キリスト者の使命。

出エジプト記3章1~12節(旧96頁) ローマの信徒への手紙11章29節(新291頁) 前置き 前回の出エジプト記2章の説教では「神が契約を思い起こされた」との題で、エジプトでのモーセの失敗とミディアンでのモーセの新しい人生について話しました。40歳のモーセはエジプト王女の養子であって、エジプト人も無視できないほどの身分の高い人でした。しかし、イスラエル人の実母を乳母として育った彼は、イスラエル人のアイデンティティを持っていました。そういうわけで、モーセは自分の力でイスラエル民族の解放を導こうとします。しかし、彼の試みは人間的な意図と情熱によるもので、結局失敗で終わります。民族を思うモーセの心は純粋で立派なものだったと思います。しかし、彼の試みは神のご意志とは関係ない自分自身の意志によるものでした。ミディアンに逃げたモーセは、40年後、平凡な年寄りの羊飼いになっていました。彼の人生はもう終わりのようでした。そんなある日、彼はある山で神と出会うようになりました。そして、40年前にすでに失敗したイスラエルの解放という務めを、アブラハムとイサクとヤコブとの契約(約束)を思い起こされた神のご意志により、再び与えていただくことになりました。果たしてモーセは、昔、一度失敗したイスラエル解放という務めを成功できるでしょうか? 今日は本文を通じてモーセの召命と使命、また出エジプト記に現れる神の性質について学びたいと思います。 1.出エジプト記に現れる神への知識。 まず、今日の本文を通じて、神の性質について考えてみたいと思います。「モーセは、しゅうとであり、ミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」(出エジプト記3:1-2) モーセは羊の群れを飼っている途中、ある山に近づくことになりました。そこは「ホレブ」と呼ばれる山で、「ホレブ」は廃墟を意味する言葉でした。ところで、彼はそこで世の中にはあり得ない不思議な現象を目撃します。それは「柴が火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」不思議な現象でした。火はすべてを消滅する強さの象徴であり、柴は燃えやすく、すぐに消えてしまう弱さの象徴であります。科学的に、柴に火がついたということは、柴が灰になって消えてしまうことを意味します。なのに、本文の柴は燃え尽きません。モーセの目に、その光景はいかに不思議なことだったでしょうか。モーセが燃え上がる柴を見ていたら柴の間から神の声が聞こえてきます。「モーセよ、モーセよ。ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」そして神は引き続きおっしゃいました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神という存在の顕現に恐れてしまいました。神は果たしてどういう方なのでしょうか? 人間は到底神を知ることができない極めて限られた存在です。しかし、神は聖書を通して、ご自分の存在を人間が認識できるように教えてくださいます。私たちは、今日の出エジプト記からも、制限的ですが、神について知ることができます。第一、神はホレブ山、つまり「廃墟」という名の山で、モーセにあってくださいました。モーセは 40 年前にイスラエルの解放に失敗し、みすぼらしく逃走した失敗者でした。80歳の彼はまるで廃墟のように権力も若さも情熱も失った弱い老いた羊飼いに過ぎませんでした。しかし、神は廃墟のようになったモーセを廃墟という名の山でお呼び出しになりました。今日の本文5節で神はおっしゃいます。「あなたの立っている場所は聖なる土地である。」ホレブ山も、モーセの人生も、廃墟のようでしたが、その廃墟に神がご臨在なさると、廃墟は「聖なる土地」になりました。これを通して、私たちは神がおられるなら、廃墟も聖なる土地になれるということが分かります。神に出会ったモーセは、その後、廃墟のような人生を終え、神の聖なる僕として生まれ変わることになります。第二に、神は炎という強さと柴という弱さを共存させられる方です。旧約聖書のイザヤ書には、こんな言葉があります。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」(イザヤ43:3)これは神に遣わされるメシアについてのイザヤ書の預言です。 つまり、神のメッセンジャーであるメシアについての預言を通して、神が強さと弱さ、どちらにも属されず、むしろ、その二つを調和させて治められる方であることが分かります。絶対的な強さの神と絶対的な弱さの罪人の間で執り成しておられるキリストから、私たちは燃える柴の間におられる神の本質を覗き見ることができると思います。第三に、神はアブラハムとイサクとヤコブとの契約(約束)を覚えてモーセを召される方でした。「わたしは…アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。…わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、…彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは…エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、…へ彼らを導き上る。」(出エジプト記3:6-8中) 神はご自分の言葉、つまり契約(約束)通りにお働きになる方です。神は創造主であり、最も強い方でありますが、わがままに行動なさらず、モーセの先祖と結んだ契約に基づいてイスラエルを導かれる方です。神が私たちに聖書をくださった理由も、聖書の記録に基づいて、主の御言葉、つまり約束通りに私たちを導き、救い出してくださるためです。これによって、私たちは神が必ず約束を守られる方であり、変わらず信頼できる方であることが分かります。 2.キリスト者をお呼び出しになる神。 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(3:9-10) そのような神が今日モーセを神の山に呼ばれたのです。そして、アブラハムとイサクとヤコブと結んだ約束どおりに、神の御心に従ってモーセに「イスラエルの解放」という新しい使命を与えてくださいました。若い頃、自分の情熱と意志により「イスラエルの解放」という業を成し遂げようとしたモーセ、しかし、神のお導きがなかったその計画はモーセ自身の野望に過ぎませんでした。そして、神の導きのない彼の野望は見事に失敗してしまいました。その後、ミディアンに逃げた彼は、平凡な羊飼いになって人生の終わりを目の前にしていました。しかし、燃える柴の間に臨まれた神。強さにも、弱さにも属されず、それらを調和させて治められる神。廃墟という名の山にご臨在なさり、そこをむしろ聖なる土地にしてくださった神。ご自分の独断ではなく民との契約(約束)にあって、お働きになる神。その神が、失敗したモーセを呼び出され、同じ「イスラエルの解放」ではありますが、今回は神ご自身が主体となり、もう一度モーセに使命を与えてくださったわけのです。私たちは、ここでキリスト者の召命と使命について考えるようになります。果たしてキリスト者の召命と使命とはどういうものでしょうか? 今日の説教の題は「キリスト者の使命」ですが、神の召しという意味の「召命」についても考えてみたいと思います。おそらく「召命」という表現は日常会話ではあまり使わないと思います。召命はキリスト教用語だと書いてある辞書もあります。召命は漢字そのままで、召して命じるという意味です。そして使命は、その召命に応じて命令通りに行うことを意味します。神は主に召された民が、以前、どのように生きてきたかを懸念されません。昔、犯罪を犯した人も、失敗した人も、わがままだった人も、間違いだらけの人も、キリストの御名によって、神の前に悔い改め、隣人に謝り、二度と昔ような人生を生きないと誓うなら、神はご自分の民としての資格を与え、主の僕として召してくださいます。かつてエジプト王女の養子だったモーセは強さに属した人でした。彼は自分の情熱にとらわれ、神の御心とは関係なく生きており、結局自分の血気を抑え切れずエジプト人を殺してしまいました。自分の力が自分の失敗をもたらしたわけです。以後、彼は弱者の人生を送らなければなりませんでした。しかし、彼が一番弱くなった時、神は彼の失敗を全くお気になさらず、主の御心に従って彼を呼び出され、もう一度機会を与えてくださいました。これが神の召命なのです。過去、失敗、弱さは全く関係ありません。神はご自分の意志に従って呼ばれるだけです。神には強者であれ、弱者であれ、意味がありません。神はただご自分の民を通して、神の御業を進めていかれるだけです。 そして神は召命によって召された者に、過去とは関係なく召命に従って生きる機会を与えてくださいます。これが私たちの使命になるのです。使命は、私たちが神に委ねていただいた何かを成功させるという概念ではありません。使命は私たちを呼び、再び神と共に歩む機会をくださった神のご意志に従って、神のお導きのもとで主と共に生きることそのものなのです。したがって、私たちの使命を完成させる者は、私たち自身ではなく、使命をくださった神なのです。モーセは出エジプト記14章でこう歌いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。」(出エジプト記14:13) エジプトから脱出してカナンへ向かうイスラエルに委ねられたことは、神が見せてくださる救いの道に沿って歩くことだけでした。火の柱と雲の柱で寒さと暑さを防ぎ、エジプトの軍隊から守り、紅海の真ん中に道を開いてくださった方は神おひとりでした。モーセとイスラエルは、その神の導きに従って歩むだけで十分だったのです。それがまさに神の民の召命に従った人生、使命なのです。神がすべてをなさるから私たちは何もしなくても良いという意味ではありません。 私たちに与えられた日常に充実にし、神に頼り、兄弟姉妹を愛し、隣人に仕えるという主の御心に聞き従って主と共に生きること。それこそがキリスト者に与えられた使命なのです。 締め括り 「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ローマ書11:29) 神は仕えられるために民を呼ばれた方ではありません。神はご自分の利益のために民に使命をくださる方でもありません。神のお呼び出し、そしてそれに伴う民の使命は一種の賜物なのです。そして、それは絶対に取り消されない、変わらない神の祝福です。私たち、教会はキリストの体という特別な使命を持って神に召されました。そして神はその使命の人生の中で私たちが主と共に永遠に幸せに生きることを望んでおられます。以前のモーセは失敗者でした。しかし、神は彼の過去ではなく現在と未来を眺められつつ、彼と共に歩んでくださいました。私たちもキリストによって神の民と呼ばれた存在です。そして私たちの使命は、そのお呼び出し通りにキリストと共に歩んで生きていくことです。以前の私たちがどんな人だったか、過去の私たちの罪、私たちの失敗、私たちの弱さは何の問題にもなりません。神はキリストを通して、私たちを召され、その使命によってキリストと共に生きていくことを望んでおられます。そのような人生の中で神は私たちの悩みと人生の問題を解決し、私たちに真の喜びと幸せを与えてくれるでしょう。この神のお呼び出しに応じ、その召命通りに使命を果たして生きることを願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

