自分の死を予告されたとき、主の死を否み、主が逮捕されたとき、剣を振るって、主を守ろうとしました。果たして、これは本当に主を守ろうとする振舞いだったのでしょうか?自分の野望を守ろうとしたことではないでしょうか?主はペテロの裏切りを既に知っておられました。『ペトロが、たとえ、皆が躓いても、わたしは躓きませんと言った。 イエスは言われた。はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度、わたしのことを知らないと言うだろう。』(マルコ14:29-30)ここで、私たちは『自分だけは、決して主を離れない。』と誓ったペテロから、私たちの姿を見つけなければなりません。私たちが、イエスを信じる理由は何でしょうか?イエスが私たちを楽園に導いてくださるからでしょうか?この地上で私たちと家族を幸せにするために守ってくださるからでしょうか?あるいは、教会に来ると心安らかになるためなのでしょうか?それとも、毎週、祝福の祈りを受けることができるからでしょうか?米国や欧州、韓国のように、キリスト教の規模が大きな国では、政治家たちが自分の評判や選挙のために信仰なく、教会に通う場合があると言われます。私たちは、いかがでしょうか?もし、主が自分に役に立たなくても、私たちは主を主だと認められるでしょうか? イエスの弟子たちは、使徒と呼ばれ、教会を創り上げる大事な役割を務めました。ペテロはその中でも、イエスの弟子たちを代表する大切な人物です。カトリック教会では、ペテロを一代の法王であると考えています。イエス様もペテロを特別に扱われました。ところが、このようなペテロがイエスを否定しました。力のないイエス、弱いイエスに失望したのかも知れません。イエスのせいで被害を受けることを恐れたのかも知れません。重要なのは、教会を代表する人物がイエスを否定したということです。教会はイエスの体と呼ばれる共同体です。しかし、教会も、イエスを捨てることがありえます。自分の欲望を満たしてくれないイエス、自分の助けにならないイエス、自分の願いを叶えてくれないイエスに気づいたとき、ひょっとすると、私たちも今日のペテロのように、主を断固否定するかもしれません。私たちの信仰はいかがでしょうか?私たちは、どんなことがあろうとも、イエスを否定しないで、主と一緒に苦しみを受けることが出来るでしょうか?私たちのイエス・キリストへの信仰が、どのような躓きの石も乗り越える純粋な信仰であることを望みます。鶏が鳴き、後悔したペテロのようになる前に、どのようなことがあっても、主を認めて従う私たちになることを願います。 2.世に否定されるイエス 逮捕されたイエスは、イスラエルの権力者たちに連行されました。当時、イスラエルの大祭司は、カイアファでした。しかし、イエスは、まずカイアファのしゅうとであるアンナスのところに連行されます。『まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファの舅だったからである。』(13)アンナスは当時の大祭司ではなく、大祭司の舅というだけなのに、なぜ、イエスは彼のところに、 まず、連れられたのでしょうか?その時、イスラエルはローマの支配を受ける植民地でした。ローマは、出来るだけユダヤ人の信仰と伝統を認めて支配しましたが、それでも、植民地であったため、民族主義的な権力が生じることを懸念しました。そのため、もともと、終生職であるべき大祭司がローマ総督の指示の下で、数年ごとに変わりました。アンナスも、そのような過去の大祭司の一人でした。しかし、このアンナスの権力は強大でした。今日の本文の時の大祭司が彼の義理の息子であり、アンナスの5人の息子は、皆、歴代の大祭司として権力者になりました。つまり、アンナスは大祭司を左右することが出来るほどの目に見えない本当の権力者でした。主はこのような権力の頂点に立っている者のところに、まず連行されたのです。 続いて、イエスはアンナスの娘婿であり、当時の大祭司であるカイアファのところに連行されました。イスラエルの大祭司は、イスラエルで最高の権力者の一人でした。この時、イスラエルには、サンヘドリン公会という機関がありました。それはイスラエルがバビロンの捕囚から解き放された後、イスラエルの自治のために生まれた組織です。サンヘドリンは大祭司、ファリサイ派、サドカイ派、総計71人が集まり、まるで、今の国会、裁判所のように、イスラエルを治めました。後、ローマ総督は、この組織を操るために、直接、大祭司を任命しました。つまり、大祭司はそのサンヘドリン公会の代表であり、親ローマ派の者でした。したがって、大祭司は、単に宗教指導者を超えて、政治的にも多くの影響を持つ者でした。宗教権力も、世俗権力も、両方握っているものだったという意味でしょう。しかし、アンナスもカイアファも最終的にはローマ帝国の操り人形に近かったのです。彼らは神の御心によって選ばれた大祭司ではなく、世の権力によって立てられた大祭司でした。