祝福をもたらす者。

創世記41章1~16節 (旧70頁) ガラテヤの信徒への手紙3章29節 (新347頁) 前置き 理想的なキリスト者のあり方とはどういうものでしょうか。一国の首相になって権力を振るう人になることでしょうか。大企業の社長になって財力と名誉を享受すして生きることでしょうか。偉大な学者になってノーベル賞を受賞することでしょうか。キリスト者が首相、社長、学者のような偉い人になることには何の問題もありません。しかし、それらがキリスト者の理想的なあり方であるとは言えないでしょう。キリスト者は文字通り、キリストによる者です。イエスの御言葉と生き方にならい、主の御心を追求しながら生きることこそが、キリスト者の真のあり方ではないでしょうか。そういう意味で、今日の本文に出てくるヨセフの人生は真のキリスト者のあり方につながっていると思います。昔の彼は自己中心的で他人を配慮しない愚かな姿でしたが、主は苦難と孤独の中で彼と共におられ、神中心的で他人に仕える者として養ってくださいました。そして、ヨセフが神と共に歩み、神によって立派な信仰者になった時、彼の人生に、ファラオに続くエジプトの首相という権力と財力と名誉がついてきました。重要なのは、首相、社長、学者など、偉い人間になることではありません。まず、主と歩み、神と隣人への愛と信仰を身につけた信仰者になること、それこそが最も大事なことなのです。 1.神の秘密を知る人。 前回と今日の本文に共通して出てくるのは夢です。前回の説教には、二人の高官の夢が、今日はエジプトの王ファラオの夢が登場します。もう少し前の創世記37章には、ヨセフの夢が登場し、28章にもヤコブの夢が登場しています。このように創世記にはいくつかの夢の物語がありますが、上記の夢の物語の共通点は、すべて、夢を見た人や周辺の未来のことを示しているということです。ヨセフの時代には聖書がありませんでした。ユダヤ人の律法であるモーセ五書も、ヨセフから約400年後に記されたものです。つまり、旧約の神は夢を通してご自分の民に主の計画や啓示を見せてくださいました。 「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。」(民数記12:6) ところで、ファラオや2人の高官は、神の民ではなかったのに、なぜ主は彼らにも夢による啓示をくださったのでしょうか? 実は彼らが特別だからではありません。その夢の啓示を解き明かす人が、まさに神の民であるヨセフだったからです。だからといって、現代にも夢が神の啓示の手立てであるとは言えません。なぜならば、決定的に神は真の神の言であるキリストをすでに遣わしてくださり、旧約と新約という聖書を与えてくださり、聖書を悟らせてくださる聖霊なる神を送ってくださり、牧師や長老という聖書の教師を立ててくださったからです。ですから、不思議な夢を見て、神の啓示を受けたと、勝手に信じ込んだり、しゃべったりすることは、キリスト者として控えるべき姿です。 また、上記の4つの夢の物語にはもう一つの共通点があります。それは、夢を見た人が、その夢の意味をまったく解き明かせなかったということです。神の御言葉は、誰もが解釈できるものではありません。神と共に歩み、真の信仰者として生まれ変わった人だけが、神の御言葉の秘義を知るようになるのです。牧師だけが優越で、普通の信徒は劣等だという意味ではありません。牧師も罪人なので、神の御言葉に精通することは出来ません。誰一人も、キリストの御恵みと聖霊のお導きがなければ、主の御言葉の秘義を悟ることができません。神の御言葉は秘義、つまり秘密なのです。神の御言葉は、あえて人間が聞き取れるものではありません。耳に聞こえるという意味ではありません。神の御心とご計画、お赦しと御救いを含んだ福音の御言葉を意味するのです。今、街に出て、通りすがりの人にイエスの救いと恵み、すなわち福音について話せば、おそらく 9割は私たちを変な人間だと思ってしまうかもしれません。いくら「主があなたを愛しておられます。」と言っても、人々は悟れないでしょう。なぜかというと主の御言葉を聞く耳がないからです。皆さん、主の御言葉を聞き、反応が出来るということは、至高の恵みなのです。毎週の説教を聞いて、心に動きが生じるということは、神がご自分の秘密を皆さんには隠されなかったという意味です。誰もが神の御言葉の秘密をいただけるわけではありません。たったキリストによって救われた者、主によって選ばれた者だけに、主は御言葉の秘密、福音の意味を悟らせてくださるのです。主の御言葉は、主の真の民だけに与えられる秘密なのです。 2.自分ではなく、神が。 ファラオと二人の高官が見た夢は、誰もが解き明かせない神の秘密の啓示でした。そして、その秘密はただ一人、神に選ばれた者ヤコブだけが解くことができるものでした。「そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、わたしたちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かしたとおりになって、わたしは元の職務に復帰することを許され、彼は木にかけられました。」(創41:12-13) ある日、ファラオは恐ろしい夢を見ました。夢の内容は本文のままですので省略しましょう。正直、今日の説教で夢の内容は重要ではありません。その夢が何であれ、ヨセフには夢の解き明かしが出来る能力があったというのが重要です。「そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。(創41:14)」ファラオが恐ろしい夢に思い煩った時、前回の本文でヨセフの解き明かしを聞いて生き残った給仕役長が、2年間すっかり忘れていたヨセフを思い起すようになりました。(彼がヨセフを忘れていたのは、エジプトの動乱の時代にヤコブを守るための神の導きであったという前回の説教の内容を覚えてください。) そして彼の話を聞いたファラオは急いで監獄のヨセフを呼びました。「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」(創41:15) 永い苦境に苦しめられてきたヤコブが、突然エジプトの君主であるファラオと出会うことになったのです。 ヨセフを呼び出したファラオは、自分の恐ろしい夢のため、相当、思い煩っている状態でしたので、ヨセフを手厚く扱いました。13年間最悪の生活を続けてきたヨセフは一夜にして帝国の最高権力者の前に立つことになったのです。そして、その最高権力者がヨセフに助けを求める様になっていました。例えば、皆さんが最悪の状況で13年間を過ごしてきたのに、ある日、突然アメリカの大統領が、この世の中で皆さん一人だけができる、あることを頼むために、皆さんを呼び出して「何々さん、どうか助けてくださいませんか。」と言ったら、皆さんはどんな気持ちになりますでしょうか? 「13年間、何一つ上手くいかなかったのに、私だけが出来ると?」と意気揚々になるのではないでしょうか? しかし、ヨセフの答えは違いました。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」(創41:16) ヨセフはまず自分自身ではなく神のことを前面に出しました。「私ではなく神がなさるのです。」と自分を低め、神を高めて謙遜に対応したのです。これは謙遜なふりをしているわけではなく、本当に「神だけがお出来になる。」という確信に満ちた一種の「信仰の告白」でした。私たちがヨセフを偉大な信仰の人物と評価する理由は、まさにこのヨセフの信仰のためです。彼がエジプトの首相になったからではなく、彼にひたすら神だけを頼りにする信仰があったからです。私たちにも、このような信仰の告白があることを願います。「自分」ではなく「神」だけを高め、頼りとする信仰であることを祈ります。 3.祝福をもたらす者。 その後、ヨセフはファラオの夢を完璧に解き明かし、これによってエジプトの首相に推戴されることになりました。まるで、13年間の苦境がなかったかのように、一瞬にしてエジプトの最高権力者になりました。彼を推薦した給仕役長よりも高い身分になったのです。エジプトの奴隷であり、囚人だった彼が、エジプトの全国民を治めるファラオに次ぐ人物になったわけです。そして、エジプトは、ヨセフによって深刻な飢饉を徹底して備え、飢餓から自由になる祝福を得ました。エジプトだけでなくエジプト周辺の他の民族もヨセフの知恵によって蓄えた穀物を買い取ることが出来たのです。神が創世記12章でアブラハムに約束された「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」という御言葉が、アブラハムのひ孫であるヨセフによって一次的に成し遂げられることになったのです。(最終的にはイエス•キリストによって) いわば、ヨセフは祝福の源になったということです。私たちは前回の説教でヨセフが兄たちによってエジプトに売られた後、エジプトの侍従長ポティファルの家で約10年、そして無実に濡れ衣を着せられて監獄で約3年を過ごしたの話を聞きました。この約13年という年月の間、ヨセフは主人に主の祝福をもたらす人になりました。 「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は」(創39:2-3) また、彼は無実に投獄されたにもかかわらず、牢獄でさえ周りの人々に祝福がもたらされるようにしました。「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(39:21-23) 神が共におられるという祝福を得たヨセフは、その祝福を自分一人だけで占めることではなく、周辺の人々にまで流し出しました。文字通り「祝福の源」となったのです。そして結局、このヨセフはエジプト全国と周辺民族にまで、神の祝福をもたらす祝福そのものとなりました。私たちはこのヨセフの物語によって示された祝福の人という概念を、私たちの主イエス•キリストを通じて、もう一度確かめることができます。主イエスは神の独り子ですが、罪人の死と苦難を見過ごされませんでした。自ら人間になられ、人間の罪と苦しみ、悲しみを背負ってくださいました。そして、人間の代わりに死に、復活して、罪人が救われる道を完成してくださいました。キリストこそが人間の根本的な問題である死と罪を打ち砕き、罪人が正しい人に生まれ変わって救いを得ることが出来る、真の祝福をもたらしてくださったのです。また、主の体なる私たち教会も、主によって神と隣人を愛し、周辺の人々に祝福を流し出す祝福の人として呼び集められたのです。この話を聞くとふとこの新約の言葉が思い起こされます。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」 締め括り 今日は3つの点について学びました。一つ目に、神の御言葉は誰にでも与えられるものではなく、徹底的に隠されている秘密であるということです。しかし、キリストの民には、その秘密が明るみに出ているということです。二つ目に、キリスト者なら、自分のことではなく、神のことをまず誇りとするべきということです。真の信仰者になっていけばいくほど、「私」ではなく「神」を最優先にする人になっていかなければなりません。最後に、ヨセフが祝福をもたらす人になったように、私たちもまた、そのような人になって行きたいということです。私たちの主イエス·キリストが真の祝福をもたらす祝福の人としておいでになったので、主の体となった私たち教会も祝福の人としてのアイデンティティを持って生きるべきです。今日の本文を通じて学んだいくつかの教訓を憶えつつ、今週も恵みにあって過ごしていきましょう。父と子と聖霊によって、アーメン。

