初めであり、終わりである神様。

イザヤ書40章27-31節 (旧1125頁)ヨハネの黙示録22章12-13節(新479頁) 前置き 明けましておめでとうございます。いよいよ2021年の新しい年が明けました。今年も神の恵みの中で平和と喜びに満ちた一年になることを祈ります。皆さんは、今年、どのような願いを持っておられますが?私はコロナ禍が終結することに加えて、志免教会を通して働かれる神の御手を、皆さんと一緒に見ることを願います。その御手による御業が何なのかについては、今、私が詳細に言うのは難しいと思います。神がどのようなことをなさるかは、私も知ることが出来ないからです。ただし、私個人の願いは、どうか志免教会の周りの隣人が教会に向かって、心の扉をいっそう大きく開くこと、そして、皆さんのご家族の神を知らない方々、神との関係が遠ざかっている方々が、神の御前に来ることを通して、神が私たちの間に働いておられることを発見したいと思います。もちろん、そうでなくとも、神はすべての物事の主でいらっしゃり、ほめたたえられるべき神様です。しかし、少なくとも、これらの願いを持って、新しい一年を祈りを持って生きていきたいと思います。 2021年は、神の偉大さが志免教会の歩みの中で、そして、皆さんの生活の中で、明かるく輝くことを望みます。 1.初めであり、終わりである神様。 皆さんはヨハネの黙示録を好んでお読みになりますか?黙示録はかなり難しい本でしょう?黙示録は、その内容が難解で意味も不明確な部分が多くあるため、神学を専攻した人々にも、難しい聖書だと言われています。しかし、この難しい黙示録も、割と明確にテーマを持っています。私はそれが、まさに今日の新約本文の語句だと思います。 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(12-13)黙示録が、非常に難しい聖書であることは明らかですが、黙示録は、私たちの主であるイエスが、この世界を治めておられることと、いつの日か、この世界をことごとく御裁きになることと、それまで信仰を堅く守る者に報いてくださることについては、明確に語っています。」そういうわけで、黙示録の冒頭と末尾に「 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉が出て来るのです。これはキリストがすべての物事の主でいらっしゃることを強調するわけです。神は、最初から最後までを司られる方です。神によって、この世界が造られ、神によって私たちが生まれ、神によって私たちは、この教会堂に集って、すべての初めであり、終わりである神様を礼拝することが出来るのです。 先週の説教で、私は永遠という言葉についてお話しました。キリスト教にとって永遠とは、「神が最初から最後まで、全てを司ること。」であり、永遠の命とは、その「すべてを司る神と共に歩み、生きていくこと」だと話しました。今日の本文の「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉も、この永遠と深い関係を持っているのです。神様が最初から最後までの全てのことを司られ、すべてのものを治める永遠の御方でおられること、その方がお遣わしになったキリストが、その支配を自らなさっておられることを黙示録は力強く告白しているのです。過ぎし1年を振り返ってみると、全世界でコロナによって180万人が亡くなりました。米国と中国、日本と韓国が対立しました。北朝鮮は相変わらず、核兵器で世界を脅かしています。私たち人間の生活の中で、昨年の様々な問題は、命が脅かされるほどの恐ろしいことでした。いくら強力な権力者であっても、戦争と疫病の猛威の前では、手が付けられないからです。しかし、この全ての出来事はアルファであり、オメガである神様のご計画の中の、ほんの微かなことにすぎません。もちろん、戦争や疫病で人が死ぬことを神のご計画だとは言えないでしょう。もし、神が無分別な死をあおぎ立てる方であれば、彼はすでに神ではなく、悪魔であるでしょう。 すべてが神のご計画の中にあるということは、神が、この混乱した世界の中でも、神の御心に基づいて、世界を正しく導いていかれるという意味です。創造の時、初めの人間が犯した罪の結果は、この世の中に混乱をもたらすことでした。神が初めに造られた完全な世界は、人間の罪によって崩されました。対立も、戦争も、疫病も、そのような人間の罪の故に生まれた悪の副産物なのです。しかし、神はそのような混沌の世界の中でも、相変わらず、キリストを通して慰めと救いとを与えてくださる方です。 「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(Ⅱペトロ3:8)現在、私たちの人生の中で起こる、すべての危機は、人間のみに適用されるものです。神様の立場においては、この世界の千年が、私たちがお茶を分かち合うほどの短い時間にすぎないかも知れません。つまり、この地の危機が神の危機になることは有り得ないということです。神は、その危機よりも大きい方であるからです。むしろ、神にとって、そのような微かな危機の中でも、人間をお覚えくださり、愛してくださる主の偉大さに感謝したいと思います。神がお造りになった、この世界が罪と悪の故に混乱しているけれども、神はいつか、この罪と悪を終わらせられることでしょう。その神を堅く信じ、世の危機に怯えず、神の偉大さに畏れおののく私たちになることを望みます。初めであり、終わりである神様が、この一年も私たちと共におられることを願います。 2.慰めと力を与えてくださる神様。 神は慰めてくださる方です。ヨハネの黙示録の審判者、神様は、神を憎み、逆らう者らに向かって裁きを下される方です。しかし、神を愛し、主の子供として生きようとする者には、喜んで父になってくださる方です。皆さんにとって父という存在は、どのような記憶として残っていますか?私は10歳になるまで、父がいませんでした。私が生まれる前に父は船舶事故によって亡くなったからです。そんななか10歳の冬ごろに、母の再婚を控え、今の父に出会いました。背が高く、声も太く、心が暖かいおじさんが、生まれてから一度も父がいなかった私に、父となってくれました。父がいなかったので、友達の前で父の話を持ち出すことが出来なかった私が、自然に父の話を持ち出すことになりました。それ以来30年間、私の父は私の一人だけの父となったのです。神もそのような方です。過去、肉体の父がどのような人であったかとは関係なく、父なる神様は、完全な愛と慰めと救いの父になってくださる方です。神がキリストを通して私たちをご自分の子供として召された理由は、私たちが天の父なる神様から愛と慰めと救いをいただくためだったのです。 今日の旧約本文は、神を捨て去って、罪と悪の道に進んでいたイスラエルの民が、神の御裁きを受け、バビロンの捕囚として連行された後、神によって解放され、故郷に帰ってくる時、記された慰めの言葉です。 70年間バビロンとペルシャの捕囚として生きてきて、神様が自分たちを憎んでおられると誤解していたイスラエルの民に、神は、愛の神であり、慰める方であり、力をくださる父であることを知らせるためにこの言葉が与えられたわけです。 「ヤコブよ、なぜ言うのか?イスラエルよ、なぜ断言するのか?わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。」(イザヤ40:27)神様がご自分の民に罰を与えられる理由は、彼らを滅ぼすためではありませんでした。神は、主の民が間違った道に行くときに、懲らしめを下されて、神に帰ってくるようになさる方です。親が愛する子供に戒めを与えるように、先生が大切に思う学生に罰を与えるように、神の民に与えられる苦難は、神の御裁きではなく、愛の懲らしめであるのです。神はご自分の民が幸せと喜びを持って、世を生きて行くことを願っておられる方です。しかし、幸せと喜びを口実に我が儘に生きることは望んでおられません。神はその民が信仰を堅く守り、隣人への愛を持って、主と一緒に同行する生活の中で真の幸せと喜びを見つけることを願っておられる方なのです。そのような生活を促すために、神は私たち、信徒に苦難を与えられるのです。 きっと2021年度も、コロナ禍は完全には終息しないと思います。一部の人々は、神が世界を御裁きになるために、コロナを下されたと言うでしょう。しかし、神が神の被造物である人類を呪われるためにコロナをくださったわけではないでしょう。神はこのような困難な状況を通して、人類が自ら反省し、顧みるためにコロナを与えられたかも知れません。教会も同様です。様々な困難な状況に直面している場合でも、神は私達を厳しく叱られるためではなく、私たち自身に悔い改めを促され、神様を仰ぎ見させるために困難な状況を許しておられるのだろうと信じています。神は今日も主の民を慰めてくださる方です。神は私たちを愛しておられる慰めの神様だからです。 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(28-31) 締め括り イスラエル王国があったパレスチナ地域には、イヌワシという大きい種のワシが生息していると言われます。翼を伸ばすと、2メートルに達し、体重も7キロに達するほどの大きい鷲です。この7キロもなるイヌワシが空に飛んで上がるためには、自分の翼の筋肉だけでは無理なようです。そのため、イヌワシは風を利用して空に飛んで上がるそうです。今日の旧約本文の言葉も、それに関連があると思います。神はワシを飛び上がらせる風のように、その民に力を与えてくださる方です。アルファとオメガ、初めと終わりであられる神様は、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる方でいらっしゃいます。今年もこの神様に依り頼んで、一日一日を生きていく私たちになることを願います。私たちの目の前に暗闇と障壁が遮っていても、神様が与えられる聖霊の風に私たちの全てを委ね力強く生きていく志免教会になることを望みます。イエス・キリストを中心に一つになって、神と隣人を愛し、お互いのために祈り合い、慰め合う生き生きとした志免教会になってまいりましょう。主が喜びを持って、この一年も私たちと一緒に歩んでくださるでしょう。

