王か?パンか?

「私はどのような人生を生きるべきか?」この問いは、古今東西を問わず、すべての人が一度は考える問いだと思います。「私はどのように生きて行かなければならないのか?」忙しい現代人、皆と同じ方向に向かって行きながらも、そのような自分の人生について自ら真剣に問い掛けるべき設問。「私は何のために生きていくのか?」皆さんは、こういう質問への答えを出したことがありますか?アメリカの16代大統領であるアブラハム・リンカーンは「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持つべきだ。」という言葉を残しました。 多分、私はリンカーンが「人は40歳を過ぎると、自分が何のために生きるべきかを弁(わきま)えなければならない。」という意味で、この話を残したのだと思います。もちろん、個人差があるので、早めに気付く場合も、遅く気付く場合もあると思います。私の場合は、聖書のある言葉によって40歳になる前に、何のために生まれたのかについて悟ることができました。その言葉が、まさに今日の旧約本文の言葉です。『人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。』 今日は『キリスト者としての私達はなぜ、生まれたのか?どう生きるべきなのか?』について話してみたいと思います。 1.パンへの人間の本性 – ヘロデ王 今日の新約の言葉は5つのパンと2匹の魚の奇跡と呼ばれる非常に有名な物語です。 4つの福音書に、全部登場するほど、多くの深い意味を持っている箇所です。ところで、ヨハネによる福音書を除く3つの福音書では、この5つのパンと2匹の魚の奇跡の物語が出る直前にヘロデ王がバプテスマのヨハネを処刑したという話が出てきます。なぜ、5つのパンと2匹の魚の話の直前にヘロデ王の話が出てくるのでしょうか?まさにパンに隠されている意味について話すためです。異民族の血統の王として正当性が弱かった彼は、自分のパン、すなわち自分の力を保つために、イスラエルの血統の女性との結婚を望みました。結局、自分の元妻を捨てて、イスラエルの血統の異母兄弟の元妻と結婚することになります。バプテスマのヨハネは、そのようなヘロデの行為が律法に適わないと、ヘロデとその新しい妻を糾弾します。するとヘロデの新しい妻はヘロデを操ってバプテスマのヨハネを殺させました。マタイ、マルコ、ルカの福音書では、この物語が出て来ています。 ヘロデがヨハネを殺した理由は、自分の権力のためでした。異民族の血統を受け継いだ王が民族的な正当性を得るために、律法に禁じられた結婚をし、その結婚についてヨハネが糾弾したからです。ヘロデの新しい妻は、そのようなヨハネの非難を防ぐために、彼を無惨に殺しました。聖書が語っているパンは、単に食べることだけに限るものではありません。先月の聖餐礼拝の説教で、私は食べることは、神様が与えられた祝福ですが、自分の欲望だけを満たすためなら、神様の呪いになる可能性があると話しました。ヘロデはパンに象徴される、自分の権力を強めるために、つまり、自分の欲望のために、神の預言者を殺したのです。 人に適度な権力と富と名誉は必要かもしれません。聖書を読むと、神様も権力と富と名誉を許されました。しかし、権力、富、名誉に酔って暴れた者たちは、結局、神様に裁かれました。私は今日、このパンを権力、富、名誉に喩えようとしています。人間は、このパンへの過度な執心をする傾向があると思います。自分のパンのために、他者に害を及ぼし、他者を憎み、ひどい場合は、他者の命を奪うこともあります。結局、このパンへの欲望が更に大きくなり、他者を踏みにじる権力として象徴される王への欲を出し、そのため、より多くの罪を犯してしまいます。パンへの欲望は、他者のパンを奪い、他者に苦しみを与える暴力になります。このようなヘロデの行為は、イスラエルの民に大きな痛みと悲しみを与えました。私たちの心の中にあるパンは、どのようなパンでしょうか?もしかしたら、それは自分の欲を満たすためのパンではないでしょうか? 2.パンに対するイエスの御心。 ところで、真の権力者である神の独り子、神の御言葉、主イエス・キリストは、このパンについてヘロデとは違う姿を示されます。『イエスはお答えになった。人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある。』(マタイ4:4)イエス様は、人はパンだけで生きるものではなく、神様がくださる言葉をもっと大事にして、生きるべきだと言われました。パンだけを求める者は、神の言葉から遠ざかってしまいます。自分の欲望だけを求める者は、神の言葉が持っている正義、公平、愛から離れてしまいます。神の言葉を守って生きては、自分の欲望を満たすことが出来ないからです。イエス様は徹底的に人間のパンより、神の御言葉に従って生きて行かれました。むしろ、イエスは、より多くのパンを持つことが出来る立場から自ら抜け出し、より少ないパンも分け合おうとされました。自分の欲望ではなく、神の御言葉を、より大事に思われたからです。 イエスは、病んでいる、飢えている民を憐れんでおられました。ですので病気を治され、御言葉を聞かせてくださいました。そして、5つのパンと2匹の魚をもって大勢の人々を食べさせてくださいました。イエス様はパンだけを下さったのではなく、まず治してくださり、御言葉を聞かせてくださり、最後にパンをくださったのです。弱い者を慰められ、御言葉を教えられ、その次に食べ物を与えられたのです。イエスは人間の欲望のために、満足感のために、奇跡を起こされたわけではありません。イエス様は神の慰めと、教えの結果として食べ物を与えられたのです。ヘロデ王が自分のパンを得るために他者に害を及ぼし、痛みを与えたとは違って、イエス様は、他者に仕え、癒しと慰めを与えるために、ご自分のパンを分けてくださったのです。 イエス・キリストは、いつもご自分の権力と富と名誉よりは、人々の痛みと苦しみと悲しみに眼差しを注がれました。そして、ご自分の愛と御心が、この世で成し遂げられることを望まれました。主イエスはそのような主の御心が、主を信じる者たちに共有されることを望んでおられたのです。ですので、主は弟子たちに『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』と命じられました。弟子たちは、力が足りなくて、子供の5つのパンと2匹の魚を借りて主イエスに差し上げることしか出来ませんでしたが、主はその弟子たちの小さな努力を受け入れられました。その日、主イエスは男だけでも、5000人にもなる多くの人々を満足させるほど、豊かな食べ物を施されました。王としての権力のために、罪のない人を殺したヘロデとは違って、民のためにパンを分かち合った主は、まるでマナと鶉を通して、イスラエルを食べさせてくださった神様を象徴するように、民を助け、生かしてくださいました。 3.我々は、どっちのパンを選んで生きていくべきか? 人間は常に二つの心を抱いて生きていくと思います。自分の欲望を追いかける心、他者への愛を追い求める心。この二つの心が一塊になり、ある時は善を行なったり、ある時は悪を行なったりする時もあります。神様は今日も私たちの目の前に、二つのパンを置かれ、我々がどっちのパンを選ぶか見ておられると思います。私たちが選ぶべきパンは、ヘロデが願っていたパンでしょうか?それとも、イエス様が分けてくださったパンでしょうか?今、私達、皆が追い求めているパンは、どっちの方でしょうか? ヨハネによる福音書ではイエス・キリストを従っていた、弟子たちと群衆が登場します。イエスは飢えた群衆に食べさせるパンのために弟子たちを試み、彼らがどのように群衆を助けるかを見詰められました。弟子たちは、お金では済まない問題だと考えて、弱気になりましたが、それでも5つのパンと2匹の魚を持ってきて、主に差し上げました。彼らの力は弱かったのですけれども、彼らは信仰を持って、主イエスに行きました。そして、イエス様はその信仰に呼応して、多くの群衆を食べさせました。弟子たちは、自分の欲望を満たすパンより、イエス・キリストの御心を成し遂げるパンを求めたのです。そして、そのパンを喜んで主に捧げました。私たちが持っているひとかけらのパン、小さな力、小さな財力、小さな名誉を用いても、イエス様を信じ、彼の御言葉に聞き従うならば、私たちを通して神様の偉大な御業が表されると信じます。 今日の本文の群衆は弱くて病んでいる群れでした。自分たちが食べるパンさえも、用意できない貧しい群れでした。彼らにはパンが必要でした。そこで、イエス様は、かれらを哀れみ、喜んでお助けになりました。しかし、満腹した群衆は、イエスの御心に気付かず、続いて、食べ物を与える王としてイエス・キリストを無理やりに自分らの王にしようとしました。『人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。』(ヨハネ6:14-15)主は貧しい人を愛しておられますが、貧しい人だからと言って、皆が神の御心を知ることは出来ません。彼らは貧しさの中、急におなかが満たされたあまり、主の本当の御心を理解できませんでした。主のパンを食べた彼らは、自分の所に帰って行き、主がいかに自分らを助けてくださったのかを宣べ伝え、彼らも他者のためにパンのような存在として生きて行くべきだったのです。ですが、彼らは、ただパンだけに満足して、自分の在り方は何かについて、悟れませんでした。主はそのような彼らから離れ、退かれました。 王か?パンか? イエス・キリストは王です。ヘロデのように自分のことだけを考える王ではなく、民を愛しておられる王です。イエス・キリストはパンです。ご自分の権力、富、名誉だけのためにパンを求める王ではなく、自らパンになられ、人々に愛と慰めのパンを与えてくださる生命のパンであります。このイエスを信じる人は、ヘロデの道のりではなく、イエスの道のりを歩むべきでしょう。自分だけのためにパンを持とうとする人は、王になろうとする人です。このように生きていく人は、自分の真の王であるイエス・キリストを見違えるようになってしまいます。つまり、主の御言葉の教えを悟ることが出来ないようになってしまいます。群衆がパンだけに満足し、イエスを無理やり王にしようとしたのは、イエスが本当の王であると思ったわけではありません。イエスを通して、自分たちのパン、隠れていた欲望を満たすことが出来るということを悟ったからです。これは王になろうとする、ヘロデのような人間の欲望と、非常に似ている本能です。 主の御言葉に聞き従い、自分のパンを分かち合おうとする人は、自ら、イエスに従い、パンになろうする人です。彼らは真の王であるイエスを認め、そのイエスのように自分自身を犠牲にして、他者を生かす者、つまり、主イエスの御手に用いられるパンになることが出来ます。イエスは、この小さなパンを用いて、自分の御心を成し遂げられ、多くの人々に命を施してくださいます。 「私」という小さな存在が、ひとかけらのパンになり、主の御手によって用いられる時、私たちは隣人に希望と喜びを与える者になるでしょう。そして、隣人と分け合うパンと共に伝わる主の御言葉は、真の魂の糧となり、隣人を福音と救いの道に招くでしょう。今日も私たちは、王になろうとするヘロデの道と命のパンになろうとするキリストの道の分かれ道で生きています。私たちは、いくつかの道を行くのですか?5匹の魚の奇跡を読むとき、私たちは果たして、どっちの道に赴くべきでしょうか?王か?パンか?主に喜ばれる道を選ぶ賢い民として、この1週間を過ごしたいと思います。主の豊かな愛と恵みが皆さんとご家族の上にありますように。