カエサルのもの、神のもの。

レビ記19章1~2節 (旧191頁) マルコによる福音書12章13~17節 (新86頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教で取り上げた、主な話は「真の権威とは何か?」でした。宗教指導者たちがエルサレム神殿の境内でイエスに会った時、彼らはイエスに「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」と問い詰めました。これは「お前はどの団体の所属か?」という意味としての 世俗的な質問でした。宗教指導者たちは人による権威、つまり人の基準によって所属のないイエスを判断し、彼ら自身の権威がイエスよりも優れていると威張るために、こういう質問をしたのです。しかし、イエスは全く予想外の返事をされました。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」イエスは、この質問を通して、彼らのような、人による基準ではなく、神による基準を通して権威についてお話しになりました。人は目に見える基準で自分の地位や権威を前面に出そうとする傾向があります。しかし、主は外なる人ではなく、内なる人をご覧になり、その信仰の純粋さをお試みになります。真の権威とは、神のみ旨に適う人に与えられる主の賜物です。この世の権威は、社会的な地位、学閥、財産の有無から生まれるかもしれませんが、神からの権威は神と隣人への愛、神の御言葉への従順さ、真の信仰で、神から民に与えられるものです。 1.人の言葉について。 「人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」(マルコ12:13)前回の本文で、自分たちの権威を前面に出し、イエスとの論争で優位を占めようとした宗教指導者たちは、イエスのこの言葉に何の答えもできず、顔が潰れることになりました。 しかし、彼らはあきらめず、別の計略を編み出しました。それはファリサイ派とヘロデ派の人々を同時に送り、主に困った質問をさせることでした。ファリサイ派の人々は旧約聖書の専門家でした。つまり、彼らは宗教と法律の専門家だったということです。(旧約聖書にはユダヤ人の宗教法と刑法、民法があまねく含まれている。) そしてヘロデ派の人々はヘロデ王を熱烈に支持する政治的な人々でした。この両者は、普段互いに仲が良くなかったのですが、ユダヤの伝統を大事にするファリサイ派と異邦出身の王の権力にしがみついたヘロデ派が仲が良いわけにはいかなかったからです。しかし、彼らは自分たちの不条理を指摘されるイエスを共同の敵として狙ったため、宗教指導者たちの要請に応じてイエスを困らせるために協力したわけです。イエスのところに来た彼らは言い出しました。 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(マルコ12:14)彼らはイエスのところへ来るやいなや、きれいな言葉でイエスをたたえました。しかし、その言葉は真心をこめた言葉ではありませんでした。イエスを苦境に陥れるために試し、さらに自分たちの必要を満たすための偽善でした。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」(マルコ12:15) しかし、イエスは彼らの偽りを全て知っておられました。言葉は実に大事なものです。「時宜にかなって語られる言葉は銀細工に付けられた金のりんご。」(箴言25:11) 旧約聖書の箴言にもこのような言葉があるほどです。しかし、主は話し手の心を何よりも大切に思われる方です。私たちがいくら立派な言い方、丁寧な言葉遣い、綺麗な言葉で祈るといっても、真心がこもっていなければ、その祈りは神に拒まれ、無駄になるでしょう。言葉で人を騙し、心と言葉が違う生き方に注意しましょう。いつも神が私たちの言葉と心を見ておられることを憶えていきましょう。 2。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。 「イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。彼らがそれを持って来ると、イエスは、これは、だれの肖像と銘かと言われた。彼らが、皇帝のものですと言うと」(マルコ12:15-16) 宗教指導者たちに送られたファリサイ派とヘロデ派の人々は、丁寧な言葉遣いとは反対にイエスを困らせようとしました。「ローマ皇帝であるカエサルに税金を払うのは律法に適いますか。」との質問でした。つまり、ユダヤ人としてローマ皇帝に税金を払うべきかどうかのことでした。デナリオン銀貨は当時ローマ帝国の貨幣で、労働者の一日分の労賃でした。ユダヤ人は、このデナリオンに2つの反発心を持っていたと言われます。一つ目は祖国を侵略して支配する異邦のローマ帝国への政治的な反発心、二つ目はデナリオンに刻まれたローマ皇帝の肖像を偶像と見なした宗教的な反発心でした。ファリサイ派とヘロデ派の人々が税金について質問した理由は簡単でした。税金を払うべきと言えば政治、宗教的にユダヤ人を背くことになり、税金を払ってはいけないと言えばローマ帝国を反対する政治犯として指し示されることになるからです。 しかし、主はローマの法律を破らない範囲で、ユダヤの律法をも犯さないお答えを言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」しかし、この答えは、かなり曖昧な言い方であるかもしれません。聞き方によっては「皇帝に税金を払いなさい。そして、神にも捧げるべきものを捧げなさい。」という優柔不断な言葉に聞こえる可能性もあります。しかし、本文では「彼らは、イエスの答えに驚き入った。」と記録されています。この言葉は驚き入るくらいですか。現代人である私たちにはそう感じられないと思います。しかし、当時の人々は私たちとは違う反応をしました。なぜでしょうか?その理由は日本語聖書には翻訳されていない「しかし」という表現にあると思います。日本語聖書には記録されていませんが、ギリシャ語原文の解釈は、こうなります。「カエサルのものはカエサルに返せ、しかし、デオのものはデオに返せ。」(マルコ12:17) つまり、この言葉は「皇帝にも税金を払い、そして神にも献金を捧げなさい」という優柔不断な言葉ではなく「皇帝に義務を果たしなさい。 しかし、神へのあなたたちのとるべき在り方を忘れないようにしなさい。」という表現とも解釈できるからです。つまり、この主のお答には、主の質問が含まれているのです。 主は、神を信じているが、仕方なく皇帝の支配の下で生きていかなければならない当時のユダヤの人々に「このような状況の中で、あなたがたは、どのように生きており、どのように生きていくべきなのか。」と質問をされたのです。イエスを困らせるための意地悪な質問が、イエスのお答えによって、質問した者たちと周辺の群衆への質問となって返されたのです。皇帝のものが別にあり、神のものが別にあるのですか? 律法は、この世のすべてが神のものであると述べています。しかし、ユダヤ人は世の中の権力に屈し、神の民らしい人生を生きていませんでした。律法は大事だと思ってはいましたが、まともに律法に適う生き方をとることができず、宗教と社会の不条理を見てもあえて指摘することをしなかったのです。「皇帝のものは皇帝に、しかし、神のものは神に返しなさい。」イエスの、この言葉はローマ帝国の支配を否定しない範囲で、神に仕えるユダヤ人の在り方について問うているのです。これはまた、私たちキリスト者にも、この世での生き方についての質問をしているのです。 3.政治をどのように理解すべきなのか? 私たちは、主イエスの民である教会ですが、世俗的な世の中に生きています。そして、私たちの考えとは異なる指導者を迎えなければならない場合が多いです。特に日本は議院内閣制国家であるため、一般市民による直接選挙ではなく、国会議員の中から選出された与党第一党の代表が「内閣総理大臣」となる方式の政治システムをとっています。つまり、もしかしたら、私たちは自分の意向とは、まったく異なる政治状況の下で生きているのかもしれません。そういえば、私たちは、ローマ帝国の支配下に生きていたユダヤ人の状況と似たような状況であるかもしれません。日本に住んでいますが、自分の意向とは違う指導者の下にいる可能性があるからです。しかし、このような状況も、主がお許しになったものであることを認め、このような政治の下でも、キリスト者なら、どのように神の民らしく生きていくべきか、この社会の中でどのようにして、神を表わしつつ生きることが出来るだろうかを常に考えながら生きていくべきでしょう。 私たちは「皇帝」の世界に生きる「神」の民です。そして、イエスは今日の言葉を通して、私たちにご質問なさいます。「この日本の社会に生きている我が民よ、しかし、あなたたちは神のものを神に返して生きているのか。」 締め括り 「皇帝のものは皇帝に、しかし、神のものは神に返しなさい。」というイエスの御言葉を、常に念頭に置いて生きていきたいです。世の中の政治と状況に流されないで、にもかかわらず、キリスト者である私たちが、どのように生きていけば、神に神のものを返すことができるだろうか、私たちの在り方について常に思い巡らしながら生きていきましょう。 明らかなのは、この世のすべては神のものであるということです。世の中の権力と政治はキリストが再臨され、この世の終わりの日に全て消えてしまうでしょう。しかし、神は永遠におられるでしょう。私たちは、この世の価値観を超越する神の価値観を追い求めながら生きなければなりません。皆さんは日本人、ニュージーランド人、そして韓国人という国籍を持っておられますが、皆さんの本質は天国、つまり神の国の民なのです。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」(レビ19:2) 聖なるもの、すなわち神によって区別された存在、私たちはまさにこの区別された神の民というアイデンティティを持った存在であります。私たちのこのような本質を、ぜひ憶えてください。皇帝の世界の中に生きていますが、神に従う人生を過ごす志免教会になりましょう。