私の神、私の盾。

詩編18編 2-4節 (旧847頁) ヨハネによる福音書17章3節(新202頁) 前置き。 もう、今年の最後の礼拝が持たれるようになりました。今年の初めに、過去一年を守ってくださり、新しい一年を導いてくださる神様に感謝する礼拝を捧げましたが、あっという間に一年が経ち、また、年末の礼拝をささげるようになりました。今年も本当に多くの出来事がありました。今年は特に、「コロナで始まり、コロナで終わる。」と言っても過言ではないほどの一年だったと思います。コロナによって4月には、一ヶ月くらい礼拝を休止しなければならない時もあり、伝道礼拝も先送りに先送りを重ねてクリスマスになって、やっと守ることが出来ました。イエス・キリストの体なる教会であることを告白する聖餐も、一緒にお交わりするマナの会も、無期限に延ばされるようになりました。しかし、それにも拘わらず、やむを得ない事情のある方を除いては、皆で礼拝を守ることが許され、特に、昨年のように韓国からの訪問者がいなかったにも関わらず、礼拝への出席者の数が全く変わりませんでした。日本のキリスト教会内外の他の教会の礼拝出席者が大幅に減少したことに比べれば、志免教会はコロナによる打撃がほとんど無かったとも言えるでしょう。他の教会の出席者が減じたのは、本当に心痛むことですが、外国人宣教師に変わり、お互いの心を分かち合い、慣れていく時間の中にあって、このように無事に一年が経っていくのを見て、感謝しないわけにはいきません。来年はコロナが静まり、安定を取り戻して、いっそう神への感謝と礼拝を持って生きる私たちになることを願います。 1.イエス – 私の神、私の盾。 そういう意味で、今日は、私たちを守ってくださる神様、そしてイエス・キリストについて話してみたいと思います。 「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔、ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。」(詩篇18:2-4)この詩編は、ダビデが歌った感謝の賛美詩として知られています。この詩編の言葉は、ダビデの晩年を取り上げているサムエル記下の22章でも、ほぼ同様の内容で、出てきています。サミュエル記上下を通して、ダビデの人生を最初から最後まで説き明かしたサムエル記は、ほぼ最後の部分で、ダビデが歌ったと言われる、この賛美を持って、ダビデが神様の御前で、どのような心構えを持って生きて来た人なのか、また、神に、如何に愛を受けた人なのか、まとめているのです。以降、この賛美詩は、エルサレムの神殿で、神に礼拝する時に歌う賛美になったと言われます。この賛美詩は、神に愛されたダビデ、すなわち神の人を守ってくださり、導いてくださった神様に感謝を捧げる、感謝の賛美なのです。 イエス・キリストの先祖ダビデは、イスラエル民族の歴史上、最も偉大な王でした。彼はイスラエルの歴史の中で、最も広い領土を征服した人であり、イスラエルの名を高めた人であり、多くの手下を率いていた人でした。しかし、彼が神に偉大な王と認められた理由は、広い土地を征服したからではなく、優れた政治力によるわけでもなく、彼の人柄が素晴らしかったからでもありません。新約聖書の使徒言行録はダビデという人について、こう証ししています。 「わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。(未来形)」(行13:22)ダビデが偉大な王として認められた理由は、たった一つ、神が彼を愛され、お受入れになったからです。彼がまだ王になる前に、敵に脅(おど)される前に、何の影響力も無かった時に、神はすでに彼を選ばれ、彼のことを喜ばれました。神はダビデの行為を御覧になって、喜ばれたわけではなく、その人のありのままを御覧になり、特に神への彼の信仰を御覧になって喜ばれたわけです。 過去1年間、私たちは礼拝を休んだこともあり、聖餐を守ることが出来ず、コロナによって積極的な伝道を行なうことも出来ませんでした。もし教会が会社だったら、良い実績を出したとは言えないでしょう。しかし、主は、私たちの行為と結果に基づいて、私たちを愛しておられる方ではありません。ダビデが何者でもない時に、神がダビデのことを喜ばれたように、私たちが何も出来ない時にも、神は私たちを愛してくださいます。なぜなら、私たちはキリストの体なる教会として、神に愛されている存在だからです。神は私たちの素晴らしい行為や結果だけを求める御方ではありません。神は私たちの頭でいらっしゃるキリストをご覧になる御方なのです。そして、そのキリストにある私たちの信仰を御覧になり、私たちを喜びを持って愛してくださるのです。私たちは、その主イエスによって、移り変わりの無い愛の中で、ここ1年を生きてきました。神の御前で私たちを愛される者としてくださるキリストに感謝する今年の最後の礼拝になることを願います。主イエス・キリストは、私たちの神、私たちの盾、私たちの岩、私たちの救いの角であり。私たちの砦の塔であられます。そのようなイエスに感謝し、今年を終え、来年を始める私たちになることを望みます。 2.救ってくださるイエス・キリスト。 今年の主題聖句は、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)でした。それだけに、今年の説教で最も強調したかった存在は、イエス・キリストだったのです。しかし、この言葉の冒頭に出てくる、永遠の命という言葉も強調したい表現です。皆さん、永遠の命とは、果たして何でしょうか?今年、筑紫野教会での水曜祈祷会の説教の後、ある方が私に聞いて来られました。 「先生、永遠とは果たして何ですか?神と共に住むのは良いと思いますが、永遠なら、長すぎで退屈になるのではないでしょうか?」もちろん、その方の冗談半分の話だったと思いますが、私は、その質問を聞いて、信徒の皆さんが永遠という概念について、誤解しておられるかも知れないと思いました。人は永遠という言葉について、「無限の時間」だと、漠然と思いがちだと思います。しかし、西洋の哲学では、無限の時間を生きることを、「永遠の命」と呼ばず、「不滅」と呼びます。哲学者たちは「永遠とは時間の外に存在する概念」だと信じていました。つまり、永遠とは、時間とは関係なく、「最初から最後まで、その中のすべての物事」と思った方が望ましいと思います。キリスト教的に言えば、永遠とは、「世界をお造りになった神が、また世界を御裁きになる、その終わりの日まで、神のご計画の中で、司られている全ての物事を意味する概念」です。したがって、永遠の始まりと終わりは神様だけが知っておられ、人間はあえて触れることができない、計り知れないレベルの概念です。だから、神様が永遠の命を与えてくださるということは、単に長い時間を生きるという意味ではなく、神ご自身の計画の中で、最初から最後まで、私たちを導き、私たちの生の全てに責任を負ってくださるという意味です。 キリスト教は、その名称の通り、イエス・キリストを中心とする教会です。私たちの信仰、生活、すべてがキリストを中心に行われる宗教であるのです。しかし、キリスト教は宗教というには、あまりにも、私たちの生活と密接な関係を持ちます。過去、私の祖母は、いくつかの宗教で信仰生活をしました。日本から来た天理教、韓国の仏教、後は台湾から来た、仏教、道教、キリスト教のように、複数の宗教がミックスされた宗教をも信じました。そうするうちに、母の絶え間ない伝道によって70歳の頃に、イエスに出会い、本当に神を信じるようになりました。それ以前の宗教は、優れた教えを持ってはいましたが、宗教の対象と信徒の現実の生活との接点がありませんでした。お経を唱え、宗教行為を行い、宗教の教義を勉強しましたが、その中心的な内容は、「自分の努力の有無によって、人に生まれ変わるか、極楽に入るか、超越者になる。」という教えでした。その宗教には全能の神がご自分の民の生に責任を負うという概念がありませんでした。つまり、永遠の命が無かったということです。超越者と信徒との間に接点がない、別々の宗教だったのです。しかし、キリスト教は超越者が信者の生活に介入して、彼らの人生に責任を負います。それこそがキリスト教と他宗教との異なる点なのです。したがって、キリスト教は宗教というよりは、人生、生活そのものに、より近いものです。 キリスト教は信仰の対象である神様が、信徒の生活に入って来られ、共に歩んで行かれる、まるで親と子、先生と学生、友人と友人のような関係で、私たちと一緒に生きて行かれる宗教です。イエス・キリストは、単に私たちを天国に導くための、何の感情も、人格もない全能者だけに止まる神ではなく、私たちの喜怒哀楽を分かち合い、人生の旅を一緒に歩んでくださる、誰よりも人格的な存在なのです。キリスト教が語る真の救いとは、そのようなことです。キリスト教で語られる天国は、救いの結果ではなく、救われた者に与えられる救いの旅のご褒美なのです。私たちの真の救いは、まさにこのキリストを通して、神の子として認められたものであり、神の中で神と共に喜怒哀楽の世界を生きていくこと、そのものなのです。つまり、イエスによる神との歩みが、まさに私たちの救いです。そういう意味で、私たちは、すでに救いと天国の中にいる存在なのです。今日の旧約本文の言葉も、そのような文脈で理解すべきものだと思います。神は、まるで盾、砦の塔、岩のように、主がお選びになった民らのことに責任を負ってくださり、彼らを守ってくださり、愛してくださる方です。その神様は、ご自分の民が帰ってくることが出来る道として、私たちに、イエス・キリストを送ってくださいました。その神様は、いろいろ大変なことが多かった今年も自分の民である志免教会を放って置かれず、愛を持って歩みを共にしてくださったのです。 締め括り 来年も、神と共に愛と平和とを持って歩んでいく志免教会であることを望みます。教会員同士の関係が一層深まり、教会員のご家族の間にも平和が満ち溢れ、教会の近所の人々にも、志免教会は平和の場所、親切な所、美しい所という印象が残ることを願います。なぜなら、私たちの教会は、人の力によって成り立つ場所じゃなくて、ひとえに神様の御導きによって成り立つ主の共同体だからです。主が私たちを愛し、私たちと一緒におられることに慰められ、これからも神の喜び、隣人の喜びになる、私達志免教会になることを願います。2021年度も、主の恵みと愛に満ちた教会、そして教会員の生活になることを祈り願います。

平和の王。

イザヤ書52章7節 (旧1148頁)ルカによる福音書2章8-21節(新103頁) 前置き メリー!クリスマス!子供の頃、私はメリークリスマスという言葉が大好きでした。 1980年代の日本の経済が最も盛んだった時代、韓国もソウルオリンピックを前後して、本格的な発展を期待していた時代でした。その頃は日本も韓国も、経済的に安定している時期だったと思います。今のように激しい日韓の葛藤も少なく、日本も韓国も戦後最高の、平和に満ちた時だったではないでしょうか?その頃のクリスマスの雰囲気を未だに記憶しています。当時、幼稚園児だった私は、クリスマスイブに枕元に小さな靴下をかけておき、今夜サンタクロースが来てオモチャのプレゼントをくれるだろうと楽しみにして、熱心に祈ったりしました。その頃のクリスマスは本当に平和な日でした。私は、その時に育った者として、今でもクリスマスといえば平和という言葉が一番先に思い浮かびます。クリスマスと平和、何の係わりがあるのでしょうか?今日は、このクリスマスとは何なのか?そして、クリスマスの真の平和とは何なのか、皆さんと話してみたいと思います。 1.クリスマスとは? 皆さん、クリスマスとは何の日でしょうか?数年前、日本の、あるキリスト者が作った日本宣教関連動画を見て、だいぶ、驚いた経験があります。動画に出てくるレポーターがクリスマスイブの夜に東京新宿で通行人たちにインタビューをする場面でした。 「クリスマスが何を記念する日なのか知っています?」「西洋からのパーティーデーじゃないですか?」「よくわかりません。」「ケーキを食べる日です。」などなど、多くの回答がありましたが、衝撃的なことは動画上ではクリスマスをイエスの誕生日として理解している人が、誰もいなかったということでした。恐らく、クリスマスを知らない人を中心に編集したと思ってはいますが、他国に比べてクリスマスをきちんと理解している人が少ないとの内容でした。最後にリポーターはこう話して、動画を終わりました。「日本ではキリスト教が、そんなに盛んではありません。西洋の邪教だと誤解する人も少なからずいます。日本の人々が、救い主イエスと、その誕生日であるクリスマスを正しく知るようになることを願います。」日本でキリスト教は、全人口のわずか0.4%にしか至らないマイナー宗教です。それだけにクリスマスへの人々の認識も薄いと思います。クリスマスはパーティーする日でも、ケーキを食べる日でもありません。クリスマスは私たちが信じているイエス・キリストの到来を記念する日です。 クリスマスは、イエスを意味するギリシャ語「キリスト」に、礼拝を意味するラテン語「マス」が付いた合成語です。カトリック教会で「ミサが執り行われる。」という話をよく話したりしますが、そのミサの語源が、この「マス」です。つまり、クリスマスとは、この地に来られたイエスを礼拝する日という意味です。また、この「マス」には、別の意味をもあります。皆さん「ミッション」という映画をご存知でしょうか?ハリウッドの名俳優ジェレミーアイアンズが「ネッラファンタジア」という名曲をオーボエで吹きながら、南米の原住民と出会う名場面で有名な映画です。映画のタイトルであるミッションという言葉は、宣教という意味の英語ですが、その語源が、この「マス」というラテン語なのです。つまり、クリスマスはイエス様が、この地に宣教をするために来られた日という意味でもあるのです。したがって、クリスマスを日本語で説き明かすと、「この地に来られたイエスに礼拝をささげる日。」或いは「イエス様がこの地に神の愛を伝えに来られた日。」と解釈することができます。このように、クリスマスはイエスで始まり、イエスで終わる、イエスの、イエスによる、イエスのための日なのです。だからイエスを落として、単にパーティー、フェスティバル、気分の良い日などとしてクリスマスを見做すには、このクリスマスに隠れた意味があまりにも多いと言えるでしょう。 日本においてクリスマスは祝日ではありません。殆どの欧米の国々、また韓国で、クリスマスはキリスト教の非常に重要な日です。国家的にも祝日と指定された、1年の中で最も盛大に守るキリスト教の記念日です。韓国では、キリスト教の教勢が大きい方なので、教会に通っていない未信者たちも、その意味をかすかにでも知り、その意味の中でクリスマスを楽しみます。しかし、日本では祝日ではなく、ただの平日であり、イエスの誕生日であるという事実を知らない人も、他国に比べて多くいると言われ、とても残念に思います。神様が日本にキリスト教会の復興をくださり、多くの人々がイエスを知り、教会を肯定的に考えて、良い影響を多く受けることができる共同体になることを願います。クリスマスはイエス・キリストの日です。イエス様が礼拝される日であり、イエスが人間を愛するために来られた日なのです。このクリスマスにイエスの恵みが、豊かにあることを、また、イエスの愛が、日本の地に満ち溢れることを切に望みます。 2.イエス・キリストによる平和を願う日。 ローマの平和(Pax Romana)という言葉があります。古代ローマ帝国は、軍事力で地中海世界を掌握、支配し、周辺のヨーロッパと中東とアフリカ北部を征服した強力な国家でした。ローマの平和とは、ローマが帝国の征服戦争にけりを付け、地中海を完全に掌握した西暦1世紀前後、ローマ帝国による秩序と支配で、世界が平和であるという意味で使用された言葉でした。しかし、我々は、この平和という言葉について、よく考えてみる必要があります。ローマの平和とは、すべての人が平等に平和になるという意味ではありませんでした。この平和は、ローマ皇帝を中心としたローマ市民だけの平和でした。ローマ帝国に属する植民地の人々は、ローマ市民として認められませんでした。彼らがローマ市民になるためには、ローマの市民社会で大きく認められたり、あるいは植民地の指導層が自国を裏切ってローマ帝国の側に立ったり、ローマの軍隊に入り、多くの戦いの補償として得ることができるものでした。つまり、この平和は、皆のための平和ではなかったということです。誰かがローマの平和を享受するためには、他の誰かが死ぬか、奴隷にならなければなりませんでした。ローマの平和とは、あくまでも、権力ある者のための、彼らだけの平和でした。ローマの平和は暴力と殺人の他の名前だったわけです。 そのローマの平和が唱えられた時期、ローマ帝国の辺境の、小さくて力のない植民地、イスラエルでは、ユダヤ民族から、真の王が生まれるという噂がありました。大きくて輝かしい星が現れ、イスラエル地方に、王たちの上に君臨する、真の王が生まれるという噂でした。これはユダヤ人の予言に基づいた話で、聖書はその王が、まさに主イエス・キリストであると明らかにしています。 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(11-12)今日の本文では、この王たちの王が生まれるという良い知らせを、地上の人々に伝える天使の話が出てきます。彼はイスラエルの歴代最高の王ダビデの町で、彼の子孫である、新しい王が生まれると話しています。ところで、ここで使用された単語が気になります。聖書は、単に王という言葉の代わりに「救い主、主」という言葉を使っています。この言葉は、単に偉大な人を高めるための表現ではありませんでした。この言葉は非常に政治的で、社会的な言葉です。ローマ帝国で「救い主、主」という言葉を聞くことができる唯一の存在は、皇帝一人だけだったからです。 つまり、ユダヤ地域で生まれた主イエス・キリストという名前は、単にイスラエルと呼ばれる小さな民族の指導者としての意味ではなく、ローマという大帝国の皇帝までも脅かす強力な存在としての名称だったのです。イエス・キリストが生まれた理由は、単に小さな一つの民族だけに限らず、ローマ帝国を超える巨大な世界を治めるためでした。神は帝国を超えて全世界を支配する本当の王が来ることを天使を通して教えてくださったのです。しかし、イエスの治め方は、ローマ帝国のそれとは、全く違いました。 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(14)天使は王や皇帝を訪れて主の到来を知らせたわけではありません。彼はイスラエルで最も低い階層である羊飼いたちに行き、主のご降臨を知らせたのです。そして、彼らに平和の王が臨むことを教えてくれました。主イエスの誕生は、ローマ帝国の皇帝が求めていた自分たちだけの平和ではなく、イエスを通して全世界のすべての人々が、共に享受することができる、真の平和をもたらす出来事です。主のご誕生の知らせは、ローマによる権力者のための暴力に染まった平和ではなく、キリストを通して最も低い階層も味わえる、真の平和の到来のお知らせ、つまり福音でした。 締め括り 人間の赤ん坊に生まれたイエス・キリストは、神ご自身でいらっしゃいます。神と人との間には、人とアリの違いよりも、はるかに大きな、埋まらない隔たりがあります。しかし、人間を愛された神は、自らを低くなさり、人になってくださいました。また、みすぼらしい飼い葉桶に生まれ、誰にも尊重されない羊飼いたちさえも、会うことができる低い所に来られたのです。イエスは権力、財産、強い人だけでなく、疎外される弱い人にも、喜んでお出でになる、本当の偉大な王です。誰でも主を求めれば、訪れてくださる真の平和と愛の王でいらっしゃいます。私たちが生きていく、この世は弱い者に世知辛いところです。目に見えない壁と隔たりがあり、支配層と一般の人々の人生が違う場所です。しかし、主イエスは、そのような壁と隔たりを突き崩して、すべての人に公平に神の愛と恵みをお伝えになる方です。この主が、弱くて罪深い人類のために地上に来られ、人間の罪を赦してくださるために、ご自分の命を掛けて救ってくださいました。私たちを支配しようとする王、我々に仕える王、私たちにとって真の王は果たしてどっちでしょうか?主は仕えて、守ってくださる平和の王として、今日、私たちの間におられます。クリスマスを迎えて、この主イエス・キリストを覚えたいと思います。平和の王イエスは今日もあなたを愛しておられます。