平和のキリスト。

エゼキエル書37章24~25節(旧1358頁) エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) 前置き 前回の説教では、キリストに救われる前の人間の本質(罪と過ちによって死ぬべき存在)とキリストに救われた後の人間の本質(キリストの御救いにより命を得た存在)について話しました。聖書は罪によって神に背いた初めの人間の影響のため、この世のすべての人間が生まれつき「罪と過ち」を持ち、神に逆らう本質であると語ります。この世のすべての人間は本能的に自分の欲望に沿って生き、創造主である神を知ろうとも、御心に従おうともしない、神の呪いの下にある死の存在として生まれます。しかし、神はキリストを遣わされ、神との和解の道を開き、キリストの贖いによって、すべての罪人たちに生命の存在として生まれ変わる道を開いてくださいました。前回の説教では、このキリストによって神に赦された者たちが集まり、キリストを中心として打ち立てられたのが、まさにキリストを頭とする教会であると申し上げました。教会は単なる親睦団体ではなく、キリストによって死から命へと本質が変わった特別な存在です。教会はそのような本質が変化した者として、そのアイデンティティにふさわしく生きるべきです。 1.異邦人とユダヤ人。 今日の本文の11節から13節までの言葉には「以前」と「今」という表現が出てきます。「以前」は「罪と過ちによって死ぬべき存在」であった私たちの状態を、「今」は、「キリストの御救いにより命を得た存在」である私たちの状態を示します。そして、今日の本文は以前の私たちが「異邦人」だったと述べています。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェソ2:11-12) ところで、ここでの異邦人とは、どういう存在なのでしょうか? 本文の「異邦人、割礼のない者」の意味は一言で「ユダヤ人ではない」という意味です。ここで言うユダヤ人は、一次的には血統的なユダヤ人のことですが、二次的には霊的な意味としてのユダヤ人であると言えます。ヨハネ福音書にはこんな言葉があります。「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」(ヨハネ福4:22)ヨハネ福音書は救いがユダヤ人から来るからだと言いました。ユダヤ人そのものは救い主ではないのに、ヨハネ福音書はなぜ救いがユダヤ人から来ると語ったのでしょうか? まずは、ユダヤ人の意味について探ってみましょう。ユダヤ人は神と契約を結んだアブラハムの曾孫であるユダの子孫です。そしてユダヤ人はバビロンによるイスラエルの滅び後にも、異邦人と混血していない血統的にも、律法的にも、純粋な者たちと知られています。したがって、ユダヤ人とは、昔、神とアブラハムが結んだ契約、そしてモーセの律法を純粋に受け継いだ存在であると言えます。そういうわけで、ユダヤ人は神との契約のもとにいる選ばれた民という意味を持ちます。しかし、ヨハネ福音書が語るユダヤ人は、単に血統的なユダヤ人だけを意味するわけではありません。ユダヤ人という血統より、神がユダヤ人と結ばれた「契約、約束」がさらに大事です。したがって、ヨハネ福音書4章22節の「救いはユダヤ人から来るからだ。」という言葉の「ユダヤ人」とは、神の契約を完全に守り、その律法(御言葉)に従順に聞き従う存在を意味する「霊的なユダヤ人」なのです。ヨハネ福音書は、彼がまさにイエス•キリストであると遠回しに述べているのです。(だから、キリストに属した主の民も霊的なユダヤ人と言えるでしょう。) したがって、今日の本文11-12節に出てくる異邦人とは、単純に血統的なユダヤ人ではないという意味ではありません。以前の私たちが異邦人だったということは、私たちが神の契約と律法の外にいる存在だったという意味であり、より究極的にはキリストの外にいる、神とまったく関係ない存在だったという意味です。 2.キリストによる平和。 「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェソ2:12) そして12節は、異邦人のような存在だった私たちが、契約と関係ない存在であり、この世で希望も持たず、創造主も知らない惨めな存在だったと述べています。また、13節では「以前は遠く離れていた」と、以前のキリストを知らなかった私たちが、神の契約と救いから遠くにいる者だったと述べています。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(13)しかし、そのような以前の私たちが「キリストの血」すなわちキリストの御救いによって、今は「神との契約と救い」に近い者となったと証言しています。異邦人だった私たちがキリストによって「霊的なユダヤ人」という神の契約と救いの存在に生まれ変わったということです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、」(14-15) したがって、私たちはキリストによって、霊的なユダヤ人として召された者です。キリストは神と関係ない「異邦人」だった私たちを、主の十字架の血によって「霊的なユダヤ人」として呼び出し、キリストのもとに差別なく一つの存在として招いてくださったのです。 だけでなく、血統的、律法的に乗り越えられなかった、ユダヤ人と非ユダヤ人の差別をも解決してくださいました。つまり、誰でもキリストによって神の選ばれた民、霊的なユダヤ人になることができ、神はキリストを通して、その機会を与えてくださったということです。世の中には貧富の格差、理念の違い、人種差別など、数多くの差別と隔ての壁が存在します。しかし、キリストはそのすべてを超えて、すべての人を霊的なユダヤ人として招かれる資格と力を持っておられる方です。その方の中に世の中のすべての存在を一つにする真の平和があるのです。そのため、今日の本文は「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と述べているのです。私たちは祈る時、「主イエスによって、この世に真の平和をください。」と祈ります。私たちのこの祈りの根拠は、まさに今日の本文のように、すべてを一つにするキリストの平和にあります。主イエス·キリストは十字架の血によって差別のない平和を与えてくださいました。キリストはご自分の功績で、差別なく全人類を愛してくださる方なのです。 3. 一人の新しい人、そして神の家族。 「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」(15)ここで私たちは一つ独特な表現を見つけますが、それは「一人の新しい人」です。キリストがご自分においてユダヤ人、異邦人の区別なしに一つの教会として招いてくださったことを私たちは知っています。教会は主イエスに救われた者たちが集まり、主の十字架の血によって新たになった一つの共同体と呼ばれるのです。キリストが頭になってくださり、私たちはその方の肢として主の御心に従い、この罪深い世の中で、主を信じ、善を行って生きていかなければなりません。ところで、今日の本文は「新たになった一つの共同体、新しい一団体」という表現を使わず「一人の新しい人」という表現を使っています。翻訳が間違っているかと思い、ギリシャ語の聖書を見たら、確かに「一人の新しい人」と記録されています。ここで、私たちは、教会がどのような存在であるかを改めて学ぶことができます。私たちがキリストを「頭」と言うのは比喩的な「リーダー」の意味だけではありません。主はこの教会に頭として一緒におられ、異邦人、ユダヤ人を問わず、主に召された者たちを、比喩ではなく実存的にご自分の体として扱ってくださるのです。つまり、教会は厳密に言って団体ではなく、キリストという一人の体そのものなのです。これはただの共同体や団体と根本から違う意味なのです。 この概念とそっくりの例があります。日本には「国体」という言葉がありました。ある神学者は、この国体という概念が教会に由来したと言いました。かつて、日本帝国は天皇が親であり、民は子供であるという意味として、日本を「国体」と呼びました。その神学者は、国体概念がヨーロッパのキリスト教世界観に由来したと言いました。日本帝国時代、ヨーロッパのキリスト教的世界観を国家神道に融合させたわけです。キリストは教会の頭、教会はキリストの体のように、国体も天皇を頭に、民を体にしたわけです。しかし、違う点は、国体は民が王のために死に、教会は王が民のために死んだということです。主は教会とご自分とを分離させられず、謙遜にご自分を低くされ、ご自身も頭として教会の一部になると十字架での死によって確定してくださったのです。したがって、聖書は教会を「一人の新しい人」と表現します。そのため、私たちは父なる神にキリストと一つになった存在として認識されます。「私」ではなく「キリストの中にいる私」として、神はキリストの中の私をご覧になります。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(16)だから、私たちはキリストの体として神と和解することが出来るのです。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」(19)さらに私たちはキリストによって神の家族として認められることになったのです。 締め括り 記憶力の良い方なら、今日の新約の本文が、今年、最初の説教の本文と同じであることに気づかれたかもしれません。教会はキリストから始まり、キリストにあって終わる共同体です。神がキリストを通してのみ、私たちと関係を結ばれるからです。キリストなしに、私たちは神を知ることも、神に会うこともできないからです。教会共同体の最も根本はキリストであり、目標もキリストです。「わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。」(エゼキエル37:24-25) 今日、旧約の本文は神がくださる王について予言しました。私たちは、このダビデがイエス・キリストを意味する存在であることを知っています。平和のキリスト、あなたと私を一つにしてくださるキリスト、神と教会をつなげてくださるキリスト。そのイエス·キリストを頭とする、私たち志免教会のアイデンティティを憶えつつ、この一週間を生きていきたいと思います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

神が約束を思い起こされた。

出エジプト記 2章11~25節(旧95頁) ローマの信徒への手紙14章7~9節(新294頁) 前置き 主の恵みにより、飢饉を避けてエジプトに移住したヤコブの子孫は栄え続け、数十万人以上の決して小さくない民族に成長しました。しかし、ヤコブの家族がエジプトに入った時期の「イスラエルに友好的なエジプト王朝」が滅び、他の王朝が打ち立てられ、栄え続けていたイスラエルに大きな試練が訪れます。しかし、それはイスラエルの滅びのための試練ではなく、試練によって目を覚まし、イスラエルのいるべき約束の場所であるカナンに帰らせようとされる神の合図でした。キリスト者には、いるべき場所があります。いくら満足し、安らかなところにいるといっても、神のみ旨に適わない場所なら、そこはキリスト者のいるべき場所ではありません。キリスト者に試練が訪れる時、そういう場合が多いです。キリスト者のいるべきところ、つまり神のふところではなく、神と関係のない自分の罪の本性が願うところにいる時、神は試練と苦難といった主の御導きによって、ご自分の民の目を開かせ、主がお備えくださった場所に立ち戻る準備をさせられます。出エジプト記は、まさにその「主の民のいるべき場所」についての物語なのです。今日の御言葉を通して、私たちのいるべき場所とは何かについて考えてみたいと思います。 1. 主の御業は人間の権力や思想によっては成し遂げられない。 前回の本文で、モーセはファラオの王女の養子としてエジプトの王宮に入ることになりました。幸いにも、モーセは姉の知恵により、実の母を乳母として育てられたため、「ヘブライ人」のアイデンティティを失わないでファラオの王女の養子として育つことが出来たと思います。また、王女の配慮でモーセは当時のエジプトの高級学問を学び、エリートとして育つことになったでしょう。モーセは完全なエジプト人ではありませんでしたが、背後の王女の後見により、エジプト人も無視できないほどの権力と知識を手に入れたでしょう。つまり、モーセはヘブライ人とエジプト人の半ばにいる存在でした。おそらく、そんな位置にいたモーセは、自分だけがヘブライ人を政治的に救える唯一の人物だと思っていたかもしれません。エジプトでの権力とヘブライ人への理解が両立できる人だったからです。「モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。」(出2:11-12) しかし、そんなモーセの情熱が問題を起こしてしまいました。ヘブライ人の同胞を助けようとしながら、エジプト人を殺してしまったからです。モーセはエジプト人の遺体を沙に隠し、それをなかったことにしようとしました。 「翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが『どうして自分の仲間を殴るのか』と悪い方をたしなめると『誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか』と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った」(出2:13-14) 翌日、モーセが再びヘブライ人たちのところに行き、争いを仲裁しようとしたら、その中の一人がモーセに言い返しました。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」驚くべきことに誰も知らないと思っていたのに、すでに多くの人がモーセのエジプト人殺害を知っていました。ヘブライ人であるが、王女の後見でエジプト社会にいたモーセ。しかし、エジプト人殺害によって彼を目の敵のようにしていたファラオとエジプトの権力者たちは、彼を攻撃しようとしたでしょう。だけでなく、ヘブライ人の同胞も彼を認めていませんでした。とういうことで、モーセはもう持ちこたえられず、エジプトから逃げてしまったことではないでしょうか? ひょっとしたら、モーセは自分の背景と権力を利用してヘブライ人の指導者になり、イスラエルをエジプトから脱出させようと計画していたのかもしれません。彼には力と知識があったからです。しかし、彼のその自己存在感は、むしろ自分の計画を台無しにする障害になってしまいました。意気揚々としていた彼は、一晩にエジプト人にも、ヘブライ人にも、認められない犯罪者になってしまったのです。 以上の内容を通じて、私たちは主なる神の御業の成就について考えるようになります。神の御業は、人間の情熱や権力によって成し遂げられるものではありません。一時、隣国の韓国の教会では「高地論」という主張が流行したことがあります。文字通りに「キリスト者が社会の高い位置に上がり、社会を変化させなければならない。」という思想でした。ところが、何十年たった今、韓国の教会は韓国社会でそんなに好評ではありません。かえって、クリスチャンリーダーの中には不正を犯した人もいました。もしかしたら、日本の教会にも、そういう思想があるかもしれません。去年、金子道仁という外交官出身の牧師が参議院議員になりました。「隣人愛を国政に」という合言葉で、他の教派ではかなり人気だったと知っています。もちろん、私も彼の思いを応援しています。しかし、彼を支持するキリスト者の中には、彼が高い地位に上がって大きな影響を及ぼすだろうと、まるで日本の教会の希望であるかのようなニュアンスで話す人もいました。果たして、今後、彼は日本の政治と社会を変えることができるでしょうか? もし、主が彼を用いられ、変えようとされたら出来るかもしれませんが、彼自身の力では決して変えられません。世を変えるということは神がご自分の手を動かされる時に出来るものだからです。教会は、主の御手の道具として用いられるだけで十分です。もし教会が神の意志と関係なく(乱暴な言い方ですが)差し出がましく、自分で世を変えようとしたら、今日の本文のモーセのように困難に直面するようになってしまうかもしれません。 2. 主の御業は神の御心に基づいて成し遂げられる。 だからといって「教会は何もしなくて良い」という意味ではありません。先の金子道仁牧師は参議院議員という自分に許された場所で、また私たち志免教会は、私たちの日常の場所で、主に命じられた神への愛、隣人への愛、そして福音伝道に努めて生きれば良いです。そのような日常の中で、主はご自分の意思に従って世界を導いていかれるでしょう。私たちにできることは、主の御言葉に従順に聞き従いつつ、日常を生きていくことだからです。「ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。」(出2:23-25) エジプトからの脱出後、モーセはファラオの脅威を避け、ミディアン地方へ逃走しました。ミディアンは現在の紅海の東側地域(アラビア西部)を意味しますが、牧畜をしながら、流浪する、アブラハム系列の種族の名でもあります。ミディアン地域は砂漠であるため、羊の餌が足りなくて頻繁に移動しなければなりません。つまり、モーセは大帝国での安定した生活から離れ、決まった場所なく、移動し続けなければならない不安定なミディアンでの生活へと、その居場所が変わったのです。 「モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。」(出2:21-22)ミディアンの祭司の配慮で落ち着くようになったモーセは、以後「ツィポラ」という名の妻をめとり、息子「ゲルショム」をもうけました。「ツィポラ」はヘブライ語で「スズメ」という意味で「ゲルショム」は寄留者を思い起こさせる言葉です。それだけに、モーセはエジプトのエリートから、ミディアンの平凡な男に、その位置が変わっていたという意味でしょう。もうモーセには過去のような権力も、地位もありません。彼はただエジプト人にも、ヘブライ人にも、忘れられた普通の人になっていたのです。しかし、皮肉なことに彼が普通の人になったため、次の本文で神が彼に訪れられ、イスラエルの指導者にしてくださいます。先ほど前置きでお話ししましたように、キリスト者には自分のいるべき場所があります。モーセはエジプトの王子のように育ちましたが、そこが彼の場所ではありませんでした。モーセは自分の権力と知識でヘブライ人を導こうとしましたが、そこも自分の場所ではなかったのです。彼の場所は剣と槍を持った政治的な指導者ではなく、家庭を持った普通の男、杖を持った平凡な羊飼い、まさにミディアンでの生活でした。しかし、そのようになった時、はじめて神は彼を訪ねて来られたのです。 「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(出2:23-25) そして、過去のモーセがしようとしたイスラエルの指導者、出エジプトのリーダーの課題を、改めて彼にお委ねになりました。40歳の時、モーセが自分の情熱と血気でやろうとしたイスラエルの解放は、実は神の御業ではありませんでした。それはモーセ自身の業だったのです。しかし、モーセがミディアンの老人になって何の力もなく、羊飼いとして暮らしていた時、その時になって、神はイスラエルの先祖たちとの契約を思い起こされ、80歳の老人モーセを呼ばれ、神の御業に招いてくださったのです。つまり、神の御業は神の時に、神のご意志に従って成し遂げられるということです。また、神の御業は、人の意志と情熱ではなく、神のご計画と約束によって、私たちに与えられるものです。重要なのは「私たち自身の情熱」ではなく、「神のご意志」ということです。教会の生き方は徹底的に神の御心に教会の歩みを合わせることです。そして、その神がご自分の手を動かされる時に、教会は喜んでその方の御手の道具として用いられるべきなのです。 締め括り 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ書14:7-9) 前置きで、私は「キリスト者には自分のいるべき場所がある」と申し上げました。モーセは王宮での王子のような生活ではなく、荒野の羊飼いのような生活の中で、神に出会い、真のイスラエルの指導者と召されました。人の目にはみすぼらしいミディアンの荒野が、神の御目にはイスラエルの指導者がいるべき最適な場所だったわけです。私たちも時には、今こそ我が教会が動くべき時、あるいは何とかやらなければならないと気を揉む時があるかもしれません。しかし、そのたびに私たちは記憶しなければなりません。今現在、自分がいるべき場所はどこか? 今現在、自分のやるべきことは何か? ローマ書の言葉のように「自分のために生きるのではなく、主のために生き、死ぬ人生」を憶え、主の御心に私たちの歩みを合わせて、私たちのいるべき場所を分別して生きていきたいと思います。その人生の終わりに、間違いなく主なる神の慰めと祝福があると信じます。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

