福音の種と心の畑。

イザヤ書6章8-13節(旧1070頁) マルコによる福音書4章1-20節(新66頁) 前置き イエスの時代のイスラエルの民は、旧約の予言によって約束されたメシアが必ず来るだろうと信じていました。昔、神とアブラハムの契約によって約束された大いなる国民、モーセの導きによって民族の基礎を築いた選ばれた民族、偉大な王ダビデを通して築き上げられた強力な国家であることなどと。イスラエルは過去の栄光が再びもたらされると信じていました。メシアが現れ、かつてのアブラハムやモーセ、ダビデのような偉大な業を成し遂げるだろうと待ち望んでいたのです。つまり彼らが待っていたのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国と異民族出身のヘロデ王を追い出し、強力な国家を再建する政治的なメシアでした。しかし、ある日突然現れ、メシアと呼ばれたナザレの青年は、あまりにもみすぼらしい者でした。彼には軍隊も宮殿もありませんでした。いつも弱くて貧しい人々といる元大工にすぎなかったのです。そのため、マルコによる福音書3章ではイスラエルの指導者たちも、彼の家族たちも、彼を認めませんでした。しかし、彼の外見ではなく、真の価値を見抜いた人々には、人生が変わるほどの癒しと回復が与えられました。今日の言葉は、そのような3章の内容と深い関係を持っています。種を蒔く人の種として描かれた福音をどのように受け入れるかによって、その結果が変わるということを教えてくれるのです。 1.古代イスラエルの種まきの方法。 まずは、今日の本文に出てくる種を蒔く人の喩えが持つ背景から探ってみましょう。古代イスラエルでも基本的には現代の農業と同じような仕方で種まきをしていたそうです。つまり、種を蒔く前に土を耕して、その上に種を蒔き、覆うことです。「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。」(ホセア10:12)旧約聖書は、それを「新しい土地を耕す。」と表現しています。このような種まきの仕方は、小麦や大麦の種まきに用いられたのですが、冬の間、固まった土地を耕し、種が深く根を下ろせるように春の農作業によく用いられる仕方でした。ところで、イスラエルでは日本の稲作のように丁寧に田植えをするのではなく、小麦や大麦などの種を適当に撒き散らす方法を取っていたそうです。イスラエル地域は年間降水量がそんなに多くなく、土地には塩分が多かったので、水田農業に不適合なところだったからです。つまり、稲が育たない環境だったのです。そのため、主な穀物は乾きや塩分に強い小麦や大麦などでした。これがイスラエルの主な春の農作業でした。小麦や大麦以降の夏の農業としては、ぶどう、いちじく、オリーブなどがほとんどだったそうです。なので、今日のイエスの喩えは、まさに春の耕しの後の小麦と大麦の農作業に関するお話でした。 ところで、イスラエルは石灰岩が多い地域で、畑を耕しても多量の石や砂利が畑に残っていました。そしてイスラエルは比較的に乾いた気候のため茨の藪などの雑草もたくさん生えていました。だから種をたくさん蒔くと言っても、すべての種がよく育つわけではなかったのです。そういう意味で、日本での農業は自然の特に恵まれていると思います。イスラエルの農夫が小麦や大麦の種を畑に蒔くと、ある種は畑と畑の間の道端の硬い地面に落ちたり、ある種は石灰岩の石だらけで土の少ない所に蒔かれたり、ある種は茨の中に落ちたりするのです。それらの種は、結局鳥に食われたり、日に焼けて枯れてしまったり、腐ってなくなったりするのです。 しかし、その中でも、良い土地に落ちた種は、たくさんの実を結びます。 イエス様はこのようなイスラエルの農業を喩えにして、主の御言葉、つまり福音という種が人々の心の中でどのように反応するのかを説明してくださるのです。主の福音は毎日、聖書を通して、説教を通して、様々な宣教を通して世に伝わっています。信じない者たちにも伝わっていますが、既に信じている私たちにも伝わっています。しかし、そのすべての福音が、いつも実を結んでいるとは言えません。聞く者の心の状態によって、最初から成長しない場合も、しばらく心を響かせてすぐに消える場合も、福音の言葉が深く根を下ろして生活の中に、その恵みが現れる場合もあります。 2.イエスが喩えを通して教えられる理由。 ところで、イエスはなぜ、このような喩えを通して福音の言葉を宣べ伝えられたのでしょうか? 「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。」(10)本文によると、イエスの喩えそのものは難しい内容ではなかったようです。ですが、その喩えの真の意味は分かりにくかったようです。 イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい。」(9)と言われ、喩えの本当の意味を悟れる者だけに聞かせてくださいました。 なぜだったでしょうか? 最初から分かりやすく伝え、一人でも多くの人が御言葉を聞いて悟ることが、より良いのではないでしょうか? しかし、我々は、すべての人々が福音を悟り、受け入れるわけではないことを知らなければなりません。確かに神はすべての人のために福音をくださいました。まるで今日、喩えの種を蒔く人のように、すべての人に福音が伝わるように、世界中に主の教会を建て、伝道させてくださったのです。だから、教会は神の御言葉を誠実に宣べ伝え、伝道しつつ生きるべきです。しかし、だからといって私たちの伝道のメッセージを聞いた、すべての人が神を信じるようになるわけではありません。