ある日、突然。

創世記40章1~23節 (旧69頁) テサロニケの信徒への手紙第二3章3節 (新382頁) 前置き 前回の創世記39章の説教で、私たちは「主がうまく計らってくださった。」という言葉の意味について話しました。兄たちに裏切られ、エジプトに売られてしまったヨセフ、彼はエジプトの侍従長の奴隷となりました。ヤコブという大金持ちの最愛の息子だったヨセフが一夜にして他国の奴隷となってしまったのです。それでも、彼は絶望せず、熱心に主人に仕え、まじめに生きました。しかし、彼は淫らな女主人の偽りによって無実に濡れ衣を着せられ、投獄されることになりました。そして、長い間、監獄から出られず、悔しい時間を過ごさなければなりませんでした。ところが、聖書はヨセフの人生を、決して失敗だとは評価していません。むしろ、主がヨセフを守られ、彼の人生をうまく計らわれたと語っています。人間の目には失敗に見えるヨセフの人生でしたが、聖書は神が彼と共におられたと評価しています。これらを通して私たちは神の祝福とは、この世が語る祝福と異なるということが分かります。キリスト者にとって、真の祝福とは、私たちがいくら失敗と苦しみにさらされていても、神が私たちのことをあきらめられず、いつも共におられることを意味します。主がご自分の民を見捨てられない限り、その民には真の希望があるからです。以上が前回の説教の主な内容でした。 1。キリスト者を成長させる苦難と孤独の時間。 人間は有限な存在です。そのため、比較的に短い時間を生きます。ですので、人間は時間という概念に執着する傾向があります。その反面、永遠におられる主において、時間という概念は特別な意味を持ちません。短い生涯を生きる人間にとって、あまりにも大きなことが、永遠におられる主にとっては、非常に小さなことになってしまうということです。そういうわけで、人間にとっては大失敗のようだったヨセフの人生が、主にとっては失敗として評価されなかったのです。むしろヨセフの失敗はより明るい未来のための神の祝福と見なされました。したがって、キリスト者の人生においての失敗と苦難は、より明るい未来のための神の計画の過程だと言えるでしょう。神は人間の目には見えない、すべての物事をご覧になり、今現在、主の民の人生が失敗の中にあろうが、成功の中にあろうが、その人生全体は祝福であると評価してくださいます。残念なことに、このような神の時間観念は、人間に大きな苦しみを与える時もあります。私たちには耐えられないほどの失敗と苦難の時間なのに、神は何もしておられないように感じられ、恨む時もあるでしょう。しかし、私たちにどう感じられても、神の祝福、その本質は決して変わることがありません。私たちが人生の中で苦しみを感じるからといって、神の祝福が消えてしまうことはあり得ません。失敗と苦難の時が終わると祝福の時は必ず来ます。神と人が感じる時間の違いはあるかもしれませんが、神のご計画が破れたり取り消されたりすることはないからです。主は必ずその計画を成し遂げられる方なのです。 今日のヨセフの人生も同じだと思います。ある学者は、ヨセフが17歳から約10年間、エジプトで奴隷として暮らし、その後30歳までの3年間、牢獄にいたと主張しました。つまり、ヨセフは13年間、自由の身ではなかったということです。しかし、その13年間、ヨセフは神のお導きによって成長していきました。分別なく父親と兄たちに自分の夢を偉そうにしゃべっていた未熟なヨセフが、他国での奴隷暮らしを経て謙遜を身につけました。無実に投獄されて孤独な時間を過ごしたが、その経験を通して忍耐を学びました。13年という苦難と孤独の時間は、果たしてヨセフに無駄な時間に過ぎなかったのでしょうか? 最近、このような文章を読んだことがあります。「真の孤独とは、ただひとりでいることではない。自らの真の自由と自己の尊厳を自覚し、それを楽しむ高度な生き方の一つである。」信仰の文章ではありませんが、本当に有意義な言葉だと思いました。もしかしたら、孤独はこの世という束縛から自由を与え、自分のことを顧みさせる省察の機会であるかもしれません。また、苦難もその当時はつらい経験であるかもしれませんが、遠くから見ると弱い自身を強める成長の道具であるかもしれません。神はヨセフに苦難と孤独を与え、成長させ、一国の総理にふさわしく養っていかれました。そして時が満ち、ヨセフを一瞬にしてエジプト帝国の総理に引き上げてくださいました。 2.二人の宮廷の役人の夢とヨセフの解き明かし しかし、私は出来るだけ、皆さんが孤独と苦難に遭われないように祈っています。皆さんが神の祝福にあって常に平和と幸せであることを望んでいます。しかし、もし神がみ旨に従って孤独と苦難を許されるなら、皆さんが恐れられたり、絶望されたりせずに、神の善い計画を信じて、その信仰によって忍耐しつつ生きていかれることを願います。これ一つは確かです。神は苦難と孤独の後に必ず新しい始まりを与えてくださるということです。神の祝福にあって生きるキリスト者において、いちばん重要なことは、ただ苦難と孤独を乗り切ることだけではありません。その苦難と孤独の中に主が共におられるということ、すなわち苦難と孤独も結局は祝福という大前提の一部であるということを信じることです。「これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した。ファラオは怒って、この二人の宮廷の役人、給仕役の長と料理役の長を、侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄に引き渡した。」(創40:1-3)ヨセフが無実に獄中生活をしていた時、ニ人の高官がヨセフのいる牢獄に引き渡されることになりました。当時のエジプトはヒクソス人という異民族によって王朝が変わっていました。学説によるとヒクソス人は、もともとエジプト系の民族ではなく、北の地域から下ってきたセム族系の民族だったと言われますが、アブラハムの民族もセム族系で、彼らとは同じ祖先を共有していました。そして今日、牢獄に引き渡された2人の高官も、王に最も近いヒクソス人の権力者たちだったと推定されます。 給仕役、料理役と訳された原文は、お酒を造る者、パンを焼く者と翻訳できますが、単なる醸造人や料理人という意味ではありません。毒殺のおそれのため、ファラオに最も信頼される人だけが、この務めを引き受けることができると言われます。つまり、彼らはファラオに次ぐ権力者だったということです。歴史学者たちは、おそらく、この時期がエジプト帝国の政治的な混乱期だったと見なしています。これによって、その二人の投獄が権力闘争に負けた結果であることが分かります。さて、この出来事は無実に監獄暮らしをしていたヨセフに小さな機会を与えました。「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいないと二人は答えた。ヨセフは、解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてくださいと言った。」(8) ヨセフが、この二人の高官と自然に出会い、夢を解き明かすことになったからです。ところで、10年以上、外国で奴隷として過ごし、監獄に閉じ込められていたヨセフに大きな変化が生じました。それは夢に対するヨセフの考え方が変わったということです。昔の彼は、神が将来の啓示のためにくださった夢を自分勝手に解き明かし、父と兄たちを怒らしました。自分のために神の啓示の夢を間違って利用したわけです。しかし、今の彼は夢の解き明かしが神にあると認め、過去とは違って謙虚に行いました。10年以上の苦難と孤独が、ヨセフの未熟さを成長させ、神おひとりだけを崇める信仰の人物に養ったのです。 3.神の御言葉をありのままに伝えるようになったヨセフ。 以後、給仕役と料理役の夢を聞いたヨセフは、完璧にその夢を解き明かしました。「三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。あなたは以前、給仕役であったときのように、ファラオに杯をささげる役目をするようになります。」(13)神がくださった夢の意味を、以前は自分の必要と自慢のために利用したヨセフでしたが、今回は違いました。彼は神がくださった夢の意味を正しく解き明かし、加減なく伝えました。「三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして、鳥があなたの肉をついばみます。」(19) 神の御言葉なら、その相手が高官だといっても、その言葉が聞きづらいといっても、ヨセフはありのままに述べ伝えました。結局、ヨセフの解き明かしどおり、給仕役は復権し、料理役は処刑されてしまいました。神に御言葉を託された者は、その御言葉を加減なく伝えなければなりません。一点一画も人の耳に聞き良く、省いたり、加えたりしてはなりません。自分の欲望のために誤用してもいけません。主の御言葉がありのままに世に伝えられるように自分の命をかけてまで、そのまま伝えるべきです。それが御言葉をいただいたキリスト者の宿命です。約100年前、日本帝国時代のキリスト教殉教者の中には、こんなことを問われる場合もあったと言われます。 「天皇陛下が上か?イエスという者が上か?」聖書の言葉通り、当然イエスが上だと言った者たちは無残な拷問を受け、殉教されたと言われます。また、日本でも朝鮮でも、教会の指導者という者たちが「教会を守るためには仕方がない」という口実で、偶像崇拝を禁じる御言葉に背き、宮城腰背をすすめたとも言われます。私たちは聖書の御言葉を通じて「主なる神おひとりのほかに神などない」ということを学び信じています。もし、誰かが私たちに凶器を突きつけて偶像崇拝をさせたら、果たして私たちはどのように対応すべきでしょうか? 主の御言葉をいただいたキリスト者は、自分にいかなる被害があっても、その御言葉通りに行わなければなりません。この話が聞きづらく感じられる方がおられるかもしれません。しかし、牧師は正しい御言葉の説教の義務を託された者ですので、公に宣べ伝えるしかありません。今日の本文のヨセフがエジプトの高官の前で、主がくださった夢をありのままに解き明かした理由は、人間の権力より神の権勢をより畏れていたからでしょう。今までのヨセフの苦難と孤独は、このように彼を成長させ、神の御前で立派な信仰者として養いました。しかし、残念なことに、このように神の御言葉をありのままに伝えたにもかかわらず、ヨセフは再び忘れ去られます。給仕役が復権し、ヨセフとの出来事をすっかり忘れてしまったからです。 締め括り 忘れ去られたヨセフ、しかしある日突然。 その出来事以来、ヨセフはさらに2年間、余儀なく監獄暮らしを続けることになりました。しかし、神が計画された苦難と孤独の時間が終わると、ある日突然、ヨセフはファラオの前に召し出されました。神がファラオにも難解な夢を与え、ヨセフが活躍する機会をくださったからです。そしてヨセフはお見事にその夢を解き明かし、堂々とエジプトの総理になりました。主はなぜヨセフを給仕役と共に、直ちに解放させてくださらず、むしろ忘れ去られるようになさったのでしょうか? 一部の歴史神学者は、ヨセフが監獄にいた時期がエジプトの政治的な混乱期であったと推定しています。つまり、主は孤独と苦難という名の巣でご自分の民ヨセフが安全に孵化するまで、彼をこっそり守ってくださったのです。そして、政治的に落ち着いた、ある日突然、誰よりも偉い者にしてくださったのです。ヨセフからしては苦難と孤独の時間でしたが、神からしてはヨセフを安全に守ってくださる時間でした。この新約の言葉が思い起こされます。「主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。」(2テサロニケ3:3)苦難と孤独は辛いものです。それらによって神を恨むこともあり得るでしょう。ただし、苦難と孤独も、結局は神の計画の中にあるということ、主の時になれば、大きな祝福をもって報いてくださることを信て生きていきたいと思います。苦難と孤独は神の祝福の過程です。これを忘れずに、常に信仰に生きる私たちになることを祈ります。