権威ある新しい教え。

詩編74編9-17節 (旧909頁) マルコによる福音書1章21-28節(新62頁) 前置き マルコによる福音書は、ローマ帝国の激しい宗教弾圧で毎日毎日を恐れの中で生きてきた初期キリスト者を慰めるために記録された慰めの福音書でした。イエスは神である身分を捨てて、この地に来られ、人間と一緒にいてくださり、慰めてくださいました。イエスは神のメシアであるにもかかわらず、人間の側に立って、洗礼と試練とを体験してくださいました。これは、神でいらっしゃるイエス様が名目上だけ、人間の見た目をお取りになったわけではなく、自から人間の所まで低くなってくださり、人間の惨めさと弱さを直接体験してくださった愛の行為でした。さらに主は、この地上で神と罪人が和解できる方法を教えてくださり、人間を神のみもとに導くために、弱い弟子たちを召し寄せ、真理を教えてくださいました。イエスは、2000年が経った現代でも、変わることなく主の民と共におられ、わたしたちの進むべき道を導いてくださる真の救い主でいらっしゃいます。今日は、このイエスの権威とイエスに反抗する邪悪な霊について分かち合い、私たちへの愛をお止めにならない主について話してみたいと思います。 1.イエスの権威 今日は個人的な話で説教を始めたいと思います。小学校5年生ごろ、私の出身教会で、驚くべき出来事がありました。教会の近所に、ある悪霊に取り付かれた人がいましたが、その家族が彼を教会に連れてきたのでした。当時、主任牧師、伝道師、祈りに励む信徒たちは彼を囲んで切に祈りました。 「ナザレの人イエス・キリストの名によって命令する。悪霊は出て行け!」一緒にいた人たちは、長い時間、その人のために祈り、絶えずイエス・キリストの御名を宣言しつつ、邪悪な霊が立ち去ることを命じたのです。母によると、数時間後、悪霊は去っていき、その人は正気に返ったそうです。私の出身教会も日キや改革派教会のように、韓国の教派の中で、かなり静かで説教と聖礼典を中心とする教会だったので、その出来事は、いっそう衝撃的な経験として感じられました。ところで、それから30年近く経った今でも、私の脳裏に深く焼き付き、決して忘れられない言葉があります。それは「ナザレの人イエス・キリストの名によって命令する。悪霊は出て行け!」です。いったい、そのナザレのイエスという名前にどのような権威がある故に、悪霊という恐ろしい存在が追い出せたのでしょうか?私は、今日の本文で、その姿を再び、垣間見ることが出来ました。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人に痙攣を起こさせ、大声をあげて出て行った。」(23-26)洗礼、試練、福音の宣言、弟子たちへのお召しなど、地上での御業の準備を整えられた主は、人間の目に見える強力な最初のしるしとして、悪霊を追い出して権威を示してくださいました。悪霊は人間の力では、到底どうしようもない存在です。「(あなたがたは、以前は)この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に、今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:2)悪霊は人間の力の及ばないところから、世を支配し、人間を罪の道に導き、不従順な者となるように操る、超自然的な強力な存在です。しかし、イエスは彼らを一言だけで簡単に追い出してくださいました。主の権威は、強力な彼らさえも完全に圧倒するものでした。 2.悪霊とは? なぜ、主は悪霊を追い出すという出来事を、目に見える最初のしるしとして示してくださったのでしょうか?それを知るために、我々はまず、キリスト教で語られる悪霊という存在について探ってみる必要があります。過去のキリスト教の伝統には、悪霊と関わる多くの話がありました。ジョン・ミルトンという17世紀の英国の作家は、これらの話を用い、「失楽園」という古典を残しました。私たちは、その本の内容を通して、昔のキリスト者が考えた悪霊の起源を、ある程度、推し量ってみることができます。 以下は失楽園に出て来る悪霊についての粗筋です。「遥かに遠い昔、神の傍らで賛美を捧げる天使であったルシファーは、ある瞬間、自分の栄光に酔って自制心を失ったあげく、神の輝かしい栄光を嫉妬してしまいました。彼は野望と傲慢と、神を越えようとする邪悪な反抗心で、自らが神になることを企てて、手下の天使たちを煽り、戦争を引き起こしました。神の大天使ミカエルの軍隊とルシファーの手下たちは、長い間、戦争を続け、最終的にルシファーと手下たちは敗北して天から落ちることになってしまいました。ルシファーは天上で神の僕になるより、地獄で王になるのが増しだと思い、最後まで邪悪な姿勢を取りました。」もちろん、これはあくまでも失楽園という作品の一部なので、聖書のような真理として受け入れるべきではない物語です。しかし、少なくとも、聖書に出てくる悪霊が、人が死んで化ける怨霊や、幽霊ではなく、堕落した天使に由来するというヒントを得ることは出来ると思います。 聖書が教えてくれる悪霊とは、神の権威を奪おうとする、邪悪な存在を意味するものです。神を賛美し、礼拝するために造られた、この被造世界で、神への賛美と礼拝を捧げられないようにする、神に不従順にさせる存在なのです。彼らは創世記のアダムとエバ、カイン、カインの子孫、バベルの塔の罪人たちのように、「自ら神になろうとする人」を誘惑する存在として描かれています。また、彼らは、そのような思想を貫くことによって、この世を支配している存在です。過去、世界を支配しようとしていた帝国の皇帝は、自らを神だと名乗り、神の座に上がろうとしました。古代エジプト、ペルシャ、ローマの皇帝、旧日本帝国には現人神という概念があり、現代の中国と北朝鮮では共産党が、その位置を占めています。これらすべての「人が神の座を奪おうとする行為」は、聖書が語る悪霊の仕業に似ています。つまり、聖書に登場する悪霊は「自ら神になろうとする全ての行為」の起原のように使用される表現です。したがって、我々は、この悪霊という表現を実際に存在する邪悪な霊的存在として理解しつつ、同時に神に反抗して聞き従わない、すべての邪悪な意図と心根であるとも理解できるでしょう。 創世記3章には、蛇の姿で人を不従順へと誘惑した存在がいましたが、キリスト教では、この蛇を悪霊の化身であると信じています。また、イエスの試練の時、イエスを誘惑した存在が、まさにこの悪霊という存在だったと信じているのです。このように悪霊は、人に傲慢さを与え、神を裏切るように誘惑する邪悪な存在なのです。私たち人間には自らを高めようとする意志があります。神は人に意志をくださり、その意志で神を賛美し、世界を美しく治めることをお望みになりましたが、罪によって汚された人間は、その意志を間違ったことに用いて、自分を高め、自分が崇拝されるものとなろうとする傾向を持つようになりました。神ではなく、自分を高め、神への礼拝のためではなく、自分の欲望を満たすために意志を誤用したわけです。聖書は、このすべてが悪霊の誘惑によるものだと言います。だからといって悪霊にすべての責任を負わせることはできません。誘惑は悪霊の仕業だとしても、その誘惑を受け入れる者は、まさに私たち自身であるからです。したがって、悪霊という存在は、実在する悪い霊であることと同時に、私たちの心の中に潜んでいる、自身を高め、神に不従順にさせる、自分の中にある邪悪な罪の性質であることを心に留めておくべきでしょう。 3.悪霊を追い出す権威ある新しい教え。 イエス様が一番最初に悪霊を追い出すというしるしを示してくださった理由は、イエスの到来と共に、今後、邪悪な霊の支配に終焉を告げるという意味を持つからです。 「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)、「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。 イエスは言われた。わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」(ルカ10:17-19)イエスが悪霊を追い出されたその日、すでに神の国は、この地に実現しました。悪霊が支配していた、この地はイエスの到来の故に、神の本格的な支配の中に入るようになったのです。イエスの存在により、この地で悪霊の支配が崩れ、神の国が臨むようになったのです。イエスの権威によって主の体なる教会は、悪霊の力から逃れる権威を得る存在となりました。イエスを知らなかった時の私たちは、邪悪な霊に支配され、罪の性質を持って他人を憎み、自分の欲望だけに従って生きていましたが、今や、私たちは、イエス・キリストの存在により、そのような支配から脱した存在となりました。今日の本文のイエスは、実際に人に取りついた悪霊を追い出されましたが、今、私たちの間におられるイエスは、私たちが、邪悪な霊の誘惑と支配から逃れる道を開いてくださるのです。 悪霊を追い出す権威ある新しい教えとは、そういうことです。私たちを、もうこれ以上、悪の存在の手に振り回させず、キリストを通して神の御心に聞き従わせる主の御言葉なのです。私たちは、もはや自分を中心にし、自分自身だけのために生きる存在ではなく、イエスの御言葉を中心にし、主のように神と隣人を愛して生きるようになった者です。 「人々は皆驚いて、論じ合った。これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」(マルコ1:27-28)主は口先だけで神について語る方ではありませんでした。御言葉に伴って、それに相応しいしるし、つまり、悪霊を追い出すことによって、ご自分の絶対的な権威を示してくださいました。そして、その結果、イエスの御名が世の中に伝わりました。私たちがイエスのように完全な存在になることは有り得ません。しかし、私たちは少なくとも、イエス・キリストが、すでに悪霊の支配する世に勝利なさったことを悟りました。御言葉と権威はイエス様にあります。今や私たちは、その御言葉と権威に依り頼み、主を宣べ伝え、主に喜ばれる生活を営むべきです。なぜなら、私たちは、この世を恐れず、堂々と進んで行ける資格を与えられたからです。また、私たちの頭であるイエス・キリストが悪霊をも滅ぼされる御言葉の権威で、私たちの中に一緒におられるからです。 締め括り 「しかし神よ、古よりのわたしの王よ、この地に救いの御業を果たされる方よ。あなたは、御力をもって海を分け、大水の上で竜の頭を砕かれました。レビヤタンの頭を打ち砕き、それを砂漠の民の食糧とされたのもあなたです。あなたは、泉や川を開かれましたが、絶えることのない大河の水を涸らされました。」(詩篇74:12-15)詩編74編に出てくる竜とレビヤタンはイスラエルを支配していた強い国を意味するもので、多くの学者たちに世界を支配した悪の存在の力として解釈されました。主はこのような邪悪な存在さえ、御裁きになる全能な方なのです。イエスが悪霊を追い出されたのも、このような視点から、解釈することが出来ます。神はイエス・キリストの到来を通して、世に新しい希望を与えてくださいました。アドベントの期間を過ごしている今、神に与えられた権威をもって世界を治めておられるイエス・キリストを覚えたいと思います。私たちの中に、如何なる困難と障害と挫折があっても、真の勝利者イエス・キリストを覚えて生きていきましょう。主イエスがカペナウムの悪霊に取り付かれた者を救ってくださったように、神様が帝国の邪悪な支配からイスラエルを救ってくださったように、私たちにも同じ救いと平和を与えてくださると信じます。クリスマスを迎えて、来たるべきイエス・キリストを記念しつつ、私たちに勝利と救いをくださる主を賛美する1週間になることを祈ります。

