ヤーウェ・イルエ(主が備えてくださる。)

創世記22章1-19節(旧31頁) ヨハネの手紙一4章9-10節(新445頁) 前置き 世の中で一番偉大な愛とは何でしょうか。神が人類を愛する無条件的な愛、いわゆるアガペーの愛を除いて、最も崇高で偉大な愛は断然子供に向けた親の愛、ステルゴではないかと思います。(ギリシャ語、ステルゴは献身。家族、親、子、君主への愛)恋人への愛を意味するエロスは、最初は燃え上がりますが時間が経つにつれて冷めていき(夫婦の愛はエロスから始まってステルゴになる)友達や恩師への愛、つまりフィレオは愛の感情というより、友情あるいは尊敬、尊重に近いでしょう。しかし、子供への親の愛、つまりステルゴは子供のために喜んで命を懸ける、献身的な愛なのです。もしかしたら親の愛ステルゴは人間の愛の中で、神の愛であるアガペーに最も似ている愛なのかも知れません。いつか、こんな話を読んだことがあります。朝鮮戦争の時、南下してくる北朝鮮軍が撃った砲弾のかけらに当たった、ある若い母親が、自らは死に行きながらも子どもを生かすために乳を飲ませ、母親の犠牲によって生き残った子どもが米軍によって救助され、養子縁組されたという話です。実に涙ぐましい母の愛の物語です。このような物語は、どの文化圏にでもあり、人々に親の愛を悟らせます。それだけに親の愛は何よりも偉大な愛であり、民族と文化と国家を貫く真の愛なのでしょう。 1.アブラハムに与えられた試練。 母の日、父の日でもないのに、冒頭から親の愛を取り上げた理由は、今日の本文に世の中で何よりも大切な息子を生贄にしなさいと、ご命令なさる神と、それに応ずるアブラハムの物語が登場するからです。アブラハムは前の21章で、愛する息子であるイシュマエルを捨てなければなりませんでした。「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」(21:11)たとえ、本妻サラの圧力と神のご命令の故にイシュマエルを行かせてしまったとしても、父アブラハムはイシュマエルも愛していたはずでしょう。しかし、アブラハムは神の御言葉に聞き従い、薄情にも息子を去らせてしまいました。おそらくアブラハムは、イシュマエルを捨てたことに罪悪感と苦しみを覚えたことでしょう。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(22:2)ところで、神は今度は100歳で儲けた最も大切な息子であるイサクさえ、焼き尽くす献げ物としてささげなさいと命じられたわけです。長男を去らせ、また残った次男さえも、お求めになる神。アブラハムも一人の父親として、親の愛、即ちステルゴの愛を持っていたはずです。にも拘わらず、主はアブラハムに、その最も可愛い息子を自分の手で殺し、その肉体を切り裂いて、祭壇で焼き尽くせという恐ろしい命令を下されたのです。 もし、私がアブラハムでしたら、何日も思い煩っていたことでしょう。神に「代わりに私を死なせてください。」と乞い願ったかも知れません。しかし、神の御命令をいただいたアブラハムは、一言もなく神の御言葉に従いました。「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」(3)神学校に入学する前、ただ文字の上でだけ聖書を読んだ時の私は、到底、このアブラハムを理解することが出来ませんでした。いくら神の聖なる試練であるからと言っても、子どもを殺す仕打ちは、親として許せないと思ったからです。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えた。」(4)しかし、教師になって本文を研究する際に、アブラハムの苦しみと悲しみの感情に気付くことになりました。ある解説書によると、4節の「目を凝らすと。(直訳.目を上げて眺めると)」という表現には、聖書には記されていないアブラハムの苦悩が含まれているそうです。何気なく見えたアブラハムにとっても、息子の犠牲は、心が裂けるほどの痛みだったのです。しかし、アブラハムは、これまで自分の人生を正しく導いてくださった神が、この先もきっと正しく導いてくださると信じ込んでいたでしょう。しかし、それにもかかわらず、その神の本当の御心を知るためには、いちおう息子を神に捧げる、人間としては耐えられない試練を経験しなければなりませんでした。これはアブラハムの一生の試練だったのです。 2. 神への徹底した信頼が無ければ認められない。 一時、私はこの本文に対して、自分のすべてを捧げて、信仰を貫かなければ神に祝福されないという風に説教したりしました。ですが、今では登場人物の感情を無視しすぎたのではないかと反省しています。もし、聖書の登場人物ではなく、私の隣人に、このようなことが起こったら、私は気軽に「神を信じて家族を捧げましょう。神が祝福してくださるでしょう。」と言えるでしょうか?なぜ、神はこんなに無理やりにアブラハムに求められたのでしょうか? また、アブラハムは、なぜ無理やりな命令に従順に従ったのでしょうか。「イサクは言った。火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。アブラハムは答えた。私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。二人は一緒に歩いて行った。」(7-8)アブラハムは、神の約束を信じ込んでいました。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(17:19)神は、確かにイサクという、たった一人の息子を通して、契約を立て、民族を立ち上がらせてくださると、固く約束なさったのです。過ぐる数十年の間、神はアブラハムとの約束を覚えておられ、固く守ってくださいました。アブラハムは、長年、その約束の神を経験してきたのです。神へのアブラハムの信頼は絶対的なものだったのです。 新約のヘブライ人への手紙は、今日の場面をこう説明しています。「アブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれると言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」(ヘブライ11:17-19)ヘブライ書の記録者はアブラハムが、「もし神がイサクをお受けになっても、既に結んでくださったアブラハムとの約束を守ってくださるために、イサクを死者の中から蘇らせてくださる。」