ベトザタのイエス。

自由への人間の渇望。 1973年作の映画パピヨンをご存知ですか?無実の殺人の濡れ衣を着せられた主人公は、南米のフランス領ギアナの刑務所に連行されます。そして、そこから万死を冒して何度も脱出を敢行します。脱出する途中捕らえられ、日の当たらない独房に2年間も閉じ込められたり、めためたに殴られたり、あまりにも飢えて蜚蠊(ごきぶり)を捕って食べたりします。やっと脱出したのに、信じていた人の密告により再び捕らえられるなど、とても、辛い時間を過ごすことになりました。主人公は最終的にサメの群れに囲まれた、ある島の刑務所に移送されたりして、もろもろの苦難を嘗めました。それにも拘わらず、主人公は最後まで自由を求め、脱出しようとします。結局、映画は主人公が脱出に成功したシーンで終わります。この映画のテーマは自由でした。最後まで主人公が望んでいたのは、解放でした。そして彼を常に動かした原動力は、自由と解放への希望でした。 人間は老若男女を問わず自由と解放を追い求めます。この自由を得るために誰かは絶え間ない挑戦をしたり、誰かは命をかけたりします。しかし、自由は簡単に得ることが出来ません。大抵の現代人は、自分が自由に生きていると思うかも知れませんが、富の束縛、権力の束縛、名誉の束縛により、自分も気付かないうちに、現実の奴隷のように生きていると思います。 1位、或いは権力者でない限り、尊敬されることがない現代社会で『皆と異なったら、どうしよう?皆のようにお金を儲けることができなかったら、どうしよう?社会で独り負けになったら、どうしよう?』と怯えるあまり、最終的には安定した今の生活に満足し、これが正常だと思って、自ら自由を諦めてしまう場合もあります。結局、自分のことだけを考え、隣人への関心を持たないようになる場合もあると思います。このような現代を生きて行く私達にとって真の自由とは何でしょうか?今日の新約本文の物語を通して、真の自由とは何か?その自由を束縛するものは何か?そして、その自由への解放者としてのイエス・キリストは誰かについて考えてみたいと思います。 1.慈しみの家 – ベトザタ。 ベトザタはイエスの時代、当時のユダヤ人たちが使っていた池です。その意味は、「慈しみの家」でした。この場所は、実際に池というより水の貯蔵庫の方に近かったです。その大きさが神殿の貯蔵庫の次だったと言われます。何故かと言うと、このベトザタには、病人を治療する病院があったからです。手術と治療に用いるための綺麗な水が必要だったので、大きい貯蔵庫があったということです。ところで、ここには数多くの病人が集まっていました。なぜなら、そのベトザタに不思議な噂があったからです。今日の本文を読むと3節の次に、4節がありません。そして、そのまま5節に進みます。なぜでしょうか?まず、欠けた言葉をお読みいたします。『彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。』これは、初めに書かれたヨハネによる福音書ではなかった箇所ですが、後、誰かによって加えられたものです。後といっても、古代の話ですので、現代になって操作されたものではありません。この内容は、日本語版のヨハネによる福音書の最後の部分に追加されています。 この言葉によると、ベトザタには主の使いが、時々天から降りてきて、水を動かすという噂があり、その水が動いた後、真っ先に入って行く人には、どのような病気でも癒される奇跡があったそうです。これが事実なのか、ただの噂なのかは分かりませんが、多くの人々が、自分の病気を癒すために、そこに集まっていたのは事実でした。その中には、今日の本文に登場する38年も病気で苦しんでいる人もいました。皆さん、この話を聞きながら、欠けた箇所の中にある『主の使い』という表現が気にならないでしょうか?愛の神様がなぜ、こんなにケチンボウのようになさったのでしょうか。私はベトザタが慈しみの家と言われているのに、皆を治さないで、1位だけを治す神、人々に虚しい希望ばかり、与える神が、本当に主イエスの父なる神様なのかと考えるようになりました。それでギリシャ語聖書5冊、英語聖書3冊を比べてみました。ギリシャ語の聖書では、『主の』の部分が一冊も無くて、英語聖書では、書かれたのもあるし、無いのもありました。たぶん、その『主の』は原文を翻訳するとき、追加されたかも知れないと結論を下しました。 イエスの時代のエルサレムはユダヤ教のみ、存在したわけではありません。エルサレムはローマ帝国の植民地としてギリシャ、ローマの宗教と文化も混ざっている所でした。イエスの当時のミシュナーというユダヤ文献から見ると、このべトザタは、ローマ神のための場所だったそうです。アスクレピオスはギリシャ、ローマの医術の神でした。杖にヘビが巻き付いている絵をご覧になったことありますか?今日、週報にも乗せられている絵です。これはアスクレピオスの杖です。考古学者たちによって、このアスクレピオスと思われる神像がべトザタで見つかったと伝わっています。べトザタは慈しみの家でした。しかし、その慈しみは、私たちが信じる、イエスの父なる神様の慈しみではなく、ギリシャの神の慈しみだったかも知れません。病人たちは、このギリシャの神像を見て、その神の天使が天から降りてきて、水を動かしてくれることだけを切に待っていたのでしょう。慈しみの家という名の場所で、僅か、一人のみに施されるケチな慈しみを眺めながら、一生を捧げた病人たち。実際にアスクレピオスの天使が降りてきて、水を動かしたのか、どうかは分かりませんが、人々は病気からの自由という希望を持って、生涯、偽りの神を待っていました。その偽りの神を通して得る自由は、非常に限定的であり、競争的でした。ただ1位のみ得ることが出来る慈しみでした。ベトザタの慈しみは、果たして真の自由と慈しみだったのでしょうか? 2.ベトザタの束縛された者。 ベトザタの病人はたぶん、イエスの時代の最もどん底に束縛されている弱者だったかも知れません。その時代、イスラエルの政治は純粋ではありませんでした。ダビデの子孫、ユダ系列の人ではなく、異民族出身のヘロデ王に統治されており、彼の力でさえも、ローマ帝国に許されたものでした。当時、ヘロデは神殿をより大きくて華やかに改築しましたが、実際には、イスラエルのためでなく自分の政治的権力と人気のためのものでした。宗教も純粋さを失っていました。イスラエルの神様から与えられる託宣は現れず、ユダヤ教の宗教指導者たちの富と権力と名誉のためのものとなってしまいました。社会的な状況も、純粋ではなかったです。富む者はさらに富み、貧しい者はますます貧しくなりました。貧しい者たちの反乱もよく起こりました。イスラエルは、親のない孤児のようであり、夫のない寡婦のようであり、住まいのない旅人のようだったのです。そのような状況、病人や障碍者は更に疎外され、自分たちの罪によって、神に呪われたという蔑視も受ける存在でした。そんな彼らには真の慰めと自由と慈しみが必要でした。権力者たちは、彼らに興味がありませんでした。極めて弱い彼らに何の助けの手もありませんでした。彼らがそのような状況から抜け出すことが出来る何の救いもありませんでした。彼らは死ぬまで病人、弱者として生きることが定まっていました。  彼らは二つの束縛の中にいました。まずは、1位でない限り、抜け出せない政治的、社会的な束縛でした。 『彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。』の病気によって苦しむ者が病気から自由になるためには、まず水に入らなければならないという前提を持っていました。スリを働く途中、指を痛めた人が足早に水に入ると治されたということです。他者に暴力を振るいながら、怪我をした人も、先に入ると癒されたということです。しかし、生まれながら足を使えなくなった人や、残念な事故によって目の見えない本当の弱者は、治されなかったということです。いくら悪い人でも1位なら、治されるシステムでした。公平ではありませんでした。社会は彼らのために何もしてくれませんでした。ただ、確証のない噂を信じろという傍観。しかも偽りの神への信仰の強要だけで、何の希望も与えませんでした。 また、宗教的、文化的な束縛がありました。 罹って38年になった病人が、イエスによって癒された後、ユダヤ人たちは、彼の回復を祝いませんでした。神に感謝もしなかったのです。彼らは自分らの教義を突きつけ、『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』と無慈悲な話しかしませんでした。彼らにとっては、病人の回復、希望、幸せは何の意味もなかったのです。苦しむ病人の回復なんかは大事ではなく、ただ彼らに重要なのは、自分たちの考えに合わない現実に対する否定的な判断だけでした。そもそも病人の痛みに関心がなかったので、彼らの癒しにも関心がありませんでした。そして、却って、このような弱者を助け、治した者を罪人として扱い、迫害しました。正しくない世界で、何の慰めも得られなかった弱者の命を、誰も大切に扱っていなかったということです。ベトザタの束縛は、単なる個人の問題ではありませんでした。それは社会が持っていた問題であり、社会が作っていた束縛でした。ベトザタの病人は、そのような束縛から絶対に逃れることが出来なかったでしょう。 3.ベトザタの解放者。 こんなに地獄のような現実、1位だけが逃れることが出来たべトザタの池、そして、そのべトザタの池の不条理に知らないふりをしていた指導者たち、そこから抜け出しても、情けの無い基準を挙げて判断し、非難した宗教人たち。もはやベトザタは慈しみの家ではなく、イスラエルの政治、社会、宗教、文化の便所のような所だったかも知れません。誰にも歓迎されない弱者をゴミのように脇に置き、神話みたいな噂を希望とさせ、死ぬまで閉じ込めておく下水道だったかも知れません。そこは慈しみも、公平さも、希望でさえも無い墓のような所ではなかったでしょうか。しかし、このように最も低い所に神の御子が臨まれました。しかも、ユダヤ人の祭りの日でした。皆が高い所、明るい所、すっくと聳え立った神殿を憧れたとき、神殿の真の持ち主であるイエスは、誰も見ていない最も低い所、暗い所、ベトザタをご覧になったのです。 そして、到底1位になれない38年の間苦しんでいた病人に手を差し出されました。『イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、良くなりたいかと言われた。』(ヨハネ5:6)イスラエルの下水道のような低いところに臨まれたイエス様は、その中でも最下位に注目されたのです。そして、彼が最も望むことを語られました。「あなたは良くなりたいですか?」その時、病人は治されることを求めませんでした。ただ、自分の惨めさを告白するだけでした。誰も自分を助けてくれなかったことを話しています。すると、イエスは彼の話をお聞きになり、最も低いところで苦しんでいた彼に回復を許されました。その時、彼は38年という長い年月の間に自分を苦しめた病気から、自由になります。そして、ベトザタという1位だけを覚える地獄から解き放されました。政治、社会、宗教、文化から見捨てられた人が、イエス・キリストの慈しみによって新しい人生を始めるようになりました。  しかし、彼が治されたにも拘わらず、人々は喜んでいませんでした。帰って安息日に律法を犯したと叱りました。誰が彼を安息日に直したのかと迫ります。誰が安息日にそのようにしたのか、と問いただしてイエスを迫害し、殺そうとします。しかし、イエスは言われました。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』(ヨハネ5:17)いくら世の不条理と悪が暴れても、イエスは淡々と言われました。「君たちがいくら暴れても、私は私の父が今もなお働かれるように、働く。」イエス・キリストは、束縛と抑圧の下で苦しんでいる人たちを、自分の名誉、権力、富とは関係なく、ただ治してくださいました。そして、自分の命までも投げ出されました。偽りの慈しみに束縛されている者を、喜んで回復させたイエス・キリストを通して、神の真の慈しみが、その日、エルサレムに臨んだのです。最も低いところで、いつも働いておられた神様の豊かな恵みが解放者イエス・キリストを通して、その地に臨んだのです。 解放者イエス・キリスト。 今日の旧約本文は第2イザヤ書に記されているメシアの働きを示す箇所です。第2イザヤ書はイザヤ書40-55章の言葉です。その前の第1イザヤ書の内容とは時代的な違いがあります。特に、バビロン捕囚の時と多くの関連があります。そういうわけで、解放者メシアへの歌が多く登場します。国を失って束縛の中で苦難を受けたイスラエルに神は言われました。 『彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。』(イザヤ49:10)神のメシアが臨まれれば、ご自分の民を正しい道、湧き出る水のほとりのような自由へ導かれるでしょう。そういう意味で、メシアとして来られるイエス・キリストは解放者です。イエス・キリストは、罪による差別と偏見と嫌悪に満ちている束縛の世界に自由を与えてくださる、真の解放者です。ですから、イエス・キリストのおられるところには自由があります。その自由は差別、偏見、嫌悪からの自由であり、誰もが人間らしく生きることが出来るようにする真の自由です。そのような人間らしい生活を施すために、イエス・キリストは、解放者として来られたのです。 このイエス・キリストを主と告白するキリスト者の在り方は、どうあるべきでしょうか?キリスト者である私たちは、もしかしたら1位ばかり、高いところばかり、明るいところばかり憧れているのではないでしょうか?冷暖房が完備された教会堂で礼拝したり、聖餐を分けたり、賛美したりしながら、満足しているではないでしょうか?世界3位の経済大国の一員という姿に満足しているのではないでしょうか?果たして私たちは、周りの困っている人々への配慮と愛を抱いているでしょうか?我が町の誰かが差別を受けているではないか、苦しんでいるではないか?政治家たちが善を行なっているか、悪を行なっているか?我が国、我が町が、どのような歩みをしているのか?キリスト者なら、悩むべきだと思います。もし、このような悩み抜きで信仰生活をしているならば、今もなお最も低い所から人を救っておられるイエス・キリストは私たちをどのように考えられるでしょうか?解放者イエス・キリストは、教会だけの解放者ではありません。彼は全世界の解放者です。主イエスの体なる教会である志免教会は、イエス・キリストの心に従って、正義と愛を持って隣人、政治、社会、文化、宗教など、全領域を省みるべきだと思います。イエス様が下さる真の自由と慈しみが志免教会を通して、ここ、日本、福岡、志免に現れることを切に望みます。