人の罪と主の赦し

イザヤ書59章1~ 2節 (旧1158頁) ローマ信徒への手紙 1章18 ~ 32節(新274頁) 前置き ある宣教師がいました。彼は長年宣教をしてきましたが、先住民の一人もイエスを信じていませんでした。人々は彼を友達と認めましたが、神を信じてはいなかったのです。そんなある日、近所の先住民が宣教師を訪問しました。二人はお茶を飲みながら、歓談をかわしました。その時、ふとイエスの生涯に話題が移りました。宣教師は人の罪とイエスの死と罪の赦しについて話しました。その日、先住民は自分の罪に気づき、衝撃を受け、悔い改めることになりました。それを皮切りに、その地域に本当の宣教が始まり、多くの先住民がイエスを救い主として信じることになりました。その宣教師の問題点は、先住民と親しくは過ごしたが、福音の核心である罪と赦しを教えなかったことにありました。その宣教師は、今までの自分の誤りについてやっと気づくことになりました。 1.罪の影響 キリスト教は幸せな来世のための宗教ではありません。出世のための宗教でも、瞑想や省察のための宗教でもありません。キリスト教はイエス・キリストによって天地万物を創造された真の神と和解し、一緒に生きる宗教なのです。そのように創り主である神と歩んで行きながら、時には神によって幸せを経験し、また時には神と逆境を乗り越えつつ、最後まで神と共に進む宗教が、まさにキリスト教なのです。その歩みの結果の一つが、死後、天国に入るということです。それは目標ではなく、ただ神の賜物の一つに過ぎないのです。創り主、神と共に生きることそのものが既に私たちの天国が始まったということであり、私たちの救いが成し遂げられはじめたという意味です。 ところで、その神に出会うことを妨げる深刻な問題があります。それは罪という問題です。今日の旧約聖書を見てみましょう。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ、お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ書59:1-2)罪によって、造り主から離れた人間が、真の救いを得るためには、絶対に造り主、神の御前にいなければなりません。御前にいるということは、神と共に歩むという意味です。しかし、罪がある限り、人間は神の御前にいることが出来ません。罪が神と人間の仲を隔てているからです。 実に神には人を救ってくださる十分な権能があります。しかし、人に罪がある限り、主は人を救うことが出来ません。主の手が短いわけでも、主の耳が鈍いわけでもありません。厳密に言って、できないわけではなく、しないのです。なぜなら、罪は神の正反対のものだからです。罪は神と人間の間の巨大な隔てをもたらします。罪は人間に恵みと哀れみをくださる神の御顔を隠すものです。罪は神の怒りと裁きをもたらす恐ろしいものです。罪の影響は、人間が神に救われることが出来ないようにする結果、人間が神に見捨てられるしかない悲惨な結果をもたらします。だから、人が自分の罪を解決していない以上、その人は絶対に救いを得ることも、神と共に歩むことも出来ないのです。 2.罪の悲惨さについて。 ソクラテスは「無知は罪なり。」と言いました。彼はキリスト者ではありませんが、彼のこの言葉は正しいと思います。罪から生まれた惨めさの一つは無知です。罪を持っている人は、自分にどんな罪があるのか、何が問題なのかが分かりません。分からないので、解決が出来ず、解決が出来ないので、救いに至ることも出来ません。今日の新約本文であるローマの信徒への手紙は罪人がどれだけ悲惨であるかを明らかに語っています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1:20)世界の創造の時、神はすべての被造物が神を知ることが出来るように神の神性を示してくださいました。だから、罪のない状態の被造物は、神の存在を感じ、知ることが出来ます。しかし、罪によって神とその神性に気づかないようになった人間は、自力では、神を知ることが出来なくなってしまいました。 「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:23)しかし、人は神性を求める存在です。人間の本能がそれを証明します。『誰なのかはっきり分からないけど、きっと全能者はいるのだ。』という人の漠然とした感覚は、よくあるものです。そのため、宗教が生まれたのです。しかし、人間の罪のため、人は自分が勝手に願うものを神だと定めてしまいます。木を、石を、獣を、人を神にしてしまいます。日本はその名前どおり、古くから太陽を神と崇めて来た国です。それによって生まれた存在が天照大神でしょう。太陽をお天道様と呼ぶことにも、そのような文化が溶け込んでいるからではないかと思います。しかし、創世記1章は、きっぱりと太陽を含むすべてのものが、ただ神の被造物にすぎないと語っています。人間の罪は罪に気づかないようにするだけでなく、とんでもないものを神にする心を与え、真の神を冒瀆する偶像崇拝までもたらします。 「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマ1:28)罪に生きる人への最も危険で、悲惨な神のお裁きは、神が彼らを自らの罪に放って置かれ、見捨てられることです。本文の「渡す」という表現はギリシャ語「パラディドミ」の翻訳ですが、「見捨てる。」という意味です。「してはならないことをするように。」すなわち、神がどのような形の憐みもくださらず、罪を犯し続けるように放っておかれ、赦されずにお裁きになるということです。これを神学的な用語で、神の遺棄と言います。「捨てるために残す。」という意味です。そのような人たちからは29-31節までの数多くの罪が現れます。罪が罪を産み出し、罪が罪を増やし、罪によって人が神から永遠に見捨てられるという意味です。これが罪の恐ろしい結果であり、最も悲惨な呪いであるのです。 3.罪を赦してくださるイエス・キリスト。 未信者が信仰を持とうとする時、一番難しいのは自分の罪を認めることだと思います。犯罪者なら、比較的に納得しやすいかもしれませんが、法律的に犯罪したことのない普通の人々は、自分が罪人であることを納得しにくいでしょう。しかし、聖書はこのように語っています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」(ローマ3:23)旧約聖書の創世記で人類を代表するアダムとエバが神を裏切って離れた後、人々は罪の中に生きることになってしまいました。アダムとエバの話は時空間の超えて私たちに教えてくれます。神を裏切って離れることから、罪が生まれるという最も基本的な罪の理由を。 罪とは矢と的との関係と似ています。矢が的に当たらない場合、スコアがないように、罪は人が神の基準から外れる時に生じます。したがって、神がお定めになった法則に従って「神の御心に聞き従うこと、神と一緒に歩むこと」を満足させない時、人生で、新しい罪が生じ続けるようになります。しかし、人は皆、すでに罪を持っているので、自力では、神の御心に適うことが出来ません。そして、赦してくださる神を知ることも出来ません。つまり、人間は自ら罪を解決することが出来ないということです。だから、人は自然に罪に生きるしかありません。そして、その罪は引き続き別の罪をもたらします。最終的に罪人は罪によって神に見捨てられ、永遠の死を迎えるしかありません。 イエス・キリストが私たちのところに来られた理由は、まさにこの罪の問題を解決してくださるためです。私たちが福音を福音と呼ぶ理由はこのためです。「自力で解決できない罪を解決できるお方がいらっしゃる」という良いニュースだからです。神から来られたイエスは、罪を赦してくださる方です。そして人が満たせない神の基準を代わりに満足させてくださる方です。私たちは、このイエスの罪を赦す力、神の基準を満たす力を、私たちを救ってくださる主の恵みとして信じる時に、神の赦しを得ることができます。私たちが果たせないことを、キリストが代わりに成し遂げてくださり、自分の赦しのために何も出来なかった私たちが、キリストによって赦されたということを信じる時、私たちは神に赦されることが出来ます。イエス・キリストは私たちの過去、現在、未来の全ての罪を解決するために、私たちに代わって十字架につけられ、死に、私たちを救い、私たちのために神から新しい命を受けてくださいました。罪の結果は恐ろしい悲惨さですが、その悲惨さから私たちを救ってくださる主がおられるため、私たちは希望を持つことが出来るのです。 締め括り パウロは今日の本文を通じて私たちにも罪があることを示します。私たちは、すでに救われ、主の中にいると存在ですが、罪ある人間ですので、誰かを憎み、悪い思いをし、神の御心に適わない時が、しばしばあるでしょう。しかし、私たちが悔い改める時、主は私たちの罪を赦してくださいます。私たちがイエス・キリストを知り、信じているからです。私たちは、キリストの罪の赦しによって日々新たにされる者です。そして、主を信じる私たちは、主のお導きにより、その罪から立ち返って、神の恵みに進むことが出来ます。罪は私たちを惨めにし、神に見捨てられるように働きますが、イエス・キリストは私たちが悔い改める時、その罪をいつも赦してくださり、私たちが神と一緒に生きるように導いてくださいます。この私たちの罪、そしてキリストの赦しを憶えつつ福音の本当の意味について顧みる志免教会であることを祈ります。

権威について。

ダニエル記7章13~14節 (旧1393頁) マルコによる福音書11章27~12章12節 (新85頁) 前置き イエスは3年間の公生涯、つまりキリストとしての地上での御業を終えてご自分の体を十字架での犠牲として神に捧げるためにエルサレムにお入りになりました。主はエルサレムに到着して、一番最初に神殿に足を運ばれました。神殿はイスラエルの信仰の中心地だったからです。エゼキエル書43章には「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。」と記録されていますが、神の真の栄光であるイエスは、この言葉のように神殿に臨まれたのです。しかし、神殿では誰もイエスをお迎えしませんでした。祭司たちが一番先にイエスの到来を知り、主を迎え入れるべきだったのに、むしろ彼らはイエスが来たことも知らなかったかのように無視していたのです。いや、かえって彼らは自分たちの宗教的な既得権を否定するイエスを憎み、嫌がる存在でした。翌日、イエスはまた神殿に足を運ばれる途中、実はなく葉っぱだけが茂ったいちじくの木を呪われました。これは神殿の存在理由を失い、宗教的な偽善だけが残っていた神殿と宗教指導者たちへの主のお裁きを象徴する行為でした。また、イエスは神殿に入られ、祭司たちと結託して商売をしている商人たちを追い出し、叱られました。神の御心を成し遂げるために来られたイエスは「祈りの家」という本来の機能を失った神殿を清められたのです。そして、イエスはご自身が神と人との間を執り成してくださる真の神殿となるだろうと教えてくださいました。 1。イエスの時代の宗教指導者たちの実状。 「一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」(11:27-28) イエスが神殿の商人たちを追い出されると、彼らと結託して不正蓄財をしていたエルサレムの宗教指導者たちがイエスのところに来ました。そして「何の権威でこんなことをしているのか?」と問い詰めました。ある新約の学者は、彼らがイエスに「何の権威」と云々したのが「君はどの学派の所属なのか?」という意図の言い方だったと話しました。当時には様々なラビの学派があって、学風にそって学派も分かれていたそうです。そして、学派別にそれなりの正当性があったようです。つまり、宗教指導者たちはイエスの正当性を傷つけるために、どこの所属なのかと尋ねたということです。考えてみれば、牧師の世界にもこういう傾向があると思います。「私は00教派所属の牧師です。」「私はXX教派所属の牧師です。」など、相手がどんな神学を学び、どんな性向の牧師なのかを確かめるためです。そして、自分が属している教派を前面に出し、自分の神学的な正当性を密かに表すためです。今日の本文の宗教指導者たちも「何の権威で」という表現で、どこにも属しておられなかったイエスの権威を傷つけ、自分たちの正当性を高めようとしていたわけです。 前の説教を通して、何度もお話してきましたが、イエスの時代の宗教指導者たちは純粋ではありませんでした。祭司長たちは見た目は宗教家であるだけで、精神的には世俗的すぎで、神への真の信仰、復活への希望を失っていました。復活への信仰を失ったため、神の永遠のご統治と御導きも信じていませんでした。彼らはただただこの世での繁栄だけを大事にしていたのです。そういうわけで、彼らは政治、財物、権力に執着するようになってしまいました。律法学者たちは、律法の真の精神、つまり神と人への愛を失っていました。彼らは行いによる救いを信じ、人々の前で自分の宗教的な優越性、つまり自分の義を示すことを楽しんでいたのです。律法を通して民を正しく教え、愛の実践へと導かなければならなかったのに、彼らは律法を悪用して人々を判断し、他人を罪に定めたのです。長老たちは、民の模範にならなければならない人々でしたが、祭司長、律法学者たちとともに政治的、宗教的な権力を欲しがっているだけでした。祭司長、律法学者、長老、すなわち今日イエスの権威について問い詰めた人々は、サンヘドリン公会という当時のユダヤ最高の権力機関だったと推定されます。彼らはユダヤの民衆を神へと導き、聖書を正しく教え、指導しなければならない宗教、社会、民族の指導者たちでした。そんな彼らが神の神殿を用いて自分たちの私利私欲だけを満たそうとしていたということから、当時のユダヤ社会の問題点が明らかにされます。イエスはまさに神殿で、このような問題を見つけられ、叱られたのです。 2.主イエスの権威 宗教指導者たちが、イエスの前で権威について話した理由は、自分たちの宗教的な正当性を高め、イエスの正当性をおとしめ、困らせるためでした。しかし、主はその計略に巻き込まれず、むしろ問い返されました。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(11:30)ヘロデ·アンティパスの暴挙により、悲惨になくなった洗礼者ヨハネ、群衆は彼を神からの預言者だと信じていました。宗教指導者たちはイエスの前で自分たちの宗教的な正当性のために「権威」について問い詰めましたが、イエスは群衆が預言者として信じる者、そして、イエスに洗礼を授けた者であるヨハネと彼の洗礼が持つ権威について問い返されたのです。「ヨハネは神からの預言者としての権威を持って洗礼を授けた。そして、私は彼を通じて神が認められた権威ある正当な洗礼を受けた。だから、私の権威もヨハネのように神にいただいたのだ。あなたたちはこれについてどう思うのか?」と問われたわけです。イエスの出身を取り上げて脅迫し、自分たちの正当性を高めようとしていた宗教指導者たちは、イエスのご質問に困ってしまいました。洗礼者ヨハネの権威が天からのものだと言えば、彼を排斥した自分たちの正当性を自ら損ねるさまとなり、洗礼者ヨハネの権威が人からのものだと言えば、群衆を刺激することとなり、また自分たちの正当性が損なわれるため、いずれにしても困難な答えだったのです。 「そこで、彼らはイエスに、分からないと答えた。すると、イエスは言われた。それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(11:33) イエスはご自分の権威を守りながら、宗教指導者たちを戸惑わせることで、彼らの質問から抜け出されました。そして、12章の「ぶどう園と農夫」のたとえを通じて、宗教指導者たちの問題点を暴かれました。たとえの中のぶどう園の農夫たちは、主人を本当に愛し、仕えていませんでした。彼らは主人のぶどう園を利用して自分たちのよこしまな利益だけをたくらみ、結局、主人のものを奪い取ろうとして、主人の僕とその息子まで殺そうとしました。まるで今日のぶどう園のたとえの中の農夫たちのように振舞っていた宗教指導者たち。彼らが権威を云々したのは、ぶどう園として表現された神殿を奪い取り、自分たちの歪んだ権威を用いて私利私欲を満たすための言い訳だったのです。彼らは権威を言い訳にし、神の栄光と神への信仰とは、まったく関係ない自分たちの利益と欲望のために神のもの(神殿)を悪用しているだけでした。だから、イエスは当時の宗教指導者たちの不信仰と悪を「ぶどう園のたとえ」を通して告発されたのです。ここで私たちは果たして「真の権威とは何か」について考える必要があります。ユダヤの宗教指導者たちが、あのように重要視していた権威。聖書が語る真の権威とは一体何でしょうか。 3.真の権威について。 今日の新約本文に記された権威という言葉は、ギリシャ語の「エクスシア」を翻訳した表現です。エクスシアは「権威」という意味とともに「権勢、権能、所属、源」などの意味をも持っていると言われます。つまり、エクスシアとは、上から押さえつける水平的な力のイメージを持っています。宗教指導者たちがイエスに「何の権威で」と尋ねた理由は、自分たちの世俗的なエクスシアを強調するためでした。「君の所属はどこか? 君は私たちが認めるべき者なのか。 私たちより上にいるのか。私たちより下にいる者ではないか」という意味で問うたわけです。彼らにとって権威とは、神に由来する権威という意味合いではなかったのです。主導権を握るための世俗的な上下の意味で聞いたのです。自分たちがイエスより上にいる優越な存在であるということをアピールするためでした。しかし、主は天からの権威について語られました。「私は神が洗礼者ヨハネに与えられた権威、それ以上の権威をいただいている」と暗黙的に示されたのです。今日の旧約の本文を見てみましょう。「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14) ダニエル書は、人の子のような者について神からエクスシア(権威)をいただいた者と語りました。つまり、メシアの権威は神がくださったということです。真の権威は、今日の宗教指導者たちが口にした世俗的な偉さを意味するものではありません。宗教指導者たちが考えた権威とイエスが言われた権威は、その性格が全く違うものだったからです。当時の宗教指導者たちの権威は、神が認めてくださらない、群衆が納得しない自分たちの欲望ための世俗的な権威でした。そのため、宗教指導者たちは群衆の反応を恐れていたのです。しかし、主イエスは神も群衆も認めることが出来る真の権威について語られ、イエスご自身がその神からの権威を持っておられたのです。権威とは、人間が作るものではありません。ある人が誰かに与えるものでもありません。権威はひたすら神に由来するものです。権威の真の主人は神おひとりだけだからです。したがって、私たちも自分に権威があると思うなら、それを前面に出して威張るより、果たして、自分は神に認められる権威を受けているのか、もし、そうであれば、自分は神からの権威を正しく取り扱っているのかを考えてみるべきだと思います。 締め括り 権威は神からいただくものです。私たちは、常に真の権威とは何かをわきまえて生きるべきです。教会に長く通っているからといって権威が高く、出席してわずかだからといって権威が低いわけではありません。主なる神の必要であれば、主は誰にでも権威を与えてくださり、権威をいただいた者は、謙虚にその神からの権威を正しく使うべきです。そうでなければ、今日の宗教指導者たちのように、権威を世俗的に悪用してしまうからです。現代の政治家たちを考えてみましょう。彼らは自らが権威者であると思い、国民を軽んじてしまう場合が多いでしょう。それは真の権威の使い方ではありません。皆さん、金牧師を志免教会の権威者だと思わないでください。牧師が持っている権威は、神がくださった御言葉の権威を述べ伝えるための道具にすぎません。牧師に権威があるわけではなく、神の御言葉に権威があり、牧師はそれを支えるだけです。長老、執事の皆さんも自らを志免教会の権威者だと思わないようにしましょう。皆さんの務めに神からの権威が置かれ、私たちはその権威のために仕えているだけです。将来、誰か志免教会の長老、執事になられれば、その権威が君臨のための権威ではなく、奉仕のための権威であることを忘れないでください。真の権威者でおられる主イエス·キリストが、ご自分の権威の責任を果たすために十字架にかけられ、自らを犠牲にされたことを憶えつつ生きましょう。真の権威の在り方について常に考え、心に留めて生きる志免教会の皆さんであることを願います。