と信じていたと証しています。その分、アブラハムは現在の目の前の状況より、神の御言葉にもっと重きを置いて、最後まで約束の神を信じ込んでいたわけです。「アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。その時、天から主の御使いが、アブラハム、アブラハムと呼びかけた。彼が、はいと答えると、御使いは言った。その子に手を下すな。何もしてはならない。」(10-12) 神の御言葉への限りのない信仰、そして、もし、そうでなくても、神がそれに相当する他の方法で必ず約束を守ってくださるという信頼。過去、数十年の間、数多くの失敗と過ちの中で信仰の浮き沈みを経験してきたアブラハムでしたが、今回は成熟した堅い信仰を持って最後まで神を信じ込んだのです。そして、神は彼の堅い信仰をご覧になり、ついに彼の信仰を認めてくださいました。「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」いよいよ彼は神に信仰の父と認められるようになったのです。 3.ヤーウェ・イルエ、主が備えてくださる。 そもそも神は人身御供、つまり人を生け贄にお受けになる方ではありません。旧約聖書のあちこちで、神は異邦人が神々に自分の息子を捧げる人身御供を禁じられました。つまり、神は異邦人のように人の命を軽んじる方ではないということです。神は当初からイサクを供え物にさせようと思っておられなかったのです。神はあくまでもアブラハムの信仰をお試しになるために息子を捧げるようにと言われたわけです。アブラハムが息子を捧げようとした時、神の御使いは、それを阻んで神へのアブラハムの絶対的な信仰を確かめました。これは過去、数十年間のアブラハムの信仰が、本物か偽物かを究め尽くす最終段階のテストだったのです。時々、神はご自分の民に試練をお許しになります。しかし、その試練は民を苦しめるための試練ではありません。より一層豊かな神のご恩寵に導くための、神の恵みの手立てなのです。過去の試練は厳しかったが、後々顧みると、その試練があって良かったと思われる場合が少なからずあるでしょう。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント第一10:13) 実際に神は、この試験の後、より多くの祝福をくださり、イサクの将来を明るく輝かしてくださいました。我々は人生の試練に遭う時、神の祝福が目の前に来ていることに気づくべきです。もちろん試練が大変であることは当然のことです。それでも神への信仰だけは失わず、必ず報いてくださる神を信じていきたいと思います。 「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行って、その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(13)むしろ、神はこの出来事を通して、まるで鏡のように主の御業をお示しくださいました。数多くのキリスト教の聖書の解釈者たちは、今日の本文を通じて、神が御自身で成し遂げられる偉大な御業を予告してくださったと告白しています。アブラハムがイサクを捧げたように、御父は御子を生け贄にされたからです。神はアブラハムとイサクのために茂みに角をとられた雄羊を送ってくださいました。アブラハムはイサクの代わりに、その雄羊を捧げ、2人は無事に帰ることが出来ました。キリスト教の解釈者たちは、旧約のこの雄羊が、自分の民の身代わりに死んでくださる新約のキリストのモデルであると信じていました。主なる神は常にご自分の民を導き、民の道を開いてくださる方です。主は異邦の神々のように民を虐げる方ではありません。むしろ、主が先に苦しみと悲しみをお受けになり、後についてくる民を安全に守り、導いてくださる愛の神です。イエス・キリストは罪の故に裁かれなければならない、罪人のために神が御自身で備えてくださった贖いの生け贄です。アブラハムは息子を捧げようとする信仰を見せただけですが、神は実際に独り子イエスを犠牲になさり、ご自分の民への真実な愛を確証してくださいました。 締め括り 「アブラハムは、その場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、主の山に備えありと言っている。」(14)今日、アブラハムが祭壇を築いたモリヤの地の語源は「ラアー」ですが、その言葉には「備える。」という意味があります。そして、この「ラアー」は今日の説教の題に出てくる「イルエ」の語源でもあります。同じ語源を持つモリヤとイルエ。これは偶然の一致なのでしょうか? 主は初めからイサクを生かす御計画だったのです。その代わり、主は遠い後日、ご自分の独り子を犠牲にして、民の犠牲ではなく、ご自分の犠牲によって彼らを赦し救ってくださいました。三位一体のお一人の御子が死ぬということは、絶対に有り得ないことでしたが、父なる神は、それをなさったのです。三位一体において、それは大きな苦しみでした。私はその神の痛みについて、よくこう説明したりしました。「御父が民のために御子を死に追い込んでくださったことは、人が自分の胸を切り裂いて心臓を取り出すことでも比べ物にならないほど、極限の苦しみである。」それだけに主なる神は民を愛しておられる方なのです。主はご自分の民のために、まるで心臓のように大事な息子を進んでお捨てになったわけです。そして復活させることによって、御子を信じるすべての者に、真の赦しと和解を与えてくださいました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。私たちの罪を償う生け贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一4:9-10)神の愛には限りがありません。そのような神が与えてくださる試練は、私たちの信仰を養うための、もう一つの愛の表現なのです。試練を恐れず、常に私たちを愛し、共に歩んでくださる神への信仰と愛を持って生きることを願います。