イサクとイシュマエル

創世記21章9-13節(旧29頁)         ガラテヤの信徒への手紙4章21-31節(新348頁) 前置き 前回の説教では、神の約束通りに成し遂げられた、アブラハムの相続人の誕生についてお話しました。神とアブラハムが初めて出会った時、神は「アブラハムが祝福の源となり、彼を通して生まれる相続人が神の祝福の民になるだろう。」と約束してくださいました。アブラハムは、その約束を信じ、神は彼の信仰をご覧になり、義としてくださいました。それから、アブラハムは25年間、神による相続人の約束の成就を信じ、待ち望んで生きて来ました。その間、アブラハムの不信仰によって様々な紆余曲折がありましたが、それでも神は彼と同道されつつ、彼の信仰を保たせて、アブラハムとの約束を準備して行かれました。そのおかげでアブラハムも主のお導きの下に神への信仰を諦めずに暮すことが出来ました。その結果、神は子供が持てないほどに老いてしまった100歳のアブラハムと90歳の妻サラを通して、真の信仰の子孫であるイサクを与えられました。このように、イサクは神の約束と、その方へのアブラハムの信仰がもたらした神からのお贈り物でした。このすべては、神の語られた約束どおり、その約束された時に、正確に成就されました。 1.イシュマエルがイサクをからかう。 「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。」前回の創世記の説教の本文である8節には、イサクの乳離れと、それを祝うためにアブラハムが開いた宴に関する物語が出ていました。アブラハムは、なぜイサクの乳離れを記念して盛大な祝宴を開いたのでしょうか。現代には赤ちゃん向けの粉ミルクなどが、ちゃんと備えられているので、比較的早めに乳離れをする場合が多いと知っています。世界保健機関は、まる2歳までは母乳を勧めていますが、最近は普通1歳になる前に粉ミルクなどに変える場合が多いでしょう。それでは、アブラハムが生きていた紀元前18世紀頃は、どうだったでしょうか。創世記の解説書を参考にすると、学者たちは3~4歳ぐらいに乳離れしたと考えてきたようです。おそらく現代と違って赤ん坊のための食物が豊かでなかったわけでしょう。そのように3~4年が経ち、乳離れすると、家族はそれを祝って宴を開いたことでしょう。たぶん、古代には乳児の生存率が非常に低かった故であると推測されます。古代の資料が無くて、西暦1350年代の中世イギリスの乳児死亡率を確かめてみたところ、生まれて1年足らずで亡くなる赤ん坊の割合、すなわち乳児死亡率が約22%に達していました。(イギリス 2015年 0%)出生後1年の内に10人に2人が亡くなったということです。それからすると、古代の乳児死亡率は1350年より高かったはずで、低くはなかったはずでしょう。 そういうわけで、古代人は赤ん坊が3-4歳まで生き残り、乳離れしたことを良い兆しと考えていたことでしょう。特にイサクの場合は、年寄の親から生まれ、元気に育ち、無事に乳離れまでしたので、めでたいことだったでしょう。でも、家族の中には、そんなに喜ばしくない人もいたようです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。」(9-10)アブラハムの長男イシュマエルがイサクをからかう出来事が起こったからです。なぜイシュマエルはイサクをからかったのでしょうか。ただ、子供たちのいたずらではないかと思いがちですが、たぶん、それよりはイシュマエルの嫉妬によることではなかったのかと思われます。イサクより14歳も年上のイシュマエルは、すでに成人式を終えた年だったはずです。今やっと3-4歳になった弟とは、いたずらをする年ではなかったでしょう。もし弟さえいなかったら、父アブラハムの相続人は自分になるはずだったのに弟が生まれたわけです。そうじゃなくても、本妻の息子イサクは、側女の息子であるイシュマエルにとっては目の上のこぶのような存在だったでしょう。イシュマエルの行為を目撃したサラは憤り、アブラハムにイシュマエルと、その母親ハガルを追い出すことを要求しました。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(10)結局、イサクをからかったイシュマエルは母ハガルと共に追い出されてしまいました。 2.肉によって生まれた者と約束の子。 今日の説教では、本妻サラとイサク、側女ハガルとイシュマエルという2つの親子の違いを通して、キリスト教の重要な教理について語ってみたいと思います。それで、かわいそうにも追い出されたハガルとイシュマエルの物語は思い切って省きたいと思います。(創世記21章13-21節参照要望)「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。(11-12)私たちは今日の出来事を通して、ハガルとイシュマエルを追い出したサラにがっかりするかもしれません。強く妬んでおり、非人道的に見えるからです。しかし、サラの行為は当時の法律に基づく行為でした。当時、カルデアには「リピト·イシュタル」という法典がありましたが、その中には、このような条項がありました。「男性が妻と結婚し、彼女が彼に子供を産み、それらの子供が生きていて、奴隷も彼女の主人のために子供を産んだが、父親が奴隷と彼女の子供たちに自由を与えた場合、奴隷の子供たちは元主人の子供たちと財産を分割してはならない。」また、サラは妬み半分であるかも知れないが、主の御言葉に基づいた主張もしています。「あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」 もちろん、サラの肩を持とうとするわけではありません。確かにサラは人間としてしてはならないことをしています。しかし、彼女の主張は当時の法律上問題無いことであり、ある程度、神の御旨にも合致することでした。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(創世記17:19)神は、なぜイシュマエルとハガルが追い出されるように放っておかれたのでしょうか? それは神の約束の相続人は、ひたすらイサクだけだったからです。