彼らは人間が立てた偽りの大祭司であり、律法に認められない偽者でした。彼らは神の律法より、ローマ帝国の権力に近い世の権力に属していたのです。彼らの興味は神の意志よりも、世の権力にあったからです。 大祭司たちの仕業の例を取り上げてみましょう。イスラエルの成人男性は過越祭、七週祭、仮庵祭の3大祭りにエルサレムの神殿に上り、神様に献げ物を捧げる義務を持っていました。『男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。 あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。』(申命記16:16-17)そのため、民は自分が心を込めて育てた生け贄の動物を、エルサレムまで連れて行って捧げました。しかし、傷のある物は捧げてはならないという律法の命令ため、行く途中、傷が生じたりすれば、その動物は使えないようになりました。大祭司は、それらのことを悪用し、神殿で商売をしました。傷のある動物を安く買い取って、その動物を綺麗だと騙し、高く売却した。ローマの銅貨には、皇帝の顔が描かれていて、偶像のものだという口実を設けて、イスラエルのお金に両替させました。このような正しくない方法によって、大祭司は莫大なお金を稼ぎました。イエス・キリストが神殿の商人たちを追い払われた出来事は、このような背景から理解する必要があると思います。神殿でのイエスの行為は、大祭司が聖であると認めた神殿商売の腐敗した面を暴き立てることでした。そのため、大祭司はイエスを目の敵にしたはずでしょう。 イエスは神の御心に逆らう、大祭司たちの悪行を指摘し、治そうとなさいました。その反面、大祭司は人を生き返らせ、イスラエルの悪い習わしを治し、人々を癒すことによって、人気を得たイエスを憎みました。自分らの立場が揺らぐと思ったわけです。『大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。』(19)大祭司はイエスを排除しなければ、自分の権力が危ないと思いました。そのため、イエスの教えを尋ねたわけです。彼は、すでにイスラエルの大祭司という名目から外れ、神の外にいる存在でした。彼はこの世の空中に勢力を持つ者の手下のような存在でした。 『イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるかと言って、イエスを平手で打った。』(2​​2)正しいことを教え、正しい道を示されたイエスは、大祭司の悪により、苦しみを受けることになりました。この世の偽りの大祭司が、神から遣わされた真の大祭司を否み、裁いたのです。世の権力者たちは、自分たちの利益のために、不正や悪行を犯したりします。そのような人々に正義を貫くキリストの福音は迫害を受けます。教会が主の言葉に徹底的に聞き従い、正しく変えようとするなら、迫害を受けることは決まっているでしょう。それでも、教会は、主に従って正しいことを行いつつ、生きるべきでしょう。この世の方式に妥協する瞬間、私たち教会は、偽りの大祭司のようになり、主さえも認めることが出来ないようになるでしょう。 締め括り 孤独なイエス イエス・キリストは弟子たち、すなわち教会に否定されました。そして、イスラエルの権力、すなわち世にも否定されました。皆が自分の野望と欲望のために、真の神の声を否みました。この世に救いと命を与えるために来られた主は、ご自分に従っている者、ご自分を憎んでいる者、両方から拒まれ、否定され、十字架につけられました。主イエスは、この世のすべてのものに徹底的に否定されたのです。キリストは、なぜ、そのように皆に否定されて、孤独に死んでいかれたのでしょう? 『わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。』(イザヤ53:6)教会も、世も、自分の罪を自ら赦すことができません。旧約の生け贄にも、傷のある羊は生け贄に使えませんでした。ただ罪がなく、傷のない生け贄だけが、人の罪を代わりに背負うことが出来ました。罪のないキリストだけが、人の罪を代わりに背負うことが出来るという意味でしょう。罪を背負うことにおいては、他の誰の哀れみも助けも要りません。ただ、私たちの罪を背負ったイエス・キリストと罪を裁かれる神様との問題なのです。主が徹底的に苦しんで捨てられたのは、もともと私たちのものでした。主が感じられた孤独は、私たちが感じるべき孤独でした。苦しみを受けるイエス・キリストは、皆に否定され、一人でご自分の道を歩んで行かれました。しかし、主は、最終的に復活され、世の罪を赦してくださるでしょう。そして、ご自分が受けてくださった、私たちが経験すべき否定と孤独の代わりに煌びやかな喜びを私たちに与えてくださるでしょう。否定されたキリストによって、私たちは神様に認められました。私たちは、主を否定しましたが、主は私たちを認めてくださったのです。否定されるキリストを覚えつつ、主の愛を覚え、私たちが受けるべき苦難を代わりに受けてくださったイエス・キリストに賛美と感謝をささげる一週間なるように祈り願います。