主がうまく計らってくださった。

創世記39章1~23節 (旧68頁) マタイによる福音書28章20下節 (新60頁) 前置き 前回の創世記37章で、ヨセフは兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまいました。彼は父親のヤコブの最愛の息子でしたが、神からいただいた将来を啓示する夢を偉そうにしゃべってしまい、それによって兄たちの憎しみを買い、エジプトに売られることになったのです。人間的な視座から見れば、この物語はヨセフの悲惨な失敗の話のように見えるかもしれません。彼は兄弟たちに裏切られ、他国の奴隷となってしまったからです。しかし、神の視座から見れば、この物語は、神の御心を成し遂げるための、一つの過程にすぎません。この段階があるからこそ、ヨセフはエジプトの総理の席に近づいていくからです。つまり、「ヨセフはエジプトに売られ、彼の人生は悲惨に終わった。」ではなく、これからが「ヨセフの人生の全盛期の始まり」ということです。ですので、今日の本文の冒頭と末尾に、「主がヨセフと共におられた。」という表現が2度も出てきているのです。今日の本文は、たとえヨセフが失敗を経験していても、神はヨセフのすべてのことをうまく計らっておられるという希望のメッセージを伝えています。人間には「もう終わりだ」と感じられるかもしれませんが、神にとっては「御心を成し遂げられるための過程」に過ぎないということです。ここにキリスト者の希望があります。今日は創世記39章を通じて人間の失敗さえも主の祝福の過程として用いてくださる主なる神のお導きについて話してみたいと思います。 1。主がヨセフのすべてのことを計らってくださった。 今日の本文は、ヨセフがファラオの侍従長ポティファルに売られ、彼の召使い(奴隷)となったという話から始まります。「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。」(39:1)以前、神がヨセフにくださった夢によれば、彼は大勢の人の上に君臨する偉い人物になるべきでした。なのに、むしろ彼はエジプト人の奴隷となってしまったのです。彼の夢は、ただ、つまらない空夢だったでしょうか。ところで、2~3節の言葉を読むと、おかしい点が見つかります。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ(主がうまく計らわれたと同じ原文)。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は」(39:2-3)ヨセフはヤコブの最愛の息子に生まれ、当時の王族たちだけが着られる華麗な服を着て育ってきました。そんなヨセフがエジプトの奴隷として売られ、他人の召使いになっていたのに、聖書は彼がまるで神の祝福を受けているかのように描写しています。この世の常識から見ると、今のヨセフの状況は肯定的だとは絶対に言えないでしょう。しかし、聖書は、この世の常識とは、まったく違う観点からヨセフの状況を解釈しているのです。まるで予想していたことを平気で話しているかのようです。その中で最も理解できない表現は、神がヨセフと共におられ、彼のすべてのことを「うまく計らわれた。」ということです。「計らわれた。」という表現を英文聖書的に表現すると「繁栄させてくださった。」「成功させてくださった。」となります。つまり、ヨセフが奴隷となっていたにも関わらず、聖書はその状況さえも神の祝福として述べているということです。 ヨセフは兄弟たちに裏切られ、他国に売られ、異邦人の召使いとなっていたのに、なぜ聖書は彼の人生についてこれほど平気に、神によってうまく計らわれていると描写しているのでしょうか? 神が彼と共におられ、彼のすべてのことが成功的に導かれているという聖書の評価を、私たちはどう受け入れるべきでしょうか。アブラハムから、イサク、ヤコブ、ヨセフの人生まで、神の祝福は、人の考えとは全く違う姿で彼らに現れました。最初、神の祝福を約束されたアブラハムは、挫折を重ねた末に、100歳にもなってやっと相続人を儲け、イサクは息子たちの葛藤により、家庭の破綻を経験しなければなりませんでした。ヤコブは叔父であり、義父であるラバンの家で苦労し、故郷に帰る時も兄の仕返しを恐れなければなりませんでした。そして晩年には、愛する妻と息子まで失わなければなりませんでした。いくら考えてもアブラハム、イサク、ヤコブは人間的な観点から見れば、祝福された人だとは考えられないほど肉体的、精神的に苦難を経験しつつ生きてきました。しかし、聖書の評価はいかがでしょうか。彼らは神の祝福を受けた者として語られています。彼らには共通の事実がありました。それは神が彼らの人生の道に共におられ、彼らが成功をしようが、失敗をしようが、彼らから離れられず、いつも共におられたということです。 2。神の祝福への正しい理解。 今日の本文での「うまく事を運ぶ。」「うまく計らう。」という言葉のヘブライ語は「ツァラッハ」という表現です。「良い。平坦だ。 有益だ。繁栄する。」などの意味を持っています。ところで、旧約聖書の他の箇所では、この表現が、主の霊が「ご臨在なさる。」という風にも使われます。「主の霊があなたに激しく降り(ツァラッハ)、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。」(サムエル記上10:6) ある人にとって「良い時、有益な時、繁栄する時」は主の霊が臨まれ、その人と共におられる時を意味するということでしょう。つまり、神が、ある人と一緒におられる、その瞬間が、その人の人生において真の祝福の時であるという意味でしょう。そのような観点から見ると、キリスト者の人生において、真の祝福の時は、神が一緒にいらっしゃることとも言えるでしょう。しかし、神の祝福を受けた者にも、相変わらず苦難は存在し、試練を経験しなければならない時もあります。今日の本文で、ヨセフは熱心に主人の家に仕えてきましたが、淫らな女主人の偽りによって濡れ衣を着せられ、監獄に閉じ込められてしまいました。しかし、そのような危機の中でも、神はご自分の選ばれた者ヨセフを絶対に見捨てられなかったのです。むしろ、主は監獄にいるヨセフと変わらず一緒にいてくださいました。常にご自分の民と一緒におられ「主の御旨にかなう方向に、導いていかれること」聖書はそれを祝福だと語っているのです。 今まで教師として働いてきながら、数多くの苦しむキリスト者と出会う機会がありました。彼らにはこんな疑問がありました。「なぜ、主は主を信じる自分に、こんなに苦難を与えられるのか?」事業がつぶれてしまい、一寸先も見えない人、不意の事故によってひどく怪我をしたり、家族を失った人、いくら努力しても人生がうまくいかない人。数多くの人々が「主はどこにいらっしゃるのか?」 「主はなぜ自分にこんな苦難を与えられるのか」という疑問を抱いていたのです。そして、その中には神への信仰を諦めてしまう人々もいました。しかし、その苦難の瞬間を信仰を持って最後まで乗り切った人々は、一様にこう告白しました。「当時は死にたいほど辛かったが、今になって考えてみると、その都度、神は私と一緒におられた。」神の祝福は盲目的にすべての苦難を防いでくれる盾のようなものではありません。偉い親は、無条件に子供の苦難を防ぎ、弱虫に育てる人ではありません。子供が苦難に立ち向かって進んでいけるように導き、一緒にその苦難を乗り越えていく親こそが、本当に偉い親ではないでしょうか。神もそのように無条件に苦難を防いでくださる方ではなく、乗り越えていけるよう背後におられ、諦めることなく導いてくださる方なのです。神の祝福に生きる民も苦難を経験し得ると思います。今日の本文のヨセフも確かにすべてがうまくいく状況ではありませんでした。他国に来て他人の召使となり、淫らな女主人の誘惑を断って、誤解されて監獄に閉じ込められることになってしまいました。しかし、そのような状況下でも、神は常に彼の苦難の時に一緒におられ、彼の人生をうまく計らって導いてくださったのです。それがまさにヨセフへの神の祝福だったのです。そして、その苦難を伴う祝福の道の終わりに、ヨセフはエジプトの総理となり、その昔、神がくださった夢のように、すべての人の上に君臨し、飢饉から数多くの民族を救う真の成功を成し遂げることになったのです。 締め括り 今日の説教の主題はとても簡単です。神が一緒におられることこそが、真の祝福であるということです。もちろん、神は私たちに経済的な豊、心の安らぎ、家族の成功のような、この世が語る祝福も許してくださると信じます。人生において苦難だけを受けつつ生きることはできず、主もそれを知っておられるからです。しかし、それらだけが祝福のすべてではないでしょう。私たちは聖書が語る祝福の真の意味について常に念頭に置いて生きなければなりません。私たちにいくら辛いことがあるといっても、神が私たちと共にいらっしゃるということ、私たちのすべての人生に介入しておられるということ、それこそが真の神の祝福であることを憶えなければならないでしょう。イエス・キリストが昇天される前に私たちに聖霊を約束してくださった理由も、ペンテコステに聖霊を送ってくださった理由も、私たちがこの聖霊によって神と常に一緒にいるようにしてくださるためでした。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 新約時代を生きていく私たちに主は聖霊を通して常に一緒におられ、私たちに祝福しておられることを忘れてはなりません。神が苦難を受けるヨセフの人生に常に一緒におられ、彼の人生をうまく計らって導いてくださったことを記憶し、現在を生きている私たちに与えられた真の祝福とは何かについて顧みる時間になることを願います。そして、私たちを見捨てられず、常に一緒にいてくださる主の豊かな恵みに感謝しつつ生きていく私たちになることを願います。