カナでの婚礼とイエスの最初のしるし。

カナでの婚礼とイエスの最初のしるし。 前置き 水が葡萄酒に変わったことを、偉大なしるしだと言えるのか? 皆さんはどんなお酒がお好きですか?私は鰻丼と楽しむエビスビールが一番好きです。恐らく多くの社会人が仕事の後、自分の好きな摘みと、お酒1杯でストレスをほぐすでしょう。酒は人間が造った最高の発明品の一つかも知れません。酒は人間の歴史と共に、古代から続いてきた、非常に重要な飲み物です。創世記では、箱舟に乗って命を取り留めたノアが地面に降りて、最初にしたのが、葡萄栽培だったと記されています。そして、ノアはその葡萄で葡萄酒を作って飲んだそうです。バビロン、ペルシャ等の古代帝国には、ワインを管理する高位役人があるほど、酒の価値は重要だったそうです。古代エジプトでは、労働者の給料としてビールを払ったという記録が残っているそうです。日本でも新しい天皇の即位のための大嘗祭の時、供え物として白酒と黒酒とがあると知っています。韓国でも先祖を祭る時、新米で作った酒を差し上げます。このようにお酒は、古代から現在まで、人間の文化と深い関係を結んでいる飲み物です。 そうかといって、飲酒を勧めるわけにはいかないでしょう。お酒には、副作用も多いからです。飲みすぎで病気にかかったり、慢性アルコール中毒で家庭が壊されたり、酒による犯罪などが起こったりする場合もあり、お酒が原因である事件事故が少なくないと思います。ところで、今日の本文を見ると、イエス様が水を葡萄酒に変えるしるしを行われたと記されています。そして、水を葡萄酒に変えたしるしを通して、イエス様が、ご自分の栄光を現されたと語っています。水が葡萄酒に変わるのは確かに驚くべきことですが、酒に悪いところもあるのに、なぜ、これに対して素晴らしいしるしを行い、栄光を受けるべきだと褒めているのでしょうか?イエス様が主人公だといって聖書が肩を持っているのでしょうか?決して、そうではありません。今日はカナでのしるしを通して、聖書が何を示そうとしているのか、この出来事が、私たちにどんな益を与えるのか、皆さんと話してみたいと思います。 1.聖書での結婚とは? 今日の話を通して、まず、この出来事の背景である結婚式について考えてみたいと思います。まず知っておくべきことは、聖書に出てくる、ほぼ全ての物語にかけて当時の文化に対する基本的な知識を知っておく必要があるということです。そして何よりも聖書に記された言葉の一つ一つに何の意味が隠れているかを認識すべきだということです。聖書に記されている結婚というものは、一体何の意味を持っているでしょうか?結婚式は新しい始まりを意味します。結婚式は花嫁が花婿によって新たに生まれることを意味します。日本の殆どの場合、妻が夫の名字に従っています。もはや父の名字を使わないようになります。離婚しない限り、最後まで夫の名字を使うのです。聖書が記された時代も、これに似ていたようです。結婚によって、妻は夫に従属し、妻の生活は父中心から夫中心に変えられたのです。もちろん、今はフェミニズムなどの思想により、だいぶん変わったと思いますが、聖書が記された時期には、そうだったということです。 聖書は、この結婚式という言葉を象徴的に用い、神に背いた民が、神のもとに戻ってくることを喩(たと)えたりします。『恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。 5あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。』(イザヤ54:4-5)『それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。』(黙示録19:9)聖書での結婚式はこのように、罪人への赦し、死者の蘇り、弱い者が強まること、神の恵みと愛などとして解釈される場合があります。神様がイエス・キリストを直に遣わされ、罪人の夫となるようにしてくださり、罪人を赦してくださり、この地上に神の愛と恵みを施してくださるという意味として、この結婚式が使われたということです。 そういう意味で、カナでの婚礼は非常に深い意味を持っているのです。花婿、イエス・キリストが来られたのは、聖書を読む、全ての読み手をキリストの花嫁として招くという意味だからです。ヨハネによる福音書の婚礼が、誰の結婚だったか、明らかには分かりません。しかし、確かなことは、この物語の中では、私たちは婚礼に現れられたイエス・キリストを見つけられるということであり、イエス様の最初のしるしが、この婚礼で起こったということがわかるということです。この婚礼のしるしを通して、今後ヨハネによる福音書で活躍されるイエス様は、罪人の花婿として贖いと愛を宣べ伝えられるでしょう。この婚礼の物語を読む私たちは花嫁の席に招かれた存在です。イエス様は、婚礼の真の花婿として、私たちを御迎えくださるでしょう。果たして私たちが、このイエス・キリストの花嫁に相応しく生きているのか?この婚礼の話を読みながら、花婿イエス様をしっかりと迎えているかどうか考えてみる時間にしたいと思います。 2.聖書での葡萄酒とは? 花婿として来られたイエス・キリストの物語を通して、私たち、教会を花嫁に召された主の恵みについて考えてみました。本当に感謝と賛美をすべきお招きだと思います。ところで、その結婚式と水を葡萄酒に変えることは、何の関係があるでしょうか?パレスチナで葡萄はとても重要な作物です。葡萄はパレスチナの高温乾燥した気候に良く適合する植物です。葡萄栽培は古代イスラエルの経済に大きい比重を占めるものでした。葡萄はイスラエル民族の繁栄の象徴だったのです。日本で豊作を象徴するものは何でしょうか?おそらく、お米ではないかと思います。パレスチナでは、その豊作の象徴が葡萄だと言っても過言ではないでしょう。そのため、聖書で葡萄が持っている重要さは、私たちが考えているデザート用くらいの果物のレベルとは違うと思います。葡萄は、イスラエル人の生活であり、喜びであり、豊かさであります。つまり、この葡萄に含まれていた意味は、神からの至福と愛だったのです。葡萄酒は、まさにこのような葡萄を持って作り上げた神様が与えられる喜びの象徴でした。 イエスの時代のパレスチナでの結婚式の葡萄酒は非常に重要なものだったそうです。葡萄酒はお客を手厚くもてなす道具だったからです。婚宴で葡萄酒が足りないということは、お客に対する侮辱とされることで、ひどい場合は法律的な問題になり、訴えられる場合もあったそうです。それほど結婚式での葡萄酒は意味のあるものでした。聖書で葡萄酒が持っている意味は、多いです。特に重要なのは、メシアの到来、神様から与えられる祝福と恵み、喜びなどです。イエスの時代、イスラエルで葡萄酒は、先にお話しました葡萄以上の喜びの象徴でした。二人の人生が一つになる、最も嬉しい儀式である結婚式は、それ自体で、目出度いことであり、周りの人も一緒に喜ぶべき良いものです。このような目出度い結婚式に喜び、祝福、豊かさを象徴する葡萄酒が加わることは、この上無い喜びを象徴するのではないでしょうか? ところが、このような結婚式で葡萄酒が無くなってしまうということは、そのような極めて喜ぶ状態に冷や水を浴びせる残念なことになるでしょう。ですが、このような状況で、イエス様は、水を葡萄酒に変えるしるしを行われました。イエス様はこの世には、全く存在しない豊かさをくださるために来られたかたです。水のように何の味もないこの世に葡萄酒のような神様の豊かさと喜びをくださるために来られたのです。聖書での水は、時々死を象徴したりします。主はこれらの死が満ちた世界を喜びの葡萄酒のように変えるために来られたのです。罪によって神から離れたこの世で、孤児のように生きる人のために父になってくださる御父、寡婦のように生きる人のために花婿になってくださるイエス・キリスト、連れ合いのない人のために友達になってくださる聖霊。イエス・キリスを通して罪人と共に歩んでくださる三位一体なる神様は水のように何の味もない世界に葡萄酒のような喜びと豊かさを与えてくださいます。今日のカナでの婚礼のしるしは、単に水が酒に変わったという不思議な話しを聞かせるためのものではありません。単に水を酒に変えることは、ギリシャ神話にもある話しです。この物語が持っている、より重要な意味は、罪によって何の希望もない世界にイエス・キリストが来られ、神様だけがお与えになることができる喜びと豊かさを許してくださったということです。そして、その喜びと豊かさに満たされた新しい世界を造って行かれることを予告する出来事だと考えることができるでしょう。葡萄酒は、神様が与えてくださる喜びと豊かさの象徴です。 3.イエス・キリストの最初のしるしが持つ意味。 まず結婚式と葡萄酒を通して、今日の話しをまとめたいと思います。今日ヨハネによる福音書の本文には、このような言葉が出てきます。 『イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた』(ヨハネ2:11)『最初のしるし』という言葉の『最初』とはギリシャ原文の『アルケ』という言葉です。創世記1章やヨハネによる福音書1章に出てくる『初めに』が、まさにこの「アルケ」であります。これは、一番、二番のような順序を意味することもありますが、また、『最も根源的だ。』という意味でも使えます。カナ婚宴のしるしは、水のような世界を葡萄酒のように変えていかれるイエス・キリストの栄光を示す、最も根源的なしるしであるという意味です。イエス様の公生涯を力強く始めさせた出来事なのです。罪人の救い主であられるイエス・キリストが、この世の歴史に登場されたという意味です。主がおられるところには、他の存在から与えられない豊かな喜びがあるでしょう。葡萄酒が無くなって失敗直前の結婚式のような世界が、再び元気を得、豊かになるでしょう。イエス様が水を葡萄酒に変えられたしるしはまさにそれを象徴するものでありす。 今日の旧約本文である創世記の言葉です。『王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。彼は驢馬をぶどうの木に、雌驢馬の子を良い葡萄の木につなぐ。彼は自分の衣を葡萄酒で、着物を葡萄の汁で洗う。』(創49:10-11)、イスラエルの先祖ヤコブが自分の息子ユダに遺言を残しました。ユダの子孫からシロ、即ちメシヤが臨むという内容です。ところで、この遺言でも葡萄の木と葡萄酒が出て来ます。葡萄の木の枝は割と弱い方です。家畜を繋げば、木が壊されるかも知れません。それでも、驢馬を繋ぐというのは、葡萄の木が豊かにある同時に非常に強く育って驢馬でさえ、折ることが出来ないほど豊作であることを意味するでしょう。また、葡萄の栽培が豊作なので、貴重な葡萄の汁に服を洗濯しても、残るほど、葡萄があふれているということを意味します。メシアが来られれば世が、変わるという意味でしょう。神様が与えられる喜びと豊かさが、この世にいっぱいになるでしょう。この創世記の預言に呼応して、真のメシアであられるイエス・キリストが来られ、カナの婚宴を通して、その始まりを示してくださったのです。 締め括り 我らの人生の葡萄酒は何ですか? ところで、説教を作成している途中、一つの悩みが生じました。私がいくらイエス様は、我らの花婿、葡萄酒だと声を限りに叫んでも、この世の中には、結婚式とか葡萄酒のような喜びと豊かさを享受出来ない人が、あまりにも多いということです。果たして私たちの人生の中で、この葡萄酒として象徴される喜びとは何でしょうか?毎日繰り返される生活、そんなに特別ではない人生、時には安らかではない状況を見て、果たして葡萄酒のようなキリストの恵みというのは、存在するのだろうかと疑うかも知れません。しかし、私はそのような状況の中でも、私たちを諦められず、常に共におられる神様の存在自体が葡萄酒のような豊かさではないかと思います。 私たちは、私たちがどこから来たのか、どこに行くのかということ、誰も知らない自分の苦しみと痛みを、神様だけは知ってくださること、いつも慰めてくださり、愛してくださることを知っています。まさに私たちに神様という喜びと豊かさの葡萄酒を与えてくださったイエス・キリストを通してですね。今、私の人生が輝いていなくても、その暗い挫折と痛みの場で、いつも私と一緒におられる、揺るがない神様を覚えてください。私たちの人生の葡萄酒は、まさに私たちと永遠におられる神様です。神様は、ご自分のご計画に従って、葡萄酒のような豊かな恵みを、ご自分の民の上に注いでくださると信じます。そして、これらの神様の愛は、私たちがこの世を去った、その後も絶えずに続くでしょう。その神様を信じて生きていきましょう。来たる一週間、花婿イエス・キリストから送られる豊かな恵みと愛がありますように祈ります。