本質の変化

出エジプト記 19章5~6節(旧125頁) エフェソの信徒への手紙 2章1~10節(新353頁) 前置き 前のエフェソの信徒への手紙1章の2回の説教では、教会が持つ大事な二つの意味について学びました。その一つは、教会は主なる神が天地創造の前にあらかじめお定めになった主の民を、キリストによって、お呼び出しくださり、主に礼拝する存在として打ち立ててくださった「神を礼拝する共同体」ということでした。その二つは、イエス·キリストは教会だけでなく、この世のすべての上におられる、教会と世界の頭であり、教会はその方の体として、すべてを満たしているキリストの満ちておられる「キリストの体なる共同体」ということでした。私たちの志免教会も、そのような神に礼拝するキリストの体なる教会として天地創造の前に選ばれ、世のすべてを満たしているキリストに満ちておられる共同体なのです。私たちはエフェソ書を通して、教会とは何か、志免教会は主の体なる共同体として、どう生きるべきか、自ら考える機会を持たなければならないと思います。今日はエフェソ書2章の御言葉を通じて、教会という存在と主に呼び出された私たちがキリストによって本質的にどのように変化したのかを学び、もう一度私たちの存在理由について考える時間であることを願います。「教会」という共同体には確かな哲学と意義があります。キリストを知る知識に満ちた共同体、その方を宣べ伝える共同体、その方の御心に聞き従う共同体、私たちは教会の意味をはっきり憶えつつ生きなければなりません。 1. 生まれながら神の怒りを受けるべき者だった私たち。 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。…しかし、憐れみ豊かな神は…罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」(エフェソ書2:1-5一部) 今日の本文は「あなたがた」すなわち教会という共同体の意義を簡潔に教えています。本文によると、教会は前は死んでいたのに、今では神の愛によって生き返った存在です。ここで「あなたがた」とは1次的に「エフェソ教会」を、2次的には「世々の教会」を意味します。つまり、私たちは本文の言葉から、昔のエフェソ教会も、今エフェソ書を読んでいる志免教会も「キリストにあって過ちと罪による死から生き返った存在」であるということが分かります。そして、2-3節を通して、以前「過ちと罪」によって死んでいた私たちが、どんな状態だったのかを知ることが出来ます。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:2-3)「過ちと罪」のために死んだ存在であった私たちは「空中に勢力を持つ者」に従う存在でした。「空中に勢力を持つ者」に従う存在というのは「神の創造の摂理と御心」に従う人生ではなく、この世を支配する悪に従い、神に逆らう人生を意味します。「空中に勢力を持つ者」とは、よく言われる「サタン」のような邪悪な霊的存在を意味するとともに、最も根本的な意味としては、神の摂理に逆らうすべての思想や理念や精神とも言えます。 私たちがよく「サタン」と言う存在は、邪悪な存在、悪魔、悪霊などを意味する場合が多いですが、その語源となるヘブライ語は「逆らう者、対敵する者」に近いです。ですから、神に逆らい、敵対するすべての存在が「サタン」になりうるということです。つまり「誰かがサタンに欺かれて神に逆らうようになった。」と理解するよりは「神に逆らうからサタンと呼ばれる。」と解釈したほうがより正しいと思います。過去、神に逆らう人生を生きた私たち、主の御言葉と合わない人生を生きていた私たちは、もしかしたら「空中に勢力を持つ者、不従順な者たち、サタン」そのものであったかもしれません。だから、私たちは、自分の罪の理由を外から探してはなりません。自分自身が神に逆らう「空中に勢力を持つ者、不従順な者たち、サタン」の一部だったことを認め、自分の中から罪を探す心構えが必要です。私たちは自分の罪について他人のせいにしたり、言い訳をしたりすることが出来ないという意味です。キリストを知る前の私たちは、そんな存在でした。自分の「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた、生まれながら神の怒りを受けるべき者」つまり、本質的に主の怒りのもとにいる呪われた存在だったのです。神を知ろうともせず、神の御言葉に正反対に行い、真の主人である神を無視し、自分自身が神の座を奪い取って自らが主人となって生きる存在だったのです。それらが今日の本文が語る「過ちと罪によって死んだ者」の生き方であり、生まれながら神の怒りを受けるべき者であり、まさに私たち自身の過去の姿だったのです。 2. 本質の変化とは何か? ところで、今日の本文ははっきりと話しています。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ書2:4-6) 昔、神に逆らい、空中に勢力を持つ者の一部であるかのように生き、本質的に主の怒りの下にいる者として、過ちと罪によって死んだ私たちが、憐れみ豊かな神の愛とキリストの恵みによって生き返り、その本質がまったく変わったという意味です。つまり、私たちは自分自身の功績や力で変化を受けたわけではなく、神の憐れみとキリストの恵みによって、新たな存在となったのです。主の怒りの下にいた者が、主の恵みの下にいる者として生まれ変わったのです。そして、キリストの恵みによって教会という存在として召されたのです。ここで私たちは一つの真理を知ることができます。私たちの内から始まった罪の問題が、私たちの外からの、キリストの恵みによって解決され、それによって私たちが救いを得ることになったということです。私たちは「死の存在」でしたが、キリストによって「生命の存在」に変わったのです。これがまさに本質の変化です。キリストの外にいる時の私たちは「死」に支配される存在でしたが、キリストの中にいる私たちは「生命」であるキリストのご統治を受けていきる存在となったのです。 したがって、キリストの統治を受ける、主の体なる教会は本質的に「生命」の存在です。教会員一人一人が立派な者だから「生命」の存在となったわけではなく、教会の主であるキリストが「生命」の存在でおられるから、教会も生命の存在として神に見なされることになったわけです。私たちの本質が変わったということは、徹底的に受動的な意味を持つのです。唯一キリストの恵みでなければ、私たちがいくら努力しても本質の変化を成し遂げることはできないからです。「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ書2:9) だから、私たちは自分自身の行いを誇ってはなりません。「自分の立派な信仰を誇る。」ではありません。「自分に信仰をくださった主を誇る。」なのです。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エフェソ書2:10) そして私たちは徹底的にキリストにおいて「善い業」(私たちの善良な行いを意味するのではなく、主の善い御心に聞き従うこと)のために生きなければなりません。したがって、教会での私たちの業は「自分の信仰的な満足」を成し遂げる行為ではありません。教会の業は、ひたすら「イエスによる神の御心」に従順に従うことであり、その御心が成し遂げられるために主の栄光のために生きることなのです。時々「キリストの手足となって隣人に仕える。」という言葉をよく耳にしますが、キリストの手足となるということが、まさに善い業(神の御心に聞き従う生き方)という意味ではないでしょうか。 締め括り 出エジプト後、主の山(シナイ山)にイスラエルの民をお呼び出しになった神はモーセにこのように言われました。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19:5-6) 神はその昔、アブラハムと結ばれた契約のもとで、イスラエルに聖なる民としての本質的な変化を命じられました。これは過去のエジプトの奴隷だったイスラエルが、本質を変えて神の聖なる民に生まれ変わる大事な意味のご命令でした。新約時代の教会は、旧約時代のイスラエルの精神的な延長線の上に立っています。それは、空中に勢力を持つ者に従い、自分だけのために生きていた私たちが、キリストにあって、その本質が変わり、神の御心に聞き従う存在とならなければならないということです。私たちは果たして本質が変化した存在として生きているでしょうか? 私たちは死ではなく生命の本質を持った存在にふさわしく生活しているでしょうか? 私たちの生活の中にキリストの香りが漂っているでしょうか? 死から生命へとその本質が変化した存在、教会はそのようなキリストによる生命の勢いを発して生きるべき存在です。神と隣人を愛し、自分より主の御心と隣人の有益のために生きなければなりません。そのような人生こそがまさに教会という共同体が当然追求すべき生命の生き方ではないでしょうか。エフェソ書の言葉を通して、志免教会のあり方を再確認する私たちであることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