神殿について。

歴代誌下 7章1~22節 (旧679頁) マルコによる福音書 11章12~19節 (新84頁) 前置き 前回の説教で、イエスは3年間の奉仕の御業を終え、いよいよご自分の命を十字架で捧げ、罪人を赦し、救ってくださるためにエルサレムに向かっていかれました。旧約の預言のように、子ろばに乗ったメシアとしてエルサレムにお入りになったイエスは、大勢の群衆が叫んだ「ホサナ(主よ、どうか私たちを救ってください。)」、すなわち罪からご自分の民をお救いになるために十字架に進んでいかれます。これからのマルコによる福音書は、そのイエスの最後の一週間について描きます。そして今日の本文は、その初日にあった出来事の記録です。今日の本文で、私たちは何を学べるでしょうか? 一緒に探ってみましょう。 1。イエスが実のないイチジクの木を呪い、神殿から商人を追い出した理由。 今日の本文には、イエスが神殿にお入りになる前に、実のないイチジクの木を呪われ、神殿境内から商人たちを追い出される物語が登場します。なぜイエスはイチジクの木を呪い、神殿の商人たちを追い出されたのでしょうか。ドイツの医師であり、神学者であるシュヴァイツァーはイエスが差し迫った死の前で理性を失い、イチジクの木を呪ったと解釈しました。また、ある人たちはイエスが神経質な方なので、商人たちを追い出されたとも解釈しました。しかし、果たして、本当にそのためだったのでしょうか。それでは、より適切な解釈のために、まず前回の本文を読んでみましょう。「イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った。」(11) エルサレムに来られたメシア・イエスは一番先に「神殿」に行かれました。そして、その境内を見て回りました。ここで「見て回る。(ペリブレポ)」という意味のギリシャ語をより詳しく意訳すると「注意深く貫いて見る。」という語でも表現することができます。イエスがエルサレムに来て当時のユダヤ教の最も重要な場所であった神殿にお入りになり、まともに機能を全うしているかどうか「注意深く貫いて見」て判断されたというわけです。旧約聖書のエゼキエル書44章は、メシアの時代の神殿と祭司がどうあるべきか、よく説明しています。「彼ら(祭司)は、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。」(エゼキエル44:23) 神はエゼキエル書を通じて、望ましい神殿の在り方を教えてくださいます。「見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。… 主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。 … 見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。」(エゼキエル43:2-5中)エゼキエル書によると、神の栄光が神殿に到来する時、すなわちメシアが神殿に臨む時に、神殿は神の区別された祭司によって、聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教える場所にならなければならないと記録されています。しかし、メシア・イエスが神殿にお臨みになった時、神殿の祭司のうち誰も民を教えず、メシアの到来を待っていませんでした。むしろ、彼らは神殿を利用して世俗的な商売をしていたのです。そのため、神殿はまるで市場のようになっていました。マルコによる福音書は、それを「強盗の巣」と表現しています。 「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。」(11:15) ところで、なぜ商人たちは、聖なる神殿の境内で両替をし、動物を売っていたのでしょうか? それを知るためには、当時の神殿の祭司たちの行動と変質した神殿の礼拝について探ってみる必要があります。 イエスの当時の神殿の祭司たちは、サドカイ派と呼ばれました。彼らはユダヤの宗教指導者であったにもかかわらず、非常に世俗的な勢力でした。また、ローマ帝国と結託し、神殿を用いて民の金を奪い取る売国奴のようなことをしていました。旧約の律法には、神に供え物を捧げる時には「傷のないものを捧げるべき」と明示されています。サドカイ派の祭司たちは、この掟を悪用し、民が連れてきた供え物の獣から、いくら小さい傷だといっても捜し出し「傷があってはならない」という名目で断り、商人たちに安値に売らせた後、自分たちが備えた「傷のない獣」を高値で買わせました。そこで、民は、損害を負いつつ、自分の「傷のある獣」を神殿と契約した商人たちに売り、新たに「傷のない獣」を買わなければなりませんでした。ところで、面白いのは、民が売った「傷のある獣」が、何日か後には「傷のない動物」となって、他の人に再び売られたということです。 また、外国に在住するユダヤ人同胞たちが神殿詣でに来た時、ローマ帝国の銀貨であるデナリオンを持ってくると、「ローマ皇帝の肖像があるから、偶像である」という名目で、ユダヤの銀貨であるシェケルに、高い手数料で両替させました。 つまり、サドカイ派の祭司たちは、神殿を私的に利用して獣と両替商売をしたわけです。イエスが神殿にお入りになる前にイチジクの木を呪い、神殿に入った後に怒って商人たちを追い出されたことは、まさにこのような宗教指導者たちの誤った行動を裁かれるという象徴的意味を含んでいました。 2。神殿の機能 神は世界を創造された方です。つまり、被造物であるこの世のすべては創り主である神の統治の下にあるということです。創造した者が造られた物の下にいることはあり得ないからです。そんなわけで、神はイザヤ書を通して次のように言われました。「天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。」(66:1)すなわち、神にとって、旧約の神殿は、絶対に必要なものではないということです。むしろ神は、この世の主の民のために神殿をくださったのです。「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」(レビ記26:11-12) 被造物より大きい神が、被造物である人間たちと関係を結んでくださるために聖なる幕屋をくださり、以後、それがソロモンの時代に神殿として発展したということです。そして最も決定的な神殿の存在理由は、今日の旧約本文から見ることができます。「今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16) つまり、神殿の機能は、神が人間のためにくださった場所で、人間が神とお交わりを持つこと、すなわち祈りのためです。 なのに、イエスの時代のユダヤの宗教指導者たちは、この聖なる祈りの場である神殿で民をだまし、自分の私利私欲のために、商売をしていたわけです。そのため、イエスは神殿の商人たちを追い出し、宗教指導者である祭司たちを叱られたのです。イエス様がイチジクの木を呪われたことも、この神殿を汚した宗教指導者への呪いを象徴するものです。聖書でイチジクの木は「平和と安定」を象徴する道具としてしばしば使われます。神は宗教指導者である祭司たちを神と民を取りなす役割のために、民に平和と安定の道を示すために遣わしてくださいました。 しかし、祭司たちは民に神の御心と御言葉を正しく教えず、むしろ自分のお金儲けのために神殿を悪用していたのです。「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。」(11:12-13確かに本文の背景は春なので、イチジクの本格的な季節ではない、しかし、イチジクは春、夏、2回にわたって実を結ぶ。というのは、イエスがイチジクに近寄られた時も、イチジクは春の実を結んでいるべきだったということを意味する。)春のイチジクの木は、先に実が出てから、葉っぱが茂るようになると言われます。つまり、実はなく葉っぱだけが茂っているイチジクの木は、正常じゃなく何の役にも立たないということです。イエスの時代の宗教指導者たちの姿と似ているのです。 イエスはマルコによる福音書1章15節で以下のように宣言されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」すでにメシアの時になりましたが、イスラエルの宗教指導者たちは、その時に葉っぱだけ茂って、実はないイチジクの木のように有名無実な存在になっていました。主イエスはイチジクの木に向けた呪いを通じて、当時の宗教指導者たちが、神に裁かれるようになることを象徴的にお示しくださったのです。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」(18)しかし、宗教指導者たちは警告するイエスを恐れるどころか、かえって主を殺そうとするだけでした。彼らは「あのいちじくの木が根元から枯れている」(20)の御言葉のように、神に呪われ、根元から枯れたイチジクのように滅びるでしょう。主イエスは、このような堕落した宗教指導者たちと、その寿命を迎えた神殿の機能をご覧になって、ヨハネによる福音書2章でこう言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」主はこのような機能を失った建物としての神殿の代わりに、主ご自身が神と民を取り成してくださる真の神殿になられ、神への真の礼拝を回復させると宣言されたのです。 締め括り 今日の本文を通じて、私たちが学ぶべき教訓は何でしょうか? 聖書のあちこちに、このような表現があります。「見よ、わたしは盗人のように来る。」すなわち、イエスが突然、誰も分からない時に、再臨されるということです。その時、私たちはどんな姿であるべきでしょうか?  私たちが生きている、この世に、もはや神の神殿はありません。エルサレムの神殿は西暦70年にローマ帝国によって崩壊し、現在はイスラムの寺院があるだけです。それでは、今の時代の神殿はどこにあるのでしょうか。先ほど申し上げたように、イエスがまさに真の神殿になって神と民を取り成しておられます。だから、イエスがおられる所は、どこでも神殿になれるのです。ということは、主の体なる私たち志免教会も現代の神の神殿として機能できるということです。志免教会堂という建物が神殿であるという意味ではなく、ここに集まっているイエスの体となった志免教会員の一人一人が、まさに神の神殿であるということです。この神殿として生きていく私たちは、果たして実を結ぶイチジクのような人生を生きているのでしょうか。 葉っぱだけが茂っているイチジクのような姿ではないでしょうか。この教会にいる私たちは、主の御言葉のように、聖と俗、汚れたものと清いものとを区別する、正しい人生を追求しているのでしょうか。神殿の堕落した祭司たちや商人たちのように生きているのではないでしょうか。もし、今突然、イエスが志免教会に到来されれば、私たちは主の御前で堂々と立つことができるのでしょうか? 今日の御言葉を通じて、神の神殿である、私たち志免教会の在り方について考えてみたいと思います。その反省と悩みを主イエスは喜んで祝福してくださるからです。

