あなたの信仰があなたを救った。

出エジプト記29章38-46節(旧143頁)         マルコによる福音書5章21-34節(新70頁) 前置き 前回の説教でイエスは、湖の向こう岸の異邦の地であるゲラサ人の地方に足を運ばれ、汚れた霊に取りつかれた人を治してくださいました。これはイエスが御自分の本来の民であるイスラエルだけでなく、異邦人までもご自分の民として受け入れてくださる宣教の出来事でした。ここで汚れた霊に取りつかれたという意味は、一個人が精神的に狂ったということを超えて、神に対抗する悪の権勢に支配される世の中と社会の不条理を意味する、社会的な意味をも持っていました。主は、ゲラサ人の地方で、そのような悪の権勢に苦しめられている人をお治しになることで、キリストの癒しと教えと宣教が、この地方でも始まったということを教えてくださったのです。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」(20)ところで、主は悪霊に取りつかれていた人を治してくださった後、これ以上デカポリス地域には行かれず、またガリラヤに戻っていかれました。その代わりに主は、ご自分が治された悪霊に取り付かれていた人をデカポリス地域に遣わされました。主に治していただいた、その人は元々イエスと同行しようと思いましたが、主はむしろ彼を地元にお遣わしくださることで、主の御業を宣べ伝えさせられました。すなわち、主は彼を宣教師として派遣してくださったのです。この地上に宣教師として来られたイエスは、主の民を呼び出し、癒してくださり、教えてくださることで、彼らを再び宣教師として行かせる方です。このように宣教は神から始まり、その民、すなわち教会を通して行われるものなのです。 1.会堂長のヤイロと出血病の女性 「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。」イエスがまた、向こう岸にお渡りになると、大勢の群衆が主のところに集まってきました。その時、一人の男が主を訪ねてきました。「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(22-23)ヤイロという人は当時のユダヤ人の中でも宗教的な権威を持っている、いわゆる「偉い方」でした。彼は会堂長で、その村の宗教指導者だったのです。そしてある意味でイエスを最も警戒する反対側の一人でした。そんなヤイロが危篤な娘のために、警戒すべきイエスの御前に出てきて、高いプライドを捨て、ひれ伏したわけです。彼が大事にしたのは、自分の自尊心より死んでいく娘が救われることでした。23節の「助かり」という表現にはギリシャ語「ソーテーイ 」つまり、「救い」の意味が含まれています。彼にとって「救い」とは、死んでいく娘が全快することでした。彼は会堂長という自分の地位も、ユダヤ教という宗教も、いかなる医学も、娘を治せないことに気付き、最後にイエスを訪ねたのです。そして主は快く彼の家に足を運ばれました。 ところで、今日の本文は25節で突然、会堂長のヤイロの物語から12年間も出血の止まらない女(以下、出血病の女)へ眼差しを移します。ヤイロの娘は死にそうな状態で、すぐさま駆けつけねばならず忙しいところに、なぜ本文は、いきなり他の人に関心を注ぎ始めるのでしょうか。初め説教が長くなるかと思って、ヤイロと出血病の女の物語を2回に分けてお話しする予定でしたが、実はこの会堂長ヤイロと出血病の女の物語は、ひとつの話なのです。(21-43)ハンバーガーを食べる時、2枚のパンの間に具材を差し入れて食べることと同じように、この物語は2つに分けられているヤイロの物語の間に出血病の女の物語が挟まれている様です。まず、ヤイロが娘のために主と出会い、主が娘のところに赴く途中、出血病の女に出会って治され、また、主が、すでに死んでしまったヤイロの娘を生き返らせるという仕組みなのです。ハンバーガーを具材別にではなく、一口で一緒に食べることと同じように、この物語も、ひとつの話として受け止めるべきなのです。本文は会堂長ヤイロと出血病の女という二人の信仰を通して、主イエスの御業を示すために、このようなハンバーガーのような仕組みで話を展開しているのです。それでは今日は出血病の女の信仰について話してみましょう。 2.命をかけてイエスを求めた出血病の女。 本日、登場する出血病の女は、当時イスラエル社会において極めて不正な存在とされていました。そもそも旧約律法で女は不正な存在と考えられていましたが、その理由は女性が子供を産む存在だったからです。これを聞くと「出産は生命を生む神聖な行為なのに、なぜ不正に扱われるだろうか?」と疑問が生じるかもしれません。「神は女に向かって言われた。お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」(創世記3:16)なぜなら、古代イスラエルでは、出産の苦しみが人間の罪に対する神の呪いであるという間違った信念があったからです。出産時の出血、生理、女性の出血なども、それと同じ脈絡で理解できるでしょう。そのため、女と出血は律法において不正なものの一つでした。現代にも女性差別がありますが、イスラエルの律法までもが女性を悲しませていたわけです。また、律法は病気も不正なものだと見なしていました。今日、登場する出血病の女が極めて不正とされた理由は「女、出血、病気」といった3つをすべて持っている存在だったからです。「さて、ここに十二年間も出血病の女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(25-26)しかし、当時の社会は、彼女の癒しのために何も出来ない状態でした。彼女は12年間、辱めと苦しみの中に生きてきましたが、快方に向かうことなく、さらに悪化し、かえって世間は非難で苦しめるばかりでした。そんなある日、彼女にイエスという方の噂が聞こえてきました。 哀れな出血病の女、人々は彼女と服が擦れることさえ不正だと思っていました。そういうわけで彼女は出かけることも出来ませんでした。