今日、主の救いを見なさい。

今日、主の救いを見なさい。 出エジプト記 14章13-14節(旧116頁) コリントの信徒への手紙一1章24-31節(新300頁) 前置き、日本の非主流-キリスト教。 日本でキリスト教は徹底的な非主流です。日本にカトリック教会が入って来てから約500年、プロテスタント教会が入って来てから150年が経ちましたが、日本のキリスト教は、まだ1パーセントの壁を越えていません。なぜ、キリスト教は日本で目立つような成長が出来ないのでしょうか?多くのキリスト教の学者によると、様々な理由の中でも、特に神道のような日本の固有の宗教観の影響があるそうです。明治維新以降、日本は神道が基となる天皇制を中心として国を作ってきたそうです。そのため、多くの人々が、天皇制は非常に昔からあり、それを守ることが、日本の伝統だと思っているようです。しかし、日本キリスト教団の松谷好明牧師は、現代の形のような天皇制は明治以降生まれたと、自分の著書を通して明らかに語っています。江戸時代の天皇制の形は、今とはかなり異なり、日本人の精神世界の根幹までにはなっていなかったということです。江戸時代には神道より、仏教の影響力が強かったそうです。 明治維新を通して欧米の文物を取り入れた明治政府の指導者たちは、ヨーロッパの諸帝国の基となる精神が何なのかについて研究することになりました。彼らはヨーロッパの帝国の精神は、まさにキリスト教であることを悟るようになりました。そういうわけで、最初はキリスト教を日本に持って来ようとしました。『歴史にもしもはない。』という話がありますが、ひょっとしたらキリスト教が日本の国教になったかもしれません。しかし、最終的には日本とキリスト教は、あまりにも異質であることを悟るようになりました。彼らは欧米帝国にキリスト教があるように、日本にもそのような精神世界が必要だと思いました。結局、日本ではキリスト教の位置に神道を置き、それを中心として国を導きました。その時から、日本のキリスト教は、引き続き非主流の位置となりました。神道がある限り、日本のキリスト教は常に非主流としてあると思います。それかといって神道や天皇制を取り除こうするのではありません。いや、無くすことは全く出来ないでしょう。ただ私達は私達が非主流ということを認め、非主流が持っている長所を活かし、信仰を守る知恵を持って生きるべきでしょう。 1.大きく派手なもの、主流とは良いものだろうか? 今日、神道とキリスト教の話をした理由は、対抗しようという意味ではありません。ただ私たち、キリスト者はこの日本という国では、大きな勢力を持ちにくいということを話すためです。私は多くの日本の方々に、このような話を聞きました。 「神道というのは、日本人にとっては、まるで空気のようなものだ。日本人のDNAには、神道という精神が潜んでいる。」おそらく、日本人と神道は切っても切れない関係であるという意味でしょう。神道、天皇制は現代日本を成す非常に基本的な文化であり、精神的な基です。即ち神道と天皇制は、日本の主流文化です。イエス様が生きておられた頃、地中海を掌握したヘレニズムという主流の文化がありました。このヘレニズム文化は、地中海地域に住む人々の精神を支える強力な文化でした。ほぼ 全ての人がギリシャ語を上手く操ったり、ギリシャの文化が背景として敷かれたりしていました。ユダヤ人たちも、その文化の中で自由ではありませんでした。どこの国にでも、その国が成り立つ文化があり、精神があります。そのような文化を除いて国を説明することは難しいと思います。しかし、イエス様は、その中でも、福音を宣べ伝え、善を行い、神の国の到来を告げられました。ヘレニズムという文化、ローマ帝国という政治、ユダヤ人という伝統の中でも、イエス様は神の御言葉を教えられました。イエス様はヘレニズムを無くされませんでした。ユダヤ教も、そのまま置かれました。ただし、イエス様は御自分の御業をなさいました。 イエス様は非主流から始められました。しかし、非主流といって何も出来ないわけではありませんでした。非主流のイエス様から生まれた教えは、非主流にも拘わらず、輝いたのです。そして彼を信じた人たちは少ない人数であっても、神への愛と隣人への愛という主イエスの精神を受け継ぎ、自分の信仰を守り、世界の塩と光になるための人生を生きていきました。世の人々は、大きなもの、つまり主流が好きです。 20世紀の欧米列強は自国を成長させるために多くの国々を植民地としました。イギリスは大英帝国という名の他に「太陽の沈まない国」と呼ばれました。日本も大日本帝国という名で沖縄、朝鮮、台湾を始め、満州、中国、東南アジア、サハリンに国の広さを広げていきました。 20世紀は、広々として大きいものが善であり、強いのが善でありました。だから、20世紀に生まれ育ってきた人たちの精神界には「大きいのが良い。」という思想が隠れています。近い韓国を例として話したいと思います。就活中の若者たちは財閥を好みます。中小企業ではなく、大企業が好きで、小さな会社よりは、国家機関が好きです。教会も同じです。ソウルの汝矣島という地域には、70万人も登録されている教会もあります。人々は、そのような大きな教会を探していこうとします。そのため、小さな教会は疎外される場合もあります。しかし、果たして大きいことが本当にいいのでしょうか? 2.神は非主流を愛しておられます。 神様が、ご自分の民イスラエルを召された理由について、聖書はこう話しています。 『主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。』(申命記7:7)イスラエルの先祖アブラハムはカルデアのウル生まれの人でした。現代のイラク人の先祖とも言えます。彼は神像を作る職人であり、おそらく偶像を崇拝する者だったと考えられます。ところが、彼は神様に選ばれました。そして、遠く旅立つことになりました。彼はその頃、他の地域の王や皇帝たちに比べれば、あまりにも見窄らしい者でした。跡継ぎの息子もいませんでした。神の命令に聞き従い、カナンの地に辿り着いても、ちゃんとした領土もありませんでしたし、勢力も弱かったのです。しかし、彼には神様への堅い信仰がありました。神様は偉大な神、造り主、主ですので、すべてを成し遂げることができるという信頼を持っていました。彼は最も小さな者でしたが、最も大きな神様を信じたのです。それによって、アブラハムは神様に認められ、イスラエルという民族の祖先となったのです。 しかし、後には、このアブラハムの子孫であるイスラエルでさえ、エジプトと呼ばれる大きな帝国の奴隷として生きることになりました。当時のエジプトは地中海南東を支配する非常に強力な国でした。まるで、今の米国のような巨大国家でした。小さな者アブラハムの子孫、イスラエルも弱い民族でしたので、巨大国エジプトの権力に踏みにじられ、惨めに生きることになりました。しかし、神様は、イスラエルの小ささと弱さを用いられ、神様の御業を成し遂げようとされました。そのため、イスラエルの救いのために一晩でエジプトを滅ぼされました。神様は非主流であるイスラエルを通して、神の国を立てられ、イスラエルを介して、周辺国に神様の栄光と偉大さを伝えることを望まれました。もちろん、残念ながら、イスラエルの歴史は失敗してしまいましたが、神様は、この失敗したイスラエルで生まれたイエス・キリストを、領土と権力を超えて、真の王、最後の日には、全世界を裁かれる王として立てられました。イスラエルは失敗したように見えましたが、神様はこのイスラエルで生まれたイエス・キリストを通して、既に勝利を勝ち取られたのです。 神様は非主流を愛しておられます。 『そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。』(マタイ18:14)『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:40)神様は、非主流の弱さを強さに変えてくださり、その弱さを通して働くことを喜ばれます。神様の御子イエス・キリストが飼い葉桶で生まれたことをお考え頂きたいと思います。全能の神であるイエス・キリストが人間として肉体を持って来られたのをお考え頂きたいと思います。塵のような人間に限りのない愛を施される神様の愛をもお考え頂きたいと思います。小さくても、神様は決して、私達教会を諦められません。150年の間に1%の壁を越えられない現実に無力感を感じるキリスト者がいるかもしれません。日本の教会は小さな群れだ、決して大きくはなれないと思う人がいるかもしれません。しかし、我々は悟らなければなりません。大きいのが良いものではありません。大きいのが正しいものでもありません。主流が良いものだとは言えません。唯一私たちに必要なのは、神様が変わらず私たちを愛しておられるという信仰であり、ひたすらに私たちが信じるべきことは、非主流である存在を取られ、主流よりも大切に用いられる神様の力です。 3.神様は非主流を通して、働かれる方である。 アブラハムは、偶像を作って生活する平凡な、カルテデア人でした。モーセはエジプトから追い出されたイスラエルの奴隷の息子でした​​。ルツはモアブから来た異邦人の寡婦でした。ダビデは8人兄弟の末っ子なので、父に認められない少年でした。イエスは、大工の息子でした。弟子たちは田舎の漁師でした。しかし、神様は彼らを用いられ、当たり前ではないことを、当然に成し遂げられました。『その日、主はエルサレムの住民のために盾となられる。その日、彼らの中で最も弱い者もダビデのようになり、ダビデの家は彼らにとって神のように、彼らに先立つ主の御使いのようになる。』(ゼカリヤ12:8)弱い者を特別に用いられる神様は、弱い者を通して歴史を導いて行かれました。神様において、ただ大きくて強いものには何の意味もありません。ある科学雑誌を見ると、これまで見つかった最大の星の大きさが、太陽の1300倍だそうです。ちなみに太陽は地球の109倍です。その大きな星すら、神様に創られたと言えば、果たして、この地上の誰が神様に、『私は強い存在である。』『私は偉大な存在である。』と言うことが出来るのでしょうか?ここに相応しい(ふさわしい)言葉があります。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(ペテロ一1:24-25)  神様は誰よりも強い方ですので、強い者を必要としておられません。ただ、神様は、いくら弱い存在であっても、神様を信頼する者を喜ばれます。そして、神様を信頼する者のために喜んで彼らの道を導かれる方です。神様は今日も私たちのために戦ってくださいます。私たちが神の福音に従い、神の善を行い、イエス・キリストを救い主として信じて、愛するとき、神様は私たちのために戦われ、勝利を勝ち取ってくださるのです。私たちの戦いは、力を伸ばし、教勢が強くなる戦いではありません。私たちの戦いは、神道や仏教への戦いでもありません。私たちの戦いは、愛のない世に愛を与える戦いであり、神様を知らない世に神様の御業を宣べ伝える戦いです。私たちは非主流です。しかし、私たちの敵は主流ではありません。私たちが戦わなければならない相手は、非主流であるから、諦めなさいとする邪悪な悪魔の声に対する戦いであります。私たちは弱いですが、強力な神様は、私たちの数に構いなく、私たちのために一緒に戦ってくださるのです。愛と奉仕と伝道を通して数は少ないですけれども、神様に用いられる私たちになることを願います。 締め括り 今日、我らのために戦って下さる主の救いをご覧なさい。 目の前には、巨大な紅海があります。民の手には剣も、盾も、何もありません。素早い兵車もありません。しかし、背後には、エジプトの強力な軍隊が追って来ています。すぐに殺されるかもしれません。人々は恐怖に包まれて悲鳴を上げています。阿鼻叫喚です。しかし、神様を信頼していたモーセは、民に大胆に宣言します。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。』(出エジプト14:13)神様は弱い者を愛し、助けることを喜ばれます。しかし、その弱い者は、信仰が無くてはなりません。志免教会は小さいです。それでも私たちは福音を伝えることが出来、近所の人々に仕えることが出来、信仰を持って神様を礼拝することが出来ます。結果は、神様に委ねて、私たちは、私たちの信仰と奉仕に力を尽くすべきでしょう。小さい者たちを喜んで用いられる神様を信じます。神様の救いが、私達、志免教会によって、この福岡に広げられることを望みます。