バベルの塔

創世記11章1-9節 (旧13頁)使徒言行録2章1-4節(新214頁) 前置き 創世記6章で、神様は、初めの人間の罪を御覧になり、彼らの世界を罪と一緒に地上から拭い去ろうと計画なさいました。そのため、人間が治めていた世界のすべての被造物も、神の裁きの下で、共に滅ぼされる危機に置かれてしまいました。しかし、神はその中から一人の正しい人、ノアのために、この世に再び機会を与えようとなさいました。神はノアに箱舟をくださり、ノアの家族と一部の被造物を生き残らせてくださいました。そして洪水で綺麗になった地上で、再び正しい世界を作る機会を与えてくださいました。しかし、残念なことに、ノアの次男であったハムの罪のため、世界はまた罪に満ちてしまいました。私たちは、この物語を通して、神は正しい人に機会を与える方でいらっしゃいますが、いくら正しい者だといっても、罪から完全に自由になりえないことが分かります。私たちは、聖書を読むたびに、常に人間の罪と向かい合うことになります。聖書は、過度に感じられるほど、人間の罪について指摘しています。しかし、それが人間の弱点であることは、まぎれもない事実なのです。そのような人間の罪が巨大に形象化されて、創世記11章で頂点をとりますが、それが、まさにバベルの塔でした。今日はバベルの塔の物語を通じ、人間の罪と神の恵みについて話してみたいと思います。 1.バベルとは何か? 私たちは、聖書を読みながら、バベルという言葉をよく聞きます。創世記のバベルの塔、イスラエル民族を滅亡させたバビロン、ローマ帝国の首都であったローマを比喩的にバベルと呼び、黙示録は神に逆らう、悪の勢力と、その支配を比喩的にバビロンだと称しました。 (バビロンとバベルは語源が同じ。)バベルは、古代アッカド語で「神々の家」という意味です。おそらく神々の家という意味のように、古代人は、強力な神々の加護の下で繁栄することを願い、バベルという言葉を好んで使用していたのかもしれません。ところで、このバベルという言葉はヘブライ語では「神々の家」ではなく「混沌」を意味します。バベル、全く極端な2つの意味を持つ名前です。さて、アッカド語では「神々の家」という意味のバベルは、なぜ、ヘブライ語では「混沌」という意味に移り変わったのでしょうか?私たちは、今日の本文を通じ、その理由について覗き見ることができます。 「この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創11:9)バベルが混沌と呼ばれるようになった理由は、神様がバベルでの人間の罪を御覧になり、彼らの集まりと言葉を混沌とさせ、処断し散らされたからです。 遥かな昔、イスラエルの先祖アブラハムが生まれる前に、中東の諸国には、神々に仕えるための神殿がありました。彼らはその神殿を中心に町を築き、国家を作りました。彼らは神様の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という御命令を無視し、神殿を中心に集まり、自分たちだけの世界を作ろうとしました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という言葉は、ただの人間の繁栄だけを意味するものではありません。世界中に広がって、神の御心に従って生きなさいという意味だったのです。しかし彼らは、むしろ一所に集まって、神様に背き、自分たちが中心となり、他人を支配する巨大な帝国を作ろうとしたのです。彼らはバベルという名前のように、神の家という意味の神殿に、異邦の神々を閉じ込めて置き、自分たちの必要に応じて、神々を利用することを望んでいたのです。神々を利用するために神殿を作った彼らは、存在もしていない神々を拝み、偶像崇拝を自然に行いました。また、それを通して自らが神のような存在になることを企んでいたのです。つまり、バベルとは、神様から積極的に離れて、自らが神のようになろうとする、過去のアダムとエバのように、神に反逆する人間の本性を意味するものです。結局、神は今日の本文のように、彼らに混沌を下され、彼らをバラバラに散らされました。このようにバベルは、今でも神に逆らう代名詞、神の反対側にある悪の代名詞として聖書で使われています。 2.なぜ、塔なのか? バベルの塔のバベルは、その塔の名前ではなく、バベルという町に建てられていた、ある塔を意味するものです。多くの人がこれを古代の建築物の一つであるジッグラトと推定しています。ジッグラトとは、先にお話しました、神々の家、すなわち神殿で古代中東人の文化の中心であるものでした。彼らはなぜ神殿という美名の下に、高い塔を築こうとしたのでしょうか? 「彼らは、さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしようと言った。」(創11:4)彼らは、高い塔を築き、その塔を天に届くようにして、自分たちの名前を高めるために、レンガを積みました。創世記4章を見ると、このような言葉があります。 「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創4:26)アダムの息子セトが、息子を儲けた時はじめて、人々は主の御名を呼び始めました。覚えていらっしゃると思いますが、私は創世記4章の説教で、神の名を呼ぶということが、「神に礼拝を捧げる。」という意味だと話しました。この言葉から推し量ってみると、今日の本文で「有名になる」ということは、自分たちも礼拝される存在になることを望んでいたとの意味であることが分かります。つまり、バベルの人々は、互いに力を合わせ、塔を作って、自分たちも神のように崇拝される、神のような存在になることを望んでいたということです。彼らは神を仕えるべき対象と考えず、ただ、自分らが礼拝の対象として、神のようになることを望んでいたのです。 それでは、神のようになるということと、塔を築くということの間には、どのような係わりがあるでしょうか?古代人は、この世界を、マリのような円形だと思いました。丸い世界の中間地帯に人間が住んでいる地上の世界があり、地下には死者が行くシェオルがあり(日本語、陰府)、空には太陽、月、星などがあり、その上に神々の世界である天があると信じていました。人々が高い塔を建てて、天に至ろうとしていた理由には、自分たちが、その天に上って行き、世界の外の神々の国に入ろうとした願いが隠れています。自分たちも神の世界に入り、神の支配から逃れ、神のように世界を支配する存在となることを望んでいたわけです。結局、私たちが、このバベルの出来事を通して分かることは、人間は神のように高くなることを願っており、これらの罪は善悪の実を貪ったアダムとエバの時から、全く変わっていないということです。人間には他人の上に君臨しようとする邪悪な性質があります。金持ちは貧しい者を、権力者は弱い者を、強い国は弱い国を力で抑圧し、支配しようとする本性を持っています。私たちの心には、そのような姿はないのでしょうか?自分より弱くて、力のない者らを貶めて、自分よりも強い者には何の抵抗もしない姿が、もしかしたら私たちの心にあるかもしれません。今日の本文は、このような人間の罪に満ちた本性を示してくれます。高い塔を築くということは、自分自身を極めて高め、他人は自分の足下に踏みつけ、支配しようとする、人間の傲慢な罪の性質を余すところなく示すものなのです。 3.バベルの塔の結果 – 散らされる。 神は人間が全世界に広がり、神を伝え、仕えて生きることをお望みになりました。神様が初めのアダムと洪水後のノアに、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と命じられた理由は、全世界に神の御名を伝え、神を礼拝する存在として生きなさいとの意味だったからです。私たちは、この命令の根拠を、新約聖書で見つけることができます。 「イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18-20)十字架での死と墓からの復活の後、父なる神に世界を支配する権限を与えられたイエスは、弟子たちに全世界に進んで、神を伝えることを命じられました。過去の人間が罪によって成し遂げられなかった、全世界に広がって神を伝える生を、イエスご自身が「いつも一緒に歩んでくださる」ということを約束してくださることによって、はじめて成し遂げることができたのです。その結果、世界的に福音が宣べ伝えられ、今ここで日本人、ニュージーランド人、中国人と韓国人を問わず、みんなで集まり、民族や文化を乗り越えて一緒に神を礼拝することが出来るようになったわけです。しかし、バベルにいた人間たちは、広く、神を宣べ伝えるどころか、自分たちが神の座を奪おうとしていただけです。これは如何に大きな罪だったことでしょうか? 神を伝えるために全世界に広がっていくべきであったバベルの人々は、結局、神によって言葉が混乱させられ、民族が分かれさせられる呪いを受けて、散らされてしまいました。 「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:7-8)神に逆らい背く者は神によって散らされてしまいます。人間がいくら巨大な国を打ち立て、他の民族を踏みつけ、自分を高めようとしても、神を仰ぎ見ず、自分を神のようにしようとする者たちは、遅かれ早かれ滅ぼされてしまいます。周辺国を踏み躙り、支配した古代のエジプト、ギリシャ、ローマ、ペルシャ帝国も、今では文化財として残っているだけです。私たちが生きていく、この世も古代の帝国と大きな違いはありません。強い者は弱い者を、強い国は弱い国を苦しめます。自分たちはさらに高め、他人は低くするためです。しかし、神は常に天から地のことを見下ろしておられます。自らを高めようと自己中心的に塔のレンガを積んでいる者は、過去のバベルの罪人のように崩れ、散らされてしまうでしょう。したがって、我々は自分を高めるエゴという塔を建てるより、神を高め、伝えるために地に広がり、謙遜に生きていくべきです。そのような生き方を主は祝福してくださるでしょう。 締め括り 低いところに臨まれたイエスを思い起こします。主は神そのものでいらっしゃいましたが、地の弱い者たちのために降り、神と隣人に仕えられました。聖書は、その結果をイエスの勝利として結論づけています。 (フィリピ2:6-11)バベルの罪人たちは塔を建て、天を貪った反面、神であるキリストは、むしろ地に降り、人々の間に来られました。主は自ら御自分のことを低め、誰よりも低いところから愛してくださいました。その結果は、最も高い王として神に認められることになったのです。また、使徒言行録では、このイエスが成し遂げられた、もう一つの恵みが記されています。 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:2,4)自分を高めたバベルの人々は、言葉の混雑を経験したのとは反対に、自分たちを高めるためでなく、もっぱら神を高めるために集まった弟子たちは、キリストを通して聖霊を受け、それぞれ別の言語で、一つの福音を宣言する真の言語の一致を経験したわけです。バベルの塔は人間の高くなりたがる性質を示すものです。しかし、主イエスは御自分の犠牲を通して、神と隣人を高め、自らを低くする際にはじめて、神に高められるということを教えてくださいました。クリスマスを待ち望むアドベントの期間です。私たちの心の中に、傲慢なバベルの性質はないか、自分のことを顧みて、神の御前に謙虚に生きる民になることを望みます。主と隣人を高め、自分自身を低くする、謙虚な志免教会になることを祈り願います。