不正な女が町を歩き回る途中に発覚したら、石に打たれて死ぬのは決まっていることでした。しかし、イエスという存在の噂は彼女が家の中にじっとしているのを許しませんでした。彼女はイエスに会うために出かけようと決心しました。それは命懸けの挑戦であり、険しい冒険でした。しかし、彼女はひたすらイエスを最後の希望にしていました。それはまさに彼女の信仰の表れでした。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」(27)彼女は死も気にせず、群衆の中に紛れ込んでいきました。発覚した瞬間、無惨に殺されるはずでした。しかし、結局、彼女は群衆の中からイエスの服に触れることになりました。「この方の服にでも触れればいやしていただけると思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」(28-29)彼女はイエスだけは自分を清くすることがお出来になると信じており、その信仰通りに命をかけてイエスの方へ進みました。そして、イエスの服に触れた時、彼女は自分の信仰どおりに12年間の病気から救われることになりました。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、私の服に触れたのはだれかと言われた。」(30)その時、主は彼女が信仰を持って御自身のところに出てきて、また、その信仰によって治ったことをお知りになりました。 3.清めてくださる主イエスと出血病の女の信仰。 今日の本文が、ヤイロの家へ赴く途中、意図的に出血病の女性に目を注いだ理由は、当時の医師も、宗教も、社会も、治せなかった、この哀れな女を主イエスだけは治せるということを教えるためでした。旧約の律法には一つの法則があります。それは「清いものが不正なものに触れると不正になる。」ということです。イスラエル社会で不正な存在とされ、嫌われた、この女は人々の認識の中で、すべてを汚す、極めて忌まわしい存在でした。誰も彼女を清めることが出来ず、彼女を憎み、遠ざけるだけでした。しかし、イスラエルの中に彼女を清める、たった一つのものがありましたが、それは神殿の聖なる祭壇でした。「祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。私はその所でイスラエルの人々に会う。そこは、私の栄光によって聖別される。」(出29:37、43)私たちは旧約の律法を読む際に、聖と俗を分けて差別を煽っていると感じられるかも知れません。しかし、神は明らかに御自身からの祭壇を通して不正なものを聖なるものにする手立てをくださいました。律法では死んだ獣の肉が不正なものと記されていますが、なぜ、神に捧げる生け贄の肉は聖なるものと見なすのでしょうか?律法によると遺体はすべて不正なものではないでしょうか?色々解釈があるでしょうが、私は、肉そのものが聖なるものではなく、聖なる神の栄光によって祭壇が神聖になり、その祭壇を通して捧げる肉も主の栄光によって聖なるものに変わるためではないかと思います。 しかし、残念なことに、当時の不条理なイスラエル社会では、出血の故に嫌われ、迫害される彼女を祭壇まで連れて行く憐みも愛もありませんでした。ただ差別し、憎み、排除するだけでした。その時、真の神、祭壇を聖別される方、ご自分の民のために自らを犠牲になさる主イエスが、彼女の前に現われたのです。そして、彼女の信仰通りに、イエス·キリストは不正な女に服を触れられたにも関わらず、むしろ彼女を清く治してくださいました。社会は彼女を祭壇に連れても行かなかったのですが、主イエスは彼女の前に、神聖な祭壇より、もっと神聖な御自身を現わし、直接会ってくださったのです。「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(32~34)12年間、不正な存在とされ、隠れて過ごさざるを得なかった女性、彼女は「イエスだけが、自分の不正を清めてくださる。」という信仰を持って、命を懸けて主の服に触れ、 その信仰通りに清められました。世のすべての人々は彼女を汚い女性と評価しましたが、主は彼女を神の娘と認めてくださったわけです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」彼女を娘と呼ばれた主の宣言の中には、彼女の信仰に応えられる神の救いがありました。 締め括り。あなたの信仰があなたを救った。 聖書は、常に神への信仰を求めています。「あなたが信じた通りになる。」という言葉で、私たちの信仰を促しているのです。しかし、私たちの信仰とは、私の情熱と努力を意味するものではありません。 出血病の女は命をかけて、主を訪ねてくる信仰の行動を見せましたが、彼女の信仰を真の信仰にした原動力は、不正を清める主イエスの存在にありました。したがって、我々の信仰の前提条件はイエス·キリストという存在の完全さから始まるのです。私たちは、そのイエスが完全な方であること、その方だけが私たちを救ってくださることを信じる信仰によって本当の信仰者になるのです。つまり、自分の熱情的な信念によるのではなく、キリストの存在によって認められるのです。自分が罪人だと思われますか。自分はどうしようもない情けない者だと思われますか。もし、そうであれば、不正なものを聖なるものにしてくださる、主イエスに手を触れてください。その方だけは、自分を清められる方であるという信仰を持って、主の御前に進んでください。主は「娘よ、息子よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と宣言なさるでしょう。今日、出血病の女が救われる間に、会堂長ヤイロの娘は死んで、また他の不正な存在になってしまいました。しかし、完全な主イエスは、この後の出来事を通して、死んで不正になった娘を、蘇らせることで清めてくださるでしょう。ただ、主だけが私たちの信仰の対象であり、ただ、その方への信仰だけが、私たちを救いへと導くでしょう。その主の完全さを信じつつ生きる私たちになることを祈り願います。