父から与えられた杯。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書18章1‐11節(新203頁) 前置き 去る2月26日はレントの始まりを知らせる灰の水曜日でした。なぜ、灰の水曜日と呼ぶかというと、昔のキリスト者たちは、イエスの苦難を意味する灰を額に塗り、主の犠牲と愛を覚えつつ断食と祈りでレントに臨んだからだそうです。今でも、これを記念し、そのような伝統を受け継いでいる教派があるそうです。主の苦難を忘れず、覚え、参加しようとした信仰の先輩たちの心が、しみじみと感じられます。先週、私たちは罪人アダムの子孫という立場から、正しいキリストの民の立場に変えさせてくださる主の愛について、考えてみました。そのすべての恵みは、主イエス・キリストの苦難と愛によるものです。昨年の後半には、ヨハネによる福音書を学び続けましたが、今年のレントと受難週、イースターに分かち合うために、しばらくお休みし、ローマの信徒への手紙に取り組んでまいりました。今日からイースターまでは、残りのヨハネによる福音書を再び分かち合いながら、主がご自分の民のために、どのようなことをしてくださったのかを話していきたいと思います。主の苦難と復活を考えるとき、私たちは必ず考えざるを得ないことがあります。主の死は、私の罪の死であり、主の復活は、キリストの命による、新しい人としての私の復活だということです。主の死と復活は、すなわち私たち自身と密接な関係を結んでいるものです。これらの関係を黙想しながら、レントの期間、主の苦難と復活を記念して過ごして行きたいと思います。 1.園の中に入って行く。 『こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。』(1)イエス様は受難の一週間前に、エルサレムに入って行かれました。ヨハネによる福音書は、その後、すぐに聖晩餐に背景を移しますが、他の福音書を見ると、その間に多くのことがあったことが分かります。主は神殿に入り、商人を追い出されました。清くなった神殿で教え、神殿の向こう側であるオリブ山でも説教をなさいました。腐敗したユダヤ人の指導者との論争もありました。そして、神に聞き従わないイスラエルの民を見て、お嘆きになりました。このような、忙しい一週間を過ごし、十字架の苦難を前にして、過越しの晩餐を準備させ、弟子たちと一緒に時間を過ごされました。主は弟子たちの足を洗い、『仕える王』というキリストの本質を示してくださいました。また、キリストを通して、聖霊が来られること、聖霊を通してイエスが弟子たちと永遠に共におられることを教えてくださいました。最後に、主を信じる者と全人類のために、切に執り成しの祈りをしてくださいました。 1節に出てくる『こう話し終えると』での『こう話す』というのは、まさに主が救い主であること、弟子たちを守ってくださること、聖霊を送ってくださることの予告と神と人間の間でなさった、慰めと和解の執り成しの祈りを意味することです。 その後、主は弟子たちを連れて、キドロンの谷の向こうへ行かれました。キドロンの谷は、エルサレムとオリブ山を横切る低い地域です。そこを20分ほど通り過ぎると、イエス様がしばしばお祈りになったゲッセマネの園が出てきます。今日の1節で取り上げられている園は、まさにこのゲッセマネの園のことだそうです。ところで、なぜヨハネによる福音書は、詳細地名を省略し、向こう側の園と話しているのでしょうか?これはヨハネによる福音書の特徴であるからです。ヨハネによる福音書は、イエスが旧約の神であるということを示すために、多くの旧約聖書のイメージを借りて使用しました。例えば、ヨハネ1章1節『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』という言葉は、神の言葉と呼ばれるイエス・キリストが旧約の造り主であったということを『初めの言』と象徴的に表しているのです。今日の言葉に出てくる『園』という表現も、このような象徴的意味を持っています。聖書の中で一番最初に園の話が出てくる箇所は創世記です。 『主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。』(創世記2:8)初めの園は、神の平和と秩序に満たされていた美しい所でした。園のどの場所においても、何ものも害を加えず、滅ぼすこともありませんでした。しかし、神を裏切る罪を犯した初めの人は、主の呪いを受けて、その場所から追い出されることになりました。それ以来、神の園は人間が入ることを許されない、失われた楽園になりました。その園の門は神だけが開くことが出来ます。つまり、神に招かれた人だけが入ることが出来る所だということでしょう。