人間をとる漁師。

エレミヤ書16章14-18節 (旧1207頁) マルコによる福音書1章14-20節(新61頁) 前置き 先々週、マルコ書の説教では、悔い改めについて話しました。悔い改めとは、神の国の民らしく生きようと決意するキリスト者が、必ず追求しなければならい、キリスト者の生き方であると話しました。単に一度、口先で自分の罪を悔み、それで神に赦されたと満足して済ませることではなく、イエス・キリストの御救いに感謝し、主の御言葉に、常に聞き従って生きていく生き方。罪人から正しい人に身分が変わった人としての、新たな生き方が、まさに悔い改めの生なのです。従って、聖書で語られる悔い改めの単語的な意味は、「立ち返る、Uターン」と解釈できると話しました。私たちは、キリストの救いによって、神を知らない罪人の身分から、神を知っている正しい人の身分に、新たにされた存在です。なので、我々は毎日、自分の生活の中での罪を告白し、神とキリストの御心にふさわしい存在として生きていくべく努める必要があります。そのような生活の中で再び躓き、罪を犯してしまうたびに、キリストの御名によって罪を告白して、絶えず省みて、神の御心にふさわしく生きていこうとするのが、まさに悔い改める者の生き方なのです。今日は、この悔い改めて生きる民として、私たちが弁える(わきまえる)べき心構えについて本文を通して、分かち合いたいと思います。 1.主の弟子になるということ。 今日の本文には、先々週の説教の本文であった3章14-15節をも加えました。なぜかというと、16-20節に登場する「イエスの弟子になる。」ということと、14-15節での「悔い改めて福音を信じる。」ということの間には密接な関係があるからです。 「イエスは、私について来なさい。人間をとる漁師にしようと言われた。 二人は、すぐに網を捨てて従った。」(17-18)ここで人間をとる漁師という言葉は、後で説明することにして、まずはイエスの召しと、それに応じた弟子たちについて話してみたいと思います。洗礼と試練を受け、福音を宣べ伝え始められたイエスは、すぐにガリラヤで弟子たちをお集めになりました。最初に召された弟子たちはペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの4人の漁師でした。当時の漁師は、貧困層から中産層まで、幅広い階層がいたそうです。聖書によると、ペトロとアンデレは、そんなに豊かではなかったようです。しかし、ヨハネとヤコブの家は雇い人たちを使うほど、経済的な余裕があったと思われます。イエス様は、家柄の貧富の隔たりを問わず、公平に弟子たちを、お召しになりました。主は今日も人の貧富や容姿で人を差別なさる方ではありません。主は誰でも、主に聞き従おうとする者らを弟子にしてくださいます。 ところで、4人の弟子たちには、共通点がありました。それは「諦めて従った。」ということです。 「すぐに網を捨てて従った。」(18)「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(20)新共同訳聖書には、ペトロとアンデレは「網を捨てて」、ヨハネとヤコブは「父を残して」と翻訳されていますが、ギリシャ語原文では「捨てる。残す。諦める。」等の意味を持つ単語「アピエミ」と記されています。主の弟子たちは、それぞれ自分の財産と家族を諦めて、主に付き従ったわけです。ところで、少し気になる部分があります。主に従うためには、すぐに自分の財産、仕事、家族、日常を諦めなければならないという意味なのかということです。私たちは僧侶でもなく、社会と完全に断ち切られて生きていく身でもないのに、どうやって財産、仕事、家族、日常を諦めて、主に従わなければならないというのでしょうか。主に従うために、すべてを諦めれば、今後の生活費は誰が稼ぎ、家族は誰が面倒を見、仕事をやめたとき、その損害はどのように補償されるというのでしょうか? 従って、ここでは文字どおり、「すべてのことを諦めなければならない。」と解釈するより、先にお話しました悔い改めの概念と繋げて理解する方が正しいことではないかと思います。今までの罪人としての生き方を諦めて、主の民に相応しい生き方を選ぶこと、主の召しに応じて、主が望んでおられる、正しい生き方を目指して生きていくこと、先ほど、悔い改めとは何かについて分かち合ったように、罪人としての生き方から立ち返るということが、この本文を通して、私たちが教えられる教訓ではないかと思います。もちろん、特定の状況下では、自分のことを諦め、無条件に主に従わなければならない場合もあるでしょう。(牧師への召しなど)しかし、日常を生きていく私たちの立場では「諦めて従う。」という意味について、過去の罪に満ちた生き方を悔い改めて、立ち返って主が望んでおられる生き方、悔い改めて主に聞き従う生き方をしていくという解釈の方が、より合っているでしょう。現代を生きる私たちが、主の弟子になるということは、そのような意味なのです。日常を、家族を、仕事を諦める必要はありません。それは主が願っておられるところではありません。ただし、私たちが罪に対して抵抗し、キリストに従って正しく生きようとすることが、私たちに求められる生き方なのです。 2.人間をとる漁師とは? 主は弟子たちを召されるとき、特異な表現を使用されました。それは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。」(17)でした。これを、あえて文字どおりに解釈すれば、「自分らの豊かさだけを考えてお金を稼ぐために、魚をとっていた、あなたがた漁師たちを、今後、人を救う伝道の働き人として使おう。」と解釈することが出来るでしょう。しかし、もっと深く、漁師という表現について考えてみたいと思います。旧約聖書で漁師や釣りなどの表現は、そんなに肯定的な表現ではありませんでした。今日の旧約本文を読んでみましょう。 「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。」(エレミヤ16:16)この言葉は神様が、過去、旧約時代に神様に絶えず不従順で通したあげく、バビロンに連行されてしまったイスラエルの民を救ってくださると約束なさった後、イスラエルの民に警告なさる場面です。わかりやすく言い換えると、「私は君らの救いを約束する。しかし、イスラエルに帰って過去のように罪を犯す場合、私は漁師に釣られる魚のように、狩人に狩られる獣のように、君たちを裁く。」という意味です。ここで、漁師は、裁きの表現として用いられました。 エゼキエル書には、このような表現もあります。「わたしはお前の顎に鉤をかけ、鱗にナイル川の魚をつけさせ、ナイル川の真ん中から引き上げる。お前のうろこについた川のすべての魚と共に。わたしはお前を荒れ野に捨てる。ナイル川のすべての魚と共に。お前は地面に倒れたままで、引き取る者も、葬る者もない。わたしは野の獣、空の鳥にお前を食物として与える。」(エゼキエル29:4-5)ここでは、漁師という表現はありませんが、邪悪なエジプト帝国を裁く媒介として漁師を思わせる表現が登場します。つまり、旧約聖書で漁師という言葉が持っていた意味は、神様の恐ろしい裁きと刑罰を意味する場合が多いのです。そういうわけで イエスの当時のイスラエル人たちにも、漁師という表現が持っているニュアンスは救いや伝道のイメージとは、異なって入ってきたかも知れません。ならば、主は弟子たちを用いて世を御裁きになるという意味で、これらの言葉をくださったのでしょうか?そうではないと思います。主イエスは、裁くためではなく、救うために、この地に来られたメシヤでいらっしゃるからです。主は、単純に御裁きの働き手とするために、弟子たちをお召しになったわけではないでしょう。 チャールズ・スミスという学者は、今日の本文をこう解釈しました。 「主が人間をとる漁師として弟子たちを召された理由は、単純に伝道だけのためではなく、差し迫った終末と裁きを宣言するためである。」今日の本文に対しては、いくつかの解釈がありますが、私はこれが割と適切な解釈ではないかと思います。私たちは、時には「人間をとる漁師」という語句を、漠然と伝道と関連付けて考えることがあります。私たちが伝道をしようとする理由は何でしょうか? 「人々がイエス様を信じて救われるように導かなければならないから。志免教会の将来のためにも、人々が増えるべきであるから。」など、いくつかの理由があるでしょう。もちろん、これらの理由も本当に大事だと思います。しかし、それと同じように重要なことは、主の弟子となり、人間をとる漁師に召されたならば、過去の旧約聖書が警告していた漁師のイメージのように、いつか主によってもたらされる終末と裁きをも人々に教える義務があるということではないでしょうか?クリスマスにイエスが来られた理由は、世の罪人を救うためでした。しかし、再び来られる再臨のイエスは、救いのイエスではなく、裁きのイエスです。私たちは、このような恐ろしい裁きがあることを知っている群れです。したがって、主の弟子、人間をとる漁師に召された私たちは、主の裁きを警告する見張り番としての役割をも持っていることを忘れてはならないでしょう。私たちは愛の主を伝えることと共に、裁きの主も伝えるべき使命を持っています。 締め括り 悔い改める者=主の弟子=人間をとる漁師。 私たちは、今日の言葉を通して、主の弟子になるというのは、悔い改めのある生を生きることと共に、神の裁きを警告する見張り番としての役割を果す者となることでもあると学びました。イエスを信じるということは、「イエスを信じて、祝福を受けて幸せに生きる。」ということだけの意味ではありません。もちろん救われた者たちは、そのような祝福の中に生きるようになるでしょう。しかし、使徒パウロは次のように語りました。「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:10)真に救われた者なら、公に主を言い表すべきであるということでしょう。それには主の救いと裁きの御言葉も含まれていると思います。弟子としての人生とは、一生の間、罪の道から立ち返る悔い改めの生であり、罪の道に残っている人々に、救いと裁きの福音を宣べ伝える生なのです。私たちは、悔い改めの生を生きているでしょうか?私たちは、主の弟子として救いの福音を宣べ伝えて生きているでしょうか?私たちは、人間をとる漁師として、差し迫った神の恐ろしい裁きを人々に伝えているでしょうか?今日の言葉を通して、私たち自身の生活を振り返ることが出来ると思います。主の弟子、悔い改める者、人間をとる漁師としての人生になっているか、もう一度省みて、主に喜ばれる私達になりますように願います。

断ち切れない罪の性質。

創世記9章18-29節(旧12頁) ヨハネの黙示録1章4-6節(新452頁) 前置き 神の被造世界は、人間の罪のゆえに汚されました。神は創造を通して、神に礼拝する世界をお造りになりましたが、むしろ、被造物を神に導き、礼拝させるべき人間のために、世界は堕落してしまったのです。神は人間に自由な意志をくださり、自発的な礼拝を受けることを望んでおられましたが、人間は、むしろ自由な意志を用いて、神に逆らったのです。しかし、その後も、神は長い間、人間の悔い改めを待って来られました。しかし、結局、人間は変わらず、神に背く、罪にまみれた存在になる一方でした。神はそれに対する裁きとして、洪水を下されたのです。それでも、神はノアという正しい人のゆえに、裁きの後に新しい世界を許してくださいました。世界は裁かれましたが、正しい人ノアのゆえに新しく始まったのです。しかし、残念なことに世界は再び罪の道に進むようになってしまいました。正しい人ノアの家族から再び罪が生まれ、世界はまた、罪の蔓延るところになってしまいました。世の中が、新たに変わっても、罪は断ち切れられませんでした。今日は、このようなしつこい罪の性質を取り上げ、罪への警戒心を持つ時間になることを願います。 1.カナンの父、ハム。 ノアには3人の息子がいました。彼らはセム、ハム、ヤフェトでした。一部の学者たちは、それぞれ、「セムは東洋人、ハムはアフリカ人、ヤフェトはヨーロッパ人の祖先である」という主張をしましたが、現代では、全く根拠のない主張であると受けとめられています。このような主張が出てきた理由は、ハムが神の呪いを受けたため、ハムの子孫であるアフリカ人が、他の人種に支配を受けるものだという、植民地主義史観に立った聖書解釈のためではないかと思います。しかし、神はすべての人間を平等に愛しておられますので、このような解釈は、聖書全体の文脈とは、合致しません。それでも、今日の本文に、ハムは呪われたという言葉が登場するのは、紛れのない事実なのです。罪が消えた新世界で、なぜ、ハムは神の呪いを受けるようになったのでしょうか?ハムが呪いを受けるようになった理由は、後に登場する、イスラエル民族のカナンへの抵抗を予告する伏線としての意味を持つからです。なぜなら、ハムはカナンの父だったからです。創世記は、モーセ五書の最初の書で、モーセが神様に直接与えていただいた啓示として知られています。ある人は、モーセが直接記録したと、またある人は、モーセの言い伝えを、後世の人が、まとめて記録したと主張しています。いずれにせよ、創世記にモーセの影響が深く染み込んでいるということは明らかです。その意味は、つまり、誰が記録したにしても、創世記の内容自体は、モーセと同じ時代に生きていた人々のための、モーセの教えだった可能性が高いということです。 そういうわけで、私たちは、この創世記を単に礼拝のための経典であるという視点から考えるだけではなく、モーセの時代の人々が直面していた社会的な状況での行動規範としても、読む必要があります。当時、もうすぐカナンに入る状況、あるいは、カナンで生活していた状況で、カナン先住民の偶像崇拝と望ましくない宗教行為は、イスラエル人に良くない宗教性を及ぼす可能性がありました。神の御言葉は、邪悪な行為の禁止、神と隣人への愛のように、多少、守りにくい律法である反面、カナンの宗教は豊作のための宗教儀式として、男女の乱れた肉体関係を勧めるなど、神の御前で罪であることも、罪であると見なさない、快楽の宗教だったからです。おそらく、モーセは創世記を通して、そのようなカナン人の罪の性質が、その祖先であるハムに由来したものであるという警告を与え、彼らに同化せず、抵抗することを警告するために、カナンの祖先、ハムの罪を強調しようとしたのかもしれません。つまり、今日の言葉は、乳と蜜の流れるカナンの地で、カナン人と同化せず、むしろ抵抗して生きて行かなければならないイスラエルの民に、抵抗の正当性と使命感を促すための一種の説明書だと言えるでしょう。神に呪われたハムが持っていた罪の性質から抜け出し、そのハムの子孫であるカナンとは異なる区別された民族、すなわち、聖なる民族として生きていきなさいという、神の御命令だったということです。ハムが呪いを受けた理由については、このような視点から迫る必要があると思います。 2.ハムに残されている罪の性質。  「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって…わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。…これらを造ったことを後悔する。」(創世記6:5-7)創世記6章には、神が地上に洪水という裁きを下された理由が記されています。心に悪いことばかりを思い計る人間の姿を御覧になり、この世から罪を拭い去るために、人間と全ての被造物に裁きを下されたわけです。しかし、わたしたちは洪水の裁きの後も、依然として人間に罪が残っていることを、聖書を通して確かめることが出来、また、わたしたちの生活の中でも、そう感じます。なぜ、神が洪水でお裁きになり、新たな始まりを許されたにもかかわらず、世の中に、依然として罪と悪が残っているのでしょうか?それは、まさにノアの息子ハムから、再び罪が生まれたからです。 「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。 カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」(創9:20-22) 神の祝福によって、ノアは農業を始めました。 「今、お前は呪われる者となった。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。」(創世記4:11-12)弟アベルを無惨に殺したカインの罪ために、神は地の呪いを下されましたが、洪水の裁きの後、再び世界を祝福し、新たなる機会を与えてくださいました。ノアはそのような神の加護の下で農業を始め、豊作になりました。おそらくノアは嬉しい気持ちで自分の作物で造ったぶどう酒を飲み、酔って裸になっていたかも知れません。聖書は、ノアが酒に酔ったことと、裸になっていたことについて、一切の肯定的な、あるいは否定的な評価もしていません。ノアが飲みすぎた部分については、私たちにも注意する必要があるでしょうが、今日の本文の主題は、ノアの飲みすぎとは、あまり関係がありません。それでも、あえて意味を与えようとすると、健康に生き、しくじらないためにも、過度の飲酒は控える必要があるということでしょう。それでは、この物語で本当に問題となる部分は何でしょうか?まさにハムがやってはいけないことを犯したということです。 (今日の本文は学者によって、色んな解釈があるため、参考にだけしていただきたいと思います。) 今日の本文の「ノアが…酔い…裸になっていた。」という言葉は、創世記3章に出てくる「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った。」での裸とは異なる表現を使っています。後者は文字通りに裸を意味する反面(エロム)、前者は正しくない淫らな行為と関係があるものです(むき出す・ガラ)。ノアが裸であったという言葉に用いられたヘブライ語の表現を、他の聖書で探してみると、レビ記で20回登場していますが、まさに「誰かを犯して、辱めてはならない」という表現で親族との肉体関係、すなわち近親相姦を禁止する命令で使われています。「ノアが裸になっていた。」という表現には、ノアが妻と肉体関係を持っていたとの意味をも含まれているそうです。ノアが彼の妻と関係するということは自然な行為で、神様に許された、言わば摂理なのです。また、夫婦関係は他人によって侵害されてはならない大切なものです。なのに、ハムは、酒に酔った親のしくじりを見逃さず、その行為を見てしまいました。ここで「見る」というヘブライ語は、創世記3章でエバが善悪の木の実を貪った時、「その木をみると」に使われた表現で、正しくない欲望を含む表現です。つまり、ハムは親の行為を自分の意志で淫らに見たということです。ここから、いくつかの他の解釈も発生します。父の恥部を嘲弄すること、あるいは、母との望ましくない関係を犯すこと等です。つまり、ハムの心に決して、やってはならない淫らな心があったということが、今日の本文の問題点なのです。 3.罪は断ち切れない。 ハムには、淫らな罪の性質がありました。これは、単に性的な放蕩だけを意味するものではありません。旧約では、偶像崇拝について、「淫らに不倫を犯すこと」とよく表現します。ハムが犯した親への悪どい心も、とんでもない大きい犯罪ですが、その淫らな心の中に、また神を離れて、自分の欲望を追求しようとする不穏な思想が隠れていることは、さらに大きな問題なのです。結局、目に見えるハムの罪は淫らな思いを持っていたことですが、目に見えない、さらに大きいハムの罪は偶像崇拝の種を持っていたということです。神が洪水の裁きを通して、新たにしてくださった世界で、正しい人と言われたノアの、その息子によって、再び罪の性質が芽生えはじめました。ハムはカインで象徴される当時の罪人の血統ではなかったのに、結局、正しい人の血統からも罪が生まれたわけです。ここで私たちは罪の性質というのが、人の血統や家柄を通して受け継がれるものではなく、当初から人そのものに潜んでいるということが分かります。このように罪は断ち切れず、しつこく残るものです。ですので、私たちは、イエス・キリストの救いに感謝するとともに、毎日、自分の生活を顧み、自分の中から湧き出る罪の性質を制御するために、絶えず自分のことを弁えるべきです。 先週一週間の自分の生活を省みてみましょう。私たちは、どのような罪を犯してきたのでしょう?砂利も、大岩も、本質は石です。サイズに関わらず、結局、水に沈むものです。罪も同じです。罪は大きさを問わず、それを持っている人を罪人にします。嘘吐きと人殺しへの社会的な非難は異なりますが、神の御前では同じ「罪」なのです。十戒で「殺してはならない。」という戒めに先立ち、「親を敬いなさい」という戒めがあることに注目してください。神の御前では殺人も罪になりますが、親を憎むことも罪になります。同様に、偽り、結婚関係以外の淫らな行為、盗み、隣人を憎むこと、すべてが神の御前では罪になります。残念ながら、私たちも生きていく間、凶悪犯罪は犯さないかも知れませんが、小さい罪は犯したりします。しかし、神様にとっては、その小さい罪も、同じ罪です。したがって、私たちは依然として残っている罪の性質に対して、常に警戒心を持って生きるべきでしょう。私たちの中には、まだ罪が残っているからです。イエスは私たちの罪を赦してくださいましたが、まだ私たちの中の罪の性質を残して置かれました。私たちの罪は、自分が死んで、神に召される時まで、常に私たちについて来るはずです。したがって、常に罪に対して注意し、我らの罪を代わりに背負ってくださったイエス様の恵みに頼って生きていくべきです。 締め括り 「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」(黙示録1:5-6)私たちに罪が残っているにも関わらず、私たちに希望がある理由は、神様が罪に影響を受けない、完全な救い主を立ててくださったからです。正しい人と呼ばれていたノアからは、ハムという罪人が出てしまいましたが、正しい人イエス・キリストからは罪から解放された聖徒たちが出てきます。ノアの息子ハムも、我々キリスト者も罪から完全に自由になったわけではありませんが、少なくとも私たちには罪から完全に自由になっておられ、我々を罪から解放してくださるイエス・キリストがいらっしゃいます。従って、断ち切れない罪に絶望しないで、イエス・キリストを信じて進んでいきましょう。神の恵みが志免教会に豊かにありますように。

