神の国の主権者キリスト。

出エジプト記14章13-14節(旧116頁)マルコによる福音書4章35-41節(新68頁) 前置き マルコ福音書でイエス・キリストが最初に言われた言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)でした。イエスはこの地上に神の国を成し遂げるためにおいでになった方です。初めの人の過ちによって生まれた罪は、この世を堕落させました。その堕落によって、人は自分だけのために生き、他人を憎み、殺し、苦しめる存在となりました。そして、その人の罪によって、この世の他の被造物も苦しむことになりました。イエスが罪によって堕落した、この世に神の国を成し遂げるということは、罪によって汚れている世を、神の愛と恵みを通して回復させる、新しい創造の意味を持っています。つまり、初めに世界を創造された三位一体なる神ご自身でいらっしゃるキリストが、十字架での贖いを通して、この世に創造の時の純粋さを取り戻させるために来られたわけです。マルコ福音書でイエスが悪霊を追い払い、病人を治し、貧しい者を助けられた理由は、まさにこの神の国の到来がご自身を通して成就することを示されるためでした。我々はマルコ福音書を読むとき、イエスの全ての御業の根拠が、この神の国の成就にあることに留意しつつ読むべきです。 1.神の国とは何か? 先々週の大信仰問答の学びでは「神の国」について考えてみました。「問8、神の国とはどういうものですか? 答 、神の国とは、神が世界と、その中のすべてのものを、御心のままに現に支配しておられる秩序と、終わりの日に成就される約束の国とを含めていうのです。」神の国とは、終わりの日のイエスの再臨に伴って完全に成し遂げられる新しい天と地を意味することです。また、それと共に、まだ完全ではないが、主の秩序によって治められる、地上のすべての物事を意味するものでもあります。なので、改革教会では、神の国が「すでに」と「まだ」の間にあると言われています。まだ、イエスの再臨の前なので、 神の国が完全に成就されていないが、主イエスに遣わされた聖霊が、すでに教会と共におられるので、この世に神の国が成し遂げられていく状況という意味です。だから、イエスを信じ、その御言葉に従順に生きる私たちキリスト者は、すでに神の国を生きている存在です。私たちは、時には苦しみや悲しみを感じたりします。この世での人生が天国どころか地獄のように感じられる時もあるはずです。しかし、神は私たちの状況を常に見守っておられ、私たちの人生の中において共に歩まれ、その苦しみと悲しみを共に担ってくださる方です。我々が神の国に生きているという意味は、まさにそういうことです。私たちと永遠に一緒におられるという御言葉を確信する限り、私たちは神の国の民としてこの世を生きていけるのです。 「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」(4:11-12)ところで、主はこの神の国についての秘密を、この世のすべての人に与えたわけではないと言われました。前回のマルコ福音書の説教で主が「種をまく人の喩え」を言われた時、人々はその意味がまったく分かりませんでした。そこで、弟子たちは、主にその意味について尋ねました。その時、主は誰もが「神の国の秘密」を聞けるわけではないことを教え、弟子たちに本当の意味を教えてくださいました。その後、また他の喩えを聞かせてくださりながら(4:21-34)神の国の秘密は「聞く耳のある者だけが聞く」と言われました。ここで「聞く耳がある者」とは、誰を意味するのでしょうか?単刀直入に言うとアラン·コールという神学者は、自分のマルコ福音書の解説書を通して、「主の御言葉を聞き、受け入れ、実践する人」と語りました。つまり、主の御言葉を信じ、生活を通して真剣に答える者を意味するのです。このような人々は、いかなる苦難や逆境があっても、主の御言葉をしっかりと握り、最後まで主に付き従うことでしょう。そして、神の国はこのような者に許されるのでしょう。それではこのような神の国の性質を覚えつつ、今日の本文について取り上げてみましょう。 2.突風の中の主と弟子たち。 「その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」(35-36)1章から4章まで、イエスは引き続き、カファルナウムにて、病人を癒し、悪霊を追い払い、福音を教えておられました。いよいよカファルナウムでの活動が終わった主は、船に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと言われました。5章によると、その向こう岸にはゲラサという地域があったそうです。ゲラサには異邦人が住んでいました。それからイエスが向こう岸に行かれた理由が異邦人にも癒しと教えと宣教をくださるためであるということが分かります。ところで、イエスが「向こう岸に渡ろう」と言い終わるやいなや、弟子たちはイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出しました。私達はここで「乗せたまま」という表現に注目する必要があります。確かに渡ろうと言われた方はイエスでしたが、イエスを乗せたまま、動いているのは弟子たちでした。この語句での主語がイエスではなく、弟子たちであることが気にかかります。ところで、しばらくして北の方から風が吹き出しました。ガリラヤ湖は普段は穏やかなほうですが、時々、北のヘルモン山から下りてくる冷たい空気と昼間に暖められた湖の暖かい空気が会い、2M超えの波が打つほどの大きな突風を起こしたりします。ところで、よりによって、イエスと弟子たちが乗った船が、その激しい風に巻き込まれてしまいました。 「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、先生、私たちが溺れても構わないのですかと言った。」