食べることと聖餐

出エジプト記 24章1-11節(旧134頁) ルカによる福音書22章19-20節(新154頁) 食べることと聖餐。 『食べる』という行為。 「生きるために食べよ、食べるために生きてはならない。」これは、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスの名言です。これは単純に何かを食べるという意味ではなく、食べるという言葉で象徴される欲求について、その欲望に駆られず、人間らしく生きようという意味に理解することが出来ると思います。このように、食べるということは、人間が持っている本能的な欲望を抱く行為です。人は食物を食べなくては生きることが出来ません。食べるという行為は、人間の欲望と生存の間でハラハラする綱渡りのような、深い意味を持っている本能です。食べるという行為は、人間の生命と直結している問題です。ですから、私たちは、いつも食べることについて、深い関心を持って生きるべきだと思います。食べることは、人間の善と悪を包括する、善と悪の両面性を含んでいる非常に大事な行為です。私たちは、この食べるという行為を通して、神様から祝福を受け、また、裁かれます。今日は教会で最も代表的な食べる行為、聖餐について話したいと思います。なぜ、神様は、聖餐という食べる行為を通して、私たちの信仰を告白させ、教会を建てさせたのでしょうか? 1.変質してしまった『食べる』という行為。 神様は人間を創造され、『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』と祝福されました。そして、まもなく『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。』と言われました。神様が人間を造られた理由は、その人間が繁栄し、地に満ちて、世界を支配し、それを通して神様に礼拝することを望んでおられたからです。神様はそのような人間に『食べる』という行為を祝福として与えられたのです。人間にとって食事とは、他の被造物を支配し、神様に仕えることが出来る力を得るための祝福です。このような意味から考えてみれば、この食事という概念は、単に自分の欲望を満たす、ただ楽しむための手段ではないことが分かります。食事は、私たちが世界を立派に治めるために、私たちに与えられた祝福です。人間は世界を立派に支配し、それを通して神様を崇め、神に栄光を帰すために食べるのです。 創世記1章28節の「支配する」という言葉は、私たちが考えている暴力的な征服や支配とは少し違う表現です。戦争して略奪するという意味ではありません。初めの人は、罪のない存在でした。罪がないので、一切の不正な行為、罪を伴う行為をまだ行わない存在でした。彼らの中に神の形が完璧に残っていた時でした。当時の人は罪を犯したくても犯すことが出来ない状態でした。そのような状況で適用される『支配』という言葉は、暴力や戦争のようなものではなく、神様のように正しくて美しく被造物を守り、面倒を見るという意味で解釈することが、より正しいと思います。神様は暴力や、抑圧ではなく、愛と正義で被造物を支配されるからです。食事を通して力を得た人間は愛と正義を持って他の被造物を守り、そのような行為を通して神様に栄光を帰す存在でした。 こういう意味で、食べるという行為は、単に欲望を満たす行為ではありません。善を行うための、神の贈り物であり、人間の原動力でした。しかし、この聖なる行為、食べるという行為が、人間の罪によって変質されました。アダムは神様の玉座を奪おうとする欲求のために、神様が禁じられた『知識の木の実』を取って食べてしましました。愛と正義を行うために何かを食べたのではなく、ひたすら自分の欲望と必要のために食べたのです。その瞬間、この世に罪が入ってきたのです。食べて罪を犯しました。神様に捧げるべき善を行うための食べるという行為ではなく、自分の欲望を満たすための行為としての『食べる』に変質させたのです。生命の行為が、死の行為に変わりました。祝福のための行為が、呪いをもたらす行為となってしまいました。 2.食べることの重要さ。 ですから、聖書に出て来る「飲み食い」という言葉は、祝福かつ呪いを意味する場合が多いです。イエス様はルカ17:27で『ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。』と言われました。神様の祝福のために人間に与えられた「食べる」という行為が人間の罪のゆえに、人間の邪悪な欲望を象徴する代名詞となってしまったのです。この食べるという人間の本能のため、世の中には歴史上、本当に多くの悲劇がありました。ペルシャ、ローマのような古代の帝国も、最初は小さな村から始まりました。肥沃な土地で平和に住んでいた小さな部族は、少しずつ人口が増加しました。人口が増えるにつれて、食糧が足りなくなってきました。食糧は足りなくなり、冬は早く訪れて来ました。自分の部族を生かすためには、隣の村を攻めました。そして、罪のない人々を殺しました。食糧を奪いました。村は大きくなりました。自分の村や民族を生かすために戦争を起こしました。そのように征服に征服を重ねて、最初の小さな村は、国になり、国は帝国になりました。数多くの人々が一国の食べ物のために殺され、多くの国々が略奪されたのです。これ帝国が生まれた過程です。 神様がエデンの園を造られ、アダムに最初にくださったのは、この食べ物でした。しかし、アダムが堕落して神を背いた時、最初に召上げられたのも、食べ物でした。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。お前は顔に汗を流してパンを得る。塵にすぎないお前は塵に返る。』(創世記3:17-19)食べ物は容易く(たやすく)得られるものではありません。食べるということは、このように重要な神様の祝福です。神様が与えられる食べ物が消えると、人間は食べるもののために、他の存在に害を及ぼす邪悪な存在になっていきます。神様は、呪われた人間に一生苦しんで、食べ物を得よと命じられましたが、罪を持っている人間は、その労苦の代わりに他の存在への略奪と侵略によって解決しようとしました。そのような副作用により、世界は阿鼻叫喚になってしまいました。食べるために他者の食べ物を奪い、人を殺し、民族を破壊しました。自分の食べ物のために他者の食べ物を奪う理念。これが帝国主義の基となりました。 このような世の中で、神様はご自分の民イスラエルを呼ばれたのです。自分の食べ物のためにイスラエルを弾圧したエジプト帝国を酷く(むごく)滅ぼされ、そこからイスラエルを呼び出されました。神様は彼らに天の食糧であるマナを下さり、ウズラと水をくださいました。そして、最終的に乳と蜜の流れる地に導かれたのです。アダムは失敗したが、神様は再び神の美しい民を作るためにイスラエルに食べ物を与えてくださったのです。そのように今日の本文に出てくる話まで続いてきたのです。神様は神の山にモーセと祭司と70人の長老たちを呼び集められました。そして彼らのための和解の生け贄を捧げさせ、契約を結ばれました。神は牛の焼き尽くす献げ物をお受けになり、その血を契約の血とされ、イスラエルの罪を贖われました。イスラエルはその神様と共に飲み食い、神の民として生まれ変わりました。他者の食べ物を奪い取る世界で、神様は食べ物をくださる方でした。 3.聖餐 – 食べることによって、新たに始まる交わり。 今日、行われる聖餐は、このように食べ物をくださる神様の御恵みに似ています。神様が許された「食べるという行為」を通して、民が再び神様に戻って行く礼典です。罪によって汚れた「食べるという行為」から脱し、純粋に神様と仲直りし、隣人と一緒に交わることが出来るようになる生命の行為です。イエス様は十字架につけられる前夜、弟子たちを呼び集め、過越しの晩餐会を施されました。『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。』(コリント11:23-25)初めに人が食べて犯した罪を、新しく『食べる』ということによって解決されるため、イエス様はご自分の血を象徴する杯と、ご自分の肉を象徴するパンで弟子たちお腹を満たされました。出エジプト記のモーセと長老たちが神様から与えられた食べ物を飲み食いしながら、神様と和解したように、イエス様は、ご自分の血と肉を通して人々を召され、契約を結ばれ、和解されたのです。これらの契約の食事を通して神様は人間との交わりを求められつつ、人間と人間の美しい交わりを望んでおられたのです。 私たちは、今日杯とパンに与かります。その食べるという行為を通して、神の民である私たちは、御前に立ちます。今もなお、この世は自分の欲望と悪を満たすために何かを食い尽くそうと探し回ります。その食べるということのために周りの人々を苦しめる場合も頻繁に起こります。自分自身と自分の家族と自分の共同体のために他の人々を苦しめることを当たり前に思う人が、依然として存在します。しかし、神様は違う方です。御子イエス・キリストを犠牲にさせ、イエスの血と肉を象徴する葡萄酒とパンを通して罪人に命の食べ物を与えてくださいます。神様が命の食べ物をくださるという象徴、我々がじかに飲み食いして経験する象徴、その象徴がまさに今日、私たちが行う聖餐なのです。この杯とパンに与かる私たちは、キリストの血と肉を分かち合い、キリストの体として生まれ変わります。そして、これからは自分の欲望のために悪を満たす生き方を捨てて、キリストの愛と正義を通して善を行うために生きていく人生を誓うのです。このような私たちに神様は永遠の命の契約を与えられたのです。これらの聖餐の精神の中に隠れている聖霊が私達に聖徒の交わりを味わうことが出来る恵みを注いでくださるのです。 締め括り。命の木の果実の回復 – イエス・キリスト。 エデンの園には、知識の木の実のほか、命の木の果実があったそうです。それは永遠の命を与える木の実だったそうです。創世記に出て来る命の木の実は、真の救いと恵みを意味するシンボルです。無くなった神の園に永遠の命があったということです。しかし、罪によって追い出されたアダムはその命の木の実を食べることができなくなってしまいました。言い替えれば永遠の死にさらされたということです。しかし、神様は、イエス・キリストを通して私たちが命を得ることが出来る機会を与えてくださいました。肉体は死んでも、魂は生き残って神様と共におり、終わりの日には肉体の復活を通して、罪のない完全な体を取り戻して神の国で永遠に生きることです。その無くなった命の木の実として、私たちにイエス・キリストが許されたのです。私たちが、聖餐に与かり、主イエスの肉と血を食べるということは、この失われた命の木の実を食べるに等しいことです。直接、私たちの口でこれを飲み食いして、失った命の木を、イエス・キリストの救いと愛を通して再び食べるということです。聖餐を通して、初めに神様からいただいた食事の意味を悟り、欲望のための食べる人生ではなく、善を行うための食べる人生になることを望みます。キリストの肉と血を分かち合った、私たちは正しくこの世を支配して神様の愛と正義が満ちた世界を造るために、真心を込めて聖餐に臨むべきだと思います。