この園というのは、神の国、御国を意味する象徴物なのです。 園は人間に許された空間ではありません。罪人である人間は、自力では決して入ることができません。『そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。』もちろん、本文に登場する、この園はエデンの園ではありません。しかし、ヨハネによる福音書は、創世記の園というイメージを借り、象徴的に用いて、イエスと一緒にいると、禁じられた園に入ることが出来るというニュアンスを漂わせています。ここで私たちが分かることは、イエス様によって、人間は初めの人のように神の園に入ることを許されるということです。十字架の苦難は、イエスの弟子たち、すなわち主を信じる者を、失われた神の園に招くための最初の段階となります。イエス様は苦難を受けられましたが、その苦難のお蔭で、主を信じる者は、園というイメージで表現される神の統治と愛に入ることができるのです。主がこの世に来られた理由、苦難を受けられた理由は、神に捨てられた罪人を新たにし、神の民としてくださるためです。人間に許されない園でしたが、イエス様と一緒なら、入ることが出来るように、私たちはイエス様を通して神の民となることが出来、神の国に入ることができるのです。今日、園の物語を通して、私達を神に導いてくださるイエス様の愛と恵みを悟り、感謝すべきだと思います。ひたすら、イエスと一緒なら、私たちは神に向かって堂々と進むことが出来ます。主イエスは、このために、私たちの間に来てくださったのです。 2.世の光である主と松明と灯火を持つ人々。 ヨハネによる福音書には、イエス様がご自分のアイデンティティを定義づけてくださる部分が7ヶ所で出てきます。 『私は…命のパンである。世の光である。羊の門である。良い羊飼いである。復活であり、命である。道であり、真理であり、命である。まことの葡萄の木である。』この中で今日の本文と関わりのあることは『わたしは世の光である。』という言葉です。イエス・キリストはご自分を世の光であると宣言されました。世の光という言葉は、旧約聖書イザヤ書では、この世の中に臨むメシアを指す言葉です。 『先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。』(イザヤ8:24-9:1)エルサレムと比べると、弱者が多く住んでいたガリラヤは、イエス様の主な活動地域でした。ゼブルンとナフタリはガリラヤ地域を意味します。特に主が育たれたナザレはゼブルン地域にあるガリラヤの代表的な町でした。旧約聖書で神のご関心は、主に貧しくてみすぼらしい人々に向かいました。金持ちも貧しい人も、皆同じ人間ですがが、憐れみ深い神様は、神がいなくても関係なく、豊かに生きる金持ちよりも、目先の食べ物もなく、苦しみで呻いている貧しい人々に特に心を遣ってくださいました。 そのために、神が肉体を持って、イエス・キリストという名前で、この地上に来られた時、主にガリラヤ地域で活動し、その人々に癒しと愛を与えてくださったのです。イエス・キリストは、イザヤ書の言葉のように、ガリラヤの弱者たちの面倒を見、彼らに希望を与えてくださる世の光でした。そのため、主は自らが弱者の側に立ち、堂々とナザレのイエスと言われたのです。主は暗闇の中で呻いている民に光を照らされ、慰めと希望を与えてくださるの光の源でした。 『それで、ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明や灯し火や武器を手にしていた。』(3)しかし、イエス様を裏切ったユダがローマの兵士とユダヤ人を引き連れて、世の光であるイエス・キリストのおられるところにやって来ました。過越しの夕方、真っ暗になって、何も見えない夜、裏切り者ユダの手引きによって、人々はみすぼらしい灯火を持ってイエスを逮捕するために来たのです。ここで、今日の2番目のイメージを見つけることが出来ます。松明と灯火と表現される人間の光です。神の光、永遠に消えない光、暗闇を明るく照らす無限の光というイメージを持っていたイエス様と比べると、人々が持ってきた松明と灯火は、いつでも消え得る有限の光でした。 『イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。』(4-5)主は、彼らが、なぜやって来たのかを知っておられました。主を信じる者を神の園に導いてくださる主、無限に輝く世の光である主が、小さな光に頼ってきた人々と対面されたのです。『イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。』(6)主のこの言葉を聞いた人々は、後ずさりして、地に倒れました。有限な光を持った人間が、無限の光である主の前に立った時、神の御前での被造物の本来の姿である『地に倒れる。』ようになったのです。神と人間の間にある無限の違いを示すものです。