(4:37-38)36節で主体的に行動していた弟子たちが、突然の突風に恐怖を感じ、イエスを探しました。その時、主は艫の方で眠っておられました。艫の方とは船の後尾との意味ですが、弟子たちが船首におり、主は後ろに静かにおられる様を描いている表現です。弟子たちは主を「乗せたまま」、まるで自分たちがイエスを連れていくかのように行動していました。しかし、突風が起こると、イエスを連れていくかのように振舞っていた弟子たちは、みんな怖がり、急いで艫で静かに眠っておられるイエスを起こしました。自分たちが死ぬようになったと言い、助けを求めて叫んだのです。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、黙れ。静まれと言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。(4:39-40)その時、イエスは目を覚まして、風と湖を叱り、突風を静めてくださいました。そして、イエスと一緒にいるにもかかわらず、主を信じず、恐れていた弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と叱られました。それを見た弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」とイエスの権能に驚きました。 3.神の国の主権者イエス·キリスト 我々は今日の本文のことを単純に自然までも治めるイエスの武勇談とだけ見てはならないでしょう。先ほどお話ししました神の国という概念に基づいて理解すべきでしょう。神がご計画なさった堕落したこの世の回復、すなわち神の国の到来は徹底的にイエス・キリストを中心とする神の権能によってのみ現われるものです。「神の国」とは人間の能力、財力、手腕によって成されるものではなく、御父の計画と聖霊のお導き、とりわけ御子の権能によって成されるものです。今日、主と弟子たちが乗った船は、いわば教会の象徴のようなものです。神が計画され、お創りになった、この世は本来、突風のない穏やかな海のようなところであるべきです。しかし、人間の罪によって生まれた堕落は、この世をまるで突風の海のように無秩序で破壊的に作ってしまいました。イエスはこのような世の中に一筋の光を下さるために、ご自分の教会を打ち立てられたのです。しかし、この世の中で今日の本文の弟子たちのように自分が船、つまり教会を動かそうとすれば、結局、その教会は突風の海のようなこの世の激しさに堪えられず、滅びてしまうでしょう。また、これは教会に限ったことではありません。この突風の海のような世を静める方は、ひとえにイエスお独りです。しかし、イエスでない別の存在が世を静めようとするならば、結局、その存在は堕落した世という突風の海に巻き込まれ、滅びてしまうでしょう。 文明が生まれて以来、人間はいつも自ら世を導こうとしてきました。ところで、皮肉なことは、その度に戦乱があったということです。人間が自ら歴史を導こうとする時には、必ず戦争が起きて、多くの人が亡くなりました。かつて日本帝国は「大東亜共栄圏」という合言葉を掲げ、アジアの解放という口実で戦争を引き起こしました。しかし、その戦争で日本人だけで300万人、アジアでは数千万人が亡くなりました。アメリカ合衆国は、こうした日本を退けて平和をもたらすためにという名目で歴史上初めて核兵器を落としました。その結果、25万人余りが死に至りました。さて、歴史上の教会はどうだったでしょうか。教会が起こした十字軍戦争は200年にわたって数多くの虐殺をもたらしました。旧教と新教の戦争で多くの人が死んだこともあります。このすべてが人間がこの世や教会を導こうと起こしたことでした。真の繁栄と平和の神の国のような世界は人間の手では成し遂げられないものです。ひたすら主イエスの御言葉を信じ、聞き従って生きる時に、主が私たちの中で成し遂げてくださるものです。いつか、この世に真の平和の神の国が訪れるでしょう。突風が静まった穏やかな海のような真の神の国が臨むことでしょう。しかし、それはイエスが再臨されて完全にこの世を裁かれ、治められる日にはじめて成就されることなのです。その日まで私たちに出来ることは、イエスを待ち望むことと、その御言葉に従順に聞き従って生きることでしょう。そのような人生を通して私たちは主と共に「すでに」と「まだ」の間の神の国を味わいつつ生きていくことでしょう。 締め括り 今日の旧約本文は出エジプトの時、ファラオの騎兵たちがイスラエルを追い掛ける時のことでした。目の前には海が立ちはだかっており、後ろからは怒った騎兵たちが戦車に乗って迫ってきています。まるで、今日のガリラヤ湖の突風の中の弟子たちのように、危機一髪の状況でした。その時、神の御言葉をいただいたモーセは次のように叫びました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14:13-14)イスラエルは死を目の前にしていましたが、そこには神がいました。目の前には海、背後には騎兵たちがいましたが、イスラエル民族には主の御守りがあったのです。神の御言葉に従った結果、彼らは無事に死から逃れることができました。真の神の国とは、主だけが成し遂げられます。私たちはただ、その主の御言葉を信じ、聞き従えばいいのです。毎日の人生の中に不可能なことがたくさん見えてきます。そして、それに我々は恐れを感じます。しかし、主権者キリストは、神の約束のように我々と共におられます。そして、その不可能に勝たせてくださいます。この主イエスの権能の中に生きることこそ、神の国を生きるあり方ではないでしょうか。主が私たちの人生を穏やかな湖のようにし、完全な神の国が成し遂げられるまで私たちを導いてくださると信じましょう。神の国の主は神の国を生きる私たちを決して諦めることなく、共に歩んでくださるでしょう。