悔い改めとは。

エレミヤ書3章22節 (旧1179頁) マルコによる福音書1章14-15 節 (新61頁) 前置き マルコによる福音書は、イエスを信じているという理由だけで、ローマ帝国の迫害を受けて絶望していた、当時のキリスト者に、神は変わらない方でおられ、その独り子イエスも、これまで通り信徒たちと一緒におられるという希望のメッセージとして記録された書です。そのため、マルコによる福音書は一切の美辞麗句をそぎ落とし、最も重要な神の愛とキリストの福音について、力強く証ししています。マルコによる福音書の冒頭では、イエス様が、ご自分の民キリスト者と共にいてくださるために、メシアでいらっしゃるにも拘わらず、罪人が受けるべき洗礼と試練とを御受けになることによって、信じる者と一緒におられることを語りました。イエスは今日もまた、主の体なる教会と共におられ、教会の試練と苦しみを同じように体験しておられます。私たちは、マルコによる福音書の言葉を通して、ともにおられるイエスの御心を感じることが出来ます。このような愛と恵みの主を覚え、変わることなく、生ける主を仰ぎ見て、生きていきましょう。今日は、イエスを信じる者に促された福音と神の国、そして、悔い改めについて話してみたいと思います。 1.福音 – ユーアンゲリオン 皆さん、オリンピックといえば、どの競技を最初に思い浮べられますか?いくつかの種目があるでしょうが、私はオリンピックの花と​​呼ばれるマラソンが一番に初めに思い起こされます。マラソンという言葉は、地名に由来したもので、ギリシャの首都アテネから40キロメートルくらい、離れている人口9000人ほどの小さな町の名前です。約2500年前、アテネを侵攻したペルシャ帝国はマラソン市の周辺の野原でアテネの兵士たちと戦いました。アテネから11000人、ペルシャから15000人の大規模な戦でした。アテネは勝利に向かって真剣に戦いました。アテネの市民も心から勝利を願っていたはずでしょう。その願いが聞き届けられたのか、最終的には数的劣勢にも拘わらず、アテネ軍がペルシャ軍に大勝利を収めました。勝報を伝えるメッセンジャーはアテネの勝利を伝えるために、喜びをもってアテネに走り出しました。彼は一度も休まず、40キロメートルも離れているアテネにひた走りしました。結局、彼はアテネに到着して勝利のニュースを伝えて、倒れ息を引き取ったそうです。これに由来した陸上競技が、まさにマラソンなのです。マラソン競技では、そのメッセンジャーを記念して、メッセンジャーが走り抜いた距離と推定される42.195 キロメートルをマラソンの正式距離と定めています。 ここで息を引き取ったメッセンジャーが持って行った勝報のことをユーアンゲリオンと呼んだそうです。あまりにも良いニュース、言わば福音なのです。私たちが福音と呼んでいる言葉のギリシャ語が、まさに、このユーアンゲリオンです。福音はつまり、勝利のニュースなのです。このユーアンゲリオンという概念は、時間が経って、ローマ帝国の時代になっても、相変わらず続いていました。なので、ユーアンゲリオンは、帝国の勝報や、皇帝の勅令などを意味する言葉でした。この地上は、力の原理で支配される世界です。古代エジプト帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国、近代のイギリス帝国、旧日本帝国、現代のアメリカや中国のように、世界は力の原理に基づいて、弱い者は苦しみを受け、強い者は威張って生きる、理不尽な世界です。過去から、これらの地上の原理は、一度も変わったことがなく、世界を支配する原理だったわけです。支配者たちは、自分らの勝利を良いニュースと呼んで、弱い者の屈従を当たり前に思っていたのです。強い者のために、弱い者たちが犠牲になっても、彼らには何の問題にもなりませんでした。どうせ、彼らにとって世界は強い者のための舞台だったからです。果たして、そのような強い者の福音が、弱い者にも同じく福音だったのでしょうか?強い者のユーアンゲリオンが、弱い者にも同様に適用されたのでしょうか? 2.イエスのユーアンゲリオン。 今日の本文で、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。ユーアンゲリオン、つまり福音という言葉が強い者であったローマ皇帝により、強い者のための概念として用いられていた時に、イエス様も福音という言葉を言い出されたわけです。それは、イエス様も世間の強い者らのような帝国主義者だったからでしょうか?そうではないでしょう。イエスは「神の国」の予告として福音を仰ったのです。強い者が弱い者を踏みにじる、帝国のための福音ではなく、天地万物を創造なさり、愛を持って、世界を治めておられる神の福音なのです。 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者です。洗礼者ヨハネが捕らえられて殺されたというのは、旧約時代が終わり、新しいイエスの時代が臨んだとの意味です。神は過去からの権力と暴力が支配していた時代に終焉を告げられ、神が手ずから治められる神の国を予告させ、その神の国の支配をイエスにお任せになるために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。イエス様が告げ知らせた福音とは、神の民らを暴力にまみれた、この世の支配から脱出させて、愛と恵みの神の国にお移しになる、神の支配の宣言だったのです。 アダムの息子カインが、神を離れて最初にしたのは、自分を守るための城を築くことでした。以来、彼の子孫は、自分のために他国を苦しめる残酷な古代の王たちになりました。彼らは自分自身のために、他人を踏みつけ、殺しました。帝国主義は、そのような暴力に基づく支配方式です。しかし、イエスは他人のために、自らを犠牲になさり、彼らを御自分の民とさせ、愛してくださいました。イエス様が支配なさる、神の国とは、そのような所です。力の原理ではなく、愛の原理で統治される所なのです。弱い者が守られ、強い者が仕える国です。なので、神の国で最も献身的に民に仕える方は、王であられる神、すなわち、イエス・キリストなのです。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」イエス様が初めて福音を宣べ伝えたところは、聖なる都であるエルサレムでも、帝国の首都ローマでもなく、差別と憎しみに傷付いていたガリラヤでした。主はガリラヤのナザレで育ち、いつもガリラヤ地域を中心として御働きになり、そこで弱い人々に御仕えになりました。主イエスは、愛と恵みに満ちた神の国を建てるために、みずから低いところに臨まれました。そして、主御自分の血潮で、弱い者のための愛の国、神の国を成し遂げられました。そのような主が、御自分の民を、直接治められるのが、福音が持つ真の意味なのです。したがって、福音は、弱い者(自分の罪を悟り、悔い改める罪人)がイエスを通して神の愛の中に入り込むことを意味するものです。 3.神の国の民の在り方? – 悔い改め ところで、イエス様は、このような神の国と、その福音を享受するためには、必ず行うべきことがあると言われています。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」イエスが公生涯に踏み出された時、すでに神の国は近づいてきていました。イエスの到来自体が神の国の到来を知らせる出発点だったからです。そして、キリストの十字架上での犠牲と復活を通して、神の国は、さらに完全に打ち立てられました。だから、イエス・キリストを信じる私たちは、すでに神の国に生きている存在です。神の国の王でいらっしゃるイエス様が、私たちと一緒におられ、私たちも主の支配の中で生きているからです。ここで、私たちは神の国という概念が場所というよりは、神の支配そのものであることが分かります。神の国を既に生きている存在として、私たちは、どのような生き方を貫くべきでしょうか?それは正に「悔い改めて福音を信じる。」ことです。福音を信じるということは、神が弱い者を召され、罪人を赦され、神の愛の中で、神の国の民として生きさせてくださることを信じるという意味ですので、そんなに説明が難しくありません。ならば、悔い改めとは何でしょうか?皆さんは悔い改めを、如何に理解しておられるでしょうか?過去の罪を悔み、自分のことを改善することを意味するのでしょうか? 過去の罪を悔い、自分のことを改めるという意味も、悔い改めの一部であることは、紛れもない事実です。しかし、悔い改めとは、単純に悔みだけに止まる(とどまる)レベルとしての概念ではありません。今日の説教の初めにマラソンの戦いの話をしました。また、ユーアンゲリオン、すなわち福音は、その戦いで勝利を勝ち取った時の勝報を意味する表現であると申し上げました。聖書に記されている悔い改めには、戦闘に勝利した凱旋将軍が、敵の捕囚となっていた人々を救い、解放させて、故郷に戻らせるという意味が含まれています。捕囚だった者が、凱旋将軍によって、自由人となり、その身分が変わったというのが、悔い改めの具体的なイメージであると言えるでしょう。つまり、イエスが十字架で罪に勝ち抜き、罪の影響下にあった罪人を神の国の民とならせたということから、悔い改めの基本的な概念が始まるのです。したがって、悔い改めは、キリストの勝利に基づくものです。主の勝利によって、御自分の民を過去の罪の生き方から立ち帰らせ、神の民としての生き方を追い求めさせるという意味です。過去の罪にまみれ、神を知らない人生から逃れ、絶えず凱旋将軍イエスに倣って、神に向かってUターンするということを意味します。もうこれ以上、罪の捕囚として、身勝手に生きるのではなく、神の側に立って、キリストの御心に服従して神を追求して生きるということです。だから、悔い改めとは、絶え間なくイエスに倣っていく、我らの心構えなのです。つまり、悔い改めは主イエスに解放された罪人が、全生涯を通して、諦めずイエスに付き従う生き方そのものなのです。 多くのキリスト者は回心し、決断して、イエスを信じるようになったら、二度と罪を犯さないようになると漠然と考えたりします。それは、回心直後の何日かの間は可能であるかも知れませんが、結局、人間の罪の性質は、再び現れます。その時、キリスト者は、自分自身に失望したりします。実際に罪の性質から完全に自由になるのは、不可能だと言っても過言ではないでしょう。そのため、正しい信仰を持つキリスト者は、自分に残っている罪のために、常に悩みます。そのたびに、本当に回心をしたのか、自分のことを疑います。しかし、このような悩みは極めて自然で、望ましい悩みです。むしろ、何も心配せず、自分の過ちも分からない人の方が問題です。なぜ、主はキリスト者に過去の罪の性質を残され、悔い改めさせるのでしょうか?これは絶え間ない悔い改めを介して、私たちを主イエスと共に生きさせ、日々新たになるようにするためです。キリストの恵みによって、最初に悔い改めた私たちは、その後も絶え間ない悔い改めを通して少しずつ、正しく変わっていきます。神の召しを受けて、この世から去る時まで、我々は悔い改め続けて、変わっていくということです。神学ではそれを聖化と言います。過去の生き方から何度も何度も立ち返って、神の民らしく生き、引き続き、自分の人生を神に向けさせること、それが、まさに悔い改めなのです。したがって、悔い改めとは神の国を生きるための、キリスト者の呼吸のようなものです。常に呼吸して生きるように、常に悔い改めて生きるということです。それが、キリスト者の悔い改めが持つ本義なのです。 締め括り 私たちは、キリストの御名によって神の民となったキリスト者です。しかし、私たちに残っている罪のため、残念なことに一気に完全に聖化されることはありませんでした。そのために必要なものが悔い改めなのです。私たちは、依然として罪に対して弱い姿で生きていきます。しかし、常に悔い改めることにより、私たち自身を神に捧げるときに、キリストは主の聖霊を通して、私たちを守り、導いてくださるのです。 「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。」(エレミヤ3:22)主は旧約時代から堕落した民をお招きになる方でした。そして、我々はキリストを通して、神の国を生きる民となりました。主が私たちに悔い改めをお促しになり、悔い改めにお導きくださるからです。したがって、もし、罪を犯したと気づいたら、ありのままに罪を認め、神に助けを求めましょう。まるで、呼吸をするかのように、どんなに小さな罪でも、へりくだって絶えず悔い改めて生きていきましょう。神がキリストの御名を通して私たちを赦してくださり、神の国の民として受け入れてくださるでしょう。神の国を生きる民として悔い改め、毎日、神の御前で新たになる志免教会になることを祈り願います。