祈るときには。金泰仁 伝道師(小倉教会)

ルカによる福音書11章1-10節(新127頁) 弟子たちの求めに応えて主イエスが、具体的な祈りの言葉でとして「主の祈り」を教えて下いました。祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主が、それを補足するように5節に、「また、弟子たちに言われた」と記されています。口語訳では、「そして彼らに言われた」と訳されています。原文には「弟子たち」という言葉はなく、「彼ら」と言う言葉が用いられています。ここに記されている、「彼ら」とは、1節に弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言う願いに、主イエスが、「祈るときには、こう言いなさい」と言われて、主が祈りを教えて下さいました。ですから「彼ら」とは弟子たちのことであり、内容的には「弟子たちに言われた」と訳しても間違いではありません。 「弟子たちに言われた」という訳では、主イエスが弟子たちに新たな教えを語り始められた、ということになります。しかし原文は「彼ら」と言っているのであって、4節までの主イエスのみ言葉を聞いた、その彼らに対してさらにこのことが語られているのです。5節の冒頭にある接続詞を(英語で言えばandに当る言葉)は「また」、「そして」、「すると」、「ところが」など様々に訳せる言葉です。その違いは、この接続詞が前の文と後の文をどのように結びつけているのかによります。「また」と訳すと、それまで語られてきたことの並列的な別の内容であることを意識させます。「そして」と訳すと、さらに話が続き、発展していくことを意識させます。ですから、5節では、「そして」の方が相応しいと思います。「彼ら」という言葉から、それまでと別の新しい話を始めているのではなくて、その前の話の続きなのです。「また、弟子たちに言われた」は、文法的には間違っていませんが、語られていることを正しく理解することを妨げています。「そして彼らに言われた」事らの方が本来の意味を表している訳だと私は思います。細かいところですがとても大切なところです。 主イエスはここで一つのたとえ話を語られました。真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、というたとえです。別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったが、その人に食べさせるものが家になかったから、そのように真夜中に友達にパンを求めたのです。当時の社会においては、旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて援助を求めることができました。またそれを求められた人はできる限りのことをして旅人をもてなさなしていたのです。なぜなら、当時の旅行は、危険な荒れ地を命がけで通らなくてはなりません。荒れ野では、水や食料を補給することは容易ではありません。空腹や渇きによって行き倒れてしまう人も多くいました。客人をもてなすとは、歓迎してごちそうを振る舞うのではなく、飢え、渇いている旅人の命を助けるという意味であり、旅人をもてなさず、受け入れなければ、その人は死ぬことになります。つまり、間接的な殺人になるのです。ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然のこと、なすべきことです。 7節「すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。と記されています。真夜中に、客人をもてなすパンの無い人が、近くの家に助けを求めたときの、友人のあきらかに迷惑そうな対応が記されています。8節に、「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。と記されています。主イエスがこのたとえによって語ろうとしておられることの中心がここにあります。確かにこんなことは迷惑なことだから、たとえ友達でも断られるだろう、しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるのだ、と主イエスは言っておられるのです。主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という教えをお語りになったのです。 これは、祈りについての教えです。主イエスは、祈ることを教え、祈りの言葉を教えると共に、祈りにおける心構えを、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると信じて祈るように、と教えて下さったのです。私はここに、いくつかの疑問を覚えます。一つには、真夜中に友人の家にパンを借りにいくこの話が、祈りについてのたとえであるとするなら、この友人が神様のことだということになります。そうであるならば、神様が私たちの祈りに応えて下さり、祈りを聞いて下さるのは、「しつように頼めば」、私たちが神様の迷惑を顧みずにしつこく祈り続けることによって、神様もついに根負けして、仕方なく聞いて下さるということなのか、という疑問です。 さらにもう一つの疑問は、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。 ここに、祈り求めればそれは必ず与えられ事が示されています。しかし、祈り求めてもかなえられない、与えられないものがある、ということを私たちは体験しています。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできない、と感じることも多く有るのです。11-12節に、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。と記されています。親は、魚を欲しがる子供に蛇を与え、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしません。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを与える親はいません。13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」とあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」とは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間でも、ということです。  私たちは、神様をないがしろにし、隣人を愛することできない罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供は愛し、良い物を与えます。主イエスは、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を見つめさせることを通して、それよりもはるかに大きく深く広い、天の父である神様の愛を見させようとしておられるのです。7節の友人の姿は、神様ではなくて、私たち罪ある人間の姿を表しています。私たちは、友人だからという純粋な愛によってでは無く、しつこく言ってきてうるさいく迷惑だからと言う理由で、人のために動くような者です。それが、「悪い者である」私たちの姿とも言えます。しかし天の父は、様々な状況や動機によってではなく、喜んで、あなたがたに良い物を与えて下さる、主イエスはそのように語っておられるのです。 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、天の父である神様が喜んで、進んで、あなたがたに良い物を与えようとしておられる、ということを語っているのです。これは、求めれば得られることになっている、とう法則を示すものでは無く、天の父である神様が私たちに対してどのようなみ心を持っておられるのか、どれほど私たちを愛して下さっているのか、ということを示しているのです。 13節に、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と記されています。マタイでは、「求める者に良い物をくださる」と記されています。天の父なる神様が私たちの祈りに答えて与えて下さる良い物とは聖霊であるのです。ローマ書8:14-15に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。と記されています。 聖霊は私たちを「神の子」として下さるのです。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけて祈る者とされるのです。聖霊は、私たちを救い主イエス・キリストと結びつけ、それによって私たちをも神の子とし、神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈る者として下さるのです。天の父が求める者に与えてくださるのはこの聖霊です。聖霊を与えることによって神様は私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。このことこそ、神様が私たちに与えて下さる「良い物」です。二つ目として、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるのだろうか、という疑問です。私たちは祈り求めるものは何でもその通りに適えられる、と理解します。そんなことはありません。このみ言葉は、神様は父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んで下さるという約束を語っているのです。私たちは、子の求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりのままに与える、ということではありません。 子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今はあたえるべきでない、今はその時でないと考えれば、我慢させます。子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもありますが、そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。そのような関係なしにこの言葉を読むと、神様を人間の欲望を何でも適える便利な物、内出の小槌と見なしてしまうことになるのです。主イエスは1-13節を通して祈りを教え、具体的な祈りの言葉「主の祈り」を与えて下さいました。その祈りにおいて私たちは、神様に向かって「父よ」と呼びかけ、神様の子とされて生きる恵みを味わいます。 その恵みの中で私たちは、神様のみ名こそが崇められることを求める者となります。神様のご支配の完成、御国の到来を求めこの世を生きる者となります。私たちが生きるために必要な糧を全て神様が与えて下さることを信じ、神様の養いを日々求めて生きる者となります。神様に対して罪を犯し、自分の力でそれを償うことはできないことを知り、神様による罪の赦しを祈り求める者となります。そしてそのことは、自分に対して罪を犯す者を自分も赦すということなしにはあり得ないことを思い、赦しに生きることを真剣に求めていく者となります。常に誘惑にさらされ、神様の恵みから引き離されそうになる自分を守ってくださいと願いつつ歩むものとなります。神様はこの私たちの祈りを天の父として聞き、私たちに本当に必要なものを与えて下さいます。 私たちに本当に必要なものは、神様との父と子としての関係、交わりです。その関係を築いて下さる聖霊、神の子とする霊を、神様は与えて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスと共に神様を父と呼ぶ者とされます。つまり、主の祈りを心から祈る者とされるのです。主の祈りは祈りの言葉の一つではなくて、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。この祈りを祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。8節の「しつように頼めば」という言葉は、「恥を知らないことによって」とも訳せます。神様は、私たちが、恥知らずなぐらいに祈ること