危機ではなく機会。

出エジプト記 2章1~10節(旧95頁) ペトロの手紙一 1章5節(新428頁) 前置き 前回の出エジプト記の説教では、ヘブライ人(イスラエル)の男の子が生まれたら殺せというファラオの抑圧と、それに抵抗した2人の助産婦の信仰について話しました。ファラオの命令に従わず、神への畏れをもって抵抗した二人の助産婦の名前は、シフラとプアでした。シフラは「清い」プアは「輝く」という意味でした。旧約聖書は登場人物の名前を通して、その人の性格を示すケースが多いですが、シフラとプアもそのような意味で、望ましい信仰の人物として描かれています。彼らは神への畏れから、この世の権勢に抵抗する弱いが勇気を持っている信仰者でした。彼らの信仰をご覧になった神は、彼らに知恵を与え、守り、祝福してくださいました。前回の説教を通じて、私たちは教会がどのように世の悪い権勢に抵抗して生きるべきかについて考えることができました。現代では、教会への目に見える抑圧はほとんどありません。しかし、少なくとも主の教会を成す私たちキリスト者は、この世の悪い権勢とは何であり、それによって抑圧される時、どのように対応していくべきかを悩みつつ生きる必要があると思います。 1. ファラオの抑圧とモーセの脱出。 「ファラオは全国民に命じた。生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジプト1:22)かつてヨセフが総理だった王朝である「ヒクソス人の王朝」が終わり、再び権力を握ったエジプト人はヒクソス人と同じ系統のヘブライ人がエジプト国内で増加することをただ見ていられませんでした。そこで、ヘブライ人の大人へのエジプト人の抑圧がありましたが、神の恵みにより、ヘブライ人はむしろさらに増えていきました。また、ファラオはヘブライの助産婦に男の子を殺せと命じましたが、助産婦は賢くその命令に抵抗しました。結局、ファラオは、その抑圧の対象をヘブライの大人から直接男の子たちに変えたました。そんな状況で、レビ族のある夫婦が息子を産みましたが、その子がまさに出エジプトの主人公であるモーセでした。「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。」(出エジプト2:1-2)新共同訳聖書にはその男の子が「かわいかった」と書いてあります。「かわいい」にいろいろな意味があるでしょうが、原文的にはヘブライ語の「トーブ」の翻訳です。「トーブ」は「良い」という意味で、神が天地創造の時、被造物をご覧になって言われた「良し」と同じ表現です。出エジプト記はこの「良い子」を通して、将来、神がなさる「良い業」を予告したのです。 「しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。」(出エジプト2:3) ところが、この「良い子」は生まれてすぐ大きな逆境に直面することになります。「男児殺害」の現場で、もはや隠しきれなくなった親は、少なくとも殺すわけにはいかないという心で、息子をパピルスの籠に入れてナイル河に流しました。出エジプト記は、ここで創世記の記録と重なっているようなイメージを記録します。それは籠です。籠はヘブライ語でテバと言います。そしてまた「テバ」は創世記のノアの箱舟を意味する表現でもあります。創世記では、神が水で罪に満ちた世を滅ぼされた時、ノア家族だけが「テバ」に乗せられ、救われることになったと記されています。男の子はやむなく親から離れてナイル河に流されれなければなりませんでしたが、この子はテバに乗っていました。ここで、私たちにこの子の運命が分かってきます。彼は神によって救われると予想できます。おそらく昔のイスラエル人は、このヘブライ語の単語を見て、誰でもノアの箱舟を思い起こしたはずです。「箱舟によって生き残ったノアの家族のように、この子もパピルスの籠に乗って救われるだろう。」このように旧約聖書は人の名前や、ある物事のイメージに特別な意味を含ませたりもします。 2. 女性たちの活躍。 「その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると」(出エジプト2:4)男の子はパピルスの籠に乗ってナイル河に流れていきました。そして、彼の姉は遠くから籠がどこに流れていくかを見守っています。ところで偶然にも、その籠はファラオの娘のところに至りました。「ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、これは、きっと、ヘブライ人の子ですと言った。」(出エジプト2:5-6) ファラオの娘なら、きっと父親によって行われる「ヘブライ人の男児殺害」について知っていたはずです。それでも、彼女はヘブライ人の子を哀れに思いました。おそらく、彼女の母性愛がヘブライ人の子であることが分かったにもかかわらず、知らないふりをさせなかったわけでしょう。神はエジプトの王女を用いられ、最も危険な目にさらされたヘブライ人の子を、最も安全なエジプトの中心部に送られたのです。「そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」(出エジプト2:7) だけでなく、籠を見守っていた男の子の姉は、大胆にも王女に近づき、乳母が必要ではないかと尋ねることさえします。 おそらく、姉は死を覚悟して王女に近づいたことでしょう。そして、その結果は驚くべきものでした。「そうしておくれと、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますからと言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ」(出エジプト2:8-9) 男の子は王女の養子となり、また実母によって育てられることになったのです。神は男の子の母親、姉そしてエジプトの王女を用いられ、死にさらされていた彼を助け、また彼を当時の最も安全な場所である王女のもとに送られました。神はこの3人の女性を通して神の御業を成功的に成し遂げられたわけです。それは女性の活躍を顕かに示す箇所でした。神は女性を大切に思って用いられる方です。もし愛する息子を生かすための母親の情熱がなかったら、弟を守るための姉の勇気と覚悟がなかったら、ヘブライの子を助けたいとの王女の決断がなかったら、この子「モーセ」はどうなったでしょうか? 男もできないことを3人の女性が果たしたわけです。このように神は女性を用いられ、主の教会(イスラエル)を健全に建てられたのです。日本は比較的に男性中心の社会だと思います。しかし、もし女性がいなければ、日本の教会はどう保たれるでしょうか?志免教会の姉妹の皆さんも神に用いられる主の働き手としてプライドを持って生きていかれるよう祈ります。 3. 民の危機は主からの機会。 今日の説教のタイトルは「危機ではなく機会」です。 つまり、今日の本文のテーマは「逆説」であります。民に迫ってきた危機は、神が与えられる機会になりうるということです。神はイスラエルの民に、ただ「気楽に暮らしなさい」という意味として、彼らの先祖をエジプトに送られたわけではありません。神はすでに創世記の御言葉を通して、アブラハムにはっきり言われました。「主はアブラムに言われた。よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」(創世記15:13-14) 主はアブラハムの時から出エジプトについて予告されたのです。わずか70人の家族でエジプトに入ったアブラハムの子孫たち、すなわちイスラエルは、もう数十万になってエジプトという卵殻を破り、神の約束の地であるカナンに出ていかなければなりません。しかし、イスラエルはエジプトでの生活に慣れすぎて出エジプトのことは全く考えていませんでした。イスラエルに降りかかったエジプトの抑圧は実に辛いです。エジプトによって無実に殺された男の子たちのことは、とても悲しいです。しかし、この苦しみと悲しみといった危機はイスラエルが目覚め、自分の 進むべき方向がどこなのかを知らせる機会となりました。危機が機会となったわけです。イスラエルは今やエジプトという悪夢から目覚めなければなりません。そして神がお備えくださった約束の地であるカナンに進んでいかなければなりません。 今日の本文に登場するパピルスの籠の子モーセは、実はイスラエルを象徴する存在とも言えます。エジプトの抑圧のもとで、どこに進むべきかも分からないまま、何もできずに川に流される非常に不安な存在、イスラエルは、まるでそんな赤ちゃんモーセと似ています。しかし、神はその不安な存在であるモーセをエジプト王女のもとに導かれ、水から引き出されるように導いてくださいます。 (モーセという名前はヘブライ語で水から引き出すという意味の「マシャ」に由来します。)このようなモーセの姿からイスラエルの未来を予想することが出来ます。イスラエルは危機の真ん中で何もできなかったが、まるで籠(箱舟)に乗ったかのように神のお導きによってエジプトから脱出する機会を得ます。まるでモーセがナイル河から引き出されたように、紅海を渡って新しい救いの地に進むようになるでしょう。何もできない存在ですが、すべてがお出来になる存在によって危機の中から機会を得るようになるでしょう。私たちの教会も同じです。私たちには出来ることより、出来ないことがさらに多いです。 特に他国の教会に比べて規模が顕かに小さい日本の教会はなおさらです。現在も教会はますます小さくなっています。しかし、私たちは憶えなければなりません。私たちが河のような世の中で、何もできない存在のように見えようとも、私たちの背後にはすべてがお出来になる神がおられることを。そして神は私たちの弱さ、危機を通して、むしろ強さと機会を与えてくださる方であるということを。 締め括り 今日の説教を準備しながら、新約聖書のペトロの手紙の言葉が思い起されました。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(第一ペトロ1:5) 主の民の危機が、むしろ神による機会になりうる理由は、主の民は主の御守りの中に生きる存在だからです。つまり、神がキリストを通して、私たちを守ってくださるからです。第一ペトロの言葉のように「終わりの時に準備されている救い」すなわち、キリストがこの世に再び来られる再臨の日、すべてを屈服させ、主の勝利を宣言する終末の日まで、私たちは神の力によって守られて生きていく存在です。したがって、私たちに迫ってくる危機は、神の御守りの中で、むしろ機会となってくるものでしょう。キリストが十字架での死という危機を十字架での復活という機会に変え、死から命をもたらされたように、私たちの教会も神のお導きのもとで危機を機会として生きていくでしょう。神が志免教会の弱さと必要を知っておられ、新しい機会をくださることを信じます。そのような主の御守りと御助けを待ち望みつつ、主と共に歩いていく私たちであることを願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