ある人はとんでもない話だと無視したり、ある人ははむしろ反感を示したりします。人の心の畑の状態によって、ある人は道端のような心、ある人は茨の藪のような心、ある人は良い土地のような心を持って神の御言葉に反応するのです。 イエスをベルゼブルの手下だと考えていた律法学者たちは、モーセ五書の専門家でした。彼らはモーセ五書を完全に覚えており、律法書無しで朗読できるほどでした。しかし、彼らは律法の主であるイエスの福音が全く理解できず、むしろイエスを迫害しました。イエスの家族はどうだったでしょうか。イエス様と一生を一緒に暮してきた母親も、兄弟姉妹たちもイエスの福音が理解できなくて、気が変になっていると思っていました。 むしろ、イエスと何の繋がりもなかったイスラエルの貧しい者たち、弱い者たちがイエスの福音の真の価値に気づき、イエス様に付き従ったのです。今日の旧約本文はこう語っています。「主は言われた。行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。」(イサヤ6:9-10)主は真に自分の弱さを認め、神だけが自分を助けてくださる救い主であることを信じ、従順に聞き従う者に御言葉を悟らせてくださる方です。その反面、主を拒否し、自分自身を神のように高める傲慢な者には、むしろ悟りを塞がれる方でもあります。主の御言葉は目で読み、耳で聞くものではありません。主の御言葉は心で聞き、信仰で受け入れる、自らを省み、悔い改める謙遜な者に与えられる祝福なのです。 主の福音の実とは、自分のことを弁え、神の力に依り頼み、完全に聞き従おうとする者たちに与えられる主の恵みなのです。 3.「自分の心の畑を顧みさせる主」 そういう意味で、今日の言葉は私たちにくださる主の教訓でもあると言えるでしょう。教職者だといって皆が主の御言葉に適う人なのでしょうか? 聖書を数十回読み、ヨーロッパに留学し、聖書の原文を勉強し、多くの神学理論を知る牧師だと、果たして立派な信者なのでしょうか? 正直、私は教師としての自分のことを高く評価できません。毎週、説教していますが、自分の説教のように生きられない偽善的な姿が見えるからです。隣人愛を語りながら、隣人を愛していないことに反省させられます。伝道を語りながら、伝道していないことを省みさせられます。もしかしたら私は既に習得した神学理論と固定観念に閉じ籠り、毎日新しく与えられる主の御言葉に鈍く反応しているのかも知れません。そういう意味で、教職者こそ日々悔い改め、絶えず自らを振り返る場に立つべきだと思います。ひょっとしたら教職者が神の御言葉から最も遠ざかっている、まるでイエスの時代の律法学者のような存在かも知れないからです。それでは、私たちみんなはどうでしょうか? 日曜日に教会に出席し、一度、礼拝を守ることだけに満足しているのではないでしょうか? 主日の30分の説教に満足して、1週間ずっと主の御言葉から遠ざかって、御言葉から学んだ教えを実践もせず、道端、石だらけ、茨の藪のような心の畑を持って生きているのではないでしょうか? 伝道も、祈りも、隣人への愛も手放しで生きているのではないでしょうか? 我々は、自分の心の畑が本当に良い状態だと自負できるのでしょうか。今日の言葉を通して、私たち自身のことを顧みる時間になれば幸いだと思います。 主は毎日私たちに福音の御言葉をくださいます。主日の説教を通して、聖書の御言葉を通して、水曜祈祷会の聖書と教理の勉強を通して、絶えず御言葉をくださいます。しかし、その御言葉を受け入れる状態かどうかは私たち次第です。お祈りを通して自らを悔い改め、自分のことを弁え、自分の心の畑が道端ではないか、石だらけではないか、茨ではないか自分の状態をきちんと知り、改善して生きるべきです。改革派神学には「御霊の照明」という表現があります。つまり、主の民が御言葉を聞いたり、読んだりする時に聖霊なる神が悟りの光を照らしてくださるという意味です。キリスト者への御霊の照明は毎日照らされています。イエスは十字架の犠牲と復活を通して、御霊の照明が一分一秒も途絶えることなく私たちに照らされるように恵みを与えておられます。そして、神はそのキリストの恵みの中で、自らの心の畑を耕す務めを主の民に任せてくださいました。我々の心の畑は道端にも、石だらけにも、茨にも、良い土地にもなり得ます。したがって、我々は常に自分の心の状態を綺麗に磨き、主の御言葉にいつでも反応できるように自らの心の畑を立派に耕していくべきです。 締め括り 「イエスは言われた。あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがないようにするためである。」(11-12) 主イエス・キリストの福音は神の国の秘密です。つまり、誰もが理解できるものではないということでしょう。福音を聞いて、みんなが悟れるのであるなら、少なくとも日本の人口の4割はキリスト者になったはずでしょう。神はすべての人に向けて福音をくださいましたが、それを聞いて受け入れ、悟る人はごくわずかです。しかし、今日の新約本文の13-20節の言葉のように、主を信じるご自分の民たちには悟れる機会を与えてくださいます。だから、我々の心を綺麗に耕し、主の御教えを求めて生きていきましょう。毎日、悔い改めの人生を生き、神の御言葉を大事にし、実践できる力を求めて生きていきましょう。そのような私たちの人生の中に、主はご自分の御言葉による実を30倍、60倍、100倍も結べるよう導いてくださるでしょう。信仰は神と民の相互の契約です。主は悟りを与え、民はその悟りを得るために、聖霊のお導きの中で謙遜に生きるのです。そのような良い心の畑を持って生きていく志免教会になることを祈ります。