祈りを教えてください。

歴代誌下7章14節(旧679頁) マタイによる福音書6章5-8節(新9頁)  祈りを教えてください。 前置き 祈る人の例え話し。 ディートリッヒ・ボンヘッファーは、ドイツの有名な神学者です。彼はナチスが支配していた、ドイツ教会のルーテル教会の牧師でした。 21歳で神学博士になるほどの素晴らしい人材でした。このボンヘッファー牧師は、いくらでも楽な道を選ぶことが出来る人でした。第2次世界大戦の当時、アメリカの市民権を得て、帰化することも出来る状況でした。しかし、彼は神の御前で正しい道を行くべきだと思いました。ですので、彼はナチスドイツに戻って行くことを選んだのです。当時、ドイツはナチスによって暴力の道を歩んで行きました。数多くの命を虐殺しました。また、殆どのドイツ教会がナチスの下にありました。その時、ボンヘッファーはこう思いました。 『気違いの運転手がバスを運転している時、牧師は車に轢かれて死んでいく人を葬ることだけに満足すべきだろうか?それとも、その運転者を引き下ろすべきだろうか。』そして、彼はヒトラーの失脚のために、ある作戦に協力します。しかし、作戦は失敗してしまい、ボンヘッファーは逮捕され、2年後、刑場の露と消えました。 このボンヘッファーは夜明けごとに神様に祈ったそうです。祈りを通して、どっちが正しい道なのか、いつも悩んで生きたそうです。なので、今も彼を尊敬する人が非常に多いそうです。私も尊敬せざるを得ません。そんな彼が祈りについて、このような話を残したと言われます。 『私たちが虚しく費やした時間、堪えられなかった誘惑、弱さと落胆の中で生きること。私たちの生活の中で示される放縦は、多くの場合、朝の祈りを疎かにすることにあるかも知れない。』自分の安泰と出世よりも、どの道が正義の道なのか、悩み、自ら厳しい道を選び、結局、殉教して人生を終えたボンヘッファーは、祈ることにより、自分自身を叱咤しながら生き続けました。そして、その祈りの生のために殉教して生を終わります。祈りというのは願いを叶えるための打ち出の小槌ではありません。祈りとは、神様と信徒の連結の輪です。時には命をかけて守るべき、神の真理の追求です。私たちの祈りはどうでしょうか?今の私たちの祈りが、果たして神様に喜ばれる祈りなのかどうか、考えて見るべきだと思います。 1.我々の祈りは、イエス・キリストを通して、天に上げられます。 「あなたは天からその祈りと願いに耳を傾け、彼らを助けてください。(歴代誌下6:35)」ソロモン王はエルサレムに神殿を建て、民を代表して祈りました。歴代誌下6章を読むと、ソロモンの祈りを読むことが出来ます。今週は、歴代誌下6章と7章を丁寧に読んでいただくことをお勧めします。神殿を完成したソロモン王は、神殿を眺めながら、その神殿で祈る時、神様がご自分の民を哀れんで、助けられ、最後まで導いてくださることを願いました。ソロモン王はイスラエルの神様だけがイスラエルの主であり、助けてくださる全能者だと認めて祈りました。すると、神様はその夜にソロモン王に現れ、今日の旧約本文に記されているように言われたのです。 『もし、私の名をもって呼ばれている私の民が、跪いて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。』(歴代誌下7:14) 神様はソロモン王が捧げた神殿をご自分の民の祈りを聞かれる場所、特別な場所にされました。 「今後この所で捧げられる祈りに、私の目を向け、耳を傾ける。 今後、私はこの神殿を選んで聖別し、そこに私の名をいつまでも留める。私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16)、イスラエルの神殿は、特別な所です。実際、神殿という概念は、出エジプト記の時代にもありました。その時は、幕屋と呼ばれる小さな一時的な建物でしたが、そこには、神がじかに刻んでくださった十戒の石板が入った契約の箱を置いた聖なる場所でした。契約の箱は神の足台とよばれましたが、これは神様がこの地上に直接、関わっておられるということを意味します。人間の罪のゆえに、神様との関係が切れたこの世の中に、神様は積極的に関わられ、特に神様が選ばれた民と一緒におられることを意味する、神の臨在を象徴する建物でした。ところで、ソロモン王は、その幕屋を更に大きくアップグレードして、そこから神様が「神の名をもって呼ばれている神の民」と共におられることを望まれたということです。ですが、これは、単にイスラエルの民だけに限られることではありません。周りの他の民族が神殿に来て、神の御前にひれ伏し、主を認めて、へりくだって祈る時、彼らの祈りも聞かれ、癒してくださり、あの神殿を救いの象徴とされるという意味です。神様はこのように旧約時代から神殿を通して、主の民と、また主に戻ってくる異邦人たちを問わず、共におられる方でした。 神殿で祈るとき、神様は祈る者を助けてくださり、癒してくださると仰いました。それでは、この神殿というものが持っている意味を、現代のキリスト者は、どのように理解すべきでしょうか?私は前に他の説教を通して、旧約聖書に記されている神殿が新約のイエス・キリストを意味する重要な象徴であると強調しました。これは新約聖書からも知ることが出来ます。 『イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。』(ヨハネ2:19-21)旧約聖書の神殿は、神様がご自分の民に会ってくださる所でした。神様の民も、神様を認める異邦人も、この神殿に来て、神の御前で祈ることが出来たのです。もちろん、イエス・キリストは、建物ではありません。しかし、象徴的に見ると、イエス様を通して、私たちの祈りが神様に届きます。神殿は祈りの家でした。祈りを通して神様に会う所でした。そして、私たちが生きている今、現代は、神様が神殿だと認められたイエス・キリストを通して祈ることが出来るようになりました。私たちが祈りを終える時、いつも「主イエス・キリストの御名によって祈ります。」と唱えることには、このような意味が隠れているのです。昔の神の民は、神殿で祈りました。つまり、私たちはイエス・キリストの御名によって祈るべきです。別の名を介しては、私たちの祈りが父なる神様に至ることが出来ません。神様が「私の名をもって呼ばれている私の民」と言われた部分を思い起こして頂きたいと思います。私たちが神様が許された、その名前、イエス・キリストの名によって祈るとき、私たちの祈りは、神殿で捧げられた神の民の祈りとなるのです。 2.私たちの祈りは、神の御心に自分の心を合わせる調律です。 今日の新約本文は、イエス様が弟子たちに「主の祈り」を教えてくださる前に言われた言葉です。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:6)イエス様の時代には、ラビや宗教指導者が広い街や、神殿の庭で他者に目立つように大声で祈る場合があったと言われます。そのような祈りを通して、「私はこんなに素敵な祈りをする。律法についてよく知らない、君たちより、私ははるかに義人である。私は君たちとは違う。」ということを見せて、自分の義を誇るためでした。しかし、イエス様はむしろ、小部屋に入って、ひそかに神様に祈ることを命じられました。祈りは他者に見せるために、あるいは自分自身の欲望を満たすためにすることではありません。 旧約時代、神殿では祭司が1日3回の祈りをささげたそうです。これは、ある種の目に見えない生け贄でした。まるで犠牲の獣を屠って、神様に祭事として捧げることのように、この祈りを通して、自分自身を神様に捧げたということです。獣を屠り、その血を祭壇に振り掛け、神様に生け贄を捧げることのように、祈りを通して自分の欲望、悪、罪を徹底的に棄てて、自分は神に捧げ、神様に相応しい新しい者として生きていくことを切に願うという行為でした。このような意味としての祈りは、むしろ義を誇るのではなく、自分の不正なことを神様に告げる行為であり、悔い改めの行為でした。ところが、当時のラビや宗教家が人々の前で自分の義を誇るというのは、祈りの精神を非常に損なう行為でした。イエス様は、そのような祈りは、間違っているものであり、正しくない行いであることを教えてくださったのです。 皆さん、祈りは調律です。演奏者は、演奏の前に基準音に合わせて調律をします。オーケストラの公演に行くと、公演を始める前に、オーボエ奏者が『ラ音』を出すそうです。この音に合わせて全ての楽器は調律します。これが基準音です。祈りは、神の基準音、すなわち、神の御心に、信徒が自分の基準を合わせる行為です。祈りを通して神様の御心を基準音として認め、それに従って生きていくということです。ですので、私たちは、調律の祈りをするべきです。自分自身の欲望と罪を神の御前で抑え切って、神の御心に沿って行くことを求める行為です。だから、自分の願いを叶えようとする意図だけでは、完全な祈りを捧げることは出来ません。もちろん、私たちは、経済、子供、健康、人間関係のために祈る必要があると思います。しかし、その祈りは私たちの弱さを告白する祈りとなる必要があります。自分が金持ちになり、権力者になって、欲を満たす祈りではなく、自分の祈りを通して、経済、子供、健康、人間関係への自分の弱さを告白するということです。叶えてくださるにせよ、拒まれるにせよ、神様に自分の事情を打ち明けることが大事だということです。そして、神様が与えられるお答えに応じて、願いが叶っても感謝し、叶わなくても感謝することが重要です。そして、そのような祈りの中で最も重要なことは、神様の御心が何かを悟り、それに自分の心を共に重ねていくことです。イエス様はこのような調律としての祈りを強調されたのです。 3.主に寄り掛かって祈りましょう。 皆さん、神様はイエス・キリストを現代の神殿にされました。私たちが主に頼って祈る時、その祈りを聞いてくださいます。皆さん、この教会堂は神殿ではありません。ただ建物に過ぎないのです。もし、この教会堂がなくても、我々は公園に集まって、礼拝することが出来ます。誰かの家に集まって祈ることも出来ます。会堂がなくても礼拝も、祈りも可能です。しかし、神様が私たちに与えられた真の神殿であるイエス・キリストがなければ、私たちの祈りは、一かけらも御父に届くことが出来ないのです。皆さん、また祈りは神の御心に自分の心を合わせる調律です。神が臨んでおられることを自分の基準にして、その基準に自分を合わせることです。その基準に合わせて、神様は私達の願いを叶えてくださったり、拒んだりするのです。しかし、その神様の御心に従って、叶っても感謝、叶わなくても感謝する成熟した信仰を持っている私たちになりますように心から願います。 皆さんの祈りましょう。イエス・キリストに頼って祈りましょう。そして、その祈りを自分の欲望と必要だけのためにせず、神様の御心が何なのか?自分がどのように神の御心を悟って行くべきだろうかについて祈りましょう。 『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』(マタイ6:8)神は、すでに私たちに何が必要なのかがご存じです。神の御心に合わせて、私たちに必要な祈りを聞かれ、その願いを叶えてくださると信じます。しかし、時には、自分の思いが神様の御心に合わない場合、拒まれるかも知れません。でも絶望せず、神様の正しさを信じて従って行きましょう。神は、あなたを愛しておられます。神は、あなたが最も良い道に行くことを望んでおられます。私たちに良いものを与えてくださる神様を信じて、私たちは何を祈って行くべきかについて、毎日、へりくだり、主に伺って行きましょう。その時、神様は私たちに最も必要なものを喜んで答えてくださるのでしょう。 締め括り 今後の祈りを通して、私達の人生を通して、神様が許されたイエス・キリストの御名によって、神様に自分を捧げて、神の御心に自分を合わせて、へりくだって真実な祈りを捧げたいと思います。私もこのような祈りの生活で皆さんと一緒に祈って行きたいと思います。常に神様の御心に集中し、その御心を私達の基準として生きて行きましょう。真実な祈りを持って神様に喜ばれる志免教会になりますように祈ります。