イシュマエルはアブラハム夫婦が、神との約束を疎かにし、自分たちの独断で女奴隷に産ませた子です。神ははっきりと相続人を約束してくださいましたが、その御言葉を信頼せず、自分たちのやり方で生んだ、いわば約束の外の子でした。その反面、イサクは神の約束によって一方的な恵みで生まれた約束の成就の子だったのです。すでに生殖機能を失った年寄の夫婦に、すべての障害を乗り越えさせてくださった神との約束の子なのです。これについて、今日の新約本文はこのように語っています。「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。」(ガラテヤ4:22-23)もちろん、イシュマエルとハガルの立場は、とても気の毒だと思います。サラも薄情すぎです。それにもかかわらず、神はひとえにサラから生まれたイサクという約束の子だけを通して、神の約束を成し遂げようとなさったのです。 3.行いと信仰の結果 一見、現代人の感覚からすると、今日の出来事はとても理不尽に感じられます。サラもアブラハムも神さえも、あまりにも薄情に感じられます。イシュマエルとハガルを追い出すことを許された神を見て、「神は本当に愛の神なのか?」という懐疑が感じられるほどです。しかし、今日の本文は人間の倫理道徳のために記録されたものではありません。以後、神がイシュマエルとハガルを見捨てられず、導いてくださり、二人の人生のために確実に責任を負ってくださったことを見落としてはならないでしょう。したがって、今日の本文については、現代的な感覚の倫理道徳にではなく、本文に含まれている教理的な意味に集中して解釈すべきです。今日の本文の教理的な解釈は、新約本文のガラテヤの信徒への手紙4章を通して見ることが出来ます。「私に答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」(ガラテヤ4:21)ガラテヤとは、現代のトルコ中部内陸地方を意味します。そこには多くの教会があったと言われますが、当時の教会でも、こんにちのように「キリストへの信仰によってのみ救われる。」という教理が通用していました。ところで、いつからか「キリストへの信仰だけじゃ物足りなく律法の行いが加わってからこそ真の救いに至る。」と言う律法主義者たちが教会に入ってきて間違った教理を教え始めました。そのため使徒パウロは、彼らを偽りの教師と呼びつつ、ガラテヤの教会に対して、律法の行いではなく、もっぱらキリストへの信仰によってのみ救われることを力強く教えるために、ガラテヤ信徒への手紙を書いたわけです。 「こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤ3:24)ここで養育係とは、ローマ時代の貴族の子供たちが学校に入るまで養育を担当する家庭教師奴隷のことです。つまり、パウロは「律法とはキリストを紹介する補助にすぎない。」と思っていたわけです。旧約の律法は神が、民たちにくださった生活の指針でした。しかし、それは人間が守りきれないものでした。律法には613の条項がありましたが、もし誰かが612の条項をすべて守っても、一つを守れなかったら、すべてが無駄になるシステムでした。つまり、神は人間が律法をすべて守ることではなく、律法を通して自分の不完全さに気付き、キリストを信じて救いに至ることを望んでおられたのです。なのに、ガラテヤの偽りの教師たちは、この律法の行いで救われると教えていたわけです。パウロはアブラハムとサラが、神の約束を無視し、自分たちの判断でハガルを通してイシュマエルを産ませたことを行いの結果、つまり律法主義に似ていると見なしていました。「約束への信仰ではなく、自分の力でやってみよう。」と思った結果だったということです。以後、生殖機能が尽きた二人が、すべてを諦め、神への信仰だけで生きた時、はじめて神の約束どおりにイサクが生まれたことを信仰の結果だと見なしていました。ひたすらキリストへの信仰によってのみ救われる福音に似ていると考えたわけです。サラがイシュマエルとハガルを追い出したことは本当に気の毒です。しかし、私たちはその出来事を通して、神が人間の行いではなく、ひとえに神の約束と、それに対するアブラハムの信仰によって生まれたイサクだけを真の信仰による結果として認めてくださったことを覚えるべきです。そして、このことを通して、現在の私たちも自分の行いではなく、キリストへの信仰によってのみ、自分に救いがもたらされるということを信じるべきでしょう。 締め括り 「しかし、聖書に何と書いてありますか。女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからであると書いてあります。」(ガラテヤ4:30)イシュマエルはアブラハムとサラの独断のもとで、女奴隷によって生まれた結果です。彼らが神との約束を破り、独断で振舞ったことは行いによって救われるという律法主義と似ています。しかし、行いによる救いは決して神に認められません。しかし、先が見えない真っ暗な時に神だけを信じることでもうけたイサクは信仰の結果でした。ただキリストを信じて救いを得るという信仰による救いと非常に似ています。行いの結果である女奴隷の子は追い出され、信仰の結果である自由な身の女から生まれた子は真の相続人となりました。繰り返しますが、ハガルとイシュマエルの事情は本当に残念です。しかし、彼らのことを憐れむだけでは、到底、今日本文の結論を下すことが出来ません。つまり、今日の本文は結局、教理の側面から見るべきでしょう。律法の行いによって救いを追求すべきか。それとも、キリストへの信仰によって救いを追求すべきか。私たちはイシュマエルの側に立っているのか、イサクの側に立っているのか、考える機会になると幸いです。神の約束への信頼だけが、また、キリストへの信仰だけが、私たちを真の救いへと導きます。その点を改めて考えつつ生きる志免教会になることを願います。