≪あしあと≫

—2022年9月25日の説教の原稿はありません。- いつも志免教会の説教をお読みくださる皆さんに感謝申し上げます。 今日は、志免教会の聖書と讃美の集い(伝道礼拝)の日です。 外部の講師を招き、御言葉の説教を聞きますので、今日は説教の原稿がありません。 たいへん申し訳ございませんが、ご理解をお願いします。 代わりに短い文章を掲載いたします。 ≪あしあと≫ 作者:マーガレット・F・パワーズ ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。 一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 私は砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。 このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。 それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。 一番あなたを必要としたときに、 あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」 主はささやかれた。 「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。 あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。 あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

ユダを通じて学べる教訓。

創世記38章12-26節(旧66頁) マタイによる福音書1章1-6節(新1頁) 前置き 1.前回の説教のあらすじ 今日は、前回の創世記38章の説教で、全て話せなかったユダの物語について、考えてみたいと思います。前回の本文の内容に手短に触れてみましょう。ヤコブの息子であるユダと彼の兄弟たちは、目の敵のようだった弟ヨセフをエジプトに売り渡した後、父親にはヨセフが獣に殺されたと偽りを告げました。ヤコブはその話しを聞いて嘆き悲しみました。その後、ユダは兄弟たちと別れてカナン地域に移住し、そこで異邦人たちと付き合い、その地域の女と結婚しました。そしてユダは3人の息子を儲けました。一番目はエルでしたが、彼は神の意に反する者でした。彼はタマルという異邦の女と結婚しましたが、自分の罪のため、子供も儲けず、若死にしました。そこで、ユダはエルの子供を持たない嫁タマルに、次男のオナンの子種によって妊娠させようとしました。しかし、オナンは兄嫁に子供が生まれれば、自分の財産が少なくなることを懸念し、子種を与えずにそれを地面に流しました。神はそれを悪く思われ、オナンも罰して殺されました。それを見たユダは三男のシェラが成人するまで嫁タマルを実家に戻し、待たせました。しかし、ユダは三男のシェラもエルとオナンのように殺されるのではないかと恐れ、彼が成人したにもかかわらず、タマルを呼び寄せず、放置しておきました。 なぜ、次男のオナンは兄嫁に子種を与えなければならなかったのでしょうか?オナンはなぜ、兄嫁に子種を与えないことで罰せられ、殺されたのでしょうか?私たちは前回の説教で旧約のレビラト婚について語り、それがヨベル(角笛の音)の年の精神に基づいた制度であることを学びました。ヨベルの年とは、旧約時代、神がご自分の民イスラエルにお与えになった土地を、50年ごとに元の地主に返す回復の年のことです。ヨベルの年の贖罪の日に角笛を吹くと、経済的な事情で土地を失った人、他人の奴隷となった人、他郷暮らしをする人たちが皆解放され、帰郷して自分の土地を返してもらうことができました。すべての土地の真の主人は、神おひとりですので、神がその土地を再びご自分の民にお返しになり、皆が平等に神の祝福のもとに帰ってくるという意味を持っていました。それは一度滅びた存在を立ち直らせる主の恵みを象徴しました。ユダの長男であるエルが亡くなり、ユダの次男であるオナンが兄嫁に子種を与え、兄の跡継ぎにすることは、このヨベルの年の精神に基づいたエルの家庭の回復を意味します。たとえエルが自分の罪によって罰せられ、死ななければならなかったとしても、神は弟のオナンの子種をその兄嫁に与え、息子を産ませることで、エルの家庭が再出発するように配慮してくださったのです。なのに、オナンはそのような神の御心を無視し、自分の私利私欲のために子種を与えず、流したわけです。それがオナンの罪となって、彼は殺されたのです。 2.ユダという人の本質 しかし、その父ユダもまた、ヨベルの年の精神に対する認識が薄かったようです。それゆえか彼は、三男シェラをタマルに与えませんでした。漠然と残りの独り息子だけでも生かさなければならないという極めて人間的な思いが彼を愚かにしたのです。これを通じて、私たちはあの偉大なダビデ王と主イエス•キリストの先祖であるにもかかわらず、ユダ自身は、そんなに信仰的な人物ではなかったことが分かります。結局、今日の本文では、タマルが自分の夫の跡を継ぐという一念で、義父ユダが認識していなかったことを遂行する場面を目撃することになります。「かなりの年月がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。ユダは喪に服した後、友人のアドラム人ヒラと一緒に、ティムナの羊の毛を刈る者のところへ上って行った。」(38:12) ユダの二人の息子が亡くなり、タマルが実家に帰ってから、かなりの年月が経ち、ユダの妻が亡くなりました。ここで「ユダが喪に服した後」という表現は、原文的に訳すると「ユダが慰められた後」という表現になりますが、ヨセフを失ったヤコブが「慰められることを拒んだ。」(37:35)と比較されます。また、タマルが「やもめの着物」(38:14)を着ていたこととも比較されます。つまり、ユダは他人の悲しみに無感覚で、自分自身だけを大事にする自己中心的な人間だったということが分かります。さて、ユダがティムナに行った理由は「羊の毛を刈る」ためでしたが、この「羊毛刈り」ということは、単に羊の毛を刈る作業という意味ではなく、当時の盛大な祭りを意味する表現です。数年の間、育てた羊の群れの毛を刈るということは、まるで穀物の収穫のような豊かさを意味したからです。そして彼は、そこで娼婦を探し求めました。おそらく、祭りで酔っ払い(何人かの学者たちの解釈)、自分の性的欲求を考えたということでしょう。妻が亡くなって間もないのに情けない人間です。 ユダは実に霊的に暗い人でした。彼は本質的に罪人だったのです。死んだ夫エルの後を継がせる計画を立てたタマルは、祭りの真っ最中のティムナの近くに行って娼婦に変装し、自分の愚かな義父ユダに接近しました。おそらく、ユダは羊毛刈り祭りで酔っ払い、欲情に燃えていたでしょう。そして自分の嫁とも気づかず、関係を結んでしまったのでしょう。私たちは聖書に登場する人々が、私たちより高い信仰のレベルと道徳性を持っていると誤解しやすいです。しかし、聖書は登場人物の愚かさと不様を加減なく見せてくれます。あの有名なダビデ王さえも、聖書は絶対に美化しません。聖書は人間の罪についてことごとく告発しているものです。ユダは嫁を娼婦(レゾーナ、語源はザナ-姦淫する。-)と勘違いしました。それはあくまでも自分の欲情を晴らすためでした。39章で弟ヨセフがポティファルの妻の誘惑から最後まで自分を守ったことと、比較される場面です。「ひもの付いた印章と杖」そして、ユダはあまりにも簡単に自分のアイデンティティを意味する物を娼婦に手渡ししました。その後、ユダは自分のものを取り返すために知人を通して、子山羊一匹を送り届けようとしました。この時もユダは自分が「神殿娼婦(ケデシャ-古代神殿で崇拝行為として売春をしていた女司祭)」と関係を結んだと知人をだましました。欲望で娼婦を買った彼が、異邦の基準として聖なる神殿娼婦に会ったと嘘をついたというわけです。 3。人の善悪とは関係ない神の計画。 また、ユダは自分も欲情に目が暗んで姦淫を犯したのに、嫁が妊娠すると、自分の罪は顧みず、是非も正さず、盲目的に嫁を焼き殺そうとしました。彼はこのように自分のことしか知らず、罪に無感覚で、無慈悲な人だったのです。ユダは神が愛された族長たち、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であり、また神が愛された偉大なダビデ、そして、救い主イエス・キリストの先祖であります。しかし、彼の人生の一歩一歩を見ると、あまりにも情けない人だったということが分かります。神の御心には関心もなく、神の御心に従うこともなく、子供たちは信仰とは遠く育て、他人の心や立場には興味がなく、自分の欲望に目がくらみ、自己中心的に生きる罪人の中の罪人でした。単に聖書に登場する偉大な人物の祖先だからといって、その人まで偉大な信仰者として扱えないということです。しかし、私たちはこのような愚かなユダであったにもかかわらず、彼を用いられる神の恵みを憶えなければなりません。神のご計画は人間の善と知恵、悪と愚かさと何の関わりもありません。ある人が高い道徳性と信仰を持っていても、根深い罪と不信心を持っていても、神の計画の成就には、いかなる影響も及ぼすことができないことを憶えておくべきです。神はどんなことがあっても、他の存在に左右されず、神の御心に従って、その計画を必ず成し遂げていかれる方だからです。 ユダはヨベルの年の精神への認識が薄すぎる人間でした。子供たちを立派に育てることもできませんでした。不信仰で、人間味もない人でした。それでも、神はその嫁タマルを通して、ユダがヨベルの年の精神に気づくようにしてくださり、後を継がせてくださり、(現代的な観点からしては不適切に見えるかもしれませんが、)何とかペレツという息子を産ませてくださいました。そして、そのペレツを通じて神は旧約の代表的な人物であるダビデ(旧約のメシア的な人物)と真の救い主であるキリストが生まれるようにしてくださいました。主の恵みによって罪人から正しい人が生まれるようになったということでしょう。ここに私たちの希望があります。今、私たちの信仰が立派でなくても、私たち自身が罪人として生まれたとしても、到底、自分の力では救われることが出来ない、絶望的な状況であっても、神の御心の中にいれば、私たちはキリストを通じて神の計画(救い)が成し遂げられることを見つけるでしょう。信仰者にとって最も大事なことは「自分が立派な人であり、自分が何かを成し遂げる。」ではありません。「自分が信じる主なる神が偉大な方であり、その方が自分のことを導いてくださる。」が大事なのです。これがまさにキリスト教が語る「信仰」なのです。神は罪人のユダが自分の過ちについて悟るように導いてくださいました。ユダは立派な信仰者ではありませんでしたが、神はどうにか彼を見捨てることなく、変えていかれたのです。それを通じて、最終的にユダは自分の過ちを認め、後には父親ヤコブに盛大な祝福を受け、キリストの先祖となる信仰の人物に変わっていくのです。 締め括り ユダは、実にどうしようもない罪人でした。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫だったにもかかわらず、彼の人生は全く信仰者の姿ではありませんでした。しかし、神は最後まで彼を見捨てられず、少しずつ変えていかれました。もちろん彼の2人の息子は死んでしまいましたが、タマルを通じて、また新しい息子2人を与え、そのうち1人をメシアの系図に乗せてくださいました。神は罪を憎まれる方ですが、罪人まで憎まれる方ではありません。罪人を新たにされ、正しい人に生まれ変わらせることを望んでおられる方です。人にはできないが、神にはお出来になるので、神はユダのような罪人も少しずつ変えていかれるのです。ユダの罪から私たちの姿を見出します。しかし、神は私たちに罪があるにも関わらず、必ずユダのように私たちを見捨てられず、主イエスの贖いによって救ってくださる方でしょう。私たちもまた、そのように罪人をあきらめない神の御恵に留まっていることを憶えつつ生きるべきでしょう。ユダの物語に鑑み、私たち自身を顧みることを願います。主の豊かな恵みを祈ります。