洪水Ⅲ‐ 永遠の虹の契約。

創世記9章1‐17節 (旧11頁)テモテへの手紙Ⅰ2章4節(新385頁) 前置き 創世記で、イスラエルの先祖、アブラハムが登場する箇所まで、最も多くの部分を占める物語は、断然、ノアの箱舟と洪水の裁きに関する話だと思います。アダムの堕落後、その10代目のノアが登場するまで、長い時間をかけて、神は人間の罪と悪を忍耐なさり、人間に悔い改めを要求してこられました。しかし、義人は極めて少数であり、殆どの人間は罪に罪を重ねて、神から離れるばかりでした。結局、神は、そのような罪にまみれた人間をお造りになったことに、御心を痛められ、結局、裁きをくだされましたが、まさにそれが洪水だったのです。神が真心を込められて、創造なさった世界が裁かれるということなので、洪水の物語は、決して軽視すべき話ではありません。人間の罪は、神が喜びをもって造られた、被造世界を打ちこわし、裁きに追いこむ、恐ろしい結果をもたらします。創世記6章から9章にわたって、長い紙面が割かれるほど、そして神の厳しい裁きをもたらすほどに、罪の結果は悲惨なものです。今日は人間の罪と神の裁きとしての洪水について話し、それにもかかわらず、正しい人を通して、新しい御業をお始めになった、神の愛と恵みについて、分かち合いたいと思います。 1.人間の罪の性質と箱舟の意味。 洪水については、前の2回の説教にわたって分かち合いました。少し時間が経ちましたので、記憶を辿るために再び話してみましょう。「地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(創世記6:1-2)洪水の物語は、神の御言葉から離れ、神を無視し、身勝手に振舞おうとした人間の罪から始まります。初めのアダムとエバは、神の御座を貪り、神のようになろうとしました。それは人間の堕落と呪いを招きました。しかも、長い歳月が経っても、人間のそのような罪の性質は、全く変わりませんでした。神の御言葉とは関係なく、自分の意志にこだわり、神の御命令よりも、自分の考えを優先しました。ノアの当時の人々の罪の性質は、依然として変わらず、世の中に蔓延っていたのです。神は彼らが悔い改め、神に帰ってくることを、長い間、忍耐されつつ、待って来られましたが、人間は日増しにあくどい罪を犯していったのです。神は長く忍耐なさる方でしたが、その忍耐は永遠ではありませんでした。結局、神は人間を造ったことを悔やみ、洪水で裁く計画を立てられたのです。しかし、そのような罪人の間にも、神を愛し、仕える正しい人がいました。その人はノアでした。 「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」ノアは、自分の考えではなく、神の御言葉に聞き従い、神と隣人を愛する正しい人でした。神は罪に満ちた世の中で、このような義人を愛し、探しておられる方です。世界のすべてのものが滅ぼされる状況でも、神は義人を生かそうとなさる方です。そのために作られたのが「ノアの箱舟」なのです。神は正しい人ノアを通して、ノアだけでなく、その家族と他の被造物をも、箱舟に乗り込ませ、救われる機会を与えてくださいました。つまり、1人の義人への救いが、他者にも救いの機会をもたらしたということです。一人の義人の存在と従順が、他者を生かす、大きな結果になったのです。私たちは、このノアと箱舟を通して、我々を救ってくださる主イエスと、箱舟のような教会の在り方についても学ぶことが出来ました。神の裁きは、人間の罪のために下されたものです。そして、義人は、その裁きの中で新しい希望を作り出しました。その希望は箱舟という名前で、多くの命を救い出しました。私たちの間におられるイエス様は、今日も教会という箱舟を用いて、救われるべき者を探しておられます。このように、私たちは、ノアと洪水と箱舟の話を通して、罪の恐ろしい結果と、真の義人キリストの救いを聞くことが出来ました。 2.御裁きになる神様。 かといって、裁きが取り消されるわけではありません。ノアによって多く存在が箱舟に乗り込み、救われたにも拘わらず、神の洪水の裁きは変わらず、やって来ました。神は御自分が与えてくださった箱舟という救いの機会を捕らえなかった、すべての存在に計画どおり、裁きを下されました。神はノアと、その家族、他の被造物を箱舟に乗り込ませ、手ずから箱舟の戸を閉ざされました。また、大いなる深淵の源をことごとく裂けさせ、天の窓を御開けになり、四十日四十夜、雨を降り続けさせられました。洪水の水位は山頂を上回る膨大な量で、罪にまみれていた世のすべての生命は、それによって最後を迎えることになったのです。生き残ったものは、ノアと箱舟に乗り込んでいた存在だけでした。 「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」(創世記8:1)膨大な雨で全世界が裁かれた後、神は義人ノアと、彼によって生き残った命を御心に留め、彼らのために洪水をお止めになりました。箱舟はアララト山の上に止まりました。時間が流れ、洪水は徐々に減り、神は箱舟から生き残った命を再び世界に戻してくださいました。箱舟から降りたノアは、神に焼き尽くす献げ物をささげ、神はそれをお受け入れになりました。 神はこの世に救い主、イエスを送ってくださいました。イエスが来られてから、2000年以上の間、神は引き続き、救われるべき者を呼んでおられます。まるで、480歳で神の召しを受けて、120年の間に箱舟を作成しつつ、裁きを予告したノアのように、神は今日も御言葉を通して裁きを予告しておられます。しかし、そのような予告は永遠に与えられるものではありません。神はいつか、その予告を終わらせるはずであり、それからは、すべての存在は、恐ろしい裁きを受けるようになります。 「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる。」(詩篇96:13)神の裁きは、御自分の御旨による結果です。義と真実の神様は、神に従った者と逆らった者を、確実にお分けになるに違いないのです。だから、私たち教会の使命は重いものです。ノアが自分の箱舟を通して、多くの命を救いに導いたように、キリストの体なる教会は、数が多くても、少なくても、神の救いを伝えて生きるべきです。キリストは救い主であり、神の御裁きが、明らかに来るということを、隣人に伝えて生きるべきです。それが伝道なのです。命の道を伝えることです。私たちの伝道は、ただ、神の救いと愛だけを伝えることではありません。明らかに近づいてくる、神の恐ろしい裁きをも、必ず伝えなければなりません。主の体なる教会は、そのような裁きを伝える、箱舟の使命を持っている存在なのです。 3.神と被造物の永遠の契約 – 虹 人間の罪で満ちていた世界は、神の裁きによって、新たになりました。神の裁きは、人からすれば滅びと終わりを意味するものですが、神と世界から見れば、新たなることと始まりを意味します。私たちは、過去、何回かの説教を通して、聖書で水が持つ意味について取り上げてきました。聖書で水は死を意味することと共に、清めを意味する2つの側面を持っていました。そのため、水をもって授ける洗礼は、罪への死と義への復活を、そして、罪を清めることを意味すると学びました。神の洪水は、罪人を滅ぼす、裁きとしての手立てでありますが、世を新たにさせる、清めの手立てでもあります。なので、洪水は、罪の裁きだけでなく、新天新地をもたらす神の強力な御業としての意味をも持っているのです。つまり、私たちは人間の視点から裁きを眺めるだけではなく、神の視点からも裁きを考える必要があるということです。洪水が終わった地上にノアの家族と被造物を送られた神は、こう言われました。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ。 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。」(創世記9:1-2)神は、悪が消えて新たになった世界で、新しい始まりを許してくださり、義人ノアに、全ての被造物をお任せになりました。 神は、ノアに新世界をお委ねになり、また、このように言われました。 「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。…人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(9:4,6)ここで「血を含んだまま食べてはならない」という言葉は何を意味するのでしょうか?ちょっと、変な例かも知れませんが、ステーキを食べるとき、レアが好きな人はステーキの赤身から血が流れ出ることを知っています。神は血を含んだまま食べてはならないと仰いましたが、それでは、レアが好きな人は、神の御言葉に逆らう罪人なのでしょうか?もちろん、そうじゃないと思います。 「血を含んだまま食べてはならない」という言葉の意味は、他者の命を尊重し、愛しなさいという意味です。創世記が記された当時の中東の文化で、血は命を意味するものでした。 「焼き尽くす献げ物の場合は、肉も血もあなたの神、主の祭壇にささげる。その他のいけにえは血をあなたの神、主の祭壇の側面に注ぎ、肉は食べることができる。」(申命記12:27)旧約聖書には、「献げ物の血を祭壇の側面に注ぎなさい」という言葉が何度も記録されています。命の取扱いは神の権限であるため、神の権限である命を人間が勝手に扱ってはならないということを意味する言葉なのです。つまり、過去の罪人のように、身勝手に振舞わないで、神の御言葉を尊重し、神に従って生きなさいということです。 裁きが終わり、新たに始まった世界では、人が独断的に自分自身の意志で生きることではなく、神に従って歩み、神と隣人への愛を持って生きることを願われたのです。神はそのような、正しい生き方で、新しい世界を作っていくことをお望みになったのです。神はそのような罪から自由になった新しい世界を望まれながら、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ。」と、今回は全被造物に御命令なさいました。再びエデンのような条件を許してくださるかのように、人間と被造物に新しい機会を与えてくださったのです。そのような新時代の契約の証拠として、神は虹を与えてくださいました。それは、神と全被造物の新しい契約でした。その契約を通して、「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」と約束なさいました。 「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(9:16)神と被造物の永遠の契約の証拠として虹を造られ、この虹を見て、神に聞き従い、神を最優先にして、生きて生きなさいと、被造物と新しい契約を結ばれたのです。このように、神の洪水の裁きは、ノアを初め、すべての被造物に、もう一度機会を与えてくださるという、神の御憐みと愛で終結しました。 締め括り 洪水の裁きについて語りながら、我々は、人間の罪の性質と、神の恐ろしい裁き、それでも義人を愛してくださる神の御心、裁きの中でもそれを逃れる道をくださる恵みについて学ぶことが出来ました。現在、地球の全人口は70億を上回ります。そして、その人類の歴史は、1万年も超えるほど長いのです。つまり、計り知れないほどの多くの人間が、この地上の生を経て行ったということです。そのすべての人間が罪によって、神を苦しめていたはずでしょう。しかし、その中でも、神は神に従う義人をお探しになっておられました。時には忍耐なさり、時には裁かれつつ、義人を待っておられたのです。恐ろしい洪水の中でも、一人の義人と彼による被造物を守ってくださった、神を見て、何としても人間と被造物を救おうとなさった神の愛が感じられます。多くの罪人の罪のために、御心を痛めながらも、一人の義人を通して喜ばれる神の愛を感じます。今日も神様はキリストを通して、救われるべき者を召しておられます。いつか、もう一度、洪水よりも恐ろしい火の裁きが、必ず臨むでしょう。その日がやってくる前に、神は、更に多くの者が救われることを望んでおられます。 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)裁きの中で希望をくださり、御救いへと召してくださる神の愛を覚えつつ、その救いに属する者として、神の喜びとなる志免教会になることを祈り願います。