聖霊なる神。

歴代誌上 12章17~19節(旧645頁) ローマの信徒への手紙 8章9~11節(新284頁) 前置き 毎年5月になると、キリスト教会はペンテコステを迎えます。ペンテコステとはギリシャ語で50日という意味です。この50日は果たして何を意味するのでしょうか? 聖書はイエスが十字架にかけられ死に、3日後に復活されてから50日たった日、三位一体の一位格(キリスト教用語)である聖霊なる神が到来されたと証しています。イエスの昇天後、主のご命令に従って(使徒言行録1章)部屋に集まって祈っていたイエスの弟子たちは、とても不思議な経験をするようになります。それは主が言われた通りに父なる神からキリストの弟子たちに聖霊が遣わされる出来事でした。主の弟子たちに聖霊が臨まれると、彼らは今まで、この世を恐れていた姿を捨てて大胆にイエス·キリストと主の福音を宣べ伝えるようになりました。つまり、イエスが復活してから50日後に聖霊が降臨した出来事が起こったため、人々はギリシャ語式に50日(ペンテコステ)と呼んでいるわけです。したがって、ペンテコステのより正確な名称は、聖霊の降臨を記念する聖霊降臨節なのです。現代を生きる私たちにとって聖霊は誰であり、聖霊の降臨はどういう意味を持つのでしょうか? 一緒に考えてみたいと思います。 1. 聖霊について。 聖霊とはどんな存在でしょうか? 私たちは祈る時に「父なる神」あるいは「イエスの御名によって」という表現をよく使います。しかし、聖霊を意識的に呼ぶのはほとんどないと思います。キリスト教は伝統的に三位一体の教理を信じています。私たちが信じる神が御父と御子と聖霊の三位が一体でおられると信じているということです。つまり、聖霊は御父と御子と共に三位一体をなしておられ、明らかに神であるということです。それでも、聖書は父と子についてはよく語っているのに、聖霊については比較的に少ないと思います。その理由は聖書の真の記録者である聖霊が、ご自身のことより父と子についてさらに示しておられるためではないかと思います。私たちの主イエスは、聖霊について次のように語られました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26) 主は聖霊が父のもとから主イエス·キリストの名によって遣わされる方だと語られました。また真理の霊であり、主の御言葉を思い起こさせ、イエスのことを証しする方だとも言われました。 聖霊は全能な三位一体なる神の一位格であるにもかかわらず、ご自分のことを隠してむしろ御父と御子をより明確に表される方なのです。父と子と同質であり、同等な力を持っておられるにもかかわらず、自ら父と子に謙遜に従われる方なのです。したがって、私たちは聖霊が神であるにもかかわらず、誰よりも謙遜な方であることが分かります。聖霊は創造の時にもおられました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2) また、聖霊は旧約の人物たちとも共におられました。「すると霊が三十人隊の頭アマサイに降った。ダビデよ、わたしたちはあなたのもの。エッサイの子よ、あなたの味方です。平和がありますように。あなたに平和、あなたを助ける者に平和。あなたの神こそ、あなたを助ける者。ダビデは彼らを受け入れ、部隊の頭とした。」(歴代誌上12:19) そして、聖霊は新約時代にも私たちと共にいらっしゃいます。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26) この聖霊はご自身ではなく父と子をより一層証ししつつ、信徒の歩みと弱さを助けてくださる真の神なのです。 聖霊は、ヘブライ語で「ルーアッハ」、ギリシャ語では「プニュマ」と言われます。そしていずれも「風」あるいは「息」を意味する表現です。聖霊は風や息のように目には見えない存在ですが、確かに働いておられる方です。だからといって、聖霊を風や息あるいは気のように人格もなく意志もない、ただ神のいきおいだと思ってはなりません。聖書は明らかに、聖霊が神であることを証言しているからです。風はどうですか? 目には見えませんが、確かな力を持っています。時には暑い夏、爽やかな夕風を。また、時には恐ろしい台風となり、暴風と大雨を伴います。そのように聖霊は目には見えませんが、明らかな力と意志を持って父なる神のご計画と御子イエスのご意志に従って力強く世のすべてを司る方なのです。ですから、私たちは神を考えるとき、父と子にだけ留まってはなりません。聖霊が確かにおられ、御父と御子イエス·キリストと共にこの世界を統治しておられることを忘れてはなりません。見えないからといって存在しないわけではないからです。ご自分のことを隠して父と子を示される、その謙遜さを憶え、私たちは常に聖霊を神と認め、その方を尊重し、その御心に従順に聞き従うべきです。聖霊降臨節を迎え、この聖霊について黙想する機会になれば幸いです。 2.現代のキリスト者において聖霊とは? それでは、現代を生きる私たちにとって、聖霊はどのような意味を持つのでしょうか? 神学用語に「聖霊の照明」という表現があります。漢字語としては、天井についている蛍光灯のような照明器具のあの照明です。しかし、神学においてはその使い道が違い「悟りの光を照らし、主の御言葉を解き明かしてくれる。」という意味としての照明なのです。つまり、この照明は聖霊と聖書の関係を説明する用語なのです。聖書は紀元前1500年ごろから西暦100年ごろにわたって記録された文書だと知られています。複数の著者によって記されており、数多くの筆写本(手書きの写し)が残されており、原本は大昔に消失したと言われます。世々の複数の人によって記録されたため、時代の移り変わりによる歴史、文化、思想の違いがあります。それでは、このような聖書を何千年もたっている21世紀の今日、どうして理解し説教することができますでしょうか? それは聖霊の照明があるからです。聖霊は聖書の真の著者です。何千年という長い期間、聖霊のお導きによって聖書は記され、それによって「神の救い」という聖書の主なテーマは少しも変わらず保たれてきたわけです。つまり聖書は聖霊によって神の救いについての変わらないテキストとして今でも残っているのです。また、聖霊の導きによって、現代の牧師たちは神の救いについて説教することが出来るのです。現代人にとって、聖霊は聖書を照明して正しく理解させる、言葉の光としての存在です。聖霊のお導きによって、私たちは今日も聖書の言葉を聞き、主の御心を知り、信じるようになるのです。 また、聖霊はイエスについて教え、信じるように導いてくださる霊です。先ほど引用しましたように、イエスは聖霊について、こう言われました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)また、今日の本文はこう述べています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ローマ8:9) だから聖霊はイエス·キリストのことを示し、主の救いの御業と福音を証しし、罪人を悔い改めさせてキリストを信じるように導いてくださる存在なのです。人が自力でイエスを信じようとしても、罪のため、絶対にイエスを信じることは出来ません。聖書の言葉を聞いても「古代人たちの立派な教えだ。」あるいは「イエスは偉大な思想家だ。」くらいで終わるのです。人は聖霊の導きによって神の御言葉が分かり、自分を顧みるようになり、悔い改めるようになり、そのような過程を通して、はじめてイエスを主と崇めるキリスト者になっていくのです。したがって、聖霊はイエスについて教え信じるようにしてくださる霊です。聖霊のお導きがあるからこそ、私たちはイエスを自分の主と告白し、その方の民となるのです。つまり、聖霊の御業でなければ、誰もイエスを正しく信じ、さらに三位一体の神を知ることは出来ないのです。 最後に、聖霊はキリスト者の人生を導いてくださる方です。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ書8:11) 先日、復活について説教しながら死んだ肉体が再び生き返ることだけが復活ではなく、神を知らずに霊的に死んでいた者が、神を知り、信じ、新たに生き始めるのも、また別の意味としての復活だと言いました。聖霊が私たちの内におられれば、私たちはキリストを知り、信じるようになり、キリストの恵みのもとで以前とは異なる新しい人生を生きるようになります。聖霊によって聖書に記された主の御言葉を自分のものと受け入れるようになり、その御言葉に基づいて、過去とは違う人生を始めるのです。その後もキリスト者が神に召される日まで、聖霊なる神はキリストの恵みにあってキリスト者と常に共に歩んで下さり、日々正しい人生を歩んで行けるよう導いてくださるのです。キリスト教の神学では、このような聖霊による変化のある生き方を聖化(日本キリスト教会信仰の告白参照)と呼んでいます。そのため、主はヨハネによる福音書を通して聖霊を「弁護者(助け主)」と称され、主が昇天された後も、私たちと共におられる方だと言われたのです。 締め括り 今日は普段の説教では、あまり詳しく扱わない聖霊なる神について話しました。実は、本格的に聖霊について学ぼうとしたら、時間を決めて週に2、3時間ずつ1ヶ月くらいは勉強する必要があると思います。聖霊がなさる御業が、絶対に少なくないということです。今日の説教を通して、三位一体なる神の一位格である聖霊についてもう一度考えてみる機会となったら幸いです。聖霊は真の神です。聖霊は目に見えませんが、明らかに存在する全能な方です。聖霊はキリストの福音と言葉を悟らせてくださる方です。聖霊はキリストを信じるように導いてくださる方です。聖霊は私たちが主の御言葉に聞き従い、正しく生きるように助けてくださる方です。このような聖霊への知識を持って、常に認識して生きる私たちであることを願います。創造の時から、旧約時代と新約時代を経て、今もなお私たちと共におられる聖霊。私たちを助け導いてくださる助け主、聖霊を憶え、その方に頼って生きる私たち志免教会の兄弟姉妹でありますように祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