人間は富、権力、名誉などの、かすかな光を持って、まるでそれが絶対的な光ででもあるかのように、生きていきます。しかし、そのようなものは全て、永遠に消えない世の光であるイエスの御前では、何の力も持つことが出来ません。むしろ『後ずさりして、地に倒れる。』だけです。イエスは自ら死を決意し、彼らに捕らわれるようになさいましたが、彼らはイエスの前では後ずさりして、地に倒れるしかない、微々たる存在に過ぎませんでした。私たちは、この松明と灯火というイメージを通して、全能なる主と人間の弱さを比較して見ることが出来ます。実に人間は主の御前で何の光もない弱い存在に過ぎません。 3.父から与えられた杯。 園というイメージに見られる神の永遠の支配、人間の有限の光というイメージと相反する主の無限の光。これらのイメージは、イエス・キリストの特別さを示すヨハネによる福音書の特別な装置であります。主は、私たちを神に導いてくださる神の園の門番であり、人々には絶対に許されない、まことの光をお持ちになる方です。罪人がこのような主の御前で、せいぜい出来るのは、倒れることしかありません。人間は、それほど主の御前に弱い存在です。松明と灯火を持ってゲッセマネの園にやってきたローマの兵士たちとユダヤ人たちは、このように主に触れることも、害を加えることもできない存在でした。しかし、主は彼らにわざわざ捕まえられてくださいました。 『わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。』(8)主が彼らに逮捕された理由は、主の民を生かしてくださるためでした。『父が与えてくださった人を一人も失いません。』と言われたイエスの言葉が実現するためでした。なので、イエスは弟子達を生かすために、ご自分が捕らわれたのです。これから、主は十字架につけられ、死んでくださるでしょう。人々に引き連れられて、死ぬわけではなく、自ら死を選ばれるのです。なぜならば、イエスを信じる人々を死から自由にしてくださるためです。偉大な力と権威を持っておられる主でしたが、主はご自分の民を救ってくださるために自ら死を選ばれたのです。 『シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。』(10)時々、キリスト者は教会の大きさ、この世での影響力を前面に出し、教勢を通して、神様を示したがる傾向があります。しかし、主は人に頼らない御方です。主はいつも、自らの力でご自分の御心を成し遂げられます。ペトロは主を救おうとして、剣を使いましたが、主はむしろ、その力を止めさせ、自らを死に追い込まれました。ペトロのこのような行為は、主に何の影響も与えることが出来ませんでした。結局、ペトロのこのような行為も、人々が持ってきた松明と灯火のように微々たるものでした。 『イエスはペトロに言われた。剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』(11)イエスは救い主であり、世の光であります。しかし、主はそのような偉大さを後にして、父なる神の御心に聞き従われました。すべてが神の御心どおりでした。今日の本文に出てくる杯とは『神から与えられた苦難』を意味します。神である主は、自らが苦しみを受けることによって、微々たる弱い人間の手ではなく、偉大な神、ご自身の御手によって、救いと恵みの道を開いてくださいました。イエスは父なる神が与えてくださる杯を受けることによって、神と人との間にある壁を崩し、すべての人間が救われる道を開いてくださいました。そして復活した後に、真の神の園である御国に入ることができる道、神の永遠の光を享受する道を開いてくださいました。このすべてが、御父が与えてくださる苦難の杯を主イエスお一人がお受けになり、完全に神のご意思を成し遂げてくださったことによるのです。 締め括り 父なる神からいただいた杯を、御子のイエス・キリストが受けられました。これは、最初から最後まで完全に神様の事柄でした。この救いの御業に人の行いは全く役に立ちませんでした。私たちの救いは、ひとえに永遠の神によって叶えられたものです。レントを過ごしながら、私たちは、主の苦難を覚えています。しかし、主は弱いから、苦しめられたわけではありません。仕方なく苦難を受けられたことでもありません。主は全能なる方ですので、自らが苦しみを計画し、成し遂げられたのです。したがって、主の苦難による私たちの救いは、永遠に変わることのない偉大な御救いです。ですから、私たちは、主の苦難に涙を流すのではなく、その苦難の後、死に勝ち、復活された主の勝利に喜ぶべきことでしょう。イエス・キリストは、私たちを神の園に導いてくださる方です。イエス・キリストは、私たちに真の光を与えてくださる世の光です。このイエスが成し遂げられた完全な救いを喜びつつ、レントの終わりに復活される主を賛美する一週間を過ごしてまいりましょう。主が命をかけ、許してくださった救いを感謝し、賛美する一週間になりますよう祈り願います。