洗礼と試練を受けるイエス。-試練

申命記8章2‐3節 (旧294頁) マルコによる福音書1章9-13節(新61頁) 前置き 先々週のマルコ書の説教では、メシア、イエスが、罪人の受けるべき洗礼を進んで受けられたとの話を分かち合いました。洗礼は罪人が水で洗われて、清くなるという意味を持つ儀式で、もっぱら罪人だけが受ける儀式だったのです。しかし、前の本文では、何の罪もないイエスが洗礼者ヨハネに、敢えて洗礼を受ける場面が出てきました。これは、イエスご自身には罪はありませんが、これから罪人の側にお立ちになり、彼らと一緒に歩み、救ってくださることを象徴することだとお話しました。つまり、主の洗礼はメシア、イエスが罪人の側に立つという崇高な愛の表現だったのです。洗礼は御言葉の説教、聖餐に加えて、改革教会の印を表す重要な儀式です。イエスはご自分を信じる者たちを教会に召され、教会の頭になってくださるために、自ら罪人の立場にお降りになり、洗礼を受け、進んで罪人の代表になってくださったのです。今日は、その洗礼に続く荒野でお受けになる試練について話してみたいと思います。神でいらっしゃるイエスは、なぜ、試練を受けなければならなかったのでしょうか?今日の言葉を通して、私たちを助けられ、愛され、導いてくださるイエスについて、そして、受けられた試練について分かち合いたいと思います。 1.試練 – 神の試み。 今日の本文に出てくる「誘惑を受けられた。」という言葉の原文は「フェイラゾ」というギリシャ語です。これは「試みる。試す。耐える。調べる。惑わす。鍛える。証する。」等、多くの意味を持っています。本文では、「イエスはサタンに誘惑を受けられた。」と出てきていますが、厳密に言うと、サタンがイエスを誘惑したわけではなく、神がサタンを用いられ、イエスにメシアとしての試みを課されたとの解釈が、より正しいと思います。したがって、今日の試練は、試みとも呼ぶことができるでしょう。私たちは試練について話す時、辛くて苦しい苦難などを思い浮かべがちですが、オックスフォード国語辞典では「実力・決心・信仰の程度をきびしくためすこと。また、その時の苦難。」だと書いてありました。つまり、神様から与えられる試練は、誰かを苦しめる刑罰ではなく、試練を許され、信仰を成長させる、養育の方法なのです。私たちは、自分が苦難に遭った時、「私は罪が多くので試練を受ける。」あるいは「神に見捨てられて試練を受ける。」などと心配したりする傾向があります。しかし、我々は、変わることの無い、イエス・キリストの血潮によって救われた存在なのです。ですから、私たちの試練は、神様が私たちを養ってくださるための、父親の養いだという心構えを持たなければなりません。神はキリストを通して、すでに私たちを受け入れ、愛してくださる方だからです。 しかし、聖書は試練のもう一つの側面を示してくれたりもします。 「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(ヤコブの手紙1:13-14)歴史上、キリスト教が迫害を受けたことが少なからずありました。帝国主義により、共産主義により、試練を受け、数々の殉教者が出たりしました。そのような場合には、明らかに試練として迫害されたと言えるでしょう。しかし、時には教会が神の御言葉から離れ、独善的になり、世の塩と光にならず、嫌われる立場になって、人々の信頼を失った時もありました。恥ずかしいことですが、現代の韓国の教会がそうです。今、韓国の教会は、未信者に歓迎されているとは言えない状態です。いくつかの教会は、建物だけ大きく築く、その教会の有名な牧師が自分の子供に教会を受け継がせ、自分たちの利益のために信者を騙し、他者を蔑む、そのような自己中心的な姿によって、未信者の憎しみを買うようになったのです。 すべての教会が、そうであるわけではないでしょうが、権力と財力のある教会の中で、そんな場合がしばしば生じ、それによってプロテスタント教会全体が嫌われるようになったということです。しかし、そのいくつかの教会は愚かにも、そのような未信者の反応が自分たちを迫害しようとするサタンの仕業だと思って、自らを正当化しようとしたりしました。しかし、そのような迫害と憎しみは、サタンの仕業というより、教会が自ら招いた結果なのです。そのような場合の試練は、神から来るものではありません。ヤコブの手紙の言葉のように、神から離れた教​​会が自分の欲望のために、嫌われるようになったわけです。したがって、我々は、試練が神の訓練であるという心構えを持っている必要はあるでしょうが、まず自分の姿を弁えて、自らを振り返る姿勢を持つことが重要だと思います。私たちの試練が神から来る養いとしての試練なのか、それとも、教会の利己主義と間違いによる結果なのか、それら2つの側面に対する視点を持ち、はっきり自分のことを分別してみる必要があると思います。 2.イエスの受けた試練。 しかし、イエスの試練は、これら二つの側面とは別の意味を持っています。旧約のイスラエルは、神の御助けによって、エジプトの奴隷生活から解放され、荒野に脱出しました。彼らは神の言葉のように、すぐに乳と蜜の流れるカナンに入るだろうと期待していたでしょう。紅海を渡った後、彼らは明るい将来だけが繰り広げられるだろうと考えたのかもしれません。しかし、現実は違いました。食べ物も、水も足りなく、炎の蛇のような危険な生き物も多かったのです。神はわざわざ地中海沿いの近道ではなく、遠回りの長い道のりで、彼らを導かれました。 「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。 」(申命記8:2)神は、彼らが、果たして神を追い求め、頼るかどうか、お試みになるために試練を与えられました。しかし、出エジプトしたイスラエルの民は、感謝より恨みで神を責めました。神の救いと同行よりも、目の前の飢えと不便さに目が向いていたわけです。 最終的に彼らは神の御救いさえ否定し、エジプトに帰ろうとしました。結局、神は40年間、彼らを彷徨わせました。しかし、神は彼らの試練の中で共におられる方でした。 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(8 :3)神は、ご自分を頼らず、むしろ恨んだイスラエルに試練を与えられました。その試練の中で最後まで一緒におられる神様について、悟らせるためでした。結局、神を恨み、信じなかった最初の世代は、40年を経て、ほとんど亡くなってしまいました。新しい世代だけがカナンに入るようになったのです。旧世代の中では、最後まで神を信頼していた何人かの人だけが、カナンに入ることが出来ました。神への不信仰で一貫していた世代は、カナン入りを許されず、新世代、すなわち神との同行の中で生まれた世代だけが乳と蜜の流れるカナンに入るようになったわけです。 イエスの試練は、これと関連があります。神の国を来たらせるイエスは、人々が自分らの罪によって昔の出エジプト時代の旧世代のように、神に完全に従えないということを知っておられました。マラキ以降400年の間、啓示が切れていた時代を生きてきながら、イエス当時の人々が望んでいたのは、共におられる神そのものというよりは、周辺国と権力者から自分らを救ってくださる神のその力でした。まるで出エジプト世代のように、神ではなく、神の力を用いて強い者からの解放だけを望んでいたことと同様です。しかし、イエスは御自分が、自ら罪人の代表となられ、神の力だけを求める民ではなく、神と共に歩む民にならせるように、人々の代わりに自ら試練を受けられました。そのため、神は人間の行為ではなく、このイエスの御功績により、イエスの名の下にいる者らを認め、赦してくださるのです。イエス様が御自分で試練を乗り越えたため、イエスを信じる者が失敗をしても、神はその人ではなく、その背後のイエスを見て、彼の罪をお赦しくださいます。イエスの試練は、信者に代わって受けられた試練です。そして主イエスは、その試練を、私たちのために乗り切ってくださいました。 3.罪人の代わりに試練を受けられたイエス。 イエスは神様でいらっしゃいますが、人間であるとを自任されました。なので、イエスにこの地上での神としての特権は全くありませんでした。女の体を通して、飼い葉桶で生まれ、財産も権力もないナザレの大工として育ちました。メシアにも拘わらず、洗礼者ヨハネに罪人が受けるべき洗礼を御受けになり、聖霊に送り出されて、荒野で試練を御受けになりました。誰が彼をメシアだと、神様だと思えたのでしょうか?主はお生まれになった瞬間から、神様としての全ての特権と力をしばらく止められて、すべてのことを、罪人の立場から臨まれました。「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」(マルコ1:12-13)つまり、イエスは罪人が受けるべき扱いを御受けになったのです。洗礼によって鳩のように臨まれた聖霊は、イエスに神としての力を許される前に、激しい試練に追い出しました。マタイは、イエスがお受けになった試練について詳しく説明しています。 試練については、マタイ書を通して詳細に探ってみたいと思います。まず、四十日間の断食の後、石をパンにしてみなさいとの、サタンの誘惑でした。そのサタンは、致命的な条件をつけました。 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ4:3)サタンは、イエスの最も根本的なアイデンティティである「あなたが本当に神なら」という条件をつけたのです。しかし驚くべきことに、神であるイエスは、自らを否定なさり、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)という神の御言葉を引用して、退けられました。自分のアイデンティティと思いを投げ捨てて、ひとえに神の御言葉だけに従ったものです。そのあと神殿の屋根の端にイエスを連れて行ったサタンは、そこで、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言いました。その時は、サタンも神の言葉を持ちだして、イエスを誘惑しました。 「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」(マタイ4:6)しかし、主は神の御言葉を誤って用いるサタンに、神の御言葉を歪めることで神を試してはならないと叱られました。 最後に、サタンは非常に高い山にイエスを連れて行って、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、自分にひれ伏して拝むなら、財産、名誉、権力の全てをあげると誘惑しました。するとイエスは、自分の崇拝の対象は、唯一の神様だけだという最も根本的な真理をもってサタンを追い出されました。イエスは神を中心になさることで、サタンの誘惑を追い払われたのです。イエス御自身が神であり、世の所有者であり、権力の中心であり、比類できない栄光に満ちた方でいらっしゃるのに、そのすべてを否定して、ただ神様の御心に従うことを自ら御誓いになったのです。イエス・キリストは養われるための試練を受ける必要のない神であり、自分の欲望のために試練を受けるべき、弱い罪人でもありませんでした。イエスの試練は、自分の民を完全に立たせるための試練であり、そのすべての試練を乗り切ったイエスは、罪人を救う資格を持つに値する完全な方でした。だから、そのイエスを信じる者はキリストの名の下で完全な者と認められるようになります。これにより、イエス・キリストは完全な神であり、完全な人間であると神に認められるようになりました。イエスはこのように私たち、罪人のために試練を乗り越えた真のメシアとして公生涯をお始めになりました。 締め括り 今日、イエスがお受けになった誘惑、すなわち試練は、もともと、罪人が受けるべき試練でした。しかし、主は神でいらっしゃるにも拘わらず、自ら人間になり、罪人に代わって輝かしい勝利を収めてくださいました。ローマ帝国の迫害のため、苦しみと恐怖の中に生きていた初期キリスト者達に、イエスが既に勝利なさったという言葉は、恵みの雨のようなニュース、すなわち福音でした。マルコ書は迫害されるキリスト者に、すでに勝利なさったイエスが相変わらず共におられることを証した書です。これは現代の日本に住んでいる私たちにも適用されることです。私たちは、イエスを信じて、キリストの体なる教会として認められたというのは、かつてイエスが勝利なさった、その試練を私たちも勝利したということを意味します。主が受けられた試練は、私たちの試練でもあったからです。罪人ではないにも拘わらず、罪人の位置に立たれ、試練を受ける必要がないにも拘わらず、試練を受けられたイエスは、今日、私たちが希望を持って生きることが出来るように、すでに勝利してくださった方なのです。そのような私たちの主イエスを覚えつつ、常に感謝をもって生きていきましょう。私たちも、人生に迫ってくる試練をキリストの御名をもって勝利していくことを誓って行きましょう。来たる一週間、志免教会の皆さんに神の祝福がありますように。