教会はキリストの体。

詩編33編12節(旧864頁) エフェソの信徒への手紙 1章15~23節(新352頁) 前置き 前回の本文の内容を手短に話してから説教に入りましょう。キリスト者は天地創造の前に、神の予定により、キリストにおいて選ばれ、教会に召された者です。キリスト者が神に選ばれ、教会に召された理由は、キリストによって与えられた神の輝かしい恵みをたたえるためです。神はキリスト者をお呼びになるために、御子イエスを十字架にかけられ、その贖いによってキリスト者をお買取りなさいました。また、神は十字架で死んだキリストを復活させられ、その方に世界を支配する権勢を与え、その方を神の真の相続人にしてくださいました。ですので、キリストは教会だけでなく、この世のすべての頭でもある方です。そして、神はキリストの贖いによって買い取られたキリスト者にも、主イエスの肢として主と共に神の相続人と呼ばれる光栄を与えてくださいました。したがって、キリスト者はキリストによって天地創造の前から選ばれた神の相続人として、主のご計画への堅い信仰で生きるべき存在です。志免教会はとても小さな群れですが、私たちをお呼びくださった大きな神の相続人なのです。その資格にふさわしく生きる私たちでありますよう祈ります。 1.「パウロの感謝の祈り」(15-16節) 前回の本文でパウロは、キリスト者が、どのようにして神に選ばれ、教会に召されるようになったのかについて話しました。パウロはまた、この手紙の受取人であるエフェソ教会も、そのように神に選ばれ、キリストによって神の相続人となったことを喜び感謝しています。「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」(エフェソ1:15-16) パウロはすべて4回の宣教旅行をしたと知られていますが、エフェソ教会は3番目の宣教旅行の時、パウロによって開拓された教会です。つまりエフェソ教会はパウロにとって自分の子供のような教会なのです。ちなみに2番目の宣教旅行の時には、コリント教会が開拓されたんですが、いろいろなトラブルで問題だったコリント教会とは違い、エフェソ教会は比較的に健全な教会だったと思われます。(比較的と書いた理由は、ヨハネの黙示録2章に描かれたエフェソ教会は主イエスの称賛と叱責を共に受けているからです。) パウロは今日の本文の15節と16節で、このエフェソ教会のために絶えず感謝の祈りをしていると言いました。 パウロはエフェソ教会の信仰と愛の便りを聞いて心から喜んでいたようです。おそらくパウロは天地創造の前に神に選ばれた存在であり、キリストの体であるエフェソ教会が、信仰と愛とによって健全に進んでいることに喜んだでしょう。私たちはこれを通じて神に選ばれた主の教会のあり方が「信仰と愛」にあることが分かります。信仰と愛の欠けた教会は虚しいです。主への信仰と隣人への愛、それこそが私たち教会が自らを証明する大事な基準なのです。それでは、パウロの祈りはどういうものだったでしょうか。彼は4番目宣教旅行以後、ローマの監獄でエフェソ書を書いたと知られていますが、彼は長い時間エフェソ教会を訪問できなかったにもかかわらず、自分の子供のようなエフェソ教会を愛し、覚えつつ祈ったのです。私たちは、こパウロの祈りを通じて何を祈るべきかを教えてもらいます。パウロは投獄され、いつどうなるかも分からない状態だったにもかかわらず、エフェソ教会の信仰と愛の便りを聞いて喜びつつ感謝の祈りを捧げました。私たちは隣の教会のために、どれくらい祈っているでしょうか? いつも自分あるいは我が教会だけのために祈っているのではないでしょうか? 私たちもまた、自分の状況を問わず、エフェソ教会のために祈ったパウロにならいたいです。主への信仰と隣人への愛にあって生きている兄弟と姉妹、そして隣の教会のために喜び感謝しつつ祈る私たちであることを祈ります。 2.信仰と愛の上に立って神の御心を悟っていこう」(17-18節) エフェソ教会の信仰と愛の便りを聞き、喜びと感謝の祈りを捧げたパウロは、エフェソ教会がさらに進み、主において成長していくことを祈ります。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、」(17) まず、パウロはエフェソ教会が「知恵と啓示との霊」によって「神を深く知る」ようにと祈りました。つまり、聖霊のお導きによって神への知識が増えることを願っているのです。人は自分で神を知ることが出来ません。人間には神との関係を妨げる罪の本性があるからです。つまり、神に教えていただかなければ、人間は絶対に神のことを自分で知ることは出来ないのです。ところで、キリストの贖いと赦しは、このような人間の罪の問題を解決し、聖霊のお導きによって、神を知る道を開きました。キリストに遣わされた聖霊は「神の知恵と啓示」を喜んで教えてくださる方です。私たちは聖霊の照明(光を照らして明らかにしてくださる。)によって聖書の言葉を聞き、悟り、実践しつつ、神のことを知っていきます。本当に信仰と愛とに立っている教会なら、聖霊によって神の御言葉を学び、神のことをますます知っていく健全な教会でなければなりません。人間は神を知ることが出来ませんが、御父と御子によって遣わされた聖霊は、キリストの恵みの中で、私たちに神への知識を喜んで与えてくださいます。 「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」(18)また、パウロは、主がエフェソ教会の心の目を開かせ、神の招き(神のお呼び)による希望と神の相続人となったキリスト者の受け継ぐもの(神の嗣業)の豊かな栄光を悟らせてくださることを祈ります。「招き(お呼び)」とはキリスト者が天地創造の前から主の予定によってキリストにおいて神の相続人として召されたことであり、「受け継ぐもの(嗣業)の豊かなの栄光」とは、神の相続人となったキリスト者が神に嗣業を受け継いだ栄光を意味するものです。詩篇にはこういう言葉があります。「いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。」(詩編33:12) つまり神の相続人となり、嗣業を受け継いだということは、罪の束縛から自由になり、神と和解し、祝福の中で神の所有となったという意味ではないでしょうか? 旧約聖書の創世記には、エデン(ヘブライ語喜び)の園に住んでいた最初の人の物語が書いてあります。最初の人はエデンで神の相続人のような存在であり、エデンは彼に委ねられた神の受け継ぐもののような場所でした。しかし最初の人は罪によってエデンから追い出され、神の相続人、主の嗣業を受け継ぐ特権を失ってしまいました。そして、その呪いは彼の子孫である全人類に同じく与えられました。しかし、神はキリストを通して人類の罪を赦し、主を信じるすべての者に回復を許してくださいました。だから相続人、受け継ぐものという言葉は、最初の人間が失ったエデンの特権をキリストによって回復するという意味ではないでしょうか? 3.「キリストは教会の頭であり、全世界の頭でもある」(19-23節) つまり、エフェソ教会が、先ほどお話しました主の恵みの中で進んでいくようにと自分の祈りを通して願っているのです。そしてパウロは19節を通して、そのようなすべての恵みが、絶対的な神の力によってなされるということを、神がエフェソ教会に悟らせてくださるように祈ります。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(19) その後、20節から22節までは、その神の絶対的な力への説明が書いてあります。その「神の絶対的な力」とは、まさにイエス•キリストの御業のことです。パウロはそれを通して、イエス•キリストの十字架での犠牲と復活、そして昇天といった主の御業が、キリスト者において「聖霊のお導きのもとで、神の御言葉を悟らせ、キリストと共に神の相続人として神の嗣業を受け継がせる」原動力であり、神の絶対的な力であることを示します。つまり、パウロはキリストご自身が、神の祝福を私たちに与える神の力であることを証言するのです。「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(21-22) さらにパウロはこのキリストが教会だけでなく、この世の真の支配者であることを語り、そのキリストがまた教会の頭であると力強く語っているのです。 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(23)ここで私たちはキリストが教会の頭であるということと、教会がキリストの体であるということの大事さを知ることが出来ます。これまでのエフェソ書1章の内容をまとめてわかりやすく話してみましょう。第一、キリスト者は天地創造の前に神の予定によりキリストにおいて選ばれ、教会に召された。第二、パウロはエフェソ教会が、主に召された教会として信仰と愛とで生きることを喜び、神に感謝した。第三、パウロはさらにエフェソ教会が信仰と愛との上に立ち、聖霊のお導きのもとで神を知るようにと祈った。第四、神のことを知りつつ、エヴェソ教会に与えられた神の招きの希望と神の嗣業が持つ栄光の豊かさに目覚めることを祈った。招きの希望とはキリストによって神の相続人となったことであり、神の嗣業の栄光の豊かさとは神との真の和解と交わりが出来るようになったことを意味する。第五、そのすべての恵みは神の絶対的な力であるキリストによってなされたものである。第六、神はキリストを教会だけでなく、全世界の支配者としてくださった。第七、エフェソ教会は、まさにこのキリストの体なる共同体としてすべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場である。それが昔のエフェソ教会と現在の志免教会のアイデンティティーであります。 締め括り 前回の説教は割と分かりやすいと思いましたが(教会はキリストによって天地創造の前の神の予定通りに召された存在)今日はその教会がどんな存在であるかを説明する、多少複雑な内容だったと思います。いつもパウロの手紙を研究しつつ、パウロの文章の難しさを感じます。しかし、今日の本文から学べる何かがあると思います。今日の説教で最も重要な内容は、私たちにあらゆる恵みを与える神の絶対的な力はイエス·キリストであり、私たち教会はその「神の絶対的な力」である「キリストの体」だということです。全世界の支配者であるキリストは、教会のみを通して、この世の中にご自分の声をお伝えになる方です。世の中のすべての人の分からない神の御心を、教会は聖霊によって知るようになり、世の中に伝えるのです。したがって、私たちは「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」というアイデンティティーを持っているのです。教会は単純に神を信じる人々が集まる同好会のような共同体ではありません。教会はまた建物を指す意味でもありません。私たちは、この世をご支配なさるキリストの福音を、この世に伝える主イエスの体なる共同体です。これからも、パウロの手紙を通じて教会のあり方と真の意味と大事さについて学んでいきたいと思います。私たち志免教会は「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」です。そのアイデンティティを憶えつつ生きる私たちであることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

抵抗の精神。

出エジプト記1章15-22節(旧94頁) エフェソの信徒への手紙 6章9節(新359頁) 前置き 前回の説教では、神の救いの歴史の余白について話しました。前回の説教の内容を手短に話してから、今日の説教に入りたいと思います。この世を生きながら、時々、私たちは神の助けが全く感じられない状況にあったりします。そんな時、私たちは神が本当に自分と共におられるのか疑うようになりがちです。しかし、そのように神の助けが感じられない時、私たちはそれを神の不在だと思ってはなりません。主は全能であり、全宇宙に満ちておられる方なので、どこにでも存在しておられる方です。したがって、不在は神の本質に合わない概念です。私たちは神の助けが感じられない時を、主がより深い恵みと救いを与えてくださるために、わざわざ置かれた余白の時間として受け止めなければなりません。主なる神は、ご自分の民一人一人の救いのために御子までも十字架で見捨てられた方です。そのような主が、ご自分の民を放っておかれるなんてあり得ないことです。主の意図的な余白はあるかもしれませんが、主は絶対にご自分の民を離れて不在になる方ではありません。出エジプト記のイスラエルの民が苦難のもとで泣き叫んでいた時、主はその余白の時間の中でイスラエルの救いを備えておられました。主は決して不在の方ではありません。主は救いのために余白を置かれるだけです。主の余白を不在としてではなく計画の一部として理解し、主の救いを待ち望む信仰者になりたいです。 1. ファラオの命令とヘブライ人の助産婦たち。 出エジプト記1章と2章にはヘブライ人(川を渡ってきた者たちという意味、すなわちユーフラテス川を渡ってきたアブラハムの子孫イスラエルを指す言葉。エジプト人は軽蔑の意味として呼んだという説もある。) に対するファラオの3段階の抑圧が出てきています。 一つ目は、前回の説教で学んだ重労働による抑圧です。しかし、聖書はこう述べています。「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し」(出エジプト記1:12) 前回の本文には、神が登場しておられなかったですが、神は見えないところで、むしろイスラエルを栄えさせ、守ってくださったわけです。そして今日、その二つ目の抑圧が出てきています。「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」(出エジプト記1:15-16) 大人のイスラエル人たちが重労働にも関わらず減らなかったため、ファラオは生まれたばかりの赤ちゃんを対象にして、悪いことをたくらんだわけです。ファラオはヘブライ人の助産師であるシフラとプアを呼び出し、男の子が生まれたら殺せと命じます。古代の帝国で、皇帝の命令は絶対的です。皇帝の命令に逆らうことは、すなわち死を覚悟するという意味です。しかし、シフラとプアは皇帝の命令があったにも関わらず、ヘブライ人の男の子たちを生かしました。 「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」(出エジプト記1:17) 助産婦たちがファラオより全能な神をさらに畏れていたためです。神への助産婦たちの信仰は、自分の命への脅威さえも超えるものでした。むしろ彼らは命をかけて、このように報告します。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」(出エジプト記1:19) ある意味で、とんでもなく、むしろ反抗のように感じられるほどの報告でしたが、ファラオは彼らに罰を与えられなかったです。神が彼らを祝福し、守ってくださったからです。エフェソ書6章9節には、こんな言葉があります。「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェソ6:9) 世の中には、数多くの権力者がいますが、そのすべての権力は神のお許しなしには成り立つことの出来ないものです。世の権力者たちは主の民の肉体の命を脅かすのは出来るかもしれませんが、その魂まで滅ぼすのは出来ないからです。主なる神は肉体も魂も両方とも滅ぼすことがお出来になる真の主人です。目の前の人間の脅威よりも恐ろしいのが、全能の至尊者である神の権威なのです。世の中の脅威と神の権威の間で、より偉大なものを選ぶのが信仰なのです。 2. キリスト者の抵抗の精神は神への信仰に基づく。 ここで、私たちはキリスト者の抵抗の精神の根本について知ることができます。キリスト者の抵抗は、ある特定の政治思想によるものではありません。私たちの抵抗は神の御言葉にその根拠を置き、神への信仰から始まるものです。今日の本文には助産師たちの名前が記してありますが、シフラとプアです。シフラの語源は「清い」プアの語源は「輝かしい」です。 新約聖書マタイによる福音書の山上の垂訓には「清い」と「輝かしい」に係わる2つの言葉があります。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:14)シフラとプアは単純に当時の助産師2人の名前だけを意味するわけではないと思います。彼らがどのような人々だったかを示すしるしだったはずです。清くて輝かしい信仰の助産師たちは、神を世の中の権力者よりも畏れていた人々でした。そして彼らは神への信仰によって当時エジプトの支配者であり、イスラエルを迫害者であったファラオの命令に抵抗しました。彼らは信仰によって命の危険に屈せず、神の御心をわきまえて従順に行ったわけです。そんな二人の信仰によってイスラエル民は数を増したのです。 キリスト者はひとえに三位一体なる神だけを真の王として崇める者です。そして、キリスト者の真の法は、三位一体なる神がお与えくださった聖書の御言葉のみです。世の中の法律も私たちに与えられた法ではありますが「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ローマ書13:1) 私たちはこのローマ書の御言葉に基づいて、一時的にこの世の法を了解しているだけです。永遠に私たちに与えられた法は主のみ言葉だけです。つまり、私たちは神の御言葉に逆らう間違ったこの世の法については、決して認めてはなりません。私たちは間違った法に抵抗しなければならない存在です。新日本キリスト教会の先輩たちは、日本帝国時代の旧日本キリスト教会に対して、このように評価しました。「旧日本キリスト教会は神の御言葉に背き、日本帝国の御用団体になってしまった。」神とその方の御言葉ではなく、権力と民族に屈服してしまったという意味です。また、植民地朝鮮の教会はどうだったでしょうか? 神社参拝に反対した人はきわめて少なく、多数の牧師は宮城腰背をただの国家儀礼だと言い訳をし、日本帝国に屈服してしまいました。その人たちが、まさに私と皆さんの先達なのです。彼らの姿には、今日の本文の助産師たちのような信仰は見えません。信仰による抵抗に失敗したのです。キリスト者は抵抗しなければなりません。聖書に照らして正しいことを支持し、間違ったことには拒否しなければなりません。命がけの覚悟で、主の御言葉に逆らう間違ったことに徹底して抵抗するべきです。 3. 世の権力への抵抗、自分の罪への抵抗。 私たちは 2 つの存在に抵抗しなければなりません。第一に、この世の悪い権力です。去年の韓国の大統領選挙以来、私に「ユン大統領が当選し、日韓が仲良くなって良かったね。」と言われる方が何人かいました。確かにユン氏が大統領になって日韓の関係が良くなって良かったと思います。しかし、韓国の国内でのユン氏の歩みはどうでしょうか? 労働者を弾圧し、検察が国政の要職に入って牛耳り、夫人の母の不正に知らないふりをし、庶民のための政治はしていません。弱い者よりは強い者のために政治をしているのです。「日本での生活が楽になった」という私自身の益一つあるだけで、韓国国内の弱い者の事情は悪くなったという事実に私はどうすればいいか戸惑っています。日本の政治はいかがでしょうか? 自分は日本人ではないので良い悪いとは言えませんが、皆さんのご判断はいかがでしょうか。もし、日本でも韓国でも悪い政治があるなら、教会は抵抗しなければなりません。その良し悪しの判断は、主の御言葉である聖書に照らしてするものです。日本キリスト教会は、日本の政治家が間違った政策を広げようとしたり、主張したりすれば、すぐに首相宛てに抗議声明を送ります。首相に「それは正しくありません。間違っています」と激しく抵抗するのです。私が日本キリスト教会を愛する理由の一つです。 第二に、私たちが抵抗しなければならない、もう一つの存在は私たち自身の罪の本性です。悪魔は絶えずキリスト者の信仰を妨げます。まるで、本文でイスラエルを弾圧するファラオのようです。しかし、誘惑と妨害を拒否するのも私たち自身であり、受け入れるのも私たち自身です。悪魔は補助するだけで、罪を選ぶのは自分自身なのです。私たちは、このような自分自身の罪の本性に向かって抵抗しなければなりません。人を憎むことも、御言葉に逆らうことも、罪を犯すことも、すべての決定は私たち自身次第です。そんな自分の罪の本性に抵抗しなければなりません。私は志免教会の皆さんを愛していますが、皆さんの罪の本性までも愛しているわけではありません。私自身の罪の本性をも愛していません。愛する妻ですが、彼女の罪の本性までも愛してはいません。私たちはこの自分自身の罪の本性に抵抗しなければなりません。使徒パウロはローマ書でこう言いました。「善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」(ローマ16:19) 他人を愛し、善を行い、自分への節制には賢く、他人を憎み、罪を犯し、自分の欲望には愚かであるべきということです。それがキリスト者の抵抗の生き方なのです。ヘブライ人の助産師たちのように清くて輝かしい信仰によって、ファラオ(罪の本性)に抵抗するキリスト者として生きていきたいです。 締め括り 「ファラオは全国民に命じた。生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジプト記1:22) 助産師たちの抵抗が激しくなると、ファラオは直接エジプトの国民にヘブライ人の男の子たちを川にほうり込めと命じます。これがファラオの3番目の弾圧でした。助産師たちが抵抗したにもかかわらず、結局世の権力は3番目の弾圧を推し進めたわけです。しかし、こんな弾圧の中でも神はモーセを生かしてくださり、彼を通して結局出エジプトを成し遂げられました。事実、キリスト者の抵抗は、世の大きな権力に勝つことはできません。私たちはあまりにも弱い存在だからです。しかし、私たちが抵抗する時に真の権力者である神は私たちの抵抗を無視されず、また別の恵みを備えてくださいます。助産師たちの小さな抵抗はイスラエルの指導者モーセを生かし、神は彼を用いてイスラエルをエジプトから救ってくださいました。世の権力への抵抗、私たちの罪の本性への抵抗、私たちの抵抗は弱いですが、私たちは決して忘れてはなりません。真の権力者である、主イエス・キリストが私たちの抵抗を祝福し、助けておられるということを。今日の御言葉に登場した二人の助産師シフラとプアの信仰にならい、抵抗して生きる私たちになることを祈ります。父と子と聖霊の名で。 アーメン。