頼もしい友達,主イエス・キリスト

詩編118編1-14節(旧957) ヨハネによる福音書15章13-15節(新199) 頼もしい友達、主イエス・キリスト 前置き あやふやな未来、誰が一緒に歩んでくれるか。 何日か前、夕方の散歩道で、羽化しているセミの幼虫に出会いました。近づいている私を見てちょこっと動きましたが、逃げられませんでした。まだ、胴と翼が生乾きだったためです。7年という長い間を真っ暗な地底で育った彼は、もうすぐ飛び上がるところだったのでしょう。もちろん、私は何もせず、『頑張れよ!』と言ってそこを立ち去りましたが、もし、私が獲物を探している鳥だったら、このセミは餌食になってしまったかも知れません。このセミは今日、ある一抱えもあるような木にとまって楽しく鳴いたんでしょうか?それとも、ある鳥のフンになって寂しく土に戻っていったんでしょうか?セミの最後の夏を応援したい気持ちになります。 長い時間、次の段階を準備してきた人が、最後の段階で思いがけず、ひどい目にあって躓いてしまう場合があります。さらに将来が見えないようになってしまうこともあります。人の人生は『一寸先は闇』という諺のように未来は、いつも不透明です。この一匹のセミのように弱い存在が、まさに人間ではないでしょうか。明日、私たちはどうなっているのでしょうか。天地の造り主、全能なる神様は今日もこのような弱い者を招いておられます。セミより、はるかに大事なあなたを神様は愛し、守る事を望んでおられます。未来がまったく見えないあなたへ、あなたの未来に向かって共に歩んで行こうと語られる神様を紹介します。彼はイエス・キリストの父なる神様であられます。 1.御父の御心。 今日の旧約聖書の本文である詩篇118篇はイスラエルの民が強大な国に征服され、70年近くの非常に苦しい時代を経た後、解き放され、再びイスラエルに戻って来て、神様に捧げる礼拝のために作成した詩です。大国の捕囚になったイスラエルが、故郷に帰って来て、非常に長く悲しい記憶を後にし、最後まで民を見守り、再び礼拝できるように助けてくださった神様に感謝と愛を告白する詩です。昔、イスラエルを征服し、イスラエルの民を捕囚として連行した国、バビロンは、イスラエルの力では絶対に勝つことができない強力な国でした。その国が自滅しない限り、100年も1000年も続く強力な国であったのです。しかし、聖書では、神様が、ペルシャのキュロス皇帝を立てられ、バビロンを滅ぼされたと記されています。そのキュロス皇帝はバビロンの征服後、バビロンとは違う方法で異民族が固有の文化や宗教を守ることを許しました。これによって、イスラエルは帰還することになりました。国家イスラエルは滅びましたが、神様はイスラエル民族を捨てられず、将来の準備をなさったのです。今日の旧約聖書の本文は、そのような状況の中で神を賛美するために作られたものです。 この詩編を作成した人は、「主に感謝せよ。」と言っています。「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。」という言葉のように、神様がご自分の民を助けてくださったからです。また、詩編の著者は、「主は私の味方、私は誰を恐れよう。」と書き、神様がご自分に寄り掛かる者の味方になってくださるとも書きました。皆さん、私たちが信じている神様は、単に多くの神々の中の一人の神様ではありません。旧約聖書の創世記は、神様が天と地と万物を造られたと証言しています。イスラエルという民族が生まれる前から、いやこの世界が形を持つ前から神様はおられました。そして、この神様は、初めから終わりまで全てを治められ、愛と正義を通して、世を統治される全能なる御方です。そのような神様が直に(じかに)ご自分に頼る者のために味方になってくださると仰ったのです。この果ての無い広々とした宇宙で、ただ小さい一点のような地球の片隅にある志免町で、目に見えてもいないほどの小さな私たちのために偉大な神様が味方になってくださると仰ったという意味です。 創世記を読むと、神様が世界を造られ、この世界の中に人を立てられたと記されています。そして、この人と世界を御覧になり、極めて良かったと言われました。そのような神様の御心は時間と空間を越えて今もなお、有効です。造り主である神様は今もこの世界と人々を愛しておられます。そして、神様に寄り掛かる人々を積極的に探しておられます。私達の目に見えず、我々の耳に聞こえず、我らの手で触れることはできませんが、それでも心の目と耳とを通して私たちに訴えておられます。『私はお前の味方だ。私を信じなさい。私のところに来なさい。』今日、私が伝える、この説教が御父の切実な呼び掛けだと信じます。神様はあなたを愛しておられます。神様はあなたの味方になることを望んでおられます。皆があなたを棄てても、この神様のみはあなたのために最後まで待ってくださり、あなたを抱き締めてくださるのでしょう。今日も、あなたの味方になるために待っておられる神様を忘れない皆さんになりますように切に望みます。 2.罪のゆえに神様から離れてしまった人間。 しかし、一つ問題があります。人は自力では神様に至ることが出来ないということです。聖書には、このような言葉があります。『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。』(ローマ3:23)人は罪のゆえに、神様に至ることが出来ないということです。 「罪?私は何の罪も犯したことがないのに、なぜ罪を犯したと言うんだ?」と思っている方もいらっしゃるかも知れません。そうですね。私たちは、人を殺したこともなく、盗みなどの悪い行いをしたこともないかも知れません。しかし、聖書が語る罪というのは、単なる凶悪犯罪を示すことではありません。創世記には、人類を代表するアダムとエヴァが神様から離れた話が出てきます。神様は人とエデンの園の全ての木の実を与えてくださり、その代わりにたった一つのこと『善悪を知る知識の木の実を禁じる契約』を結ばれました。善悪の知識の実は、特別な力を持った物ではなく、神と人の契約の証拠品でした。しかし、人はそれに満足せず、神様が禁じられた知識の実を貪り、神様との契約を破ってしまいました。神様を無視し、自ら離れたのです。結局、これは神と人の断絶に繋がりました。聖書は、まさにこの神との断絶を罪と語っているのです。 聖書に記されている罪とは、まるで矢が的から外れることという意味です。実際に罪を意味するヘブライ語には、「外れること」という意味があります。弓を撃つ時、的の真ん中ではなくても、矢が的に当たることが大事です。外れると何のスコアも得ることが出来ません。罪というのはこれに似ています。矢を的に当てないことも罪であり、的に当てることが出来ないことも罪です。もし、殺人や強盗などの犯罪者が意志を持って犯した犯罪が矢が的から外れる罪であれば、人が神様から切れた関係にも関わらず満足し、不足を感じないことは、的に当てること自体をしない罪です。両方、結局、矢が的から外れることであるからです。神様を知らず、生きていく人は、的に矢を当てなかった罪、スコアが得られない罪となります。殆どの一般人は凶悪犯罪を犯したことが無いです。しかし、その一般人だと言っても神との関係が切れている場合、神様から見れば、これは大きな罪になるのです。神様の被造物、神様の子どもである人間が神様を見つけていないからです。自分の根本を無視するからです。 3.主イエスは我らの友。 このような神との断絶は、人間の罪となると共に、不幸となります。イエス・キリストは、このような断絶という罪から私たちを救われるために来られた方です。神様は人と美しい関係を結ぶことを望んでおられます。この関係を結ぶために、イエス様が来られたのです。『私は葡萄の木、あなた方はその枝である。人が私に繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』(ヨハネ15:5)イエス様は神様と断絶した人間の罪を赦し、再び父なる神様と人の関係を初めに戻すために自らを犠牲にした方です。主は人間の誤ちを元に戻し、神の怒りを静めるために十字架を背負い、死なれました。全く罪のない御子が人の罪のために貴い血潮を流されたのです。 このイエス様は、父なる神様によって復活され、主を信じる者に葡萄の木と枝のように密接な関係を結び、再び父なる神様と和解することが出来るように道を開いてくださいました。イエス様は生前、このように言われました。『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:13)イエス様は自ら言われました。 『私はあなた方の友人である。』 神様から離れ、罪人として生きなければならない人々に、イエス様は、ご自分の友達という言葉を通して、罪人が神様に戻ってくる道を作ってくださいました。そして、このイエス様を介して人々は父なる神様について知ることが出来ます。神様はイエス様を通して戻ってくる人々を単に捕虜や僕になさらず、イエス様の友達にしてくださいました。ですので、イエス様は、私たちを友人と呼ばれるのです。 「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 (ヨハネ1:12)」 また、神様は私たちをただ御子の友としてのみ思われることではなく、さらに神の子となる資格まで与えられました。イエス様は、私たちをご自分の友に召され、最終的に父なる神様の子供になる資格をくださいました。ですので、もう罪人ではなく、神様を父と呼ぶことが出来る子としてのアイデンティティも許してくださったのです。神様と断絶して生まれた人間が神の御子を友と呼び、自分も神の子となること。それ故に、もはや罪の恐怖に震えないようになること。それが主イエスによって人に与えられた福音であります。私たちの信頼すべき友人、イエス・キリストは今日もご自分の友として、神の子として、あなたを呼んでおられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3:20)あなたの心の戸口の前で待っておられるイエス様のお声が皆さんの心の深いところまで伝わることが出来ますように祈ります。 結論 主イエスの友達。 最後に皆さんにある実話を話したいと思います。 1941年12月7日、旧日本の連合艦隊は、ハワイを空襲しました。まさに真珠湾攻撃です。その空襲の先頭には、淵田美津雄という軍人がいました。ハワイの上空に入っていった淵田は、米軍基地に爆撃を加えました。同時に彼の口から暗号が沸き起こりました。「トラ・トラ・トラ」 その日、日本海軍は、アメリカ海軍に大きな勝利を収めました。この真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まります。戦争の序盤、アメリカは日本にひどく敗れました。半年くらいの時間が経ち、参謀たちと戦略を練ったルーズベルト大統領は、日本本土攻撃を命令します。 B25という爆撃機16台に80人の特殊部隊を前面に出してドーリットル中佐の指揮下に日本に進撃します。その時、初めて東京をはじめ、横浜、名古屋、神戸等の大都市が空襲によって破壊されました。ところで、日本を空襲した特殊部隊員の中にジェイコブ・デシェーザーという人がいました。この時、空襲に参加したアメリカ軍の乗務員は殆ど中国に脱出して帰還しましたが、捕虜となった人も8人いました。その時、ジェイコブも捕虜となりました。 1942年6月5日、太平洋戦争の一番大きな戦いであったミッドウェイ海戦が起きた日、淵田美津雄は盲腸炎のため、戦闘に参加できず、やっと生き残って護送されました。病院で回復した彼は地上職に配属されます。しばらくして戦争は終わりました。退役後、上京した淵田は、ある日、渋谷駅前で、あるアメリカ人に出会うことになります。「私は4年間、日本軍の捕虜でした。」 まだ日本語が上手く話せなかったアメリカの伝道者。彼は日本本土を爆撃した特殊部隊の乗務員であったジェイコブ・デシェーザーでした。アメリカを攻撃した淵田と日本を攻撃したジェイコブが東京・渋谷のど真ん中で出会ったのです。『敵を愛しなさい』というイエス・キリストの言葉に感銘を受けたジェイコブは伝道のために渡日したわけです。その日、淵田はジェイコブから伝道パンフレットをもらいます。その後、淵田もパンフレットの主の御言葉に感動し、聖書を買って読んで神学をして、日本基督教団の牧師になりました。皇軍の士官がアメリカの宗教の手先になったと刃物を持って殺しに来た戦友は淵田に伝道され、長老となったと言われます。結局、戦争のせいで、互いに敵であった彼らはイエス・キリストを信じて、皆、伝道者、信仰者となりました。 互いに憎みあった敵がイエス・キリストに出会い、友達になりました。淵田もイエスの友、ジェイコブもイエスの友となりました。そして、彼らは長い間、信仰の友達として生きて行きました。イエス様がこの二人をご自分の友に召されたからです。人々は互いに憎みあい、対立しますが、イエス・キリストの中では、誰でも友達になることが出来ます。そして、誰でも神の子になることが出来ます。人は出来ませんが、神様はお出来になります。聖書は父なる神様が信じる人の味方でだと証言しました。イエス様が私たちの友だとも証言しました。そして、その約束は今もなお有効です。この全てが、私たちを救われるためにこの地上に来られた主イエス・キリストの恵みのお蔭です。皆さんにこの頼もしい友達を紹介したいと思います。誰よりも信頼できる、私を愛してくださる、私の友イエス様を紹介します。一緒に主イエスを信じ、愛し、神の国に入るまでに歩んで行きたいと思います。今日、志免教会に来られた皆さんに神とイエスと聖霊の豊かな恵みがありますように祈ります。