子ろばに乗ってこられる方。

ゼカリヤ書9章9節(旧1489頁) マルコによる福音書11章1-11節(新83頁) 前置き 今日のマルコによる福音書の本文には、いよいよエルサレムに、お入りになるイエスの物語が描かれます。イエス•キリストはこの世のすべての罪を背負い、自らを十字架のいけにえとして捧げ、罪人を救われる、神によって遣わされた唯一のメシアです。旧約の律法には人が神の御前で、自分の罪を償うために傷のない獣のいけにえを捧げなければならないという規定がありますが、その旧約のいけにえは一度で終わらず毎年行わなければならない不完全なものでした。獣の血では人の罪を完全に償うことができないからです。しかし、神がお遣わしくださった唯一のメシアであるイエスは、完全な神であり、完全な人であるゆえに、罪のないご自分の肉体を十字架で捧げることにより、罪人の救いをたった一度で完成する完全ないけにえになられました。イエスがエルサレムに向かわれる理由は、まさにその完全な救いのためにご自分の肉体を生贄になさるためでした。これまでイエスは病んでいる者、悪霊に取り付かれた者、貧しい者たちの世話をしてくださり、弟子たちに福音の秘密を教えてくださいました。しかし、もはや主は癒され、宣教され、教えられる御業に終止符を打ち、これからは自ら罪人のための身代金になられるために、犠牲と贖罪の十字架の道に進まれるのです。今日の本文からは、十字架に向かって進まれる、主イエスの最後の一週間の物語が描かれます。 1.子ろばに乗ってこられた方。 「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」(1-2)弟子たちと一緒にエルサレムの近所に来られた主は、すぐエルサレムにお入りにならず、その前にエルサレムの東側、オリーブ山のふもとのベタニアという小さな村に行かれました。そして、主はそこから子ろばを連れてきなさいと、向こうのベトファゲに二人の弟子を送られました。その後、主はオリーブ山の道を通ってエルサレムの方へお向かいになりました。オリーブ山はエルサレム神殿が見下ろせる低い丘ですが、神殿の入口が見える場所です。主がエルサレムの東側にあるベトファゲとベタニア、オリーブ山を通ってエルサレムに行かれた理由は、おそらく「メシアは東から臨まれる」という当時のユダヤ人の信仰と関わりがあると思います。「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。」(エゼキエル43:4)そして実際に、東側のオリーブ山からエルサレムに目を向けると神殿の東側(神殿の入口)が丸見えなので、メシアの到来を意味するのかもしれません。ところで、ここで少しおかしいことがありますが。なぜ、主イエスは立派な白馬(馬は帝王の出現を意味)に乗ってこられず、みすぼらしい子ろばに乗ってエルサレムに来られたのでしょうか? 「見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、誠実および真実と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。」(黙示録19:1)黙示録を見ても、再臨のキリストが悪をお裁きになる時に、白い馬に乗っていらっしゃると書いてありますが、今日の本文のキリストはあまりにもみすぼらしい姿の子ろばに乗っておられました。何か間違ったのではないでしょうか。しかし、次の箇所を読むと考えが変わるかもしれません。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9) 今日の旧約本文であるゼカリヤ書は、メシアの出現について、このように話しているからです。旧約では、メシアの出現について2つの姿を描写しています。一つは、先日、説教で取り上げられたダニエル書の「天の雲に乗った姿」です。「見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進んだ。」(ダニエル7:13) そして残りの一つは、今日のゼカリヤ書のように「子ろばに乗った姿」です。ゼカリヤ書はメシアは謙遜な方なので、雌ろばの子に乗ってくると表現しています。実際にイエスは自らを低くされ、罪人の贖いのために代わりに死んでくださる謙遜の王です。しかし、私たちはここで「子ろば」に目を奪われてはいけません。「まだだれも乗ったことのない」という表現に目を注ぐ必要があります。 主イエスが子ろばに乗られた理由は、旧約の預言の成就という意味でしょう。ところで「まだだれも乗ったことのない」という言葉は、イエスの本質につい教えてくれるヒントなのです。ミシュナーサンヘドリンというユダヤ人のタルムードには「王が乗る獣には誰も乗ってはならない。」という解説があると言われます。つまり、イエスは単純に子ろばというみすぼらしい獣に乗られたのではなく、誰も乗ったことのない預言に登場する特別な獣に乗られたということです。誰も乗ったことのない子ろばという表現がイエス•キリストのメシアとして、また王としてのアイデンティティを表しているわけです。また、普通の人々はエルサレムに入る時に獣から降りて歩いて入ったと言われますが、イエスが獣に乗ったまま、入城されたということ自体が特別な意味を持っているのです。そして、子ろばに大人のイエスが乗ったということで動物虐待と誤解する人もいますが、これは私たちが考える幼いろばではなく、元気な若いろばの意味として解釈できるということを見逃してはならないでしょう。現代を生きている私たちの目には、子ろばに乗られたイエスが滑稽に見えたり、不自然に感じられたり、するかもしれません。しかし、イエス当時のユダヤ人にとって、子ろばに乗ってエルサレムにお入りになったイエスのイメージは、旧約の預言に登場した真のメシアと重なって見えたということを理解したうえで、今日の本文を読む必要があります。 2.ホサナ:主よ、どうか私たちを救ってください。 イエスが、エルサレムに入ろうとされた時、多くの人々は子ろばに乗って来られた、このイエスというラビを見て、旧約の預言を思い起こしたでしょう。それで、人々はついにローマ帝国の圧制から自民族を救い上げる指導者が臨んだと考えたのでしょう。人々はイエスという若いラビがいきなり登場し、病人を癒し、悪霊を追い出し、多くの人々に食べものを与え、今までなかった権威ある講説をするといううわさを聞いてきました。そういうわけで、もしかしたら、この人こそがイスラエルを救い出すメシアであるかもしれないと思ったわけでしょう。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」(8-10) 今日の本文にはホサナという表現が出てきていますが、これは「主よ、どうか私たちを救ってください。」という意味のヘブライ語です。「どうか主よ、わたしたちに救いを。」(詩篇118:25) そして、その出所は詩篇118編です。ところで、ホサナの実際の発音は「ホシュアナ」です。「ホシュア」は救いを意味する「ヤシャ」という表現が文法的に変形したもので、「ナ」という表現は「どうか、ぜひ」などを意味します。この「ヤシャ」から旧約の「ヨシュア」新約の「イエス」という名前が派生しました。 さて、人々はどういう思いをもって、イエスに「ホサナ」と叫びながら喜んだのでしょうか? 彼らはイエスがこの世のすべての存在を惨めにする罪の問題を解決するために来られた霊的なメシアであるということを分かっていたでしょうか。実に残念なことは、主の弟子たちも、群衆もイエスをただ政治、軍事的なメシアとして理解していたということです。彼らが考えてきた救いは、ただ自分の国と民族が、ローマ帝国から解放され、自分たちの思い通りに生きることでした。神は創世記のアダムの堕落以来、この世を汚し乱す罪の問題を解決するために休まず働いてこられました。神は贖いの御業を成し遂げられるために、イスラエルという主の民を打ち立てられ、祭司の国にしてくださいました。イスラエルの使命は神の救いを、全世界に表す神の国になることでした。そのため、主は巨大な国々からイスラエルを守り、保たせてくださったのです。しかし、イスラエルは自分の使命を忘れ、世俗的な道を進み、数多くの罪を犯しました。そこで、神はイスラエルを滅ぼされ、帝国の植民地にされたのです。なぜ、神はご自分の民さえも滅ぼされるのでしょうか。神は巨視的にこの世をご覧になる方です。一国の興亡盛衰ももちろんつかさどる方ですが、それより、もっと大きな問題、すなわちこの世の全てを苦しめる罪の問題を解決するために、より広く世を見ておられる方なのです。神にとって最も重要なのはイスラエルという一国の復興ではなく、人類を罪から救われることでした。 しかし、当時のイスラエルの人々は、そうではありませんでした。彼らはあまりにも微視的な観点からメシアを理解しました。自分の祖国を解放する政治的な人、自分たちの欲求を聞いてくれる世俗的な指導者だけを求めていたのです。イスラエルの群衆は子ろばに乗っておられるイエスを眺めながら、どのような意味の「ホサナ」を叫んだのでしょうか。彼らは罪の問題を解決しようとされた神の巨視的な観点とは全く関係のない、自己欲望の解決というあまりにも微視的な観点からイエスを理解しようとしたのです。これは私たちの信仰とも関係があります。 私たちは毎週教会に出席し「ホサナ」を唱えます。もちろんホサナという表現は直接言いませんが、私たちの礼拝、讃美、教会生活が結局は「主よ、どうか私を救ってください」という無言のホサナではないでしょうか。ところで私たちは自分の罪を贖われるイエスへの愛と感謝としてホサナを呼んでいるのか、それとも自分の有益と必要だけのためにホサナを呼んでいるのかを、はっきり確かめなければなりません。ひょっとしたらイエスの贖いと救いの御業は、当時のイスラエル人においては、別に必要ないものだったかもしれません。 なぜなら、彼らが望んだ救いは罪の問題を解決する根本的な救いではなく、直ちに自分の願いが叶うという世俗的な救いだったからです。そして、彼らは自分の世俗的な欲望を聞き入れてくださらなかったイエスを自分たちの手によって十字架につけてしまいました。私たちはどのような意味としてホサナを呼んでいるのでしょうか? どんな心で信仰生活を続けているのでしょうか。 締め括り 今日はイエスが子ろばに乗って来られた出来事の意味について、そしてホサナの意味と理解し方について分かち合いました。昔、ユダヤ人のあるラビがこのような話をしたと言われます。「神の民がまともに備えていれば、メシアは天の雲に乗ってこられるだろう、しかし、神の民がまともに備えていなければ、メシアは子ろばに乗ってこられるだろう。」もちろん、これは一介のユダヤ教のラビの解釈ですので、キリスト者はこの言葉を真摯に受け入れる必要はないでしょう。しかし、私たちは彼の言葉を通じて、私たちがキリスト者として、どのような心構えで生きているのか、振り返ることはできると思います。主への純粋な信仰によってホサナを唱えているのか、自分の必要と欲望によってメシアを利用するために、ホサナを唱えているのか、私たちは常に私たちの信仰の純粋性について疑い、点検しつつ生きるべきです。これからマルコによる福音書で現れるキリストの十字架の道を通じて、より一層私たちの現在の信仰を顧み、主に正しく聞き従うために力を尽くす私たちになることを願います。今週も主の豊かな恵みにあって平安に過ごされますよう祈ります。