言葉の力

箴言18章20-21節(旧1014頁) マタイによる福音書 12章35-37節(新23頁) 前置き 約十何年前のことです。インターネットにエンジョイジャパン、エンジョイコリアというウエブサイトがありました。最初は日韓の若者たちの友好拡大のために作られたウエブサイトでした。しかし、意図は非常に良かったものの、インターネット特有の匿名性により、むしろ互いにとがめ合う投稿が満ち溢れ、見事な喧嘩の場になってしまいました。良い会話を分かちあい、有益な文章を掲載する両国の人たちも少なからずいましたが、あまりにも対立的で非難ばかりの人が多くなってしまい、結局、そのウエブサイトは閉鎖してしまいました。各々の考えから湧き出てくる行き過ぎた非難と敵意を濾過する装置がなかったため、最終的に閉鎖したわけです。 当時、そのウエブサイトで穏やかな会話を交えた両国の人もおり、それなりの良い思いと写真を分かち合う人もいましたので、閉鎖がとても残念だと思いました。すごく良い交流の場になり得るところだったに、今でも残念な記憶が残っています。 1.言葉とは? 今日、最初からこのような残念な例えを挙げた理由は、当時、そのウエブで、日本と韓国の人々が相手を攻めつけた道具が、他ならぬ、人の言葉だったからです。言葉には強い力があります。人どうしの好き嫌いが一番最初に言葉によって現れるからです。言葉とは、単純に口から出てくる言語だけを意味するわけではなりません。それ以上の何かが言葉には込められています。言語を形成するための要素、つまり意図、考え、思い、それら全てが結局言葉に由来するからです。もし、互いに良い心を持って、良い言葉を使おうとしたら、前置きのような残念な出来事はなかったはずです。言葉は人の思想をおく器です。ある人がどのような言葉を使うのかにつれて、その人の正体が明らかになるのです。人が言葉を用いることと同じように、言葉も人を用いるからです。 神が人間に「言葉」を与えられた理由は、言葉を用いて人と人が交わりあい、心と心を分かちあうからです。人に言葉がなければ、どういうふうに他人と心を分かち合い、交わることが出来るでしょうか?そういう意味で、言葉は確かに重要な道具です。しかし、また、この言葉を間違って用いれば、人と人の間に壁を立て、誤解をもたらす道具にもなり得ます。ドイツの実存主義の哲学者ハイデガーは、こう語ったと言われます。『言葉とは人間の存在が現れる場である。』たとえ言葉が目に見えないといっても、その言葉によって、言葉を吐き出した人の思想や哲学が示されるからです。愛の言葉を使うか、憎しみの言葉を使うかにつれて、話し手の立場が変わります。人がどのような言葉を使うのかによって、その人の存在は変わるという意味です。言葉によって人を生かす者となり、 言葉によって人を殺す者となるのです。言葉の使い方によって、人の実存が決まるということです。 ギリシャ語で言葉を意味する単語は「ロゴス」です。このロゴスは、主に「言葉」を意味しまが、他により多くて深い意味をも含まれています。「理屈、法則、秩序、真理」など、より哲学的で、宗教的な意味が隠れているのです。このロゴスをヘブライ語に訳すれば「ダバル」となります。この「ダバル」は、神が天地創造のときにおっしゃった、その言葉のことです。「ダバル」は爆発的なエネルギーを含んでいる言葉なのです。神が「ダバル」されると光が造ら、神が「ダバル」されると太陽と月と星々が造られ、神が「ダバル」されると、天地万物が造られました。また、神が「ダバル」される際に「理屈、法則、秩序、真理」が明らかになりました。神が「ダバル」された時に全ての良いものが生まれたわけです。神は、その「ダバル」を人にも与えてくださいました。人がその「ダバル」をどう使うのかにつれて、この世は変わるわけなのです。善く変わることも、悪く変わることも神から与えられた「ダバル」の使い次第です。 2.悪の言葉に満ちた世界。 日本と韓国は歴史的に深い関係を結んできました。学者たちは、朝鮮半島を経由して仏教文化や、服飾文化などの古代文化が流れ込んできたと言います。また、日本から朝鮮半島に西洋文物が本格的に入り込んだとも言います。特に近代の法律や行政体系のほとんどが日本から朝鮮半島に入ったという学説は紛れもなく事実です。(ただし、植民地経営のためという残念な経緯はありますが。)とにかく、互いに大きい影響を及ぼしたに違いありません。もし、日本と韓国が、真心を込めて協力することが出来れば、どこの国々よりも互いに助け合える良い相手になるでしょう。私は今まで、約20カ国以上を旅行したり、数ヶ月間暮らしたりした経験があります。その中に日本と韓国のように文化的に、言語的に似ている国は見たことがありません。まるで兄弟のような両国だと思います。 しかし、事実、日本と韓国はそう簡単な関係ではありません。ニュースや雑誌、新聞などを見たら、相手への厳しい評価が少なくありません。韓国社会で日本を非難する言葉を聞くのは難しいことではありません。そして日本でも、韓国を蔑視する人がおり、東京の有名な本屋には嫌韓論コーナーが別に備わっているほどです。一部の人々は、相手の国が滅びてしまうことを願うという言葉をためらいなく出しています。しかし、私たちは、より広く眺める必要があります。日本も韓国も、結局は神の被造物であるということです。先祖の先祖まで遡れば、最終的に一人の祖先、そして、彼の造り主である神にまでつながるでしょう。だから、日本と韓国は実に兄弟関係なのです。しかし、日韓の間にはいまだに微妙な緊張感がしゃがんでおり、少しでも隙間が見えたら相互批判が跳ねてくる状態です。何と悲劇的な現実なのでしょうか?互いに愛し合って生きるにも時間が足りないのに、なぜ、このように憎まなければならない状態になっているのでしょうか? 私は創世記3章の蛇を操った悪魔の名前が、ひょっとしたら、離間ではないかと思います。悪魔が神と人間、人と人との間に離間の種を蒔いたわけではないかということです。もちろん、神は悪魔に離間される方ではありません。しかし、問題は人間です。弱い人間という存在は、離間により、簡単に仲が悪くなってしまうでしょう。結局、最初の人は神を憎むようになり、人と人の間にも不和が入ってきたのでしょう。例えば、アダムは神と妻、両方を責めました。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』そして、アダムの長男カインは弟のアベルを無慈悲に殺した後、さらに神にも無礼に言いました。 『主はカインに言われた。お前の弟アベルは、どこにいるのか。カインは答えた。知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』 初めの神の愛の言葉に満ちていた、この世に、人間の罪によって憎しみが入って来ました。そして、そのような憎しみに汚された言葉は、今まで残っており、この世界に、日本と韓国の間に、そして私たちの間にも影響を及ぼし、相手を憎み、対立するようにさせているのです。 3.言葉(言い方)を変えなければなりません。 神は愛の言葉によって世界を創造されました。神はご自分の御言葉(神の理屈、法則、秩序、真理を通達しておられる御子のこと)に肉を与え、この世に遣わされ、罪人の救い主にしてくださいました。神はご自分のみ言葉を教えてくださる御霊を送られ、今でも私たちと共に歩んでくださいます。神の御言葉は、愛の言葉です。その愛の言葉によって、私たちは今日も神の愛のもとに生きているのです。しかし、この世は神の言葉に逆らいます。絶えず、憎しみの言葉を生み出しているのです。時には建前ではほめているが、本音では憎しみに満ちている場合も多いです。箴言はこう語っています。『死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。 』(箴言18:21)イエスはこう言われました。 『あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。』(マタイ12:37)そして、ヤコブはこう語りました。 『舌は火です。舌は不義の世界です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。』(ヤコブの手紙3:6)聖書は、常に人の言葉を警告しています。主の民である私たちは、どのような言葉を話しつつ生きるべきでしょうか? この世界は今、憎しみと恨みに満ち溢れています。人の前ではニコニコしますが、後ろでは睨みつける偽善者も多い世界です。このような世の中で、私たち、主イエス・キリストを信じるキリスト者は、違う生き方をとるべきだと思います。言葉と心が同じでなければなりません。言葉で人を殺す世界の中で、私たちは言葉を通して人をを生かすべきではないでしょうか。言葉で暴力を振るう世界の中で、私たちは言葉を通して神の平和を宣べ伝えるべきではないでしょうか。イエスは明らかに言われました。『善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。』(マタイ12:35)私たちは、善い人でしょうか?悪い人でしょうか?私たちの言葉が自分のことを証明するのです。私たちの日常の言葉が神に恵まれた愛の言葉であることを祈ります。 言葉には力があります。韓国には「一言で千両の借金を返す。」ということわざがあります。良い言葉の力を強調する表現です。なにげなく、口から出てくる一言の言葉、時には誰かの人生を変える復活の言葉になり、また時には誰かの心を崩す死の言葉になり得ます。しかし、私たちは毎日言葉を使っているので 、その重さを見落としてしまうことが多いと思います。良い言葉が良い関係を生み出し、良い言葉が美しい世界をもたらします。神が私たちに常に良い言葉だけを追い求める力をくださるように祈ります。良い言葉が持っている強い力が、私たちの口を通して響かれることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

救いの歴史の余白。

出エジプト記1章1~14節 (旧94頁) ヨハネによる福音書20章29節 (新210頁) 前置き 3年間の長い創世記の説教が終わりました。そして今日からは新しく出エジプト記の説教に入ろうとしています。前の創世記の説教では、比較的に聖書の本文を細かく探ってみようとしたので、時間がかなりかかるようになったと思います。これからの出エジプト記の説教では、すべての本文を説教するより、聖書の重要な出来事を中心に説教する予定です。今日は出エジプト記の始めに出てくるヤコブの子孫の系図について、そしてイスラエル民族に迫ってきた苦難と主の時について、話してみたいと思います。主が出エジプト記を通して主の御言葉を教えてくださり、私たちの信仰生活を導いてくださることを祈ります。 1. 歴史の導き主は、イスラエルの神である。 中学生の頃、母がこんな質問をしました。「英語で歴史が何かわかる?」「ヒストリーですよ。」「なぜ、ヒストリーかな?」「分からない。」「HIS STORY、彼の話だからよ。」「彼って誰?」「イエス様のこと。」「ええっ、うそ!」歴史を意味する英語のヒストリーは本当に「彼の話」という意味でしょうか? 実はこの英語のヒストリーはラテン語の「ヒストリア」に由来します。またラテン語の「ヒストリア」はギリシャ語の「ヒストリア」をそのまま訳した表現です。そして、ギリシャ語の「ヒストリア」は「賢い」という意味の「ヒストール」から来ました。どこかで、ヒストリーに関して聞いた母が感激しながらヒストリーについて情熱に話しましたが、十何年後、神学校で、そうではないことを知り、くすっと笑った記憶があります。ところが、原文的には間違った解釈であるかもしれませんが、信仰の経験的には、本当にヒストリー(歴史)が「彼(神様)の話」のように感じられる時もあります。主が歴史の導き主であるということです。そして出エジプト記は、その歴史の導き主である神について、顕かに示している聖書だと思います。今日の本文1-7節は、神が歴史の導き主であることを教える箇所です。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」1-5節には創世記に比重大きく登場していたヤコブとその息子たちの名前が書いてあります。 この間の説教で、創世記のヘブライ語のタイトルを訳すると「はじめに」になり、出エジプト記のヘブライ語のタイトルを訳すると「名前」になると申し上げました。旧約聖書は別のタイトルがなく、接続詞を除いた最初の文章の最初の単語がタイトルとして使われたからです。したがって、出エジプト記は、まず名前、つまりヤコブとその息子たちの名前から始まります。ヤコブと息子たちの名前が記録された後、6節では彼らが皆死んだと記してあります。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、」イスラエル民族を代表する先祖たちが皆死にましたが、7節は再びこのように語ります。「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」日本語聖書では「が」という接続助詞で、わりと薄く訳されたと思いますが、ヘブライ語の聖書を読むと、6節と7節の間に「しかし」という表現がはっきり入っています。つまり、「大事な先祖たちが皆死んだ。しかし、イスラエルの子孫はますます栄え続けていった。」ということでしょう。祖先は皆死んで神のもとに召されたんですが、その子孫は先祖の死と関係なく、神によって栄え続けていったということです。ここで私たちは神の民を導く者が、ある特別な指導者ではなく、偉大な神ご自身であるということが分かります。この世に数多くの指導者がいます。しかし、歴史はその指導者たちが作っていくものではありません。ひとえに主なる神だけが歴史を導いていかれます。そのため、大事な祖先が亡くなったにもかかわらず、神のお導きによってイスラエルはますます強くなっていきました。 2. 苦難は神の不在のためなのか。 さて、ここで一つ問題が生じます。「ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し…イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。」(出エジプト記1章8-11節の一部)イスラエル民族がますます強くなっていくだけなら良いですが、現実はそうではありませんでした。新しいエジプトのファラオが現れ、イスラエルの民を奴隷にして苦しめ始めたのです。なぜエジプトの王はイスラエルを苦しめ始めたのでしょうか? 先祖のファラオがヨセフによってイスラエルを受け入れてくれたのに、子孫のファラオが先祖の判断に逆らうということでしょうか? 違います。私たちはヤコブ時代のエジプト王朝と出エジプト時代の王朝が違うことを留意しなければなりません。日本の場合「万世一系」という概念で天皇家は一つの血統によると言いますが、近い中国や韓国の場合、王朝が変わった出来事が多いです。たとえば、韓国の以前の朝鮮は李氏王朝で、朝鮮の前の高麗は王氏王朝だったようにです。前にも説教で話しましたが、ヨセフが総理だった時代のエジプトはヒクソス人の王朝でした。つまり、純粋なエジプト人ではなかったのです。むしろ、アブラハム家が属したセム族に近い民族でした。ヒクソス人が北から攻めてきてエジプトを征服し、エジプトで自分たちの王朝を打ち立てたわけです。しかし、ヒクソス人は、後日、エジプト人の反乱軍によって滅ぼされ、権力を引き渡すことになったのです。 その過程で、イスラエルは新しいエジプト王朝の奴隷となってしまいます。イスラエルはエジプトよりヒクソス人に近い民族なので、戦争でも起こればイスラエル民族が裏切るかもしれないとおそれたからです。本文にその根拠があります。「これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」(出エジプト記1章10節) そのようにイスラエルは非常に大きな危険にさらされていました。エジプトの新しいファラオは、イスラエル民族を弱めるために重労働を課して虐待しました。エジプトの総理の民族だったイスラエルが、奴隷民族になってしまったのです。神に選ばれた民族「イスラエル」、神が先祖アブラハムとイサクとヤコブと、空の星のように、海の砂のように栄えさせてくださると約束された「イスラエル」。そのイスラエルに絶体絶命の危機が迫ってきたのです。もし、ここでイスラエル民族が大きい苦難に負けて滅びることになったら、神の約束は台無しになってしまうでしょう。それでも、今日の本文の1節から14節では、神の御業が一度も現れていません。まるで神が知らないふりをしていらっしゃるように感じられます。イスラエルが苦難の真ん中にさらされている、この物騒な時代に神は果たしてどこにいらっしゃったのでしょうか? 3. 余白は不在ではない。 先ほど、私は神が歴史の導き主であり、イスラエルを栄えさせてくださったと言いました。ところが、今日の本文に出てくるイスラエルを見れば、歴史の導き主である神の動きが全く見つかりません。ご自分の民が苦難を受けても、主の御業は見つかりません。もちろん1章17節からは神のお働きが見えますが、今日の本文に限っては神がイスラエルを完全に無視しておられる様子です。では、主はイスラエルの苦難を傍観しておられたわけでしょうか? 私たちは神の時間と人間の時間の違いによる乖離を理解する必要があります。ギリシャ語には「時間」を意味する2つの言葉があります。1つは「クロノス」であり、2つは「カイロス」です。旧約聖書の神の御業について話しているので、ギリシャ語の概念を取り上げるのは少し無理ではないかと思いますが、これ以上、主の時間を説明するのにぴったりの概念はないと思います。「クロノス」とは、自然に流れていく物理的な時間のことです。「志免教会の主日礼拝は午前10時15分から1時間くらいです。」ここでの時間はクロノスです。「カイロス」とは時間の長短とは関係ない、具体的な出来事の中で現れる驚くべき変化を経験する時間のことです。「志免教会で守った、その日の礼拝は、私において人生が根こそぎ変わるほどの大事な時間でした。」ここでの時間はカイロスです。 つまり、人間は「クロノス」という物理的な時間に束縛されているので、クロノスの外で働いておられる神の御業を全く感じることが出来ない存在です。時間の束縛から自由でいらっしゃる神は、最も決定的な瞬間に決定的な時間である「カイロス」を通して働かれます。そこから、まるで、神は何もしていないという人間の誤解への答えが出てくるのです。主は主の時間を通して働いておられる方です。イスラエル民族がクロノスの時間の中で苦しみ、泣き叫んでいた時、主なる神はカイロスの時間を通して、イスラエルの解放と救いのために準備しておられました。私たちの人生において、主のお導きが全くないような時、主の答えも聞こえてこないような時、主は私たちのことを無視しておられるわけではありません。主は主の時間を通して私たちのために働いていらっしゃるのです。つまり、私たちが主がおられないと感じるその瞬間は、主の不在の時間ではありません。それは主の時を準備する余白の時間です。不在と余白は雲泥の差です。不在は無力ですが、余白は力強いです。主がご自分の御業を成し遂げられる「カイロス」の時間が来るまで、主は余白を持ってその時が来るのを待っておられるのです。イスラエルが強くなって数十万になるまで、たとえ彼らに苦難が襲ってきたといっも、主はその時を静かに待っておられるのです。 締め括り 出エジプト記でヤコブとヨセフが亡くなり、イスラエルはエジプトの奴隷となりました。その時間(クロノス)の間、主はイスラエルを完全に見捨てておられるようでした。しかし、主の時間(カイロス)になった時、(聖書では、時が満ちたというふうで使われる場合がある。)主はモーセを遣わされ、イスラエルを救ってくださいました。それと似たような出来事が新約にもあります。旧約聖書マラキ書以後から洗礼者ヨハネの登場までの約400年の間、公式的な神の啓示はありませんでした。そういうわけで、ある学者たちはこの時期を神の啓示が消えた暗黒時代だと言いました。しかし、その後どんなことが起こったでしょうか? 神の時が近づき、子なる神がイエスという名でご自分の民を訪れてこられたのです。啓示の代わりに啓示の主人が遣わされたわけです。神への信仰によって生きるキリスト者にとって、神の不在はありません。ただ、神がわざわざ残しておかれた余白の時間があるだけです。信仰とは、主の時を待ち望むことです。「日本の教会が困難であり、私たちの生活が苦難であり」など、私たちの人生には数多くの危機が起こり得ます。そして、神の応えが聞こえないような時もあり得ます。けれでも、忘れないようにしましょう。その時間は神の不在の時間ではありません、それは明らかに答えてくださるために主が置かれた余白の時間です。主イエスのこの言葉が思い起こされます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音20:29) 神の不在と余白。私たちはどちらを信じていますでしょうか? 主のお導きをかたく信じる私たちであることを切に祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。